菅野義丸

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菅野 義丸(かんの よしまる、1904年明治37年〉6月14日[1] - 1979年昭和54年〉5月7日[1])は、日本の鉄道官僚実業家内閣官房副長官国際電信電話社長。旧姓は長田[1]

経歴[編集]

山梨県東八代郡上曽根村(現甲府市)の長田家に生まれ、その後、菅野家に婿入りして本籍を福島県に移す[1][2]。山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校[1]を経て、検定試験に合格して、1931年3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業[1][2][3]1930年10月、高等試験行政科試験に合格[2][3]。1931年、鉄道省に入省し仙台鉄道局書記となる[3]

以後、鉄道省事務官、鉄道局副参事、国際観光局事務官、大阪鉄道局運輸部長、同業務部長、運輸省大臣官房文書課長、日本国有鉄道職員局長などを歴任[2][3]1949年11月1日、第3次吉田内閣の官房副長官に就任し、1953年3月23日まで在任して退官した[1][4]

その後、実業界に転じ、日本開発銀行理事、アラビア石油常務、日本国内航空社長、日本万国博覧会協会副会長を経て、1971年、国際電信電話社長に就任[1][5]。その後、同相談役を務めた[1]

逸話[編集]

1976年三木武夫総理から国鉄総裁の就任要請を受けたが受諾しなかった[1]

家族[編集]

長女直子は水島三一郎の次男水島昭二(上皇后美智子の従兄弟)に嫁ぎ、三女久子は実吉純一の次男・実吉秀郎に嫁いだ。五男直之はタカラスタンダードの社長を務めた。

著作[編集]

  • 菅野誠之編集企画『蒸々日上:「菅野義丸」遺稿集』菅野章子、1980年。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 『山梨百科事典』増補改訂版、255頁。
  2. ^ a b c d 『人事興信録』第14版 上、ス21頁。
  3. ^ a b c d 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』286頁。
  4. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』468頁。
  5. ^ 1979年5月8日『朝日新聞』(東京本社発行)朝刊、23頁の訃報。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『山梨百科事典』増補改訂版、山梨日日新聞社、1989年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。

関連項目[編集]