長谷川町子

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長谷川 町子
Machiko hasegawa.jpg
本名 長谷川 町子
(はせがわ まちこ)
生誕 1920年1月30日
日本の旗 日本 佐賀県小城郡東多久村
死没 1992年5月27日(満72歳没)
国籍 日本
職業 漫画家
活動期間 1935年 - 1987年
ジャンル 4コマ漫画
ギャグ漫画
家族漫画
風刺漫画
代表作 サザエさん
いじわるばあさん
エプロンおばさん
受賞 第 8回(1962年(昭和37年)度)文藝春秋漫画賞
第20回(1991年(平成3年)度)日本漫画家協会賞
1992年国民栄誉賞
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長谷川 町子(はせがわ まちこ、1920年1月30日 - 1992年5月27日)は、日本漫画家。日本初の女性プロ漫画家として知られる。代表作に『サザエさん』、『いじわるばあさん』、『エプロンおばさん』など。

人物[編集]

佐賀県小城郡東多久村(現在の多久市)生まれ。三人姉妹の次女[1]。幼少時に福岡市春吉に転居し、春吉小学校卒業旧制福岡県立福岡高等女学校(現・福岡県立福岡中央高等学校)2年生の1933年昭和8年)まで福岡で育った。父の死去に伴い1934年(昭和9年)、東京に転居し山脇高等女学校(現・山脇学園高等学校)を卒業。

山脇高女在学中から田河水泡に師事。デビュー作は「狸の面」。戦前にも、3人の女学生を描いた「仲よし手帖」という人気連載を持っていた(1940-42,少女倶楽部に連載、戦後は「少女」にて連載,49-51)。第二次世界大戦太平洋戦争)中、1944年から福岡市百道(発音:ももち:海岸である)に疎開西日本新聞社に学芸部の校閲係として勤務するが、終戦翌日に退職。

1946年昭和21年)、福岡県の地方紙「夕刊フクニチ」に掲載された『サザエさん』で新聞4コマ漫画の第一人者となる。同年の暮れに東京に戻るが、当時東京都への転入は食糧事情悪化のため厳しく禁止されており、夕刊フクニチの記者という名目で許された。同漫画は後に掲載紙を「新夕刊」から「朝日新聞」と替え、何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。姉長谷川毬子(1917-2012)と共に設立した姉妹出版(当時、のち姉妹社)代表。

1965年(昭和40年)2月20日に神奈川県箱根町に所有していた別荘が放火され160平方米を全焼した。原因は、無断侵入していた浮浪者によるものと推定されている。それ以前にも、別荘には空き巣に入られる事件も起きている。

1970年(昭和45年)11月19日に東京都世田谷区桜新町1丁目にある長谷川町子の自宅が放火された。この時は発見が早く長谷川町子本人が消火器を使って火災を消し止めた。火災の消火後、長谷川宅からすぐ近くの路上に座り込んでいた山口大教養学部の男子学生が放火の容疑で逮捕された。この学生はノイローゼで警察の取調べに対して「長谷川町子が俺を盗聴器で調べているから放火した」と語ったという。

1970年(昭和45年)に知的財産権に関する先駆的行動として、作者に無断でキャラクターを使用していた立川バスを提訴し、勝訴(サザエさんバス事件)。 1978年、『サザエさんうちあけ話』を原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送され、姉を熊谷真美、町子を田中裕子が演じて、田中が注目されるきっかけとなった。 1982年(昭和57年)、紫綬褒章受章。このときのインタビューで新作発表の質問に対し「もう漫画を描くつもりはない」と答えている。それでもエッセイ風の漫画をときおり発表することもあり1987年(昭和62年)3月22日の朝日新聞に掲載された『サザエさん旅あるき』が最後の作品となった。

1992年平成4年)5月27日心不全のため死去。享年73(満72歳没)。遺言により1か月間は公表されなかった。訃報は1カ月後の6月末に朝日新聞社フジテレビの両社から公表された。フジテレビでは、公表後もっとも早い放送である火曜日の『サザエさん』再放送のラストでブルーバックのテロップで哀悼の意を表し、かつ故人の遺志で今後も放送を続ける旨を伝えた。同年7月、家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えたとして国民栄誉賞が授与された。他に第8回(1962年(昭和37年)度)文藝春秋漫画賞、第20回(1991年(平成3年)度)日本漫画家協会賞を受賞。

エピソード[編集]

  • 小学生の頃は、授業中に先生の似顔絵を書いて先生に白墨を投げつけられ、廊下に立たされたことがあり、気晴らしに先生の癖を漫画にし、授業中に同級生に回したりしたことや、掃除時間は掃除を怠けて男子とチャンバラするなど、やんちゃな女の子であったが、友人が男子に泣かされたりすると「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」と言って、その男子を校舎の屋上につれだしてやっつけていたという。得意科目は図画と作文であった[2]
  • 子供の時、流行のアイス饅頭が食べたがったが、母が不衛生だと買ってくれず、お手伝いさんからの小遣いで、買って食べながら帰っていると、うしろから誰かに肩をつかまれ、振り返るとそこに居たのが母だったという苦い思い出がある。このように母の貞子は躾に厳しく悪戯が過ぎると町子は鶏小屋へいれられ、優しいお手伝いさんがいつも助け出していたという。
  • 聖公会クリスチャン。姉や妹とは違い、結婚をせず生涯独身を通した。上京してから礼拝していなかった町子も、田河水泡夫妻に勧められて近所の教会に通った。付き添った夫妻ものちに熱心なクリスチャンになった(「サザエさんうちあけ話」より)。なお、姉の夫である義兄は太平洋戦争で若くして戦死しており、妹の夫である義弟も妻(妹)と二人の娘を残して病死している。その後は町子と母、姉・毬子、妹・洋子、二人の姪とで長谷川家で生活していた。後年、毬子・町子と洋子一家とは些細な行き違いから絶縁状態に陥り、「サザエさんうちあけ話」で描かれた洋子の存在が「サザエさん旅あるき」では一切触れられていないほか[3]、町子が亡くなった際も「洋子には知らせるな」と毬子は近親者に緘口令を敷き、見かねた長谷川美術館関係者がそっと知らせて来たという。そのこともあり、遺産相続等の一切の権利を洋子一家は放棄したという(長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」より)。
  • 戦時中、海(博多湾)の見える丘でスケッチ中に憲兵に捕まった。理由はスパイ容疑で町子がスケッチした方向に軍用基地があったため。関係者の奔走により町子は釈放された。
  • 東京へ移住した戦後のある日の夜、進駐軍のアメリカ兵が姉と町子しかいなかった長谷川家へ現れる出来事があった(母は鹿児島への用事で不在、妹の洋子は病気による入院)。戦後の混乱の中で広まっていたアメリカ兵の噂を聞いていた二人は恐怖におののき、勇気を出して町子が応対したところアメリカ兵は彼女を子供と勘違いしてガムやチョコレートを沢山与えたという(この時には彼女から恐怖と不安は無くなっていた)。英語が解らなかった彼女は近所に住む英語教師にアメリカ兵の応対を頼む。後日、教師から聞いた話ではアメリカ兵は遊ぶ場所を探して迷いこんで長谷川家に訪れていたという。なお、事なきを得た際に姉はまだ恐怖に陥っていた為、中々鍵を開けてくれず町子が家に入る事ができなかったが、その事を町子は憤慨し生涯忘れなかったという[4]
  • サザエさん等で動物が多く登場しているが、長谷川も実際に犬や猫を多く飼っていた。サザエさんうちあけ話では、特に飼い犬に関するエピソードが描かれている。また、長谷川が当時飼っていた犬と一緒に写っている写真も残されている。
  • サザエさんの連載を持っていた1963年12月に姉と些細なケンカをして家出をした事がある。ひとまず厚生年金会館の宿泊施設に身を寄せるが、実は独り暮らしをした事もなく途方に暮れていたところ、翌日に朝刊で力道山の急死を知り、その影響かもう一度自分の人生を思い直し帰宅する。彼女によれば、その出来事が自分の人生のターニングポイントだったと述懐している。[5]
  • 父の病気を機に家族で聖公会に入信したが、戦後は母の影響から妹や母とともに無教会主義の集会に参加するようになり[6]、集会で講義をしていた矢内原忠雄と交友関係を持つようになった(妹の結婚式の司式を矢内原にしてもらい、その数年後、矢内原は死の半年前にも病を押して長谷川の義弟の葬式の司式を引き受けた)。『うちあけ話』では矢内原からの海外探訪の誘いがあったが断ったことが語られている。
  • 町子の地元の放送局RKB毎日放送による『サザエさんふるさとへ帰る』という番組が企画されたが、本人が出演拒否し、その時旧友に「あなたたち私のかわりに出てよ。いくら悪口言ってもいいから」と言って結局出演せず旧友が出演した。このように町子自身は表舞台に、顔を余り出していない。
  • 趣味で収集した各種美術品コレクションを活かすために私財を投じて「長谷川町子美術館」(東京都世田谷区桜新町)を開館。姉妹社の解散後、「財団法人長谷川町子美術館」として作品の著作権管理を行なっている。当初は「長谷川美術館」だったが町子の没後、現名称に変更された。住まいは、世田谷区用賀二丁目である(現在もそこに長谷川家がある)。
  • 先述の連載中断の理由の中には、執筆上から来るストレスによる胃潰瘍による入院もあり、胃潰瘍手術の麻酔から覚めるのが遅くなったエピソードがあり、酒に弱い体質だった事からくるものだったと長谷川は語っている。なお、果実酒なら少々たしなむ程度でもあったという。なお、実妹・長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」にて、胃潰瘍は実は癌であったことが明かされている(うちあけ話では実際の病名を明かしてはいなかったが、がんセンターに入院していた事は描かれている)。
  • 町子と実姉・毬子を筆頭とする遺族等の意向により、映像化された作品は現在過去問わずDVDなどでソフト化されることはないとされ(ただし例外で、「読売テレビ50年社史」付属のDVDに、いじわるばあさんの一部のシーンが収録されている)、名画座で映画上映されることも稀である。その権利関係の管理の厳しさから「日本のディズニー」と一部で呼ばれている。
  • 1993年3月には墓から遺骨が盗まれるという事件(長谷川町子遺骨盗難事件)が発生したが後に戻っている。犯人は不明のままで、2014年現在も未解決事件となっている。

作品[編集]

長谷川は以下の漫画作品以外にも、趣味で製作した絵画や粘土細工による人形等の作品も幾つか遺している。

漫画作品[編集]

  • 狸の面 (デビュー作。2頁作品。「少女倶楽部」1935年10月号)
  • かき (8コマ 「少女倶楽部」1935年11月号)
  • オマハリ (6コマ 「少女倶楽部」1935年12月号)
  • 少倶の発売日 (6コマ 「少女倶楽部」1936年1月号)
  • へのへのもへ字 (8コマ 「少女倶楽部」1936年2月号)
  • ターチャントヘイタイサン (4頁 「漫画と教育講談」講談社の漫画絵本63 1938年)
  • トン子博士の動物病院 (2頁 「少女倶楽部」臨時増刊号 1939年)
  • ヱイ子さんのお留守番日記 (4頁 絵と文 「少女倶楽部」秋の増刊 1939年)
  • はらつゞみ合戦 (4コマ 「少女倶楽部」秋の増刊 1939年)
  • ヒィフゥみよチャン (「國民新聞」1939年3月13日から同年7月10日まで100回に渡り連載)
  • 仲よし手帖 (「少女倶楽部」連載 1940年 - 1942年、「少女」連載 1949年 - 1951年)
  • 翼賛一家大和さん (「アサヒグラフ」連載 1941年2月5日号 - 同年5月14日号)
  • クニチャンと礼法 (「愛国夫人」連載 1941年7月-)
  • ヨウちゃん (「こどもマンガクラブ」連載 1948年10月~1949年?)
  • となりのぼっちゃん (7コマ 婦人世界3月号 1949年)
  • にいさんのアルバイト (7コマ 少年3月号 1949年)
  • びょうきみまい (7コマ 少年クラブ6月号 1949年)
  • サザエさん - (「夕刊フクニチ」→「新夕刊」→「朝日新聞」連載 1946年4月22日 - 1974年2月21日)他に『別冊サザエさん』『よりぬきサザエさん』の題名で単行本あり。
  • 似たもの一家(「週刊朝日」連載 1949年4月10日号 - 12月15日号)
  • 新やじきた道中記(「週刊朝日」連載 1951年11月4日号 - 1952年12月28日号)
  • 町子かぶき迷作集(「週刊朝日」連載 1952年 - 1956年)
  • サザエさん (「少女クラブ」連載 1955年)
  • わかめちゃんとかつおくん(「たのしい一年生」連載 1956年9月 - 1961年2月)
  • わかめちゃん (「たのしい幼稚園」連載)
  • エプロンおばさん(「サンデー毎日」連載 1957年1月6日号 - 1965年7月25日号)
  • いじわるばあさん(「サンデー毎日」連載 1966年1月2日号 - 1971年7月18日号)
  • サザエさんうちあけ話(「朝日新聞」日曜版 連載 1978年4月 - 11月) - 自伝漫画。
  • サザエさん旅あるき(「朝日新聞」連載 1987年4月 - 10月)
  • さっちゃん
  • のんき夫婦
  • 銭形平次捕物帳
  • いじわる看護婦、いじわるクッキー、まんが幸福論 (単行本「いじわるばあさん」に収録)

挿絵・イラスト作品[編集]

  • 学校劇「ふしぎなお芋」久米元一・作 (7頁 少女倶楽部 1939年10月号)
  • お八重ちゃん 日吉早苗・文 (少女倶楽部 1943年4月号)
  • ぶたのせんせい (絵本 姉妹社 1951年)
  • わかめちゃんとおまわりさん (サザエさんえほん1 姉妹社)
  • サザエさんとどうぶつえん (サザエさんえほん2 姉妹社)
  • サザエさんとのりもの (サザエさんえほん3 姉妹社)
  • タラちゃんとおやつ (サザエさんえほん5 姉妹社)
  • どうぶつむらのきしゃ (サザエさんえほん6 姉妹社)
  • のってみたいな!! (サザエさんえほん7 姉妹社)
  • へんね おかしいな (サザエさんえほん8 姉妹社)
  • おまつり (サザエさんえほん9 姉妹社)

アニメ化作品[編集]

テレビドラマ化作品[編集]

長谷川町子を演じた人物[編集]

長谷川町子もしくは、長谷川町子をモデルとしたキャラクターを演じた人物

脚注[編集]

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  1. ^ 実際は姉との間に夭折した2番目の姉がおり、戸籍上は三女(『長谷川町子思い出記念館』巻末の年表より)。
  2. ^ 同級生であった長谷川町子の友人による平成5年に行われた対談から
  3. ^ 正確には買出しの話で1コマだけ出ている。(32頁2コマ目)
  4. ^ 朝日新聞社「サザエさんうちあけ話・サザエさん旅あるき」p37
  5. ^ 「サザエさんうちあけ話・サザエさん旅あるき」p289
  6. ^ 『サザエさんの東京物語』p82、『長谷川町子思い出記念館』内のインタビュー記事「サザエさんと私」(p271)より

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『長谷川町子思い出記念館』 朝日新聞社 1998年、朝日文庫 2001年。
  • 長谷川洋子『サザエさんの東京物語』 朝日出版社、2008年。妹による長谷川家の回想。

外部リンク[編集]