国民栄誉賞
国民栄誉賞(こくみんえいよしょう)は、日本の内閣総理大臣表彰のひとつ。これまでに18人と1団体が受賞しており、賞の運用は1977年(昭和52年)に定められた「表彰規定実施要項」に拠って行われている[1]。
内閣総理大臣や政権による表彰としては先に、当時の総理大臣・佐藤栄作が1966年(昭和41年)に創設した、「総理大臣顕彰」がある。
目次 |
[編集] 概要
1977年(昭和52年)、当時の内閣総理大臣・福田赳夫が、本塁打世界記録を達成したプロ野球選手・王貞治を称えるために創設したのが始まりである[1]。背景には、先に設置されていた顕彰、内閣総理大臣顕彰が「学術および文化の振興に貢献したもの」など6つの表彰対象を定めていた反面、プロ野球選手を顕彰した前例がなかったという事情があった[1]。そのため、より柔軟な表彰規定を持つ顕彰として1977年(昭和52年)8月に創設されたのが国民栄誉賞である[1]。
賞の運営は初授賞とともに定められた表彰規定実施要項に拠っており、その目的を「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった者についてその栄誉をたたえる」、表彰の対象を「首相が本表彰の目的に照らして表彰することを適当と認める者」としている。最初の授賞者である王貞治が中華民国籍であったことからも明らかなように、日本国籍は要件にない。また公開されている授与基準の他に、「これまで功績を積み重ねてきた上に、さらに歴史を塗り替える、突き抜けるような功績をあげた」という「暗黙の了解」を満たしていることも必要だという[1]。
表彰規定は表彰の候補者について「民間有識者の意見を聞く」と定めており、首相の要望だけでは決められない仕組みになっている。有識者は授賞対象者に合った分野から選ばれ、順番に意見が聴取されるという[1]。また、授賞に先立って本人(故人の場合には関係者)への打診が行われ、正式な検討手続きは受賞の意思が確認された後に開始される[1]。
受賞者には表彰状と盾のほか「記念品または金一封」が贈られる。サッカー日本女子代表まではすべて記念品の贈呈となっており、多くは銀製品や時計で王貞治には鷲の剥製が贈られた[1]。
[編集] 受賞者
これまでに18人の個人に対して授与されており[1]、うち11名は没後の受賞であった[2]。2011年(平成23年)には初めて、団体としてのサッカー日本女子代表に授与され、その対象は選手とスタッフの35名となった。
| 受賞者氏名 (芸名等) |
受賞 年齢 |
受賞年月日 (授与内閣) |
職業 | 受賞事由 | 他の栄典 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
|
|
王貞治 | 37歳 | 1977年(昭和52年)9月5日 (福田赳夫内閣) |
プロ野球選手 | ホームラン世界新記録達成(756号本塁打)。 | 文化功労者 |
|
|
古賀正夫 (古賀政男) |
故人 | 1978年(昭和53年)8月4日 (福田赳夫内閣) |
作曲家 | 独自の曲調“古賀メロディー”作曲による業績。 | 従四位 勲三等瑞宝章 紫綬褒章 銀杯一個(菊紋) |
|
|
長谷川一夫 | 故人 | 1984年(昭和59年)4月19日 (第2次中曽根内閣) |
俳優(男優) | 真摯な精進 卓越した演技と映画演劇界への貢献。 | 勲三等瑞宝章 紫綬褒章 銀杯一個(菊紋) |
|
|
植村直己 | 故人 | 1984年(昭和59年)4月19日 (第2次中曽根内閣) |
冒険家 | 世界五大陸最高峰登頂など。 | |
|
|
山下泰裕 | 27歳 | 1984年(昭和59年)10月9日 (第2次中曽根内閣) |
柔道選手 | 柔道における真摯な精進。前人未踏の記録達成など。 | 紫綬褒章 銀杯一組(菊紋) |
|
|
衣笠祥雄 | 40歳 | 1987年(昭和62年)6月22日 (第3次中曽根内閣) |
プロ野球選手 | 連続試合出場世界新記録達成。 | |
|
|
加藤和枝 (美空ひばり) |
故人 | 1989年(平成元年)7月6日 (宇野内閣) |
歌手 | 真摯な精進、歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた。 | 紺綬褒章 |
|
|
秋元貢 (千代の富士貢) |
34歳 | 1989年(平成元年)9月29日 (海部内閣) |
大相撲力士 | 通算勝ち星最高記録更新。相撲界への著しい貢献。 | |
|
|
増永丈夫 (藤山一郎) |
81歳 | 1992年(平成4年)5月28日 (宮澤内閣) |
歌手 | 歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与えた功労。美しい日本語の普及に貢献。 | 従四位 勲三等瑞宝章 紫綬褒章 銀杯一個(菊紋) |
| 10 | 長谷川町子 | 故人 | 1992年(平成4年)7月28日 (宮澤内閣) |
漫画家 | 家庭漫画(『サザエさん』)を通じて第二次世界大戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えた。 | 勲四等宝冠章 紫綬褒章 |
| 11 | 服部良一 | 故人 | 1993年(平成5年)2月26日 (宮澤内閣) |
作曲家 | 数多くの歌謡曲を作り、国民に希望と潤いを与えた。 | 従四位 勲三等瑞宝章 紫綬褒章 銀杯一個(菊紋) |
| 12 | 田所康雄 (渥美清) |
故人 | 1996年(平成8年)9月3日 (第1次橋本内閣) |
俳優(男優) | 映画『男はつらいよ』シリーズを通じて、人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた。 | 紫綬褒章 銀杯一個(菊紋) |
| 13 | 吉田正 | 故人 | 1998年(平成10年)7月7日 (第2次橋本内閣) |
作曲家 | 独自の曲調“吉田メロディー”の作曲による。 | 従四位 勲三等旭日中綬章 紫綬褒章 |
| 14 | 黒澤明 | 故人 | 1998年(平成10年)10月1日 (小渕内閣) |
映画監督 | 数々の不朽の名作によって国民に深い感動を与えるとともに、世界の映画史に輝かしい足跡を残した。 | 従三位 文化勲章 文化功労者 銀杯一組(菊紋) |
| 15 | 高橋尚子 | 28歳 | 2000年(平成12年)10月30日 (第2次森内閣) |
陸上競技選手 | 2000年シドニーオリンピック女子マラソンで優勝し、陸上競技史上日本女子初の金メダルをもたらした。 | 銀杯一組(菊紋) |
| 16 | 遠藤実 | 故人 | 2009年(平成21年)1月23日 (麻生内閣) |
作曲家 | 世代を超えて長く愛唱される、情感に満ちあふれた名曲を数多く世に送り出した[3][4]。 | 正四位 旭日重光章 文化功労者 紫綬褒章 |
| 17 | 村上美津 (森光子) |
89歳 | 2009年(平成21年)7月1日 (麻生内閣) |
俳優(女優) | 長年にわたって芸能分野の第一線で活躍し、特に『放浪記』において2千回を超える主演を務めた[3][5]。 | 文化勲章 勲三等瑞宝章 文化功労者 紫綬褒章 |
| 18 | 森繁久彌 | 故人 | 2009年(平成21年)12月22日 (鳩山由紀夫内閣) |
俳優(男優) | 芸能の分野において長年にわたり第一線で多彩に活躍。数多くの優れた演技と歌唱は広く国民に愛された[6][7]。 | 従三位 文化勲章 勲二等瑞宝章 文化功労者 紫綬褒章 紺綬褒章 |
| 19 | 2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 | 2011年(平成23年)8月18日 (菅第2次改造内閣) |
女子サッカーチーム | 東日本大震災などの発生によって日本国民が極めて困難な状況下に置かれるなか、同年のFIFA女子ワールドカップで初優勝を果たし、最後まで諦めないひたむきな姿勢によって国民に爽やかな感動と困難に立ち向かう勇気を与えた[8]。 |
- 他の栄典欄には日本政府による公式な顕彰を参考記載。王貞治は2006年(平成18年)に2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に対する褒状(紫綬)を受けている。
- 他の栄典欄には官報の叙位叙勲欄、報道等で判明したものを掲載する。芸術・文化等の特異性から同一人性の特定が容易な勲章・紫綬褒章と異なり、他の褒賞(たとえば、私財の公共への寄付等に応じて授与される紺綬褒章など)は官報等に掲載があっても同姓同名の他人に対する授与記録である可能性が排除できないため、本表には記載しない(したがって、各自がこの「他の栄典欄」に記載のない栄典を受けている可能性は排除されない)。
- 黒澤明、森光子、森繁久彌以外の受賞者は文化勲章を受章していない。文化功労者となったのは文化勲章を授与された3人のほか王貞治と遠藤実。
[編集] 辞退した人物
賞の歴史上、以下の人物が受賞を辞退したことが明らかになっている。
- 福本豊 - 1983年(昭和58年)6月に当時の世界記録となる通算939盗塁を達成。中曽根康弘首相から授与を打診されたが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」(本人談)と固辞。なお大阪府知事の賞詞は受賞している。
- 古関裕而 - 1989年(平成元年)に授与(没後)が内定していたが、親族が辞退。
- イチロー - 2001年(平成13年)、メジャーリーグで日本人選手史上初となる首位打者を獲得する活躍を見せた事により、小泉純一郎内閣から授与を打診されたが、「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」と固辞した。2004年(平成16年)にも、メジャーリーグのシーズン最多安打記録を更新した事から授与を検討されたが、再度固辞した。以後2011年(平成23年)現在、打診はない。
[編集] 授賞に係わる問題点
美空ひばりに対する授賞など、没後追贈者が過半数を占めることについて、「なぜ存命のうちに授与しないのか」との批判がある[9][10]。
また国民栄誉賞には、「政権浮揚が目的」[11]、「贈られる側の賞ではなく、贈る側の(政治家のための)賞だ」[1]、「政治利用はいかがなものか」[12][1]などの批判があり、顕彰の事務手続きを行う内閣府官僚も、「結局、時の政権が『国民栄誉賞を出したい』と言えば出さざるを得ない」としている[1]。
2004年(平成16年)には、当時の内閣官房長官・細田博之が、選考について「確たる基準がなく、その時々の判断」とし、王貞治には授与されたが長嶋茂雄には贈られていないなど線引きの難しさを指摘している[13]。
2011年(平成23年)7月、サッカー日本女子代表が団体では初の受賞となったことについて、表彰規定は表彰対象を「適当と認める者」としており、行政用語としてこれに該当するのは個人や法人であり団体は含まれない[1]ため、日本経済新聞は「国民栄誉賞を団体に授与するなら表彰規定の見直しを行い、説明責任を果たす必要がある」と指摘している[1]。
[編集] 脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「なでしこ表彰の舞台裏」 『日本経済新聞』 平成23年8月4日夕刊 政界面
- ^ 失踪宣告の植村直己は没後扱いとする
- ^ a b 河村建夫官房長官の会見における説明
- ^ “遠藤実さん:国民栄誉賞が正式決定 1月に遺族招き授与”. 毎日jp. (2008年12月27日) 2008年12月27日閲覧。
- ^ “森さんの国民栄誉賞を発表=「放浪記」2000回、国民に夢”. 時事ドットコム. (2009年5月29日) 2009年5月29日閲覧。
- ^ 鳩山由紀夫首相の授与式における説明
- ^ “故森繁さんに国民栄誉賞贈呈 首相「国民に愛された」”. 共同通信社. (2009年12月22日) 2009年12月22日閲覧。
- ^ 官房長官記者発表 平成23年8月2日(火)
- ^ ビートたけしは東京スポーツ紙上で没後受賞について「(死亡して)国民でなくなってから慌てて表彰するのはおかしい。だったら聖徳太子や徳川家康を表彰すれば?」「今のうちに森繁(久彌)さん(この発言時の1999年には健在だった)や中曽根(康弘)さんを表彰しないと手遅れになる」と茶化している[要出典]。また、2011年8月6日放送の「情報7days ニュースキャスター」でも、同様の発言をしている[要出典]。
- ^ 大薗友和『勲章の内幕』社会思想社現代教養文庫、1999年。
- ^ 時事ドットコム2011年7月25日。2000年(平成12年)の森喜朗首相による高橋尚子への授与に際して。
- ^ 2011年(平成23年)、サッカー日本女子代表への授賞決定を受けての渡辺喜美発言
- ^ “国民栄誉賞見送りへ 金メダル選手に紫綬褒章”. 共同通信. (2004年8月26日) 2011年8月14日閲覧。
|
|||||