米長邦雄
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米長 邦雄(よねなが くにお、1943年6月10日 - )は、将棋棋士。2003年11月、紫綬褒章受章。2003年12月、引退。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。棋士番号85。佐瀬勇次名誉九段門下。
日本将棋連盟会長(2005年 - )。東京都教育委員(1999年12月 - 2007年12月)。
輝かしい戦績だけでなく、そのキャラクター・思想・言動・ユーモアにより、将棋界の外においても大きな影響力、人脈を持ち、話題も提供する人物。
山梨県南巨摩郡増穂町出身。中野区立第八中学校、東京都立鷺宮高等学校卒業。中央大学経済学部中退(中央大学学員)。
目次 |
[編集] 人物
小学校3年の頃、周囲の大人達を負かすようになる[1]。小学校6年の頃、師匠となる佐瀬勇次が米長の生家を訪れて、プロ将棋界へ進むことを勧めた。そのとき佐瀬が両親に言った言葉は、「息子さん(米長)は名人になれるかわからないが、八段にはなれます」であったという[1][2]。
3人の兄は東京大学に進んだ。「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」という言葉は有名である。ただし、実際に米長自身が発言したのかどうかははっきりしていない[3]。
参議院議員(2007年の参議院選挙で民主党公認で当選)の米長晴信は甥。
弟子に先崎学、中川大輔、伊藤能、長岡裕也、高崎一生、中村太地ら、元弟子に林葉直子がいる。なお、先崎と林葉は米長宅に住み込んで修行しており、米長は実力派棋士中で最後まで「内弟子」を取った棋士である。
2009年1月9日に前立腺癌で放射線治療を受けていると発表した。自身のホームページ「米長邦雄の家」の「癌ノート」に詳細を連載している。
[編集] 交友
升田幸三とはウマが合い、「麦長君」とよばれて親しまれた。また。芹澤博文、内藤國雄とも親しい関係で、中原誠とも自称親友の間柄という。ただし升田は「彼だけは会長にしてはならない」と述べたとも言われている[要出典]。一方、盤外戦術で苦しめられた大山康晴や、敬虔なクリスチャンで非常に謹厳な人物である加藤一二三といったタイプの棋士とはソリが合わなかったといわれており、微妙な関係を推測させるエピソードもいくつか残っている[要出典]。
囲碁を打つのが趣味の一つで、『碁敵が泣いて口惜しがる本』という著書がある。囲碁界の無頼派の棋士・藤沢秀行を尊敬して、兄事している。
大の将棋ファンであった山口瞳は米長のことを親しみを込めオランウータンというあだ名をつけた。このあだ名をもとに、大橋巨泉司会の「クイズダービー」に出演した際、「米長八段のあだ名は?」という問題が出て、正解は「オランウータン」だったが、米長は「いえ、あだ名はアラン・ドロンです」と切りかえした。
1993年の名人位獲得には、若手とともに研究を行ったことが大きな要因であったとされる。米長は徹底的に自分の序盤戦術を洗い直す作業に取り掛かる。名人戦では対局の合間に、当時島朗が主宰して、羽生善治、佐藤康光、森内俊之で構成された伝説の研究会「島研」に顔を出した[4]。また、1980年から1990年代にかけて数十人の若手棋士が参加した「中原研究会」に対抗して、数年前から自宅を改造して若手棋士を集めて開いていた研究会「米長道場」で、徹底的に対中原名人戦の研究を重ねた。特に道場の師範代格で、当時序盤研究の第一人者だった森下卓から、大きな示唆をもらったという。なお、米長道場は「若手に教えを請う」という姿勢で運営しており、米長は森下卓のことを「先生」と呼んでいた。
[編集] 思想
「自分にとっては消化試合でも、相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、将棋界では「米長哲学(米長理論)」と呼ばれて広く認知されている。著書「人間における勝負の研究」では、「名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。第24期順位戦(1969年度)は、中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗でぶっちぎりのトップ。もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長の‘アシスト’によりA級に昇級した。なお、米長がA級昇級を果たしたのは翌年であったが、これについて前記の著書の中で、前年のことがあったからこそ昇級できたとの考えを述べている。
一時、株取引に熱中していたことがある。「生活のことを考えたら、将棋が弱くなる。他に収入があれば純粋に将棋が指せる」という考えのもとに、『米長流株に勝つ極意』という本を出すほどだった。しかし、電話1本で株の売買をするだけでお金が儲かるということに自ら疑念を抱き、株取引をする余裕をなくすために新居を購入した[2]という。
産経新聞の『正論』執筆者に名を連ねるなど、保守的な立場に立った発言が多く、東京都教育委員を務めた期間中はそれが顕著であった。また2004年10月28日、秋の園遊会に招待された際に天皇と交わした会話が問題となった。詳細は国旗及び国歌に関する法律 を参照。
[編集] 会長として
2003年、 中原誠が会長になったのを受けて、日本将棋連盟の専務理事に就任。そして、2005年 中原誠の後を受け、日本将棋連盟会長に就任。名人戦の朝日新聞と毎日新聞による共催実現、瀬川晶司のプロ入り試験実現、日本女子プロ将棋協会(LPSA)の独立問題への対応など、個々の事例については批判もあるが、一定の実績を残している。また、将棋連盟の赤字体質改善のため、多くのリストラを行ったが、関西本部にあった「将棋博物館」を2006年に閉鎖し、収蔵品を大阪商業大学アミューズメント産業研究所に譲渡したことについては木村義雄十四世名人の娘などから批判を受けた[5]。
将棋連盟会長となっても、自身のサイトから情報発信しており、「個人的な発言なのか、連盟会長としての発言なのか」と将棋界を混乱させることもしばしばである。
[編集] お色気
若き日は端正な容貌であったため、将棋を知らない女性にも人気があった。そして独特の恋愛観を述べることも多かった。「『させてくれ』と女にお願いしているうちは半人前である」「鍛練して『してください』と頼まれるようにならなければいけない。なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない」[6]。42歳のときには、写真週刊誌で鳥取砂丘でのヌード写真を掲載した[7]。
平成10年版「将棋年鑑」(1998年)の棋士アンケートにおいて、「あなたのストレス解消法は」の質問に「口に出すわけにはいかない」と答え、「可能ならばやってみたいスポーツは」という質問には「段違い平行棒」と答えている。
2004~2005年に、ニッポン放送のケータイサイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。連載中、2004年7月2日に「徹子の部屋」に出演したが、その中で、妻に対する懺悔として、相当のお金をかけて墓を購入したというエピソードを紹介。そのとき妻に言った一言は(実話か否かは不明であるが)「お前の人生は、はかない人生ではない。これからは墓ある人生だ。」であったという。
- その他
- 雑誌(週刊宝石等)で連載していた人生相談は、ユニークでしかも事の本質を捉えた回答で好評を博した。そのため、現役時代に政界進出を何度も持ちかけられたが、「打倒中原」、「名人位獲得」の悲願を果たすため断念したといわれる[要出典]。
- 武者野勝巳とゲームの著作権に関して裁判で争った。裁判は米長が武者野に対し和解金を支払うことで解決。ただし、米長は自身のサイトで「和解金」ではなく「解決金」と書いた。
[編集] 戦績
プロ入りしたのは1963年で、ちょうど大山康晴が五冠独占を続けていた時代に当たる。A級昇級は1971年、初タイトルは1973年の第22期棋聖戦で、それぞれ数え年で28歳、30歳の時と、超一流と呼ばれる棋士の中では出世は遅い方であった。
1970年、王位戦で大山康晴に挑戦。これがタイトル初挑戦である。これを含め、大山とのタイトル戦で4連続奪取失敗をする(大山からの初奪取は、1983年(1982年度)の王将戦、棋王戦での2連続奪取である)。
1973年、第22期棋聖戦で有吉道夫を破り、初のタイトル獲得。最終局の終盤、劣勢の中でトン死の筋(金を取りながら詰めろ馬取り)で大逆転。米長曰く「対局相手の有吉さんは、トン死の筋に気づいた時30センチくらい飛び上がった」という。
中原誠は、大山以上の天敵であった。1973年度の王将戦に始まり、タイトル戦でなかなか中原に勝てなかった。
2年連続で中原王将への挑戦者となった1975年(1974年度)の第24期王将戦では、七番勝負開幕前のインタビューで「第一局では中原王将(当時)があっと驚く奇策を考えている」と発言。その言葉通り、先手番となった第一局では三手目に▲8六歩と突く角頭歩戦法を見せるが、後手番の中原誠は冷静に△4四歩と応対。角頭歩戦法の肝とも言える角交換を封じられた米長はいいところなく敗れ、以後角頭歩戦法を公式戦で用いる事はなかった。一方の七番勝負も3勝4敗と、第一局での敗戦が最後まで影響する結果となった。ちなみに中原誠は、この時の七番勝負第七局(最終局)を「米長さんとの最も印象に残っている一局」として挙げている。中原誠曰く「タイトル戦七番勝負の第七局で、双方残り一分の秒読みになったのは、後にも先にもこの時以外記憶にない」からである。
中原への8度目の挑戦となった1979年度王位戦はフルセットの戦いとなり、最終局での千日手指し直しの戦いの末に奪取。ようやく中原に一矢を報いた。
1984年度、中原誠と十段戦七番勝負を戦う。フルセットで迎えた最終局(1985年1月)に勝利し奪取。史上3人目の四冠王となり、7つのタイトルのうちの過半数を占めた。俗に「世界一将棋の強い男」とも称された。しかし、名人位にだけはなかなか手が届かなかった。
この1980年代前半に米長と最も多く対局したのは中原誠ではなく、振り飛車の雄・森安秀光であった。A級順位戦やタイトル戦などでの森安との激闘は居飛車対振り飛車、特に居飛車急戦の戦術発展に大きく寄与した。その一例が1985年3月の第42期A級順位戦最終局である[8]この一局、森安が勝てば6勝2敗となり、最終局が抜け番だった中原王将(当時)(同じく6勝2敗)に並び、プレーオフとなるところだった。一方の米長は勝っても負けても名人挑戦、降級には関係ない一番。その対局で新手を放ち勝利。米長哲学を実践した一例とされる。
米長は、早指しの棋戦でも力を発揮した。早指し将棋選手権で、1974、1977、1979、1980年度に優勝、日本シリーズでは、1980、1984、1986年度に優勝、NHK杯戦でも1978年度に優勝した。
横歩取り戦法が流行していた頃、1990年(1989年度)の王将戦で挑戦者となった時に、「横歩も取れない様な男に負けては御先祖様に申し訳ない」と新聞紙上でコメントし、南芳一王将(当時)を挑発した。すると、南は対局で横歩を取った[9]。ちなみに、この七番勝負では2局が横歩取りとなり、1勝1敗であった。
1993年、第51期名人戦で、7度目の挑戦にして悲願の名人位を獲得する。49歳11ヶ月での獲得、50歳での在位(「50歳名人」)は、史上最年長記録である。新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2000人を超える異例の人数の参加があった。この名人位は、翌年、A級1年目の羽生善治によって奪われ、以降、米長はタイトル戦の舞台から遠ざかることとなる。
1998年、第56期順位戦で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。B級1組で指す道を選択せずフリークラス宣言をして、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。
2003年12月17日、現役棋士を引退。それに先立って「全棋戦で敗退した時点で引退」という前代未聞の表明[10]を行った。最後の棋戦となった2003年度の王将戦では予選で2人のA級棋士・三浦弘行、藤井猛を破り本戦リーグ入りをする。しかし、本戦リーグは6戦6敗で敗退した。3敗目の時点で挑戦の可能性が消滅し、リーグ最終戦での引退が確定したが、その直後の4局目の対局相手は佐藤康光棋聖(当時)であった。佐藤は対局当日、和服(羽織袴)を着用して下座に着いた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。米長は急遽、対局場(将棋会館)に和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した。残る2局は森内俊之竜王(当時)、郷田真隆との対局であったが、彼らも和服を着用。米長は事前に雰囲気を察知し、この2局は自らも朝から和服を着て対局に臨んだ。「将棋界を代表するメンバーが羽織袴で敬意を表してくれたことは、何よりの鼻向け」と語っている[2]。
[編集] 棋風
劣勢になると局面を複雑にする手を指して逆転を狙う棋風から、「泥沼流」と呼ばれる。本人の性格や見た目から「さわやか流」と呼ばれていたこともあり、米長本人は後者の方が好きだったと言う(ただし、棋風との関連は不明)。
居飛車本格派ながら、定跡研究などによる序盤の構想よりも中終盤の攻防でねじ伏せる勝利が多く、特に将棋の終盤戦術の向上に貢献した。その独特の感覚は「米長玉」などに表れており、現代将棋の終盤の基本パターン「自分の玉を‘Z’(ゼット、絶対詰まない形)にして攻めまくる」に、大きな影響を与えている。四冠王になるなど絶頂期にあったときには、自著「逆転のテクニック」[11]の中で序盤研究に否定的な見解を示し、詰将棋で鍛え抜いた読みの力をベースに劣勢になっても相手のミスを招く勝負術ならびに終盤力が将棋における勝負の本質であるとの見解を示していた。
若手時代から「序盤下手」と揶揄されることが多かった一方で、羽生善治は米長の序盤を「序盤から息を抜けず緊張感を強いられる序盤巧者」と評している。
四冠王になる前には、「角頭歩戦法」や「新鬼殺し戦法」といった奇抜とも言える序盤戦術を開拓していた。「角頭歩戦法」はタイトル戦(1975年の王将戦第1局)の舞台で使用し、大きなインパクトを与えた。しかし「角頭歩」についてはすぐ相手側の「回避策」が出てしまったが、それに影響を受けた戦法「立石流」の源泉となった。また「新鬼殺し戦法」は初心者向けのハメ手と戒められていた鬼殺しを立派な一戦術として確立させている。
四冠王となった頃に「米長流急戦矢倉」の開発、対振り飛車における「玉頭位取り」や「鷺宮定跡」の整備といった功績がある。「矢倉は将棋の純文学」という有名な表現は米長の言葉である[12]。
[編集] 昇段履歴
- 1956年 6級 = 奨励会入会
- 1959年 初段
- 1963年 4月1日 四段 = プロ入り
- 1965年 4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1966年 4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1969年 4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1971年 4月1日 八段(順位戦A級昇級)
- 1979年 4月1日 九段(九段昇格規定30点)
- 1998年 4月1日 「永世棋聖」を名乗る
- 2003年12月17日 引退
[編集] 主な成績
- 通算成績 対局数1904、1103勝 800敗、タイトル戦での持将棋1局
- 順位戦A級以上 26期連続・通算26期(第26=1971年度~第30期、第36期=1977年度~第56期)[13]
- 竜王戦1組 通算12期(第1期=1988年~第11期, 第14期)
[編集] 獲得タイトル
後記の年表も参照。
| タイトル | 番勝負 | 獲得年度 | 登場 | 獲得期数 | 連覇 | 備考 |
| 名人 | 七番勝負 4-6月 |
93(第51期) | 8 | 1期 | - | |
| 十段 | 七番勝負 10-12月 |
84(第23期)-85 | 6 | 2期 | 2 | |
| 竜王 | 七番勝負 10-12月 |
- | 1 | - | - | 十段戦を発展解消して 創設されたタイトル戦 |
| 棋聖 | 五番勝負 6-7月 |
73前(第22期), 80前, 83後-85後 |
12 | 7期 | 5 | 永世棋聖 (1998.4.1から名乗る) |
| 王位 | 七番勝負 7-9月 |
79(第20期) | 6 | 1期 | - | |
| 王座 | 五番勝負 9-10月 |
- | - | - | - | |
| 棋王 | 五番勝負 2-3月 |
78(第4期), 80-83 | 7 | 5期 (歴代2位) |
4 (歴代2位) |
|
| 王将 | 七番勝負 1-3月 |
82(第32期)-83, 89 | 8 | 3期 | 2 | |
| 登場回数合計48、 獲得合計19期(歴代5位) | ||||||
[編集] 一般棋戦優勝
- NHK杯戦 1回(第28回-1974年度)
- 早指し選手権戦 4回(第5回=1979年度後期・11回・13~14回)
- 日本シリーズ 3回(第1回=1980年度・5回・7回)
- 勝抜戦5勝以上 1回(第12回=1989年度)
- 日本将棋連盟杯争奪戦 2回(第2回=1969年度・16回)
- 古豪新鋭戦 1回(第8回=1964年度)
- 名将戦 4回(第7期=1980年度~8期・12~13期)
- 優勝合計 16回
[編集] 将棋大賞
- 第1回(1973年度) 最多対局賞
- 第2回(1974年度) 最多対局賞・技能賞
- 第4回(1976年度) 最多対局賞
- 第5回(1977年度) 最多対局賞
- 第6回(1978年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
- 第8回(1980年度) 最多勝利賞・最多対局賞
- 第11回(1983年度) 最優秀棋士賞
- 第12回(1984年度) 最優秀棋士賞
- 第17回(1989年度) 殊勲賞
- 第21回(1993年度) 特別賞
- 第27回(1999年度) 升田幸三賞 ・・・ 「米長玉」(よねながぎょく)により
[編集] 記録(歴代1位のもの)
- 最年長名人獲得 49歳11か月(50歳名人)
- 最年長名人失冠 50歳11か月
- 十段リーグ連続在籍16期(十段獲得期間含む)
[編集] 主な対戦相手との勝敗
30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。
| 対戦相手 | 対局 | 勝 | 敗 | 勝率 | タイトル戦 |
| 中原誠 | 187 | 80 | 106 | 0.430 | 獲得6 敗退14 |
| 大山康晴 | 104 | 46 | 58 | 0.442 | 獲得2 敗退4 |
| 加藤一二三 | 104 | 63 | 41 | 0.606 | 獲得1 敗退1 |
| 内藤國雄 | 69 | 34 | 35 | 0.493 | 獲得0 敗退1 |
| 谷川浩司 | 64 | 31 | 33 | 0.484 | 獲得1 敗退1 |
| 森安秀光 | 55 | 29 | 26 | 0.527 | 獲得3 敗退0 |
| 桐山清澄 | 55 | 34 | 21 | 0.618 | 獲得0 敗退2 |
| 有吉道夫 | 53 | 38 | 15 | 0.717 | 獲得1 敗退0 |
| 二上達也 | 50 | 36 | 14 | 0.720 | 獲得0 敗退1 |
| 勝浦修 | 44 | 30 | 14 | 0.682 | 獲得1 敗退0 |
| 森けい二 | 43 | 30 | 13 | 0.698 | 獲得1 敗退0 |
| 大内延介 | 40 | 28 | 12 | 0.700 | - |
| 南芳一 | 35 | 14 | 21 | 0.400 | 獲得1 敗退1 |
| 以下、参考(30局未満) | |||||
| 塚田正夫 | 12 | 10 | 2 | 0.833 | - |
| 升田幸三 | 6 | 6 | 0 | 1.000 | - |
| 羽生善治 | 26 | 10 | 16 | 0.385 | 獲得0 敗退1 |
※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。187対局は、同一カード対局数の歴代1位記録。
[編集] 栄典
[編集] 年表
- タイトル戦の氏名は対戦相手。色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。色付き以外のマス目は敗退。
o : 勝ち、 x : 負け、 j : 持将棋、 s : 千日手による日程繰り延べ(例外的措置) - 将棋大賞は、最優秀 : 最優秀棋士賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞
| 年 度 | 名人 4-6月 |
棋聖 6-7月 12-2月 |
王位 7-9月 |
王座 9-10月 |
十段 10-12月 |
王将 1-3月 |
棋王 2-3月 |
一般棋戦 優勝 |
勝 | 負 | 将棋大賞 | 備 考 |
| 1963年度 | - | - | 11 | 12 | - | 1963.4.1プロ入り | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1964年度 | - | - | 古豪新鋭 | 20 | 8 | - | ||||||
| 1965年度 | - | - | 27 | 11 | - | (大山が3年度連続 五冠独占) |
||||||
| 1966年度 | - | - | 12 | 13 | - | |||||||
| 1967年度 | - | - | 15 | 10 | - | |||||||
| 1968年度 | - | - | 24 | 7 | - | |||||||
| 1969年度 | - | - | 連盟杯 | 27 | 12 | - | ||||||
| 1970年度 | 大山康晴 xxxox |
- | - | 24 | 18 | - | A級昇級を決める | |||||
| 1971年度 | - | - | 30 | 14 | - | A級八段1年目 | ||||||
| 1972年度 | - | - | 29 | 19 | - | |||||||
| 1973年度 | <第22期> 有吉道夫 xooo |
- | 中原誠 xooxxx |
- | 39 | 28 | <第1回> 対 |
|||||
| 内藤國雄 ooxxx |
||||||||||||
| 1974年度 | 中原誠 xoxoxx |
- | 中原誠 xoxxoox |
- | 早権(前期) | 45 | 30 | 技能賞 対 |
||||
| 大山康晴 xxx |
||||||||||||
| 1975年度 | - | 30 | 21 | |||||||||
| 1976年度 | <第35期> 中原誠 xooxxox |
<第28期> | <第17期> |
- | <第15期> |
<第26期> |
<第2期> |
36 | 26 | 対 | ||
| 大山康晴 oxxox |
||||||||||||
| 1977年度 | - | 中原誠 oxxxox |
- | 早権(後期) | 42 | 23 | 対 | (中原が五冠王に) | ||||
| 1978年度 | <第36期> |
- | 中原誠 xxxooox |
加藤一二三 ooxxo |
NHK | 47 | 22 | 最優秀 勝 対 |
||||
| 1979年度 | 中原誠 ooxxxx |
中原誠 xooxoxso |
- | 中原誠 xxoxx |
中原誠 xoxx |
早権 | 45 | 25 | ||||
| 1980年度 | 中原誠 xojxxx |
中原誠 ooxo |
中原誠 xxxx |
- | 大山康晴 oxxxx |
中原誠 ooxo |
日シ 早権 名将 |
55 | 32 | 勝 対 | ||
| 二上達也 oxxx |
持1 | |||||||||||
| 1981年度 | - | 加藤一二三 oxoxxx |
森安秀光 oxoxo |
名将 | 35 | 28 | ||||||
| 1982年度 | - | 大山康晴 xoooo |
大山康晴 ooo |
連盟杯 | 40 | 25 | 1982.7.30 通算600勝(365敗) |
|||||
| 1983年度 | 森けい二 ooxoo |
森安秀光 oxoo |
41 | 22 | 最優秀 | |||||||
| 森安秀光 oxoo |
||||||||||||
| 1984年度 | 谷川浩司 ooo |
中原誠 oxxooxo |
中原誠 xoxxx |
桐山清澄 oxxx |
日シ | 38 | 27 | 最優秀 | 四冠王(= 十段戦) 永世棋聖資格獲得 (永世棋王獲得失敗) |
|||
| 中村修 xoxoo |
||||||||||||
| 1985年度 | 勝浦修 oxoo |
中原誠 xooxoxo |
名将 | 41 | 20 | |||||||
| 中村修 ooo |
||||||||||||
| 1986年度 | 桐山清澄 xxox |
高橋道雄 xxxx |
福崎文吾 xxooxx |
日シ 名将 | 35 | 25 | ||||||
| 1987年度 | 中原誠 ooxxxx |
35 | 31 | 1987.8.28 通算800勝(494敗) |
||||||||
| 年 度 | 名人 4-6月 |
棋聖 6-7月 12-2月 |
王位 7-9月 |
王座 9-10月 |
竜王 10-12月 |
王将 1-3月 |
棋王 2-3月 |
一般棋戦 優勝 |
勝 | 負 | 将棋大賞 | 備 考 |
| 1988年度 | <第46期> |
<第52期> | <第29期> |
<第36期> |
<第1期> 島朗 xxxx |
<第38期> |
<第14期> |
勝抜(6連勝) | 24 | 26 | ||
| <第53期> | ||||||||||||
| 1989年度 | 谷川浩司 xxxx |
南芳一 oxxxooo |
29 | 26 | 殊勲賞 | |||||||
| 1990年度 | 南芳一 oxoxxx |
26 | 21 | |||||||||
| 1991年度 | 中原誠 xxxox |
26 | 25 | |||||||||
| 1992年度 | 31 | 17 | ||||||||||
| 1993年度 | 中原誠 oooo |
17 | 18 | 特別賞 | 悲願の名人位獲得、 50歳で名人在位(初) |
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| 1994年度 | 羽生善治 xxxoox |
29 | 24 | 1994.12.12 通算1000勝(657敗) |
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| 1995年度 | 26 | 18 | (羽生が七冠独占) | |||||||||
| 1996年度 | 15 | 20 | ||||||||||
| 1997年度 | 14 | 19 | A級からの陥落決定 | |||||||||
| 1998年度 | 9 | 10 | フリークラス宣言、 永世棋聖を名乗る |
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| 1999年度 | 7 | 12 | 升田賞 | |||||||||
| 2000年度 | 8 | 15 | ||||||||||
| 2001年度 | 6 | 15 | ||||||||||
| 2002年度 | 9 | 14 | ||||||||||
| 2003年度 | 4 | 11 | 2003.12.17引退 | |||||||||
| 年 度 | 名人 | 棋聖 | 王位 | 王座 | 十段 | 王将 | 棋王 | 一般棋戦 | 勝 | 負 | 将棋大賞 | 備 考 |
| 合計 | 登場8回 獲得1期 |
登場12回 獲得7期 |
登場6回 獲得1期 |
登場なし | 登場6+1回 獲得2期 |
登場8回 獲得3期 |
登場7回 獲得5期 |
優勝16回 | 1103勝800敗、タイトル戦の持将棋1 タイトル戦登場48、獲得19(歴代5位) |
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[編集] 著書
- 楽しい詰将棋入門 山海堂, 1972
- 将棋中級入門 初段をめざす中級者のために 山海堂, 1972
- あなたの棋力を採点する1~3 山海堂, 1972~1973
- 角頭歩戦法 山海堂, 1974
- 新鬼殺し戦法 山海堂, 1974
- 最強中飛車 日本将棋連盟, 1974
- 将棋入門 基礎から実戦まで 文研出版, 1974
- 振飛車破り あなたもプロになれる 山海堂, 1974
- あなたならどう指す次の一手1 山海堂, 1975
- 将棋再入門 中級脱出 ひかりのくに, 1975
- 米長将棋勝局集 講談社, 1976
- 一手・三手の詰将棋 山海堂, 1976
- 楽しい詰将棋入門 続 山海堂, 1976
- 日本将棋大系8 六代大橋宗英 筑摩書房, 1979.10
- ヤグラ将棋好局集 日本将棋連盟, 1979.9
- 米長将棋名局集 筑摩書房 1980.11
- あいつより強くなれる将棋の本 二見書房, 1980.3
- 米長の将棋1 居飛車対振飛車上 平凡社, 1980.6
- 米長の将棋2 居飛車対振飛車下 平凡社, 1980.8
- 米長の将棋3 矢倉戦法 平凡社, 1980.10
- 米長の将棋4 ひねり飛車・横歩取り 平凡社, 1980.12
- 米長の将棋5 棒銀・腰掛銀 平凡社, 1981.2
- 米長の将棋6 奇襲戦法 平凡社, 1981.4
- 人間における勝負の研究 - さわやかに勝ちたい人へ 祥伝社, 1982.6 ISBN 4-396-31049-8
- 米長邦雄九段のアマチュア将棋指南道場30講 全国縦断 小学館, 1982.9
- 歴史への招待26 日本放送出版協会, 1983.5
- 「戦国最強武田軍団」米長邦雄著を収録
- <カン>が<読み>を超える 米長邦雄,柳瀬尚紀 朝日出版社, 1984.6(文庫化にあたって『「運とカン」を磨く』に改題)
- 逆転のテクニック 悪い将棋はこう指せ! 上・下 日本将棋連盟, 1984.11
- 泥沼流人生相談 あなたの人生に「実力」をつける本 ネスコ, 1985.8
- 米長流四間飛車撃破 筑摩書房, 1985.11
- 碁敵が泣いて口惜しがる本 “将棋”の天才が発見した囲碁必勝の秘訣 祥伝社, 1985.4
- 米長流必ず勝つ基本手筋 有紀書房, 1986.12
- 米長流株に勝つ極意 強い金、強い運で挑め サンマーク出版, 1986.10
- 米長流速攻居飛車 筑摩書房, 1986.8
- 米長流攻め方の基本手筋 有紀書房, 1987.4
- 米長上達シリーズ 昭文社, 1988.1
- 米長流基本手筋実戦の急所 有紀書房, 1988.3
- 米長のスーパーアドバイス 日本将棋連盟, 1988.3
- 人生一手の違い 「運」と「努力」と「才能」の関係 祥伝社, 1989.12
- 米長流基本手筋実戦の攻防 有紀書房, 1991.1)
- 運を育てる 肝心なのは負けたあと クレスト社, 1993.7 ISBN 4-87712-007-6
- 泥沼流振り飛車破り さわやか自戦記 日本将棋連盟, 1994.1
- 人間における運の研究 米長邦雄,渡部昇一 致知出版社, 1994.2
- 最強中飛車 日本将棋連盟, 1994.4
- 米長の勝負術 実戦次の一手70問+さわやかエッセー70題 毎日コミュニケーションズ, 1995.11
- 人生、惚れてこそ 知的競争力の秘密 米長邦雄,羽生善治 クレスト社, 1996.3(文庫化にあたって『勉強の仕方』と改題)
- 勝負の極北 なぜ戦いつづけるのか 藤沢秀行,米長邦雄 クレスト社, 1997.3(文庫化にあたって『戦いはこれからだ』と改題)
- ふたたび運を育てる ピンチとチャンスは同じもの クレスト社, 1998.6
- 一流になる人二流でおわる人 野村克也,米長邦雄 致知出版社, 1999.5
- 幸せになる教育 子どもも親も先生も校長も 海竜社, 2001.8
- 宮本武蔵の次の一手 決して後悔しない人生論 説話社, 2002.12
- 達人の道 米長邦雄達人戦勝局集 毎日コミュニケーションズ, 2004.3
- 勝負師 内藤國雄,米長邦雄 朝日新聞社, 2004.8)
- 大局を観る 米長流・将棋と人生(NHK人間講座) 日本放送出版協会, 2004.10. --
- 不運のすすめ 角川書店, 2006.7
- 六十歳以後 植福の生き方 海竜社, 2007.5 ISBN 978-4-7593-0972-0
- 名人の脳ドリル詰将棋 面白くて脳に効く! 米長邦雄監修 主婦と生活社編 主婦と生活社, 2008.3
[編集] 研究本等
- 金子将棋教室 米長邦雄VS中原誠の巻 金子金五郎 晩声社 1980.6
- 米長邦雄の運と謎 運命は性格の中にある 団鬼六著 山海堂 1994.4
- 米長邦雄ともに勝つ 加古明光 毎日新聞社 1997.7
- 米長邦雄の本 日本将棋連盟(編)日本将棋連盟 2004.4
[編集] DVD
- 東京の窓から1 どうする?だれがやる?人間教育 石原慎太郎,米長邦雄 2007.1
[編集] 脚注
- ^ a b 「米長邦雄の本」より。
- ^ a b c 2004年7日2日放送の「徹子の部屋」より。
- ^ この発言は、元々は芹澤博文による(米長がこう言ったという)冗談であり、本人はこのような発言をしていないという。しかし、あながち間違っていないと思い、積極的に訂正しなかったともしている(読売新聞・「時代の証言者」による)。ちなみにこれには続きがあり、その兄によれば「馬鹿でなければあんな奴の兄は務まらない」。
- ^ 当時は「将棋世界」誌などで米長の「島研」参加がセンセーショナルに報道されたが、真に序盤研究目的だったのか、中原名人(当時)に対する盤外戦術だったのかは不明。
- ^ 『将棋博物館」閉鎖で木村名人の娘を怒らせた「米長会長」』 週刊新潮 2006年11月30日号
- ^ 「ふたたび運を育てる - ピンチとチャンスは同じもの」37頁 米長邦雄著 クレスト社 1998年6月 ISBN 978-4-877-12069-6
- ^ 写真週刊誌FOCUS 1985年11月1日号 新潮社
- ^ 後手番森安の四間飛車に先手番の米長は▲5七銀左から鷺宮定跡含みの駒組みを進める。森安の△6四歩を見て米長は▲4五歩と仕掛けたが、ここで森安は△7四歩と突いた。当時はそれが普通だったのだが、米長はこの局面で▲4六銀の新手から作戦勝ちを収め、そのまま勝利する。米長曰く、「△7四歩の先に△6三金であったら、この手(▲4六銀)は成立しなかった」という(角交換後の▲3一角がない)。その後、△6四歩▲4五歩の局面では△6三金が一般的となり、先に△7四歩と突く形は姿を消した。
- ^ この時、弟子の中川大輔四段(当時)のアパートに通い、南対策を教わったという。
- ^ 先に引退届を出した上で、残った対局の予定を消化するというのが原則である。
- ^ 「逆転のテクニック - 悪い将棋はこう指せ!」(上巻) 米長邦雄著 日本将棋連盟 ISBN: 978-4819701112」
- ^ [1] ただし、この言葉は「文学をわかっていない棋士の迷言」と、観戦記者の奥山紅樹から批判されたことがある。
- ^ 第30期までの順位戦の期数は、名人戦の期数に対して5期のずれがあり、第36期から名人戦と順位戦の期数がそろえられた。このため、第31~35期の順位戦は存在しない。つまり、米長のA級以上在籍は、26期連続である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 公式ページ
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