旭國斗雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
旭國斗雄 Sumo pictogram.svg
基礎情報
四股名 旭國斗雄
本名 太田武雄
生年月日 1947年4月25日(64歳)
出身 北海道上川郡愛別町
身長 174cm
体重 121kg
所属部屋 立浪部屋
得意技 右四つ、寄り、下手投げとったり
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 635勝479敗57休
幕内戦歴 418勝330敗57休
優勝 十両優勝1回
幕下優勝1回
敢闘賞1回
技能賞6回
データ
初土俵 1963年7月場所
入幕 1969年7月場所
引退 1979年9月場所
引退後 大島部屋師匠
備考
金星2個(北の富士琴櫻
2009年8月1日現在

旭國 斗雄(あさひくに ますお、1947年4月25日 - )は、立浪部屋所属の元大相撲力士。最高位は大関北海道上川郡愛別町出身で農家の三男として生まれる。本名は太田武雄(おおた たけお)、現役時代の体格は身長174cm、体重121kg、血液型はB型。現在は年寄大島として大島部屋を経営、日本相撲協会前理事、元巡業部長。

目次

[編集] 来歴

[編集] 入門から大関昇進まで

幼い頃からスポーツが得意で中学校時代は野球をしていた。3年生の時に人数不足から相撲部の助っ人として大会に出場し優勝。大島親方(元前頭19枚目・若浪)を紹介され昭和37年(1962年)、立浪部屋に入門した。床山の新弟子と間違われたほど小柄だったため新弟子検査では4場所続けて不合格になり、諦めかけたが、兄弟子や親方に励まされてもう1度受けることを決意、幸運にもその時(昭和38年=1963年7月場所)の検査を担当したのが師匠の立浪親方(元横綱羽黒山)だったため御目零しで合格の判を押してもらえた。

幕下時代に盲腸の手術を受けたが傷が癒える前に稽古を始めてしまい、しかも大酒を飲んだことがたたって膵臓を患い苦しまされた。昭和44年(1969年)7月新入幕。しかし昭和45年(1970年)3月に急性胆嚢炎で途中休場し、翌場所は勝ち越すも7月に大負けして十両陥落。昭和46年(1971年)11月に再入幕したが翌場所に膵臓炎で休場してしまい陥落。昭和47年(1972年)5月に再々入幕しようやく幕内に定着する。

小結だった昭和50年(1975年)3月は膵臓炎で入院し初日から休場したが点滴が終わると病院を抜け出して稽古をしていた。医者に「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ」と警告されても「土俵で死ねれば力士の本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨の両脇に上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏が大きく目立った。翌場所11勝して三役に復帰すると定着し昭和51年(1976年)1月関脇で12勝3敗、大関獲りとなる3月は13勝2敗で横綱・輪島との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した。28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した昭和33年(1958年)1月場所以降初土俵の力士では当時最年長であった(現在は琴光喜が記録を保有)。また、翌昭和52年3月場所は、5大関ということから、ファンサービスの一環で初日に大関同士の取り組み(対貴乃花戦)が組まれた。

[編集] 大関時代

大関になってからも膵臓炎の影響で満足な成績を出せる場所は多くはなかったが昭和52年(1977年)9月は誰もが驚く絶好調、連戦連勝で横綱・北の湖と優勝争いの先頭を併走、直接対決には敗れ優勝はできなかった(北の湖は全勝優勝)が、堂々の14勝。しかし綱獲りとなる11月は8勝に終わり横綱昇進は果たせなかった。

平幕など下位の相手には技量・力量を見せつけ、比較的勝ち星を量産できたものの、横綱・大関との対戦になる場所後半に負け込むことがほとんどだった。横綱との対戦でとりわけ苦手にしていたのは輪島であり、対戦成績は4勝30敗と大きく差をつけられた。大関昇進を決めた昭和51年3月場所でも、本割・優勝決定戦の両方で輪島に敗戦している。また、北の湖との対戦も7勝27敗と大きく差をつけられた。この7勝のうち、6勝は大関昇進前の勝ち星であり、昇進以後は昭和52年5月場所に一度勝利したのみで、全く勝てなかった。

それでも持病の膵臓炎で度々入院治療を続けながら、翌昭和53年(1978年)3月7日目、魁傑との取組で二度水入りの大相撲となり、勝負がつかず10分後に取り直し、これも大相撲となって3度目の水入りかという所で力尽き掬い投げで破れはしたものの合計10分19秒の大熱戦、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に「土俵上で死ねたら本望」の言葉通りの相撲、これ力士の鑑とも言うべきであり、敗戦と言えども納得の一番であっただろう。昭和54年(1979年)9月、7日目同期生である新横綱・三重ノ海との対戦で負傷、再起は難しいと考えて引退した。引退に際し、「一度は優勝したかった」と述べた。

闘魂という言葉を好み、四股名の下の「斗雄」も闘魂(斗魂、鬦魂)から付け、化粧廻しも「斗魂」を染め抜いたものを好んで用いた。しつこく食い下がる取り口から「ピラニア」、研究熱心で巧みな技を使うことから「相撲博士」の異名があった。腕が短く相手の廻しを取ることが困難なことから編み出された「とったり」は、旭國の得意技であった。

四股名の縁で、麒麟児とともにビール会社のテレビCMに出演したこともあった。

[編集] 年寄時代

現役引退後は年寄・2代大島を襲名、分家独立して大島部屋を開設した。その後、横綱・旭富士、小結・旭道山旭豊、幕内・旭豪山旭里らを育てた。

平成4年(1992年)、当時外国出身力士の入門を自粛する方向にあったにもかかわらず、クビを覚悟でモンゴルから初めて、6人をスカウトした。内3人はモンゴルへ帰国したが、残りの3人は日本に残った。モンゴル人として最初の十両・幕内力士となった小結・旭鷲山は平成18年(2006年)11月場所で引退、幕下・旭天山も平成19年(2007年)11月場所で引退したものの、関脇・旭天鵬は現在も現役力士である。なお、旭天鵬の日本国籍取得に際して養父となり、定年(角界では「停年」と表現)退職後は大島部屋を旭天鵬に継承させる予定である。実の長男旭萌天、次男旭照天も大島部屋に入門したが、旭萌天は三段目までしか昇進できず引退、旭照天も幕下と三段目の往復が続き、平成23年1月場所限りで引退した事が3月場所の番付編成会議で3月場所の十両昇進力士と他の引退力士と共に発表された。

現役時代にライバルだった二子山親方(元大関・貴ノ花)とは親友であった。平成17年(2005年)5月の二子山親方の通夜の席では、子息の貴乃花親方(元横綱・貴乃花)のことで生前二子山が悩んでいたことを打ち明けている。

1998年から2010年まで6期12年の間、日本相撲協会理事を務めた。この相撲協会理事の選挙は10人の改選を5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例であったところ、2010年2月の選挙では貴乃花親方が立候補したため4期(8年)ぶりに10人の理事を11人で争う形になったが、評議員の投票の結果、大島親方が8票で落選した。その後は役員待遇委員であったが、2011年4月に大相撲八百長問題で弟子が関与したことを受け、委員に降格した。

[編集] 主な成績

  • 通算成績:635勝479敗72休 勝率.570
  • 幕内成績:418勝330敗57休 勝率.559
  • 大関成績:168勝122敗20休 勝率.579
  • 幕内在位:54場所
  • 大関在位:21場所
  • 三賞:技能賞6回、敢闘賞1回
  • 金星:2個(北の富士1個、琴櫻1個)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語