魁皇博之
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二次口に戻る魁皇
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 魁皇 博之 | |||
| 本名 | 古賀 博之 | |||
| 愛称 | キンタ | |||
| 生年月日 | 1972年7月24日(39歳) | |||
| 出身 | 福岡県直方市 | |||
| 身長 | 185cm | |||
| 体重 | 173kg | |||
| 所属部屋 | 友綱部屋 | |||
| 得意技 | 左四つ、寄り、叩き、上手投げ、小手投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 東大関 | |||
| 生涯戦歴 | 1,047勝700敗158休(140場所) | |||
| 幕内戦歴 | 879勝581敗141休(107場所) | |||
| 優勝 | 幕内優勝5回 幕下優勝1回 三段目優勝1回 |
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| 賞 | 殊勲賞10回、敢闘賞5回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1988年3月場所 | |||
| 入幕 | 1993年5月場所 | |||
| 引退 | 2011年7月場所 | |||
| 引退後 | 浅香山親方 | |||
| 趣味 | ラジコン | |||
| 備考 | ||||
| 金星6個(曙2個、貴乃花3個、若乃花1個) | ||||
| 2011年7月20日現在 | ||||
魁皇 博之(かいおう ひろゆき、1972年(昭和47年)7月24日 - )は、福岡県直方市出身で友綱部屋所属の元大相撲力士。本名は古賀博之(こが ひろゆき)、愛称はキンタ、ゴリライモ[1]。身長185cm、体重173kg、血液型はA型。得意手は左四つ、寄り、上手投げ、小手投げ。最高位は東大関。引退後は年寄・浅香山を襲名。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 相撲界入門 - 入幕
市立直方第二中学校時代に柔道をしていたところその巨体から、顧問の教師に相撲を勧められる。その魁皇のためにわざわざ「柔道・相撲部」を作った(それまでは柔道部のみだった)。またその顧問の教師と相撲を取ったところ、教師は片手で体を持ち上げられ非常に驚かされたという。またその相撲部時代にはほかの生徒たちが飲んだスチール缶の空き缶を片手で潰して片づけていた。入幕前、水道の蛇口が硬くて廻らないのを無理に回そうとした所、怪力のあまり壊してしまったことがある。入門前は、元大関北天佑の大ファンだったと言われている[2]。北天佑も魁皇も、共に、上手からの強烈な投げ技が持ち味の「怪力大関」と言われた。
中学校卒業後に友綱部屋に入門し、1988年(昭和63年)3月場所で初土俵を踏んだ。同期には大海(後に64代横綱・曙)、貴花田(後に65代横綱・貴乃花)、若花田(後に66代横綱・3代若乃花)、和歌乃山(元小結)、力櫻(元幕内)など有望な新弟子がおり、花の六三組と称された。貴乃花・和歌乃山・力櫻とは同い年・同学年であった。
初めて番付に掲った1988年(昭和63年)5月場所では負け越す(その後も、序二段、三段目、幕下、十両、幕内のデビュー場所はすべて負け越し。下表参照)など、花田兄弟や曙のようなスピード昇進とはいかないものの、着実に出世を果たし、初土俵から4年足らずの1992年(平成4年)初場所で十両昇進、四股名を「魁皇」とする。1993年(平成5年)5月場所、20歳の若年での新入幕を果たし、若手の有望株として注目を集めるようになる。新入幕場所こそ大きく負け越してしまい十両陥落となるものの、同年11月場所に再入幕後は日の出の勢いで番付を上げ、1994年(平成6年)3月場所には曙を下し初金星、初の三賞受賞(殊勲賞)、翌夏場所には早くも新小結となる。1995年(平成7年)1月場所の新関脇場所からは実に13場所連続で関脇に在位(史上最長)し、その後も度々三役に上がり、有力な大関候補として期待を寄せられた。しかし1997年(平成9年)5月場所11日目、貴ノ浪(元大関・現音羽山)戦で左太股を大怪我してしまい、そのケガの回復が遅れて3場所連続休場するなど、足踏みする時期が長く続いた。それでも大関昇進までに2度の優勝同点、4度の優勝次点、史上3位の15回の三賞受賞などを記録し、強豪力士の一人として曙・貴乃花全盛の1990年代の土俵に在った。
[編集] 幕内初優勝 - 大関時代
小結で迎えた2000年5月場所、14勝1敗で念願の幕内初優勝を果たし、これが足がかりとなって名古屋場所後にようやく大関昇進を決める。大関獲りでは千代大海(現佐ノ山)・出島(現大鳴戸)・武双山(現藤島)・雅山らに遅れをとったが、大関昇進後は豪快な相撲で地力の高さを見せ付け、大関としては合計4度の優勝を経験、横綱候補の1番手だった時期もあった。しかし、怪我の多さや精神的な脆さもあり、途中休場して綱取りのチャンスを無碍にしてしまうことも多かった。
32歳となる2004年には円熟期を迎え、全場所で二桁勝利を記録。9月場所には5回目の優勝を遂げる。4度目の綱取りとなる翌11月場所では、2003年3月場所から続く日本人横綱不在に終止符を打って欲しいという期待が集まった。しかし12日目に3敗を喫し優勝争いから脱落。それでも「千秋楽で横綱朝青龍を破っての準優勝なら昇進の可能性がある」との発言が当時の押尾川(元大関大麒麟)審判部長からあり、千秋楽の結びの一番への期待が高まった。千秋楽では朝青龍を万全の相撲で下し、横綱昇進決定かと思われたが、結局昇進は見送られた。翌2005年1月場所までも綱取り場所とされたが、怪我で途中休場して失敗に終わった。
2005年1月場所から2006年3月場所までは、途中休場により翌場所大関角番・角番脱出の繰り返しが続き、大関の地位を辛うじて維持するという状況だった。特に9回目の角番となった2006年3月場所は、序盤から本来の相撲が取れず負けが先行すると引退を示唆して、師匠の友綱親方(元関脇魁輝)と相談し負け越したら引退する決意を固めた。しかし7敗してから踏ん張り、千秋楽に朝青龍と優勝争いをしていた白鵬を寄り切って勝ち越しを決めた。2006年5月場所以降、千秋楽まで皆勤の出場場所が増えてはいるが、成績は10勝すらままならず勝ち越すのがやっとの状態が多く、特に2005年以降は何度も引退の危機を迎えていた。
2007年9月場所4日目の小結安馬(後に日馬富士)戦で、幕内通算706勝を達成した。この記録は67代横綱武蔵丸(現振分)の706勝に並ぶもので、大関以下の力士としては1番、現役の力士としてももちろんダントツの記録である。しかし、その2日後、右太腿の負傷を悪化させまたしても途中休場となった。翌11月場所は、2006年同様に再起をかける場所となったが、14日目で勝ち越して11度目の角番を脱出、引退の危機から免れた。勝ち越しが決まった瞬間には、観客はその日の結びの一番よりも大きな声援を魁皇に送った。
2008年8月のモンゴル巡業では、当時の両横綱朝青龍、白鵬などモンゴル出身力士以上の大人気ぶりだった[3]。2008年11月場所前、大関琴欧洲との稽古で右足を痛め、休場が濃厚だったが強行出場した。しかし、3日目に前頭2枚目若の里との取組み中に左腕まで痛めてしまい途中休場となった。
2009年1月場所は千代大海と並んで1位タイとなる、12度目の大関角番となった。進退を賭けて場所入りし、12日目に前頭3枚目豪風を破って角番脱出、同時に引退危機も乗り越えた。その後3連敗したため場所を8勝7敗で終えた。その場所直後に虫垂炎で緊急入院、手術はせず薬で治療したが協会の公式行事は休場した。2009年11月場所で幕内在位が98場所となり、元関脇高見山の97場所を超える大相撲史上第1位の記録を達成した。同場所3日目に関脇把瑠都を破って史上3人目の通算800勝を果たし、九重親方(58代横綱・千代の富士)は「私の幕内807勝(史上1位)を超えて欲しい」とエールを送った。さらに同場所10日目、大関琴欧洲を押し倒しての勝利で幕内805勝を達成、55代横綱北の湖)の804勝を超えて幕内勝利数が単独第2位の記録となった。この年は2005年以降では最多となる年間48勝を記録した(2005年が39勝、2006年が40勝、2007年が44勝、2008年が43勝)。なお、この年は全6場所の成績がすべて8勝7敗という珍しい記録も発生した。
2010年1月場所2日目に前頭2枚目豪栄道に勝ち、19年ぶりに横綱・千代の富士の持つ幕内通算白星807勝に並んだが、この一番は魁皇得意の左四つ右上手だった。そして3日目には、奇しくも九重親方の愛弟子でかつ長年共に大関として支えあった千代大海(当時、関脇)に対し、豪快な送り投げで勝利し、ついに幕内通算808勝を達成して史上単独1位になった。なお、この千代大海戦が幕内通算54回目の取組となり、史上2位の記録であったが(対戦成績は魁皇の34勝20敗。幕内対戦の史上1位は武蔵丸対貴ノ浪の58回)、この一番で千代大海は現役最後の相撲となり、翌4日目に引退を表明した。10日目には引き落としで日馬富士戦の連敗を8で止め、さらに13日目には、2006年3月場所以来23場所ぶりに横綱白鵬を破り、白鵬戦での連敗を17で止めた。白鵬はこの敗北の翌日から63連勝を記録している。14日目には前頭3枚目稀勢の里を上手投げで破って勝ち越し。そして千秋楽でも同4枚目垣添を送り倒しで勝利、8場所ぶりの9勝6敗で終えた。 2010年3月場所で幕内通算在位が丁度100場所を迎え、この場所も8勝7敗と勝ち越した。3月30日、幕内在位100場所達成及び幕内通算勝利数を更新した功績を称え、日本政府は内閣総理大臣顕彰を魁皇に授与することを決定し、4月26日に総理大臣官邸で顕彰式が執り行われた[4]。
2010年5月場所で十両以上の関取在位場所数が、史上単独1位である111場所となった。さらに千秋楽にて大関琴欧洲を破り、大相撲史上二人目となる通算1000勝を達成した。
2010年7月、場所前に大関琴光喜が解雇されたため大関以上の地位での日本人力士は魁皇のみとなった。同時に、幕内最高優勝の経験を持つ唯一の現役日本人力士ともなった。11日目から怪我の為に途中休場、休場中の7月場所14日目(7月24日)に38歳の誕生日を迎えた。翌9月場所に13回目の大関角番を迎えたが14日目に勝ち越して角番を脱出。
2010年11月場所は初日に前頭2枚目安美錦に敗れるも、2日目から12日目まで11連勝の快進撃を続け優勝争いを演じた。13日目に1敗の白鵬、14日目に同じく1敗の同9枚目豊ノ島に敗れ優勝争いから脱落したが、千秋楽に大関把瑠都を破って2004年11月場所以来36場所ぶりの12勝(3敗)を挙げ、九州場所を盛り上げる一因となった。
2011年1月場所12日目に把瑠都を破って、大相撲史上初となる通算100場所勝ち越しを達成した。2011年5月技量審査場所12日目には、大相撲史上単独1位となる幕内出場回数・1431回目を達成した。千秋楽では白鵬に右上手を掴んでの寄り切りで勝ち、通算勝ち星を1044勝とした。
[編集] 通算最多勝利達成 - 現役引退
翌7月場所は、千代大海と並ぶ史上1位タイの大関在位数65場所目を迎えた。同場所では初日から3連敗し苦戦を強いられたものの、4日目で千代の富士の持つ通算1045勝に並び、5日目に2勝目をあげて、通算勝星史上単独1位となる通算1046勝の記録更新となった。その後は7日目に3勝目を挙げたが、この日の通算1047勝目が現役最後の勝利となった。10日目を終えた時点で3勝7敗と負け越しがほぼ確定的となり、取組後の記者懇談で「気力が出なくなった」と漏らし、宿舎に戻り師匠と話し合った末、現役を引退することを決めた。師匠は場所の早い段階で本人から引退の話が出るものと覚悟を決めていたという。
初土俵以来23年以上の長きに渡る現役生活、また2000年9月に大関に昇進して以来、10年以上に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けた。また2007年9月場所の番付で、35歳の大関となり戦後最高齢記録を更新、2010年3月場所には昭和以降の最高齢大関在位記録をも更新した(従来は1932年10月場所、能代潟の37歳6ヶ月)。2011年版ギネス・ワールド・レコーズに「幕内通算846勝」「幕内在位103場所」として掲載された。
出身地・福岡県の小川洋知事は2011年8月20日に、魁皇の長年の功績を讃えて「福岡県民栄誉賞」を故郷の直方市で贈った。また直方市も魁皇に「特別市民文化栄誉賞」を贈った。
断髪式と引退相撲は2012年5月27日に両国国技館で行われる予定。
[編集] 取り口
握力・腕力が非常に強く、中学時代の体力測定で握力100キロを超え(握力計を振り切ったこともあった)、更に入幕した頃には既にリンゴを握りつぶせたほどであった。左四つ右上手が絶対の形。腰をぶつけながら寄る型もあるが、それ以上に魁皇を魁皇たらしめているのは右からの豪快な上手投げ、小手投げである。特に怪力の右腕から放たれる上手投げは魁皇の代名詞と言え、横綱曙をも破った豪快な上手投げは今でも語り草になっている。また、小手投げに関しては、数々の力士の腕を怪我させたことから、四股名をもじって「破壊王(魁皇)」と呼ばれた(浪之花、栃乃洋、琴龍、栃東(現玉ノ井)、玉乃島(現西岩)、豪栄道、豊ノ島ら多くの力士がそれぞれ左の肩、肘を負傷した。特に浪之花は、引退の直接的な原因となり、玉乃島に関しては、この小手投げによって左腕が泣き所となってしまい、長期に渡り苦しんだ)。
小手投げの名手といえば貴ノ浪と魁皇であるが、この2人の小手投げには大きな違いがある。貴ノ浪の小手投げで怪我をした人はほとんどいないが、魁皇の小手投げは数多くの人が病院送りとなっている。その理由は小手投げする際の肘の決め方にある。貴ノ浪の小手投げは貴ノ浪の身長の高さ・懐の深さを活かしたもので、懐に飛び込んだ(誘い込まれて飛び込んでしまった相手)を抱え込んで・・・肩の高さを同じにする。そうすることで貴ノ浪は膝にバネがあるのに対し、相手力士は膝に全く自由が利かない状況となる(つまりロックがかかってしまうのです)。相手の力が無になったところで小手投げをうつのである。きまっているのは肘ではなく上腕部で、上腕部の内側に急所があり、そこを決めるわけで痛いけれども怪我はしない。しかし魁皇の小手投げは魁皇の並はずれた腕力を利用したもので、相手を懐の中に引っ張りこむものではなく、相手の1本の腕を魁皇が全体重をかけて抱え込む。そして相手の肘を手繰って、とったりをうつイメージで小手投げを打ちます。結果として魁皇の全体重が相手の肘にかかってしまい、多くの力士が病院送りとなってしまうのである。
右上手をとって引き付ければ十分だが、大関になってからは右上手がとれなくても右からおっつけて寄る形に進境を見せた。それに加え、相撲の基本的技能にも優れている。特に突っ張りを手繰るのが上手い。このため比較的押し相撲には強いといえる。左四つの型の陰に隠れて目立たないが、突き押しの威力もある。一方で、右四つになるとなにもできないため、立合いでは左脇を徹底して固めて右四つを避けるようにしてきた。
魁皇の左四つの強さを物語るエピソードの一つに、2010年の九州場所で後半戦まで優勝争いのトップに立っていた時に、それについてインタビューを受けた審判部長の貴乃花が「(中略)右の上手を取られた時の強さは、私が対戦した力士の中で一番強かった」と答えていたというのがある。ちなみに、時を同じくして魁皇に今までの取組相手で一番強いと思ったのは誰かというインタビューをした時、魁皇は「タイプは全然違うけど、全盛期の貴乃花と、白鵬」と答えていた。
若いころから強引な投げで鮮やかな勝ちを収めてきたが、その相撲スタイルの代償として大関昇進後は腰痛など怪我に悩まされることが多くなった。そのため場所ごとの好不調の波が激しく、好調な時は横綱をも負かしてしまうが、不調な時は平幕にあっけなく負けることもある。また、若いころには精神的に脆い面があり連敗癖があって、上位に定着しながら大関になかなか上がれなかった理由の一つでもある。「気が優しくて力持ち」と言われるが、「怪力だが気が弱い」「蚤の心臓」と揶揄されることもあった。力士の中でも大柄な体格、さらに怪力である事も相まってしばしば重戦車と比喩された。雑誌でのインタビューによれば、過去に怪我をさせてしまった相手に対しては罪悪感があり、その時と同じような形になった場合には相手に怪我をさせる事を恐れて強引には攻められない事もあると言う。
しかし怪我や加齢による体力の衰えも顕著となり、立合いの鋭さ・重さに欠け、かつて握力計を振り切ったほどの握力は衰え、70キロ台にまで落ちていた[5][6]。左四つに組むことが難しくなり、組んでも左四つ得意の若手(稀勢の里、琴奨菊など)や、もろ差しになるのがうまい豊ノ島には分が悪くなってきた。太ももの故障を抱えてからは左右の動きの対処できずあっけなく土俵を割ることが増え、また上手投げが難しくなり叩きが増える相撲も多く、魁皇らしさが半減してしまった。
30代も半ばを過ぎた2007年7月場所から2010年9月場所まで20場所連続で二桁勝利を上げられず、休場と角番が増えた。この頃には、両差しから体格を利して一気に寄るという相撲も見せてはいるが、一方で立合いの駆け引きや変化・引き技に頼るなど、長年の経験に裏打ちされた勝負勘による相撲が増え、「勝っても自身が首を捻る光景」がしばしば見られる。それでも昔取った杵柄は健在で、守勢に回っても手繰りや小手投げでしのぎつつ、時折左四つや突き押しで豪快な相撲も見せていた。中でも、右上手を掴んだ際に沸き起こる観客の声援は非常に大きなものがあり、魁皇の相撲の型が広く知られていることを示していた。
三賞受賞回数は15回(歴代3位)と多いが、技能賞は1度も受賞しなかった。魁皇以外で三賞受賞回数の多い力士は、殊勲賞、敢闘賞、技能賞の全てを満遍なく受賞していた。
横綱朝青龍には12勝25敗と相性がやや悪かったが、朝青龍戦の12勝は白鵬(13勝)に次ぐ勝星であった。そのうち朝青龍に2回2連勝していた。また、横綱白鵬にも全盛期を過ぎたせいもあって全く歯が立たず、対戦成績は6勝27敗と大きく負け越していた。特に白鵬が大関に昇進して以降は連敗が続き、結局大関時代の白鵬からは1勝も出来なかった。白鵬の横綱昇進後も長らく勝てないまま17連敗していたが、ようやく2010年1月場所に白鵬から白星を挙げた。また2011年5月技量審査場所の千秋楽、7場所ぶりに白鵬を寄り切って勝利したが、これが魁皇自身横綱白鵬との現役最後の対戦となった。
[編集] 逸話
四股名に入っている「皇」の文字は出身の直方市がかつて「皇方」と表記されていたことに由来し、これを採って師匠の友綱がつけた。
大関昇進前の1999年に結婚、子供はいない。5歳年上の妻・充子は元タレントだが、それ以前は女子プロレスラーであった。そのためか、女子プロレス関係者の中にもファンを有した。また現役当時の力士の中では、高見盛(最高位・小結)を凌ぐほどの、一番人気の高い力士の一人であった。福岡県出身だけに、福岡市で開催される九州場所での館内での声援は絶大で、11月場所(九州場所)での声援は他の力士を圧倒していた。対戦相手は「魁皇関にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と、かつて青森県出身の音羽山親方(元大関貴ノ浪)がこのような発言をしていた。
その人気はとどまることを知らず、2001年10月に九州旅客鉄道(JR九州)筑豊本線・篠栗線(福北ゆたか線)博多駅 - 直方駅間で運行を開始した特急列車の名称「かいおう」にも採用された。力士の四股名に限らず、人名、しかも存命中の人物の名前がJRグループの列車名に採用されるのは極めて異例である。その特急「かいおう」の出発式には魁皇本人も出席し、テープカットも行った。「かいおう」の運行が決定したのは、魁皇が3度目の優勝をした2001年7月場所後だったが、翌9月場所は途中休場していた。前述の通り魁皇本人は2011年7月場所で現役引退したが、JR九州は「かいおう」の名称について「(現時点では)改称の予定はない」とコメントしている。
魁皇の現役時代、地元の直方市では魁皇が勝利した場合、取り組みが終わった直後に花火が打ち上げられていた。直方市の銘菓「成金饅頭」でも、地元出身の力士である魁皇を応援するため、11月場所の時には魁皇の焼印を押したものが販売されることもあった。
福岡県の久留米ラーメンチェーン店「魁龍(かいりゅう)」のネーミングの由来も、二代目店主が魁皇の熱狂的なファンであることから付けられた(初代店名は「珍宝軒」)ものである。ちなみに魁龍のマスコットキャラクターは、とんこつを象徴する豚が廻しを締めた姿であった。
高砂部屋の弓取り力士に、「弓取り関取」で話題となった皇牙(元十両、2007年5月場所直前に引退。十両昇進後も引退直前まで弓取り式を務めた)がいたが、皇牙も直方市出身であり、四股名は魁皇から一字拝借したものである。さらに、鳴戸部屋出身の元前頭・力櫻が、プロレス転向後「力皇」と改名したのも、大相撲では同期入門だった魁皇にあやかったものと言われた。
俳優の堺雅人は同じ九州出身ということで、好きな力士に「魁皇」を挙げており、NHK大相撲中継にゲストで呼ばれた際にも「魁皇を応援している」とコメントした。
明治以降では横綱に昇進していない力士の中で最多の幕内最高優勝5回を誇る(横綱昇進力士の大関以下での幕内最高優勝は、同期の貴乃花が優勝22回中7回、同期の若乃花が5回(横綱では優勝なし)、武蔵丸が優勝12回中5回記録しており、同世代の横綱に多い。なお、これは双羽黒が優勝回数0のまま廃業して以降、横綱昇進の規定が厳密に適用され2場所連続優勝した者しか横綱に昇進していないためである)[7][8]。優勝力士からの白星も最も多く[9]、地力の高さも示していた。
大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦(1996年(平成8年)11月場所、当時西関脇で11勝4敗、優勝は西大関1の武蔵丸、他の相手は西横綱の曙、東大関1の若乃花、東大関2の貴ノ浪であった。東横綱貴乃花の休場のために乱戦になった)と、4人の決定戦(1997年(平成9年)3月場所、当時東前頭筆頭で12勝3敗、優勝は東横綱の貴乃花、他の相手は西横綱の曙、西大関の武蔵丸)であった。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、千代大海がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・武双山・栃東らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。
さらに、2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録(当該場所終了時の在位場所数は大関39、関脇21、小結11。それまでの最高記録は横綱北の湖(元日本相撲協会理事長)と、横綱武蔵丸の2人が達成した小結以上在位70場所。北の湖は横綱63、大関3、関脇2、小結2で、武蔵丸は横綱27、大関32、関脇9、小結2)を樹立した(出典=読売新聞東京本社発行・大相撲・2007年2月号、pp. 134-135)。これも魁皇の実力を裏打ちするものであり、「もしタイムマシーンがあれば、魁皇を、江戸時代の古今無双大関雷電爲右エ門(長野県小県郡東部町(現・東御市)出身)と対戦させてみたい」という声も聞かれたことがあった。
2003年(平成15年)名古屋場所8日目、東方結びの朝青龍と同結び前の旭鷲山の二人が取組後の風呂場であわや乱闘勃発かという修羅場に、ニッコリ笑いつつ腕ずくで二人を分けたのは同じく当日東方から上がっていた怪力無双の湯上り魁皇であった。さすがの両雄も魁皇の仲裁には二の言を持たず、これを機に両者の遺恨も終息に向かった。しかし他人の喧嘩は分けられるが「酔っ払った魁皇関を止められる一般人は誰もいない」と、武双山の証言が「大相撲中継平成21年7月号」において藤井アナによって報告されていた。
現在の大相撲の一大勢力となりつつあるモンゴルでも人気が高く、特にジグジドゥ・ムンフバト(横綱白鵬の父)が魁皇の大ファンらしく、白鵬を通じて魁皇に薬膳料理の食材を贈ろうとしたことがあるらしい。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことらしい。白鵬は、それを託された当時はまだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、ワシが関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示したそうである。
2009年6月2日に日本外国特派員協会に招かれ、「いつ引退するのか?」との質問に「いつそういう時がきてもおかしくない状況だけど、自分は相撲が大好き。死ぬまで現役にこだわりたい」と答えた。実際に魁皇が引退を表明したのは、それから2年後の2011年7月19日であった。
2009年11月9日に自伝「怪力」(ベースボール・マガジン社)が発売された。発売前々日の7日には紀伊国屋書店福岡本店でサイン会が行われた。
2009年12月18日、文化放送の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、埼玉西武ライオンズに復帰した工藤公康との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。
2011年に発覚した大相撲八百長問題では大量の処分者を出し、4月3日に緊急に召集された力士会では処分に納得のいかないモンゴル出身の力士などを中心に5月場所ボイコットの提案もなされた。しかし、魁皇がボイコット反対意見を唱えこの提案はお流れとなった[10][11]。
引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽当時のライバルだった武双山(元大関、現・藤島親方)に敗れ7勝8敗と負け越し、又武双山(当時関脇)の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。それに対し藤島親方は「一緒に刺激し合った特別な存在だった。休場して来場所もと思っていたが、勝てなければ辞めるしかない。魁皇本人が最もほっとしているのでは」と、大親友でもある魁皇の引退を労っていた。なお武双山とは同じ1972年生まれ(学年は魁皇が1年後輩)で、武双山が引退の2004年11月場所まで、奇しくも魁皇と幕内在位場所数(68場所)が全く一緒だった(武双山は1993年9月場所新入幕、魁皇は1993年5月場所新入幕で、入幕の時期は違うが、魁皇は1993年7月・9月の2場所十両陥落後1993年11月場所再入幕した為)。さらに武双山とは幕内で48回対戦し、成績は魁皇の31勝17敗(内2勝は不戦勝)。
[編集] 略歴
- 1988年
- 1992年
- 1993年
- 5月場所 - 同期の曙、貴花田、若花田にやや出遅れたが20歳の若さで新入幕、しかし負け越して翌場所十両へ陥落(4勝11敗)
- 11月場所 - 再入幕、二桁勝利を挙げるも三賞ならず(10勝5敗)
- 1994年
- 1995年
- 1月場所 - 新関脇、以降13場所連続で関脇在位
- 1996年
- 11月場所 - 優勝同点(11勝4敗)、曙・若乃花・武蔵丸・貴ノ浪ら5人で自身初の幕内優勝決定戦に出場
- 1997年
- 1月場所 - 15場所振りに負け越し(6勝9敗)、13場所守り続けた関脇から陥落
- 3月場所 - 2度目の優勝同点(12勝3敗)、貴乃花・曙・武蔵丸ら4人で優勝決定戦に出場
- 5月場所 - 左腸腰筋及び恥骨筋筋挫傷で12日目から自身初の幕内での途中休場
- 7月場所 - 公傷で全休
- 9月場所 - 左腸腰筋及び恥骨筋筋挫傷の回復が遅れ11日目から再び途中休場
- 1998年
- 5月場所-9月場所 - 自身初の幕内での3場所連続皆勤での負け越し
- 1999年
- 2000年
- 2月21日 - 年寄名跡・浅香山を取得
- 5月場所 - 自身初の幕内最高優勝(14勝1敗)
- 7月場所 - 11勝4敗で10回目の殊勲賞(歴代1位タイ)、大関昇進を決め大関推挙伝達式での口上は「大関の地位を汚さぬよう稽古に精進します」、花の六三組では曙、貴乃花、若乃花に次ぐ4人目の大関。なお戦後に大関昇進を果たした力士のうち、十両での休場と、幕内からの十両以下への陥落の双方を経験したのは大麒麟[1]、旭國[2]、琴風[3]、魁皇[4]の4人のみ(大麒麟と琴風は幕下までの陥落を経験)。
- 9月場所 - 新大関、直前の稽古で親指を骨折しながらも終盤まで優勝を争い11勝4敗
- 11月場所 - 大関として九州に凱旋(11勝4敗)、武蔵丸との一番で珍しい「一本背負い」を決める(ちなみに魁皇は中学校時代まで柔道の経験がある)
- 2001年
- 2002年
- 7月場所 - 左上腕二頭筋長頭及び短頭断裂のため4日目から途中休場
- 9月場所 - 3度目の角番
- 11月場所 - 右上腕二頭筋長頭腱断裂のため4日目から途中休場
- 2003年
- 1月場所 - 公傷で全休
- 3月場所 - 4度目の角番
- 7月場所 - 千代大海との相星決戦を制し、4度目の幕内最高優勝(12勝3敗)
- 9月場所 - 3度目の綱取り場所、15日間皆勤するも大関での皆勤での初の負け越し(7勝8敗)
- 11月場所 - 5度目の角番、坐骨骨折に悩む(10勝5敗)
- 2004年
- 9月場所 - 5度目の幕内最高優勝(13勝2敗)
- 11月場所 - 千秋楽で朝青龍を寄り切って優勝次点の12勝を挙げるも横綱昇進見送り
- 2005年
- 2006年
- 1月場所 - 2日目に通算勝星800勝達成、腰椎椎間板症のため9日目から途中休場
- 3月場所 - 9度目の角番、12日目までに5勝7敗と引退の瀬戸際に追い込まれるも13日目から3連勝で千秋楽に勝ち越しを決めて角番脱出
- 5月場所 - 初日から2連敗して再び引退が騒がれたが、3日目から8連勝して10日目に勝ち越し引退説を弾き飛ばす
- 9月場所 - 戦後初の34歳大関、本年2度目の腰椎椎間板症のため7日目から途中休場
- 11月場所 - 10度目の角番、初日から8連勝で角番脱出、途中まで優勝争いにも入ったが投げ主体の取り口で内容に乏しく後半戦は失速し10勝5敗に終わったものの1年ぶりの2桁勝利、全日程終了後は「来年も九州に現役で戻って来られるように頑張ります」と力強く話す
- 2007年
- 2008年
- 2009年
- 1月場所 - 12度目の角番(当時千代大海と並び角番歴代1位タイ)、12日目に勝ち越して角番脱出、大関在位51場所(歴代単独2位)、幕内在位93場所(高見山に次いで寺尾と並び歴代2位タイ)
- 3月場所 - 幕内在位94場所(寺尾を抜き歴代単独2位)
- 7月場所 - 3日目に通算勝星952勝達成(北の湖の951勝を抜き歴代単独3位)、13日目は37歳の誕生日
- 9月場所 - 幕内在位97場所(高見山と並び歴代1位タイ「一時は絶対に破られない記録」とまで言われていた)、10日目に通算勝星965勝達成(大潮を抜き歴代単独2位)
- 11月場所 - 幕内在位98場所(歴代単独1位)、3日目に史上3人目の幕内勝星800勝達成、10日目に幕内勝星805勝達成(北の湖の804勝を抜き歴代単独2位)、千秋楽で琴光喜に勝利し8勝7敗、1958年から始まった年6場所制度では52年の歴史で幕内史上初の「年6場所全て8勝7敗」という珍記録達成
- 2010年
- 1月場所 - 2日目に豪栄道に勝ち(この1番は魁皇得意の左四つ右上手)、19年ぶりに千代の富士の持つ幕内通算807勝達成、3日目に長年共に支えあってきた千代大海に勝って(豪快な送り投げ)幕内勝星808勝達成(歴代単独1位)、9勝6敗(9勝以上は8場所ぶり)また、横綱白鵬にも2006年3月場所以来となる勝利をし、対白鵬戦の連敗を17でストップした。
- 3月場所 - 史上初の「幕内在位100場所」達成、8勝7敗で「3月場所20年間連続勝ち越し」という未曾有の記録達成
- 5月場所 - 史上初の「関取在位111場所」及び「幕内連続在位100場所」達成(新入幕直後に十両に陥落しているため幕内通算在位では101場所)、千秋楽に大関・琴欧洲を破り千代の富士(通算勝星1045勝)以来史上2人目となる「通算勝星1000勝」達成、観客は2日前に優勝を決めていた横綱白鵬の取組よりも大きな声援を贈る
- 7月場所 - 大関以上の地位で日本出身の力士は魁皇1人、8日目まで6勝2敗と好調だったがその後2連敗、左肩甲下筋腱断裂の疑いで11日目から途中休場、休場中の14日目に38歳の誕生日
- 9月場所 - 13度目の角番、横綱大関総当たりの地位となる前頭3枚目以上の連続在位100場所達成(下表参照)、5日目に幕内出場数1379回(寺尾を抜いて歴代単独2位)、2日目に右太股、4日目に右膝を痛め、中日までに黒星が先行して角番脱出絶望的かと思われたが、その後2大関を破るなど少しずつ星を戻して14日目に稀勢の里を寄り切り角番脱出
- 11月場所 - 2日目から11連勝を記録するが白鵬との直接対決で完敗、14日目の豊ノ島戦にも敗れ優勝の可能性が消えたが12勝3敗で2007年5月場所以来の二桁勝利と2004年11月場所以来の12勝を挙げた。
- 2011年
- 1月場所 - 土佐ノ海が11月場所を最後に引退したためこの場所から関取最年長力士となる。12日目に把瑠都に勝ち、史上初の通算100場所勝ち越しを達成した。
- 5月技量審査場所 - 12日目の把瑠都戦で幕内出場数1431回(高見山を抜いて歴代単独1位)を達成。この場所は9勝止まりであったため、千代の富士の持つ通算勝星1045の記録には僅か1勝届かなかったが、千秋楽に白鵬に2010年1月場所以来となる勝利をした。
- 7月場所 - 大関在位65場所(千代大海と並び歴代1位タイ)。坐骨神経痛を発症し初日から3連敗と足踏みしたものの4日目に豊ノ島に勝ち、歴代1位となる千代の富士の持つ通算1045勝と肩を並べた。5日目には旭天鵬と対戦。得意の右上手を取り、寄り切りで白星をあげ、ついに通算1046勝となり単独1位となった。7日目の安美錦戦で寄り倒して通算1047勝を挙げたが、これが現役最後の白星となった。
- 7月19日 - 10日目琴欧洲戦の敗北を最後に現役引退を表明
- 7月20日 - 11日目の隠岐の海戦は不戦敗だったが、観客は魁皇への労いと感謝の拍手を送った。これが、魁皇という一人の人間が作り上げた大きな実績であった。一部雑誌で落胆の声が出たと表記されていたが、それは大きな間違いである。
- 8月20日 - 福岡県民栄誉賞と直方特別市民文化栄誉賞を受賞
[編集] 主な成績
[編集] 通算成績
- 通算出場:1731回(歴代3位)
- 幕内出場:1444回(歴代1位)
- 通算成績:1047勝700敗158休(通算勝星:歴代1位、140場所) 勝率 .599
- 幕内成績:879勝581敗141休(幕内勝星:歴代1位) 勝率 .602
- 大関成績:524勝328敗119休(大関勝星:歴代1位) 勝率 .615
- 幕内在位:107場所(歴代1位)
- 大関在位:65場所(千代大海と並んで歴代1位タイ)
- 関脇・小結在位:32場所(歴代2位)(関脇21場所(歴代2位タイ)、小結11場所(歴代8位タイ))
- 対横綱戦勝利:37勝(歴代2位タイ)(曙6勝、貴乃花12勝、若乃花2勝、武蔵丸7勝、朝青龍8勝、白鵬2勝)
- うち関脇以下で22勝、安芸乃島と並んで歴代1位タイ。
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:14場所(1994年9月場所~1996年11月場所)
- 幕内2桁連続勝利記録:7場所(2003年11月場所~2004年11月場所)
[編集] 各段優勝
- 幕内最高優勝:5回(2000年5月場所、2001年3月場所、2001年7月場所、2003年7月場所、2004年9月場所)
- 最高位が大関以下の力士の中では優勝制度導入後歴代1位
- 幕下優勝:1回(1991年7月場所)
- 三段目優勝:1回(1990年7月場所)
[編集] 三賞・金星
- 三賞:15回(歴代3位)
- 殊勲賞:10回(歴代1位タイ)
- 敢闘賞:5回
- 金星:6個
- 曙2個、貴乃花3個、若乃花1個
[編集] 場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988年 (昭和63年) |
x | (前相撲) | 西 序ノ口 #15 3–4 |
西 序ノ口 #12 5–2 |
東 序二段 #118 3–4 |
西 序二段 #133 6–1 |
| 1989年 (平成元年) |
西 序二段 #60 2–5 |
東 序二段 #91 7–0 |
東 三段目 #82 2–5 |
東 序二段 #11 2–5 |
西 序二段 #35 5–2 |
東 三段目 #92 6–1 |
| 1990年 (平成2年) |
東 三段目 #38 4–3 |
東 三段目 #23 3–4 |
東 三段目 #41 4–3 |
西 三段目 #23 7–0 |
東 幕下 #17 2–5 |
東 幕下 #32 3–4 |
| 1991年 (平成3年) |
西 幕下 #42 3–4 |
西 幕下 #53 6–1 |
東 幕下 #26 3–4 |
西 幕下 #36 7–0 |
東 幕下 #5 4–3 |
東 幕下 #2 5–2 |
| 1992年 (平成4年) |
西 十両 #10 7–8 |
西 十両 #11 8–5–2[12] |
西 十両 #8 休場[13] 0–0–15 |
西 十両 #8 9–6 |
東 十両 #3 7–8 |
東 十両 #5 8–7 |
| 1993年 (平成5年) |
東 十両 #3 8–7 |
西 十両 #1 9–6 |
西 前頭 #15 4–11 |
西 十両 #6 10–5 |
西 十両 #1 10–5 |
西 前頭 #15 10–5 |
| 1994年 (平成6年) |
西 前頭 #6 8–7 |
西 前頭 #1 9–6 殊★ |
東 小結 8–7 |
東 小結 5–10 |
東 前頭 #2 9–6 |
東 小結 8–7 |
| 1995年 (平成7年) |
東 関脇 8–7 殊 |
東 関脇 8–7 |
西 関脇 9–6 |
東 関脇 9–6 |
西 関脇 11–4 殊 |
東 関脇 9–6 敢 |
| 1996年 (平成8年) |
東 関脇 10–5 殊 |
東 関脇 9–6 |
西 関脇 11–4 殊 |
東 関脇 10–5 殊 |
東 関脇 9–6 |
西 関脇 11–4[14] 敢 |
| 1997年 (平成9年) |
東 関脇 6–9 |
東 前頭 #1 12–3[15] 殊★★ |
東 関脇 7–5–3[12] |
西 小結 休場[13] 0–0–15 |
西 小結 3–8–4[12] |
東 前頭 #3 8–7 |
| 1998年 (平成10年) |
東 小結 8–7 |
西 小結 8–7 殊 |
西 関脇 7–8 |
西 小結 7–8 |
東 前頭 #1 7–8 ★ |
西 前頭 #1 8–7 ★★ |
| 1999年 (平成11年) |
東 前頭 #1 9–6 |
西 小結 #2 10–5 |
西 関脇 12–3 敢 |
東 関脇 8–7 |
東 関脇 9–6 |
東 関脇 11–4 敢 |
| 2000年 (平成12年) |
東 関脇 7–8 |
西 小結 8–7 |
西 小結 14–1 敢殊 |
東 関脇 11–4 殊 |
東 大関 #2 11–4 |
東 大関 11–4 |
| 2001年 (平成13年) |
東 大関 10–5 |
東 大関 13–2 |
東 大関 4–5–6[12] |
東 大関 #3 13–2[16] |
東 大関 0–4–11[12] |
東 大関 #2 10–5[16] |
| 2002年 (平成14年) |
東 大関 9–6 |
西 大関 #2 12–3 |
東 大関 11–4 |
東 大関 0–4–11[12] |
東 大関 #2 12–3[16] |
東 大関 2–2–11[12] |
| 2003年 (平成15年) |
西 大関 #3 休場[13] 0–0–15 |
西 大関 #2 10–5[16] |
西 大関 11–4 |
東 大関 12–3 |
東 大関 7–8 |
東 大関 #2 10–5[16] |
| 2004年 (平成16年) |
東 大関 #2 10–5 |
西 大関 13–2 |
西 大関 10–5 |
東 大関 11–4 |
東 大関 13–2 |
東 大関 12–3 |
| 2005年 (平成17年) |
東 大関 4–6–5[12] |
西 大関 10–5[16] |
東 大関 5–1–9[12] |
西 大関 #2 10–5[16] |
東 大関 0–4–11[12] |
西 大関 #2 10–5[16] |
| 2006年 (平成18年) |
西 大関 3–6–6[12] |
西 大関 #2 8–7[16] |
西 大関 #2 9–6 |
東 大関 #2 9–6 |
東 大関 #2 1–6–8[12] |
西 大関 #3 10–5[16] |
| 2007年 (平成19年) |
東 大関 #2 8–7 |
西 大関 #2 8–7 |
東 大関 #2 10–5 |
東 大関 8–5–2[12] |
東 大関 #2 1–5–9[12] |
西 大関 #2 9–6[16] |
| 2008年 (平成20年) |
東 大関 #2 8–7 |
東 大関 #2 8–7 |
西 大関 8–7 |
東 大関 #2 9–6 |
東 大関 #2 9–6 |
西 大関 1–3–11[12] |
| 2009年 (平成21年) |
西 大関 #2 8–7[16] |
東 大関 #2 8–7 |
東 大関 #2 8–7 |
東 大関 #2 8–7 |
西 大関 #2 8–7 |
西 大関 #2 8–7 |
| 2010年 (平成22年) |
西 大関 #2 9–6 |
東 大関 #2 8–7[17] |
西 大関 #2 9–6[18] |
西 大関 #3 6–5–4[12] |
西 大関 #2 8–7[16] |
西 大関 #2 12–3 |
| 2011年 (平成23年) |
東 大関 #1 9–6 [19] |
八百長問題 により中止 |
西 大関 #1 9–6 |
東 大関 #2 引退 3–8–0 |
x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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[編集] 主な力士との幕内対戦成績
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 霧島 | 2 | 0 | 寺尾 | 7 | 2 | 土佐ノ海 | 30 | 10 | 追風海 | 3 | 1(1) |
| 蒼樹山 | 4 | 1 | 小錦 | 2 | 1 | 琴光喜 | 17(1) | 25(1) | 豊真将 | 8 | 2 |
| 濱ノ嶋 | 5 | 1 | 三杉里 | 5 | 1 | 玉乃島 | 19 | 5(2) | 鶴竜 | 6 | 9 |
| 浪ノ花 | 5 | 0 | 大翔鳳 | 3 | 1 | 朝青龍 | 12 | 25 | 豪栄道 | 6 | 7 |
| 琴別府 | 6 | 1 | 舞の海 | 3 | 2 | 海鵬 | 2 | 1 | 若ノ鵬 | 2 | 1 |
| 琴稲妻 | 8 | 1 | 旭豊 | 7 | 2 | 時津海 | 4 | 1 | 把瑠都 | 8 | 7 |
| 水戸泉 | 5 | 1 | 玉春日 | 9 | 4 | 安美錦 | 18 | 8 | 嘉風 | 2 | 1 |
| 小城錦 | 6 | 2 | 旭鷲山 | 16 | 3 | 高見盛 | 6 | 3(1) | 栃煌山 | 9 | 1 |
| 湊富士 | 5 | 1 | 琴龍 | 9 | 0 | 霜鳳 | 5 | 1 | 阿覧 | 6 | 1 |
| 肥後ノ海 | 9 | 4 | 出島 | 25 | 15 | 北勝力 | 9 | 2 | 栃ノ心 | 6 | 2 |
| 栃乃和歌 | 5 | 4(1) | 巌雄 | 2 | 2 | 朝赤龍 | 11 | 5 | 豊ノ島 | 7 | 8 |
| 大善 | 3 | 1 | 栃東 | 22(1) | 13(1) | 岩木山 | 11 | 0 | |||
| 武双山 | 31(2) | 17 | 栃乃洋 | 25 | 12(1) | 垣添 | 10 | 2 | |||
| 剣晃 | 6 | 5 | 千代大海 | 34(1) | 20 | 黒海 | 6 | 8(1) | |||
| 若乃花 | 14(1) | 15 | 敷島 | 5(1) | 0 | 白鵬 | 6(1) | 27(1) | |||
| 琴ノ若 | 22 | 8 | 若の里 | 21 | 13 | 露鵬 | 5 | 4 | |||
| 琴錦 | 12 | 16 | 闘牙 | 9 | 3 | 琴欧洲 | 12 | 16 | |||
| 貴ノ浪 | 24 | 27 | 雅山 | 31(1) | 15(1) | 普天王 | 3 | 1 | |||
| 貴乃花 | 12 | 27 | 千代天山 | 5(1) | 0 | 稀勢の里 | 12 | 16 | |||
| 武蔵丸 | 20 | 26 | 隆乃若 | 8 | 1 | 日馬富士 | 12 | 16(1) | |||
| 安芸乃島 | 25 | 6 | 和歌乃山 | 7 | 0 | 時天空 | 7 | 5(1) | |||
| 曙 | 6 | 25 | 旭天鵬 | 34 | 5(1) | 豪風 | 6 | 4 | |||
| 貴闘力 | 21 | 11 | 栃乃花 | 1 | 3 | 琴奨菊 | 16 | 12(1) |
(カッコ内は勝数・負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は引退時「2011年7月場所」の現役力士。)
[編集] 改名歴
- 古賀 博之(こが ひろゆき)1988年3月場所 - 1991年11月場所
- 魁皇 博之(かいおう -)1992年1月場所 - 2011年7月場所
[編集] 年寄名変遷
- 浅香山 博之(あさかやま -)2011年7月場所 -
[編集] 脚注
- ^ 朝乃若武彦が呼び始めたあだ名。
- ^ 「大相撲記録の玉手箱→力士名鑑→魁皇博之」
- ^ スポーツニッポン 2008年8月27日付紙面
- ^ 首相官邸ホームページ 内閣総理大臣顕彰式 平成22年4月26日
- ^ 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース 2010年3月10日閲覧
- ^ 魁皇 (福岡出身) / 大相撲 どすこい!郷土力士 / 西日本スポーツ 2010年3月10日閲覧
- ^ つまり、優勝制度が確立されて以降(平幕・三役も含めて)大関以下で通算5回以上の優勝をして横綱になれなかったのが魁皇が唯一であるし、横綱昇進規定後に5回以上の優勝をして横綱になれなかったのも魁皇が唯一である。(5回以上優勝の達成できた力士では、2場所連続優勝が出来なかった唯一の力士と言うことでもある。)
- ^ 2011年7月20日・放送のTBS系『ひるおび!』で、デーモン小暮も発言している。
- ^ 魁皇、優勝力士に17回勝つ
- ^ “【技量審査場所の内幕】5月場所ボイコットを巡って白鵬と魁皇が一触即発だった”. 日刊ゲンダイ. (2011年5月11日) 2011年7月10日閲覧。
- ^ “7月10日付 編集手帳”. 読売新聞. (2011年7月10日) 2011年7月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 途中休場
- ^ a b c 公傷制度適用
- ^ 曙・3代目若乃花・武蔵丸・貴ノ浪と優勝決定戦
- ^ 貴乃花・曙・武蔵丸と優勝決定戦
- ^ a b c d e f g h i j k l m 角番(全13回)
- ^ 3月場所20年間連続勝ち越し達成。
- ^ 千秋楽に通算1000勝達成。
- ^ 12日目に通算100場所勝ち越し達成。
[編集] 関連項目
- 大相撲力士一覧
- 大関一覧
- 福岡県出身の人物一覧
- かいおう(JR九州特急列車)
- 内閣総理大臣顕彰
- ギネス・ワールド・レコーズ
- ウィンブルドン現象(引退に伴い、2011年秋場所は大関以上の番付に日本人力士が不在となった。なお秋場所後に琴奨菊が大関昇進を決め、同年九州場所は2場所ぶりに日本出身の大関が復活した)
[編集] 外部リンク
- 魁皇 博之 - goo 大相撲
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