田子ノ浦部屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
現在の田子ノ浦部屋。仮住まいのため看板などは無い

田子ノ浦部屋(たごのうらべや)は、日本相撲協会に所属する二所ノ関一門の相撲部屋。かつて出羽海一門にも同名の部屋が存在したが、系統的つながりはない。

歴史[編集]

2011年11月から鳴戸部屋の師匠を務めてきた年寄・14代鳴戸(元幕内・隆の鶴)が、日本相撲協会の2014年からの公益財団法人への移行に関連して、2013年12月20日までに日本相撲協会に対して年寄・鳴戸の名跡証書を提出するよう求められたものの、年寄・鳴戸の名跡証書の所有者である13代鳴戸(元横綱・隆の里)夫人との話し合いが付かずに日本相撲協会が定めた期限までに年寄・鳴戸の名跡証書を提出できなかったため、14代鳴戸は2012年2月に急逝した14代田子ノ浦(元幕内・久島海)の夫人が所有する年寄・田子ノ浦の名跡を正式に取得し、同年12月25日に日本相撲協会へ年寄・田子ノ浦の名跡証書を提出すると共に、正式に16代田子ノ浦を襲名した。これに伴い、同日付で部屋名が鳴戸部屋から田子ノ浦部屋へと変更され、大関・稀勢の里ら鳴戸部屋の所属力士12人と行司2人・呼出1人・床山1人はそのまま田子ノ浦部屋の所属となった。

16代田子ノ浦は自身の年寄名跡変更および部屋名の改称を行ったものの、千葉県松戸市にある鳴戸部屋の施設は13代鳴戸夫人が所有しているため、田子ノ浦部屋一同はそれまで使用してきた部屋の施設からの転居を余儀なくされた[1]。そこで、16代田子ノ浦は2013年12月26日に、部屋の施設を東京都江戸川区東小岩に新設するまでの約半年間の予定で、同年10月に閉鎖された三保ヶ関部屋の施設を借り受ける形で部屋を東京都墨田区へ急遽移転した[2]

師匠[編集]

  • 16代:田子ノ浦伸一(たごのうら しんいち、前8・隆の鶴伸一、鹿児島)

力士[編集]

現役の関取経験力士[編集]

幕内[編集]

前頭[編集]

所在地[編集]

旧・田子ノ浦部屋[編集]

1998年(平成10年)9月場所限りで引退して準年寄・久島海として出羽海部屋の部屋付き親方となった後、1999年8月に年寄・田子ノ浦を襲名した14代田子ノ浦親方(元幕内・久島海)が、2000年2月1日付で出羽海部屋から分家独立してさいたま市に田子ノ浦部屋を創設した。2003年12月には東京都江東区へ部屋を移転した。

所属力士の四股名には、当初は師匠の現役時の四股名から1字取って「久」という字がよく使用されていたが、後年は師匠の故郷である和歌山県の海の色に因む「碧」(あお)という字を使用するようになった。2011年7月場所にはブルガリア出身の碧山が新十両へ昇進し、部屋史上初となる関取が誕生して、その後のさらなる弟子育成も期待されていた。

しかし、2012年2月13日に師匠である14代田子ノ浦が急逝したため[3]、田子ノ浦部屋は閉鎖された。残された8人の弟子たちは、同じ出羽海一門に所属する出羽海部屋(5人)と春日野部屋(3人)に分割移籍した。同じ部屋の所属力士が2つの部屋に分かれて移籍する例は戦後初のこととなった。なお、力士たちの移籍する部屋が2つに分かれたのは、各人の希望を尊重した結果であるという[4]

最終所在地[編集]

師匠[編集]

  • 14代:田子ノ浦啓人(たごのうら けいひと、前1・久島海、和歌山)

力士[編集]

春日野部屋へ移籍[編集]

出羽海部屋へ移籍[編集]

その他の所属力士[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 稀勢、27年間の人生で初めての1人暮らし 日刊スポーツ 2013年12月27日記事
  2. ^ この時点で旧・田子ノ浦部屋の稽古土俵は撤去されており、新・田子ノ浦部屋一同が稽古場として利用することは不可能だった。
    鳴戸部屋消滅…綱取り稀勢、流浪生活?稽古場がない! サンケイスポーツ 2013年12月26日記事
  3. ^ 田子ノ浦親方、46歳で急死 部屋で吐血 スポーツ報知 2012年2月13日閲覧
  4. ^ “田子ノ浦部屋の8力士、移籍先は2部屋”. 日刊スポーツ. (2012年2月22日). http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/f-sp-tp3-20120222-907390.html 2012年2月22日閲覧。 

外部リンク[編集]