栃乃和歌清隆

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栃乃和歌 清隆
(年寄名:春日野 清隆)
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Tochinowaka 2010 Jan.JPG
基礎情報
四股名 栃乃和歌 清隆
本名 綛田 清隆
生年月日 1962年5月22日(52歳)
出身 和歌山県海草郡下津町丸田
身長 189cm
体重 160kg
BMI 44.79
所属部屋 春日野部屋
得意技 右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 関脇
生涯戦歴 588勝621敗24休(87場所)
幕内戦歴 525勝591敗24休(76場所)
優勝 十両優勝1回
幕下優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞3回
技能賞1回
データ
初土俵 1985年3月場所
入幕 1987年1月場所
引退 1999年7月場所
引退後 年寄
備考
金星4個(大乃国1個、北勝海2個、貴乃花1個)
2013年7月3日現在

栃乃和歌 清隆(とちのわか きよたか、1962年5月22日 - )は、和歌山県海南市(旧海草郡下津町)出身で、春日野部屋所属の元大相撲力士。本名は、綛田清隆(かせだ きよたか)、身長189cm、体重160kg。最高位は東関脇1987年11月場所、1992年5月場所)。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。現・年寄11代目春日野

来歴[編集]

現役時代[編集]

箕島高校[1]から本格的に相撲を初め、明治大学に進み全国大会で優勝するなど活躍した。ただし現在の幕下付出基準である学生横綱アマチュア横綱、国体優勝などの大きなタイトルを獲得できなかったこともあり、大学時代によく出稽古を受け入れてもらった縁で春日野部屋に入門。経営学部出身で卒業論文マルクス資本論についてだった。

1985年3月場所に大学時代からの、ライバル両国(元小結)と共に幕下付出で初土俵を踏んだ。幕下上位でやや苦労したが、1986年9月場所に十両に昇進した。2場所で十両を通過すると1987年1月場所に新入幕を果たした。以降順調に番付を上げて行き同年7月場所には小結、翌9月場所には関脇まで番付を上げた。

当初は突き押し相撲だったが力が強く、四つ相撲に変えてからは左上手を取ると力を発揮した。一時は三役に定着し、1992年3月場所には小結の地位で12勝3敗の好成績を挙げ、千秋楽まで優勝戦線に残ったこともある。大関も期待されたが、攻めが遅いうえにさらに体が固く、怪我にも泣かされて結局大関昇進はならなかった。特に武蔵丸(第67代横綱)が前頭〜三役時代に、対戦した際に全敗(結局23連敗、後述)してしまったのが痛かった。引退まで常に幕内上位で相撲を取り続け、幕内在位は76場所を数えた。

1999年7月場所中に肋骨を痛めて途中休場、十両陥落が濃厚となったため、同7月場所を最後に現役を引退。

年寄襲名以後[編集]

現役引退と共に年寄・竹縄を襲名し、春日野部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たる。2003年に先代の春日野(元横綱栃ノ海)が定年を迎えたことにより年寄・春日野を襲名すると共に春日野部屋を継承した。

本名の清隆の由来となった先々代の春日野(元横綱・栃錦)と年寄名が全く同じ『春日野清隆』となった。これは、高砂浦五郎のように氏名の継承を伴うことのない名跡では珍しいが、これは栃乃和歌の祖母が栃錦の大ファンで、孫に栃錦と同じ名前をつけたためである。春日野襲名時は畏れ多いからと改名も考えたが、先代の助言もあって本名で通すことになった。

2011年4月、自身がかつて名乗った年寄名跡である竹縄を襲名したばかりの弟子の春日錦孝嘉を中心とした大相撲八百長問題が発覚し、責任を取る形で委員から主任へ降格した。

10月18日、同月14日に春日野部屋にて、門限を破り[2]、相撲協会の服装規定を破り私服姿で外出した幕内・栃ノ心、幕下・栃飛龍栃矢鋪が春日野親方から腹や背中や臀部を素手やゴルフクラブのグリップで叩かれ、頭を拳で殴るなどの暴行容疑が浮上し[3][4]、同月17日、事情を知った関係者が所轄の警視庁本所警察署に通報。同署は春日野親方と力士から事情聴取をした。同日、生活指導部の二所ノ関部長は春日野親方を両国国技館に呼び事情聴取。ゴルフクラブでの殴打など指導の行き過ぎに対し厳重注意した[2]

これら一連の報道などを受けて春日野清隆本人が取材に応じ、「弟子に対する躾のためであった」と暴行の事実を認め[5]、「自分では問題ないと思っていた。道具を使ったのはやり過ぎた」[6]アイアンで殴った。確かにやりすぎた部分があったことは反省しています。ただし、死ぬほどのことはしていない。弟子とは親子関係だと思っているし、愛情がある」「弟子を集め自分がやり過ぎたことをしたと謝った」と答えており[2]、3人とは既に和解済みであるという[4]。春日野部屋でグリップが折れたアイアンが見つかっているが、尻などを叩いた際に、長さ調整のために補強していた部分が折れたという[6]。暴力を受けた3人はいずれも「自分たちが悪かった。被害届は出さない」などと説明。3人に怪我はなく、本所警察署は傷害事件などの立件はしない見通し[7]。本人は既に日本相撲協会に経緯を説明しており[5]、19日に臨時開催された理事会では行き過ぎた指導に対し、春日野親方は厳重注意処分となった。「理事会には寛大な処置を頂いたと思う。弟子たちにはもうげんこつは入れないと言いました」と語った[2]

2014年5月場所、7月場所は右足を負傷した出羽海に代わり、勝負審判を務めた。[8]

主な戦績[編集]

  • 生涯成績:588勝621敗24休 勝率.490
  • 幕内成績:525勝591敗24休 勝率.470
  • 現役在位:87場所
  • 幕内在位:76場所
  • 三役在位:17場所 (関脇7場所、小結10場所)
  • 金星:4個(大乃国1個、北勝海2個、貴乃花1個)
  • 三賞:6回
    • 殊勲賞:2回(1987年7月場所、1992年3月場所)
    • 敢闘賞:3回(1987年3月場所、1990年1月場所、1991年9月場所)
    • 技能賞:1回(1992年3月場所)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回(1986年11月場所)
    • 幕下優勝:1回(1986年7月場所)

場所別成績[編集]

栃乃和歌清隆
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1985年
(昭和60年)
x 幕下付出 #60
6–1
 
西 幕下 #31
3–4
 
西 幕下 #43
5–2
 
西 幕下 #25
5–2
 
西 幕下 #13
4–3
 
1986年
(昭和61年)
東 幕下 #8
3–4
 
東 幕下 #15
4–3
 
東 幕下 #10
6–1
 
西 幕下 #2
優勝
7–0
西 十両 #8
10–5
 
西 十両 #3
優勝
10–5
1987年
(昭和62年)
東 前頭 #12
7–8
 
東 前頭 #13
10–5
西 前頭 #4
10–5
 
東 小結
9–6
西 関脇
8–7
 
東 関脇
5–10
 
1988年
(昭和63年)
西 前頭 #1
8–7
西 関脇
7–8
 
東 小結
9–6
 
東 小結
9–6
 
東 小結
7–8
 
西 前頭 #1
休場
0–0–15
1989年
(平成元年)
東 前頭 #11
7–8
 
西 前頭 #12
8–7
 
西 前頭 #7
10–5
 
西 前頭 #1
8–7
 
東 小結
5–10
 
西 前頭 #3
7–8
 
1990年
(平成2年)
東 前頭 #4
10–5
東 前頭 #1
8–7
 
西 関脇
4–11
 
西 前頭 #5
8–7
 
東 前頭 #1
9–6
 
東 小結
8–7
 
1991年
(平成3年)
西 関脇
8–7
 
西 関脇
6–9
 
東 前頭 #2
7–8
 
東 前頭 #3
8–7
東 前頭 #1
11–4
東 小結
10–5
 
1992年
(平成4年)
東 小結
8–7
 
東 小結
12–3
東 関脇
2–9–4[9]
 
東 前頭 #5
5–10
 
東 前頭 #11
9–6
 
西 前頭 #3
7–8
 
1993年
(平成5年)
東 前頭 #6
8–7
 
西 前頭 #1
4–11
 
東 前頭 #8
6–9
 
西 前頭 #13
10–5
 
東 前頭 #3
6–9
 
東 前頭 #6
8–7
 
1994年
(平成6年)
西 前頭 #1
8–7
 
東 小結
3–12
 
西 前頭 #7
8–7
 
東 前頭 #1
5–10
 
西 前頭 #5
6–9
 
西 前頭 #7
8–7
 
1995年
(平成7年)
東 前頭 #2
4–11
 
西 前頭 #6
6–9
 
西 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #2
3–12
 
西 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #2
5–10
 
1996年
(平成8年)
東 前頭 #6
6–9
 
西 前頭 #8
6–9
 
西 前頭 #12
9–6
 
西 前頭 #10
7–8
 
東 前頭 #13
8–7
 
東 前頭 #8
8–7
 
1997年
(平成9年)
東 前頭 #4
4–11
西 前頭 #9
9–6
 
東 前頭 #2
5–10
 
東 前頭 #6
5–10
 
東 前頭 #11
8–7
 
西 前頭 #4
3–12
 
1998年
(平成10年)
西 前頭 #12
9–6
 
西 前頭 #5
5–10
 
西 前頭 #7
8–7
 
東 前頭 #4
3–12
 
東 前頭 #11
8–7
 
東 前頭 #3
5–10
 
1999年
(平成11年)
東 前頭 #6
6–9
 
西 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #5
5–10
 
西 前頭 #9
引退
2–8–5[10]
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 綛田 清隆(かせだ きよたか)1985年3月場所-1986年7月場所
  • 栃乃和歌 清隆(とちのわか - )1986年9月場所-1999年7月場所

年寄変遷[編集]

  • 竹縄 清隆(たけなわ きよたか)1999年7月-2003年2月
  • 春日野 清隆(かすがの - )2003年2月-

人物・逸話[編集]

  • 唇が厚いことから、兄弟子の舛田山に「Qちゃん」とあだ名された。その舛田山とは春日野部屋継承の際に不仲となってしまっている。[11]
  • 武蔵丸とは相性が悪く、23回対戦して一度も勝てなかった。また、千代の富士にも、やはり一度も勝てなかった(14戦全敗)。だが、といった、後の横綱からは比較的多くの星を挙げている。
  • 先々代の春日野親方(元横綱・栃錦)は、「栃乃和歌が大関になれば、『栃錦清隆』を襲名させたいと思う」と考えていたようである。[要出典]結局これは実現しなかったが、栃乃和歌は引退後、先々代と同じ名義の「春日野清隆」を名乗ることとなった。
  • 四股名をつける際に師匠(栃錦)は自分の四股名と出身地和歌山から「栃和歌」を考えたがこれでは「栃若時代」と同じ音でまずいのではないかと悩んでいた。それを知って助けたのは他ならぬ若乃花(当時の二子山親方)で「だったらワシの四股名から乃をやるよ」という助言で栃乃和歌となった。
  • 現役力士の喫煙者が珍しくなかった当時としても角界随一の愛煙家であったが36歳まで幕内を維持し続けた。本人は「喫煙と相撲の成績は関係ない。」と考えていたそうであり、稽古で鍛えた体は喫煙の弊害をまるで感じさせなかった。
  • 廻しの色は若い時分には青色、一時的に銀鼠の廻しもつけたが、力士人生中盤からは一貫して紫色の廻しをつけた。

脚注[編集]

  1. ^ 栃乃和歌が箕島高校に進学した時には野球をしたかったらしいが、新入部員が多いため当時の野球部監督・尾藤公の意見を聞いて相撲に転じたと言われる。
  2. ^ a b c d 春日野親方の愛のムチはゴルフクラブ…門限破った栃ノ心ら殴打で警察沙汰 2011年10月18日 スポーツ報知
  3. ^ 厳重注意 春日野親方 殴打認める 弟子に「もうげんこつは入れない」 2011年10月19日 スポーツニッポン
  4. ^ a b 春日野親方 ゴルフクラブで弟子3人を殴打 2011年10月19日 スポーツニッポン
  5. ^ a b 春日野親方、弟子を暴行か 「アイアンで殴打」認める 2011年10月18日 47News
  6. ^ a b 弟子アイアン殴打の春日野親方「力で押さえ付けないと言うこと聞かない」 2011年10月19日 MSN産経ニュース
  7. ^ 春日野親方のアイアン暴行、事件化せず 弟子から任意聴取「自分たち悪かった」 2011年10月19日 MSN産経ニュース
  8. ^ 【夏場所】音羽山親方、胃潰瘍で休場 2014年5月11日18時42分 スポーツ報知
  9. ^ 右腓腹筋断裂により11日目から途中休場
  10. ^ 前胸部挫傷により10日目から途中休場
  11. ^ 舛田山も元関脇。現在は千賀ノ浦部屋を創設。舛田山の母校・拓殖大学出身の栃乃洋の処遇(千賀ノ浦部屋へ移籍させるか春日野部屋に残すか)でもめたとも伝わる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]