両国梶之助

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両国 梶之助 相撲力士
基礎情報
四股名 小林山 秀昭→両国 秀昭→両国 梶之助
本名 小林 秀昭
生年月日 1962年7月30日
出身 長崎県長崎市
身長 184cm
体重 172kg
BMI 50.8
所属部屋 出羽海部屋
得意技 右四つ、寄り、上手投げ、突き、押し
成績
現在の番付 引退
最高位 小結
生涯戦歴 316勝313敗27休(48場所)
幕内戦歴 217勝252敗11休(32場所)
優勝 十両優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
データ
初土俵 1985年3月場所(幕下付出
入幕 1987年3月場所
引退 1993年1月場所(番付発表のみ)
備考
金星3個(千代の富士3個)
2014年3月1日現在

両国 梶之助(りょうごく かじのすけ、1962年7月30日 - )は、長崎県長崎市出身の元大相撲力士。本名は小林 秀昭(こばやし ひであき)。出羽海部屋伝統の四股名である両國梶之助を襲名した者は9人存在しており、その内新字体の両国表記の者は3人確認される。学生相撲の経験を有する影響で、両国梶之助 (小林)とも表記される場合がある。現在は年寄・境川(13代)として境川部屋師匠を務めている。

来歴[編集]

長崎の怪童、日大相撲部へ[編集]

1962年7月30日長崎県長崎市溶接工を営む家に二男として生まれる。長崎市立茂木小学校長崎市立茂木中学校では柔道ソフトボールサッカーなど様々なスポーツで鳴らし、長崎県立諫早農業高等学校進学後は、高校の卒業生からの勧めで相撲を始めた。この時点で既に182cm・110kgに達していたが、巨躯に物を言わせるだけの取り口で、相撲に関する基本的な技術をほとんど知っていなかったために活躍できなかった。高校卒業時で135kgに達していたことから角界関係者からスカウトされるが、当時は大相撲の道へ進む意志がなく、日本大学へ進学して相撲部に所属した[1]

日本大学では主将を務め、個人戦より団体戦で力を発揮し[2]、全国学生相撲選手権大会で準優勝に導く活躍を見せた。3年生での負傷から1年近くを棒に振ったが、4年生では腰の状態も回復して調子を取り戻したため、大学卒業後に角界入りする決意を固めた。小林の元には花籠部屋出羽海部屋からスカウトされたが、出羽海が同郷であることから出羽海部屋へ入門した。

幕内昇進~現役引退[編集]

1985年3月場所において、大学時代からのライバルである栃乃和歌清隆明治大学)と共に幕下付出初土俵を踏んだ。その後も栃乃和歌と競い合いながら精進し、1986年3月場所で新十両昇進、1987年3月場所で新入幕を果たすと同時に、四股名を「小林山」から出羽海部屋伝統の「両國」へ、下の名も1989年9月場所から「梶之助」へそれぞれ改名した。入幕から2場所連続で勝ち越したことで同年7月場所では早くも小結へ昇進し、早くも大関候補として周囲から期待されたが、何度か好機がありながら関脇には昇進できず、幕内中位に甘んじていた。

その後も小結から前頭上位を行ったり来たりしていたが、千代の富士貢を3度に渡って破るなど「千代の富士キラー」ぶりを発揮し、再度の関脇昇進を目指していた。しかし、1992年7月場所で左大腿部屈筋を挫傷する重傷を負ったため、12日目から途中休場となる。大学時代に痛めた腰の負傷によって、以降は思うような相撲が取れなくなり、同年11月場所では2勝13敗と大きく負け越して十両陥落、さらにその十両でも腰の怪我によって途中休場したことで、1993年1月場所では幕下転落が確定的になっていた。このため、1992年12月に現役引退を発表し、年寄・中立を襲名した。

引退後[編集]

現役引退後の1998年5月場所終了後、出羽海部屋から分家・独立して「中立部屋」を創設した。2003年1月場所終了後には、元師匠である境川と名跡を交換して年寄・境川を襲名、部屋名も「境川部屋」となった。出羽海部屋からの分家・独立は、昭和以降では一門から破門された九重部屋を含めると3例目だが、円満に独立した点では武蔵川部屋(現:藤島部屋)以来2例目となる。

境川部屋からは豪栄道豪太郎妙義龍泰成豊響隆太といった、現在幕内上位で活躍している現役力士の他に、岩木山竜太寶千山幸勘などの有望な弟子が育成されており、親方としての手腕に注目が集まっている。2010年に問題となった大相撲野球賭博問題に関して、豪栄道・豊響が関与していた責任と取る形で、2010年7月場所において謹慎処分を受けた。

中立を襲名していた時から勝負審判を務めていたが、2012年2月25日には、同月13日に急逝した同門の田子ノ浦の後任として、巡業部から審判部に異動した(事実上の再任)。田子ノ浦とは大学、部屋において先輩・後輩の関係でもあった。

主な成績[編集]

  • 通算成績:316勝313敗27休 勝率.502
  • 幕内成績:217勝252敗11休 勝率.463
  • 現役在位:48場所
  • 幕内在位:32場所
  • 三役在位:4場所(小結4場所)
  • 三賞:2回
    • 殊勲賞:1回(1989年11月場所)
    • 敢闘賞:1回(1990年3月場所)
  • 金星:3個(千代の富士3個)
  • 各段優勝:十両優勝1回(1991年1月場所)

場所別成績[編集]

両国 梶之助
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1985年
(昭和60年)
x 幕下付出 #60
2–5
 
東 三段目 #24
6–1
 
西 幕下 #50
6–1
 
東 幕下 #25
5–2
 
西 幕下 #12
5–2
 
1986年
(昭和61年)
西 幕下 #4
6–1
 
西 十両 #12
6–9
 
東 幕下 #4
5–2
 
東 十両 #13
8–7
 
西 十両 #9
8–7
 
西 十両 #7
10–5
 
1987年
(昭和62年)
東 十両 #3
10–5
 
西 前頭 #12
9–6
 
西 前頭 #5
8–7
 
西 小結
6–9
 
東 前頭 #2
5–10
 
東 前頭 #8
10–5
 
1988年
(昭和63年)
東 小結
5–10
 
西 前頭 #2
6–9
 
西 前頭 #5
8–7
 
東 前頭 #1
6–9
 
東 前頭 #4
9–6
 
東 前頭 #1
7–8
 
1989年
(平成元年)
東 前頭 #2
6–9
 
東 前頭 #5
6–6–3[3]
 
東 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #4
5–10
 
西 前頭 #8
9–6
 
東 前頭 #3
10–5
1990年
(平成2年)
西 小結
4–11
 
西 前頭 #6
11–4
東 小結
6–9
 
東 前頭 #3
7–8
東 前頭 #4
3–8–4[4]
 
西 前頭 #13
2–13
 
1991年
(平成3年)
東 十両 #9
優勝
12–3
東 十両 #1
9–6
 
西 前頭 #15
10–5
 
西 前頭 #7
7–8
 
西 前頭 #9
7–8
 
西 前頭 #10
10–5
 
1992年
(平成4年)
西 前頭 #3
5–10
 
東 前頭 #9
4–11
 
東 前頭 #16
10–5
 
東 前頭 #9
6–5–4[5]
 
西 前頭 #11
2–13
 
西 十両 #7
1–5–9
 
1993年
(平成5年)
東 幕下 #12
引退
0–0–0
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 小林山 秀昭(こばやしやま ひであき):1985年3月場所 - 1987年1月場所
  • 両国 秀昭(りょうごく - ):1987年3月場所 - 1989年7月場所
  • 両国 梶之助( - かじのすけ):1989年9月場所 - 1993年1月場所(引退)

年寄変遷[編集]

  • 中立 梶之助(なかだち かじのすけ):1992年12月 - 1993年2月
  • 中立 秀昭( - ひであき):1993年2月 - 2001年12月
  • 中立 嗣人( - ひでと):2001年12月 - 2003年2月
  • 境川 豪章(さかいがわ ひであき):2003年2月 -

脚注[編集]

  1. ^ 角界関係者からのスカウト以外にも日本大学の相撲部監督から熱心にスカウトされたこともあって、日本大学進学を決意したという。
  2. ^ 小林は団体戦で活躍していたが、個人戦でも数回優勝の経験がある。
  3. ^ 右股関節及び内転筋挫傷により4日目から途中休場、8日目から再出場
  4. ^ 左大腿部屈筋挫傷により初日から休場、5日目から出場
  5. ^ 腰痛により11日目から途中休場

関連項目[編集]