大翔山直樹

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Daishoyama 09 Sep.JPG
基礎情報
四股名 大翔山 直樹
本名 山崎 直樹
生年月日 1966年7月7日(48歳)
出身 石川県鳳至郡(現鳳珠郡穴水町
身長 182cm
体重 186kg
BMI 56.15
所属部屋 立浪部屋
得意技 左四つ、寄り、下手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 前頭2枚目
生涯戦歴 266勝252敗40休(42場所)
幕内戦歴 153勝176敗1休(22場所)
優勝 十両優勝1回、幕下優勝2回
敢闘賞1回
データ
初土俵 1989年1月場所
入幕 1990年9月場所
引退 1995年11月場所
引退後 年寄・中川追手風
備考

金星3個(北勝海2個、大乃国1個)

追手風部屋師匠
2014年3月2日現在

大翔山 直樹(だいしょうやま なおき、1966年7月7日 - )は、石川県鳳至郡(現在の鳳珠郡穴水町出身で立浪部屋所属の元大相撲力士。本名は、山崎直樹(やまざき なおき)。現役時代の体格は身長182cm、体重186kg。血液型B型。得意手は右四つ、寄り、下手投げ。最高位は東前頭2枚目(1991年7月場所)。現在は、年寄追手風

人物[編集]

初代大翔山金沢高校時代にはインターハイ準優勝、日本大学3年時にアマチュア横綱、4年時に学生横綱を獲得[1]、各部屋の争奪戦となり一時は藤島部屋(現:貴乃花部屋)入りが決まりかけたが、同郷の中川親方(前2・清惠波)による引退後の身分保証が決め手となり、清惠波が部屋付きだった立浪部屋へ入門した。彼の入門により、双羽黒廃業後沈滞していた部屋の勢いは盛り返し、その後、日大同窓の大翔鳳智ノ花を呼び込む原動力となった。またこのときの経緯から藤島部屋の力士からは激しく憎悪され、同部屋の力士たちは彼と対戦するとき平素以上に闘争心を剥き出しにして戦ったという逸話もある。

新十両昇進時に本名の「山崎」から改名することとなったが、部屋の十両格行司・木村城之介(後の35代木村庄之助)が改名候補として「大翔山」と「天翔鳳」を考えて後者を推し、立浪親方(関脇安念山)は前者を採って読みを「おおしょうやま」にしようとしたが、語呂の悪さから城之介が「だいしょうやま」にした方が良いと進言して命名された。ちなみに「天翔鳳」はアレンジされて弟弟子・村田の四股名(大翔鳳)となっている。

右半身から腰の重さを生かして下手投げを打つ取り口を得意としていたが、腰への負担が大きく腰痛が持病となってしまった。そのため左からの攻めを早くする型を指導されたが右半身が直らなかった(NHKの大相撲中継でも再三苦言を呈された)。元横綱・輪島とは高校と大学が同じであることから自然と輪島と同様の技術指導を受け、類似した型を身に付けたという。[2]1993年初場所では13日目を終わって11勝2敗で曙と並んで優勝争いのトップに立つ活躍も見せた。三役にはついに昇進できず、1995年11月場所を最後に29歳の若さで引退した。

この年には追手風親方(元前頭6・追風山)の長女と結婚し、引退にあたっては清惠波から名跡を譲られ年寄・中川を襲名した。1997年には義父(追風山)とともに友綱部屋に移籍し、1998年に義父の所属部屋(追手風部屋)再興のため名跡を交換し、年寄・追手風として友綱部屋から独立して追手風部屋を33年ぶりに復興した。師匠としては、巨漢だった自身(身長182cm・体重186kg)とは対照的に均整の取れた体格の力士を中心に育てており、現在まで幕内力士を3人輩出している。小学生時代の作文に実業家としての夢を書いていたことがTV番組で明かされたことがある。現在は審判委員を務めている。部屋復興後に小結黒海を育てた。

2009年3月、床山の男性に暴力を振るっていたことで日本相撲協会の生活指導部特別委員会から事情聴取された。追手風によると床山は元力士で、部屋の若手力士にいじめをするなど素行に問題があったという。師匠は春場所後の3月下旬、部屋の宿舎で、床山に反省を促す意味で顔を数回たたいた。いじめをうけた若手力士にも1、2回ずつたたかせたという。床山は翌日に部屋を離れ帰郷し、程無く日本相撲協会を退職した。追手風は「(暴力は)悪いことはわかっているが、目に余る行動があった。(床山を)クビにすることも考えたが、本人がやり直すというので」と説明。生活指導部特別委員会の伊勢ノ海委員長(元関脇・藤ノ川)は「床山や家族と会って話し合うよう親方に指示した」と話した。その後、法的措置に関する情報などは伝えられておらず騒動は収束した模様である。 [3][4]

エピソード[編集]

  • 日大4年生の時に放駒部屋へ出稽古をした際、十両秀ノ花に左膝内側側副靭帯損傷の大怪我を負わせた。これが元で秀ノ花は番付を一時期序二段まで下げ、それ以後は幕下三段目の往復に終始した。
  • 新入幕当初の締め込みの色を、本人は赤ではなくワインレッドと主張していた。
  • 1991年5月場所の4日目で横綱千代の富士と初顔の一番が組まれたが、千代の富士が前日の貴闘力戦で敗れて引退したため、不戦勝となった。

略歴[編集]

主な成績[編集]

  • 通算成績:266勝252敗33休 勝率.514
  • 幕内成績:153勝176敗1休 勝率.465
  • 現役在位:42場所
  • 幕内在位:22場所
  • 三賞:1回
    • 敢闘賞:1回(1993年1月場所)
  • 金星:3個(北勝海2個、大乃国1個)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回(1990年5月場所)
    • 幕下優勝:2回(1990年1月場所、1990年3月場所)

場所別成績[編集]

大翔山 直樹
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1989年
(平成元年)
幕下付出 #60
6–1
 
東 幕下 #32
4–3
 
東 幕下 #23
5–2
 
西 幕下 #11
4–3
 
西 幕下 #8
1–6
 
西 幕下 #30
4–1–2
 
1990年
(平成2年)
東 幕下 #24
優勝
7–0
東 幕下 #4
優勝
7–0
西 十両 #11
優勝
12–3
西 十両 #2
11–4
 
東 前頭 #12
8–7
 
西 前頭 #8
9–6
 
1991年
(平成3年)
西 前頭 #2
5–10
西 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #4
8–7
 
東 前頭 #2
5–10
東 前頭 #9
8–7
 
東 前頭 #7
9–6
 
1992年
(平成4年)
西 前頭 #2
5–10
 
東 前頭 #8
9–6
 
東 前頭 #3
6–9
 
東 前頭 #6
8–7
 
西 前頭 #2
5–10
 
西 前頭 #8
5–10
 
1993年
(平成5年)
西 前頭 #14
12–3
東 前頭 #3
3–12
 
東 前頭 #12
9–6
 
東 前頭 #6
5–10
 
西 前頭 #12
8–7
 
東 前頭 #10
6–9
 
1994年
(平成6年)
東 前頭 #15
9–6
 
西 前頭 #10
3–11–1[5]
 
東 十両 #4
休場
0–0–15
東 十両 #4
5–10
 
西 十両 #9
9–6
 
西 十両 #4
7–8
 
1995年
(平成7年)
西 十両 #6
6–9
 
東 十両 #11
9–6
 
西 十両 #7
7–8
 
西 十両 #8
9–6
 
東 十両 #4
休場
0–0–15
西 幕下 #3
引退
0–0–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 山崎 直樹(やまざき なおき)1989年1月場所 - 1990年3月場所
  • 大翔山 直樹(だいしょうやま なおき)1990年5月場所 - 1993年7月場所
  • 大翔山 直生(- なおき)1993年9月場所 - 1994年1月場所
  • 大翔山 裕康(- ひろやす)1994年3月場所 - 1994年5月場所
  • 大翔山 直樹(- なおき)1994年7月場所 - 1995年11月場所

年寄変遷[編集]

  • 中川 直樹(なかがわ なおき)1995年11月 - 1998年2月
  • 追手風 直樹(おいてかぜ なおき)1998年2月 -

脚注[編集]

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  1. ^ 仮に当時の山崎に現行の幕下付出基準を適用した場合、4年時に学生横綱を獲得してから3年時に獲得したアマ横綱のタイトルが失効するまでの間に中退して角界入りするという条件付きで幕下10枚目格付出が認められることになる。
  2. ^ 因みに元大関・貴ノ花は現役時代に輪島と仲が良く、その縁もあって輪島の高校・大学の後輩にあたる大翔山を勧誘しようと考えていた。
  3. ^ 追手風親方が床山に暴力 相撲協会「話し合うよう指示 朝日新聞DIGITAL 2009年7月25日11時0分
  4. ^ 聞くところによると、その床山は「リンスを欠かすから枝毛になるのだ」という理由で力士に暴力をふるっていたという。
  5. ^ 右アキレス腱部分断裂・腰部捻挫により14日目から途中休場

関連項目[編集]

外部リンク[編集]