琴風豪規

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基礎情報
四股名 琴風 豪規
本名 中山 浩一
愛称 ペコちゃん
生年月日 1957年4月26日(57歳)
出身 三重県津市
身長 184cm
体重 173kg
BMI 51.1
所属部屋 佐渡ヶ嶽部屋
得意技 左四つ、寄り
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 561勝352敗102休(87場所)
幕内戦歴 395勝249敗80休(49場所)
優勝 幕内最高優勝2回
十両優勝1回
幕下優勝1回
殊勲賞3回
技能賞1回
敢闘賞2回
データ
初土俵 1971年7月場所
入幕 1977年1月場所
引退 1985年11月場所
引退後 尾車部屋師匠
他の活動 歌手
趣味 切手収集
備考
金星6個(北の湖3個、輪島2個、2代若乃花1個)
2012年12月14日現在

琴風 豪規(ことかぜ こうき、1957年4月26日 - )は、三重県津市出身で佐渡ヶ嶽部屋所属の元大相撲力士演歌歌手。本名は中山浩一(なかやま こういち)。江東区立深川第二中学校卒業。最高位は東大関。現役時代の体格は身長184cm、体重173kg。得意手は左四つ、寄り。現在は年寄尾車。愛称は「ペコちゃん」。

来歴[編集]

がぶり寄り」を武器に、膝の怪我に悩まされながらも見事大関まで昇進した力士で、「ペコちゃん」と呼ばれ人気も高く、相撲を取る前には学業で体育以外はオール5というインテリでもあった。小学5年生まで津市立高茶屋小学校に在籍していた[1]。中卒後は料理学校への進学を希望していたが、周囲から「料理なんかうちの母ちゃんでもできる」と冷やかされ、当時大関の琴櫻に勧誘されたことで結果的に力士としての道を進んだ。

入門時[編集]

琴櫻が、引退後独立した際の弟子としてこっそりスカウトして稽古をつけていたが、当時の佐渡ヶ嶽親方(元小結琴錦)に見つかり1971年7月場所に初土俵を踏まされてしまった。初めは琴櫻の内弟子扱いのため、かなりいじめられたが、当時の琴櫻はまだ現役で親方の立場ではなかったため、助けようがなかったという。しかし、琴櫻の引退後まもなく佐渡ヶ嶽親方が亡くなり、当時白玉親方を名乗っていた琴櫻が正式に佐渡ヶ嶽部屋を継承してからは、いじめはなくなったという。

新十両~大関候補~左ひざの大ケガ[編集]

1975年11月場所に新十両1977年1月場所新入幕。同年11月場所で2回目の挑戦で北の湖から金星を挙げるなど10勝5敗を挙げ初の三賞となる殊勲賞を獲得し、翌1978年1月場所新関脇。一躍大関候補となり幕内上位の常連となり活躍したが、1978年11月場所の麒麟児戦で左膝内側側副靱帯断裂の大ケガで途中休場。翌1月場所の金城(後の栃光)戦でそれを再発させて再び途中休場。古傷の再発ということで公傷が適用されず、以後2場所連続全休で幕下30枚目まで陥落。それでも腐らずケガを直すと幕下2場所、十両1場所で通過し、1980年1月場所で幕内復帰。その場所で12勝3敗の成績を挙げ敢闘賞を受賞。翌3月場所も10勝5敗の成績を挙げ2場所連続の敢闘賞受賞。5月場所では関脇に復帰し10勝5敗の成績を挙げ殊勲賞を受賞するなど再び大関候補にのし上がるも7月場所ではまたも栃光戦で左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板損傷・左腰部挫傷の大ケガで途中休場。当時理事長の春日野親方(元横綱栃錦)が「今度こそはと思ったのに」と言った程である。[要出典]

大関昇進~大関時代[編集]

それにもめげず1981年3月場所に関脇に復帰すると3場所連続で関脇に定着。7月場所後に唯一の大関だった千代の富士横綱に昇進。翌9月場所は大関が1人もいなくなったため、琴風にとって大関に昇進するにはこれ以上ないチャンスだった。その場所で関脇で12勝3敗で初優勝、この時点で大関昇進の目安となる直近3場所合計33勝に2勝足りないながら、前述の理由もあって大関へ昇進した。更に1983年1月場所にも14勝1敗で関脇朝潮との優勝決定戦を制し、2度目の優勝を飾った。唯一の綱獲りとなった翌3月場所は11勝4敗と失敗に終わり、その後も優勝や横綱昇進までには至らなかった。それでも2度目の優勝を果たした同年1月場所から1984年1月場所まで、7場所連続11勝以上を挙げ大関としてはかなり安定した好成績を残していた。

大関陥落~引退[編集]

しかし1984年3月場所からは3場所連続で1桁勝ち星が続いてからは、調子が下降線をたどり始める。1984年9月場所千秋楽、最後まで多賀竜と平幕優勝を争った小錦に対して、2分を超える大相撲の末勝利し4場所ぶりの2桁勝利となる10勝5敗。翌11月場所も10勝を挙げたが、これが自身最後の2桁勝利となった。

1985年1月場所では、7勝7敗で迎えた千秋楽で大関朝潮を下して8勝7敗とようやく勝ち越し。だが翌3月場所、6日目まで5勝1敗と好調も7日目から千秋楽まで9連敗を喫し、5勝10敗で自身初の大関皆勤負け越しとなる。これで平幕時代の1981年1月場所から続いた、連続勝ち越し記録も25場所でストップに。初の大関角番で迎えた翌5月場所では、6日目の大錦戦で敗れた際、右膝外側側副靱帯損傷・右腓骨頭剥離骨折により翌7日目から途中休場、2場所連続負け越しで大関陥落が決まってしまう。

関脇に下がった7月場所は公傷全休。さらに9月場所もけがの回復が遅れ全休、10勝以上で大関特例復帰だったがそのチャンスも失った。11月場所では東前頭10枚目まで番付が降下。この場所再起を掛けて土俵に上がるも、初日三杉磯、2日目霧島、3日目寺尾と3連敗して引退を発表。たび重なる左ひざの大ケガを乗り越えてきた琴風だったが、結果的に良かったほうの右ひざまで故障してしまったのが致命傷となり28歳の若さで引退となった。

引退後[編集]

引退後は年寄・尾車を襲名し、佐渡ヶ嶽部屋から独立する形で1987年3月に尾車部屋を設立した。以降、豪風嘉風などの関取を育てるとともに、2005年4月には押尾川親方(元大関大麒麟)が部屋経営を断念したため押尾川部屋を引き取った。2009年1月に所属関取である若麒麟(押尾川部屋からの移籍組)の大麻所持事件により委員から平年寄への二階級降格の処分を受けた。これに際して部屋の閉鎖も考えていたが、嘉風ら部屋の力士から「自分にとっての師匠は親方だけです。親方が部屋を畳むのなら自分も引退します」と諭され翻意した。取的や裏方衆にまで土下座して謝罪したという。

2010年の改選で委員に復帰するが、2011年大相撲八百長問題に関与したとされる弟子の星風が4月14日に解雇された責任で再び主任に降格した。なお尾車は星風が引退勧告処分になる前に「これだけ騒がれれば、どちらにしても相撲は取れない」と調査委員会の決定に関わらず、星風を引退させる意向であった[2]

2012年の理事改選で日本相撲協会の理事に初当選し、巡業部長に就任。しかし、同年4月4日小浜市で行われていた春巡業の会場内で転倒した際に古傷がある頚髄を捻挫して緊急入院し、同月11日に手術。一時は首から下が麻痺して寝たきりの状態だったが、9月に公の場に姿を見せるようになり、11月11日に退院、14日から職場復帰している。[3][4][5]2013年春巡業を以って1年ぶりに巡業の職務に復帰し、しばらくは会場の隅でイスに座って稽古を観察する形で職務を行い、同年秋巡業からは怪我が十分に回復したため通常通り土俵下で指導するようになった。[6]後の話によると件の怪我は頸髄の4番から3番が損傷した上に2番にも傷が付いていたといい、「本来ならば呼吸器をつけて寝たきり」だったという。だが当時存命であり同じ病院に入院中であった大鵬が車椅子に乗ってリハビリ病棟へ見舞いに訪れたことをはじめとして多くの相撲人から激励の数々を受け、キャビンアテンダントとして大切な訓練を行っていた娘が3か月の介護休暇を取ってリハビリの支援を行うなどの助力があって復帰を遂げた。[7][8]

エピソード[編集]

幕下まで陥落した時、周囲は「怪我で番付を落としたのだから(しかも前に痛めた箇所の再発という理由で公傷制度の適用が認められなかった)本来幕下以下の力士に命じられる部屋の雑用はやらなくて良い」としたが、琴風は「自分は幕下の力士だから」と他の力士同様に十両に復帰するまで雑用をこなしていた。琴風自身も「今までは勝負に勝つことにしか意義を見出せなかったが、膝のケガをしてからは相撲を取ることそのものに意義を感じられるようになった」と心境の変化があったことをインタビューで語っている。

がぶり寄り[編集]

その代名詞とも言えるがぶり寄りは下半身が硬い琴風にとって必要に迫られた技でもあったが、上位力士にとっても侮れないものがあった。琴風の体型が相手の懐に飛び込みひたすら前に出るには理想的であったこと、土俵際で投げを打たれにくいなど、相手の変化に影響されにくい利点があった。全盛期の横綱北の湖からの初勝利の時、初優勝の場所で横綱2代若乃花を下した一番でも、このがぶり寄りが大いなる武器となった。しかし、琴風は膝の怪我に悩まされており、全身をバネにする技だけに、がぶり寄りが与える膝への負荷が小さくなかったのも事実であった。

対戦[編集]

琴風が活躍した時代には様々な強豪がいたが、琴風は下位力士に強く、上位との対戦を多少強いられても十分勝ち越す実力があった。ライバルには朝潮(16勝10敗)、北天佑(12勝12敗)などがおり、若嶋津隆の里との対戦は琴風が大きく勝ち越すなど(対若嶋津:16勝7敗、対隆の里:18勝13敗)上位にも通用する強さがあった(但し、隆の里との対戦で分が良かったのは優勝をした1983年1月場所までであり、この時点で17勝4敗だったが、1983年3月場所以降は1勝9敗とほとんど勝てなくなってしまった)。一方、北の湖には3勝20敗と大きく負け越し。この3勝は平幕時代に挙げた金星であり、大関昇進後は全く勝てなくなってしまった。千代の富士に対しては初顔合わせから5連勝していたが、千代の富士が琴風対策を練るために佐渡ヶ嶽部屋に出稽古に来るようになり、6度目の対戦で千代の富士に初黒星を喫して以降は力関係が逆転して全く勝てなくなってしまった(通算で琴風の6勝22敗。特に千代の富士の大関昇進後は琴風が2度目の優勝を飾った1983年1月場所での1勝のみ)。なお、琴風と千代の富士の三番稽古は千代の富士の横綱昇進後も3年ほど続き、琴風にとっても地力強化をもたらす貴重な財産となった。1984年から引退する1985年まではあまり目立った活躍とは言えなかったが、蔵前国技館で行われる最後の場所となった1984年9月場所では、入幕2場所目ながら「殺人突っ張り」で上位陣を次々と破る大活躍を見せていた小錦千秋楽で打ち負かした。

安定した成績[編集]

琴風の安定した成績を表すものとして大関時代の通算成績(212勝110敗8休)がある。在位年数こそ3年半余と決して長いとは言えないものの、勝率(.658)に換算すれば1場所15日制が制定された1949年5月場所以降に昇進した最高位が大関の力士の中では最も高く、1983年1月の2日目から1983年3月場所の7日目にかけて記録した21連勝は、年6場所制になって以降に横綱経験者を除いた力士が記録した中での最高連勝記録となった。大関在位中は皆勤を続けて、在位21場所目の1985年3月場所に5勝10敗と大関の地位で初めて負け越した。自身初かつ唯一の角番となった翌5月場所に大関時代初の休場を経験して大関を陥落した。在位22場所中、1982年11月場所から1984年1月場所にかけての8場所連続を含む13場所で二桁勝利をあげている。自身は「(大関として)9勝6敗でも申し訳なくて、角番なんかとんでもなかった」と後に語っている(サンケイスポーツ2009年9月22日)。下位力士に対する取りこぼしが少なく上位にも充分に通用していたことがこの数字に繋がった。現在でも「琴風の綱姿を見たかった」と話すファンがいる。  その後、2013年9月場所で引退した元大関把瑠都が在位は15場所と短いながら、133勝69敗23休で勝率.658と琴風に並ぶ大関勝率を残した(厳密には琴風は.65839、把瑠都は.65842)。皮肉にも両者はケガが原因で大関から陥落した点、それからまもなくケガで大きく番付を下げて若くしての引退を余儀なくされた点(琴風は28歳7か月、把瑠都は28歳10か月)で共通している。

その他[編集]

  • 生まれてすぐに黄疸にかかり命が危なくなったことがあったという。
  • 学生時代には、体育系を除く教科で優れた成績を残し、教師を目指していたという。
    • 琴風は中学生時代から土俵に上がっていたが、学期末に持ち帰る通知表に五段階評価の「5」が多く、保健体育以外の教科全てが「5」の評価だった学期もあった。しかし、当時子供のいなかった元横綱琴櫻の12代佐渡ヶ嶽親方は、冗談好きの弟子から「『1』の評価が最良で、『5』の評価は最悪ですよ」(本当は逆)と教えられたのを真に受けて、「琴風は気の毒に…相撲を取っているから学業成績が非常に悪いんだ」と嘆いていたという。
    • インタビューでの話し方も知性を感じさせる独特なものがあったが、これが好評で現在でもしばしばテレビの解説で活躍する姿が見られる。
  • 審判部からの誘いが持ち掛けられ審判委員も務めたことがあるが(1992年)、現役時代からの膝の故障により長時間座れないことを理由に短期間で断わっている。
  • サンデースポーツの解説担当時には、当時の司会者・原辰徳とアクション解説をする等の掛け合いが話題になった。
  • プロボクサー亀田興毅の名である興毅は琴風豪規の豪規からきており、父・亀田史郎が多少編集してつけたとされる。父・史郎は、琴風のファンである。
  • 切手収集が趣味。子供の頃から熱心に収集し、珍しい切手も多数所有していたが、膝の怪我で幕下まで陥落した際、治療費に当てるために泣く泣く売り払った。後に「大切にしていた物であり思い出も多く大変迷ったが、相撲のほうがより大切だったので売却を決断した」と語っている。関取に復帰してから再び収集するようになり、現在も切手収集家である。
  • 豪風に対しては30過ぎても現役を続けられていることからほとんど指導することがないと語っている。

主な成績[編集]

  • 通算成績:561勝352敗102休 勝率.614
  • 幕内成績:395勝249敗80休 勝率.613
  • 大関成績:212勝110敗8休 勝率.658
  • 現役在位:87場所
  • 幕内在位:49場所
  • 大関在位:22場所
  • 三役在位:11場所 (関脇10場所,小結1場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(大鵬と並び歴代10位タイ・1981年1月場所~1985年1月場所)
  • 幕内2桁連続勝利記録:8場所(1982年11月場所~1984年1月場所)
  • 三賞:6回
    • 殊勲賞:3回 (1977年11月場所,1978年5月場所,1980年5月場所)
    • 技能賞:1回 (1981年9月場所)
    • 敢闘賞:2回 (1980年1月場所,1980年3月場所)
  • 金星:6個(北の湖3個、輪島2個、2代若乃花1個)
  • 連勝記録:21(1983年1月場所2日目-1983年3月場所7日目)
  • 各段優勝
    • 幕内最高優勝:2回(1981年9月場所、1983年1月場所)
    • 十両優勝:1回(1979年11月場所)
    • 幕下優勝:1回(1979年9月場所)

場所別成績[編集]

琴風豪規
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1971年
(昭和46年)
x x x (前相撲) 西 序ノ口 #9
3–4
 
東 序二段 #97
3–1
 
1972年
(昭和47年)
西 序二段 #59
1–2
 
西 序二段 #77

 
西 序二段 #77
2–1
 
東 序二段 #47

 
東 序二段 #46
1–2
 
東 序二段 #54

 
1973年
(昭和48年)
東 序二段 #54
3–0
 
西 序二段 #19
3–4
 
東 序二段 #32
6–1
 
東 三段目 #69
4–3
 
西 三段目 #52
5–2
 
東 三段目 #24
5–2
 
1974年
(昭和49年)
東 三段目 #1
3–4
 
東 三段目 #10
4–3
 
東 幕下 #57
3–4
 
西 三段目 #8
3–4
 
東 三段目 #18
5–2
 
東 幕下 #54
5–2
 
1975年
(昭和50年)
西 幕下 #31
4–3
 
東 幕下 #25
6–1
 
西 幕下 #8
5–2
 
西 幕下 #2
4–3
 
西 幕下 #1
5–2
 
西 十両 #12
8–7
 
1976年
(昭和51年)
東 十両 #9
8–7
 
西 十両 #7
9–6
 
西 十両 #2
5–10
 
西 十両 #7
8–7
 
東 十両 #7
9–6
 
東 十両 #1
9–6
 
1977年
(昭和52年)
西 前頭 #11
8–7
 
東 前頭 #6
9–6
 
東 前頭 #1
5–10
 
西 前頭 #7
8–7
 
東 前頭 #5
8–7
 
東 前頭 #1
10–5
1978年
(昭和53年)
西 関脇
5–10
 
東 前頭 #3
6–9
西 前頭 #6
12–3
西 関脇
7–8
 
西 小結
7–8
 
西 前頭 #1
0–3–12[9]
 
1979年
(昭和54年)
東 前頭 #13
3–2–10[10]
 
西 十両 #7
休場
0–0–15
西 幕下 #5
休場
0–0–7
西 幕下 #30
6–1
 
西 幕下 #8
優勝
7–0
西 十両 #11
優勝
14–1
1980年
(昭和55年)
西 前頭 #14
12–3
東 前頭 #1
10–5
西 関脇
10–5
東 関脇
6–4–5[11]
 
西 前頭 #2
休場[12]
0–0–15
西 前頭 #2
7–8
1981年
(昭和56年)
西 前頭 #3
10–5
西 関脇
9–6
 
西 関脇
9–6
 
東 関脇
10–5
 
東 関脇
12–3
東 大関
11–4
 
1982年
(昭和57年)
東 大関
10–5
 
東 大関
9–6
 
西 大関
9–6
 
西 大関
11–4
 
東 大関
9–6
 
西 大関
10–5
 
1983年
(昭和58年)
西 大関
14–1[13]
 
東 大関
11–4
 
西 大関
11–4
 
西 張出大関
12–3
 
東 大関
11–4
 
西 大関
11–4
 
1984年
(昭和59年)
西 大関
11–4
 
西 大関
9–6
 
東 張出大関
9–6
 
西 張出大関
8–7
 
西 張出大関
10–5
 
東 張出大関
10–5
 
1985年
(昭和60年)
東 張出大関
8–7
 
西 張出大関
5–10
 
西 張出大関
3–4–8[14][15]
 
西 張出関脇
休場[16][12]
0–0–15
東 張出関脇
休場
0–0–15
東 前頭 #10
引退
0–4–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 中学生が授業を長期間休んで本場所に出場することが国会で問題となり1971年11月場所8日目に帰京。1972年1月から1973年1月までは中学生だったので東京場所の日曜日(初日、8日目、千秋楽)のみ出場。

レコード[編集]

  • 「まわり道/酒季の歌」(1982年10月)
    • 50万枚のセールスを記録
  • 「東京たずね人」(1983年11月)
  • 「東京めぐり愛/伊勢に帰ろう」(デュエット:石川さゆり、1984年8月)
  • 「東京かくれんぼ/東京たずね人/東京めぐり愛」三部作(琴風豪規&石川さゆり)

著書[編集]

  • 中山浩一『琴風の礼儀入門 キミはガタガタ言いすぎる』情報センター出版局 1986
  • 尾車浩一『人生8勝7敗 最後に勝てばよい』潮出版社 2013

脚注[編集]

  1. ^ 津市立高茶屋小学校"夢をかなえた先輩たち"2012年12月4日更新(2013年7月21日閲覧。)
  2. ^ 星風、引退へ=師匠が意向表明-大相撲八百長問題 時事ドットコム 2011年4月10日
  3. ^ 尾車親方が緊急入院 転倒し「頸髄捻挫」 スポニチアネックス 2012年11月10日閲覧
  4. ^ 不屈の琴風=大けが乗り越え職場へ-大相撲 時事ドットコム 2012年11月10日閲覧
  5. ^ 尾車親方「奇跡的」復帰、頸髄捻挫重傷から「土俵に戻る」 スポーツ報知 2012年11月10日閲覧
  6. ^ 『相撲』2013年11月号10頁
  7. ^ 『大相撲ジャーナル』2014年4月号98頁から99頁
  8. ^ 頸髄損傷、あきらめない人生 尾車親方が語る (2/2ページ) 2014/1/18 2:00
  9. ^ 左膝内側側副靱帯断裂により3日目から途中休場
  10. ^ 左膝内側側副靱帯断裂により5日目から途中休場
  11. ^ 左膝内側側副靱帯断裂・左膝半月板損傷・左腰部挫傷により10日目から途中休場
  12. ^ a b 公傷
  13. ^ 4代・朝潮と優勝決定戦
  14. ^ 角番
  15. ^ 右膝外側側副靱帯損傷・右腓骨頭剥離骨折により7日目から途中休場
  16. ^ 関脇陥落

関連項目[編集]