常ノ花寛市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
常ノ花 寛市 Sumo pictogram.svg
Tsunenohana.jpg
基礎情報
四股名 常ノ花 寛市
本名 山野辺 寛一
生年月日 1896年11月23日
没年月日 1960年11月28日(満64歳没)
出身 岡山県岡山市
身長 178cm
体重 112kg
所属部屋 出羽ノ海部屋
得意技 突っ張り・右四つ・寄り・上手投げ
成績
最高位 第31代横綱
生涯戦歴 263勝81敗66休8分10預
幕内戦歴 221勝58敗66休8分6預
優勝 幕内最高優勝:10回
十両優勝:1回
データ
初土俵 1910年1月場所
入幕 1917年5月場所
引退 1930年10月場所
引退後 出羽海部屋師匠
日本相撲協会2代目理事長
備考
2009年8月26日現在

常ノ花 寛市(つねのはな かんいち、1896年11月23日 - 1960年11月28日)は、岡山県岡山市出身で出羽ノ海部屋所属の元大相撲力士、第31代横綱。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。現役時代の体格は身長178cm、体重112kg。

目次

[編集] 来歴

[編集] 現役力士時代

利発な少年で、12歳のときに大阪であった大火の被災者支援のために子ども相撲大会を企画し、純益を義援金として送ったという。これを知った陸軍第17師団一戸兵衛常陸山に紹介、13歳で出羽ノ海部屋に入門、1910年明治43年)1月場所に初土俵を踏む。前日に入門していた大錦卯一郎とは番付の上では同期生となる。

決して力が強いわけではなく、また栃木山よりは重いとは言っても細くて軽いので、1917年大正6年)5月場所の新入幕当時は横綱を期待した者は少なかったという。しかし生来の負けん気の強さから稽古熱心、数多くの稽古相手という恵まれた環境に加えて、師匠常陸山の熱心な指導で順調に出世した。

1920年(大正9年)5月場所に新大関、この場所は負傷により全休だったが翌場所9勝1敗、次が10戦全勝(初優勝)で成績を見れば当然横綱だった。しかし大錦と栃木山がいて上がれず横綱は敵方の源氏山(3代西ノ海)に先を越された。1924年(大正13年)5月場所で新横綱、1926年(大正15年)1月場所には2度目の全勝を達成した。

大坂相撲との合併後は1927年昭和2年)1月場所こそ不調で大坂から編入した宮城山に優勝をさらわれたが3月場所、5月場所、10月場所といずれも10勝1敗で3連覇、1928年(昭和3年)5月場所には3度目の全勝で第一人者の地位を不動のものとした。

右差し得意の速攻相撲で猛突っ張りもあり、櫓投げを得意とするなど取り口は派手なものであった。「うっちゃり」の吉野山を苦手とし、1927年1月場所、一気に押し出されたのをはじめ、1928年10月場所と1929年(昭和4年)1月場所はいずれもうっちゃりで連敗している。

優勝10回、うち3回が全勝、昭和に入って年4場所に増えたことも関係するが初めて優勝回数を2桁に乗せた力士だった。しかし、当時年2回あった関西場所での最高成績力士には優勝額贈呈が行われなかったこともあって、4回は後年の追認による(賜杯は東京場所と同様に贈呈されていた)。そのため当時は新記録として認識されず、後に双葉山が10回目の優勝を果たした時には、タイ記録ではなく太刀山、栃木山の9回を抜く新記録と報じられた。

1929年(昭和4年)9月場所には優勝したが、8勝3敗の成績で「3つも負けた者に天皇賜杯とは不敬」とする声が上がった。このため「3敗以上した場合はたとえ優勝しても賜杯贈呈はしない」と規定が改定されるに至った。このためかこれ以後は1950年(昭和25年)1月場所に大関千代ノ山が12勝3敗で優勝するまで3敗の優勝者は出ていない。15日制以降では勝ち越し5点(10勝5敗)での幕内最高優勝は2009年7月場所までの時点では出ていない。また、15日制における最低成績での幕内最高優勝は1972年(昭和47年)1月場所に栃東1996年平成8年)11月場所に武蔵丸が記録した11勝4敗だが、勝率で換算すると8勝3敗(0.727)は11勝4敗(0.733)よりやや下となり、優勝の最低勝率記録ということになる。

[編集] 年寄、理事長時代

1930年(昭和5年)5月場所途中で突如引退、年寄藤嶌を襲名した。引退してすぐの頃講談社から優勝した力士に銀杯を贈りたいと申し出があった。当初協会はこれを断ろうとしたが彼はこれに目をつけ周囲を説得、申し出を受けることが決定した。引退にあたりNHKの相撲中継で知られた松内則三は「いつまでも ふくいくと咲け 常ノ花」と詠んだ。

理事となり1932年(昭和7年)1月に起こった「春秋園事件」では協会の使者として春日野とともに天竜らの説得にあたるなど、事件の収拾に当たった。事件後出羽海入間川高砂の3取締が引責辞任した後を受け、春日野、立浪錦島とともに取締に就任した。1944年(昭和19年)、相撲協会の第2代目理事長に就任、これは元力士としては初のことであった。1949年(昭和24年)には出羽海を継承し蔵前国技館を建設するなど大相撲復興の基盤を築いた。1956年(昭和31年)、蔵前国技館で赤い綱を締めて露払千代の山、太刀持時津風を従えて還暦土俵入りを行なった。またこの時、平櫛田中による彫刻が作られている。

ところが1957年(昭和32年)3月に国会で相撲協会のあり方について問われると、強い責任感から5月4日、国技館内で鎧通しを用い腹と首を割り、ガスも使って自殺を図った。発見が早かったため一命は取り留めたが、これを重く受け止めた協会は急遽出羽海を理事長から降ろして後任を時津風と決め、出羽海は相談役となった。のちも協会内に隠然たる勢力を持ちつつ、部屋の力士の養成に注力したが、1960年(昭和35年)11月28日、11月場所千秋楽の翌日、停年制実施を前に二日市温泉の旅館で、胃潰瘍のため急逝。64歳だった。勲三等瑞宝章が追贈され、12月26日、盛大な協会葬をもって送られた。

師匠の常陸山は彼に大変大きな期待をかけていたようであり、それを物語る逸話がある。ある日常陸山は常ノ花を呼ぶと愛用のステッキを出して「いつかこれをおまえに譲りたい、でも横綱になるまではやらんぞ」と言ったそうである。これは常ノ花を横綱になれる男だと見込んで出世を大いに楽しみにしていたとともに、将来は部屋を継承してほしいと考えていたと推測できる。常ノ花は常陸山が亡くなってから横綱になったため本当に譲り受けたかどうかは不明だが、出羽海は継承しているため、その点では常陸山の願いは叶えられたことになる。

[編集] 人物

「相撲往来」「力士時代の思ひ出」「近代力士生活物語」「私の相撲自傳」「近世大関物語」など多数の著作がある。達筆でも知られた。亡くなる間際に後継者として九重親方(千代の山)を指名する遺言を遺したとされたが確証がなく、元出羽ノ花の武藏川親方が継承。これが後の九重独立騒動につながった。そのためか遺族は九重を支持していた。戦中戦後の困難な時代に辣腕を振るい、協会の発展に尽力した反面、その独裁的な傾向を誹謗する者も少なくなかった。

死因は胃潰瘍と発表されたが、実際にはフグ中毒であったと言われる[要出典]

[編集] 主な成績

  • 幕内在位:34場所(うち横綱20場所、大関8場所、関脇3場所)
  • 幕内通算成績:221勝58敗8分6預68休 勝率.792
  • 横綱通算成績:131勝31敗3分1預54休 勝率.809
  • 幕内最高優勝:10回(全勝3回)

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語