雲龍久吉

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雲龍 久吉 Sumo pictogram.svg
Kunisada II Unryu 1864.jpg
雲龍久吉
基礎情報
四股名 雲龍 久吉
本名 塩塚 久吉→佐藤 喜太郎
愛称 幕末四強
生年月日 1823年
没年月日 1890年6月15日
出身 筑後国山門郡大和村
(現:福岡県柳川市
身長 179cm
体重 135kg
所属部屋 陣幕部屋(大坂)→追手風部屋
→雷部屋→追手風部屋
得意技 寄り
成績
現在の番付 引退
最高位 第10代横綱
幕内戦歴 127勝32敗15分5預55休
優勝 優勝相当成績7回
データ
初土俵 1848年11月場所(二段目)
入幕 1853年2月場所
引退 1865年2月場所
備考
2013年6月8日現在

雲龍 久吉(うんりゅう きゅうきち(ひさきち)、1823年文政6年) - 1890年明治23年)6月15日)は、筑後国山門郡大和村(現:福岡県柳川市)出身の元大相撲力士。本名は塩塚 久吉で、のちに佐藤 喜太郎と名乗る。

来歴[編集]

1823年筑後国山門郡で半農半漁を営む家の長男として生まれたが、1835年に大流行した疫病で両親・祖母を相次いで失ったため、生来の怪力を活かして力仕事をこなし、幼い弟と妹を養った。やがて力仕事だけでは養っていけなくなり、土地相撲で頭取を務めていた小櫻(元京都相撲の力士だったと伝わる)、箕嶋に指導を受けた。

やがて、土地相撲から陣幕部屋大坂相撲)に入門したが、1846年に江戸へ出て江戸相撲・追手風の弟子となり、1848年11月場所において幕下二段目付け出しで初土俵を踏むと同時に、柳川藩の抱え力士となる。1853年2月場所で新入幕を果たすと4場所連続で優勝相当成績(8勝1分1休、7勝1敗1分1休、6勝1分1預2休、8勝2休)を挙げるなど順調に出世していき、1858年1月場所で大関へ昇進、1861年9月場所で吉田司家から横綱免許を授与された。

その後は、体力の衰えもあって1865年2月場所を最後に現役を引退した。引退後は年寄・追手風を襲名し、相撲会所の筆頭(ふでがしら、現在の相撲協会理事長)を務め、明治維新後の大相撲復興に手腕を発揮した。1891年6月15日に死去、67歳没。実在性に乏しい初代横綱「明石志賀之助」から、第3代横綱「丸山権太左衛門」を公式横綱に認定したのは、この雲龍であるとされる。雲龍が記した手記によると、第17代横綱「小錦八十吉」までの横綱について記されている。

「雲龍型」の土俵入り[編集]

横綱土俵入りのうち、「不知火型」を考案した人物とされている。これは通説によると「雲龍型と不知火型の名前が途中で入れ替わった」とされているが、雲龍と不知火(第11代横綱・不知火光右衛門)の土俵入りがあまりにも美しかったために後世になって名前のみが残され、正式に型の名前を付ける際によく調査していなかったことから入れ替わってしまった、という見方がある。

実際に雲龍と不知火がどのような型の土俵入りを行っていたかは、後年になって錦絵や写真から判断されている(両手を広げた不知火型で横綱土俵入りを行う雲龍の錦絵が残存していた[1]り、不知火が雲龍型のポーズをとっている写真も現存する)。

主な成績[編集]

  • 通算幕内成績:127勝32敗15分5預55休 勝率.799(26場所)
  • 優勝相当成績:7回

脚注[編集]

関連項目[編集]