三重ノ海剛司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三重ノ海 剛司
四股名 三重ノ海 剛司
本名 石山 五郎
生年月日 1948年2月4日
出身 三重県松阪市
身長 181cm(現役時)
体重 135kg(現役時)
所属部屋 出羽海部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 第57代横綱
生涯戦歴 695勝525敗1分56休
幕内戦歴 543勝413敗1分51休(68場所)
優勝 幕内優勝3回
殊勲賞5回
敢闘賞1回
技能賞3回
データ
初土俵 昭和38年7月場所
入幕 昭和44年9月場所
引退 昭和55年11月場所
備考
金星5個(輪島2、北の湖1、琴櫻1、北の富士1)
2007年3月22日現在
  

三重ノ海 剛司(みえのうみ つよし、本名:石山 五郎(いしやま ごろう)、1948年2月4日 - )は大相撲力士で、第57代横綱三重県松阪市出身。出羽海部屋所属。血液型A。身長181cm、体重135kg。

現役引退後は年寄武蔵川として、部屋を運営する傍ら、日本相撲協会の役員待遇、監事を経て理事に就任。2006年2月より事業部長の要職に就いている。

目次

[編集] 経歴

  • 1963年7月場所:初土俵
  • 1969年3月場所:十両に昇進。
  • 1969年9月場所:新入幕。
  • 1970年7月場所:小結に昇進。2横綱(大鵬玉の海)を破り、8勝7敗と勝ち越して初の三賞(殊勲賞)を受賞。
  • 1970年9月場所:関脇に昇進。
  • 1975年11月場所:初優勝。場所後、大関に昇進。
  • 1976年5月場所:大関で2場所連続負け越したため(途中休場)、大関から関脇へ陥落が決まる。
  • 1976年7月場所:関脇の地位で10勝をあげ、翌場所大関に復帰する。
  • 1979年7月場所後:横綱に昇進。昇進2、3場所目に連続優勝を果たすがその後は怪我・病気などで休場が多く、15日皆勤したのは4場所のみであった。
  • 1980年11月場所:3日目に引退。年寄・山科を襲名(同場所後、武蔵川に名跡変更)。
  • 2007年6月16日:北の富士以来史上8人目となる還暦土俵入りを行った。ちなみに太刀持ち出島露払い雅山と、大関まで進んだ部屋の現役力士が務めた。

[編集] 成績

  • 幕内在位:68場所(横綱在位8場所、ほか大関21場所、関脇12場所、小結3場所)
  • 通算成績:695勝525敗1分56休 勝率.570
  • 幕内成績:543勝413敗1分51休 勝率.568
  • 横綱成績:55勝23敗30休 勝率.705
  • 幕内最高優勝:3回(全勝1回)
  • 三賞:殊勲賞5回、敢闘賞1回、技能賞3回
  • 金星:5個(輪島2、北の湖1、琴櫻1、北の富士1)
  • 各段優勝:三段目1回(1967年9月場所)
  • 連勝記録:24(1979年11月場所8日目~1980年3月場所初日)

[編集] エピソード

  • 戦後の横綱の中で大関時代の勝率は最も低い(.594。180勝123敗12休)。
  • 1972年前半には長谷川貴ノ花・輪島・魁傑らとともに大関候補といわれたが、その頃から肝臓が悪化、一時期幕内中位で低迷した。一旦回復して大関の座をつかんだものの、再び症状が悪化して転落。翌場所で10勝を挙げて復帰したが、しばらくは二ケタ勝利すら挙げられずに苦しい土俵が続いた。大関時代の勝率が低いのはそのためである。
  • それでも症状が改善した1978年ごろから本来の力を出し始め、1979年春から10勝、13勝と挙げて7月場所で14勝の優勝同点。ワンチャンスで最高位をつかんだ。
  • 昇進にあたって入門時の師匠である先代武蔵川の市川國一(元前頭出羽ノ花)から「一簣功」(いっきのこう)という言葉を贈られた。「九仞の功一簣に欠く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花咲かせてみせよ」という想いがこめられたものだった。三重ノ海はこの言葉に奮起して1979年11月場所と翌1980年1月場所に連続優勝を果たし、特に1月場所は初の全勝優勝だった。彼の三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあり(「一」は露払い、「簣」は横綱、「功」は太刀持ちが着用。文字の筆を執ったのは市川國一本人)、還暦土俵入りでも使用された。
  • 前褌を引いての速攻が得意。ときには張り差しを見せることもあった。前捌きが非常にうまく、馬力が強いわけでもないのに速い相撲で勝つことから「妖気のただよう」土俵ともいわれた。また同じ出羽海部屋の大先輩で、あの大横綱双葉山を69連勝でストップさせたヒーロー、元横綱の「安藝ノ海二世」と言われた事も有る。
  • 横綱琴櫻には分が良く、対戦成績は11勝7敗。琴櫻が横綱に昇進するまでは9勝4敗であった。
  • 大関時代、全盛期の横綱北の湖に対し奇策猫騙しを敢行したことがある。ただし失敗に終わり敗戦。
  • 横綱土俵入りは雲竜型を選択。土俵入りの指導は、当時の部屋の師匠だった出羽海親方(元横綱・佐田の山)が行った。出羽海一門出身の横綱は総て雲竜型であり、かつ雲竜型は横綱として長く大いに活躍出来ると言われているが、三重ノ海の場合は横綱昇進が既に31歳と高齢だった事もあって、横綱在位場所数はわずか8場所(横綱在位最短記録2位タイ)と短命に終わった。
  • 引退当時の出羽一門にはまだ分家を許さない不文律があったが、三重ノ海については独立を許され、一門内で部屋を立ち上げることができた。出羽海部屋への思いは非常に強かったようで、新築された武蔵川部屋は間取りから内装まで出羽海部屋とそっくりであったという。指導者としては横綱武蔵丸のほか武双山出島雅山の三大関を送り出した。外国人力士に元学生横綱と、たたき上げの日本人力士でなかった点でいま一つ評価が低いが(他に現役力士の小結垣添=学生相撲出身、現前頭=、引退した元小結和歌乃山=「花の六三組」のたたき上げ、現山分親方=も育成)、一時期は角界最多数の関取を擁し一時代を築いた。

[編集] 改名歴

  • 石山 五郎(いしやま ごろう)1963年7月場所-1966年5月場所
  • 三重ノ海 五郎(みえのうみ -)1966年7月場所-1976年7月場所
  • 三重ノ海 剛司(- つよし)1976年9月場所-1980年11月場所

[編集] 年寄変遷

  • 山科 剛史(やましな つよし)1980年11月
  • 武蔵川 晃偉(むさしがわ あきひで)1980年11月-

[編集] 関連項目

先代:
魁傑将晃
大関
(在位:1976年1月-1976年5月)
次代:
旭國斗雄
先代:
旭國斗雄
大関
(在位:1976年9月-1979年7月)
次代:
魁傑将晃(再)
若三杉壽人
先代:
若乃花幹士
第57代横綱
(在位: 1979年9月 - 1980年11月)
次代:
千代の富士貢
執筆の途中です この「三重ノ海剛司」は、相撲に関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
他の言語