高橋尚子

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高橋尚子 Portal:陸上競技
Takahashi Naoko Nagoya Womens Marathon 2008.jpg
選手情報
フルネーム 高橋尚子
愛称 Qちゃん
国籍 日本の旗 日本
種目 マラソン
所属 リクルート(1995年4月 - 1997年3月)
積水化学(1997年4月 - 2003年2月)
スカイネットアジア航空(2003年6月 - 2005年5月)
ファイテン(2005年6月 - 2009年5月)
生年月日 1972年5月6日(42歳)
生誕地 岐阜県岐阜市
身長 163cm
体重 46kg
自己ベスト マラソン:2時間19分46秒(2001年)
 
獲得メダル
陸上競技
オリンピック
2000 シドニー 女子 マラソン
アジア競技大会
1998 バンコク 女子マラソン
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鹿児島県徳之島にある1周31kmのコース「尚子ロード」に建つ石碑。

高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 - )は、日本の元陸上競技選手(女子マラソン)。岐阜県岐阜市出身。シドニーオリンピック金メダリスト[1]。女子マラソンの元世界記録保持者[2]。女子スポーツ界で初の国民栄誉賞を受賞。愛称は「Qちゃん」。現在はスポーツキャスター、マラソン解説者などで活躍している。

来歴

学生時代まで

岐阜県出身。1972年昭和47年)5月6日、父親、母親ともに教育者の家庭に、二人兄妹の妹として生まれる。2歳まで、母の実家のある高山市で過ごした後、岐阜市に移る。中学から陸上競技を始め、岐阜市立藍川東中学校・岐阜県立岐阜商業高等学校大阪学院大学商学部を卒業。

県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県大会で岐阜県1位であったが、全国インターハイでは予選で敗退となった。高校2年生の時に初めて岐阜県代表に選ばれて全国都道府県対抗女子駅伝に出場した。その時の区間順位は47人中45位であった。

大阪学院大学時代は日本学生種目別選手権の1500mで優勝して全国で初タイトル獲得。関西インカレでは中距離2種目で優勝して女子最優秀選手に選出された年もあるなど、800m、1500m、3000mの3種目で何度も優勝しているが、学生日本一を決める大会の日本インカレでは、1993年、1500mで2位、3000mで3位。1994年も1500mで2位、3000mで3位と両種目とも2年連続で同じ順位となり表彰台には上がったが、学生チャンピオンになることはできなかった。しかし、この4年間で高校時代の全国インターハイに出場できるレベルの選手から、学生トップクラスの選手になるまでに成長していた。また、高橋は大阪学院大学陸上競技部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手である。全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍した。

在学中、教師になるために母校、県立岐阜商業高校で教育実習を受けていたが、陸上をもっと続けてみたいという気持ちも強くあった。実業団数社からの勧誘もあり、大学卒業後の自分の進路について、悩むことになる。陸上を続けるなら、勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートの門を何故叩かないのかと高校時代の恩師、県立岐阜商業監督、中澤正仁から助言を受ける。大阪学院大学の監督の計らいで富山インターハイの折に、金沢市内に泊まっていた小出監督と面接ができることになった。社の方針で大卒は採用していないと一度は断られたが、高橋の熱意が届き、夏のリクルート北海道合宿に参加できることになった。その合宿で高橋の走りを見た小出は一目で素質を見抜き、正社員ではなく契約社員という条件ではあるものの、リクルートに入社できることになった。

リクルート時代

1995年リクルートに入社。有森裕子鈴木博美志水見千子五十嵐美紀など日本代表クラスの選手をずらりと揃えていたリクルートチームで駅伝メンバー入りすることが最初の目標であったが、入社1年目から駅伝メンバー入りすることができた。

1997年1月26日大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。この時、小出は各種メディアにイチオシの選手として紹介していた。しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わる。

1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。これにともないチームメンバーとともに積水化学へと移籍することになった。

積水化学時代

1997年8月の世界陸上選手権アテネ大会の女子5000mの代表に選出され出場。予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。また、この世界陸上選手権アテネ大会で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソンで優勝した。 これを沿道で応援していた高橋は鈴木の優勝を喜び感激し、この大会をきっかけとして本格的にマラソンランナーへの道を歩んでいくことになる。

翌年の1998年3月8日名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の合図に、猛烈なスパートを開始、30〜40kmを32分27秒、残り2.195kmを7分10秒で走り、ゴールタイムは2時間25分48秒の日本最高記録(当時)をマークしてマラソン初優勝を果たした。

同年5月のIAAFグランプリ大阪大会の女子5000mで優勝。IAAF国際グランプリシリーズでの優勝は日本女子選手では初めてのことであった。

同年12月6日バンコクアジア大会女子マラソンは、最高気温30度を超す高温多湿のレースとなったが、スタート直後から独り飛び出した高橋は、5kmラップを16分台のスプリットで刻むハイペースで突っ走り、中間点を1時間9分15秒[3] で通過、30kmまでは世界記録を更新するペースで進んでいた。30km以降は17分台のスプリットに落ちたものの、独走状態で2位とは13分以上の差をつけ、ゴール時気温32度、湿度90%の最悪な条件のなか、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝。自身の持つ日本最高記録を4分以上も更新して世界最高記録(当時)まで1分というところまで縮めた。また、女子マラソンがアジア大会で初めの開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となった(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていた)。そして、高橋は一躍シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなる。

1999年8月29日セビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていたが、レース直前に左膝を痛めたため欠場。その後も10月に左腕を骨折したり、翌2月には食あたりによる腹痛を起こして入院するなどアクシデントが続いた。

2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。体調は万全といえる状態では無かったが、前半1時間12分40秒とやや遅いペースで中間点を通過すると、まもなくして22.5km過ぎで一気にペースアップ、後半1時間9分39秒[4] で駆け抜け、2時間22分19秒の大会新記録で優勝。これにより、シドニー五輪代表の切符を獲得となった。

五輪優勝・世界記録達成

同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18km付近で先頭集団を抜け出しスパート、一気に集団がばらける。その後26km辺りからリディア・シモン(ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、スパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。高橋の18kmから常にレースを引っ張る走りは、ゴール後の笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり(戦後初)であるとともに、日本女子陸上界においては史上初であった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイトロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録(当時)である。これらの功績により同年10月30日国民栄誉賞を授与された。

2001年9月30日ベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ(ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。高橋の世界記録樹立での優勝は、女子初のサブ20達成での歴史的事象であるとともに、日本女子マラソンが初めて世界記録を更新した瞬間でもあった。高橋は女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手である。また、女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・ベノイトのみいるが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は高橋のみである。

2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。このレースは通常より1ヵ月間短いマラソン練習で臨み、レース途中に足の肉刺を潰すアクシデントもあったが、2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。この試みはベルリン出走からわずか1か月半後の2002年11月17日東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいたためであった。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かないため診断した結果、肋骨疲労骨折を起こしていることが判明し欠場。このため、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003年パリ世界陸上は断念することになった。

2002年12月に小出が積水化学を退社。今までと同じ小出指導体制を継続するには諸々の事情で退社するしかなく、2003年2月に積水化学を退社することになった。

スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代

2003年6月、スカイネットアジア航空2005年5月までの2年間の所属契約を結んだ。佐倉アスリート倶楽部で引き続き小出の指導を受ける。

2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年アテネオリンピック代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10度高い、季節はずれの気温24〜25度の高温と風速3〜6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自らが飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速する。39km地点でエルフェネッシュ・アレム(エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したもののゴールタイムは2時間27分21秒で2位。6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなった。

その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。代表は2004年3月15日、午後3時に正式発表。テレビでは午後2時に高橋落選を速報テロップで流し、ある新聞の夕刊の一面では「Qちゃん五輪代表へ」と結果的に誤報を伝えたほど混迷していた。選考はコース・気象条件なども異なる東京・大阪・名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず(3名枠のうち、前年8月の世界陸上選手権で2位になった野口みずきは内定済)、結局高橋は、優勝できなかったこと、ゴールタイムやレース内容も悪かったことなどの理由で落選(日本陸連の選考)。五輪連覇の夢は潰えた。しかし、高橋はシドニー五輪以降も世界記録を樹立するなど、毎年高いレベルの記録で優勝している実績があり、この結果は賛否両論で大きな騒動となった。NHKや民放各局は高橋と小出監督の会見を生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は高橋落選を一面トップで伝えた。

2004年5月に秋のマラソンで自己記録更新を目指しアメリカボルダーに合宿のため渡米したが、6月の練習中に転倒して胸を強打する。その後も度重なる怪我により秋のマラソン出場は断念。さらに同年10月には練習中に足首を捻り右足首を骨折した。

2005年5月9日、小出監督指導体制から独立することを発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。高橋はこのとき33歳であった。

ファイテン(チームQ)~現役引退 

2005年6月、ファイテン2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。

2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。アメリカ・ボルダーから帰国後、ポイント練習で右足に痛みがはしり一時全く走れない状態になったため、順天堂大学で診断した結果、軽い肉離れが3か所あることが判明し全治1か月の診断が下された。医師やチームのメンバーは欠場を検討したが、高橋は何が何でも出場すると主張し、医師とチームのメンバーは痛みが悪化したらすぐ棄権するのを条件に出場を決断した。当日はテーピングをしての出走となり、終盤35km過ぎまでは様子をみながら自重していたが、35.7km過ぎにスパート、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどを置き去りにして独走となり2時間24分39秒でゴール。2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾った。

2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場。31km付近で優勝した土佐礼子から遅れ、39km地点では尾崎朱美にもかわされ3位でのゴールとなった。2007年8月1日アメリカボルダーで、右関節の半月板を半分切除する内視鏡手術を受ける。 2008年3月9日の名古屋国際女子マラソンに2008年北京オリンピック女子マラソン代表選出を目指して出場したが、結果は27位、ゴールタイムは自己ワーストの記録となり北京オリンピック代表の座を逃した。

2008年3月24日に東京、大阪、名古屋の国内3大国際女子マラソンに連続で出場する意向を表明して、同年5月にアメリカ・ボルダーに合宿のため渡米。小さな大会ながらも優勝をかさねていて合宿は順調との報道もされていた[5]。しかし、練習を積み重ねていく中で、それまでと違い大きな大会で優勝を狙う練習メニューがこなせなくなり、プロ高橋の走りができなくなったことなどを大きな理由として、2008年10月28日夕方の記者会見で現役からの引退を表明[6]。各テレビ局は引退会見を生放送で伝えた。1時間近くにわたる引退会見での高橋は終始笑顔を見せていたが、会見の終了直後に報道陣から大きな拍手が送られると、目に涙を浮かべていた。

2009年3月8日の名古屋国際女子マラソンに、これまで応援してくれたファンや関係者に感謝する意味を込めて「ありがとうラン」として一般参加で出場。沿道の観客に笑顔を浮かべ手を振りながら走り続け、2時間52分23秒のタイムで完走した。ゴール後、かつてのライバルだったリディア・シモンが近づいてきて抱擁しあい、日本の現役選手からは花束を贈られ、長年の功績へのねぎらいを受けた。また大会組織委員会からは特別功労者表彰され感謝状が贈られた。

現在の活動

現在は日本陸上競技連盟理事[[7]スポーツキャスター、マラソン解説者。中日新聞社客員。大阪学院大学特任教授。JICAオフィシャルサポーター[8]。観光庁ランナーズインフォメーション研究所所長[9]

各地で陸上教室の開催やジョガーとしてマラソン大会に参加、web上でもランニングスクールの講師を務めている。また、2010年春から北海道伊達市(旧・大滝村)で、のぐち北湯沢ファーム内にある「Qちゃんファーム」で野菜作りにも取り組んでいる。

また、「子どもたちに笑顔のシューズを贈ろう」を合言葉に、子どもたちのサイズに合わなくなった中古のシューズを集めて、裸足や裸足に近い状態での生活を余儀なくされている途上国の子どもたちに寄贈して、寄贈した日本の子どもたちには「ひまわりの種」が途上国の子どもたちから贈られるというプロジェクト、「スマイル・アフリカ・プロジェクト」の趣旨に賛同してフロントランナーとして参加している。

エピソード

  • 現役時代はピッチ走法のお手本と言える選手で、頭がほとんど上下にぶれず、リズミカルに足が出る走り方が特徴的であった。
  • シドニーオリンピック前に、アメリカ・ボルダーで超高地3500m地点でのトレーニングを行なった。標高3500m地点でのトレーニングは危険ではないかと一部専門家などの指摘もあったが、高橋と監督の小出は自分たちの信念でトレーニングを敢行した。
  • 2000年7月の札幌国際ハーフマラソンにシドニーオリンピックの調整レースとして出場。小出は調整段階での出場に難色を示していたが、高橋がどうしても出場したいと直訴したため、急遽アメリカ・ボルダーから帰国して参加。当時のハーフマラソン世界記録保持者(1時間6分44秒)エレナ・マイヤーを破り優勝。金メダル獲得へとつなげた。
  • 2001年2月、Qちゃんフィーバーは収まらずイベント・表彰などが続き練習不足のなか、また週刊誌などによるいわれのない中傷記事(太りすぎでもう走れないなど)も続くなか、青梅マラソンに出場。30kmレースの日本最高記録(当時)を更新して優勝した。
  • 高橋は2001年秋のベルリンマラソンで世界記録を出したが、その次の週のシカゴマラソンにも出場することを決意していたという。しかし、2週連続フルマラソン出場という挑戦プランを聴いた日本陸連が、出場にストップをかけた。
  • 2002年に出演したNHKの『トップランナー』で、自身のベストレースとして1998年バンコク・アジア大会のレースを挙げた。
  • 2000年9月24日シドニーオリンピック女子マラソン中継は日本時間、早朝6時45分スタートで9時過ぎにはゴールとなったが、テレビ視聴率は平均視聴率40.6%、瞬間最高視聴率59.5%を記録した。この視聴率は女子マラソン史上最高視聴率となっている。また2001年9月30日ベルリンマラソン中継は日本時間、夕方4時スタートで6時20分にはゴールとなったが、テレビ視聴率は平均視聴率36.4%、瞬間最高視聴率53.5%を記録した。この視聴率はオリンピック中継以外では女子マラソン史上最高視聴率となっている。女子マラソン中継全体ではシドニーオリンピック、1996年アトランタオリンピックに次ぐ高視聴率となっている。(数字はいずれもビデオリサーチ調べ 関東地区)。
  • 2000年プロ野球、巨人長嶋茂雄監督・ダイエー(当時)王貞治監督が激突したON対決の日本シリーズ第1戦の東京ドームで始球式を務めた。なお、この年巨人がセ・リーグ優勝を決定したのは、奇しくも高橋がシドニーオリンピック女子マラソンを走ったのと同じ9月24日であった。
  • 出身高校である県立岐阜商業高校の同級生にはプロ野球選手和田一浩中日)がいる。ただ、高橋と和田は高校時代は互いに面識こそあったものの会話したことは一度もなかったという。同高では高橋と和田一浩、さらに同高の先輩に当たる高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼んでいる。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われた。
  • 2008年6月21日エバンス山登山レースに出場。18年ぶりに大会記録を更新して優勝した。エバンス山登山レースとは標高3231mのエコー湖をスタートし、ゴールは標高4348mの山頂で高低差1117m。14.5マイル(約23.3キロ)のコースはひたすら上りというコースでアメリカで最も標高の高い場所で行われるレースである。

マラソン全戦績

年月 大会 順位 記録 備考
1997年1月 大阪国際女子マラソン 7位 2時間31分32秒 初マラソン
1998年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間25分48秒 日本最高記録(当時)
1998年12月 バンコク・アジア大会 優勝 2時間21分47秒 アジア最高記録(世界歴代5位)(当時)・大会最高記録
1999年8月 世界陸上競技選手権セビリア大会 DNS 記録なし 故障により欠場
2000年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間22分19秒 大会記録
2000年9月 シドニーオリンピックOlympic flag.svg 優勝 2時間23分14秒 金メダル獲得・五輪最高記録(当時)
2001年9月 ベルリンマラソン 優勝 2時間19分46秒 世界最高記録(当時)
2002年9月 ベルリンマラソン 優勝 2時間21分49秒 マラソン6連覇(欠場除く)
2003年11月 東京国際女子マラソン 2位 2時間27分21秒
2005年11月 東京国際女子マラソン 優勝 2時間24分39秒
2006年11月 東京国際女子マラソン 3位 2時間31分22秒
2008年3月 名古屋国際女子マラソン 27位 2時間44分18秒 公式上現役最後のレース

座右の銘

「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。」[10]

記念ロード・記念大会

記念ロード

長良川の河川敷に整備された高橋尚子ロード。奥に見える橋が起点となる長良橋
高橋尚子ロードにある靴と足型のモニュメント(岐阜市

記念大会

  • 高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソン(岐阜市)

その他

  • シドニー五輪女子マラソン優勝後のインタビューでは、満面の笑顔を交えながら「すごく楽しい、42キロでした」と語っていた。
  • シドニーオリンピック閉会式で日本選手団の旗手を務めた。
  • スイスローザンヌにあるオリンピック博物館IOCからの要請で寄贈したシドニーオリンピックで使われたシューズのレプリカが展示されている(オリンピック博物館に展示は日本人初)。
  • シドニー五輪後、金メダル効果で、日本のランナーの人口が約200万人増えたといわれている。
  • 愛称の「Qちゃん」は、リクルート陸上部の新入部員歓迎会においてアルミホイルを使ったボディコン風の衣装を着て『オバケのQ太郎』の歌を歌い盛り上がったことに由来するものである[16]。また、このパーティーの際に、オバケのQ太郎の仮装をしていたという話もある。
  • ベルリンマラソンなどで海外でも有名になった頃に海外メディアに『スシターボ』なる奇妙な愛称を付けられたこともあった。
  • 大学時代、グラウンドでの練習後、ほとんど毎日のように大学のジムで夜8時の終了時間までトレーニングしていたことから『ハチコさん』なる愛称を付けられたこともあった。
  • 2003年タイトーPlayStation 2 マラソン育成シミュレーションゲーム小出義雄監修 「高橋尚子のマラソンしようよ!」が発売される。
  • 母のはとこにノーベル化学賞を受賞した白川英樹がいる。
  • モーニング娘。吉澤ひとみとは「遠い親戚」とされるがあまりにも遠いため特に関係はない。
吉澤ひとみの祖父の弟の妻の弟の妻のいとこの娘が高橋尚子である。
  • 2006年11月1日母校、大阪学院大学の特任教授に就任した。

出演

テレビ

ラジオ

CM

著書

関連書籍

受賞

その他、各種受賞多数

関連項目

脚注

  1. ^ 日本女子陸上選手初のオリンピック金メダリスト
  2. ^ 史上初めて女子で2時間20分を突破して世界記録樹立
  3. ^ マラソンの中間点まで1時間9分15秒は日本女子選手最速タイム
  4. ^ マラソンの中間点からの1時間9分39秒は日本女子選手最速タイム
  5. ^ 尚子、米国で極秘3連勝していた - ニッカン
  6. ^ 現役引退を正式発表「陸上人生に悔いなし」引退記者会見要旨
  7. ^ http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/etc/news/20130605-OHT1T00108.htm 高橋尚子さん、理事会初出席で「経験役立てる」] スポーツ報知 2013年6月5日閲覧
  8. ^ http://www.jica.go.jp/topics/2011/20110912_01.html
  9. ^ [1] 産経BIZ Qちゃん所長に「道」の研究所 観光庁が開設 2011年11月4日
  10. ^ 山梨学院大学陸上部監督上田誠仁が部員に語っていた言葉。高校時代の陸上部監督、中澤正仁は山梨学院大学で駅伝メンバーとして活躍。在学中に聞いたこの言葉を、県立岐阜商業の陸上部員達に語り継いだ。
  11. ^ 2000年4月28日 - 鹿児島県徳之島の周回道路が「尚子ロード」と名付けられる。コースは島の北部で天城町と徳之島町にまたがる1周31km。石碑もあり高橋尚子の写真とコース図などが刻み込まれている。
  12. ^ 2001年6月3日 - 岐阜県岐阜市長良川右岸に、ランニングコース「高橋尚子ロード」完成。
  13. ^ 標高約1800mの場所に「飛騨御嶽尚子ボルダーロード」の石碑があり、高低差約200mの約7.6キロのコースである。
  14. ^ 「尚子コース」と「裕子コース」がある。
  15. ^ 小出監督の縁で金メダル獲得後に初めて参加した市民マラソンが花巻市。このとき使われた日居城野陸上競技場を周回する2キロのコースが名付けられた。
  16. ^ メレンゲの気持ち2011年12月3日放送内にて本人が発言(TVでた蔵)高橋尚子略歴、「Qちゃん」の由来は? - スポーツニュース : nikkansports.com:

外部リンク