田中絹代

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たなか きぬよ
田中 絹代
田中 絹代
『人生のお荷物』(1935年)
生年月日 1909年12月29日
没年月日 1977年3月21日(満67歳没)
出生地 日本の旗 日本山口県下関市
死没地 日本の旗 日本東京都文京区本郷
身長 152cm
職業 女優映画監督
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1924年 - 1977年
活動内容 1920年:琵琶少女歌劇に入団
1924年松竹下加茂撮影所に入社
1925年松竹蒲田撮影所に移籍
1949年:日米親善使節として渡米、松竹を退社
1953年:『恋文』で初監督
1966年テレビドラマに初出演
1977年:死去
配偶者 なし
主な作品
映画
愛染かつら
西鶴一代女
雨月物語
楢山節考
サンダカン八番娼館 望郷
テレビドラマ
前略おふくろ様

田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、日本女優映画監督

黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。小津安二郎五所平之助溝口健二成瀬巳喜男清水宏木下惠介ら大物監督に重用され、約260本の作品に出演した。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し[1]、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

1909年(明治42年)11月29日山口県下関市関後地村[2](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女(長男慶介、次男鼎、長女繁子、次女政子(早世)、三女光代、三男晴男、四男祥平、四女絹代)の末娘として生まれる。母の実家・小林家は下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた[3]。久米吉はそこの大番頭であったが、絹代が生まれた頃には呉服商を営み、貸し家を20軒も持っていた[2]1912年(明治45年)1月に久米吉は病死し、その後母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。

6歳の頃、母が共同出資していた実家の兄・小林保太郎の造船事業が次々と失敗したため両家とも倒産してしまう[2]1916年(大正5年)4月、下関市立王江尋常小学校に入学するが、はしかに罹り、ほとんど出席しないまま1学期を終えてしまう[2]。さらに20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪[3]したことで一家は後ろ指を指されることになり、更に経済事情が悪化。ついに一家の生活も行き詰まってしまい、同年9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[2]。ところが、絹代は肺炎に罹り学校へも通えず1年半、療養生活を送った[2]。この間に華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡している[4]

1918年(大正7年)4月、保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、天王寺尋常小学校3年に編入される[2]。幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、授業中に琵琶の教本を読んでいたのが見つかり罰で校庭に立たされ、級友に笑われた恥ずかしさと口惜しさから学校をやめてしまう[2]。翌1920年(大正9年)、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり[5]楽天地の舞台に立つ[6]。そのうち楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激したり、子役の高尾光子に憧れるうちに映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年(大正12年)に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。

映画スターに[編集]

お嬢さん』(1930年)左から岡田時彦田中斎藤達雄

1924年(大正13年)7月、兄が松竹大阪支社で働いていた関係で面接を行い、8月に松竹下加茂撮影所へ入社、母と二人で京都に移住した。10月に野村芳亭監督の時代劇『元禄女』で映画デビュー。同作では腰元役を演じたが、主演の柳さく子と姿恰好が似ていたため、同時に彼女の後姿の代役もこなした[2]。続いて同年公開の清水宏監督『村の牧場』では早くも主役に抜擢された[1]

1925年(大正14年)は清水監督作品2作に助演後、6月の撮影所閉鎖によって松竹蒲田撮影所に移籍。島津保次郎監督の喜活劇『勇敢なる恋』で中浜一三の妹役に抜擢され、以来島津監督の『自然は裁く』『お坊ちゃん』、清水監督の『妖刀』、野村監督の『カラボタン』などに下町娘、村娘、お嬢さん、芸者など、うぶな娘役で出演、時に準主演級の役もついた[2]

1927年(昭和2年)、五所平之助監督の『恥しい夢』で芸者役で主演し、出世作となる。同年7月に八雲恵美子吉川満子岡村文子坂本武松井潤子吉谷久雄横尾泥海男渡辺篤石山竜嗣高松栄子龍田静枝らとともに準幹部に昇格[7][8]。翌1928年(昭和3年)からは牛原虚彦監督・鈴木傳明主演の『彼と田園』『陸の王者』などの青春映画で鈴木の相手役として出演。この年だけでも16本もの作品に出演し、早くも蒲田の大スター・栗島すみ子に迫る人気スターとなり、1929年(昭和4年)1月には幹部に昇進した[2]。この年も牛原・伝明とのトリオで『彼と人生』『大都会 労働篇』に出演したほか、小津安二郎監督の『大学は出たけれど』では可憐な娘を好演。「明るくあたたかく未来をみつめる」という蒲田映画のシンボル的イメージを確立し、栗島を抜いて松竹蒲田の看板スターとなった[2][9]

また、以前から恋愛関係にあった清水監督とは、1927年に城戸四郎の提案で「試験結婚」という形で結婚したが、1929年に離婚した。

1931年(昭和6年)、五所監督による日本初の本格的トーキー映画マダムと女房』に主演。この作品は光喜三子主演で撮影が進んでいたが、彼女が恋愛事件で降板したため五所監督に口説かれ、下関訛りを理由に渋るも五所の窮地に同情して出演[2]し、その甘ったるい声で全国の映画ファンを魅了した。1932年(昭和7年)、野村監督の『金色夜叉』で下加茂の大スター林長二郎と共演、二人による貫一・お宮で評判を呼び、どこの劇場も満員札止めの大盛況となる[2]ほどの人気作となった。ほか、五所監督『伊豆の踊子』『人生のお荷物』、島津監督『春琴抄 お琴と佐助』などに主演していき、トーキー時代も蒲田の看板スターとして在り続けた。1933年(昭和8年)1月に大幹部待遇[10]1935年(昭和10年)に大幹部となった。

1936年(昭和11年)1月15日に撮影所が蒲田から大船に移転してからも、松竹三羽烏上原謙佐野周二佐分利信らを相手役として、次々と作品でヒロインを演じた。特に1938年(昭和13年)に上原と共演した野村浩将監督のメロドラマ愛染かつら』は空前の大ヒットを記録し、その後4本の続編が製作された[1]1940年(昭和15年)には溝口健二監督の『浪花女』に主演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自らも演技に自信を深めた。

戦後の活躍[編集]

おかあさん』(1952年)右。左は香川京子

戦後は引き続き松竹の看板女優として主役の座を守り続け、溝口監督の『夜の女たち』や小津監督の『風の中の牝鶏』では汚れ役も演じた。1947年(昭和22年)と1948年(昭和23年)に毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。

1949年(昭和24年)10月、日米親善使節として渡米。ベティ・デイヴィスシルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影などを見学して、翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した[11]。出発時は豪華な古代ものを使った小袖姿[12]だったが、帰国時は茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発[13][14]。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」(アメリカで小便をしてきただけで (短い滞在期間の意味) 、安易にアメリカ文化に感化された)などと形容された。「銃後を守る気丈な日本女性」[15]のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになり、それ以降自殺を考えるほどのスランプに陥いった[11][16]

渡米を機に松竹を退社していたが、帰国してまず最初に新東宝で小津監督の『宗方姉妹』に出演することになり、同時に木下惠介監督の『婚約指環』を撮影。公開は撮影期間の都合で前者が8月、後者が7月となった[2]。しかし、両作とも不評で、とくに後者は三船敏郎と恋人役を演じたが、それが「老醜」とまで酷評[17]された。1951年(昭和26年)には映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った[16]。ファンレターが1通も来なくなったと漏らしていたという[18]

1952年(昭和27年)、田中と同じくスランプに遭っていた溝口監督による『西鶴一代女』に主演、御殿女中から様々な運命をたどり、ついには街娼となって老醜をさらけ出すという女の一生を演じる。作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、田中は一世一代の名演を披露、女優として完全復活を果たした[17]。同時に溝口もスランプから脱することに成功し、翌1953年(昭和28年)には同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。

『恋文』をロケーション中の田中

同年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表。相談相手の成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』に監督見習いとして加わり、成瀬監督自身から手ほどきを受けた。そして12月に『恋文』を公開、日本で二人目の女性監督の誕生となった[注釈 1]1954年(昭和29年)に溝口の『山椒大夫』と『噂の女』に出演したが、同年7月に監督2作目の『月は上りぬ』の製作を小津安二郎から推薦される。しかし、五社協定に加盟していない日活での製作のため、日本映画監督協会理事長である溝口に反対される。田中は小津の協力で映画を完成させたが、これが原因で溝口との関係を疎遠なものにしてしまう[19]

その後は主演作こそ少なくなるものの、成瀬監督の『流れる』、家城巳代治監督の『異母兄弟』などに重要な役で出演、1958年(昭和33年)公開の木下監督『楢山節考』では自分の差し歯4本を抜いて老婆を演じ[13]キネマ旬報賞女優賞を受賞。それ以降は脇役に回り、小津監督の『彼岸花』や市川崑監督の『おとうと』などで母親役を好演。一方、映画監督としては京マチ子主演の『流転の王妃』など5本発表している。

1965年(昭和40年)、黒澤明監督の『赤ひげ』に出演した後、パーキンソン病に罹った兄の看護に専念し、仕事を断るようになった[2]1970年(昭和45年)、紫綬褒章を受章。

同年にNHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』に出演、以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や連続テレビ小説雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。

1974年(昭和49年)、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞芸術選奨文部大臣賞などを受賞した。

1977年(昭和52年)1月12日脳腫瘍順天堂病院に入院するが、3月21日午後2時15分に死去[20]。67歳没。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』[注釈 2]。同年3月31日築地本願寺で映画放送人葬が行われ、又従弟小林正樹が喪主、城戸四郎が葬儀委員長を務めた[21]。約2千人ものファンが参列し、みな焼香台の上に100円玉を置いていったという[22]法名は迦陵院釋絹芳。

没後[編集]

墓所は下関市の下関中央霊園にあり、1979年(昭和54年)の三回忌に小林正樹によって、神奈川県鎌倉市円覚寺にも墓が建立されて分骨された。小林も同じ墓に納骨されている[23]

1985年(昭和60年)、小林により毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合

1986年(昭和61年)、新藤兼人が『小説 田中絹代』を週刊読売に連載され、翌1987年(昭和62年)にこれを原作に、市川崑監督・吉永小百合主演で『映画女優』として映画化された。

2000年(平成12年)、『キネマ旬報』発表の「キネマ旬報20世紀の映画スター」で、著名人選出日本人女優部門で第5位、読者選出日本人女優部門で第4位にランクインされた。また、2014年(平成26年)には同雑誌の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第8位にランクインされている。

2009年(平成21年)、生誕100周年となるこの年に上映会をはじめとするさまざまな催しが行なわれた。松竹は、絹代生誕100周年を記念する「絹100%プロジェクト」[24]として、作品の上映会・DVD発売・CS放送ネット配信など各種イベントなどを開催。東京国立近代美術館フィルムセンターでは、9月4日から12月20日の約4か月間わたって企画展「生誕百年 映画女優 田中絹代」で遺品や関連資料を展示。同館は10月6日から11月15日11月17日から12月27日の約3か月にわたって大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代(1)、(2)」で出演作および監督作計97作品を上映した。第10回東京フィルメックス映画祭では、「ニッポン★モダン1930 〜もう一つの映画黄金期〜」として田中絹代出演作を中心に特集上映し、特に生誕100年に当たる11月29日には「絹代DAY」として代表作を上映した。このほかにも、各地で特集上映会が催された。

2010年(平成22年)、下関市に下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館がオープン。セレモニーには松坂慶子奥田瑛二安倍晋三らが出席した。

毎年、命日のころに「花嵐忌(からんき)」が開かれる。「花嵐忌」は絹代出演の代表作「愛染かつら」の主題歌の一節「花も嵐も踏み越えて」にちなみ、一般公募で名付けられた。市民墓参会が下関中央霊園(下関市井田)で、田中絹代ぶんか館で出演映画の上映がある。

人物・エピソード[編集]

溝口健二監督とは公私に渡る親交を結び、溝口は田中に惚れていて結婚を願望していた。しかし、田中の側は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる[25]。また、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。

1936年、神奈川県鎌倉市の鎌倉山に「絹代御殿」と呼ばれる自宅を建築している。当時の鎌倉山は高級住宅地で、自宅の西隣りには近衛文麿の別邸、東隣りには藤原義江邸があった。1949年に岩田宙造の別宅(山椒洞)を購入して移り住むが、1954年には帝国ホテルを居所とした[26]。山椒洞は田中の没後に小林正樹が人手に渡したくないとして購入[27]し、料亭の檑亭別館として建物を保存していたが、店舗閉店後に檑亭の経営的理由で建物は解体され、みのもんたが自宅新築のため敷地を購入した。

最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である[28][29]小林が看ていた。病床についた田中は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た小林正樹監督に尋ねたという。

受賞歴[編集]

出演作品[編集]

映画[編集]

マダムと女房』(1930年)右。田中の隣は渡辺篤
非常線の女』(1933年)右は岡譲司
西鶴一代女』(1952年)

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
◎印の作品は小津安二郎監督作品、☆印は溝口健二監督作品

  • 元禄女(1924年、松竹
  • 村の牧場(1924年、松竹)
  • 裏切られ者(1926年、松竹) - 妹お芳
  • お坊ちゃん(1926年、松竹) - 玉子
  • カラボタン(1926年、松竹)
  • 悩ましき頃(1926年、松竹) - おさき
  • 恥しい夢(1927年、松竹)
  • 国境警備の唄(1927年、松竹) - 女給つたえ
  • 真珠夫人(1927年、松竹)
  • 村の花嫁(1928年、松竹) - お絹
  • 感激時代(1928年、松竹) - 美保子
  • 陸の王者(1928年、松竹) - 奈美子
  • 青春交響楽(1928年、松竹) - 野口絹子
  • 新女性鑑(1929年、松竹)
  • 大学は出たけれど(1929年、松竹) - 野本町子
  • 彼と人生(1929年、松竹) - しげ子
  • 大都会 労働篇(1929年、松竹) - 嫁お君
  • 山の凱歌(1929年、松竹) - 松山雪
  • 落第はしたけれど(1930年、松竹) - 喫茶店の娘
  • 絹代物語(1930年、松竹)
  • 若者よなぜ泣くか(1930年、松竹) - 上杉梢
  • お嬢さん(1930年、松竹) - キヌ子
  • 愛よ人類と共にあれ(1931年、松竹) - 真弓
  • 生活線ABC(1931年、松竹)
  • マダムと女房(1931年、松竹) - その女房
  • 金色夜叉(1932年、松竹) - 鴨沢宮
  • 銀座の柳(1932年、松竹)
  • 青春の夢いまいづこ(1932年、松竹) - ベーカリーの娘お繁
  • 忠臣蔵(1932年、松竹) - 八重
  • 花嫁の寝言(1933年、松竹) - 花嫁春子
  • 伊豆の踊子(1933年、松竹) - 薫
  • 東京の女(1933年、松竹) - 娘春江
  • 非常線の女(1933年、松竹) - 時子
  • 婦系図(1934年、松竹) - お蔦
  • その夜の女(1934年、松竹)
  • 春琴抄 お琴と佐助(1935年、松竹) - 春琴
  • 箱入娘(1935年、松竹) - おしげ
  • 人生のお荷物(1935年、松竹) - 次女逸子
  • お夏清十郎(1936年、松竹)
  • 男性対女性(1936年、松竹) - 長女時子
  • 男の償ひ(1937年、松竹)
  • 母と子(1938年、松竹) - 知栄子
  • 愛染かつら前後篇(1938年、松竹) - 高石かつ枝
  • 花のある雑草(1939年、松竹) - 夏木先生
  • 征戦愛馬譜 暁に祈る(1940年、松竹) - 石川千代
  • 浪花女(1940年、特作プロ) - 千賀子
  • (1941年、松竹) - 恵美
  • ☆団十郎三代(1944年、松竹) - お加納
  • 陸軍(1944年、松竹) - わか
  • ☆宮本武蔵(1944年、松竹) - 野々宮信夫
  • ☆必勝歌(1945年、松竹) - 子守歌をうたふ女
  • 三十三間堂通し矢物語(1945年、東宝) - お絹
  • ☆女性の勝利(1946年、松竹) - 細川ひろ子
  • ☆歌麿をめぐる五人の女(1946年、松竹) - 難波屋おきた
  • 結婚(1947年、松竹) - 松川文江
  • 女優須磨子の恋(1947年、松竹) - 松井須磨子
  • 不死鳥(1947年、松竹) - 相原小夜子
  • 夜の女たち(1948年、松竹) - 大和田房子
  • 風の中の牝雞(1948年、松竹) - 時子
  • ☆わが恋は燃えぬ(1949年、松竹) - 平山英子
  • 新釈四谷怪談(1949年、松竹) - お岩
  • 宗方姉妹(1950年、新東宝) - 宗方節子
  • 婚約指環(1950年、松竹) - 妻典子
  • ☆お遊さま(1951年、大映) - お遊さま
  • 銀座化粧(1951年、伊藤プロ) - 津路雪子
  • 武蔵野夫人(1951年、東宝) - 秋山道子
  • 西鶴一代女(1952年、新東宝) - お春
  • おかあさん(1952年、新東宝) - 福原正子
  • 安宅家の人々(1952年、大映) - 安宅國子
  • 雨月物語(1953年、大映) - 宮木
  • 煙突の見える場所(1953年、新東宝) - 緒方弘子
  • 恋文(1953年、新東宝) - 下宿のおばさん
  • 山椒大夫(1954年、大映) - 玉木
  • ☆噂の女(1954年、大映) - 馬淵初子
  • 月は上りぬ(1955年、日活) - 下働き米や
  • 月夜の傘(1955年、日活) - 小谷律子
  • 色ざんげ(1956年、日活) - お八重
  • 雑居家族(1956年、日活) - 女流作家・くに子(特別出演)
  • 流れる(1956年、東宝) - 梨香
  • 黄色いからす(1957年、歌舞伎座) - 松本雪子
  • 異母兄弟(1957年、独立映画) - 利江
  • 太夫さんより 女体は哀しく(1957年、宝塚映画) - おえい
  • 地上(1957年、大映) - お光
  • 悲しみは女だけに(1958年、大映) - 秀代
  • 楢山節考(1958年、松竹) - おりん
  • 彼岸花 (1958年、松竹) - 清子
  • この天の虹(1958年、松竹) - フミ
  • 浪花の恋の物語(1959年、東映) - 妙閑
  • 日本誕生(1959年、東宝) - 倭姫
  • おとうと(1960年、大映) - 母
  • 放浪記(1962年、宝塚映画) - 母きし
  • 殺陣師段平(1962年、大映) - お春
  • 死闘の伝説(1963年、松竹) - 園部静子
  • 太平洋ひとりぼっち(1963年、日活) - 母
  • 香華(1964年、松竹) - つな
  • 赤ひげ(1965年、東宝) - 登の母
  • 男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年、松竹) - 旧家の奥様
  • 三婆(1974年、東京映画) - 武市タキ
  • サンダカン八番娼館 望郷(1974年、東宝) - 晩年の北川サキ
  • ある映画監督の生涯 溝口健二の記録(1975年、近代映画協会
  • 北の岬(1976年、東宝) - 老年の修道女
  • 大地の子守歌(1976年、木村プロ) - 農婦

テレビドラマ[編集]

その他の番組[編集]

監督映画作品[編集]

『恋文』の衣装合わせ中(左から、香川京子花岡菊子久我美子、田中、関千恵子
  • 恋文(1953年、新東宝)
  • 月は上りぬ(1955年、日活)
  • 乳房よ永遠なれ(1955年、日活)
  • 流転の王妃(1960年、大映)
  • 女ばかりの夜(1961年、東京映画)
  • お吟さま(1962年、文芸プロ)

ディスコグラフィー[編集]

田中絹代を演じた女優[編集]

出典[編集]

注釈
  1. ^ 日本で最初の女性監督は坂根田鶴子である
  2. ^ 映画の遺作は増村保造監督の『大地の子守唄』
出典
  1. ^ a b c 新撰 芸能人物事典 明治~平成「田中絹代」の項
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本映画俳優全集・女優篇』p.426
  3. ^ a b 古川薫著『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』p.17-22
  4. ^ 『激動の昭和を生きる』p.119
  5. ^ 『写真集日本の女優 銀幕に咲いた美しいスターたち』p.45
  6. ^ 今村昌平著『無声映画の完成』p.12
  7. ^ 古川薫著『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』p.76
  8. ^ 『松竹九十年史』p.239
  9. ^ 世界大百科事典 第2版「田中絹代」の項
  10. ^ 『松竹九十年史』p.245
  11. ^ a b 児井英生著『伝・日本映画の黄金時代』p.140
  12. ^ 名誉館長のつぶや記20 - 下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館
  13. ^ a b 田中絹代 困難を糧に女優として脱皮 - 日本経済新聞
  14. ^ 山本明著『戦後風俗史』p.93
  15. ^ 『暁に祈る』
  16. ^ a b 岩見隆夫著「岩見隆夫のサンデー時評第601回 60年前の『田中絹代バッシング』」『サンデー毎日』2010年3月7日号、p.42-43
  17. ^ a b 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋社、1989年、p.193
  18. ^ 川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』文藝春秋社、1996年、p.388
  19. ^ 川本三郎「田中絹代」『映画監督ベスト101・日本篇』川本三郎編、新書館、1996年、p.125
  20. ^ 古川薫著『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』p.492
  21. ^ 『芸能 第19巻』p.81
  22. ^ 『日本の生死観大全書』p.361
  23. ^ 川本三郎『今日はお墓参り』平凡社、1999年、pp.39-40
  24. ^ 田中絹代 生誕100年オフィシャルサイト
  25. ^ 長部日出雄『邦画の昭和史』新潮新書、2007年、p.105-108
  26. ^ 絹代の生涯【1933年〜1962年】 - 田中絹代メモリアル協会
  27. ^ 増沢一彦「情熱と根性で芸域広げる 田中絹代」『映画百年 映画はこうして始まった』読売新聞文化部編集、キネマ旬報社、1997年、p.67
  28. ^ NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは NPO法人田中絹代メモリアル協会公式サイト
  29. ^ 倉本聰『愚者の旅 わがドラマ放浪』理論社、2002年、p.137

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]