鶴ヶ嶺昭男

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鶴ヶ嶺 昭男
基礎情報
四股名 福薗 昭男→鶴嶺山 昭男→鶴ヶ嶺 昭男→鶴ヶ嶺 哲生→鶴ヶ嶺 昭男
本名 福薗 昭男
愛称 もろ差し名人[1]
生年月日 1929年4月26日
没年月日 (2006-05-29) 2006年5月29日(77歳没)
出身 鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)
身長 177cm
体重 114kg
BMI 36.39
所属部屋 時津風部屋井筒部屋
得意技 もろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 西関脇
生涯戦歴 685勝678敗22休(95場所)
幕内戦歴 550勝583敗22休(77場所)
優勝 十両優勝1回
序ノ口優勝1回
敢闘賞2回
殊勲賞2回
技能賞10回
データ
初土俵 1947年6月場所[1]
入幕 1953年3月場所[1]
引退 1967年7月場所[1]
引退後 年寄君ヶ濱(君ヶ濱部屋を創設、後に名跡変更により井筒部屋)
備考
金星10個 (栃錦4個、若乃花3個、朝潮3個)
2014年3月22日現在

鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお、1929年4月26日 - 2006年5月29日)は、鹿児島県姶良市(旧:姶良郡加治木町)出身で井筒部屋(ただし初土俵は時津風部屋名義)に所属した大相撲力士。本名は福薗 昭男(ふくぞの あきお)[1]。最高位は西関脇1956年5月場所・1962年9月場所)。得意技はもろ差し、右四つ、寄り、上手出し投げ。現役時代の体格は177cm、114kg。

来歴[編集]

旧制加治木中学校3年時の1944年8月、予科練に入り、鹿児島航空隊、次に小富士海軍航空隊31文体に入隊する[2]。戦時中は海軍年少兵として海軍相撲で鳴らし、やがて大相撲への興味を抱く[3]。戦後、加治木中を卒業し、当地の農業会(農民組合)に勤務する。巡業でやってきた幕下力士の薩摩錦(父のいとこ)に勧誘され[4]、元前頭2枚目・鶴ヶ嶺道芳こと井筒親方の元に入門、1947年(昭和22年)6月場所で初土俵を踏む。この時はまだ師匠が現役力士であり、しかも最後の場所であったことから書類上の所属は大横綱双葉山が興した時津風部屋になっていた。

その翌場所から独立した井筒部屋に所属した[1]。独立したばかりの井筒部屋は例外なく弱小で、井筒と同じ鹿児島出身の政治家で当時公職追放中であった迫水久常が部屋の後援会会長に就任して、部屋のための金品や食料の調達に奔走する有様であった[5]。ある時、迫水は部屋のあまりの貧乏さに人員整理を考え、見込みの薄い力士は次々と故郷へ帰して再就職させることとし、やがて鶴嶺山の処遇を考えることとなった[3][6]。ここで、部屋付き親方の甲山が「必ず栃錦でも負かす男になりますから、もう少し面倒みてやって下さい」と頭を下げ、迫水自身は「そうかねえ」と多少半信半疑のところがあったようだが現役続行は決まり、「お前、勝とうと思って相撲とるな。負けまいと思って相撲とれ」と激励[6][3]。迫水の激励に対して「わかるかわからないかわからんけれど、とにかく先生のおっしゃったように、私は負けまいと思って相撲をとります。勝とう勝とうと思わないで、これから負けまいと思って相撲をとります」と、精進を誓った[3][7][注 1]

その後、1953年(昭和28年)3月場所で新入幕。本来右四つだったが、相手に合わせてまず左四つになり、右を巻き替えてもろ差しになる取り口が開眼した。[8]「もろ差し名人」[9][3][注 2]と呼ばれ、「栃若時代」から「柏鵬時代」にかけて活躍。技能賞を10回(現在でも最高記録)受賞、栃錦・若乃花朝潮の3横綱を相手によく健闘し、計10個の金星(当時の最高記録)を挙げている。「必ず栃錦でも負かす」と見込んだ甲山の見立ては、間違っていなかった。

前捌きや巻き替え、得意のもろ差しを生かして好成績を挙げることが多く、1956年昭和31年)1月場所では14勝1敗の好成績を挙げ、優勝同点も記録した[1]優勝決定戦の相手、横綱・鏡里は同門の時津風部屋であり、鶴ヶ嶺が関取になる前は自身の付け人として従えていたことも考えてか、「優勝は半分ずつだ」と優勝パレードで旗手を依頼し、当日1晩だけ優勝旗を鶴ヶ嶺の部屋に貸し出したという[8]。なお、この決定戦にもし勝っていたら、翌場所の3代朝潮に一場所先んじて、最初の昭和生まれの優勝力士になっていた。雷電賞を4度(1956年1月場所、1961年1月場所、1962年7月場所、1964年9月場所)受賞していて、これは史上最多タイである。

1967年(昭和42年)7月場所を最後に、38歳で現役を引退。幕内在位77場所と通算550勝[1]は、本場所が現在のような6場所制に移行する過渡期であったためもあるが、当時の最多記録だった(通算勝ち星は翌9月場所で横綱・大鵬に更新され、場所数は1980年(昭和55年)11月に、前頭6枚目・高見山によって更新された)。

引退後は年寄君ヶ濱を襲名し、審判委員となり、1972年(昭和47年)に井筒部屋から独立して君ヶ濱部屋を創設。当時、部屋持ち親方は審判委員になれないため、審判委員を退任。その後、同部屋は1977年(昭和52年)12月より名称を変更して井筒部屋[注 3]となった。自身の息子3人(鶴嶺山逆鉾寺尾)をすべて関取に、霧島大関に育てるなど名伯楽ぶりを発揮し[3][1]、その功績が認められて役員待遇に抜擢された[10]。薩摩国出身の横綱初代西ノ海嘉治郎の7代井筒からの伝統を引き継ぎ、自身の郷里である鹿児島県出身の力士が非常に多く、「薩摩部屋」と称される程であった。判りやすい丁寧な語り口でテレビ・ラジオ中継の解説者を務めた他、勝負審判長としても物言いの際の場内説明で、「行司軍配は○○にあがりましたが、××ではないかと物言いがつき、協議の結果~」と明快に解説、この口上は現在ではほぼ定型のものとなっている[3]。また、「ただいまの協議についてご説明申し上げます」と最初につけるようになったのも、彼からだとされる。

部屋の師匠としては「五年後に幕下をつくる。そして五年後に二十人の弟子をもつ」と立ち上げ時に目標を立て[2]、また「私は色のついた者はいらない。師匠冥利とは、ゼロから弟子を育てることだ」として大学相撲や実業団相撲出身の力士を採用しなかった[11]。弟子育成に関しては、寺尾の突っ張りや逆鉾のもろ差しは自分が特別教えたものではなくたまたま関取になるべき人間がその時代に集まったのだとしており、技術指導も新弟子にはまず前に出ることしか教えなかったという。1人関取に挙がると他の若い衆が「オレたちも上がれるんじゃないか」と活気づいた面があると振り返っている[12]

年寄を停年退職後は鎌倉陶磁器店を経営していたが、晩年の面倒を見ていた内縁の妻の乱脈振り等が原因で、息子との不和も伝えられ寂しい晩年を送った[3]。2002年から一時期、妙見温泉で小料理屋を経営していた。

2006年(平成18年)5月29日午後6時6分、敗血症のため大分県別府市の病院で死去[13]。77歳没。

エピソード[編集]

  • 現役時、プロ野球選手であった中西太とは親友の間柄であった。
  • 四股名の「鶴ヶ嶺」は師匠の現役時代の四股名を贈られたもので、力士としては大変な栄誉であるが、自身は故郷・加治木町の隣町である隼人町から大正期・昭和初期の2代にわたって出た力士「源氏山」の四股名を望んでいた。「源氏山」の四股名は後に三男の寺尾が新十両時に継ぐことになったが、わずか1場所のみで返上している[14]
  • 関脇だった昭和31年(1956年)5月場所、横綱栃錦をもろ差しからの速攻で寄り倒したが、勇み足で負けとなった。怒りと悔しさに、土俵下に落ちた横綱に手を貸すのも忘れてしばらく仁王立ちとなり、栃錦からはのちのちまでこの時のことを冷やかされたという。
  • やくみつる4コマ漫画では、その容貌が誇張されてジャンルを問うことなくスポーツコメンテーターや、また占い師役としても登場した。
  • 三兄弟の母親に当たる妻・節子は、「蔵前小町」と呼ばれるほどの美人であった。節子の父(井筒部屋の元幕下・加賀錦)は相撲茶屋「吉か和」の元締役を務め、鶴ヶ嶺と節子の仲人を務めたのは師匠の時津風であった。節子は時津風を「おじちゃま」と呼ぶなど親しい仲であった[15]。1973年に両国2丁目に構えた君ヶ浜部屋は、元は節子の実家のあった場所である。節子は生前三兄弟からも大変に慕われており[16]、それだけに三兄弟は自身と後妻との内縁関係を受け入れられず、結局晩年は「お袋を裏切った」と三兄弟から責められ続けたという。
  • 節子の最期を3人の息子が看取った際、すでに力士であった長男と次男には「おまえらお客さんいるんだから(病院から)帰れ」と言い聞かせた[17]
  • 大相撲ダイジェスト』での解説時、息子の相撲を見ていた際に息苦しくなり、薬を飲んだことがあるという。
  • もろ差し名人と謳われた鶴ヶ嶺の相撲の技術は次男である逆鉾、さらに逆鉾の弟子(鶴ヶ嶺から見れば孫弟子)にあたる横綱鶴竜にも伝承されている[18]
  • 好きな調味料はポン酢で、それこそパンにまでポン酢を付けて食べていた[19]

家系図[編集]

西ノ海(25代横綱)の孫(養女の養女の夫)、薩摩錦(元幕下)の従兄の子供、鶴ノ富士智万(元十両)の伯父。長男は鶴嶺山(元十両)、次男は逆鉾(元関脇)、三男は寺尾(元関脇)、孫(逆鉾の娘)は元宝塚歌劇団花組娘役の天咲千華

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西ノ海
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
薩摩錦
 
 
加賀錦
 
養女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鶴ヶ嶺
 
 
 
養女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鶴ノ富士
 
鶴嶺山
 
逆鉾
 
寺尾
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志摩ノ海
 
天咲千華
 
寺尾由布樹
 

主な成績[編集]

  • 通算成績:685勝678敗22休 勝率.503
  • 幕内成績:550勝583敗22休 勝率.485
  • 現役在位:95場所
  • 幕内在位:77場所
  • 三役在位:11場所(関脇2場所、小結9場所)
  • 三賞:14回
    • 殊勲賞:2回(1958年5月場所、1959年9月場所)
    • 敢闘賞:2回(1966年7月場所、1966年11月場所)
    • 技能賞:10回(1956年1月場所、1956年3月場所、1959年7月場所、1961年1月場所、1962年7月場所、1963年3月場所、1963年5月場所、1964年3月場所、1965年11月場所、1966年7月場所)(最多受賞記録)
  • 雷電賞:4回(1956年1月場所、1961年1月場所、1962年7月場所、1964年9月場所)
  • 金星:10個(栃錦4個、若乃花3個、朝潮3個)
  • 各段優勝
    • 十両優勝:1回 (1952年9月場所)
    • 序ノ口優勝:1回 (1947年10月場所)

場所別成績[編集]

鶴ヶ嶺 昭男
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1947年
(昭和22年)
x x 新序
3–2 
x x 西序ノ口5枚目
優勝
5–1
1948年
(昭和23年)
x x 東序二段6枚目
4–2 
x x 西三段目8枚目
4–2 
1949年
(昭和24年)
西三段目5枚目
7–5 
x 東幕下19枚目
9–6 
x 西幕下9枚目
7–8 
x
1950年
(昭和25年)
東幕下11枚目
7–8 
x 西幕下11枚目
7–8 
x 東幕下15枚目
7–8 
x
1951年
(昭和26年)
西幕下16枚目
6–9 
x 西幕下19枚目
11–4 
x 西幕下5枚目
9–6 
x
1952年
(昭和27年)
東幕下筆頭
11–4 
x 東十両11枚目
8–7 
x 東十両10枚目
優勝
11–4
x
1953年
(昭和28年)
西十両筆頭
9–6 
東前頭17枚目
8–7 
東前頭16枚目
3–12 
x 西十両筆頭
10–5 
x
1954年
(昭和29年)
東前頭17枚目
7–8 
東前頭19枚目
8–7 
東前頭18枚目
8–7 
x 東前頭13枚目
8–7 
x
1955年
(昭和30年)
西前頭12枚目
9–6 
東前頭7枚目
10–5 
東前頭2枚目
6–9 
x 東前頭5枚目
5–10
x
1956年
(昭和31年)
東前頭10枚目
14–1[20]
東張出小結
9–6
西関脇
7–8 
x 西小結
8–7 
x
1957年
(昭和32年)
東小結
5–10 
西前頭3枚目
9–6
東小結
5–10 
x 東前頭4枚目
6–9 
東前頭6枚目
9–6 
1958年
(昭和33年)
東前頭2枚目
3–12 
東前頭10枚目
9–6 
西前頭5枚目
9–6
西前頭筆頭
1–6–8[21] 
西前頭12枚目
11–4 
東前頭3枚目
5–10 
1959年
(昭和34年)
西前頭8枚目
10–5 
東前頭4枚目
8–7 
西前頭2枚目
7–8 
西前頭3枚目
9–6
東前頭筆頭
9–6
東張出小結
2–13 
1960年
(昭和35年)
西前頭5枚目
10–5
東前頭2枚目
8–7
東前頭2枚目
7–8 
東前頭3枚目
6–9 
西前頭3枚目
6–9 
東前頭7枚目
10–5 
1961年
(昭和36年)
東前頭3枚目
10–5
東張出小結
4–11 
東前頭3枚目
7–8
西前頭3枚目
8–7
東前頭筆頭
7–8 
西前頭2枚目
5–10 
1962年
(昭和37年)
西前頭8枚目
11–4 
西前頭3枚目
1–5–9[22] 
西前頭12枚目
10–5 
西前頭7枚目
11–4
西関脇
7–8 
西小結
4–11 
1963年
(昭和38年)
西前頭3枚目
5–10 
西前頭6枚目
10–5
西前頭筆頭
9–6
東小結
8–7 
東小結
4–11 
西前頭4枚目
5–10 
1964年
(昭和39年)
西前頭8枚目
7–8 
西前頭9枚目
11–4
東前頭3枚目
6–9 
西前頭4枚目
3–12 
東前頭10枚目
11–4 
西前頭2枚目
3–12 
1965年
(昭和40年)
西前頭9枚目
9–6 
東前頭4枚目
3–12 
西前頭8枚目
9–6 
東前頭6枚目
7–8 
東前頭7枚目
7–8 
西前頭7枚目
11–4
1966年
(昭和41年)
西前頭2枚目
5–10 
西前頭6枚目
5–10 
東前頭13枚目
8–7 
東前頭11枚目
11–4
東前頭3枚目
2–8–5[23] 
西前頭10枚目
11–4
1967年
(昭和42年)
東前頭2枚目
5–10 
西前頭6枚目
6–9 
東前頭12枚目
8–7 
東前頭8枚目
引退
2–13[24]–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
青ノ里 4 4 朝岡 0 1 朝潮(米川) 8 10 浅瀬川 6 1
朝ノ海 1 0 東海 0 1 愛宕山 2 2 荒波 3 2
一乃矢 3 1 五ッ洋 1 0 岩風 11 5 宇多川 6 2
及川 0 2 追風山 5 3 扇山 2 1 大岩山 1 1
大瀬川 2 0 大起 2 4 大昇 4 4 大晃 11 15
小城ノ花 18 7 大蛇潟 1 0 海山 9 4 海乃山 5 15(1)
開隆山 11 13 鏡里 0 0* 柏戸 2 15 金乃花 10 7
神錦 4 2 北ノ國 4 0 北の洋 9 13 北の冨士 1 6(1)
北葉山 0 2 君錦 5 2 清恵波 4 2 清國 2 7
清勢川 4 0 麒麟児 2 4 九州錦 1 2 国登 1(1) 1
栗家山 1 0 鯉の勢 2 0 高鐵山 3 4 琴ヶ濱 8 14
琴櫻 1 4 琴錦 4 1 櫻國 0 1 佐田の山 4 14
信夫山 7 9(1) 嶋錦 6 4 清水川 3 2 大豪 11 11
大心 1 2 大鵬 1 19 大文字 1 0 高錦 1 0
楯甲 1 0 玉嵐 4 2 玉乃海 14 4 玉乃島 1 2
玉響 4 1 千代の山 1 8 常錦 6 3 常ノ山 3 2
輝昇 1 0 出羽錦 18(1) 13 出羽ノ花 2 0 出羽湊 6 2
天水山 0 1 時津山 6 13 戸田 1 1 栃東 0 2
栃王山 2 1 栃錦 5 14 栃ノ海 5 11(1) 栃光 17 22(1)
豊國 1 4 豊登 2 1 七ッ海 0 2 名寄岩 2 1
鳴門海 9 1 成山 10 5 白龍山 1 0 羽黒川 8 8
羽黒山 19(1) 17 羽嶋山 2 4 長谷川 4 2 花光 2 2
羽子錦 2 0 緋縅 2 1 備州山 0 2 廣川 6 4
広瀬川 4 1 福田山 1 1 福ノ里 0 2 福の花 2 2
房錦 11 10 藤田山 0 1 富士錦 10 13 藤ノ川 0 1
二子岳 0 1 二瀬山 3 1 前田川 7 6 前の山 1 0
前ノ山(佐田岬) 1 0 松登 7 5 禊鳳 1 2 三根山 2 6
宮錦 2 3 明武谷 7 4 八染 1 0 豊山 1 3
義ノ花 4 2 芳野嶺 3 2 吉葉山 2 4 若駒 1 0
若杉山 2 2 若瀬川 2 1 若秩父 12 12 若天龍 4 5
若浪 8 5 若鳴門 4 4 若ノ海 12 4 若ノ國 4 0
若乃洲 5 3 若乃花(初代) 3 21 若羽黒 10 25 若二瀬 1 0
若前田 11 9 若見山 2 11 若吉葉 0 1
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。

改名歴[編集]

  • 福薗 昭男(ふくぞの あきお)1947年6月場所
  • 鶴嶺山 昭男(かくれいざん あきお)1947年11月場所-1953年1月場所
  • 鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお)1953年3月場所-1956年9月場所
  • 鶴ヶ嶺 哲生(つるがみね てつお)1957年1月場所-1957年5月場所
  • 鶴ヶ嶺 昭男(つるがみね あきお)1957年9月場所-1967年7月場所

年寄変遷[編集]

  • 君ヶ濱(きみがはま)1967年7月-1977年12月
  • 井筒(いづつ)1977年12月-1994年4月

著書[編集]

  • 『双差しの子育て 逆鉾、寺尾ら3兄弟子育ての秘話』(1988年5月、同友館)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ こののち迫水は、1961年夏場所のさなかに雑誌『相撲』1961年6月号のための企画で当時大関の柏戸と対談しているが、かつて迫水にはっぱをかけられた鶴ヶ嶺は、6日目にその柏戸を下手投げで負かして柏戸に「完敗」と言わしめた(『相撲』1961年6月号、p.89,193,212)。同じ場所の4日目には若乃花を吊り出しで破っている(『相撲』1961年6月号、p.189,212)
  2. ^ このもろ差しを得意とする取り口は後に次男の逆鉾が引き継ぐこととなった。
  3. ^ この当時、第52代横綱北の富士勝昭が九重部屋から独立して12代井筒として井筒部屋の師匠となっていたが、北の富士の師匠の11代九重(第41代横綱千代の山雅信)が1977年10月に急逝し、12代井筒が12代九重を襲名して自身の井筒部屋と九重部屋とを合併して名義を九重部屋に変更した(名目上は九重部屋が存続)。これを受けて君ヶ濱を名乗っていた鶴ヶ嶺が井筒を襲名したことによるものであった。一方独立した当時の10代の系統の井筒部屋は、一度11代として継承した星甲良夫が、10代の遺族との仲違いにより名義を陸奥部屋に変更して存続していた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p28
  2. ^ a b 「相撲豪傑伝」p.243
  3. ^ a b c d e f g h 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)66ページから67ページ
  4. ^ 「相撲豪傑伝」p.244
  5. ^ #相撲 (1961/6) p.88,90
  6. ^ a b #相撲 (1961/6) p.88
  7. ^ #相撲 (1961/6) p.89
  8. ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』24ページ
  9. ^ 「相撲豪傑伝」p.245
  10. ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p36-39
  11. ^ 「相撲豪傑伝」p.248
  12. ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p71
  13. ^ "福薗昭男氏が死去/もろ差し名人の元鶴ケ嶺". Shikoku News. 四国新聞社. 30 May 2006. 2020年7月25日閲覧
  14. ^ 「相撲豪傑伝」p.274~275
  15. ^ 69連勝に挑む白鵬、止めるのは…錣山親方に聞く 日本経済新聞 2010/11/12 7:00
  16. ^ それを示す例として、夫人の旧姓である「寺尾」は三男が四股名とし(当初は「節」の字ももらって「寺尾節男」と名乗った)、長男の鶴嶺山が引退後に開いた店の名となった。また、寺尾の角界入りは夫人が死の間際に「相撲取りになって」と願ったことがきっかけとなった。
  17. ^ 井筒親方・逆鉾の急死で弟・錣山親方、寺尾は沈痛 「相撲の天才、尊敬していた」 鶴竜ら3力士受け入れの可能性は… (1/3ページ) zakzak 2019.9.19(2019年9月20日閲覧)
  18. ^ 新大関鶴竜が先代井筒親方の墓参り‐大相撲ニュース:nikkansports.com
  19. ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』p.49 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515
  20. ^ 鏡里と優勝決定戦
  21. ^ 左肩関節捻挫により3日目から途中休場、12日目から再出場
  22. ^ 右肩関節及び左股関節捻挫により3日目から途中休場、9日目から再出場、11日目から再度途中休場
  23. ^ 右股関節挫傷により6日目から途中休場、12日目から再出場
  24. ^ 急性心不全症により千秋楽不戦敗

参考文献[編集]

関連項目[編集]