長嶋茂雄
| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市) |
| 生年月日 | 1936年2月20日(76歳) |
| 身長 体重 |
178cm 76kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 三塁手 |
| プロ入り | 1958年 |
| 初出場 | 1958年4月5日 |
| 最終出場 | 1974年10月14日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1988年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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長嶋 茂雄(長島 茂雄[1]、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)、元プロ野球監督。
目次 |
[編集] 概要
現役時代には「燃える男」と呼ばれる闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで、巨人軍のV9時代に王貞治と共に主軸打者として活躍。監督時代にも多くの話題を振りまき、2001年より株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督となった。
長きに渡りプロ野球ファンを熱狂させ続けたことから、「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」と称される。「ミスター」と略した呼称は定着している。
1965年に前年の東京オリンピックでコンパニオンを務めていた西村亜希子と結婚。1966年に一茂が誕生。以後、2男2女をもうける。長男は長嶋一茂(ジャイアンツ球団代表特別補佐)、二女は長嶋三奈(元テレビ朝日スポーツ局記者)、二男は長嶋正興(レーシングドライバー)。
[編集] 経歴
[編集] プロ入り以前
1936年、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に、後に臼井町役場の収入役を勤める父「利(とし)」と母「ちよ」の間に兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれる。幼少時代、阪神タイガースの藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。当時は阪神ファンだった。小学4年生から野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。初めて握ったバットは、青竹を割った手製のバットであった[2]。
1951年4月、伝統校の千葉県立佐倉第一高等学校に進学する。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進んで千葉県代表校として出場した南関東大会初戦、熊谷高校との試合(昭和28年8月1日大宮球場)で、長嶋は6回表に高校公式試合では自身唯一の本塁打となるバックスクリーンへの特大アーチを放った。試合には敗れたものの、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定し、野球関係者から注目を集めることとなった。
大学には立教大学に進む。野球部では砂押邦信監督の下、猛練習を重ね、正三塁手となった。同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、同じく主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれた。長嶋は東京六大学野球において1956年春季・1957年秋季に首位打者を獲得。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。1957年には六大学リーグの通算記録となる8本塁打を放った。
プロ入りが確実視され、特に大学の先輩大沢昌芳の所属する南海ホークスの鶴岡一人監督は、大沢を通じて熱心に長嶋と杉浦に多額の栄養費を渡すなどして勧誘していた。同じ頃広島カープも長嶋を広島観光に誘うなど獲得を希望するものの、プロ入り時は長嶋、杉浦ともに南海でほぼ決定していた[3][4]。特にプロ入りに熱心でなかった杉浦を南海に誘ったのは、長嶋であった。大学3年の秋、長嶋は杉浦を連れて南海が東京遠征時に定宿にしていた中野のホテルへ行き、鶴岡に引き合わせるなどした。しかし長嶋は直前で一転、巨人入団を決め、11月20日に契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」、契約金は当時最高額の1800万円であった(南海は2000万円を提示していた)。
長嶋は当初、杉浦と共に南海に入ることを希望していた。しかし巨人や周りのマスコミが、当時大学野球のスターだった長嶋を巨人に入るものだと決め付け、長嶋自身に圧力をかけたため、長嶋は巨人に行かざるを得なかったと言われている。南海の球団史である『南海ホークス四十年史』(1978年)には、巨人サイドが長嶋の両親と兄を説き伏せて巻き返したと記されている(同書P163)。長嶋は大学4年秋のある日の深夜、当時豊島区千早にあった立教大学野球部合宿所(現在の都立千早高等学校)の1階食堂で、杉浦に南海行きを断ることを告白した。しかし杉浦はそのまま南海に入団。また、長嶋は鶴岡にオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪している。このとき鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。
[編集] 現役時代
[編集] 新人時代
東京六大学リーグでの活躍もあり、「ゴールデンボーイ」あるいは「ハリケーン」とあだ名され[5]、入団時から活躍が大いに期待されていた。1958年4月5日、開幕戦である対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場して公式戦デビューを果たすが、国鉄のエース金田正一投手に4打席連続三振を喫した。しかし、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している[6]。
その2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の大洋戦で権藤正利から初本塁打を奪うと、本来の力を出し始め、シーズン途中から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。
9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人新記録(当時)となる28号本塁打を放ったが、一塁を踏み忘れて、本塁打を取り消された(記録はピッチャーゴロ[7])。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた。長嶋は翌9月20日の阪神戦で28号を打ち直し、新人新記録を達成した(現在の新人記録は1959年の桑田武と1986年の清原和博の31本塁打)。
最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガースの田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。
同年は全イニング出場を達成したが、新人での全イニング出場は1956年の佐々木信也(高橋ユニオンズ)に次ぐ史上2人目、セ・リーグでは史上初だった。現在でも新人選手の全イニング出場は長嶋と佐々木の2人だけである。また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。
[編集] ミスタージャイアンツ
[編集] 天覧試合
1959年6月25日、後楽園球場で行われた対阪神戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合(天皇が観戦した試合、当時は昭和天皇)であった。試合は阪神が1点を先制するが、5回に長嶋と5番打者・坂崎一彦が2者連続で本塁打を放って巨人が逆転した。6回には阪神が3点本塁打で試合をひっくり返したが、7回に6番打者・王貞治が2点本塁打を放って同点とした。試合はそのまま進み、4対4で9回裏を迎える展開となる。この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇陛下をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。9回裏、阪神は先発の小山正明投手を交代し、2番手・村山実投手が登板。打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールからの5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。
この試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった[8]。それまでは大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は軽んじて見られている面があったが、以降は国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」ともいわれている[9]。
この時の長嶋のサヨナラ本塁打は左翼ポール際の上段に突き刺さるものであり、村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、同試合では新人の王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。長嶋は以降も天覧試合に滅法強く、「皇室男」と呼ばれた[10]。
2年目となった同年シーズンは、2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。翌年の1960年も打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながら31盗塁を記録。1961年には打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者を獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。
[編集] ON砲
詳細は「ON砲」を参照
1962年は打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打・打点はリーグ2位を記録する。本塁打王と打点王のタイトルは同僚の王貞治が獲得し、同年以降、長嶋と王は巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これは米メジャーリーグ・ニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルとロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王・4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番・王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇し(V9)、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。
1963年は打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。1964年はリーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。1965年も王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。
[編集] 宿敵・村山
阪神の村山実とは天覧試合から端を発し、幾度も名勝負を繰り広げるライバルとなった。
1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った[11]。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。
2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している[12]。
長嶋はこの1966年シーズンを打率.344で終え、5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。翌年の1967年は入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。
[編集] 乱闘直後のホームラン
1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番・王に対して、阪神投手・ジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手・コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと荒川博コーチが退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。この光景を目の当たりにして4番・長嶋は燃えた。直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを叩き込んだ。さらに8回にも2ランを放ち、1人で大荒れの試合に決着をつけた。
1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。
[編集] 敬遠への対抗
苦手のコース・球種の無い長嶋は、敬遠を受けることが多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。村田元一投手は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の二死2・3塁の打席で河村保彦投手の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。
敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。1968年5月11日の中日戦、二死2塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。さらに1971年6月17日の広島戦では、7回二死3塁という場面で、広島の井上善夫・水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった[13][14]。自身の「真剣勝負こそプロ野球」という信念を示した。
この1971年に、2位・衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を記録し、6度目の首位打者となった。34本塁打・86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。
[編集] 不振と引退
1972年はリーグ3位の92打点・リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。翌年の1973年シーズンも成績が下降し、衰えが見え始める。1974年、打席数を増やすことで不振を克服しようと考えた川上監督は、長嶋の打順を1番にするなどの対策をとったが、同年が現役最後のシーズンとなった。長嶋は14年務めた川上の後継者としての期待もあり、1972年からはコーチを兼任するなど、現役引退後の進路も定まっていた。
1974年10月12日、中日ドラゴンズの優勝が決まり巨人の10連覇が消えた日、長嶋は現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝はまるで脇に追いやられてしまったという[15]。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った[2]。
[編集] 引退試合
引退会見翌日の10月13日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で14日に順延となった。この日は中日の優勝パレードと同日であり、与那嶺要監督以下、星野仙一、高木守道ら主力はパレードへの参加を強制され、中日側は力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺、星野、高木らは電話で長嶋に非礼を詫びている。それに対して長嶋は「こっちのことより、(中日にとって1954年以来の)20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという[15]。
引退試合前のミーティングで長嶋はチームメートに「思い残すことはない。みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶。その後、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王にそっと「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とささやいた。それに対して王は笑って「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と答えている。この試合には長嶋ファンで知られるテリー伊藤やプロ入り前の落合博満が駆けつけ、観戦をしている。
引退試合の第1試合は3番・サードで出場。この試合の第2打席、長嶋は村上義則から最後のホームラン(通算444号)を放った。この試合では王もホームランを放ち、王の言葉どおり最後(106本目)のONアベック本塁打を記録した。
第1試合終了時、長嶋は外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、全く予定外の行動だった。長嶋はこの時の行動について「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている。
第2試合は、試合開始前の先発オーダーアナウンス時「3番、ファースト、王」と場内アナウンスされた時点で球場に大きなどよめきが起こり、「4番、サード、長嶋」のアナウンスが流れた瞬間球場は悲鳴にも近い大歓声に包まれた。この試合の第3打席でセンター前ヒットを放った。これが現役最後のヒットで、通算2471本目であった。これは今でも大卒選手の最多記録である。10対0という巨人の一方的な試合の中、8回裏1死1、3塁という場面で迎えた最終打席、佐藤政夫[16]と対戦、ショートへの併殺打となった(長嶋の257併殺打は衣笠祥雄に更新されるまでセ・リーグ記録だった)。第2試合終了時、長嶋は名残惜しむように一人一人と握手し、最後は王と腰に手を寄せあいながらベンチに引き揚げた。
引退セレモニーでは「わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残した[17]。長嶋引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツにとどまらない社会的事件であった。
[編集] 第1期監督時代
[編集] クリーン・ベースボール
1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上流の緻密な用兵と作戦重視のスタイルではなく、投・打の力量差がそのまま勝敗につながることを理想としていることを端的にあらわした言葉である。「哲のカーテン」と揶揄された川上監督時代とは対照的に、マスコミとのコミュニケーションを重要視した。それゆえ、川上監督時代のスタッフはほぼ一掃された。新生長嶋巨人軍の選手達には「シンデレラ・ボーイ」と名付けた。又、球団初の非日系の外国人選手[18]であるデーブ・ジョンソン内野手を獲得し、自らの後継三塁手とした。長嶋は自らの背番号を「90」に変更し、現役時代の「3」は永久欠番となった。この「90」は当時小学生の息子・一茂のアイディアといわれている。「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。これに0を付け加えて90番にしたら?」という言葉がきっかけになった[19]。
しかし、迎えた1975年のシーズンは長嶋の構想が裏目に出て、球団創設以来初の最下位に終わった。そのため、オフには日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三投手・富田勝内野手との交換で獲得。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。その結果、翌1976年・1977年と2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではともに阪急に敗れた。同年、ヤクルトから倉田誠投手との交換で浅野啓司投手を獲得した。
[編集] 江川事件
1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とするなど、さらなる強化策を図った。しかし1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、いったんは首位に立つものの力尽き、結局、広岡達朗監督率いるヤクルトにペナントを奪われた。長嶋が巨人に入団した当時の監督であった水原茂は、ヤクルトの優勝が確定的となった10月1日、テレビ朝日のニュース番組「こちらデスク」の放送中、「長嶋は野球を知らないのではないか」と、長嶋の監督としての手腕を批判した。巨人OBによる長嶋の采配に対する批判が、公の場でなされたのはこれが初めてであった。江川卓の入団をめぐって騒動(江川事件)がおきたのはこのシーズンのオフのことである。
詳細は「江川事件」を参照
エース小林繁を江川の代わりに阪神へトレードに出した1979年は5位に終わり、長嶋は若手を率いて静岡県伊東市で秋季キャンプを行なった。このキャンプでは中畑清・篠塚利夫・定岡正二らが成長株として、このシーズン限りで引退した土井正三や、高齢化し、衰えが見えてきた栄光のV9時代主力選手の後継者として期待された。また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイト外野手を獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であるOB青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。
[編集] 長嶋解任劇
この頃(1980年前後)になると長嶋の采配が「カンピューター野球」(論理的に説明することができない、長嶋独自の勘・ひらめきによる野球)と揶揄されることも常となり、また、OBによる批判も数多く出るようになった。前監督である川上が、週刊文春の座談会で長嶋の後継監督について語ったことは、長嶋批判の象徴的な出来事であったといえる。また、王の衰えも明らかであり、チームの成績は芳しくなかった。長嶋の指揮する巨人の低迷を憂慮した務臺光雄ら読売新聞社幹部は、1980年のシーズン終了前には長嶋の監督解任を決断した。10月21日に行われた記者会見で長嶋は「男のけじめ」と、みずから不振の責任を取り辞任することを表明したが、自身が「辞任」を知らされたのは、会見の直前のことであったという。解任が発表されると、一連の読売新聞社および巨人の措置に激怒した一部のファンによる、読売新聞・スポーツ報知の不買運動が起こった[20]。長嶋は同年に報知新聞社の客員就任。「文化人」活動を開始する。
[編集] 第2期監督時代
[編集] 監督復帰以前
1985年、日本トライアスロン連盟会長に就任[21]。1988年には野球殿堂入りを果たす。1991年、宮崎市名誉市民となった。
長嶋以後、藤田元司(1981年〜1983年、1989年〜1992年)、王(1984年〜1988年)が監督に就任し、リーグ優勝5度、日本一も2度達成するが、プロ野球全体、そして巨人の人気は低下していった。V9時代の巨人にはじまり、そのOBである広岡や森祇晶などにより確立されたシステマティックな野球は管理野球(長嶋の前任者だった川上監督時代の流れを汲む野球)と評された。
そのような状況の下、長嶋の現場復帰待望論があらわれた。長嶋待望論は、1980年以降何度となく沸き起こった。たとえば1981年オフ、土井淳監督辞任後の大洋監督就任説(関根潤三が就任)、1984年オフに立教の先輩である大沢の後任として日本ハム監督就任が噂され(高田が就任)、1985年オフに広岡の後任として西武監督就任が観測されたり(森が就任)、1986年オフ、土橋正幸監督辞任後のヤクルト監督就任が噂されたり(関根が就任)、1989年の関根監督辞任後のヤクルト監督候補にも祭り上げられたり(野村克也が就任)、1990年の上田利治監督辞任後のオリックス監督就任説(土井正三が就任)がささやかれた。しかし、長嶋本人はそれらの噂に対しすべて否定するか、あるいはノー・コメントを貫いている。
[編集] 復帰・日本一
Jリーグの創設を翌年に控えた1992年には、巨人は2位でシーズンを終了、2年連続で優勝を逃したこともあり、国民的スポーツとしての野球を再活性化するためのキャラクターとして長嶋の復帰が求められた。読売グループ内の事情を考えても、長嶋の復帰を阻む最大の障害であると考えられていた務臺光雄が1991年に死去し、現役時代から親交のある渡邊恒雄が読売新聞社社長に就任したことが、長嶋の監督再就任を容易にした。 長嶋は報知新聞社客員を辞任し、ふたたび現場に復帰することとなった。新しい背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)となり、同年のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜(現:オークランド・アスレチックス)を引き当てた。
監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」を球団のキャッチフレーズとしていた。又、現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させ、一茂をヤクルトからトレードで獲得し、親子で巨人の一員となる。チーム再建を期待されたが、1993年は3位に終わった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。
翌1994年には中日と同率で最終戦(対中日戦)を迎え、リーグ優勝を果たす。なお戦前、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメントしており、後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。さらには、巨人の監督として初めて西武ライオンズ[22]を下して長嶋監督の指揮では初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。その後も1996年には最大11.5ゲーム差をつけられた広島から首位を奪い、リーグ優勝を果たす。前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる(1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズでは、仰木彬監督率いる阪神大震災の被災地をホームタウンとするオリックスに1勝4敗で敗退(同第2戦10月20日は第41回衆議院議員総選挙・期日で故郷佐倉含む新設の千葉9区で自民党・中曽根派新人水野賢一を応援)。同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役を引退させる。一茂はタレントへ転身した。
[編集] 監督晩年
この間長嶋は監督にとどまり続けるが、シーズンオフになるたびに後継監督候補として、堀内恒夫や森、江川などのOBの名が取りざたされた。その中、後任とさせるために1998年より原辰徳を一軍コーチとして入閣させる。1998年第18回参議院議員通常選挙ではスポーツ平和党を離党し自由の会・フロムファイブ・民政党を経て民主党結成参加の比例区現職江本孟紀を支援した。
2000年には、FAで獲得した江藤智内野手に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」を25年ぶりにつけた。当初、この背番号「3」を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号「3」の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。同年、長嶋率いる巨人は日本シリーズでダイエーを破り、日本シリーズ制覇を達成した。この日本シリーズはダイエーの監督が王貞治で、「ONシリーズ」と呼ばれ注目された。
翌2001年はヤクルトとの優勝争いをするも力尽き、この年をもって監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退および原辰徳ヘッドコーチを後任の監督とする発表がなされた記者会見で、吉田填一郎アナウンサー(当時日本テレビ)の「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた[23]。
[編集] オリンピック日本代表監督と闘病生活
2002年3月、佐倉市名誉市民顕彰。7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。12月、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。
2003年11月に行われたアジア選手権で中国・台湾・韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月、長嶋は脳梗塞で倒れた[24]。一時は重態となり[25]、一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った[26]ため、長嶋が現地アテネで指揮を執る事はできなかった[27]。
2004年6月16日、長男の一茂に双子の女児が産まれた。長嶋にとっては初孫である。2005年7月3日、長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4ヵ月ぶりに公の場に姿を現した。同観戦には同年1月1日から「球団代表特別補佐」となった一茂が同行した。この時は事実上読売グループの独占取材となり、長嶋の肉声は伝えられなかったが、同年11月4日に皇居で行われた明仁天皇・美智子皇后との懇談会に出席した際には、軽い会話に応じる長嶋の姿が広く伝えられた。
2005年11月3日、平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。2006年には少年の野球教室に飛び入りで参加し、リハビリの成果もあって少しずつ公の活動を拡大した。同年には三菱UFJ信託銀行のコマーシャルに、一茂と親子で出演した(撮影は発病以前のもの)。また、アテネオリンピックの代表選手達を中心に2005年から始められた「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」[28]にも特別ゲストとしての参加が可能となり、子ども達への野球指導を行った。
2007年7月、日本経済新聞の人気企画「私の履歴書」に登場した。9月18日、妻の亜希子が急死。
2009年9月に放送されたNHKスペシャル「ONの時代」(全2回)に出演し、いくらかの後遺症は残っているものの、自らの言葉でインタビューに応じた。テレビでの長時間インタビューは発病後初で、長嶋は「周辺からは『テレビには出ないほうが良い』という意見もあった」と明かしながら、自宅周辺での歩行訓練や筋力トレーニングなどのリハビリを公開した。2010年には「週刊文春」誌上で阿川佐和子と対談を行い、発病時の様子を振り返っている[29]。
2011年8月20日、日本テレビ24時間テレビマラソン走者・徳光和夫のスターターを勤めた。
[編集] プレースタイル
[編集] 打撃
金田正一、村山実、権藤博、足立光宏、江夏豊、板東英二、稲尾和久など複数の投手、また捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した野村克也が長嶋を「計算できないバッター」と評している。権藤や足立は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった。」と評しており、「打てるボールを確実に打つ。ポテンシャルが高いのでほとんどのストライクゾーンに来るボールは王にとって『打てるボール』になってしまうのだが、打てないボールまでなんとか打つというタイプではなかった」と評する王と対比している[30][31]。江夏は「打席ごとになぜ打たれたのか、なぜ打ち取れたのかが全くわからない」と長嶋について語っており、野村は著書『巨人軍論』のなかで、長嶋を「来た球を打てる天才」と称している。
極端ともいえるアウトステップが特徴だった。川上哲治はこのフォームに否定的で、少年野球教室などで「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。川上によれば「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評している。この点は金田正一も触れており、「シゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最期の瞬間まで油断できなかった。すごい迫力だった」と語っている。
広島カープの「王シフト」を生みだすきっかけとなった東洋工業のコンピューターは、当然長嶋についても同様のデータを分析したが、長嶋については全く特徴的な傾向が見られず、「長嶋シフト」を作ることはできなかったという。岡崎満義は、「王シフトを作らせ、それをものともせずホームランを打ち続けた王は本当に偉大。しかし同時に長嶋シフトを作らせなかった長嶋もすごい。」と評している。
長嶋の空振りは、脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んでいったといわれる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。ファンを魅了することを前提に、普段から空振りしたときにヘルメットを飛ばす練習をしていたという。また、空振りしたときにヘルメットが回って飛びやすいように、アメリカから楕円形のヘルメットを取り寄せ、愛用していた。
首位打者を獲得したシーズンはすべて安打数でもリーグトップだった。シーズン最多安打10回は現在もプロ野球記録(6年連続を含むが、これもプロ野球記録)。また、6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回はすべて1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者だった。6回の首位打者のうち2回(1959年、1971年)は長嶋がセ・リーグ唯一の3割打者である。
長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230など極端な打低投高の環境下であり、さらに引退後には打者に有利なラビットボールが普及した。そのため、傑出値をはかるセイバーメトリクス(RC関連、XR関連、長打率傑出度やOPS傑出度など)においては、ほとんどの通算記録指標で長嶋はプロ野球歴代3位以内に位置する。打率傑出度(RBA)でも右打者歴代1位であり、その時代で傑出した打者だったことがわかる。また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手が通算打率1割台から2割前後の中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)と高いアベレージを記録しており、通算で場外本塁打を含む6本塁打や27打点・26四死球・5盗塁などを残した。
王がホームランバッターとして覚醒した以降は本塁打王のタイトルを獲得することはなかったが、王がいなかった場合を仮定すると、1963年・1966年・1971年は三冠王を獲得しているほどの成績だった。特に打率・打点で二冠王だった1963年は王とわずか3本差で本塁打王のタイトルを逃し、打率・本塁打で二冠王だった1961年も桑田武に8打点差で打点王のタイトルを奪われて三冠王を逃した。一方で1968年から1970年の3年間は、王が首位打者・本塁打王・打点2位で打点王を長嶋が獲得し、3年連続で王の三冠王を阻んでもいる。打率・本塁打・打点の部門において「二冠王、残りの1部門がリーグ2位」のシーズンを1958年・1961年・1963年の通算3回残したが、これは王の5回と中西太の4回に次いで歴代3位の記録である。
新人年の1958年はあと1本三塁打を打っていれば田宮謙次郎(8本)と並ぶリーグ最多となり、「単打(83)、二塁打(34)、三塁打、本塁打(29)のすべてでリーグ最多」という大記録を達成するところだった。現在も日本ではこの記録の達成者は1人もいない。また、現役時代は多くのタイトルを総なめにしたが、意外なことにサイクル安打は一度も達成できなかった。1試合4安打以上を通算26試合、5安打を1試合記録しているが、うち26試合では三塁打を打てなかった。唯一三塁打を打った試合では、二塁打1本、三塁打2本、本塁打1本で単打がなく、サイクル安打を逃している。
通算205敬遠、打率ベストテン入り通算13回などは右打者歴代1位であり、通算2471安打は大卒選手の歴代最多記録である。セ・リーグ一筋で活躍し、通算において、二塁打・三塁打・長打・打点・犠飛数すべての右打者のセ・リーグ記録を保持している。また、通算安打を実働年数で割った平均安打数は145本に達し、同時代に活躍した張本勲134本、榎本喜八128本、福本豊127本、王貞治126本、野村克也111本、衣笠祥雄110本、門田博光106本など他の一流打者の平均本数と比べても突出しており、現役時代は右打者ながらハイペースで安打を積み重ねた。通算打率.305は7000打数以上の選手中では歴代4位、8000打数以上の選手中では歴代2位(右打者では歴代1位)である。
大舞台でよく打ち、勝負強さが印象付けられている。日本シリーズでは通算68試合に出場して出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズの初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。2本塁打を放った天覧試合については、チームメートの広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの。」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している[32]。1966年11月6日の日米野球戦・天覧試合でも場外本塁打を放っており、皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打7本塁打)を記録した。
野村克也は、現役時代に打席に立つ選手が動揺するような話題をささやく事で集中力を乱す「ささやき戦術」を得意としていたが、それが通用しなかった数少ない選手の1人に長嶋を挙げている。長嶋を相手にささやきを行うと全く動揺の色すら見せず、それどころか「そう、よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と答え、自ら話に乗ってきたという。また、野村が「バッティングフォームがおかしいんじゃないの?」とささやくと、王は1度だけ動揺したことがあったが、長嶋は「えっ、ホント? ちょっと待って」とバッターボックスを外して素振りし、その打席で本塁打を放った。ダイヤモンドを一周してホームベースに戻ってくると、長嶋は「教えてくれてありがとう」と笑顔で言い、野村は唖然としたという[33]。後年、野村はインタビューで、当時のセ・パ両リーグの野球のレベルの違いについて聞かれた際、「日本シリーズなんかでも、王・長嶋だけでしたね、気をつけなきゃいけないと思ったのは。それも、長嶋だけかな、本当に分からんかったのは」と述べている[34]。
一方、阪神の辻恭彦捕手が阪神時代、長嶋の打席の時に独り言をつぶやいていると、「おいダンプ(辻の愛称)、うるせえ! 野球をやれ野球を!」と怒鳴られたうえ、放屁までされたと語っている。
[編集] 走塁
プロ入り前に評論家の間で「どうなるかわからないが、足だけは絶対に通用するだろう」と言われるほど、若い頃はたいへんな俊足と思い切りの良い走塁が持ち味のひとつだった。ランニング本塁打が多く、1958年の日本シリーズでも記録しており、1960年7月17日の大洋戦では敬遠球を打ちにいってランニング本塁打を記録した。また、1960年8月21日の国鉄戦では、一死一・二塁で王が打ち上げたレフトフライで、一塁ランナーだった長嶋は勢いよくスタートを切り、二塁に戻ろうとした二塁ランナーだった藤尾茂を追い抜いてアウトとなっている。
新人時代に4番打者も務めながら37盗塁を記録するなど、若い頃は盗塁が多かった。しかし長嶋本人は「走ることは大好き」と言いつつも、「一塁から二塁への走塁はあまり興味なかった。一塁から三塁への距離感が大好きだった」と語っている。長嶋の三塁打は通算74本(歴代8位、右打者では広瀬叔功に次いで歴代2位)と多く、1960年5月には4試合連続三塁打の日本記録も作った。「観客に一番アピールして喜んでもらえるのは三塁打であるという理由から、自分のプロとしての売り物は三塁打だと考えていた」と語っている[35]。新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」は、ショート頭上すれすれをラインドライブするような当たりだったので「よし、三塁打だ!」と思って全力疾走したために起きたという[35]。
30歳前後になるまでは、単打性の当たりでも隙があれば積極的な走塁で果敢に次の塁を狙い、三塁打が多い一方で二塁打も多かった(通算418本は歴代7位、右打者では山内一弘に次いで歴代2位)。リーグ最多二塁打通算3回というセ・リーグタイ記録も持っている。
ホームスチールを6回試みて2回成功させている。その他、一塁走者として、後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を通過しながら二塁を空過して一塁に帰るという三角ベース事件を、1960年・1964年・1968年の3回起こしている。
[編集] 守備
帽子を飛ばしてのスローイングなど、ダイナミックなアクションの三塁守備が特徴だった。これは長嶋が少年時代にファンだった藤村富美男の影響によるという。普通の三塁手よりも1.5メートルほど後ろに守り、特に横(一塁側に向かうライン)の守備範囲が広く、遊撃手や投手の守備範囲の打球も横取りするようにキャッチすることが多かった。このことは広岡達朗や堀内恒夫が証言している。長嶋によれば「あの範囲の打球は三塁手の最大の見せ場」という。
なんでもないゴロをトンネルする珍プレーがテレビで取り上げられるなど、失策の場面がよく放送され、守備の名手として語られることは少ない。しかし実際は数値上では守備能力が高い選手であり、通算守備率.965は角富士夫の.975に次いで三塁手セ・リーグ歴代2位(1000試合以上対象。角は通算1350試合・3296守備機会)に位置し、1500試合以上対象や4200守備機会以上を対象にする場合は三塁手プロ野球歴代1位となる。デビューから晩年まで試合に出場し続け、7353守備機会をはじめ、試合数・刺殺数・補殺数・併殺数など、失策数を除くあらゆる通算守備記録で他の三塁手を圧倒している(すべて三塁手のプロ野球歴代1位)。
シーズンにおいても、守備指標のRRF(レンジファクター)でデビュー以来7年連続を含めて三塁手リーグトップを通算8回(1958年 - 1964年、1967年)記録しており、当時の他の三塁手と比べると極めて突出した数値を残した。1968年からプラスの数値が少なくなり、1970年以降は1973年以外の4シーズンでマイナスを記録しており、34歳以降から守備に衰えが見られる。リーグトップを7年連続・通算8回は共に三塁手歴代1位の成績であり、プラスシーズンの合計値も三塁手歴代1位である。数値からは、全盛期は打球をアウトにする能力が非常に高く、守備範囲の広い三塁手であったことが窺える。214守備機会連続無失策という三塁手のプロ野球記録も保持している。
通算で2度セカンドへの打球をアウトにした事があると語っている。だが、これはさすがに反省しているという旨の発言もしている。また、しばしば普通のショートゴロになる打球を捕りに行ってファインプレーに見せかけたり、フライは「見せ場がないから」という理由で嫌い、普通のサードフライでも無理やりショートに捕らせたりしていたという。
新人時代に起こした自身の一塁ベース空過事件は有名だが、その一方で三塁手として敵チームのベース空過を2度発見している。また、前述した三角ベース事件を3回起こした一方で、敵チームの三角ベース事件も3回発見した。
[編集] 特筆
[編集] 人物
長嶋は天真爛漫・おおらかと形容され、それにまつわる逸話がしばしば紹介される。しかし、それらの話には信憑性が定かではないものも含まれる[36]。
現役時代のオフシーズンには伊豆などで「山ごもり」と称する自主トレーニングを行っていた。しかし、実のところは取材の来る初日と最終日だけ練習の振りを見せ、あとはもっぱら宿の部屋で持ち込んだ画集の画家たちの伝記を読みふけっていることが多かったという。中にはその期間、実際には海外旅行に出かけていたという極端な年もあった[37]。
現役時代、スランプに陥った時は、自身の好きな「不成功に終わった時は、教訓を得るのも大である」という言葉を胸の中で呟き、頑張ったという[2]。
若い頃は大の映画ファンで、立教大学4年の時に淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。なお、映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた[38]。
将棋が趣味であり、日本将棋連盟から球界最高位の五段の免状を授与されている。
座右の銘は「快打洗心」。サインをする場合はこの言葉を添えることが多い。
1961年10月3日付朝日新聞の「わたしが記者なら」というインタビュー記事に以下のような一節があり、物議を醸した。
| “ | なんてったってボクら、保守党の方ですからね。社会党の天下になったら野球、野球っていってられるかどうか、分かりませんからねェ。(本気でそう思いこんでいるような調子)でも、これだけさかんになってれば、全然ダメになるってこともないですよ、ね?[39] | ” |
[編集] 監督時代
野村克也は長嶋の監督としての評価について、著書『巨人軍論』の中で「長嶋は監督としては失格。若手を育てられない」と記している。ただし、高校時代、肋膜炎にかかりプロでは体力面で懸念があった篠塚和典や、脱臼癖があってプロ入りを諦めていた松本匡史をタイトルホルダーにまで育てた例はある。他にも、中畑清、西本聖、角三男、新浦寿夫、山倉和博らを第1次政権下で育て上げている。第1次政権時代の「地獄の伊東キャンプ」で成長した選手たちは、その後に藤田元司監督の下で主力となり、日本一を勝ち取った。そのシーズン終了後、教え子たちは長嶋を極秘裏に中華料理店に招いて祝賀会を開き、店の裏で長嶋を胴上げしたという。
また、チームが1度は放出した西本聖が1994年に再び巨人の入団テストを受けた際、当時の堀内恒夫投手コーチは獲得に反対したが、長嶋は西本を古巣へ復帰させ、自分が前政権で付けていた背番号「90」を譲った。同年で引退した西本の引退試合が多摩川グラウンドで行われた際には、遅れて駆けつけて最後の打者として打席に立つなど、情に厚い面を見せている。
第2次政権下では松井秀喜、仁志敏久、清水隆行、高橋由伸、二岡智宏、阿部慎之助などのドラフト上位選手を腐らせることなく主力選手に育てている。目をかけている選手は、たとえ調子が下がってきても我慢強く起用する傾向があり、上記の新浦などはその典型であった。新人で入ってきた阿部を、捕手の世代交代が急務であったとはいえ起用し続け、それが翌年の急成長につながっている。他にも、高橋由や二岡などがスランプで苦しんだ時期でも我慢して起用し続けた。
選手起用では、1977年での対阪神第1回戦(甲子園球場)で、3対2と1点ビハインドの9回表、2死から土井正三が内野安打で出塁すると、俊足のルーキー松本匡史を代走に送り、すぐさま盗塁をさせ、次打者山本功児の中前適時打で同点に追いついている。盗塁失敗すればゲームセットの場面であるが、長嶋は「松本の足を信頼していた事とヒットが2本続く確率を考えれば、ヒット1本で追いつける場面(ランナー2塁)を作りたかった」という趣旨のことを述べている。
1978年には、対阪神戦で、5回に1点差に迫られてなお無死1・2塁、かつ左打者の藤田平、掛布雅之を迎えた場面で先発投手の小林繁を一旦右翼に回し、左腕の角三男を登板させた。角が藤田・掛布を連続三振に切って取ると、小林を投手に戻し、小林は最後まで投げきって勝利している(記録上は小林の救援勝利)。のちにもう一度小林が先発した際には、小俣進をワンポイント登板させ、同じ策を取ったが、再登板した小林が打たれて敗戦した。1993年には延長戦で投手の岡田展和を代走に起用したり(試合後のインタビューでは「ええ、オガタは足が速いですよ」と語った)、1997年には投手の宮本和知を代打に起用したりしている。
[編集] 長嶋語
長嶋の会話における語法は独特のもので、 ミスターイングリッシュと呼ばれる外来語の多用・「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」など間投詞、修飾語句、接続詞の多用・同じ意味の表現を言葉を変えて展開する二重表現・諺の誤用などが特徴。
[編集] 長嶋茂雄球場
長嶋は浪人(スポーツ報知、日本テレビ放送網客員解説者)時代、日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれたトライアスロン大会のスターターを担当していた。その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬球場(1989年完成)を、1991年に長嶋茂雄球場に改称して長嶋の業績を称えることになった。
[編集] 長嶋ゲート
1980年に巨人軍監督を辞任したが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際、選手時代に巨人軍の三塁手として活躍したことから同球場の三塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で3番ゲートは「長嶋ゲート」として復活して現在に至る。
[編集] ゴルフ大会の冠名
長嶋は、プロ野球を始め日本のスポーツ界の活性化に尽力してきたが、「長嶋ジャパンドリームプロジェクト」に賛同しているセガサミーグループから、同社が主催するセガサミーカップゴルフトーナメントの大会名誉会長就任の要請を受け、2007年から同大会を「長嶋茂雄Invitational セガサミーカップゴルフ大会」として行うことになった。長嶋は表彰式を始めとした期間中のイベントに毎年顔を出している。これまで日本の男子ゴルフ大会では中村寅吉をたたえた「日経カップ 中村寅吉メモリアル」があったが、ゴルファー以外の著名人の冠が大会名に入るのは初めてとなった。
[編集] その他
長嶋は自宅の他に数ヶ所の不動産を所有しているが、政治家の間で「世田谷に住むと出世する」というゲン担ぎがあったため、中曽根康弘が長嶋所有の世田谷区上北沢の家を借りて居住していた時期がある。内閣総理大臣に就任して総理大臣公邸に引っ越すまで居住していた。中曽根の総理大臣指名の日の朝には、この家の玄関に中曽根と長嶋が並んで立つ姿がニュースに映された。
独特なキャラクター性を持つ長嶋の真似をする人も数多く、中でも関根勤は今でも持ちネタにしている。また長嶋に似ているというだけで、地元の水道局を退社してまでタレントに転向したプリティ長嶋は、その芸能活動のおかげで市川市に家を建て、2007年には市議会議員に当選、さらに2011年には県議会議員に当選するに至った程である。
甲子園出場をかけた南関東予選では埼玉県の熊谷高校に敗れたが、息子の一茂も甲子園の埼玉県予選で熊谷高校に敗れている。
ドラマ「イエローカード」では父親役の福田正夫(陣内孝則)が長嶋茂雄の大ファンで息子を一茂と名づけた設定である。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1958 | 巨人 | 130 | 550 | 502 | 89 | 153 | 34 | 8 | 29 | 290 | 92 | 37 | 10 | 1 | 6 | 36 | 15 | 5 | 53 | 3 | .305 | .353 | .578 | .931 |
| 1959 | 124 | 526 | 449 | 88 | 150 | 32 | 6 | 27 | 275 | 82 | 21 | 6 | 0 | 3 | 70 | 17 | 4 | 40 | 9 | .334 | .426 | .612 | 1.038 | |
| 1960 | 126 | 524 | 452 | 71 | 151 | 22 | 12 | 16 | 245 | 64 | 31 | 12 | 0 | 2 | 70 | 32 | 0 | 28 | 8 | .334 | .422 | .542 | .964 | |
| 1961 | 130 | 543 | 448 | 84 | 158 | 32 | 9 | 28 | 292 | 86 | 14 | 11 | 1 | 5 | 88 | 35 | 1 | 34 | 14 | .353 | .456 | .652 | 1.108 | |
| 1962 | 134 | 584 | 525 | 69 | 151 | 38 | 5 | 25 | 274 | 80 | 18 | 7 | 0 | 3 | 51 | 7 | 5 | 61 | 14 | .288 | .354 | .522 | .876 | |
| 1963 | 134 | 577 | 478 | 99 | 163 | 28 | 6 | 37 | 314 | 112 | 16 | 3 | 0 | 10 | 86 | 18 | 3 | 30 | 14 | .341 | .437 | .657 | 1.094 | |
| 1964 | 133 | 566 | 459 | 81 | 144 | 19 | 6 | 31 | 268 | 90 | 13 | 2 | 0 | 6 | 96 | 15 | 5 | 34 | 8 | .314 | .433 | .584 | 1.017 | |
| 1965 | 131 | 560 | 503 | 70 | 151 | 23 | 5 | 17 | 235 | 80 | 2 | 6 | 0 | 5 | 50 | 12 | 2 | 42 | 16 | .300 | .363 | .467 | .830 | |
| 1966 | 128 | 543 | 474 | 83 | 163 | 31 | 3 | 26 | 278 | 105 | 14 | 7 | 0 | 8 | 58 | 14 | 3 | 39 | 17 | .344 | .413 | .586 | .999 | |
| 1967 | 122 | 515 | 474 | 65 | 134 | 25 | 3 | 19 | 222 | 77 | 2 | 3 | 0 | 3 | 37 | 4 | 1 | 37 | 24 | .283 | .334 | .468 | .802 | |
| 1968 | 131 | 569 | 494 | 80 | 157 | 21 | 4 | 39 | 303 | 125 | 8 | 3 | 1 | 5 | 66 | 12 | 3 | 74 | 19 | .318 | .398 | .613 | 1.011 | |
| 1969 | 126 | 546 | 502 | 71 | 156 | 23 | 2 | 32 | 279 | 115 | 1 | 1 | 0 | 4 | 38 | 1 | 2 | 58 | 5 | .311 | .359 | .556 | .915 | |
| 1970 | 127 | 525 | 476 | 56 | 128 | 22 | 2 | 22 | 220 | 105 | 1 | 2 | 0 | 9 | 40 | 1 | 0 | 52 | 15 | .269 | .320 | .462 | .782 | |
| 1971 | 130 | 547 | 485 | 84 | 155 | 21 | 2 | 34 | 282 | 86 | 4 | 3 | 0 | 1 | 59 | 8 | 2 | 45 | 20 | .320 | .395 | .581 | .976 | |
| 1972 | 125 | 520 | 448 | 64 | 119 | 17 | 0 | 27 | 217 | 92 | 3 | 2 | 0 | 8 | 63 | 11 | 1 | 34 | 23 | .266 | .352 | .484 | .836 | |
| 1973 | 127 | 530 | 483 | 60 | 130 | 14 | 0 | 20 | 204 | 76 | 3 | 2 | 1 | 8 | 37 | 3 | 1 | 35 | 20 | .269 | .318 | .422 | .740 | |
| 1974 | 128 | 476 | 442 | 56 | 108 | 16 | 1 | 15 | 171 | 55 | 2 | 1 | 1 | 4 | 24 | 0 | 5 | 33 | 18 | .244 | .288 | .387 | .675 | |
| 通算:17年 | 2186 | 9201 | 8094 | 1270 | 2471 | 418 | 74 | 444 | 4369 | 1522 | 190 | 81 | 5 | 90 | 969 | 205 | 43 | 729 | 257 | .305 | .379 | .540 | .919 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] オールスター通算打撃成績
| 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 43 | 150 | 21 | 47 | 10 | 0 | 7 | 78 | 21 | 8 | 3 | 0 | 1 | 17 | 0 | 0 | 13 | 6 | .313 |
[編集] 日本シリーズ通算打撃成績
| 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 68 | 265 | 49 | 91 | 14 | 2 | 25 | 184 | 66 | 3 | 6 | 0 | 3 | 27 | 1 | 1 | 21 | 5 | .343 |
[編集] 年度別守備成績
| 位置 | 1958 | 1959 | 1960 | |||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 三 | 130 | 129 | 385 | 25 | 31 | .954 | 123 | 103 | 370 | 15 | 25 | .969 | 123 | 92 | 362 | 19 | 30 | .960 |
| 遊 | ─ | ─ | 10 | 14 | 24 | 2 | 4 | .950 | ||||||||||
| 位置 | 1961 | 1962 | 1963 | |||||||||||||||
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 三 | 129 | 125 | 369 | 16 | 30 | .969 | 134 | 120 | 341 | 15 | 29 | .968 | 132 | 114 | 374 | 13 | 33 | .974 |
| 遊 | 8 | 12 | 17 | 1 | 4 | .967 | ─ | ─ | ||||||||||
| 外 | ─ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ─ | ─ | ||||||||||
| 位置 | 1964 | 1965 | 1966 | |||||||||||||||
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 三 | 133 | 118 | 385 | 16 | 30 | .969 | 131 | 117 | 317 | 14 | 24 | .969 | 127 | 109 | 314 | 14 | 20 | .968 |
| 位置 | 1967 | 1968 | 1969 | |||||||||||||||
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 三 | 121 | 88 | 274 | 13 | 29 | .965 | 131 | 111 | 285 | 19 | 31 | .954 | 126 | 109 | 305 | 12 | 22 | .972 |
| 位置 | 1970 | 1971 | 1972 | |||||||||||||||
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 三 | 127 | 88 | 256 | 19 | 8 | .948 | 129 | 79 | 262 | 14 | 21 | .961 | 124 | 103 | 237 | 10 | 28 | .971 |
| 位置 | 1973 | 1974 | 通算成績 | |||||||||||||||
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 三 | 127 | 96 | 279 | 12 | 25 | .969 | 125 | 66 | 210 | 15 | 18 | .948 | 2172 | 1767 | 5325 | 261 | 434 | .965 |
| 遊 | ─ | ─ | 18 | 26 | 41 | 3 | 8 | .957 | ||||||||||
| 外 | ─ | ─ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ─ | ||||||||||
[編集] 年度別監督成績
| 年度 | チーム | 背番号 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1975年 | 巨人 | 90 | 6位 | 130 | 47 | 76 | 7 | .382 | 27 | 117 | .236 | 3.53 | 39歳 |
| 1976年 | 1位 | 130 | 76 | 45 | 9 | .628 | - | 167 | .280 | 3.58 | 40歳 | ||
| 1977年 | 1位 | 130 | 80 | 46 | 4 | .635 | - | 181 | .280 | 3.48 | 41歳 | ||
| 1978年 | 2位 | 130 | 65 | 49 | 16 | .570 | 3 | 136 | .270 | 3.61 | 42歳 | ||
| 1979年 | 5位 | 130 | 58 | 62 | 10 | .483 | 10.5 | 154 | .259 | 3.85 | 43歳 | ||
| 1980年 | 3位 | 130 | 61 | 60 | 9 | .504 | 14 | 153 | .243 | 2.95 | 44歳 | ||
| 1993年 | 33 | 3位 | 131 | 64 | 66 | 1 | .492 | 16 | 105 | .238 | 3.22 | 57歳 | |
| 1994年 | 1位 | 130 | 70 | 60 | 0 | .538 | - | 122 | .258 | 3.41 | 58歳 | ||
| 1995年 | 3位 | 131 | 72 | 58 | 1 | .554 | 10 | 139 | .252 | 3.40 | 59歳 | ||
| 1996年 | 1位 | 130 | 77 | 53 | 0 | .592 | - | 147 | .253 | 3.47 | 60歳 | ||
| 1997年 | 4位 | 135 | 63 | 72 | 0 | .467 | 20 | 150 | .251 | 3.69 | 61歳 | ||
| 1998年 | 3位 | 135 | 73 | 62 | 0 | .541 | 6 | 148 | .267 | 3.74 | 62歳 | ||
| 1999年 | 2位 | 135 | 75 | 60 | 0 | .556 | 6 | 182 | .265 | 3.84 | 63歳 | ||
| 2000年 | 3 | 1位 | 135 | 78 | 57 | 0 | .578 | - | 203 | .263 | 3.34 | 64歳 | |
| 2001年 | 2位 | 140 | 75 | 63 | 2 | .543 | 3 | 196 | .271 | 4.45 | 65歳 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1975年から1996年までは130試合制
- ※3 1997年から2000年までは135試合制
- ※4 2001年から2004年までは140試合制
[編集] 通算監督成績
- 1982試合 1034勝889敗59分 勝率.538
- Aクラス12回、Bクラス3回
- 日本一2回、リーグ優勝5回、最下位1回
[編集] タイトル
- 首位打者:6回 (1959年 - 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回は右打者記録、セ・リーグ記録。3年連続は右打者タイ記録、セ・リーグタイ記録。
- 本塁打王:2回 (1958年、1961年)
- 打点王:5回 (1958年、1963年、1968年 - 1970年)
- 最多安打:10回 (1958年 - 1963年、1966年、1968年 - 1969年、1971年)※6年連続・通算10回は共に日本記録。当時連盟表彰なし。
[編集] 表彰
- MVP:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)※歴代2位タイ。
- 新人王(1958年)
- ベストナイン:17回(1958年 - 1974年)※入団から引退まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。
- ダイヤモンドグラブ賞:2回 (1972年、1973年)※設立は1972年。
- 日本シリーズMVP:4回 (1963年、1965年、1969年、1970年)※歴代1位。
- 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1966年、1972年)
- 日本シリーズ打撃賞:2回 (1969年、1970年)
- 野球殿堂入り(競技者表彰:1988年)
[編集] 記録
[編集] レギュラーシーズン
- シーズン打率3割以上:11回(1958年 - 1961年、1963年 - 1966年、1968年、1969年、1971年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。
- シーズン150安打以上:11回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1971年)※日本記録。
- 打撃ベストテン入り:13回(1958年 - 1966年、1968年 - 1971年)※歴代4位、右打者歴代1位。
- シーズン二塁打数リーグ1位:3回(1958年、1961年、1962年)※セ・リーグタイ記録。
- シーズン20本塁打到達スピード:39試合(1968年)※歴代1位。
- 6年連続シーズン150安打以上(1958年 - 1963年)※セ・リーグ歴代3位。
- 17年連続シーズン100安打以上(1958年 - 1974年)※歴代4位タイ。入団1年目からの記録としては、セ・リーグ記録。
- 2年連続シーズン30敬遠以上(1960年 - 1961年)※日本タイ記録。
- 6試合連続敬遠:2回(1958年9月7日 - 9月15日、1961年8月16日 - 8月22日)※日本記録。
- 4試合連続三塁打(1960年5月8日 - 5月14日)※日本記録。
- シーズン守備機会連続無失策:214(1969年7月17日 - 10月9日)※三塁手日本記録。
- 5年連続開幕戦本塁打(1970年 - 1974年)※日本記録。
- 通算開幕戦本塁打:10本(1959年、1960年、1963年2本、1968年、1970年 - 1974年) ※日本記録。
- 通算サヨナラ本塁打:7本(1959年、1961年、1962年、1963年、1966年、1973年)※歴代6位タイ。
- 通算猛打賞:186回 ※セ・リーグ記録。
[編集] 日本シリーズ
- 通算試合出場:68(1958年、1959年、1961年、1963年、1965年 - 1972年)※歴代5位。
- 通算打率:.343(265打数91安打)※100打数以上では歴代2位、160打数以上では歴代1位。
- 通算打数:265 ※歴代1位。
- 通算得点:49 ※歴代2位。
- 通算安打:91 ※歴代1位。
- 通算二塁打:14 ※歴代1位。
- 通算三塁打:2 ※歴代5位タイ。
- 通算本塁打:25 ※歴代2位。
- 通算塁打:184 ※歴代1位。
- 通算長打:41 ※歴代1位。
- 通算打点:66 ※歴代1位。
- 通算四球:27 ※歴代5位。
- シリーズ打率4割以上:4回(1966年、1968年 - 1970年)※シリーズ記録。
- シリーズ4本塁打(1969年、1970年)※シリーズタイ記録。1970年は5試合シリーズ記録。2回記録したのは長嶋と城島健司(2000年、2003年)のみ。
- 連続打席本塁打:3(1970年)※シリーズ記録。
[編集] オールスターゲーム
- 入団から引退まで現役17年連続ファン投票1位
- 出場回数:16回(1958年 - 1963年、1965年 - 1974年)※1964年にもファン投票で選出されているが、負傷により出場を辞退。
- 通算打率:.313(150打数47安打)※100打数以上では歴代5位、130打数以上では歴代1位。
- 通算安打:47 ※歴代2位タイ。
- 通算二塁打:10 ※歴代2位。
- 通算四球:17 ※歴代2位。
- 通算盗塁:8 ※歴代3位。
[編集] 総合
- 公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上 ※史上唯一。
[編集] 背番号
- 3 (1958年 - 1974年、2000年 - 2001年)
- 90 (1975年 - 1980年)
- 33 (1993年 - 1999年)
[編集] 関連情報
[編集] メディア出演
[編集] テレビ番組
- さよならミスタージャイアンツ(引退特番、日本テレビ)
- 長嶋茂雄、世界を翔ける
- 前橋市制100周年記念ドラマ遥かなる八月の詩(群馬テレビ)
- 名球会VSビートたけし&芸能界ドリームチーム(テレビ朝日)
- 第51回NHK紅白歌合戦 審査員(2000年、NHK総合・BS2)
- 徳光&所のスポーツえらい人グランプリ(日本テレビ)
- 情熱大陸「もうひとりの長嶋茂雄」(毎日放送)
- THE・サンデー(激論バトル など、日本テレビ)
- NHKスペシャル ONの時代(全2回、NHK総合)
[編集] ラジオ番組
- 「TOYOTAメイクハッピー・ようこそ!長嶋茂雄です」(ニッポン放送)
[編集] CM
- 新日本石油
- セコム
- 全日空
- カルピス アミールS
- 日立製作所 パソコン・フローラ - 関根勤と共演。
- 住友生命
- トヨタ・マークII ツインカム24
- 三陽商会 バーバリー・スーツ
- バンホーテン・ココア
- いすゞ・ベレル
- JR東海
- ロッテ - 当時ロッテオリオンズ監督だった金田正一とユニフォーム姿で共演。「ガムはロッテ、野球は巨人」のコピーが台詞だった。
- 三共 ビオタミン・ゴールド
- カルピス - 藤田元司、広岡達朗、金田正一と共演。
- 資生堂 ヴィンテージ
他多数
[編集] 映画
- ミスタージャイアンツ 勝利の旗 (1964年、佐伯幸三監督・東京映画製作・東宝配給)
[編集] 音楽
[編集] 主な著作
- 『燃えた、打った、走った!』(中公文庫 BIBLIO20世紀) ISBN 4-122-03953-3
- 『燃えた、打った、走った!』(日本図書センター「人間の記録」)ISBN 4-8205-4281-8。初版(講談社、1974年)の復刻
- 『長島茂雄のトランジットタイム - はじめてのエッセイ』(電通、1984年)ISBN 4-885-53402-X
- 『人生の知恵袋 ミスターと7人の水先案内人』(幻冬舎)ISBN 4-344-00457-4。対談集
- 『長嶋茂雄 笑顔の言葉』(文藝春秋編・刊)ISBN 4-16-358200-2
- 『長嶋茂雄からのメッセージ 元気と笑顔を、あなたへ』(小林信也編、東邦出版)ISBN 4-8094-0494-3
- 『野球は人生そのものだ』(日本経済新聞出版社)ISBN 4-532-16723-X。「私の履歴書」連載に増補
- 『野球へのラブレター』(文藝春秋:文春新書)ISBN 4-16-660764-2
[編集] 参考文献
- 玉木正之編『定本 長嶋茂雄』ISBN 4-16-753402-9(文春文庫)
- 中公新書ラクレ編集部・織田淳太郎編『論争・長嶋茂雄』ISBN 4121500199(中公新書ラクレ)
- 佐藤清文 生きられた超人─長嶋茂雄:ecce homo!
- 阿川佐和子著 『阿川佐和子のこの人に会いたい 8』 ISBN 9784167435219(文春文庫) - 2011年6月発行。「週刊文春」での長嶋との対談を収録。
[編集] 脚注
- ^ 1993年の2度目の監督就任以前までは、新聞やマスコミにおいては常用漢字ではない、異字体の「嶋」の字は使われず、「長島」姓の表記が使われていたこともあった。
- ^ a b c 沢木耕太郎著「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』収録)
- ^ 大映スターズオーナーの永田雅一が卒業後の獲得を目指して大学1年生の時に長嶋と実家で面会し「優勝するチームで野球がしたい」と言われたことがNHKテレビの『その時歴史が動いた』(2005年2月9日放送分)で紹介されている[1]。
- ^ このほか、阪神タイガースのスカウトを務めていた青木一三が大学を中退させての獲得に向けて本人や家族と交渉したことを著書で明かしている(『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P176 - 178)。青木は「長嶋が2年生の時に起きた大沢らによる砂押の排斥運動の折、練習や規律の厳しさに音をあげた長嶋を中退させたうえで入団させようとしたが、阪神球団で藤村排斥事件が起こり、自らが阪神を退団したため獲得できなかった」と記している。
- ^ 周囲が付けたあだ名ではなく、本人が自称していたという話もある。
- ^ その後は金田を打つようになり、長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313・18本塁打である。
- ^ このケースでは、長嶋は二塁を踏んだ瞬間に一塁を踏み直すことが許されなくなり(公認野球規則7.10(b)(2))、投手がボールを保持してプレーがかかったのち、投手が最初の投球をする前に一塁手の藤井弘が送球を要求し、鵜狩投手から送球を受けて触塁しアピールし、一塁塁審の竹元勝雄がアウトを宣告した。この場合、投手に補殺、一塁手に刺殺が記録され、記録上投手ゴロと同じためこのように伝えられている。
- ^ 少年時代にこの天覧試合をテレビで観戦していた沢木耕太郎は、著作『三人の三塁手』(1975年)の中で、「(長嶋は)子供にも即座に理解できる英雄だった」と記している。
- ^ 松下茂典著「あの日、野球の神様は“背番号3”を選んだ - 天覧試合昭和34年6月25日」
- ^ 監督時代の1993年、皇太子のご成婚当日の試合も劇的なサヨナラ勝利で飾っている。
- ^ 雑誌Number 名勝負列伝
- ^ 雑誌Number 名勝負列伝
- ^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65
- ^ 長嶋のケースでは審判が四球の判定を下しているが、打席上で素手で構えるという行為は、厳密に言えば公認野球規則の「6・02 打者の義務」に抵触している(バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、「打撃姿勢」を取っていないと見なされる可能性がある)。このため、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。
- ^ a b 文春ビジュアル文庫「熱闘!プロ野球三十番勝負」文藝春秋社
- ^ この試合の球審は松橋慶季であり、松橋は佐藤に予め「判っているだろうな。(=投球は直球のみ)」と言っていた(現役引退選手の最終打席は、一つの礼儀として直球勝負とされている)。佐藤も直球を投げるつもりでいたが緊張のあまり手が固くなり、難しい球になってしまった。
- ^ しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用されることもある
- ^ 戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。ここでは「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」として初めてという意味である。
- ^ 当時、90番という背番号は日本のプロ野球の選手(支配下登録者)および監督・コーチの中では最も大きい数字であり、この番号を付けたのは長嶋が最初であった。このため、第1期監督時代には長嶋を指す言葉として「90番」がマスコミの見出しなどにしばしば用いられた。
- ^ この不買運動では読売で約30万部程度、報知で約5万部程度部数が減ったという。
- ^ 当時国内にいくつかあったトライアスロン競技団体の一つで、後に日本トライアスロン連合へ統合。「長嶋茂雄球場」の節も参照。
- ^ 1963年に川上哲治が監督としてライオンズを下して日本一を達成しているが、当時は「西鉄ライオンズ」であった。
- ^ 現役引退前後の頃にも同様の発言をしたことがあり、「野球というスポーツは、人生そのものだと僕は思います。失意と得意、成功と失敗が常に背中合わせになっています。勝者が笑うかげには、常に敗者がいます。栄光のかげに、数知れぬ挫折があります」と語っている(沢木耕太郎著「三人の三塁手」)。
- ^ オリンピック本戦に向けてのチーム編成を進め、正式競技となってからまだ果たしていない優勝(金メダル獲得)への期待と責任を感じる中での発病だった。2007年、北京オリンピックの日本代表監督として本大会の出場権を得た星野仙一が長嶋を訪問した際、長嶋は「ほかの場合とは、勝ち負けの重みが違う。やはり日の丸の重みでしょう」と述べて代表監督の重圧を労った。出典:読売新聞(YOMIURI ONLINE)2007年12月5日付 「星野監督ら、長嶋アテネ五輪監督に五輪出場権獲得を報告」
- ^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから。」と語っている。阿川、2011
- ^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね。」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになった事へのショックと孤独を語っている。阿川、2011
- ^ 長嶋の代理として後輩である中畑清ヘッドコーチが肩書きはそのままにチームの指揮を執ったものの、3位(銅メダル獲得)に終わった。
- ^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。
- ^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011
- ^ 文春ビジュアル文庫「豪球列伝」足立の項
- ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」権藤の項
- ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」
- ^ 他の試合でも、長嶋にささやき戦術を実行したところ、長嶋は「投手の調子はどう?」と聞いてきて、話がかみ合わなかったという。また、オールスター戦で「銀座で女の子たちが(長嶋の)噂しとったで」とささやいたところ、長嶋の返答は「ノムさん、メガネ変えた?」であった。
- ^ 1990年代に行われた名球会のじゃんけん大会にて、2回戦で長嶋と野村が対戦した(対戦の模様は名球会特番としてテレビで放送された)。この際に野村は司会からマイクを向けられ、「この人(長嶋)はわからん。読めない」「27年かかったけど全然わからん」と発言している。対戦では長嶋がグーを出して勝利した。
- ^ a b 『玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る 』(国士舘大学体育スポーツ科学学会 2003年)
- ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズの一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。
- ^ 著書『長島茂雄のトランジットタイム』(1984年、電通)による。
- ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
- ^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。
[編集] 関連項目
- 石原裕次郎 - 長嶋の応援歌「男の友情背番号・3」(1959年)発表。2000年に「ミレニアム・バージョン」として再発。
- 千葉県出身の人物一覧
- 立教大学の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- ヨギ・ベラ - 長嶋と同じく独特の語録を多く持つ元メジャーリーガー
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