長嶋茂雄

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長嶋 茂雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市
生年月日 1936年2月20日(77歳)
身長
体重
178 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月5日
最終出場 1974年10月14日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1972 - 1980, 1993 - 2001)
野球殿堂(日本)
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選出年 1988年
選出方法 競技者表彰

長嶋 茂雄(長島 茂雄[1]、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手内野手)、元プロ野球監督2001年より株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督。国民栄誉賞受賞者。

目次

概要 [編集]

現役時代には「燃える男」と呼ばれる闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで、巨人軍のV9時代王貞治と共に主軸打者として活躍(二人でON砲と呼ばれた)。監督時代・浪人時代にも多くの話題を振りまき、長きに渡りプロ野球ファンを熱狂させ続けたことから、「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」と称される。「ミスター」と略した呼称が定着している。

経歴 [編集]

生い立ち [編集]

1936年、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に、父「利(とし)」と母「ちよ」の間に兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれた。幼少時代、阪神タイガース藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので[2]、初めて握ったバット青竹を割った手製のものであった[3]。小学6年のときに兄が所属していた地元の青年野球団ハヤテ・クラブに入団。兄の下で遊撃手として育てられた。

高校時代 [編集]

1951年4月、千葉県立佐倉第一高等学校に進学する。2年生から4番打者を担う[2]。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉県代表校として出場を果たす。第1回戦、熊谷高校との試合(昭和28年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた[4]。遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放った[5]。このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打[5]を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定した。

この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなった。この本塁打を見ていた1人に朝日新聞記者・久保田高行がいた。久保田からその話をきいた報知新聞記者・田中茂光が、内野手のスカウトにあたっていた富士製鉄室蘭野球部マネージャー・小野秀夫に話をした[6]。小野は長嶋に富士製鉄室蘭への入社を勧めるも、長嶋の父親は進学を希望し、さらに上司から北海道からの新人が内定したとの連絡を受けたため、断念[7]。小野はかわりに、自らの出身校・水戸商高の先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学への進学を勧めた[7]。砂押の教育方針に感銘を受けた長嶋の父親は、読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーも長嶋に知らせない上で、進学を理由に勝手に断っている。プロ入り志望の長嶋は激怒したという。 同年秋、伊東スタジアムで行われた立教大学野球部のセレクションで、フェンス直撃を含む3本のヒットを打ち、砂押にも認められた。

大学時代 [編集]

1954年に立教大学経済学部に進学するが、同年6月に父親が急逝。長嶋家は一家の大黒柱を失い困窮するが、母親が行商をするなどして生計を支えた。この時期、大学を中退してプロ入りすることも考えたが、母親から反対され断念している。野球部では砂押監督に目をかけられ、「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。翌年に先輩の大沢昌芳(大沢啓二)らが砂押排斥運動を起こす[8]。砂押の退任後、辻猛の下で同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において1956年春季・1957年秋季に首位打者を獲得する活躍を見せた。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。1957年には六大学リーグの通算記録となる8本塁打を放った。

高校時代から既にプロ入りが確実視されており、さまざまな球団が長嶋との接触を図っていた[9][10][11]が、本命は南海ホークスとされていた。 時を前後して、読売ジャイアンツが長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦[12]に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手[13]になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」(当初は15を提示されたが拒否)、契約金は当時最高額の1800万円(南海は2000万円を提示していた)、年俸は200万。

鶴岡にはオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪。このとき鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。杉浦は鶴岡への仁義を尽くすとしてそのまま南海入りしたが、その後も長嶋との友情は絶えることがなかった。

巨人選手時代 [編集]

オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂。この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。その後は金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。

その2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放つと、8月6日の対広島戦から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された[14](記録はピッチャーゴロ[15])。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた[14]。長嶋は翌9月20日の対阪神戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。

最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガース田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

同年は全イニング出場を達成したが、新人での全イニング出場は1956年佐々木信也高橋ユニオンズ)に次ぐ史上2人目、セ・リーグでは史上初だった。現在でも新人選手の全イニング出場は長嶋と佐々木の2人だけである。また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。

1959年6月25日後楽園球場で行われた対大阪戦は、昭和天皇が試合を観戦する日本プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は大阪が1点を先制するが、5回に長嶋と5番打者の坂崎一彦が2者連続で本塁打を放って巨人が逆転した。6回には大阪が3点本塁打で試合をひっくり返したが、7回に6番打者・王貞治が2点本塁打を放って同点とした。試合はそのまま進み、4対4で9回裏を迎える展開となる。この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。9回裏、阪神は先発の小山正明を交代し、2番手の村山実が登板。打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールからの5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。

この試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった[16]。それまでは大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は軽んじて見られている面があったが、以降は国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」ともいわれている[17]

この時の長嶋のサヨナラ本塁打は左翼ポール際の上段に突き刺さるものであり、村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、同試合では新人の王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。

2年目となった同年シーズンは、2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。翌年の1960年も打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながら31盗塁を記録。1961年には打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者を獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。

1962年は打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打、打点はリーグ2位。本塁打王と打点王のタイトルは同僚の王貞治が獲得し、同年以降、長嶋と王は巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これは米メジャーリーグニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王、4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番、王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇し(V9)、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。

1963年は打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。1964年はリーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。1965年も王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。

1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った[18]。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。

2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している[19]

長嶋はこの1966年シーズンを打率.344で終え、5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。翌年の1967年は入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。

1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人のコーチの荒川博が退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。

1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。

苦手のコース・球種の無い長嶋は、敬遠を受けることが多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の2死ニ、三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。

敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。1968年5月11日の中日戦、二死2塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。1971年6月17日の広島戦では、7回二死3塁という場面で、広島の井上善夫水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった[20]

1971年5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。

1972年はリーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。同年からコーチ兼任。翌年の1973年シーズンも成績が下降した。1973年シーズン終了後監督の川上より生涯打率3割を切らないうちに引退したほうがよいと引退を勧告されたが、それを拒否し翌年も現役を続けた[21]

1974年10月12日、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝はまるで脇に追いやられてしまったという[22]。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った[3]

引退会見翌日の10月13日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で14日に順延となった。この日は中日の優勝パレードと同日であり、監督の与那嶺要以下、星野仙一高木守道ら主力はパレードへの参加を強制され、中日側は力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺、星野、高木らは電話で長嶋に非礼を詫びている。それに対して長嶋は「こっちのことより、(中日にとって1954年以来の)20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという[22]

引退試合前のミーティングで長嶋はチームメイトに「思い残すことはない。みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶。その後、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王にそっと「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とささやいた。それに対して王は笑って「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と答えている[22]

引退試合の第1試合は3番三塁で出場。第2打席に村上義則から現役最後の本塁打を放った。この試合では王も本塁打を放ち、王の言葉どおり最後(106本目)のONアベック本塁打を記録した。第1試合終了時、長嶋は外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、全く予定外の行動だった。長嶋はこの時の行動について「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている[22]

続く、第2試合は、4番三塁で出場。長嶋はこの試合の第3打席で現役最後の安打をセンター前に放った。最終打席は8回裏1死1、3塁で佐藤政夫から、ショートへの併殺打に終わった。試合は10対0で巨人が勝利。第2試合終了時、長嶋は名残惜しむように一人一人と握手し、最後は王と腰に手を寄せあいながらベンチに引き揚げた。

引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という言葉を残した。この言葉は、しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用される[23][24]

長嶋の引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツにとどまらない社会的事件であった。

同年11月21日、選手時代につけていた背番号3は永久欠番と認定された[25]

第1次巨人監督時代 [編集]

1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編。そのため川上時代のスタッフはほぼ一掃された。新背番号は「90」。新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。

球団としては戦後初の非日系の外国人選手[26]であるデーブ・ジョンソンを獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンはメジャーリーグ情報を長嶋に伝えるパイプとしての役割もあり、度々長嶋家にメジャーの試合を録画したものを持ち寄り、長嶋一家とともに鑑賞していた。この場に立ち会った一茂はメジャーに憧れ、野球(リトルリーグ)や、独学でウエイトトレーニングを始めた。

1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。そのため1975年のオフには「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲高橋一三富田勝との交換で獲得。さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だったが、「球の速い方」の加藤を選択したとの関係者の証言あり)。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。 1977年シーズン中にヤクルトから倉田誠との交換で当時巨人キラーと言われていた浅野啓司を獲得するなどし、「3年目こそ、長嶋の真価が問われる」という声の中、リーグ優勝を果たす(V2)。

1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とする。

1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、いったんは首位に立つものの力尽き、結局、広岡達朗率いるヤクルトが優勝した。同年オフに江川事件がおきており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。

1979年は5位に終わった。長嶋は若手を率いて伊東スタジアムで秋季キャンプを行なった(伊東キャンプ)。このキャンプで若手の結束力が高まる。キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、のちに若手は藤田元司時代の主力選手となる。

また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイトを獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であり、伊東キャンプでも臨時コーチを務めた青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。

野球マスコミやファンの間では、栄光のV9時代を懐かしみ、前監督の川上哲治の待望論が徐々に出るようになっていった。実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)する[27]ようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、11人のコーチが解任される。

1980年8月には当の川上が、週刊文春の座談会で長嶋の後継監督について語り、長嶋批判・長嶋おろしの波は避けられないものになった。最終的に、球団のオーナーである正力亨ではなく、読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった。川上派の批判に晒され続けた長嶋は、川上(とその一派)による数年かけた裏工作の結果とみなし、長嶋の川上への悪感情は決定的なものになった[28]。川上がOB会会長になった後はOB会への欠席を続け、1990年に、OB会から今年出席しないと除籍という勧告を受けて[29]、しぶしぶ出席したのをきっかけに川上と「和解」。 長嶋は辞任という名の「事実上の解任」後、正力からフロントへの入閣を進められたが、フロントは性にあわないと拒否し、個人事務所「オフィスエヌ」を設立し、浪人時代を始める。

後継監督には藤田元司が就いたが、藤田は前述の座談会に参加しており、また同座談会で川上が後継監督として名前を挙げていたこともあり、「長嶋派」のマスコミからバッシングの対象とされ、1981年に日本一になった際にもそれは続いた。

第1次監督退任以降 [編集]

浪人時代は野球のみならずスポーツ全般の伝道者的役割、スポーツ外交官的役割を演じた。特に浪人1年目、1981年は、2月キューバ文化視察、同月(設立前の)韓国野球委員会での講演、同年6月中国棒塁協会での野球指導、同年10月ワールドシリーズ観戦などと世界中を駆け巡った。

この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組に多数出演。独特のキャラクターが受け、面白いオジサンのイメージが定着。翌1982年1月に報知新聞社の客員評論家に就任。 その後、1984年11月、ギネスブックジャパン代表に就任。1985年10月、日本トライアスロン連盟会長に就任[30]。1986年11月、花と緑の農芸財団理事長に就任。1988年12月、国際児童交流財団ウェーブ二千(WAVE2000)を設立し、会長に就任するなど、野球以外の社会活動も行った。

第2次巨人監督時代 [編集]

1990年の川上哲治との和解、1991年の務臺光雄の死去、渡邊恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がり、1992年オフに報知新聞社客員を辞任し、1992年10月12日に監督復帰会見を行う。新背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)。同年11月のドラフト会議において、星稜高等学校松井秀喜を引き当てた。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(のちにチャージ&チャージ)を標榜。浪人時代に感銘を受けたキューバ野球の実践を目指した。現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させ、また一茂をヤクルトから金銭トレードで獲得し、親子で巨人の一員となる。

復帰初年度の1993年は3位に終わった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。

翌1994年には中日と同率で最終戦を迎え、リーグ優勝達成。試合前から、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメントしており、後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。さらには、巨人の監督として初めて西武ライオンズに勝利て長嶋の指揮では初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。その後も1996年には広島に最大11.5ゲーム差をつけられが、リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる(1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用したが、いずれもV逸に終わっている)。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役を引退させる。

この間長嶋は監督にとどまり続けるが、シーズンオフになるたびに後継監督候補として、堀内恒夫や森祇晶、江川卓などのOBの名が取りざたされた。その中、後任とさせるために1998年より原辰徳を一軍コーチとして入閣させる。

1998年、7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。長嶋は著書『野球は人生そのものだ』の中で、監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた[31]

2000年には、FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号3に変更。当初、この背番号3を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号3の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。同年、長嶋率いる巨人は日本シリーズで、王貞治が監督の福岡ダイエーホークスに勝利し日本シリーズ優勝達成。

2001年、この年をもって監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退および原辰徳ヘッドコーチを後任の監督とする発表がなされた記者会見での「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた[32]

第2次監督退任以降 [編集]

2002年2月に宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。7月には立教学院栄誉賞(第1号)を受賞する。12月、アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。

2003年11月に行われたアジア選手権で中国台湾韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月4日、脳梗塞で倒れ、入院。[33][34]一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、一茂が「(アテネには)行かせられない」と記者会見を行った[35]ため、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。長嶋の代理としてヘッドコーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。

2005年7月3日、長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4ヵ月ぶりに公の場に姿を現した。同観戦には同年1月1日から「球団代表特別補佐」となった一茂が同行した。この時は事実上読売グループの独占取材となり、長嶋の肉声は伝えられなかったが、同年11月4日に皇居で行われた天皇皇后夫妻との懇談会に出席した際には、軽い会話に応じる長嶋の姿が広く伝えられた。

2005年11月3日、平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。2006年には少年の野球教室に飛び入りで参加し、リハビリの成果もあって少しずつ公の活動を拡大した。また、アテネオリンピックの代表選手達を中心に2005年から始められた「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」[36]にも特別ゲストとしての参加が可能となり、子ども達への野球指導を行った。

2007年7月、日本経済新聞の人気企画「私の履歴書」に登場した。

2009年9月に放送されたNHKスペシャル「ONの時代」(全2回)に出演し、いくらかの後遺症は残っているものの、自らの言葉でインタビューに応じた。テレビでの長時間インタビューは発病後初で、長嶋は「周辺からは『テレビには出ないほうが良い』という意見もあった」と明かしながら、自宅周辺での歩行訓練や筋力トレーニングなどのリハビリを公開した。2010年には「週刊文春」誌上で阿川佐和子と対談を行い、発病時の様子を振り返っている[37]

2012年11月、キューバより、友好勲章を授与される。

2013年4月1日午後、日本政府の内閣官房長官菅義偉は記者会見で、国民栄誉賞授与について、松井秀喜と同時に受賞する方向で検討していることを明らかにし[38][39][40]、同月16日に正式決定[41]。同年5月5日の東京ドームの巨人対広島戦の試合前に、松井秀喜の引退セレモニーと合わせて、国民栄誉賞授与式が行われ、8年ぶりに「国民栄誉賞をいただきましてありがとうございます」と、公でスピーチ[42]を行い、試合前の始球式では長嶋が片手打ちで打席に入り、投手に松井、捕手は巨人の監督の原辰徳、球審は首相の安倍晋三が務めた[43][44][45]

プレースタイル [編集]

打撃 [編集]

金田正一、村山実権藤博足立光宏江夏豊板東英二稲尾和久など複数の投手、また捕手としてオールスターゲームや日本シリーズで対戦した野村克也が長嶋を「計算できないバッター」と評している。権藤や足立は「長嶋さんは打てそうもないコースでもバットを投げ出したり瞬間的に腕を畳んだりしてヒットにするバッターだった。」と評しており、「打てるボールを確実に打つ。ポテンシャルが高いのでほとんどのストライクゾーンに来るボールは王にとって『打てるボール』になってしまうのだが、打てないボールまでなんとか打つというタイプではなかった」と評する王と対比している[46][47]。江夏は「打席ごとになぜ打たれたのか、なぜ打ち取れたのかが全くわからない」と長嶋について語っており、野村は著書『巨人軍論』のなかで、長嶋を「来た球を打てる天才」と称している。

極端ともいえるアウトステップが特徴だった。川上哲治は「並みの打者なら1割もおぼつかないフォーム。長嶋は天性の能力でバットのヘッドを最後まで残していたため、あんなフォームでもいろいろなボールに対応できた」と評しており、少年野球教室などでは「あの打ち方は長嶋だからできるもの。真似してはいけない」と諭していた。この点は金田正一も触れており、「シゲはどんなに体勢が崩れていても、バットのヘッドが最後の最後まで残っていたので、最後の瞬間まで油断できなかった。すごい迫力だった」と語っている。

広島カープの「王シフト」を生みだすきっかけとなった東洋工業コンピューターは、当然長嶋についても同様のデータを分析したが、長嶋については全く特徴的な傾向が見られず、「長嶋シフト」を作ることはできなかったという。岡崎満義は、「王シフトを作らせ、それをものともせずホームランを打ち続けた王は本当に偉大。しかし同時に長嶋シフトを作らせなかった長嶋もすごい。」と評している。

長嶋の空振りは、脱げたヘルメットが三塁ベンチの方へ飛んでいったといわれる程で、豪快な空振りでファンを沸かせた。ファンを魅了することを前提に、普段から空振りしたときにヘルメットを飛ばす練習をしていたという[要出典]。また、空振りしたときにヘルメットが回って飛びやすいように、アメリカから楕円形のヘルメットを取り寄せ、愛用していた[要出典]。このような豪快な空振りやデビュー時の4打席4三振などから三振のイメージが強いが、実際にはスラッガーとしては三振は少ないほうだった。三振数の打数に対する割合.090は、通算400本塁打以上を放った15人(2011年現在)の中では張本勲土井正博に次いで低い。また、400本塁打以上を記録した打者の中で三振率が1割を切っているのはこの3人だけである。

首位打者を獲得したシーズンはすべて安打数でもリーグトップだった。シーズン最多安打10回は現在もプロ野球記録(6年連続を含むが、これもプロ野球記録)。また、6回の首位打者のうち最も2位との差が小さかったのは1963年・古葉毅との2厘差で、それ以外の5回はすべて1分5厘以上の差をつけての文句なしの首位打者だった。6回の首位打者のうち2回(1959年、1971年)は長嶋がセ・リーグ唯一の3割打者である。

長嶋が全盛期だった時代はリーグ平均打率が.230など極端な打低投高の環境下であり、さらに引退後には打者に有利なラビットボールが普及した。そのため、傑出値をはかるセイバーメトリクスRC関連、XR関連、長打率傑出度やOPS傑出度など)においては、ほとんどの通算記録指標で長嶋はプロ野球歴代3位以内に位置する。打率傑出度(RBA)でも右打者歴代1位であり、その時代で傑出した打者だったことがわかる。また、当時行われていた日米野球戦では、他の多くの選手が通算打率1割台から2割前後の中、長嶋は69試合で打率.295(200打数59安打)と高いアベレージを記録しており、通算で場外本塁打を含む6本塁打や27打点・26四死球・5盗塁などを残した。

王がホームランバッターとして覚醒した以降は本塁打王のタイトルを獲得することはなかったが、特に打率・打点で二冠王だった1963年は王とわずか3本差で本塁打王のタイトルを逃し、打率・本塁打で二冠王だった1961年桑田武に8打点差で打点王のタイトルを奪われて三冠王を逃した。一方で1968年から1970年の3年間は、王が首位打者・本塁打王・打点2位で打点王を長嶋が獲得し、3年連続で王の三冠王を阻んでもいる。打率・本塁打・打点の部門において「二冠王、残りの1部門がリーグ2位」のシーズンを1958年・1961年・1963年の通算3回残したが、これは王の5回と中西太の4回に次いで歴代3位の記録である。

新人年の1958年はあと1本三塁打を打っていれば田宮謙次郎(8本)と並ぶリーグ最多となり、「単打(83)、二塁打(34)、三塁打、本塁打(29)のすべてでリーグ最多」という大記録を達成するところだった。現在も日本ではこの記録の達成者は1人もいない。また、現役時代は多くのタイトルを総なめにしたが、意外なことにサイクル安打は一度も達成できなかった。1試合4安打以上を通算26試合、5安打を1試合記録しているが、うち26試合では三塁打を打てなかった。唯一三塁打を打った試合では、二塁打1本、三塁打2本、本塁打1本で単打がなく、サイクル安打を逃している。

通算205敬遠、打率ベストテン入り通算13回などは右打者歴代1位であり、通算2471安打は金本知憲に抜かれるまで長らく大卒選手の歴代最多記録であった。セ・リーグ一筋で活躍し、通算において、二塁打・三塁打・長打・打点・犠飛数すべての右打者のセ・リーグ記録を保持している。また、通算安打を実働年数で割った平均安打数は145本に達し、同時代に活躍した張本勲134本、榎本喜八128本、福本豊127本、王貞治126本、野村克也111本、衣笠祥雄110本、門田博光106本など他の一流打者の平均本数と比べても突出しており、現役時代は右打者ながらハイペースで安打を積み重ねた。通算打率.305は7000打数以上の選手中では歴代4位、8000打数以上の選手中では歴代2位(右打者では歴代1位)である。

大舞台でよく打ち、勝負強さが印象付けられている。日本シリーズでは通算68試合に出場して出塁率.402・長打率.694・OPS1.096の成績を残し、シリーズの初戦では通算12試合で打率.429(49打数21安打4本塁打)を記録した。日本シリーズMVP通算4回獲得は史上最多である。2本塁打を放った天覧試合については、チームメートの広岡達朗は「天覧試合は長嶋のためにあったようなもの。」と語っており、「彼がああいう舞台で力をきっちり出せるのは、実力もさることながら物の考え方(大舞台に物怖じせず、むしろ楽しむ)が素晴らしいものを持っていたのが大きい」と評している[48]1966年11月6日の日米野球戦・天覧試合でも場外本塁打を放っており、皇室観戦試合では通算10試合で打率.514(35打数18安打7本塁打)を記録した。

捕手による「ささやき戦術」が全く効かなかった選手でもあり、野村克也は幾度となく、長嶋には通用しなかったと発言している。また、辻恭彦には「おいダンプ(辻の愛称)、うるせえ! 野球をやれ野球を!」と怒鳴り、放屁で攻撃したことがある。

走塁 [編集]

若い頃はたいへんな俊足と思い切りの良い走塁が持ち味のひとつだった。ランニング本塁打が多く、1958年の日本シリーズでも記録しており、1960年7月17日大洋戦では敬遠球を打ちにいってランニング本塁打を記録した。また、1960年8月21日国鉄戦では、一死一・二塁で王が打ち上げたレフトフライで、一塁ランナーだった長嶋は勢いよくスタートを切り、二塁に戻ろうとした二塁ランナーだった藤尾茂を追い抜いてアウトとなっている。

新人時代に4番打者も務めながら37盗塁を記録するなど、若い頃は盗塁が多かった。しかし長嶋本人は「走ることは大好き」と言いつつも、「一塁から二塁への走塁はあまり興味なかった。一塁から三塁への距離感が大好きだった」と語っている。長嶋の三塁打は通算74本(歴代8位、右打者では広瀬叔功に次いで歴代2位)と多く、1960年5月には4試合連続三塁打の日本記録も作った。「観客に一番アピールして喜んでもらえるのは三塁打であるという理由から、自分のプロとしての売り物は三塁打だと考えていた」と語っている[49]新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」は、ショート頭上すれすれをラインドライブするような当たりだったので「よし、三塁打だ!」と思って全力疾走したために起きたという[49]

30歳前後になるまでは、単打性の当たりでも隙があれば積極的な走塁で果敢に次の塁を狙い、三塁打が多い一方で二塁打も多かった(通算418本は歴代7位、右打者では山内一弘に次いで歴代2位)。リーグ最多二塁打通算3回というセ・リーグタイ記録も持っている。

ホームスチールを6回試みて2回成功させている。その他、一塁走者として、後続打者の外野フライにより二塁を回った地点から帰塁する際、二塁を通過しながら二塁を空過して一塁に帰るという三角ベース事件を、1960年・1964年・1968年の3回起こしている。

守備 [編集]

普通の三塁手よりも1.5メートルほど後ろに守り、特に横(一塁側に向かうライン)の守備範囲が広く、遊撃手や投手の守備範囲の打球も横取りするようにキャッチすることが多かった。このことは広岡達朗堀内恒夫が証言している。長嶋によれば「あの範囲の打球は三塁手の最大の見せ場」という。また、スローイングの後で右手をヒラヒラさせる独特の動きがあり、これは歌舞伎の動きから取ったもの。

なんでもないゴロをトンネルする珍プレーがテレビで取り上げられるなど、失策の場面がよく放送され、守備の名手として語られることは少ない。しかし実際は数値上では守備能力が高い選手であり、通算守備率.965は角富士夫の.975に次いで三塁手セ・リーグ歴代2位(1000試合以上対象。角は通算1350試合・3296守備機会)に位置し、1500試合以上対象や4200守備機会以上を対象にする場合は三塁手プロ野球歴代1位となる。デビューから晩年まで試合に出場し続け、7353守備機会をはじめ、試合数・刺殺数・補殺数・併殺数など、失策数を除くあらゆる通算守備記録で他の三塁手を圧倒している(すべて三塁手のプロ野球歴代1位)。

シーズンにおいても、守備指標のRRF(レンジファクター)でデビュー以来7年連続を含めて三塁手リーグトップを通算8回(1958年 - 1964年、1967年)記録しており、当時の他の三塁手と比べると極めて突出した数値を残した。1968年からプラスの数値が少なくなり、1970年以降は1973年以外の4シーズンでマイナスを記録しており、34歳以降から守備に衰えが見られる。リーグトップを7年連続・通算8回は共に三塁手歴代1位の成績であり、プラスシーズンの合計値も三塁手歴代1位である。数値からは、全盛期は打球をアウトにする能力が非常に高く、守備範囲の広い三塁手であったことが窺える。シーズン214守備機会連続無失策という三塁手のプロ野球記録も保持している(連続シーズンでは2012年宮本慎也が更新)。 若手の頃はわずかながら遊撃手外野手としても出場している。

人物 [編集]

長嶋は天真爛漫・おおらかと形容され、王貞治のマジメ・神経質と対比させて語られる事が多いが、身近な人によると全く逆だそうである[50]

常人には計り知れない独特の感覚を持ち、それにまつわる逸話が数多く持っている。それらの話には信憑性が定かではないものも含まれる[51]

会話における語法も独特のもので、現役時代には既に一つのセンテンスの中で主語と述語がで何度も繰り返され話の切れ目がないような話し方であり、取材記者の間では「長嶋話法」とも呼ばれていた。監督時代には「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」などを多用し、間を空けるようになる。1981年に大友康平に語ったところによると「ついうっかり発言していろんな人を傷つけちゃいけない、誤解を与えちゃいけないと、言葉を選んでいたらあんな風な話し方になった」[52]

日本語と英語が不自然に混じった、あるいは英語にしなくてもいい部分まで英語にしてしまう「ミスターイングリッシュ」も有名(例:「失敗は成功のマザー」、のことを「さかなへんにブルー」[53])。一説によれば、結婚後に家庭内で英語で会話していたからこのような話し方になったという[54]

他人の名前の記憶が不安定(仲の良い人でも忘れることがある一方、一度会っただけの人は覚えていたりする)だったり、諺の誤用や二重表現などをよくしたりと初聞では何を言ってるのかわからない事が多々ある。ただし、会話自体よりボディ・ランゲージでコミュニケーションを取るタイプの人間でもある。

多趣味であり、立教大学4年の時には淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。なお、映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた[55]。その他の趣味には読書(現役時代は歴史小説や戦記小説、監督時代は管理学の本や確率論の本など)、絵画鑑賞(モディリアーニを好む)、将棋など。将棋に関しては中原誠から名誉三段の免状を授与されている。

座右の銘は「快打洗心」。飛田穂洲の「一球入魂、快打洗心」から拝借したもので、現役時代のサインにはこの言葉を添えることが多かったが、監督時代のサインには快打を取り「洗心」あるいは洗まで取り「心」という言葉を添えていた。 現役時代には画家の林武と交流があり、数度氏のアトリエで絵を習っている。林の「赤富士」を複数所持し、家に飾っていた。画家の絹谷幸二とも交流が深く、2001年に合作で「新世紀生命富士」という絵を描いている。

1961年10月3日付朝日新聞の「わたしが記者なら」というインタビュー記事に以下のような一節があり、物議を醸した。

なんてったってボクら、保守党の方ですからね。社会党の天下になったら野球、野球っていってられるかどうか、分かりませんからねェ。(本気でそう思いこんでいるような調子)でも、これだけさかんになってれば、全然ダメになるってこともないですよ、ね?[56]

1982年9月、バチカン市国にてローマ法王に謁見。1988年3月にバチカン有功十字勲章を授与されている。現役時代からマスコミには出ない形で社会福祉活動に携わっていたことが評価されたもの。なお、大学時代には北原怜子とも交流があった。

新浦壽夫三星ライオンズ入りの際に尽力し、三星のオーナーから珍島犬をプレゼントされた。輸入禁止品目だったが、超法規的措置がとられたと言われている。

家族 [編集]

生家は親の代まで豆腐屋をやっていた。父・利は臼井町役場の収入役や助役を勤めていたが、1954年に急死。死因を心臓病とする文献と脳溢血とする文献がある。母・としは1994年に老衰で死去。

1964年10月、報知新聞社の「ON五輪をゆく」という企画で東京オリンピックコンパニオン数人と対談をした際に、その中の一人西村亜希子に一目ぼれし、同年11月26日に婚約。翌1965年1月26日に結婚。後に2男2女をもうける。野生児教育とも呼ばれる極度の放任主義で子供たちを育てたことが知られている。長男は長嶋一茂(ジャイアンツ球団代表特別補佐)、二女は長嶋三奈(元テレビ朝日スポーツ局記者)、二男は長嶋正興レーシングドライバー)。

家庭を教育面で仕切っていた亜希子夫人は2007年9月18日に心不全で死去。

交友関係 [編集]

長嶋は自宅の他に数ヶ所の不動産を所有(その管理が長嶋の個人事務所オフィスエヌの主要業務)している。政治家の間で「世田谷に住むと出世する」というゲン担ぎがあったことから、中曽根康弘が長嶋所有の世田谷区上北沢の家(現役時代、田園調布に引っ越す前に住んでいた家)を借りて、1980年初頭から2001年まで居住していた。(内閣総理大臣時代は総理大臣公邸に一時引越し)。中曽根の総理大臣指名の日の朝には、この家の玄関に中曽根と長嶋が並んで立つ姿がニュースに映された。

石原裕次郎とは親友であり、1962年1月に共に米国旅行している。その際、長嶋が機内でタバコを吸い始めて、スチュワーデスに「No Smoking!」と注意されるやいなや、自らの腕に吸殻を押し付けて消したという「事件」があり、石原は度々ネタにしていた[57]。また、石原らと副業で四谷にレストランを開業したことがある。なお、石原は1959年には長嶋の応援歌「男の友情背番号・3」を発表している。2000年に「ミレニアム・バージョン」として再発。

ビリー・マーチンとも仲がよく、自著にはよく登場した。

著名な番記者に佐藤安弘新宮正春がいる。

長嶋の第2次監督時代、長嶋の後援会「燦燦会」が設立されている。呼びかけ人は渡辺恒雄。会員は東京電力平岩外四アサヒビール樋口廣太郎ソニー盛田昭夫ら。

独特なキャラクター性を持つ長嶋のものまねをする人も数多く、中でも関根勤は今でも持ちネタにしている。また、長嶋に似ているというだけで、地元の水道局を退社してまでタレントに転身したプリティ長嶋は、その芸能活動のおかげで市川市に家を建て、2007年には市議会議員に当選、さらに2011年には県議会議員に当選するに至った程である。

サイン破りからサイン無しへ [編集]

いつ頃扱いが変わったのかは明らかにされていないが、1964年8月6日に起きた広岡達朗の試合途中帰宅事件(広岡の打席で長嶋がホームスチールを行い、それをサインプレーと勘違いした広岡が監督批判をした上に試合中にもかかわらずそのまま帰宅した事件)時以前には既に扱いが変わっていた。

広岡は後に自著『監督論』で、当時あのプレーはサインプレーだったと思い込んでいたこと、以前にも長嶋がホームスチールをしていて頭にきていたことなどを語り、長嶋の特別扱いの件にも触れている。

長嶋茂雄球場 [編集]

1985年10月から日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれていたトライアスロンの国際大会のスターターを担当していた。その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬球場(1989年完成)を、1991年に長嶋茂雄球場に改称して長嶋の業績を称えることになった。

長嶋ゲート [編集]

1980年に巨人軍監督を辞任したが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際、選手時代に巨人軍の三塁手として活躍したことから同球場の三塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で3番ゲートは「長嶋ゲート」として復活して現在に至る。

ゴルフ大会の冠名 [編集]

長嶋は、プロ野球を始め日本のスポーツ界の活性化に尽力してきたが、「長嶋ジャパンドリームプロジェクト」に賛同しているセガサミーグループから、同社が主催するセガサミーカップゴルフトーナメントの大会名誉会長就任の要請を受け、2007年から同大会を「長嶋茂雄Invitational セガサミーカップゴルフ大会」として行うことになった。長嶋は表彰式を始めとした期間中のイベントに毎年顔を出している。これまで日本の男子ゴルフ大会では中村寅吉をたたえた「日経カップ 中村寅吉メモリアル」があったが、ゴルファー以外の著名人の冠が大会名に入るのは初めてとなった。

その他 [編集]

山口県周南市に存在する人間魚雷回天の資料などを展示する『回天記念館』の敷地内には、長嶋茂雄が揮毫した英霊鎮魂の碑が建立されている[58]

詳細情報 [編集]

年度別打撃成績 [編集]

















































O
P
S
1958 巨人 130 550 502 89 153 34 8 29 290 92 37 10 1 6 36 15 5 53 3 .305 .353 .578 .931
1959 124 526 449 88 150 32 6 27 275 82 21 6 0 3 70 17 4 40 9 .334 .426 .612 1.038
1960 126 524 452 71 151 22 12 16 245 64 31 12 0 2 70 32 0 28 8 .334 .422 .542 .964
1961 130 543 448 84 158 32 9 28 292 86 14 11 1 5 88 35 1 34 14 .353 .456 .652 1.108
1962 134 584 525 69 151 38 5 25 274 80 18 7 0 3 51 7 5 61 14 .288 .354 .522 .876
1963 134 577 478 99 163 28 6 37 314 112 16 3 0 10 86 18 3 30 14 .341 .437 .657 1.094
1964 133 566 459 81 144 19 6 31 268 90 13 2 0 6 96 15 5 34 8 .314 .433 .584 1.017
1965 131 560 503 70 151 23 5 17 235 80 2 6 0 5 50 12 2 42 16 .300 .363 .467 .830
1966 128 543 474 83 163 31 3 26 278 105 14 7 0 8 58 14 3 39 17 .344 .413 .586 .999
1967 122 515 474 65 134 25 3 19 222 77 2 3 0 3 37 4 1 37 24 .283 .334 .468 .802
1968 131 569 494 80 157 21 4 39 303 125 8 3 1 5 66 12 3 74 19 .318 .398 .613 1.011
1969 126 546 502 71 156 23 2 32 279 115 1 1 0 4 38 1 2 58 15 .311 .359 .556 .915
1970 127 525 476 56 128 22 2 22 220 105 1 2 0 9 40 1 0 52 15 .269 .320 .462 .782
1971 130 547 485 84 155 21 2 34 282 86 4 3 0 1 59 8 2 45 20 .320 .395 .581 .976
1972 125 520 448 64 119 17 0 27 217 92 3 2 0 8 63 11 1 34 23 .266 .352 .484 .836
1973 127 530 483 60 130 14 0 20 204 76 3 2 1 8 37 3 1 35 20 .269 .318 .422 .740
1974 128 476 442 56 108 16 1 15 171 55 2 1 1 4 24 0 5 33 18 .244 .288 .387 .675
通算:17年 2186 9201 8094 1270 2471 418 74 444 4369 1522 190 81 5 90 969 205 43 729 257 .305 .379 .540 .919
  • 各年度の太字はリーグ最高

オールスター通算打撃成績 [編集]

























43 150 21 47 10 0 7 78 21 8 3 0 1 17 0 0 13 6 .313

日本シリーズ通算打撃成績 [編集]

























68 265 49 91 14 2 25 184 66 3 6 0 3 27 1 1 21 5 .343

年度別守備成績 [編集]

位置 1958 1959 1960
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
130 129 385 25 31 .954 123 103 370 15 25 .969 123 92 362 19 30 .960
10 14 24 2 4 .950
位置 1961 1962 1963
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
129 125 369 16 30 .969 134 120 341 15 29 .968 132 114 374 13 33 .974
8 12 17 1 4 .967
1 0 0 0 0
位置 1964 1965 1966
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
133 118 385 16 30 .969 131 117 317 14 24 .969 127 109 314 14 20 .968
位置 1967 1968 1969
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
121 88 274 13 29 .965 131 111 285 19 31 .954 126 109 305 12 22 .972
位置 1970 1971 1972
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
127 88 256 19 8 .948 129 79 262 14 21 .961 124 103 237 10 28 .971
位置 1973 1974 通算成績
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
127 96 279 12 25 .969 125 66 210 15 18 .948 2172 1767 5325 261 434 .965
18 26 41 3 8 .957
1 0 0 0 0

年度別監督成績 [編集]

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1975年 巨人 90 6位 130 47 76 7 .382 27 117 .236 3.53 39歳
1976年 1位 130 76 45 9 .628 - 167 .280 3.58 40歳
1977年 1位 130 80 46 4 .635 - 181 .280 3.48 41歳
1978年 2位 130 65 49 16 .570 3 136 .270 3.61 42歳
1979年 5位 130 58 62 10 .483 10.5 154 .259 3.85 43歳
1980年 3位 130 61 60 9 .504 14 153 .243 2.95 44歳
1993年 33 3位 131 64 66 1 .492 16 105 .238 3.22 57歳
1994年 1位 130 70 60 0 .538 - 122 .258 3.41 58歳
1995年 3位 131 72 58 1 .554 10 139 .252 3.40 59歳
1996年 1位 130 77 53 0 .592 - 147 .253 3.47 60歳
1997年 4位 135 63 72 0 .467 20 150 .251 3.69 61歳
1998年 3位 135 73 62 0 .541 6 148 .267 3.74 62歳
1999年 2位 135 75 60 0 .556 6 182 .265 3.84 63歳
2000年 3 1位 135 78 57 0 .578 - 203 .263 3.34 64歳
2001年 2位 140 75 63 2 .543 3 196 .271 4.45 65歳
※1 太字は日本一
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制
※4 2001年から2004年までは140試合制

通算監督成績 [編集]

  • 1982試合 1034勝889敗59分 勝率.538
  • Aクラス12回、Bクラス3回
  • 日本一2回、リーグ優勝5回、最下位1回

タイトル [編集]

  • 首位打者:6回 (1959年 - 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回は右打者記録、セ・リーグ記録。3年連続は右打者タイ記録、セ・リーグタイ記録。
  • 本塁打王:2回 (1958年、1961年)
  • 打点王:5回 (1958年、1963年、1968年 - 1970年)
  • 最多安打:10回 (1958年 - 1963年、1966年、1968年 - 1969年、1971年)※6年連続・通算10回は共に日本記録。当時連盟表彰なし。

表彰 [編集]

  • MVP:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)※歴代2位タイ。
  • 新人王(1958年)
  • ベストナイン:17回(1958年 - 1974年)※入団から引退まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。
  • ダイヤモンドグラブ賞:2回 (1972年、1973年)※設立は1972年。
  • 日本シリーズMVP:4回 (1963年、1965年、1969年、1970年)※歴代1位。
  • 日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1966年、1972年)
  • 日本シリーズ打撃賞:2回 (1969年、1970年)
  • 野球殿堂入り(競技者表彰:1988年)
  • 国民栄誉賞(2013年)

記録 [編集]

初記録 [編集]

  • 初出場・初先発出場:1958年4月5日、対国鉄スワローズ1回戦(後楽園球場)、3番・三塁手で先発出場
  • 初安打:1958年4月6日、対国鉄スワローズ3回戦(後楽園球場)、4回裏に三林清二から中越二塁打
  • 初打点:1958年4月9日、対大洋ホエールズ2回戦(後楽園球場)、8回裏に秋山登から右中間へ2点適時二塁打
  • 初本塁打:1958年4月10日、対大洋ホエールズ3回戦(後楽園球場)、3回裏に権藤正利から左越2ラン

節目の記録 [編集]

  • 100本塁打:1961年10月6日、対国鉄スワローズ26回戦(明治神宮野球場)、9回表に巽一から左越ソロ ※史上23人目
  • 150本塁打:1963年8月4日、対大洋ホエールズ18回戦(川崎球場)、3回表に鈴木隆から左越先制ソロ ※史上15人目
  • 1000本安打:1964年6月20日、対国鉄スワローズ18回戦(後楽園球場)、4回裏に佐藤進から右前安打 ※史上50人目
  • 200本塁打:1965年5月31日、対中日ドラゴンズ8回戦(中日スタヂアム)、1回表に中山俊丈から左中間へ先制2ラン ※史上11人目
  • 1000試合出場:1965年8月18日、対中日ドラゴンズ20回戦(中日スタヂアム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上102人目
  • 250本塁打:1967年8月14日、対サンケイアトムズ19回戦(後楽園球場)、1回裏に渋谷誠司から左越先制決勝3ラン ※史上6人目
  • 1500本安打:1967年9月17日、対サンケイアトムズ25回戦(後楽園球場)、6回裏に石戸四六から右中間へ2点適時三塁打 ※史上20人目
  • 300二塁打:1968年8月14日、対阪神タイガース18回戦(後楽園球場)、6回裏にジーン・バッキーから右中間二塁打 ※史上7人目
  • 3000塁打:1969年4月27日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、7回表に大羽進から右中間二塁打 ※史上6人目
  • 1000打点:1969年5月4日、対大洋ホエールズ5回戦(後楽園球場)、9回裏に平松政次から右越同点犠飛 ※史上6人目
  • 300本塁打:1969年5月22日、対サンケイアトムズ9回戦(明治神宮野球場)、1回表に藤原真から右中間ソロ ※史上4人目
  • 1500試合出場:1969年8月17日、対大洋ホエールズ16回戦(後楽園球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上29人目
  • 1000得点:1970年10月6日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、7回表に土井正三の中前決勝適時打で生還 ※史上8人目
  • 350二塁打:1970年10月18日、対広島東洋カープ25回戦(後楽園球場)、7回裏に外木場義郎から左中間二塁打 ※史上5人目
  • 3500塁打:1971年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(後楽園球場)、3回裏に外木場義郎から左前安打 ※史上4人目
  • 350本塁打:1971年4月14日、対中日ドラゴンズ3回戦(中日スタヂアム)、9回表に土屋紘から左越ソロ ※史上3人目
  • 2000本安打:1971年5月25日、対ヤクルトアトムズ9回戦(明治神宮野球場)、8回表に浅野啓司から左前安打 ※史上5人目
  • 400本塁打:1972年6月22日、対中日ドラゴンズ15回戦(中日スタヂアム)、8回表に若生和也から左越2ラン ※史上3人目
  • 4000塁打:1973年4月17日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、2回表に白石静生から左中間フェンス直撃二塁打 ※史上3人目
  • 400二塁打:1973年9月8日、対大洋ホエールズ22回戦(川崎球場)、4回表に山下律夫から左中間二塁打 ※史上4人目
  • 2000試合出場:1973年9月16日、対中日ドラゴンズ17回戦(後楽園球場)、4番・三塁手で先発出場 ※史上6人目
  • 1500打点:1974年8月6日、対中日ドラゴンズ14回戦(中日スタヂアム)、5回表に渋谷幸春から右前2点適時打 ※史上3人目

レギュラーシーズン [編集]

  • シーズン打率3割以上:11回(1958年 - 1961年、1963年 - 1966年、1968年、1969年、1971年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ
  • シーズン150安打以上:11回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1971年)※日本記録
  • 打率ベストテン入り:13回(1958年 - 1966年、1968年 - 1971年)※歴代4位、右打者歴代1位
  • シーズン二塁打数リーグ1位:3回(1958年、1961年、1962年)※セ・リーグタイ記録
  • シーズン20本塁打到達スピード:42試合(1968年)※歴代4位、2001年にアレックス・カブレラ(38試合)に更新されるまでは歴代1位
  • 6年連続シーズン150安打以上(1958年 - 1963年)※歴代4位タイ、2003年に松井稼頭央に更新されるまでは歴代1位
  • 17年連続シーズン100安打以上(1958年 - 1974年)※歴代4位タイ、右打者歴代1位タイ。入団1年目からの記録としてはセ・リーグ記録(歴代では張本勲に次いで2位)
  • 2年連続シーズン30敬遠以上(1960年 - 1961年)※日本タイ記録
  • 6試合連続敬遠:2回(1958年9月7日 - 9月15日、1961年8月16日 - 8月22日)※日本記録
  • 4試合連続三塁打(1960年5月8日 - 5月14日)※日本記録
  • シーズン守備機会連続無失策:214(1969年7月17日 - 10月9日)※三塁手日本記録
  • 5年連続開幕戦本塁打(1970年 - 1974年)※日本記録
  • 通算開幕戦本塁打:10本(1959年、1960年、1963年2本、1968年、1970年 - 1974年) ※日本記録
  • 通算サヨナラ安打:14本 ※歴代4位タイ、セ・リーグ右打者記録
  • 通算サヨナラ本塁打:7本(1959年、1961年、1962年、1963年、1966年2本、1973年)※歴代6位タイ、セ・リーグ右打者記録
  • 通算猛打賞:186回 ※セ・リーグ記録
  • 通算2000本安打到達スピード:1708試合(1971年5月25日)※歴代2位、右打者歴代1位

日本シリーズ [編集]

  • 通算試合出場:68(1958年、1959年、1961年、1963年、1965年 - 1972年)※歴代5位
  • 通算打率:.343(265打数91安打)※100打数以上では歴代2位、160打数以上では歴代1位
  • 通算打数:265 ※歴代1位
  • 通算得点:49 ※歴代2位
  • 通算安打:91 ※歴代1位
  • 通算二塁打:14 ※歴代1位
  • 通算三塁打:2 ※歴代5位タイ
  • 通算本塁打:25 ※歴代2位
  • 通算塁打:184 ※歴代1位
  • 通算長打:41 ※歴代1位
  • 通算打点:66 ※歴代1位
  • 通算四球:27 ※歴代5位
  • シリーズ打率4割以上:4回(1966年、1968年 - 1970年)※シリーズ記録
  • シリーズ4本塁打(1969年、1970年)※シリーズタイ記録。1970年は5試合シリーズ記録。2回記録したのは長嶋と城島健司(2000年、2003年)のみ
  • 連続打席本塁打:3(1970年)※シリーズ記録

オールスターゲーム [編集]

  • 入団から引退まで現役17年連続ファン投票1位
  • 出場回数:16回(1958年 - 1963年、1965年 - 1974年)※1964年にもファン投票で選出されているが、負傷により出場を辞退
  • 通算打率:.313(150打数47安打)※100打数以上では歴代5位、130打数以上では歴代1位
  • 通算安打:47 ※歴代2位タイ
  • 通算二塁打:10 ※歴代2位
  • 通算四球:17 ※歴代2位
  • 通算盗塁:8 ※歴代3位

皇室観戦試合 [編集]

  • 通算打率:.514(35打数18安打)※歴代1位
  • 通算本塁打:7 ※歴代1位

総合 [編集]

  • 公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上 ※史上唯一

背番号 [編集]

  • 3 (1958年 - 1974年、2000年 - 2001年)
  • 90 (1975年 - 1980年)
  • 33 (1993年 - 1999年)

関連情報 [編集]

メディア出演 [編集]

テレビ番組 [編集]

  • さよならミスタージャイアンツ(引退特番、日本テレビ) 
  • 長嶋茂雄、世界を翔ける
  • 前橋市制100周年記念ドラマ遥かなる八月の詩(群馬テレビ)
  • 名球会VSビートたけし&芸能界ドリームチーム(テレビ朝日)
  • 第51回NHK紅白歌合戦 審査員(2000年、NHK総合・BS2) 
  • 徳光&所のスポーツえらい人グランプリ(日本テレビ)
  • 情熱大陸「もうひとりの長嶋茂雄」(毎日放送)
  • THE・サンデー(激論バトル など、日本テレビ)  
  • NHKスペシャル ONの時代(全2回、NHK総合)
  • 24時間テレビ(1985年・2011年、日本テレビ)
  • BSフジ『長嶋茂雄がここにいる −いま日本人に伝えたいこと−』(2013年3月10日)

ラジオ番組 [編集]

  • 「TOYOTAメイクハッピー・ようこそ!長嶋茂雄です」(ニッポン放送

CM [編集]

他多数

DVD, VHS 収録等 [編集]

  • 「ミスタージャイアンツ背番号3」,VHS,ポニーキャニオン、(1983年08月21日).
  • 「長嶋茂雄現役引退試合 栄光の背番号3」DVD, バップ,(2001年02月21日).
  • 「さらばミスタージャイアンツ 長嶋茂雄全記録1958~2001」,DVD, バップ,(2002年01月23日).
  • 「背番号3 長嶋さんありがとう!!」,CDアルバム,テイチク、品番:TECE-35293,(2002年03月21日).
  • 「21世紀への伝説史『長嶋茂雄』」DVD3巻セット+愛蔵本3冊,株式会社トップアスリート(DVD発売日: 2007年04月20日).※元はVHS版であったものを追加収録をしたDVD版.サントラ(音楽:冨田勲)がCDとして出ている.
  • 「長嶋茂雄ドリーム・トレジャーズ・ブック」,産経新聞出版 ,(2012年12月13日).

映画 [編集]

音楽 [編集]

  • 果てしない夢を(1993年6月2日発売)「ZYYG,REV,ZARD&WANDS featuring長嶋茂雄」名義
  • 「21世紀への伝説史 長嶋茂雄」,CDアルバム((記録映像ビデオのサントラ,作曲:冨田勲 ),メディアファクトリー、品番:ZMCZ-657, (2000年11月29日).

主な著作 [編集]

論文 [編集]

参考文献 [編集]

脚注 [編集]

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  1. ^ 1993年の2度目の監督就任以前まで、新聞やマスコミにおいて、「嶋」は常用漢字ではないので、「長島」姓の表記が使われていた。
  2. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.111
  3. ^ a b 沢木耕太郎著「三人の三塁手」(『敗れざる者たち』収録)
  4. ^ 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.107
  5. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.107-108
  6. ^ 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.108
  7. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(61)長嶋茂雄[西村欣也執筆]2001年、朝日文庫、p.109
  8. ^ 砂押から特別扱いされていた長嶋は先輩から嫌われ、事あるごとに指導という名の暴力を受けていた。連帯責任という形で野球部の同級全員が被害にあうことも少なくなかった。
  9. ^ 大映スターズオーナーの永田雅一が卒業後の獲得を目指して大学1年生の時に長嶋と実家で面会し「優勝するチームで野球がしたい」と言われたことがNHKテレビの『その時歴史が動いた』(2005年2月9日放送分)で紹介されている[1]
  10. ^ 阪神タイガースのスカウト青木一三は大学を中退させての獲得に向けて本人や家族と交渉した(『ここだけの話 プロ野球どいつも、こいつも…』ブックマン社、1989年、P176 - 178)が、藤村排斥事件を受けて頓挫している。
  11. ^ 広島カープも長嶋を広島観光に誘うなどしていた。
  12. ^ 『南海ホークス四十年史』(1978年)P.163
  13. ^ 長嶋は、父が亡くなってから行商をするなどして家計を支えた母親を非常に尊敬しており、母親の懇願を断ることが出来なかったという。
  14. ^ a b 【9月19日】1958年(昭33) ミスター、幻の28号本塁打でトリプルスリーを逃す”. スポーツニッポン (2007年9月19日). 2012年9月12日閲覧。
  15. ^ このケースでは、長嶋は二塁を踏んだ瞬間に一塁を踏み直すことが許されなくなり(公認野球規則7.10(b)(2))、投手がボールを保持してプレーがかかったのち、投手が最初の投球をする前に一塁手の藤井弘が送球を要求し、鵜狩から送球を受けて触塁しアピールし、一塁塁審の竹元勝雄がアウトを宣告した。この場合、投手に補殺、一塁手に刺殺が記録され、記録上投手ゴロと同じためこのように伝えられている。
  16. ^ 少年時代にこの天覧試合をテレビで観戦していた沢木耕太郎は、著作『三人の三塁手』(1975年)の中で、「(長嶋は)子供にも即座に理解できる英雄だった」と記している。
  17. ^ 松下茂典著「あの日、野球の神様は“背番号3”を選んだ - 天覧試合昭和34年6月25日」
  18. ^ 雑誌Number 名勝負列伝
  19. ^ 雑誌Number 名勝負列伝
  20. ^ 庵原英夫『正しい技術 勝つ作戦のコツ 野球ルール』(有紀書房、1987年) p64-65。公認野球規則の6・02a(打者の義務)では打者は自分の打順がきたら速やかにバッタースボックスに入って打撃姿勢をとらなければならないとされているが、「バットを持って」とは明記されていない。このときの球審は長嶋がバットを持っていなくても素手で構えたため打撃姿勢をとったものとみなし、四球の判定を下しているが、バットを持っていなければ投手の投球を打ち返すことは不可能であり、庵原は長嶋のこの行為に対して、球審によっては打撃姿勢をとっていないとみなす可能性があることを同書内で指摘している。なお打者が打撃姿勢をとろうとしない場合、球審は投手に投球を命じ、どのような投球であってもストライクを宣告することができる。このため、もし球審が打撃姿勢をとっていないとみなした場合、素手で構えて以降の投球は全てストライクとなり、ストライクを3回宣告されるまでに打者が打撃姿勢を取らなかった時には、アウトを宣告される。
  21. ^ 長嶋茂雄著書 野球は人生そのものだ「引退勧告」から引用
  22. ^ a b c d 文春ビジュアル文庫「熱闘!プロ野球三十番勝負」文藝春秋社
  23. ^ [2] 引退試合翌日の報知新聞の記事が、誤って“永遠に”を使っていた。 「我が巨人軍は永久に不滅です」 2010年7月29日
  24. ^ [3] TVでた蔵 2010年8月5日放送 1:30 - 2:20 NHK総合
  25. ^ 2000年~2001年は認定者本人の使用により、一時的に解除となった。
  26. ^ 戦前にはフィリピン人のアデラーノ・リベラが1年間ではあるが在籍した。なお、やはり戦前に在籍したヴィクトル・スタルヒンはロシア系であるが日本の学校への在学歴がある。ここでは「学歴まで含めて外国で育った非日系の外国人選手」として初めてという意味である。
  27. ^ プロ野球党 (日本スポーツ社、1977年) 広岡へのインタビュー
  28. ^ 織田淳太郎 「20世紀完全版長嶋茂雄大辞典」(2001年 新潮OH!文庫)
  29. ^ 織田淳太郎 「20世紀完全版長嶋茂雄大辞典」(2001年 新潮OH!文庫)
  30. ^ 当時国内にいくつかあったトライアスロン競技団体の一つで、後に日本トライアスロン連合へ統合。
  31. ^ 日本経済新聞出版社 『野球は人生そのものだ』 悔いのない監督委譲から引用
  32. ^ 現役引退前後の頃にも同様の発言をしたことがあり、「野球というスポーツは、人生そのものだと僕は思います。失意と得意、成功と失敗が常に背中合わせになっています。勝者が笑うかげには、常に敗者がいます。栄光のかげに、数知れぬ挫折があります」と語っている(沢木耕太郎著「三人の三塁手」)。
  33. ^ ベースボールマガジン2005年冬季号130ページ
  34. ^ 後に長嶋は阿川との対談で、「(意識は)なかった。もう(状態は)上中下の下で、一番悪かったですからね。その下は死ですから。」と語っている。阿川、2011
  35. ^ 長嶋は一茂の判断について「一番悪い状態の時でしたからね。」と理解を示しながら、誰が何と言ってもアテネへ行くつもりがダメになった事へのショックと孤独を語っている。阿川、2011
  36. ^ 同プロジェクトは2010年まで毎年1月に開催されていた。
  37. ^ この内容が2011年に単行本となっている。阿川、2011
  38. ^ 長嶋茂雄、松井秀喜両氏に国民栄誉賞 「社会に夢と希望与えた」スポーツ日本2013年4月1日配信
  39. ^ 長嶋茂雄、松井秀喜氏に国民栄誉賞 政府方針 (1/2ページ) - SankeiBiz 2013年4月1日
  40. ^ 内閣官房長官記者会見(平成25年4月1日(月)午後) - 首相官邸 2013年4月1日
  41. ^ 長嶋、松井両氏 5月5日に東京Dで栄誉賞授与式 スポーツニッポン2013年4月16日配信
  42. ^ “長嶋茂雄・松井秀喜氏に国民栄誉賞”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年5月5日). オリジナル2013年5月5日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-0505-2035-21/www3.nhk.or.jp/news/html/20130505/t10014371201000.html 2013年5月9日閲覧。 
  43. ^ 松井秀喜氏引退式 ドームに立つことは「もう2度と許されないと思っていた」スポーツニッポン20012年5月5日
  44. ^ 松井秀喜氏 国民栄誉賞受与式「光栄だが、同時に恐縮」スポーツニッポン20013年5月5日配信
  45. ^ 松井カモン!長嶋さんがフルスイング披露へ 国民栄誉賞授与式スポーツニッポン2013年5月5日配信
  46. ^ 文春ビジュアル文庫「豪球列伝」足立の項
  47. ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」権藤の項
  48. ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」
  49. ^ a b 玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る 』(国士舘大学体育スポーツ科学学会 2003年)
  50. ^ 「長嶋茂雄―永遠不滅の100伝説」(テーミス、2000年)
  51. ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズ一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている(P470)。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている(P441)。
  52. ^ http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/others090731_3_1.html
  53. ^ ミスターがTHEを「てへ」と読んだ伝説はウソと元報知記者 NEWSポストセブン 2013年2月25日
  54. ^ ねじめ正一「長嶋家の謎」(1999年)
  55. ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
  56. ^ 引用中、( )内は記者による描写。当時は前年の安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「昨年の安保のときから(引用者注:政治面に)興味もつようになったんです」と発言している)政権交代をうかがわせる雰囲気があった。
  57. ^ 長嶋の編著「野球は格闘技だ」にも同内容のコメントを寄せている。なお、この話は石原を通じて役者内でも広がったらしく、勝新太郎も同著内でその話に触れたコメントを寄せている
  58. ^ 「人間魚雷」の回天記念館 自治体の仲間 2006年9月号 Vol.394 日本自治体労働組合総連合

関連項目 [編集]