長嶋茂雄

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長嶋 茂雄
基本情報
国籍 Flag of Japan.svg 日本
出身地 日本の旗千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市
生年月日 1936年2月20日(73歳)
身長
体重
176cm
76kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 三塁手
プロ入り 1958年
初出場 1958年4月5日
最終出場 1974年10月14日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
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選出年 1988年
選出方法 競技者表彰

長嶋 茂雄(長島茂雄[1]、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身のプロ野球選手(内野手)、プロ野球監督。現役時代のポジションは内野手。右投右打。血液型はB型。2001年より、株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督

王貞治とのON砲でV9に貢献した大打者である一方、ホームランの際にベースを踏み忘れてアウトになったり、空振りするとヘルメットが飛ぶような仕掛けをしたり、常人には理解不能な長嶋語・長嶋流和製英語を駆使するなど、どこまでそれを狙っているのか分からないようなファンサービスの所以で選手・監督として退いた現在でも熱狂的なファンが多い。現役時代に付けていた背番号3はジャイアンツの永久欠番のひとつである。愛称は「チョーさん」「ミスター」他多数。

長男は長嶋一茂(ジャイアンツ球団代表特別補佐)、長女は長嶋有希(一般人)、二女は長嶋三奈(元テレビ朝日スポーツ局記者)、二男は長嶋正興レーシングドライバー)。

目次

経歴

年表

プロ入り以前

東京六大学野球での活躍

幼少時代、藤村富美男のプレーを見て野球を志す。当時は阪神ファンだったと言う。千葉県立佐倉第一高校(現:佐倉高校)から立教大学に進む。野球部では砂押邦信監督の下、猛練習を重ね、正三塁手となる。同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、同じく主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)とともに「立教三羽烏」と呼ばれた。

長嶋は東京六大学野球において1956年春季・1957年秋季には首位打者を獲得。また1955年秋季から1957年秋季まで5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれている。1957年、六大学リーグの通算記録となる8本塁打を放つ。プロ入りが確実視されており、特に大学の先輩大沢昌芳の所属する南海ホークス鶴岡一人監督は、大沢を通じて熱心に長嶋と杉浦に多額の栄養費を渡すなどして勧誘していた。同じ頃広島カープも長嶋を広島観光に誘うなど獲得を希望するものの、プロ入り時は長嶋、杉浦とも南海でほぼ決定していた。特にプロ入りに熱心でなかった杉浦を南海に誘ったのは、長嶋であった。しかし長嶋は直前で一転、巨人入団を決め、11月20日契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」、契約金は当時最高額の1800万円であった。長嶋は当初、杉浦と共に南海に入ることを希望していたが、巨人や周りのマスコミが当時大学野球のスターだった長嶋は、巨人に入るものだと決め付け長嶋自身に圧力をかけたため、長嶋は巨人に行かざる得なかったと言われている。長嶋は、立教大学の合宿所の食堂で、杉浦に南海行きを断ることを告白した。しかし杉浦はそのまま南海に入団。また、長嶋は鶴岡にオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪している。このとき鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。

プロ入り以後

新人時代

長嶋は、東京六大学リーグでの活躍もあり、「ゴールデンボーイ」あるいは「ハリケーン」とあだ名され、入団時から活躍が大いに期待されていた。1958年4月5日、開幕戦である対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場して公式戦デビューを果たすが、国鉄のエース金田正一投手に4打席連続三振を喫した。しかし、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。

しかしその2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日大洋戦で権藤正利から初本塁打を奪うと、本来の力を出し始め、シーズン途中から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

この年の9月19日に行なわれた対・広島戦(後楽園)で新人新記録(当時)となる28号本塁打を放ったが、一塁を踏み忘れて、本塁打を取り消されている(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた。なお、長嶋は翌9月20日の阪神戦で28号を打ち直し、新人新記録を達成した(現在の新人記録は1959年桑田武1986年清原和博の31本塁打)。

最終打撃成績は、本塁打29本、打点92を記録し二冠王。打率は、大阪タイガース田宮謙次郎と首位打者争いをするが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的には2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

天覧試合

1959年6月25日後楽園球場で行われた対阪神戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合天皇が観戦した試合、当時は昭和天皇)であった。長嶋は4対4で迎えた9回裏、阪神の2番手村山実投手からサヨナラホームランを放った。村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、この試合では新人王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。

ON砲

1962年、王貞治が本塁打王、打点王のタイトルを獲得して以後、長嶋は王とともに巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これは米メジャーリーグニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王・4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番・王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇した(V9)が、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。

長嶋の守備

プロ選手としての長嶋は、その打撃力のみならず三塁手としての守備も注目された。長嶋はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していた。そのため、長嶋とコンビを組む遊撃手(初期には広岡達朗、のちに黒江透修)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていた。しかし長嶋は、時に通常の守備範囲を超え、本来であるならば遊撃手が捕るべき打球にまで反応し、猛烈なダッシュとともに捕球を試みる場合も多かった。

イージーゴロにさえ鋭いダッシュをみせる長嶋の守備は、プロ経験者からは「簡単なゴロを難しく見せる」と評された。一方、フライ飛球などは「見せ場がない」と、遊撃手に任せるということもしばしばあった。それゆえ、当時から守備の堅実さでは三宅秀史(同時代のタイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンや解説者も少なからずいた。しかし、長嶋の派手なアクションをまじえた守備は、トンネルなどの単純なエラーですら、多くの観客に喜ばれた。

不振と引退

1971年に6度目の首位打者を獲得して以後、衰えが見えてきた。打席数を増やすことで不振を克服しようと考えた川上監督は、長嶋の打順を1番にするなどの対策をとったが、結果的に同年が最後の打率3割のシーズンとなった。また、14年務めた川上の後継者としての期待もあり、コーチを兼任するなど、現役引退後の進路も定まった。

1974年10月12日中日ドラゴンズの優勝が決まり、巨人の10連覇が消えると、長嶋は現役引退を表明した。翌々日の10月14日、後楽園球場で行われた優勝したドラゴンズとのダブルヘッダーの第1試合で、長嶋はホームランを放つ。これが現役最後のホームラン(通算444号)である。また、大卒での通算2471安打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われている。 第2試合の最終打席はショートゴロ(ダブルプレー)であった。引退セレモニーでは「わが巨人軍は永久に不滅です」という、あまりにも有名な言葉を残した(しばしば「永遠に不滅です」と誤って引用されることもある)。

第1期監督時代

クリーン・ベースボール

1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上流の緻密な用兵と作戦重視のスタイルではなく、投・打の力量差がそのまま勝敗につながることを理想としていることを端的にあらわした言葉である。「哲のカーテン」と揶揄された川上監督時代とは対照的に、マスコミとのコミュニケーションを重要視した。それゆえ、川上監督時代のスタッフはほぼ一掃された。新生長嶋巨人軍の選手達には「シンデレラ・ボーイ」と名付けた。又、球団初の非日系の外国人選手であるデーブ・ジョンソン内野手を獲得し、自らの後継三塁手とした。長嶋は自らの背番号を「90」に変更し、現役時代の「3」は永久欠番となった。この「90」は当時小学生の息子・一茂のアイディアといわれている。「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。これに0を付け加えて90番にしたら?」という言葉がきっかけになった[2]

しかし、迎えた1975年のシーズンは長嶋の構想が裏目に出て、球団創設以来初の最下位に終わった。そのため、オフには日本ハムファイターズから高橋一三投手・富田勝内野手との交換で「安打製造機」と呼ばれた張本勲を獲得。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。その結果、翌1976年、1977年と優勝を果たすが、日本シリーズではともに阪急に敗れた。同年、ヤクルトから倉田誠投手との交換で浅野啓司投手を獲得した。

江川事件

1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とするなど、さらなる強化策を図った。しかし1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、いったんは首位に立つものの力尽き、結局、広岡監督率いるヤクルトにペナントを奪われた。長嶋が巨人に入団した当時の監督であった水原茂は、ヤクルトの優勝が確定的となった10月1日、テレビ朝日のニュース番組「こちらデスク」の放送中、「長嶋は野球を知らないのではないか」と、長嶋の監督としての手腕を批判した。巨人OBによる長嶋の采配に対する批判が、公の場でなされたのはこれが初めてであった。江川卓の入団をめぐって騒動(江川事件)がおきたのはこのシーズンのオフのことである。

エース小林繁を江川の代わりに阪神へトレードに出した1979年は5位に終わり、長嶋は若手を率いて静岡県伊東市で秋季キャンプを行なった。このキャンプでは中畑清篠塚利夫定岡正二らが成長株として、このシーズン限りで引退した土井正三や、衰えが見えてきたV9時代の主力選手の後継者として期待された。また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイト外野手を獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であるOB青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。

長嶋解任劇

この頃(1980年前後)になると長嶋の采配が「カンピューター野球」(論理的に説明することができない、長嶋独自の勘・ひらめきによる野球)と揶揄されることも常となり、また、OBによる批判も数多く出るようになった。前監督である川上が、週刊文春の座談会で長嶋の後継監督について語ったことは、長嶋批判の象徴的な出来事であったと言えよう。また、王の衰えも明らかであり、チームの成績は芳しくなかった。長嶋の指揮する巨人の低迷を憂慮した務臺光雄読売新聞社幹部は、1980年のシーズン終了前には長嶋の監督解任を決断した。10月21日に行われた記者会見で長嶋は「男のけじめ」と、みずから不振の責任を取り辞任することを表明したが、自身が「辞任」を知らされたのは、会見の直前のことであったという。解任が発表されると、一連の読売新聞社および巨人の措置に激怒した一部のファンによる、読売新聞・スポーツ報知の不買運動が起きた。

第2期監督時代

監督復帰以前

長嶋以後、藤田元司1981年1983年1989年1992年)、王(1984年1988年)が監督に就任し、リーグ優勝5度、日本一も2度達成するが、プロ野球全体、そして巨人の人気は低下していった。V9時代の巨人にはじまり、そのOBである広岡や森祇晶などにより確立されたシステマティックな野球は管理野球(長嶋の前任者だった川上監督時代の流れを汲む野球)と評され、かつての長嶋のように個人技が際立つということがみられなくなったことによる人気の低下と考えられよう[3]

そのような状況の下、長嶋の現場復帰待望論があらわれた。長嶋待望論は、1980年以降何度となく沸き起こった。たとえば1981年オフ、土井淳監督辞任後の大洋監督就任説(関根潤三が就任)、1984年オフに立教の先輩である大沢の後任として日本ハム監督就任が噂され(高田が就任)、1985年オフに広岡の後任として西武監督就任が観測されたり(森が就任)、1986年オフ、土橋正幸監督辞任後のヤクルト監督就任が噂されたり(関根が就任)、1989年の関根監督辞任後のヤクルト監督候補にも祭り上げられたり(野村克也が就任)、1990年上田利治監督辞任後のオリックス監督就任説(土井正三が就任)がささやかれた。しかし、長嶋本人はそれらの噂に対しすべて否定するか、あるいはノー・コメントを貫いている。

復帰・日本一

Jリーグの創設を翌年に控えた1992年には、巨人は2位でシーズンを終了、2年連続で優勝を逃したこともあり、国民的スポーツとしての野球を再活性化するためのキャラクターとして長嶋の復帰が求められた。読売グループ内の事情を考えても、長嶋の復帰を阻む最大の障害であると考えられていた務臺光雄が1991年に死去し、現役時代から親交のある渡邊恒雄が読売新聞社社長に就任したことが、長嶋の監督再就任を容易にした。ふたたび現場に復帰することとなった長嶋の新しい背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)となり、同年のドラフト会議において当時、星稜高等学校松井秀喜(現:ニューヨーク・ヤンキース)を引き当てた。

監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」を球団のキャッチフレーズとしていた。又、現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させるなど、チーム再建を期待されたが、1993年は3位に終わった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。翌1994年には中日と同率で最終戦(対中日戦)を迎え、リーグ優勝を果たす。なお戦前、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメント。後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。 さらには、西武ライオンズを下して長嶋監督の指揮では初めて日本一となった。その後も1996年には最大11.5ゲーム差をつけられた広島から首位を奪いリーグ優勝。前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる。1999年は「メークミラクル」、2001年は「ミラクルアゲイン」をそれぞれキャッチコピーとして使用するが何れもV逸に終わっている。

監督晩年

この間長嶋は監督にとどまり続けるが、シーズンオフになるたびに後継監督候補として、堀内恒夫や森、江川などのOBの名が取りざたされた。しかし、長嶋本人が解任されることはなく、それに代わるように、コーチ陣の入れ替えがなされたのは、成績不振の責任を取らせるとはいえ、処理を誤れば、1980年のように不買運動が起こることを読売本社は恐れたからであると観る向きもあった。

2000年には、FAで獲得した江藤智内野手に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」を25年ぶりにつけた。当初、この背番号「3」を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号「3」の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。この年、長嶋率いる巨人は前述のとおり2度目の日本シリーズ制覇を達成した。翌2001年はヤクルトとの優勝争いをするも力尽き、この年をもって監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退および原辰徳ヘッドコーチを後任の監督とする発表がなされた記者会見で、吉田填一郎アナウンサー(当時日本テレビ)の「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。

オリンピック日本代表監督と闘病生活

2002年アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。2003年11月に行われたアジア選手権で中国台湾韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月、長嶋は脳梗塞で倒れた。長嶋が現地アテネで指揮を執る姿を見る事は叶わぬ夢となった[4]

2004年6月16日、長男の一茂に双子の女児が産まれた。長嶋にとっては初孫である。

2005年には東京ドームに野球観戦に行き、また2006年現在、少年の野球教室に飛び入りで参加するなど、リハビリの成果もあって少しずつ活動を再開している。また2006年には三菱UFJ信託銀行のコマーシャルに、一茂共々親子出演(撮影は発病以前のもの)。

2007年7月には日本経済新聞の人気企画「私の履歴書」に登場している。

人物

長嶋語

長嶋の会話における語法は、長嶋語と呼ばれ、以下の特徴が認められる。

  1. 外来語の多用、混用。例:攻撃→オフェンス、守備→ディフェンス、「鯖」いう字は魚偏に青→魚偏にブルー、など。ただし、日本シリーズは「選手権」と呼ぶ。
  2. 「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」「ややもすると」など、間投詞、修飾語句、接続詞の多用。「ひとつの」は英語の不定冠詞 a の転用とも考えられる。
    例:「うーん、どうでしょう、いわゆる4番打者というのはですね、ひとつの期待を担っているわけですから、それだけプレッシャーがかかるわけで、ややもするとスランプに陥ると、そういうことも考えられるわけですね、ええええ
  3. 同じ意味の表現を言葉を変えて展開する二重表現の事例も多い。
    例:「オールスターという夢のドリームゲーム」、「1年目のルーキー」、「今年初めての開幕戦」、「体験を経験」、「疲労からくる疲れ」、「秋の秋季キャンプ」、「始まりのスタート」、「バースデー誕生日」、「打率のパーセントテージ」、「ブルーな青空」など。上記の「巨人軍は永久に不滅」も、“不滅”に“永久になくならない”という意味があるためこの一例と言える。
  4. 60歳になった感想を求められて「初めての還暦」(120歳で2度目の還暦=大還暦を迎えるため誤りではない)、続けて「ましてや年男」(還暦を迎える年には必ず年男となる)。
  5. はなわに「佐賀君の出身はどこなの?」(はなわは佐賀県出身と言われているが実際は埼玉県出身)。
  6. 人の呼び名に関する語録が多いが、これは基本的に人の名前を覚えないせいと思われる。
  7. イアン・ソープに年齢を聞いた時「ハウ オールド いくつ?」と聞いた。
  8. 1996年日本シリーズを前にしたミーティングで、「みんなもオリックスについては耳からタコが出るほど聞いていると思うが」と言った。当然真剣な場で、聞いていた選手やコーチは笑うわけにはいかず、困惑したという。
  9. 女優鈴木保奈美が、プロ野球・ヤクルトスワローズを舞台にした映画「ヒーローインタビュー」のキャンペーンのため、長嶋に挨拶に来た際、鈴木との会話で、長嶋は映画の名前を最後まで「メジャーリーグ」と呼んでいた。

以上のような特徴を持った“長嶋語”をまとめた書籍も存在する。作家の清水義範は『いわゆるひとつのトータル的な長嶋節』という短編作品を執筆している。

性格・行動に関するできごと

長嶋は天真爛漫・おおらかと形容される一方、興味や関心の薄いものについては無頓着であるとされ、それにまつわる逸話がしばしば紹介される。しかし、それらの話には信憑性が定かではないものも含まれる[5]。ここでは出典の明らかなエピソードのみを記す。

  • イライラしたり、退屈になってくると、身近に有る物を蹴っては元の位置に戻す癖があった。例えば階段に置いてあった空のドラム缶をその癖で蹴ったところ、ドラム缶は階段を転げ落ちて行き王貞治に直撃。幸い王に怪我は無かったが長嶋はばつが悪そうにドラム缶を元の位置に戻さずそそくさと退散した(一言「ごめん、ワンちゃん。わざとじゃないよ」と言ったとされている)[要出典]
  • 現役時代のオフシーズンには伊豆などで「山ごもり」と称する自主トレーニングを行っていた。しかし、実のところは取材の来る初日と最終日だけ練習の振りを見せ、あとはもっぱら宿の部屋で好きな西洋名画の画集を眺めていることが多かったという。中にはその期間、実際には海外旅行に出かけていたという極端な年もあった[6]
  • 1961年10月に朝日新聞の「わたしが新聞記者なら」というインタビュー記事で「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と発言し、物議を醸した[7]
  • 若い頃は大の映画ファンで、立教大学4年の時に淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。なお映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた[8]
  • 将棋も趣味で、日本将棋連盟から球界最高位の五段の免状を授与されている。

人間関係

杉浦忠とはお互いが巨人、南海に入団してからも親しい間柄だった。また大学に入学して初めて杉浦を見たとき「メガネを掛けているから頭が良いんだなぁ」と思ったという。
また、野村克也と仲が悪いといわれるが実際はオフの選手同士の会合において、決して社交的とは言えず、またゴルフを一切やらない野村は孤立することが多かったが、そんな野村に長嶋はよく声をかけていたそうで、野村はそのことを素直に感謝している。一茂がヤクルトの選手になり、その後長嶋が巨人に復帰して両者が同リーグの監督になったことで、意識的に距離を置いたのが仲が悪いとみなされた一因と思われる。むしろ仲が悪いのはV9時代の同僚・森祇晶で、監督時代にオールスターで顔を合わせても全く口を聞かなかったほどである(しかし、雑誌の企画では対談している)。
1998年にかつてのライバル・村山実が亡くなった時には、「彼は(自分に対して)一球たりともアンフェアな球は投げなかった」と絶賛の言葉をたむけた。
1999年に亡くなったプロレスラーのジャイアント馬場1955年から1960年まで巨人軍の選手だったため親友で、「馬場ちゃん」と呼んでいた。長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。

現役選手として

新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」の他、1塁走者として、後続打者が外野フライにより帰塁する際、2塁を通過しながら、2塁を空過して1塁に帰るという三角ベース事件を、1960年、1964年、1968年の3回起こしている。その一方で、敵チームの三角ベース事件も3回発見している。また、息子・一茂が後にセ・リーグ通算3万号の本塁打を記録したため、「ホームラン取消事件」での踏み忘れが一茂の記録を生んだと揶揄されることもある。
現役時代に多くのタイトルを総なめにしてきたが、意外なことにサイクル安打は一度も達成できなかった。1試合4安打以上を通算26試合、5安打を1試合記録しているが、うち26試合では三塁打を打てなかった。唯一三塁打を打った試合では、二塁打1本、三塁打2本、本塁打1本で単打がなく、サイクルヒットを逃した。ちなみに、長嶋の三塁打は通算74本(2008年終了時点で歴代8位、右打者に限れば広瀬叔功に次いで2位)とかなり多い。「観客に一番アピールして喜んでもらえるのは三塁打であるという理由から、自分のプロとしての売り物は三塁打だと考えていた」、「「ホームラン取消事件」は、ショート頭上すれすれをラインドライブするような当たりだったので「よし、三塁打だ!」と思って全力疾走したために起きた出来事であった」と後年のインタビューで述べている[9]
全試合出場したシーズンは4シーズンのみであるが、首位打者を獲得したシーズンはすべて安打数でもリーグトップであり、「帳尻合わせ」のない首位打者であった。
野村克也は現役時代に打席に立つ選手が動揺するような話題をささやく事で集中力を乱す「ささやき戦術」を得意としていたが、それが通用しなかった数少ない選手の一人に長嶋を挙げている。長嶋を相手にささやきを行うと全く動揺の色すら見せず、それどころか「そう、よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と答え自ら話に乗ってきたという。長嶋のおおらかな性格を表しているエピソードである。野村は、著書『巨人軍論』のなかで、長嶋について『来た球を打てる天才』と称している。
野村のエピソードとは逆に、辻恭彦捕手が阪神時代、長嶋の打席の時に独り言をつぶやいていると、「おいダンプ(辻の愛称)、うるせえ!野球をやれ野球を!」と怒鳴られたうえ、放屁までされたと語っている。

監督時代

野村克也は長嶋の監督としての評価について、著書『巨人軍論』の中で「長嶋は監督としては失格。若手を育てられない」と記している。ただし、高校時代、肋膜炎にかかりプロでは体力面で懸念があった篠塚和典や、脱臼癖があってプロ入りを諦めていた松本匡史をタイトルホルダーにまで育てた例はある。他にも、中畑清西本聖角三男新浦寿夫山倉和博らを第1次政権下で育て上げている。第1次政権時代の「地獄の伊東キャンプ」で成長した選手たちは、その後藤田元司監督の下で主力となり、日本一を勝ち取る。そのシーズン終了後、教え子たちは長嶋を極秘裏に中華料理店に招いて祝賀会を開き、店の裏で長嶋を胴上げしたという。また、チームが一度は放出した西本聖が1994年に再び巨人の入団テストを受けた際、当時の堀内投手コーチは獲得に反対したが、古巣へ復帰させ、自分が前政権で付けていた90番を譲った。そして、その年で引退した西本の引退試合が多摩川グラウンドで行われた時、遅れて駆けつけ最後のバッターとして打席に立つなど情に厚い面を見せた。
また、第2次政権下でも松井秀喜仁志敏久清水隆行高橋由伸二岡智宏阿部慎之助などのドラフト上位選手を腐らせることなく主力選手に育てている。目をかけている選手は、たとえ調子が下がってきても我慢強く起用することがあり、上記の新浦などはその典型であった。新人で入ってきた阿部を、捕手の世代交代が急務であったとはいえ起用し続け、それが翌年の急成長につながっている。他にも、高橋由や二岡などがスランプで苦しんだ時期でも我慢して起用し続けた。

選手起用は大胆なものが多く、1977年、甲子園球場での阪神との第1回戦で、3対2と1点ビハインドの9回表、2死から土井正三が内野安打で出塁すると、俊足のルーキー松本匡史を代走に送り、すぐさま盗塁をさせ、次打者山本功児の中前適時打で同点に追いついている。盗塁失敗すればゲームセットの場面であるが、長嶋は、松本の足を信頼していた事とヒットが2本続く確率を考えれば、ヒット1本で追いつける場面(ランナー2塁)を作りたかった、という趣旨の事を述べている。1978年には、阪神戦で、5回に1点差に迫られなお無死1・2塁、かつ左打者の藤田平掛布雅之を迎えたところで先発投手の小林繁を一旦右翼に回し、左腕の角三男を登板させ、角が藤田、掛布を連続三振に切って取ると、小林を投手に戻し、小林は最後まで投げきって勝利している。(記録上は小林の救援勝利)ただし、後にもう一度小林が先発した際に、小俣進をワンポイント登板させ、同じ策を取ったが、再登板した小林が打たれて敗戦。1993年には延長戦で投手の岡田展和を代走に起用したり(試合後のインタビューでは、「ええ、オガタは足が速いですよ」と語った)、1997年にはやはり投手の宮本和知を代打に起用した。
1978年7月6日、札幌・円山球場で行われた巨人-広島戦で、3人も投手をつぎ込んだにもかかわらず1イニング10四球6押し出しで、計8失点し、1イニング最多四死球の日本ワースト記録が誕生した際に、あまりの酷さに「おい、誰か、野手で投げれるヤツはいないのか」とぼやいたという。
1996年、日本シリーズの終了後、長男・一茂に「お前は、来年の戦力構想に入っていない」と戦力外通告した。
部下(選手)達の名前を覚えられず、しばしば2人以上の名前を合成していた(高橋尚成高橋由伸との合成で「ヨシノリ」など)。また、名前の呼び違いもある。たとえば上原浩治を同期入団の「二岡」と呼んでいた(1999年に長嶋解任騒動が留任で落ち着いた際に上原が「これで『二岡』と呼ばれずに、自分の名前をちゃんと覚えてもらえます」と語っていた。)ほか、清水隆行を自分の現役時代の同僚であった「柳田」と呼んだことがあり、勝利監督インタビューでは広澤克実を「広岡」と言ったことがあった。1999年に兄の入来智が巨人に移籍してきたとき、生え抜きの弟、入来祐作に対して「お兄ちゃん」と呼んでいた。また入来祐作と岡田展和をとり間違えることがあったようでブルペンに救援投手を岡田と連絡しておきながら審判に入来と告げることがあった(突然指名されたため入来は準備不足で救援失敗)。また、投手交代の際に交代投手を「アワグチ」と告げて、ブルペンで用意していた阿波野秀幸川口和久が顔を見合せて、「どっちだろ?」と言っていた。桑田真澄に対しては「くわた」ではなく「くわだ」と呼びかけていた。また、ロベルト・ペタジーニを「ペタちゃん」と呼んでいた。自軍の外野手出口雄大をなぜか「湯舟」(当時の阪神の投手)と呼んだ事もある。
カンピュータと揶揄されることがあるが、長嶋のカンは驚異的なものらしい。現役時代長嶋監督の下でプレーした村田真一(現:打撃コーチ)いわく、長嶋がボソッと「あ、打たれるな」とつぶやいた後、本当にピッチャーが打たれてしまう事がある。その他に長嶋が自らフォークを投手に投げさせろとサインを村田に出し、実際にマウンドの橋本清に投げさせると、橋本は立浪和義に見事なまでに狙い撃ちされ、特大ホームランを打たれてしまった。その直後、村田がベンチを見るとカンのいい長嶋は投げる前に打たれると思って、既にベンチ裏に下がって姿がなかったという。
試合後に選手が「皆で寿司を食べに行こう」と言うと、体が冷えると言う理由でダメだと言い、代わりに焼きバナナを食べろと言った。
1997年、西武の清原和博獲得にあたり、球団は代わりに最高額年俸選手でシーズン中不振だった落合博満の放出を長嶋に求めたため、長嶋は落合に直接会って退団を勧告することになった。そのさい、長嶋は「寿司を食いながら話そう」と落合を行き付けの寿司屋に連れ出そうとしたため、「こんな大事な話が外部に漏れたら大変」と驚いた落合から逆に止められ、結局寿司の出前を取ることになった。その後、長嶋の説得に応じて落合は球団に自ら自由契約を申し出たが、直後のテレビ番組の取材で「長嶋監督に何か言いたいことはあるか?」との質問に「長嶋さんには監督の仕事は小さい、それよりも早くコミッショナーになって日本球界のために大きな仕事をしてほしい」と答えた(出典:徳光和夫のザ・サンデー)。

長嶋茂雄球場

長嶋は浪人(スポーツ報知日本テレビ放送網客員解説者)時代、日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれたトライアスロン大会のスターターを担当していた。その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬球場(1989年完成)を、1991年に長嶋茂雄球場に改称して長嶋の業績を称えることになった。

ゴルフ大会の冠名

長嶋は、プロ野球を始め日本のスポーツ界の活性化に尽力してきたが、「長嶋ジャパンドリームプロジェクト」に賛同しているセガサミーグループから、同社が主催するセガサミーカップゴルフトーナメントの大会名誉会長就任の要請を受け、2007年から同大会を「長嶋茂雄Invitational セガサミーカップゴルフ大会」として行うことになった。長嶋は表彰式を始めとした期間中のイベントに毎年顔を出している。これまで日本の男子ゴルフ大会では中村寅吉をたたえた「日経カップ 中村寅吉メモリアル」があったが、ゴルファー以外の著名人の冠が大会名に入るのは初めてとなった。

その他

長嶋は自宅の他に数ヶ所の不動産を所有しているが、政治家の間で「世田谷に住むと出世する」というゲン担ぎがあったため、中曽根康弘が長嶋所有の世田谷区上北沢の家を借りて居住していた時期がある。内閣総理大臣に就任して総理大臣公邸に引っ越すまで居住していた。中曽根の総理大臣指名の日の朝には、この家の玄関に中曽根と長嶋が並んで立つ姿がニュースに映された。
独特なキャラクター性を持つ長嶋の真似をする人も数多く、中でも関根勤は今でも持ちネタにしている。また長嶋に似ているというだけで、地元の水道局を退社してまでタレントに転向したプリティ長嶋は、その芸能活動のおかげで市川市に家を建て、2007年には市議会議員に当選した程である。

甲子園出場をかけた南関東予選では埼玉県の熊谷高校に敗れたが、息子の一茂も甲子園の埼玉県予選で熊谷高校に敗れている。

ドラマイエローカードでは父親役の福田正夫(陣内孝則)が長嶋茂雄の大ファンで息子を一茂と名づけた設定である。

背番号

  • 3(1958年〜1974年、2000年〜2001年)
  • 90(1975年〜1980年)
  • 33(1993年〜1999年)

年度別打撃成績

  • 太字はリーグ最高(試合数においては全試合出場)。
年度 チーム



























O
P
S
1958年 巨人 3 130 502 89 153 34 8 29 290 92 37 1 6 36 15 5 53 3 .305(2) .353 .578 .931
1959年 124 449 88 150 32 6 27 275 82 21 0 3 70 17 4 40 9 .334(1) .426 .612 1.038
1960年 126 452 71 151 22 12 16 245 64 31 0 2 70 32 0 28 8 .334(1) .422 .542 .964
1961年 130 448 84 158 32 9 28 292 86 14 1 5 88 35 1 34 14 .353(1) .456 .652 1.108
1962年 134 525 69 151 38 5 25 274 80 18 0 3 51 7 5 61 14 .288(5) .354 .522 .876
1963年 134 478 99 163 28 6 37 314 112 16 0 10 86 18 3 30 14 .341(1) .437 .657 1.094
1964年 133 459 81 144 19 6 31 268 90 13 0 6 96 15 5 34 8 .314(4) .433 .584 1.017
1965年 131 503 70 151 23 5 17 235 80 2 0 5 50 12 2 42 16 .300(5) .363 .467 .830
1966年 128 474 83 163 31 3 26 278 105 14 0 8 58 14 3 39 17 .344(1) .413 .586 .999
1967年 122 474 65 134 25 3 19 222 77 2 0 3 37 4 1 37 24 .283(12) .334 .468 .802
1968年 131 494 80 157 21 4 39 303 125 8 1 5 66 12 3 74 19 .318(2) .398 .613 1.011
1969年 126 502 71 156 23 2 32 279 115 1 0 4 38 1 2 58 5 .311(3) .359 .556 .915
1970年 127 476 56 128 22 2 22 220 105 1 0 9 40 1 0 52 15 .269(10) .320 .462 .782
1971年 130 485 84 155 21 2 34 282 86 4 0 1 59 8 2 45 20 .320(1) .395 .581 .976
1972年 125 448 64 119 17 0 27 217 92 3 0 8 63 11 1 34 23 .266(21) .352 .484 .836
1973年 127 483 60 130 14 0 20 204 76 3 1 8 37 3 1 35 20 .269(13) .318 .422 .740
1974年 128 442 56 108 16 1 15 171 55 2 1 4 24 0 5 33 18 .244(24) .288 .387 .675
通算成績 2186 8094 1270 2471 418 74 444 4369 1522 190 5 90 969 205 43 729 257 .305 .379 .540 .919
23位 11位 10位 7位 6位 8位 12位 6位 7位 - - 5位 14位 3位 - - 4位 14位 - 11位 -

オールスター通算打撃成績

























43 150 21 47 10 0 7 78 21 8 3 0 1 17 0 0 13 6 .313

日本シリーズ通算打撃成績

























68 265 49 91 14 2 25 184 66 3 6 0 3 27 1 1 21 5 .343

年度別守備成績

位置 1958 1959 1960
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
130 129 385 25 31 .954 123 103 370 15 25 .969 123 92 362 19 30 .960
10 14 24 2 4 .950
位置 1961 1962 1963
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
129 125 369 16 30 .969 134 120 341 15 29 .968 132 114 374 13 33 .974
8 12 17 1 4 .967
1 0 0 0 0
位置 1964 1965 1966
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
133 118 385 16 30 .969 131 117 317 14 24 .969 127 109 314 14 20 .968
位置 1967 1968 1969
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
121 88 274 13 29 .965 131 111 285 19 31 .954 126 109 305 12 22 .972
位置 1970 1971 1972
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
127 88 256 19 8 .948 129 79 262 14 21 .961 124 103 237 10 28 .971
位置 1973 1974 通算成績
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
127 96 279 12 25 .969 125 66 210 15 18 .948 2172 1767 5325 261 434 .965
18 26 41 3 8 .957
1 0 0 0 0

タイトル・表彰・記録

タイトル

  • 新人王(1958年)
  • MVP:5回(1961年、1963年、1966年、1968年、1971年)
  • 首位打者:6回(1959年 - 1961年、1963年、1966年、1971年)※6回はセ・リーグ記録。3年連続はセ・リーグタイ記録。
  • 本塁打王:2回(1958年、1961年)
  • 打点王:5回(1958年、1963年、1968年 - 1970年)
  • ベストナイン:17回(1958年 - 1974年)※入団年から引退年まで現役全シーズンのベストナイン受賞は史上唯一。
  • ゴールデングラブ賞:2回(1972年、1973年)

表彰

  • 日本シリーズMVP:4回(1963年、1965年、1969年、1970年)※史上最多。
  • 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1966年、1972年)
  • 日本シリーズ打撃賞:2回(1969年、1970年)

記録

レギュラーシーズン

  • 最多安打:10回(1958年 - 1963年、1966年、1968年、1969年、1971年)※6年連続と通算10回記録は、それぞれ日本記録。当時は表彰なし。
  • シーズン打率3割以上:11回(1958年 - 1961年、1963年 - 1966年、1968年、1969年、1971年)※歴代5位タイ。
  • シーズン150安打以上:11回(1958年 - 1963年、1965年、1966年、1968年、1969年、1971年)※日本記録。
  • 打撃ベストテン入り:13回(1958年 - 1966年、1968年 - 1971年)※歴代4位。
  • シーズン二塁打数リーグ1位:3回(1958年、1961年、1962年)※セ・リーグ記録。
  • シーズン20本塁打到達スピード1位:39試合(1968年)
  • 6年連続シーズン150安打以上(1958年 - 1963年)※セ・リーグタイ記録。
  • 17年連続シーズン100安打以上(1958年 - 1974年)※歴代4位タイ。入団1年目からの記録としては、セ・リーグ記録。
  • 2年連続シーズン30敬遠以上(1960年 - 1961年)※日本タイ記録。
  • 6試合連続敬遠:2回(1958年9月7日 - 9月15日、1961年8月16日 - 8月22日)※日本記録。
  • 4試合連続三塁打(1960年5月8日 - 5月14日)※日本記録。
  • シーズン214守備機会連続無失策(1969年7月17日 - 10月9日)※三塁手としての日本記録。
  • 5年連続開幕戦本塁打(1970年 - 1974年)※日本記録。
  • 通算開幕戦本塁打:10本(1959年、1960年、1963年2本、1968年、1970年 - 1974年) ※日本記録。
  • 通算サヨナラ本塁打:7本(1959年、1961年、1962年、1963年、1966年、1973年)※歴代6位タイ。
  • 通算猛打賞:186回 ※セ・リーグ記録。
  • 通算1000試合出場 1965年8月18日(102人目)

日本シリーズ

  • 通算試合出場:68(1958年、1959年、1961年、1963年、1965年 - 1972年)※歴代5位。
  • 通算打率:.343 ※160打数以上では、歴代1位。
  • 通算打数:265 ※歴代最多。
  • 通算得点:49 ※歴代2位。
  • 通算安打:91 ※歴代最多。
  • 通算二塁打:14 ※歴代最多。
  • 通算三塁打:2 ※歴代5位タイ。
  • 通算本塁打:25 ※歴代2位。
  • 通算塁打:184 ※歴代最多。
  • 通算長打:41 ※歴代最多。
  • 通算打点:66 ※歴代最多。
  • 通算四球:27 ※歴代5位。
  • シリーズ打率4割以上:4回(1966年、1968年 - 1970年)※シリーズ記録。
  • シリーズ4本塁打(1969年、1970年)※シリーズタイ記録。1970年は5試合シリーズ記録。2回記録したのは長嶋と城島健司(2000年、2003年)のみ。
  • 連続打席本塁打:3(1970年)※シリーズ記録。

オールスターゲーム

  • 出場回数16回(1958年 - 1963年、1965年 - 1974年)※1964年にもファン投票で選出されているが、負傷により出場を辞退。
  • 通算打率:.313 ※150打数以上では、歴代1位。

総合

  • 公式戦、日本シリーズ、オールスターの全てで通算打率3割以上 ※史上唯一。

監督としてのチーム成績

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1975年 巨人 90 6位 130 47 76 7 .382 27 117 .236 3.53 39歳
1976年 1位 130 76 45 9 .628 - 167 .280 3.58 40歳
1977年 1位 130 80 46 4 .635 - 181 .280 3.48 41歳
1978年 2位 130 65 49 16 .570 3 136 .270 3.61 42歳
1979年 5位 130 58 62 10 .483 10.5 154 .259 3.85 43歳
1980年 3位 130 61 60 9 .504 14 153 .243 2.95 44歳
1993年 33 3位 131 64 66 1 .492 16 105 .238 3.22 57歳
1994年 1位 130 70 60 0 .538 - 122 .258 3.41 58歳
1995年 3位 131 72 58 1 .554 10 139 .252 3.40 59歳
1996年 1位 130 77 53 0 .592 - 147 .253 3.47 60歳
1997年 4位 135 63 72 0 .467 20 150 .251 3.69 61歳
1998年 3位 135 73 62 0 .541 6 148 .267 3.74 62歳
1999年 2位 135 75 60 0 .556 6 182 .265 3.84 63歳
2000年 3 1位 135 78 57 0 .578 - 203 .263 3.34 64歳
2001年 2位 140 75 63 2 .543 3 196 .271 4.45 65歳
※1 太字は日本一
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制
※4 2001年から2004年までは140試合制

監督通算成績

  • 1982試合 1034勝889敗59分 勝率.538
  • Aクラス12回 Bクラス3回
  • 日本一2回 リーグ優勝3回 最下位1回

メディア出演

テレビ番組

ラジオ番組

  • 「TOYOTAメイクハッピー・ようこそ!長嶋茂雄です」(ニッポン放送

CM

映画

音楽

主な著作

参考文献

脚注

  1. ^ 1993年の2度目の監督就任以前までは、新聞やマスコミの常用漢字ではない、旧字体の「嶋」の字はあまり使われず、「長島」姓の表記が使われていたこともあった。
  2. ^ 当時、90番という背番号は日本のプロ野球の選手(支配下登録者)および監督・コーチの中では最も大きい数字であり、この番号を付けたのはもちろん長嶋が最初であった。このため、第1期監督時代には長嶋を指す言葉として「90番」がマスコミの見出しなどにしばしば用いられた。
  3. ^ もっともこの説を盛んに唱えていたのは、主に長嶋シンパの球界OBやマスコミ関係者であった。
  4. ^ 長嶋の代理として後輩である中畑清ヘッドコーチが肩書きはそのままにチームの指揮を執ったものの、銅メダルに終わった。
  5. ^ 玉木正之の『プロ野球大事典』(1990年、新潮文庫)では、東急フライヤーズ一言多十が映画『七人の侍』を「七人のマチ」と言ったエピソードから、多くのコラムニストが他のプロ野球選手にこれを付会させたエピソードを「創作」し、その「被害」が最も多いのは長嶋であろうと記されている。同書には1979年のあるエッセイで、長嶋が同じ黒澤明監督の映画『野良犬』を「ノヨシケン」と呼んだと書かれている例が紹介されている。
  6. ^ 著書『長島茂雄のトランジットタイム』(1984年、電通)による。
  7. ^ 1960年安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「安保(闘争)」に言及している)、政権交代を思わせる時代背景があった。もっとも多くの日本人は万一現実に政権を取ったらある程度現実的に行動するであろうと理解していた。社会党もこの記事に対してただちに「そのようなことはしない」といったコメントを出している。一方で長嶋は、社会主義国のキューバを訪問したさい、現地の野球が盛んなことや優れたスポーツ政策を目の当たりにして感心し、帰国後周囲の人にカストロやゲバラの事を絶賛していたと言われる(『プロ野球大事典』より)。
  8. ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
  9. ^ 『玉木正之 スポーツ・ジャーナリズムを語る 』(国士舘大学体育スポーツ科学学会,2003年)

関連項目

ウィキクォート
ウィキクォート長嶋茂雄に関する引用句集があります。
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