川上哲治

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川上 哲治
Kawakami195104.jpg
川上 哲治
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県球磨郡大村(現・人吉市
生年月日 1920年3月23日(93歳)
身長
体重
174 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手投手
プロ入り 1938年
初出場 1938年5月1日
最終出場 1958年10月21日
1975年3月23日(引退試合)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1951 - 1957, 1959 - 1974)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1965年
選出方法 競技者表彰

川上 哲治(かわかみ てつはる[1]1920年3月23日 - )は、熊本県球磨郡大村(現・人吉市)出身のプロ野球選手監督野球解説者

現役時代から“打撃の神様”と言われ、また監督としては読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、V9(9年連続セ・リーグ優勝・日本一)を達成した。愛称は「打撃の神様」、「」、「ドン川上」、長年世田谷区野沢在住であるため「野沢のおやじさん」。現役では最高齢のプロ野球解説者(NHK)だった。

妻は元宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 - 1944年)。長男はノンフィクション作家川上貴光

目次

経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

元々は右利きであったが、5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷。経過が悪く完治に半年ほどかかり、治る頃には左利きになっていた。その後しばらくは左投げ右打ちだった。

人吉市の大村尋常高等小学校(現・人吉市立人吉西小学校)を卒業後、熊本県立工業学校(現・熊本工業高等学校)に入学。一旦は退学し、中学済々黌(現・熊本県立済々黌高等学校)に編入、さらに人吉中学校(現・熊本県立人吉高等学校)を経て、熊本工に復学。2年生の4月から左打ちに転向した。投手として吉原正喜捕手)とのバッテリーが評判となり、夏の全国中等学校野球選手権大会へ2度(1934年1937年)出場、いずれも準優勝する。1937年の全国中等学校優勝野球大会の決勝戦では中京商野口二郎と投げ合う、後にプロ野球入りして絶妙のコントロールと言われることになる野口が6四球、プロ入り後コントロール難で投手失格で打者転向する川上が無四球という、プロ野球入り後とはお互い対照的なピッチングを見せるが、3対1で敗れている[2]。また春の選抜中等学校野球大会にも1回(1936年)。決勝戦終了後に甲子園球場の土をユニフォームポケットに入れ、母校のグラウンドに撒いた。甲子園の土の持ち帰り第1号とされている[3]。この時は中京商業学校に負けたものの、優秀投手に選ばれている。

現役時代 [編集]

卒業後、鉄道員の道を勧める父を説得して、1938年に東京巨人軍に投手として入団。阪神阪急、新球団の南海との争奪戦の末の獲得だった。契約金は300円・月給110円だった。当時の300円という金額は「東京では分からないが、熊本の田舎ならなんとか家一軒建てられる」ものだったという[4]。同期入団には熊本工業学校の同級生・吉原正喜をはじめ、千葉茂内海五十雄野村高義岩本章三田政夫がおり、「花の昭和13年組」として注目を集めた。巨人の狙いは強打の捕手の吉原であり、投手の川上はそのついでという扱いだった。川上は巨人と契約した1週間後に南海の契約金500円・月給150円という好条件を聞き、巨人と契約したことを悔やんだという[5]。また異説として、大和球士『プロ野球三国志 第四巻』(ベースボールマガジン社)によれば、南海への入団が決まりかけていたが、巨人は南海の加入に既存球団の反対が強かった状況を利用した。巨人の鈴木惣太郎は南海の高須一雄監督を呼び出し、南海の加入に反対しない代わりに川上と吉原の獲得から手を引かせる取引をしたという。

入団当時は投手として登録されていたが、球威に乏しく自他共に認める「軟投派」タイプであった。監督の藤本定義は川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。熊本工でバッテリーを組んでいた吉原が開幕試合で新人ながらスタメン出場し、やはり同期の千葉が二塁手として活躍しているのを見て「早く打撃に専念すればいいが…」とこぼしていた。春シーズン(当時のプロ野球は春・秋の2シーズン制が採られていた)は川上は投手と打者の両方で起用されたが、いずれも成績は芳しくなかった。

川上が野手に転向したのは春シーズンが終わり、秋シーズンに入る前に行われた夏のオープン戦だった。当時の正一塁手だった永沢富士雄が怪我でスタメン落ち、急遽一塁手として出場。同試合で3安打の活躍を見せると、藤本定義監督から「ファーストミットを用意せよ」と言い渡され、川上は大喜びした[6]。この年の秋シーズンから一塁手として定着する。翌1939年から内野手として登録されるが、1941年までは投手も兼業していた。

1939年から1シーズン制に戻り、同年に19歳にして首位打者を獲得。以後1941年にも首位打者に輝いた。「投手で4番」の先発出場を3回記録しており、1939年4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。10月20日の対イーグルス戦(阪急西宮球場)では当時の日本プロ野球タイ記録となる1試合12与四死球を記録(四球11死球1、5失点で敗戦投手)[7]

1944年に入営。立川陸軍航空整備学校の教官(陸軍少尉)をしていた時には部下に丹波哲郎がいた。またこの当時、内地で終戦を迎える。川上は郷里の人吉に帰り、家族を養うために農業に専念していた。プロ野球は1946年4月からペナントレースが再開され、巨人は川上に対して選手復帰を申し立てた。しかし、川上は人吉の家族を扶養することを考え、「もし3万円貰えるなら巨人に復帰する用意がある」と伝えた。これは、プロ野球で初めて選手が球団に対して契約金を要求したことになり「三万円ホールドアウト事件」とも言われる。1946年6月から巨人に復帰し、その年3割をマーク。

1946年8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーした。この「赤バット」は川上のトレードマークとなり、青バットを使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。この運動具メーカーとの契約は、プロ野球選手のCM出演第1号ともいわれる。赤バット・青バットは同年限りで使用を禁止されたが、ファンには強烈な印象を残した。

1947年シーズン途中から巨人の監督は三原脩が就いた。三原はスターを重用し川上も三原を慕っていたが、一方で若手や他球団から移籍した選手は自分たちの扱いに不満を持ち、1949年シーズン終了後一部の「反三原」らの選手たちが決起して監督の三原を排斥して水原茂を擁立しようとした「三原監督排斥騒動」が持ち上がる。川上はこの動きに反対していたが、球団は選手たちの圧力に屈して三原を更迭して水原を監督に据えた。川上は水原に対していい感情を持っておらず、また水原はチームの主力選手になっていた川上を叱責するなどの確執が見られた。

当時の川上は試合終了後に宿舎で深夜まで素振りをするなど、チーム内では練習熱心で知られていた。そして1950年のシーズン途中に、多摩川のグラウンドで打撃投手を個人的に雇って打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるという感覚に襲われた。これが「ボールが止まって見えた」というエピソードである(実際は当時松竹ロビンス小鶴誠の発言、不人気球団を渡り歩いた小鶴では記事にならないと、報知新聞記者が川上の言葉に捏造したものである)[要出典]

1950年、シーズン2度の1試合3本塁打を記録(3月14日4月16日)。これは1989年ラルフ・ブライアントがシーズン4度記録するまで最多記録だった。

1951年、サンフランシスコ・シールズの監督フランク・オドールから、自チームのスプリングキャンプに日本球界から数名を招待したいと申し入れがあった。監督の水原は川上を推薦したが、自分が選ばれることはないと思っていたためこの決定に驚いた。さらに、渡米してスプリングキャンプに参加したところ、監督は練習メニューをコーチに任せたきりであとは地元の名士たちとの交流に費やしていることに驚いた。ここで川上は、アメリカ球界ではチームは監督が絶大な権力者であり、選手が監督に従うものであると学んだ。当時の日本球界では、「三原監督排斥騒動」で選手が監督を突き上げたりしたように「選手は監督と対等である」との風潮が一般的だったが、川上はこれが間違いであると実感した。キャンプを終えて帰国してから川上は水原に対する態度を変えて、水原に対して極めて協力的になった。

1951年には打率.377を記録。これは1986年にランディ・バース(阪神)が.3885を記録して塗り替えるまでセ・リーグ記録であり続け、1989年にウォーレン・クロマティが更新(.378)するまで球団記録だった。また同年シーズンは規定打席到達者による年間三振6(424打席)の最少三振タイ記録も達成した。

1956年5月31日の中日戦、中山俊丈投手からプロ野球史上初の2000本安打を達成した。この到達試合数は日本プロ野球最速記録である(1646試合)。なお、1500本安打の到達試合数も1241試合で達成当時は史上最速であった。現在では松井稼頭央の1233試合、アレックス・ラミレスの1236試合、レロン・リーの1237試合に次ぐ速さである。

1957年には1948年以来の打率3割未満に終わり(8年連続打率3割は王貞治と並ぶ歴代2位タイ)、翌1958年は「この年3割打てなかったら引退しよう」と決意するも、さらなる打撃不振に陥り、4番の座も新人の長嶋茂雄に奪われてシーズン後半から6番に下がった。日本シリーズ西鉄ライオンズに3勝4敗で破れ、第7戦終了後に現役引退を表明しコーチに就任。

1960年10月には水原監督がカメラマンを暴行する事件を起こして球団から謹慎処分を受け、川上が代理監督を務めた。

監督時代 [編集]

1961年、水原監督の辞任に際し、監督に昇格。当時巨人は1955年以来日本一を逃しており、1960年はリーグ優勝さえ逃していた。戦力的には打撃は長嶋茂雄1人だけが頼りになる状態で、投手陣では藤田元司が肩痛を抱えるなど絶対的な柱が不在であった。

就任直後、戦力に乏しいロサンゼルス・ドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目し、ドジャースのコーチのアル・キャンパニスが著した『ドジャースの戦法』をその教科書として、春季キャンプからその実践に入った。コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。また、コーチとして招聘した牧野茂が中心となってサインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入していった。こうした野球が功を奏して1961年にはチーム打率リーグ最低に加えて当時では珍しい20勝投手なしという戦力でありながらリーグ優勝、さらに日本シリーズでは南海ホークスを倒して日本一に輝いた。先述の藤本定義が阪神タイガースの監督に就任すると、阪神ベンチ前に呼び出され、万座の前で采配を非難されたという。吉田義男など阪神の選手は試合中に藤本のマネをして「おい哲、しっかりせえ」と野次を飛ばした。

川上は監督就任後の1961年の春季キャンプから、グラウンドから報道陣を追い出して取材規制を敷いた。当初は記者たちからこの規制に対して反発が上がったが、1962年からさらに徹底していった。この報道管制をマスコミは“鉄のカーテン”に擬え“哲のカーテン”と呼んだ。川上は日本球界で初めて専属広報をおき、坂本幸夫が初めてその役を担った。川上はグラウンドの権限のみならずスカウト部長を兼任するなどチーム編成の面でも権限を掌握しており、栄養学、ランニングコーチ制の導入など新機軸を次々と打ち出していった。

  • V9時代のユニフォームは1961年、川上の監督就任とともに登場し、川上が退任する1974年までの14年間の長きにわたり使用された[8]

また、選手時代のサンフランスシスコ・シールズのキャンプに参加した経験から、選手には監督・コーチに対して絶対服従を要求したが、コーチ兼任の広岡達朗は歯に衣着せぬ性格であり、川上の「体で覚えろ」的な練習方針に反発していた[9]。1964年、広岡は週刊ベースボールで手記を連載したが、川上はこれに「監督批判」を感じ取って連載を中止させた。さらに同年8月6日の対国鉄戦で、0-2とリードされた7回表ランナー3塁の場面で3塁ランナーの長嶋がホームスチールを敢行。これは長嶋の判断によるプレーだったが広岡はこれをベンチのサインだと感じ「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と激怒して、次の球を三振してバットを地面に叩きつけ、そのまま球場から去って帰宅した。川上はこの一連の行為を監督批判として広岡を他球団へトレードしようと決意する。

シーズン終了後に広岡は自分がトレードされることが分かると、オーナーの正力亨に直訴し「トレードされるぐらいなら巨人の広岡として終わらせてほしい」と直訴する。しかし亨は父の正力松太郎に報告すると、松太郎は「打撃面を強化して残れ」と激励され、トレードは破算となった。しかし、一連の動きはマスコミの格好のターゲットとなりマスコミは広岡を支持し、さらにあるスポーツ紙に川上が広岡残留を苦々しく思っていることを吐露した記事が報道されると、川上はマスコミの攻撃にさらされた。川上にとっても子供が学校でいじめを受ける、夫人がストレスで大病を患うという苦痛を味わうことになる。だが川上は松太郎に会って事情を説明して信頼は保持することに成功した。

広岡との確執はこの後も続く。広岡が引退し解説者として、フロリダ州ベロビーチのジャイアンツキャンプの取材に来た時、川上は広岡の取材を禁止し「広岡とは口をきくな」と選手に命じた。広岡はこの川上の処置に対し、文字通り殺意を感じるほどの激怒を感じたという。しかし両者は次第に和解していき、近年では対談を交わすほどに互いを認めあっている。川上は著書『遺書』で広岡について「一言でいえばひらめきの人。どんな立場でも自分の能力を最大に発揮していくことのできる人間。低迷して打つ手がなくなっているようなチームの監督に一番向いている人物」として広岡の指導者能力を高く評価している。また広岡の方も、「長期的な強豪チームにしたという意味では川上さんはジャイアンツ随一の監督だった」と川上の手腕を認めており、現在では両者のわだかまりは完全に消えている。

  • 周囲の悪評を気にしていないというイメージで見られていたが、V9の後半(1970年以降)、自らが率いるチームが優勝したにも関わらず「川上の野球はつまらない」「三原脩の爪のアカでも煎じて飲め!!」とこき下ろされるのを見て、「何でチームが勝つだけで悪く言われるのだろう」と悶々としていたと、後に本人が明かしている[10]

戦力が整った1965年以降、巨人は1973年まで9年連続リーグ優勝と日本一のいわゆる「V9」を達成した。この間堀内恒夫土井正三高田繁高橋一三ら若手が主力選手として支え、さらにトレードで関根潤三森永勝也富田勝ら他球団の有力選手を獲得してレギュラー選手たちを刺激し続けた。特に捕手の森昌彦に対してはアマチュア球界の有力選手を次々に獲得していき安住を許さなかった。

巨人が連覇を続け、さらに王・長嶋が活躍してタイトルを独占するという状況が続くと、ファンやマスコミがこれに飽きてきて、予定調和的に巨人が勝ち続けることへの不満が高まっていった。川上はこうした批判を次第に気にし始めており、V6を達成した1970年には監督からの退任も決意している。ファンやマスコミからは長嶋茂雄が次期監督となることへ期待が高まっていった。川上の方も、長嶋に対して監督としての教育を施そうと考え1972年からコーチ兼任とし、後楽園球場のロッカールームを首脳陣の使うロッカーに移して監督会議にも出席させている。そして1973年シーズン終了後に川上は長嶋に対して、現役引退して監督へ就任するよう勧め、自分も監督を退任しようとしたが、長嶋が現役生活に拘り1974年も選手生活を送るように直訴した。1974年長嶋はシーズンを通じて打撃不振に喘ぎついに引退を決断、そしてチームもリーグ10連覇を逃し、川上は監督退任した[11]。同年7月9日大洋戦で平松政次の投じたシュート河埜和正に当たった判定で生涯唯一の退場処分を受けた[12]

  • 金田正一によれば、川上の成功の秘訣は「不人情」だという。金田は移籍初年度の1965年、故障のため長期離脱したが、やがて故障が癒えて登板OKと判断、川上に連絡したとき、川上は「言葉だけでは信用できない。二軍戦でテストしてからだ」と告げたという。当時、金田クラスの実績のある選手が二軍戦に出場するのはどういう事情であっても恥と考えられており、金田は「ワシに二軍の試合に出ろというのか」「日本一の大投手の言うことが信用できんのか」と憤慨したが、後年このエピソードを述懐するとき「これが『金田ほどのピッチャーが言うんだから、信用しよう』という監督だったら、とてもV9は達成できない。こういう、選手に情けをかけない人だからこそ監督として大成功できた」と評価している。なお、金田は川上の指示通りイースタン・リーグの試合に登板、1勝を記録している。
  • 「体が無い者はプロ向きではない」という信条から、選手を見た目だけで判断することが多かった(小柄な選手はプロとして大成しないと考えていた)。巨人は1968年のドラフト会議で、指名選手の一人として福本豊をリストアップする予定であったが、「あんなチビはプロ向きじゃない」という川上の一言で実現しなかった。また、故障歴(もしくはその疑い)のある選手の獲得にも消極的で、1965・66年のドラフト会議に際しては平松政次、1968年のドラフト会議では星野仙一の指名に対して難色を示している[13]

湯口事件 [編集]

  • 1973年3月22日に、1970年ドラフト1位湯口敏彦投手が精神科病院で変死した。うつ病で入院していた湯口だが、発症の原因は川上監督の罵声と中尾碩志投手コーチの鉄拳制裁であった。また、湯口の死に際してのコメントも弔意を全く表すものではなく、逆に「女性を隣りに乗せての交通事故死でなくて良かった。」というもので、マスコミは巨人の体質を批判し、1973年ドラフトではドラフト1位選手を含む4選手が巨人入団を拒否した。詳しくは湯口事件を参照。

退団後 [編集]

監督退任後は球団専務に就任したが、川上を煙たがり、現場から遠ざけることを望んでいた当時オーナーの正力亨の意向で少年野球担当に回され、わずか1年で退団。1976年からNHKの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家となった。

川上の後を受けた長嶋は1975年に球団史上初めて最下位に転落し、同年シーズンオフにはトレードで張本勲加藤初を獲得して戦力を補強し1976年、77年とリーグ優勝を達成した。しかしいずれも日本シリーズでは阪急ブレーブスに破れ日本一はならなかった。チームも依然としてV9を支えたベテランが主力で、V9と比べるとチーム力の低下が明らかとなった。前監督の川上も「勝つことにこだわりすぎ次世代の戦力を整備してこなかった」と批判されるようになった。

1980年の巨人はペナントレース序盤から優勝争いから脱落し、球団史上初めて「3年連続V逸」が濃厚となっていった。8月に『週刊文春』の青田昇牧野茂国松彰藤田元司らとともに巨人の現状をOBの立場から叱責するという趣旨の座談会で、「次期監督は藤田もありうる」などと発言し大きな反響を呼んだ。同年は3位となり1980年10月21日巨人は「長嶋が辞任を申し立て、次期監督に藤田が就任する」と発表したが、当日スポーツニッポンが「長嶋解任」と報道しファンは球団による解任と受け止め、週刊文春での発言から川上が長嶋解任の黒幕であると見なされた。しかし、川上本人は同年末に『サンデー毎日』の取材に答えて「黒幕説」を強く否定している。長嶋と川上の不仲はこの件で決定的になったとされる。

高齢のため、後にNHKの解説の第一線からは退いたが現在ではJ SPORTS STADIUMに特別ゲスト解説で出演することがある。1965年野球殿堂入り。1999年3月17日、生誕地の熊本県人吉市に川上哲治記念球場完成。後年は鶴岡一人と共に球界に強い影響力を持ったことから「ドン川上」といわれるようになった。退任後の1992年、球界初の文化功労者に選ばれた。

戦前のプロ野球に在籍していた選手のうち、現在もまだ消息が分かっているのは川上の他に松尾五郎小田野柏溝部武夫宮崎剛らごく少数になった。川上は「球界の森繁久彌」と称されているが、その理由は長寿であることのほかに、森繁同様、公式の場に姿を現す機会がもっぱら著名人(川上の場合は球界関係者)の葬式に限られていることが背景にある(森繁は2009年に逝去)。2002年、かつてのチームメートで同期入団だった千葉茂が急死した時には「同期入団は沢山いたのに、(戦争などで)最後に残ったのは私一人になってしまった」と寂しそうに追悼の言葉を寄せている。

プレースタイル [編集]

打撃 [編集]

低く鋭い当たりを飛ばす打撃スタイルで、ライナー性の打球が多いラインドライブヒッターだった。現在広く用いられている「弾丸ライナー」という言葉は、大和球士が川上の鋭い打球を「弾丸ライナー」と名付けたことに由来する。

現役時代の晩年は腰が回らなくなり、全盛期とは反対にテキサスヒット(ポテンヒット)が多くなったため、「テキサスの哲」とも呼ばれていた。

守備・走塁 [編集]

打撃では超一流の実力を示したが、守備は苦手であった。当時のチームメイトで二塁手を務めていた千葉茂は、「一塁のすぐ横のゴロまでワシが取らなきゃならなかった」、「ほんのちょっと送球が高いと、奴(川上)はもう背中を向けているんよ。『これは捕れない』と悪送球を拾いに行くのさ。ジャンプして捕ろうという気がないんだね」と発言している。

「重戦車」とあだ名されるほど足が遅かったが、1947年からは投手のクセを盗んだりバッテリーの隙を突いたりという努力で足の遅さを補い、以前とは別人のように、隙あらば盗塁を仕掛けるようになった。通算220盗塁は今も巨人球団歴代3位の記録である。1950年には自己最多の34盗塁を記録し、本塁打1本の差で逃したもののトリプルスリー目前の成績も残している。また足についてはあくまでも「加速が遅かった」ということか、走力が必要とされる三塁打は現役当初から多く、通算99三塁打はプロ野球歴代4位の記録である。

特筆 [編集]

人物 [編集]

球界OBの中でも大のゴルフ好きとして知られ、日本レフティーゴルフ協会(左利きゴルファーの同好会)の名誉会長を務めている(以前は会長だった。川上後の会長職には国松彰が務めていた)。V9時代、キャンプ中の指揮を牧野ヘッドコーチに任せ、専らゴルフに興じていたという。現在は週刊ゴルフダイジェストでコラム「日々、ゴルフ惚け」を連載中である。2007年2月23日には、日本プロゴルフ協会から、小林旭羽佐間正雄らと共に名誉会員に認定された。

この時代に生まれた人物としては珍しく、自動車免許を持っている。1955年(昭和30年)4月30日には、後楽園球場の近くにある本郷3丁目交差点にて自動車を運転中、道路わきの安全地帯の縁石に突っ込んで自動車前部を大破した。運転していた川上は軽い打撲で済んだが、同乗していた平山菊二は右目の下を6cm切る裂傷を負ったという。

堀田力と共にさわやか国民会議の発起人である。また1994年には、同年に設立された日本プロ野球OBクラブの初代会長を務めた。

「巨人キラー」という言葉を嫌っている。「この投手は巨人キラー」と発言するアナウンサーがいると、「巨人はそれ以上に(巨人キラーとされている投手を)叩いているから巨人キラーはいない」と答えている。

チームメイトの時期があった青田昇は、現役時代の川上が親しく話せる数少ない人物であった。青田は川上について、「非常に人見知りが激しいが、親しくなればとことん自分をさらけ出してくる人」と自著で語っている。

俳優丹波哲郎は著書で「軍隊時代に上官だった川上哲治からリンチを受けていた。終戦後に川上が『あのときは仕方なかった』と頭を下げて廻り、巧みな処世術をする川上を見たとき、川上の本性がわかった」と述べている。

野球 [編集]

赤バットには赤信号の意味をこめ、バットの後ろにはボールを行かせない(ストライクを取らせない)という意味合いがあった[14]

現役時代のオフの過ごし方として、禅寺への修業があった。兵役中に同僚だった玉城康四郎坐禅姿を見て関心を持ったという。また、僧侶達がたくあんを音を立てずに食する様子に興味を持ち、その作法を(僧侶達には直接聞かずに)動作を見て会得した。

現在、沢村栄治及びヴィクトル・スタルヒンの現役時代を本当の意味で知っていて証言できる人物は、チームメイトであった川上を除くとほぼ鬼籍に入った。沢村、スタルヒンは共に剛速球投手として知られており、現在でもそのスピードについて議論されることが多い。良く議論の的になるのは沢村の方であるが、千葉茂と川上は共に「スタルヒンのほうが球は速かった、160km/h出ていたはずだ」という共通した見解を示している。さらに川上は、「スタルヒンの横で投げると、自分の方が球が遅く見えるので、スタルヒンと一緒に投球練習するのを沢村は嫌がっていた」と証言している。ただし川上も千葉も入団は1938年であり、沢村の徴兵(1938年)前の全盛期時代(1936~37年)の球を選手の立場として見てはいない。

川上は“打撃の神様”という愛称について、「“打撃の神様”の称号は自分ではなく、榎本喜八が最も相応しい」と語っている。1968年7月、榎本は右翼線へ二塁打を放って通算2000本安打を達成し、控え室で報道陣のインタビューを受けたが、その際に赤い袋に入った一通の祝電が届いた。差出人は川上であり、榎本が他球団で別のリーグの選手であるにも関わらず、川上は即座に榎本へ祝福を送ったという[15]沢木耕太郎は著書『敗れざる者たち』(1979年)の中で、「川上は、自分に似て不器用な一塁手であり、しかも努力の才によって天才となったこのバッター(榎本)を、かつての自分に重ね合わせるように見ていたのかもしれない」と記している。

詳細情報 [編集]

年度別打撃成績 [編集]

















































O
P
S
1938 巨人 23 38 35 0 7 0 0 0 7 2 0 -- 0 -- 3 -- 0 1 -- .200 .263 .200 .463
1938 39 155 133 24 35 3 3 3 53 24 2 -- 2 -- 20 -- 0 16 -- .263 .359 .398 .758
1939 94 385 343 60 116 17 12 4 169 75 8 -- 0 4 37 -- 1 19 -- .338 .404 .493 .897
1940 104 446 392 51 122 23 9 9 190 66 7 -- 0 4 50 -- 0 27 -- .311 .389 .485 .874
1941 86 388 339 44 105 21 9 4 156 57 5 -- 0 -- 46 -- 2 21 -- .310 .395 .460 .856
1942 72 321 274 22 73 7 3 3 95 27 5 2 0 -- 46 -- 1 18 -- .266 .374 .347 .721
1946 70 317 279 45 85 20 4 10 143 67 2 1 0 -- 38 -- 0 13 -- .305 .388 .513 .901
1947 119 510 443 56 137 30 7 6 199 57 16 5 0 -- 65 -- 2 17 -- .309 .400 .449 .849
1948 135 566 504 69 150 26 6 25 263 105 12 3 0 -- 58 -- 4 26 -- .298 .375 .522 .896
1949 134 597 545 84 180 36 10 24 308 129 9 3 0 -- 49 -- 2 24 -- .330 .388 .565 .953
1950 138 619 559 102 175 34 6 29 308 119 34 6 0 -- 56 -- 4 29 12 .313 .380 .551 .931
1951 97 424 374 74 141 27 2 15 217 81 14 6 0 -- 48 -- 2 6 9 .377 .450 .580 1.031
1952 118 522 478 62 153 28 4 4 201 82 15 5 0 -- 42 -- 2 21 11 .320 .377 .421 .798
1953 121 518 467 74 162 26 6 6 218 77 22 8 0 -- 44 -- 7 14 10 .347 .411 .467 .878
1954 129 561 510 64 164 27 8 8 231 87 26 8 1 7 41 -- 2 25 14 .322 .374 .453 .827
1955 120 516 435 55 147 15 1 12 200 79 17 10 0 8 69 34 3 33 10 .338 .432 .460 .892
1956 128 542 490 54 160 23 4 5 206 67 16 13 2 1 46 22 3 36 10 .327 .388 .420 .808
1957 128 519 465 54 132 26 3 5 179 52 6 5 6 3 40 13 4 37 10 .284 .346 .385 .731
1958 124 480 435 34 107 19 2 9 157 66 4 5 7 8 25 1 5 39 9 .246 .295 .361 .656
通算:18年 1979 8424 7500 1028 2351 408 99 181 3500 1319 220 80 18 35 823 70 44 422 95 .313 .383 .467 .850
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別投手成績 [編集]





















































W
H
I
P
1938 巨人 11 8 2 1 1 2 2 -- -- .500 254 59.2 55 2 26 -- 1 23 1 0 21 17 2.55 1.36
1938 1 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 27 6.0 4 0 3 -- 0 4 0 1 4 2 3.00 1.17
1939 18 13 5 1 0 6 4 -- -- .600 449 102.2 81 2 64 -- 2 54 3 0 46 27 2.36 1.41
1940 6 2 1 0 0 3 2 -- -- .600 118 27.0 18 1 22 -- 1 15 1 0 7 3 1.00 1.48
1941 3 1 0 0 0 0 0 -- -- ---- 29 4.2 10 0 6 -- 1 1 0 0 9 9 16.20 3.43
通算:4年 39 25 8 2 1 11 9 -- -- .550 877 200.0 168 5 121 -- 5 97 5 1 87 58 2.61 1.45

年度別監督成績 [編集]

年度 チーム 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1961年 昭和36年 巨人 16 1位 130 71 53 6 .569 89 .227 2.50 41歳
1962年 昭和37年 4位 134 67 63 4 .515 8 102 .232 2.47 42歳
1963年 昭和38年 1位 140 83 55 2 .601 143 .247 2.57 43歳
1964年 昭和39年 3位 140 71 69 0 .507 11 147 .235 3.01 44歳
1965年 昭和40年 77 1位 140 91 47 2 .659 106 .246 2.54 45歳
1966年 昭和41年 1位 134 89 41 4 .685 114 .243 2.24 46歳
1967年 昭和42年 1位 134 84 46 4 .646 162 .265 2.87 47歳
1968年 昭和43年 1位 134 77 53 4 .592 177 .262 3.35 48歳
1969年 昭和44年 1位 130 73 51 6 .589 147 .263 3.30 49歳
1970年 昭和45年 1位 130 79 47 4 .627 131 .240 2.46 50歳
1971年 昭和46年 1位 130 70 52 8 .574 123 .253 2.94 51歳
1972年 昭和47年 1位 130 74 52 4 .587 158 .254 3.43 52歳
1973年 昭和48年 1位 130 66 60 4 .524 149 .253 3.25 53歳
1974年 昭和49年 2位 130 71 50 9 .587 0 159 .253 3.05 54歳
通算:14年 1866 1066 739 61 .591 Aクラス13回、Bクラス1回
  • 太字は日本一
  • 1961年から1962年1966年から1996年までは130試合制
  • 1963年から1965年までは140試合制

※日本シリーズ優勝11回は歴代最多。14年連続同一チーム監督は歴代2位タイ(他にダイエー-ソフトバンク王貞治。歴代1位は南海鶴岡一人の23年)。
※歴代巨人軍の監督として日本シリーズ出場回数が最多でありながらも唯一人、「日本シリーズ敗退が一度も無し」という記録を達成している。

タイトル [編集]

  • 首位打者:5回(1939年、1941年、1951年、1953年、1955年)
  • 本塁打王:2回(1940年、1948年)
  • 打点王:3回(1939年、1941年、1955年)
  • 最多安打:6回(1939年、1941年、1947年、1953年、1955年、1956年)※歴代2位。当時連盟表彰なし。

表彰 [編集]

記録 [編集]

  • シーズン打率:.377(1951年)※歴代8位。
  • シーズン打率3割以上:12回(1939年 - 1941年、1947年、1949年 - 1956年)※歴代3位タイ。
  • シーズン三振数:6(1951年)※最少三振日本タイ記録。
  • 打率ベストテン入り:15回(1938年秋 - 1941年、1947年 - 1957年)※歴代3位。
  • 8年連続シーズン打率3割以上(1949年 - 1956年)※歴代2位タイ。
    • もし1948年にあと1本ヒットが出ていればこの年も打率3割到達となり、打率3割は1947年からの10年連続となっていた(歴代1位は張本勲の9年連続)。
  • 9打数連続安打(1939年4月9日 - 9月11日)
  • 10試合連続打点(1949年4月3日 - 4月14日)
  • 1試合3三塁打(1939年6月21日)※日本タイ記録。
  • 1イニング2本塁打(1948年5月16日):対金星スターズ戦、1回に2ランと3ラン。日本プロ野球史上初[16]
  • 逆転サヨナラ満塁本塁打(1949年4月12日)※日本プロ野球史上初
  • 日本シリーズ通算打率:.365(159打数58安打)※80打数以上では、歴代1位。
  • サイクルヒット:1回(1954年7月25日、対広島カープ戦、前橋市民球場)※史上11人目。
  • 通算2000本安打達成(1956年5月31日)※史上初。1646試合目での達成は史上最速。
  • 通算猛打賞:194回 ※歴代2位。
  • オールスターゲーム出場:7回(1951年 - 1954年、1956年 - 1958年)

背番号 [編集]

  • 16 (1938年 - 1942年、1946年 - 1964年)※ジャイアンツの永久欠番(1965年1月18日認定)になっている。
  • 77 (1965年 - 1974年)

関連情報 [編集]

書籍 [編集]

CM出演 [編集]

川上哲治を演じた俳優・声優 [編集]

代々木ゆかりを演じた女優 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ 現役時代はてつじだったが、指導者時代にてつはるに変わった。
  2. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」628ページ
  3. ^ 阪神甲子園球場HPより。ただし川上本人は「先にやっていた選手がいた」と証言している。
  4. ^ 『川上哲治 もっこす人生』
  5. ^ 同『もっこす人生』
  6. ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.30~
  7. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」634ページ
  8. ^ 川上監督勇退後は廃止されたが、2004年には球団創立70周年を記念してレプリカが販売され、2007年には巨人が球団5000勝を達成したことを記念として、日本生命セ・パ交流戦で首脳陣と選手が当時のデザインを復刻したユニフォームを4試合限定で使用した(ホーム、ビジター各2試合ずつ、試合はすべて東京ドーム)。
  9. ^ 生来の口下手に加え、何事にも熱中する凝り性な性格と「肥後もっこす」と称される頑固で妥協しない性格だったため、周囲と衝突することも多く、現役時代の千葉、与那嶺要、広岡達朗とは犬猿の仲であったといわれる(広岡とは後に和睦したが、与那嶺は川上との過去の確執から巨人のOB会に参加していない)。
  10. ^ この頃のストレス解消法に「石磨き」があった。ビジターの試合で地方に遠征した際、宿泊先の旅館で中庭から適当な石を1個選び出し、それをひたすら磨き続けるものである。当初は石に対して特に興味があったわけではなく、「無心に石を磨いている間は野球の事を思い浮かべなくて済む」のが理由だった。後に、高じて趣味になっていったといわれている(1990年代後半の『週刊ベースボール』に載っていた記事から)
  11. ^ 1974年は10連覇を逃したが、優勝をしても退任する予定としていた。理想は、10年連続日本一を区切りに退任することであった。
  12. ^ 詳しくは平松政次平光清を参照。
  13. ^ 『江川になれなかった男たち』(岡邦行著・1983年7月15日三一書房)p65-66 および『プロ野球 これがドラフトだ!』(岡邦行著・1989年11月30日三一書房 ISBN 4380892492)p153 ‐ いずれも、当時スカウト部長だった前川八郎による証言。
  14. ^ 新宮正春『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』(講談社文庫、1999年)P.180
  15. ^ 沢木耕太郎著『敗れざる者たち』(1979年)
  16. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ

関連項目 [編集]

ウィキメディア・コモンズには、川上哲治に関するカテゴリがあります。

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