近藤昭仁
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 香川県高松市 |
| 生年月日 | 1938年4月1日(71歳) |
| 身長 体重 |
167cm 68kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 二塁手 |
| プロ入り | 1960年 |
| 初出場 | 1960年4月2日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - )は、香川県高松市出身のプロ野球選手・プロ野球監督。
目次 |
[編集] 経歴
高松一高から早稲田大学へ進学[1]。東京六大学野球では二塁手でベストナイン2度選ばれた。リーグ通算75試合出場し285打数72安打、0本塁打、23打点、打率.253。1960年に大洋へ入団。背番号は1。同郷の先輩でもある三原脩新監督のもと、大洋は球団創設以来初の優勝を果たし、近藤もルーキーで日本シリーズMVPを受賞。
現役時代の主な守備位置は二塁。典型的な「2番・セカンド」タイプで、小技を得意としいぶし銀の活躍を見せた。近藤は小柄ながら非常に気が強く、入団時の監督であった三原はこの性格を逆に利用し、近藤を散々にけなし闘争心を煽りたてる事によって能力を引き出していった。また近藤は1という背番号に非常にこだわりを持ち、大学・プロでも背番号は絶対1番だと頑として譲らなかったという。近藤の背番号1は後に山下大輔、谷繁元信、進藤達哉、波留敏夫、金城龍彦に引き継がれた。
1973年のシーズンをもって現役を引退した後はコーチとして経験を積み、1974年~1978年大洋、1979年~1981年ヤクルト、1982年~1986年西武、1989年~1991年巨人。監督業は1993年~1995年横浜、1997年~1998年ロッテ。なお横浜・ロッテ監督はいずれも早稲田の後輩江尻亮から引き継いでいる。2006年は15年ぶりに巨人のヘッドコーチを務めたが、健康上の問題と成績不振から二年契約の一年を残して現場から退き、現在は統括ディレクターとしてフロント業務を務める。解説者時代はTBSで野球解説を行っていた。
夫人は新東宝の女優だった北沢典子(現在は女優を引退している)。次女は同じく女優の近藤典子。プロレスラーの中西学は元娘婿。
[編集] 監督としての近藤
1993年、大洋から球団名を改称した横浜の監督に就任。負けぐせのついたチームを一新するために、生え抜きベテラン選手[2]を初年度(1993年)終了後に大量解雇し、代わりに野手では鈴木尚典・佐伯貴弘・波留敏夫などの若手や駒田徳広といった移籍加入選手を積極的に登用した。一方投手では有働克也・斎藤隆・三浦大輔など若手の台頭はあったものの、全般的には完投能力のある先発投手が育たず、中継ぎ以降の投手も登板過多で消耗気味であった。ただし一方で逆に、それまで「ローテーションの谷間でたまに先発、あとは中継ぎ」といった位置づけの投手であった島田直也や五十嵐英樹、河原隆一などを、ショートリリーフのスペシャリストへと変身している。
作戦面では、自らの現役時代の得意技であったバントやエンドラン、スクイズを多用する「緻密野球」を主張した。しかし、定石どおりに作戦を進めるため采配パターンが露呈し、特にスクイズは実行してもしばしば相手バッテリーに見破られた。またどんなに好投している先発投手でも、好機で打順が回れば責任投球回数未満で簡単に代打を送り[3]、そのあと交代した投手が打ち込まれるという試合展開が度々訪れた。
その上、投手だけでなく当時の正捕手・谷繁元信にもよく代打を送った。このため、ベンチ入りしている捕手(秋元宏作など)を全部使ってしまい、次の回の守備時にマスクをかぶる選手がいなくなってしまったなどという事態も発生した。このとき代打に起用されたのは捕手から転向した外野手である宮里太だったが、もう控え捕手がいないことを宮里が近藤に上申したところ、近藤は即座に「宮里、君がマスクをかぶるんだ」と言い放ち、宮里にマスクをかぶらせた。打席に入った宮里は勝ち越しタイムリーを打ち、その後の守備も無事にこなした。ちなみに宮里は捕手時代に一軍スタメンの経験もある。
また、近藤は巨人戦によく野村弘樹や斎藤隆などの主戦級投手をぶつけた。この時期の横浜は巨人に対して互角、もしくはそれ以上の成績を残したが、一方で1993年は優勝したヤクルトに4勝22敗、1994年はヤクルトと同率4位の阪神に7勝19敗と、特定の球団に大きく負け越す事態が続いた。
1994年10月9日の対ヤクルト最終戦では2アウト2塁で先発の斎藤隆に代打を送らなかったにも拘らず、次の回に斎藤を即交代させてたが、試合開始前の時点で同率5位に並んでいた[4]ヤクルトに敗戦[5]、1989年以来5年ぶり、横浜ベイスターズと改称して初めて、そして1990年代では唯一のシーズン最下位確定となった。
結果として成績は伸び悩み、1年目の1993年は最多勝(野村)・打点王(ロバート・ローズ)・盗塁王(石井琢朗)の3人のタイトルホルダーを輩出し、夏前には一時的に2位まで上昇しながら前述の通りヤクルトに大きく負け越し、後半戦でグレン・ブラッグスや佐々木主浩など故障者が続出して5位に終わり、2年目の1994年は先発投手陣が総崩れとなったため[6]、総得点が総失点を上回ったが、最下位となった初めてのチームとなった。
結局最終年となった1995年は、チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割を記録したが、任期満了を理由に球団から翌年の契約を拒否された。
1997年からは、ロッテの指揮を執った。当時のロッテは前年の低迷に加え、小宮山悟に並ぶエースであった伊良部秀輝とエリック・ヒルマンが退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であった。その中で、黒木知宏、小坂誠、福浦和也、大村巌といった新戦力が近藤に見出されて台頭した。
しかしチーム成績は横浜時代同様伸び悩み、1年目はチームの防御率こそ3点台だったが打線が振るわず最下位、2年目は現在もプロ野球記録である公式戦18連敗を記録し、最下位となった。加えて、1998年はチーム総得点が総失点を上回ったにも関わらず最下位という史上2度目の事態が起こった。
さらに同年はチーム打率1位、チーム防御率2位の成績を残したものの前述の18連敗で、選手個々の能力を引き出せないことが最下位に結びついた。このため近藤は引責辞任となったが、その辞任会見の席で「もっと強いチームで監督をやりたかった」という発言をし、ロッテファンの批判を浴びた。ただこの発言は弱いチームはすぐ結果を求めることへのフロントへの批判で、選手を馬鹿にした発言ではなかったという解釈もある。
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1960 | 大洋 | 117 | 425 | 389 | 38 | 88 | 17 | 5 | 4 | 127 | 40 | 17 | 7 | 10 | 1 | 25 | 2 | 0 | 82 | 6 | .226 | .272 | .326 | .598 |
| 1961 | 125 | 484 | 436 | 44 | 98 | 12 | 3 | 6 | 134 | 19 | 15 | 13 | 11 | 0 | 36 | 2 | 1 | 96 | 5 | .225 | .285 | .307 | .592 | |
| 1962 | 131 | 509 | 462 | 45 | 111 | 21 | 7 | 4 | 158 | 27 | 11 | 5 | 15 | 0 | 29 | 1 | 3 | 79 | 5 | .240 | .289 | .342 | .631 | |
| 1963 | 115 | 267 | 226 | 20 | 36 | 4 | 2 | 1 | 47 | 12 | 8 | 2 | 16 | 2 | 22 | 1 | 1 | 32 | 9 | .159 | .235 | .208 | .443 | |
| 1964 | 134 | 401 | 353 | 41 | 94 | 9 | 2 | 4 | 119 | 28 | 20 | 4 | 32 | 1 | 15 | 0 | 0 | 23 | 8 | .266 | .295 | .337 | .632 | |
| 1965 | 135 | 531 | 466 | 47 | 133 | 22 | 1 | 7 | 178 | 40 | 25 | 7 | 41 | 1 | 19 | 0 | 4 | 35 | 9 | .285 | .318 | .382 | .700 | |
| 1966 | 127 | 416 | 381 | 38 | 96 | 20 | 4 | 6 | 142 | 27 | 16 | 7 | 17 | 3 | 14 | 0 | 1 | 38 | 9 | .252 | .278 | .373 | .651 | |
| 1967 | 128 | 438 | 398 | 38 | 99 | 19 | 1 | 7 | 141 | 27 | 8 | 9 | 20 | 1 | 19 | 1 | 0 | 52 | 8 | .249 | .282 | .354 | .636 | |
| 1968 | 117 | 412 | 376 | 35 | 97 | 15 | 4 | 6 | 138 | 32 | 8 | 5 | 8 | 2 | 25 | 0 | 1 | 35 | 9 | .258 | .304 | .367 | .671 | |
| 1969 | 130 | 489 | 432 | 51 | 109 | 15 | 4 | 7 | 153 | 32 | 9 | 11 | 13 | 4 | 40 | 1 | 0 | 55 | 5 | .252 | .313 | .354 | .667 | |
| 1970 | 124 | 404 | 360 | 25 | 93 | 16 | 2 | 4 | 125 | 36 | 2 | 7 | 21 | 2 | 21 | 2 | 0 | 48 | 5 | .258 | .298 | .347 | .645 | |
| 1971 | 123 | 421 | 363 | 28 | 79 | 6 | 1 | 7 | 108 | 22 | 6 | 8 | 20 | 3 | 33 | 2 | 2 | 46 | 10 | .218 | .284 | .298 | .582 | |
| 1972 | 81 | 211 | 175 | 19 | 41 | 4 | 0 | 2 | 51 | 16 | 2 | 1 | 9 | 1 | 26 | 0 | 0 | 24 | 4 | .234 | .332 | .291 | .623 | |
| 1973 | 32 | 54 | 45 | 4 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 2 | 1 | 0 | 6 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 1 | .200 | .250 | .200 | .450 | |
| 通算:14年 | 1619 | 5462 | 4862 | 473 | 1183 | 180 | 36 | 65 | 1630 | 360 | 148 | 86 | 239 | 21 | 327 | 12 | 13 | 649 | 93 | .243 | .292 | .335 | .627 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 背番号
- 1(1960年 - 1973年)
[編集] タイトル・表彰
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1993 | 横浜 | 5位 | 130 | 57 | 73 | 0 | .438 | 23 | 87 | .249 | 3.83 | 55歳 |
| 1994 | 6位 | 130 | 61 | 69 | 0 | .469 | 9 | 107 | .261 | 3.76 | 56歳 | |
| 1995 | 4位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 | 16 | 114 | .261 | 4.37 | 57歳 | |
| 1997 | ロッテ | 6位 | 135 | 57 | 76 | 2 | .429 | 19.5 | 75 | .249 | 3.84 | 59歳 |
| 1998 | 6位 | 135 | 61 | 71 | 3 | .462 | 9.5 | 102 | .271 | 3.70 | 60歳 |
- ※1 1993年から1996年までは130試合制
- ※2 1997年から2000年までは135試合制
[編集] 監督通算成績
- 660試合 302勝353敗5分 勝率.461
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 早大第二商学部時代の同級生に後に首相となる森喜朗がおり、同じく一年後輩に元Jリーグチェアマン、日本サッカー協会会長の川淵三郎がいる。
- ^ 屋鋪要・高木豊・山崎賢一・市川和正・大門和彦・松本豊の6選手。
- ^ ただし例外もあり、元々打撃力が高い上に投球も信頼できた当時のエース・野村弘樹はそのまま行かせる傾向にあった。
- ^ この前日にはナゴヤ球場でいわゆる「10.8決戦」が行われた。同率首位同士が最終戦で直接雌雄を決すること自体初めてだったが、その翌日に同率最下位同士も最終戦で順位を確定させたシーズンであった。
- ^ この試合の終了後、一部のファンが憤激して暴れ出す騒ぎが発生する。
- ^ このシーズン、横浜で二桁勝利を挙げた投手は皆無であった。
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