的山哲也

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的山 哲也
福岡ソフトバンクホークス コーチ #85
基本情報
国籍 日本
出身地 兵庫県姫路市
生年月日 1970年10月1日(38歳)
身長
体重
178cm
83kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 捕手
プロ入り 1993年 ドラフト4位
初出場 1994年7月13日
最終出場 2008年7月2日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 福岡ソフトバンクホークス (2009 - )

的山 哲也(まとやま てつや、1970年10月1日 - )は、元プロ野球選手捕手)。2009年から福岡ソフトバンクホークス一軍バッテリーコーチを務めている。

目次

[編集] プレースタイル

打撃成績は芳しくないが、豊富な経験に裏打ちされたリードと盗塁阻止率は常にトップクラスという球界屈指の強肩が特徴の典型的な守備型捕手であった。

打撃については近鉄時代、当時の梨田昌孝監督が「アイツのバットには芯がない」と発言した事があり、ファンやマスコミからも「(打率が)自らの身長(あるいは体重)との勝負」、「どこかの市外局番か?(1割を切った時の打率の表示が市外局番の番号のように見える、との趣旨)」、「ヒットが出るんなら左(打ち)でやってもいい(的山は右打者)」という冗談で揶揄され、本人も「1試合2安打はレアです」と言う程で、実際に優れていると言える程の打撃成績を残した事がない。

しかし、印象に残る本塁打を放つこともあり、その打撃ぶりは「ビックリ箱」と称される[1]

[編集] 経歴

兵庫県姫路市出身。福崎高校を卒業後、社会人野球新日鐵広畑を経て、1993年ドラフト4位で近鉄バファローズに入団。

入団後しばらくは古久保健二光山英和の2人の正捕手がいたため出番が無かったが、4年目の1997年、両者の衰えとともに一気に出場機会を増やしレギュラー格となった。打撃が明らかに上だった礒部公一よりもリードと肩の強さが評価され、これ以降レギュラーを保持し続ける。しかし2割前後の低打率は上昇の気配を見せなかった。

2000年はあまりに的山が打てないため、一度は外野手コンバートされた礒部が梨田昌孝新監督の指導で再び捕手に専念。的山の出場機会は激減するかに思われたが、礒部がシーズン中に顔面死球を受けて骨折したことで一時期戦線離脱したため、出場機会は減少したものの正捕手の座を譲るには至らなかった。

2001年開幕前は再び礒部との正捕手争いが続くものと思われていたが、礒部がオープン戦で8度の盗塁を全て刺せなかったことから外野手に再転向し、シーズン中盤まで正捕手の座を譲ることはなかった。しかし、西武ライオンズ、福岡ダイエーホークスとの三つ巴の優勝争いが続く中で投手陣が防御率5点前後を推移して的山の打率も2割を切る状態だったため、シーズン終盤は的山よりもリードが評価されていた古久保健二が捕手を務める機会が増えた。チームは12年ぶりの優勝を果たし捕手陣の中では最も出場機会が多かったものの、正捕手に定着するには打撃、リードとも実力不足である事が浮き彫りになった。

2002年城島健司が出場を辞退したため代替選手としてオールスターゲーム出場を果たす。第2戦で勝利打点を挙げた的山は、他に際立った働きをした選手がいなかったためにパシフィック・リーグ捕手としては同年全パの監督だった梨田昌孝(近鉄、1983年第2戦)以来となるMVPを獲得。ヒーローインタビューで「大勢の有名選手と一緒にプレーできたのは本当に良かったです」とコメントし、両軍ベンチを爆笑の渦に巻き込んだ。また、監督として的山の活躍を見た梨田は勝利監督インタビューで「多分雨が降ると思いますので皆様気をつけてお帰り下さい。非常に珍しい事ですので」と笑いながら語った。

2004年は新たなライバル藤井彰人と正捕手争いをすることになった。開幕スタメンを奪われ、同年最多勝利を挙げた岩隈久志が先発するときはほぼ藤井がマスクをかぶった。6月までは両者が並行して使われたが、7月になると的山が正捕手を奪い返し藤井の出場は1試合もなかった。8月以降は再び藤井が起用されスタメン出場は8試合にとどまった。シーズンオフには高須洋介と共に目のレーシック手術を受けて視力回復に成功、トレードマークとも言って良かった眼鏡がなくなった。

2005年は球団合併に伴いオリックス・バファローズに移籍。正捕手である日高剛の存在を脅かすことができず、出場機会が半減した。

2006年はプロ13年目で初めて打率が.250を超えたが、出場機会はさほど変わらなかった。オフには出場機会を求めて2004年に取得したFA権を行使し、他球団への移籍も視野に入れるという態度を表明するもオリックスに残留することとなった。

2007年は日高に加えて前田大輔の出場機会が増えた煽りを受けて更に出場機会が減少、オフの10月24日に捕手難にあえぐソフトバンクと若手捕手の出場機会増加を望むオリックスとの思惑が合致し、金銭トレードでソフトバンクに移籍。ソフトバンクでは新戦力ながらチーム最年長選手となった。

2008年4月15日京セラドーム大阪のオリックス戦で古巣相手にシーズン初安打を放つ。この日の先発はかつての同僚で奇しくも同年から再び同僚となったジェレミー・パウエルで、攻守にわたってパウエルを支えて勝利に貢献した。5月1日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)で1000試合出場を達成。しかし、本人曰く初めてという膝の故障にも悩まされ7月12日のオリックス戦を最後に一軍出場はなく、出場機会を増やすことは出来なかった。10月10日に記者会見を開き、同年限りでの引退と来季からの一軍バッテリーコーチ就任を発表。

[編集] 人物

外国人選手との会話は通訳なしというほど英会話が堪能であることから、近鉄時代はパウエルやケビン・バーン、オリックスでもトム・デイビーランス・カーターなどの外国人投手とバッテリーを組むことが多かった。ホークス移籍後もパウエルの初登板の際に起用された。

生まれつき右耳に難聴の既往がありほとんど聞こえないが、健常な左耳で音を聞き取る訓練を積み現在に至る。しかし、他者が何か言っても聞こえないことがあり、監督やコーチの声での指示を聞き逃したり、打者に無視されたと誤解され乱闘になったことも幾度となくあった[2]

現役時代の中で一番印象に残っている投手として赤堀元之を挙げている。「真っすぐも、スライダーなどの変化球も、口では説明するのは難しいんですけど、本当に素晴らしかった。だからあれだけ何度もセーブ王を取れるんだと思いましたね。」と語っている[3]

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
1994 近鉄 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1995 15 16 15 0 2 1 0 0 3 0 0 0 1 0 0 0 0 7 0 .133 .133 .200 .333
1996 51 87 64 4 8 2 0 1 13 6 1 0 9 1 8 0 5 25 1 .125 .269 .203 .472
1997 100 255 223 25 44 6 0 4 62 22 4 1 12 4 13 0 3 62 0 .197 .247 .278 .525
1998 105 271 222 23 51 4 2 4 71 18 4 1 20 0 24 0 5 48 3 .230 .319 .320 .639
1999 117 363 307 37 72 16 1 8 114 39 7 1 21 2 31 0 2 75 5 .235 .307 .371 .678
2000 87 185 151 18 26 3 0 3 38 16 3 1 14 2 18 1 0 32 1 .172 .257 .252 .509
2001 101 269 232 24 41 9 0 5 65 25 1 1 16 2 18 0 0 51 4 .177 .237 .280 .517
2002 91 227 192 17 40 8 0 3 57 14 3 2 16 1 14 0 4 39 3 .208 .275 .297 .572
2003 94 253 200 23 40 8 0 5 63 26 0 1 23 5 24 0 1 43 4 .200 .283 .315 .598
2004 81 170 140 12 31 6 0 2 43 11 1 1 15 1 12 0 2 39 1 .221 .290 .307 .597
2005 オリックス 52 93 78 6 13 2 1 1 20 5 0 1 6 1 8 0 0 21 2 .167 .241 .256 .497
2006 49 107 93 8 24 8 0 2 38 6 3 0 3 0 10 0 1 23 2 .258 .337 .409 .746
2007 42 62 55 5 11 4 0 1 18 4 0 0 1 0 5 0 1 17 2 .200 .279 .327 .606
2008 ソフトバンク 40 97 85 6 20 3 0 1 26 9 0 1 6 0 4 1 2 38 3 .235 .286 .306 .592
通算:15年 1026 2456 2058 208 423 80 4 40 631 201 27 11 163 19 189 2 27 521 31 .206 .279 .307 .586

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 57 (1994年 - 2000年)
  • 2 (2001年 - 2007年)
  • 25 (2008年)
  • 85 (2009年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ 古久保健二が自らの本塁打をそう称したのが初出で、その後ファンの間で打撃の良くない捕手が本塁打を打つ事をそう称するようになった。
  2. ^ 本人の談話より。
  3. ^ 週刊ベースボール「惜別球人」より。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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