礒部公一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
礒部 公一
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #83
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県東広島市
生年月日 1974年3月12日(40歳)
身長
体重
174 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1996年 ドラフト3位
初出場 1997年4月9日
最終出場 2009年4月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2010 - )

礒部 公一(いそべ こういち、1974年3月12日 - )は、広島県東広島市出身の元プロ野球選手外野手捕手)。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍外野守備走塁コーチを務める。

来歴・人物[編集]

アマチュア時代[編集]

東広島市立志和中学校を卒業後、高校は市内中心部の西条農高に進学。高校では主に4番捕手でチームの主将も担当した。高校3年時に第73回全国高等学校野球選手権大会に出場。初戦の東北戦はサヨナラ勝利、2回戦の我孫子高戦ではセンターバックスクリーンに本塁打を放つなどの活躍も6対3で敗れた。大会後、高校野球日本代表に選ばれた。

高校卒業後、地元の三菱重工広島に就職。主砲として活躍した。1996年の都市対抗野球ではチームを決勝に導く活躍。決勝で入来祐作擁する、本田技研和光市)に敗れたが、大会の優秀選手に選ばれた。

翌年の1997年、大阪近鉄バファローズに捕手として入団。ドラフト3位で指名されたが、礒部は当初オリックス志望であった。しかし、当時監督の佐々木恭介ヘリコプターで近鉄の指名選手中一番先に礒部に会いに行き、その結果説得された礒部は近鉄入団を決意した。当時の背番号は22

近鉄時代[編集]

入団当時の正捕手は的山哲也で、礒部は当時の近鉄に左打者が不足していたチーム事情から捕手兼外野手として一軍に定着した。佐々木は礒部を外野手にコンバートさせる意向を持っていたこともあり、1999年はすべて外野手または代打として130試合に出場したほか、1試合だけ試合途中から二塁手に入っている。しかし的山は打力に難があったため、2000年に監督に就任した梨田昌孝は礒部を捕手に戻すことを決断。顔面骨折による離脱もあったが捕手としては自己最多の87試合に出場した。打率.311と礒部の打力を見込んで捕手に再起用した梨田の期待に応えた一方、捕手としては強肩ではあったがスローイングに致命的な弱点があり(梨田は後に週刊ベースボールのコラムの中で「捕手としての礒部は送球の際にバックステップするクセがあり、この分の時間のロスでランナーを刺せなかった」とコメントしている)、この年の盗塁阻止率は当時のプロ野球ワーストとなる.109を記録している。

2001年は梨田が現役時代に付けていた背番号8に変更し、春季キャンプで梨田自らキャッチングやスローイングの基礎から指導するなど正捕手としての期待が大きかったが、オープン戦で8回の盗塁機会を1回も刺せなかったなど守備面の向上が見られず、球団アドバイザーのトミー・ラソーダの進言もあって梨田は礒部の捕手起用を断念し、外野手に専念することとなった。しかし守備面での負担が軽減されたこともあって打撃面が一気に開花。主に5番として打率.320、17本塁打、95打点の成績を残し、中村紀洋タフィ・ローズらと強力クリーンナップを組みチーム12年ぶりのパ・リーグ優勝に大きく貢献。リーグ1位の得点圏打率.417を記録して、この年「最強の5番打者」と言われた。また右投手より左投手からの方が打率が高かったが、日本シリーズ第1戦で左投手の石井一久に完全に抑え込まれ、結局このシリーズ無安打に終わり「逆シリーズ男」の烙印を押されてしまった。また、自身唯一のタイトルのベストナインの外野手部門にも輝いた。

2002年は登録上も捕手から外野手に変更したが、前年の日本シリーズの不振を引きずったからか、打率.270、3本塁打、30打点と平凡な成績に終わった。

プロ野球再編問題の中での礒部[編集]

2003年、近鉄最後の選手会長となる。2004年6月、近鉄とオリックスの合併計画が浮上。近鉄の選手会長として労使交渉、署名活動など反対運動に奔走するが、結局阻止はならなかった。近鉄の消滅が決まった時、礒部は「僕らの近鉄に対する誇りは忘れない」と涙ながらに語った。球団合併による選手分配ドラフトの際、礒部ら近鉄の一部の選手は、労使妥結の前提となった「申し合わせ」を引き合いに、近鉄を吸収する側であるオリックスのプロテクト(選手優先保有)を拒否。オリックスも、近鉄のエースであった岩隈久志投手を除いてこれを認め(結果的には岩隈も金銭トレードで楽天に移籍)、楽天が彼らを獲得した。「申し合わせ」の経緯や内容の詳細が今なお明らかにされていないことから、礒部・岩隈はじめ彼らの移籍を「わがまま」と批判する意見も一部に存在する(オリックスの選手らも当初は批判していたが、川越英隆谷佳知ら主力はあくまで球団の対応など成り行き自体に不満を持っていたのであって、同情的な立場であった。なお、礒部はこの際、谷らに電話で直接事情説明を行っている)。[要出典]この年、自己最多の26本塁打を放った。

楽天時代[編集]

2005年に、前年11月に行われた選手分配ドラフトで新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍。球団の初代選手会長・初代主将となる。開幕戦は6番ライトで出場した。開幕から17打席連続ノーヒットだったが4月1日西武戦(フルスタ宮城)で、1番で起用され、岡本篤志から球団第1号本塁打をバックスクリーンに放った。なおかつこれはこの試合の先頭打者ホームランであった。1番で起用されることが多かったが、シーズン終盤は5番に定着。オールスターではチーム唯一の出場をファン投票で果たす。第1戦で3打数2安打2打点と結果を出した。2006年FA権を取得し、当初「優勝できるチームでプレーしたい」と行使を示唆する発言をしたが、近年の成績不振から最終的には行使せず、残留を選択。球団の選手会長の座は近鉄時代からの同僚でもある高須洋介に譲り、辞任した。

2007年シーズン序盤は不動の3番・ライトでの先発出場が多く、一時は首位打者争いにも加わったが、交流戦以降の不振や守備の衰えから鉄平草野大輔が3番に置かれた。守備面では左翼手としてスタメンに出場したり、チームの若返り構想から守備で勝る牧田明久にスタメンを奪われることも増えた。結果的にシーズン後半は6番以降や代打で出ることが多くなった。シーズン末に出場機会を求めてFA権の行使をする動きも見られたが「野村監督を胴上げしたい」と2006年に続き残留した。

2008年この年からからは聖澤諒横川史学中村真人などの同じ左打ちで一定の守備力がある外野手が台頭、出場機会が大幅に減ってしまい、年俸も大幅カットされた。また、主将の座を山崎武司に譲った。 2009年のオープン戦で3割を超える打率を残し、開幕スタメンの座を勝ち取るが結果を残せず4月20日に一軍登録を抹消。以降は一度も一軍復帰を果たせず、9月末に球団から戦力外通告を受ける。一時は現役続行を希望し、12球団合同トライアウトや他球団のオファーなどの道を模索したが、最終的には「このまま現役生活を続けるのは難しい」と判断。トライアウトを前にした11月2日に現役引退を発表[1]、同時に二軍育成コーチ(打撃担当)の就任も併せて発表された。[2]

引退後[編集]

2010年の前半戦は一軍が総得点、チーム打率が共にリーグ最下位に低迷するなど打撃に苦しみ、7月25日付で安部理一軍打撃コーチ補佐と入れ替わり、一軍に異動した。2011年も引き続き、田淵幸一一軍打撃コーチの下で打撃コーチ補佐を担当することとなったが、チームの不振も影響して5月15日付で二軍打撃兼外野守備コーチに異動[3]。2012年は二軍打撃コーチ補佐を務め、2013年は二軍外野守備走塁コーチを担当する。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1997 近鉄 62 147 133 15 31 7 0 0 38 6 3 2 6 2 5 0 1 23 1 .233 .262 .286 .548
1998 118 359 320 43 93 22 4 4 135 31 2 4 5 5 26 1 3 32 7 .291 .345 .422 .767
1999 130 384 336 42 78 20 0 4 110 27 1 0 16 2 26 0 4 24 11 .232 .293 .327 .621
2000 94 359 318 41 99 18 5 6 145 33 6 0 10 2 26 2 3 26 9 .311 .367 .456 .823
2001 140 604 537 82 172 42 4 17 273 95 7 7 6 5 52 1 4 59 19 .320 .381 .508 .890
2002 117 444 396 44 107 19 1 3 137 30 6 1 7 2 36 4 3 43 10 .270 .334 .346 .680
2003 135 516 444 56 128 26 3 12 196 72 9 5 8 5 55 3 4 60 17 .288 .368 .441 .810
2004 120 529 457 82 141 22 1 26 243 75 7 4 5 3 62 3 2 69 19 .309 .391 .532 .923
2005 楽天 122 534 484 65 128 22 2 16 202 51 2 6 4 2 42 1 2 100 15 .264 .325 .417 .742
2006 96 382 346 37 95 13 1 4 122 36 5 1 3 4 28 0 1 69 16 .275 .327 .353 .680
2007 123 486 441 43 122 20 2 5 161 48 5 3 5 5 33 1 2 72 16 .277 .326 .365 .691
2008 46 140 124 6 29 2 0 0 31 12 2 3 0 3 12 0 1 16 2 .234 .300 .250 .550
2009 8 21 17 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 1 3 0 0 3 1 .118 .238 .118 .356
通算:13年 1311 4905 4353 556 1225 233 23 97 1795 517 55 36 75 41 406 16 30 596 143 .281 .344 .412 .756

年度別守備成績[編集]


外野 二塁
























1997 17 41 3 0 0 1.000 -
1998 71 103 1 2 1 .981 -
1999 114 199 8 2 1 .990 1 0 0 0 0 -
2000 34 18 0 0 0 1.000 -
2001 140 278 5 2 2 .993 -
2002 114 190 8 0 0 1.000 -
2003 131 209 7 3 2 .986 -
2004 120 208 8 1 3 .995 -
2005 120 238 7 8 1 .968 -
2006 95 176 2 4 0 .978 -
2007 117 198 6 2 3 .990 -
2008 37 57 2 1 0 .983 -
通算 1110 1915 57 25 13 .987 1 0 0 0 0 -

捕手






















1997 33 121 9 0 0 1.000 18 15 3 7 .167
1998 70 254 39 2 2 .993 50 34 16 1 .320
2000 87 489 26 3 4 .994 55 49 6 3 .109
通算 190 864 74 5 6 .995 123 98 25 11 .203

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 22 (1997年 - 2000年)
  • 8 (2001年 - 2009年)
  • 83 (2010年 - )

脚注[編集]

  1. ^ 礒部公一選手 現役引退について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2009年11月2日). 2011年11月29日閲覧。
  2. ^ 新任コーチについて”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2009年11月2日). 2011年11月29日閲覧。
  3. ^ コーチ人事について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年5月15日). 2011年11月29日閲覧。

関連項目[編集]