大塚晶則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(大塚晶文 から転送)
大塚 晶則 (大塚 晶文)
Akinori Otsuka
AkinoriOtsuka.jpg
基本情報
国籍 Flag of Japan.svg 日本
出身地 千葉県千葉市花見川区
生年月日 1972年1月13日(38歳)
身長
体重
182cm
95kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1997年5月13日
MLB / 2004年4月6日
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2006年

大塚 晶則(おおつか あきのり、本名:大塚 晶文(読み同じ)、1972年1月13日 - )は、千葉県千葉市出身のプロ野球選手投手)。

目次

[編集] 来歴・人物

持ち味はMAX154km/h(96マイル)に達するキレの良いストレートと落ちる縦スライダー、そしてフォークボールサンディエゴ・パドレス入団後、チェンジアップも習得。当時のパドレスのクローザーだったトレバー・ホフマンとは公私にわたって仲がよく、テキサス・レンジャーズ移籍後は、登板の際に流す入場曲はホフマンのトレードマークとも言えるAC/DCの『ヘルズ・ベルズ』である(ホフマンに2006 ワールド・ベースボール・クラシックの際に連絡を入れて決勝のみの使用を当初は許可してもらったが、その後さらに話をしてレギュラーシーズン中の使用を快諾してもらったそうである)。

抑えたときの口癖である「ヨッシャー!」がチームメイトに流行し、その後、実況アナウンサーまでもが「ヨッシャー!」を使用するようになった。また、本拠地球場では大塚が最後の打者を打ち取るとバックスクリーンの大型ビジョンに「YOSSHAA!」と表示される。

近鉄在籍時の背番号11であったのは、大塚の尊敬する選手が野茂英雄であり野茂と同じ背番号を希望したため(大塚がメジャーリーガーとしてのキャリアをスタートした際の背番号16も、野茂がロサンゼルス・ドジャースでメジャーリーガーとしてのキャリアをスタートした際の背番号である)。WBC、レンジャーズでの背番号40は「四球ゼロ」及び「試合が締まる」を意味している。

[編集] 近鉄時代

1996年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団し、野茂英雄のメジャー移籍後空き番号となっていた背番号11を自ら希望して継承。1年目の1997年から50試合以上に登板し、リリーフばかりの登板で100奪三振を超えるなど、主にセットアッパーとして活躍した。2年目の1998年には赤堀元之に代わるクローザーとしてパ・リーグ新記録の35セーブを挙げて最優秀救援投手に輝く。1999年には故障でシーズンの半分を棒に振るも、その後も不動のクローザーとして活躍。

2001年は、開幕戦からセーブを挙げるも3点差の場面を1点差まで詰め寄られ、その後も不安定な投球が続いて中継ぎに降格し、更に二軍に降格する屈辱を味わう。しかしシーズン後半には復調し、9月には自身2度目の月間MVPを受賞する活躍を見せ、シーズン終盤三つ巴という混戦をチームが抜け出すのに大きく貢献し、近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を果たした。当時、自身のニックネームを公募するという企画があり、背番号11にちなみ「鉄人11号」という候補などあったが、意に合うものが無く企画を白紙にした。

[編集] 中日時代

2002年のシーズン終了後、ポスティングシステムでのメジャーリーグ移籍を目指して入札を募集したがメジャーからの入札はなかった。大塚はポスティングにかけられた時点で余剰戦力になったはずであると主張し、自由契約を希望する。その後、近鉄球団がポスティング手続きにおいて手違いをしていたことが明らかになり、その不信感もあって中日ドラゴンズへ金銭トレードで移籍。

2003年シーズン途中に登録名晶文から現在の晶則に変更(登録名を変えたのは、「晶文」では「あきのり」とあまり読んでもらえなかったため)。中日に移籍後も近鉄時代の先輩である久保康生から譲り受けた(デサント製の)グラブを使用していた。中日では、退団したエディ・ギャラードに代わって抑えを務めるなど主力選手として活躍した。

[編集] メジャー時代

2003年シーズンオフに再びポスティングでの移籍を目指したところ、サンディエゴ・パドレスが30万ドルで落札し、2年契約で同球団に入団した。

2004年、最初は敗戦処理としてのスタートだったが、4月に初勝利、初セーブを挙げるとそのままセットアッパーとして定着する活躍を見せ、ナ・リーグの最多ホールドに輝く。特に初めてのヤンキース戦では、8回と9回を投げて打者6人を完璧に抑えた。ちなみにこのときの最後の打者は松井秀喜であった。

2006年、トレードによりテキサス・レンジャーズへ移籍。移籍直後の難しい時期にもかかわらず、2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に参加。クローザーとして5試合に登板、日本代表の優勝に貢献し、日本での知名度を上げた。特に決勝戦では8回裏1死で1点差に迫られた直後という厳しい場面からの登板となったが、わずか4球で2アウトを取り、1点差に追い詰められていた日本代表を救った。味方が4点を追加した後の9回を1失点で切り抜け、試合を締めた。WBC初の胴上げ投手である。

2006年4月末にはレンジャーズの正クローザー、フランシスコ・コーデロが8回のセーブ機会中5回をふいにするという不振に陥り、大塚が正クローザーの座に就き、シーズンを通して2勝4敗32セーブ奪三振47防御率2.11という成績を残すもオフシーズンにチームはロサンゼルス・ドジャースからサイヤング賞クローザーのエリック・ガニエを獲得。2007年は再びセットアッパーとして登板することになったが、ガニエがボストン・レッドソックスに移籍すると再びクローザーの座を掴んだ。しかし、シーズン中に故障者リスト入りし、その後のオフシーズンでは球団側から契約延長の申し出はされなかった。

2008年1月9日に右肘の手術を行ったため現在所属球団はないが、再びマウンドに立つべく、リハビリを行っている。2008年、2009年と所属球団はなく、日本ではその後の情報があまり報じられていない。

2010年1月20日に営まれた小林繁の告別式に参列し、22日に再び肘の手術を行い現役続行を目指すことを明らかにした[1]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1997 近鉄 52 0 0 0 0 4 5 7 -- .444 333 82.2 44 2 46 5 1 127 5 1 22 19 2.07 1.09
1998 49 0 0 0 0 3 2 35 -- .600 235 55.1 43 5 25 4 3 74 5 2 19 13 2.11 1.23
1999 25 0 0 0 0 1 4 6 -- .200 125 29.2 24 1 10 2 2 32 0 0 12 9 2.73 1.15
2000 39 0 0 0 0 1 3 24 -- .250 166 41.2 31 3 13 1 0 49 4 0 11 11 2.38 1.06
2001 48 0 0 0 0 2 5 26 -- .286 228 56.0 42 7 15 2 0 82 5 1 25 25 4.02 1.02
2002 41 0 0 0 0 2 1 22 -- .667 153 42.1 22 4 3 0 0 54 1 0 7 6 1.28 0.59
2003 中日 51 0 0 0 0 1 3 17 -- .250 164 43.0 31 4 5 0 1 56 0 1 10 10 2.09 0.84
2004 SD 73 0 0 0 0 7 2 2 34 .778 312 77.1 56 6 26 6 0 87 0 0 16 15 1.75 1.06
2005 66 0 0 0 0 2 8 1 22 .200 276 62.2 55 3 34 8 2 60 1 0 28 25 3.59 1.42
2006 TEX 63 0 0 0 0 2 4 32 7 .333 232 59.2 53 3 11 0 0 47 3 0 17 14 2.11 1.07
2007 34 0 0 0 0 2 1 4 11 .667 131 32.1 26 0 9 1 0 23 0 0 10 9 2.51 1.08
NPB:7年 305 0 0 0 0 14 23 137 -- .378 1404 350.2 237 26 117 14 7 474 20 5 106 93 2.39 1.01
MLB:4年 236 0 0 0 0 13 15 39 74 .464 951 232.0 190 12 80 15 2 217 4 0 71 63 2.44 1.16
通算:11年 541 0 0 0 0 27 38 176 74 .415 2355 582.2 427 38 197 29 9 691 24 5 177 156 2.41 1.07
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 背番号

  • 11 (1997年 - 2002年)
  • 64 (2003年)
  • 16 (2004年 - 2005年)
  • 40 (2006年 - 2007年)

[編集] タイトル

NPB
MLB

[編集] エピソード

  • 横芝敬愛高校在籍時、八千代東高校と4回戦で対戦し、横芝敬愛が3-2で八千代東を下した。この試合後、八千代東のエースだった恩田寿之(のち、新日鐵君津・かずさマジック)が大塚に千羽鶴を手渡し、自らが果たせなかった甲子園行きを託した。しかし横芝敬愛は5回戦で八千代松陰に敗れ、甲子園行きはならなかった。
    大塚は後年、「これが僕の高校時代の一番の思い出です」と話している。(当時の新聞記事
  • 大塚はキレの良いストレートを投げるが、低めにキレのあるストレートを投げるコツとして「ボールを指先で潰すように投げる」と語っており、チームメイトにもそう教え、週刊ベースボールにも記載された。
  • 近鉄時代のシーズン中、調整のために出場した二軍戦(藤井寺球場)で、場外ホームランを打ったことがある。
  • 近鉄OBで元近鉄監督でもある解説者鈴木啓示が、大塚の決め球である縦スライダーをフォークボールと誤解していたため、大塚の中日ドラゴンズ在籍時に、BSの試合中継で「大塚はフォークがエエんです、フォークが」と発言したことがある。
  • 前述の通り大塚のウイニングショットは縦スライダーであるが、大塚と対戦したイチローはスライダーを「球が消える」と評した。
  • 近鉄時代の2000年頃の正月の伊勢神宮初詣用の近鉄特急のCMに出演。共演は後藤理沙。そのCMは関西中京地区では割と流れたが、関東では当時放映されていた同社提供の”真珠の小箱”(MBSTBS系)の時しかお目にかかれなかった。
  • 中日には1年しかいなかったにもかかわらず、現在に至るまで中日の選手たちとの交流は続いている。落合英二(現・三星ライオンズ投手コーチ)とはメル友。日米野球で来日したときも「対戦したい選手は仲の良い井端」と言っていた。岡本慎也(現・韓国LGツインズ)も大塚を師匠のように慕い、「2004年のリーグ優勝に大きく貢献できたのは大塚さんのおかげ」とも言っている。そういったこともあり、中日からポスティング移籍をする際にはメジャー移籍か中日残留かで随分と迷いがあった。しかしその背中を押してくれたのが自分を一番必要としているはずの、当時新監督として中日に来た落合博満で、「自分が一番後悔しないように道を選ばなくちゃいけないぞ」といわれ、メジャー移籍を決断したという。
  • 2004年に、同僚のトレバー・ホフマン投手・ジェイク・ピービー投手とともにパドレスの球団CMに出演。ホフマンとピービーから自身の入場テーマ曲を決めてはどうかと勧められた大塚が、和服を着た女性の三味線演奏をバックにモーニング娘。の「LOVEマシーン」を歌うというコミカルな内容であった。また、サンディエゴの害虫駆除会社のCMにも出演し、この時は食事中に害虫を見つけた大塚が「なんじゃこりゃ!?」と驚いた後にバットでその害虫を叩く(勢い余ってテーブルごと破壊する)というものであった。
  • 日本代表としてWBC第1回大会への出場が決まったため、アメリカ国内で放送されているESPNのWBC関連のコマーシャルに日本代表として出演した(台詞は全く無し)。決勝のキューバ戦では最後の打者を三振に取り、元近鉄監督佐々木恭介ばりに「ヨッシャー!」と予定通りにガッツポーズを見せた。
  • パドレスのクローザーであるトレバー・ホフマン投手とは親交が深く、チームの同僚であったときにはシーズン中に病院や孤児院への慰問を共同で行うなどもしていた。ワールド・ベースボール・クラシック第1回大会の決勝戦での登板時には、ホフマンの入場テーマ曲であるAC/DCの「Hell's Bells」を本人の快諾を得た上で大塚が使用している。決勝戦はパドレスの本拠地であるペトコパークで行われたため、観戦していたパドレスファンは曲を聴いて大いに盛り上がった。
  • 2007年6月20日、サミー・ソーサシカゴ・カブス戦においてメジャーリーグ史上5人目となる通算600号本塁打を放った。歴史的ホームランボールの行方が注目されたが、ブルペンで投球練習をしていたチームメートの大塚がそれを捕球。後にソーサ本人に手渡した。
  • 2005年8月に開設したブログ[1]では、通常1S、2S……と表記するセーブ数の記録を1Y、2Y……(Yは「ヨッシャー!」の略)と表している。
  • ワールドカップ(現実世界のワールド・ベースボール・クラシックに相当)が舞台のNHKのテレビアニメメジャーでは長谷川滋利に代わり、第5シリーズから野球監修を務めている。

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

他の言語