牛島和彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大東市 |
| 生年月日 | 1961年4月13日(48歳) |
| 身長 体重 |
177cm 70kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1979年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1980年8月24日 |
| 最終出場 | 1993年8月18日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
|
選手歴
|
|
|
|
|
監督歴
|
|
|
|
|
この表について
|
|
牛島 和彦(うしじま かずひこ、1961年4月13日 - )は、大阪府大東市出身の元プロ野球選手・プロ野球監督。現在はTBS、中部日本放送の野球解説者。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
高校時代は浪商高校でドカベンこと香川伸行とバッテリーを組み、春夏甲子園出場を果たし、高校3年の選抜高校野球で準優勝。 1979年のドラフトで中日ドラゴンズから1位指名を受けて入団。
[編集] プロ入り後
[編集] 中日時代
1981年は、開幕一軍をつかみ取り、中継ぎとして一軍に定着。翌1982年は、鈴木孝政、小松辰雄の後を継いで守護神となりチームのリーグ優勝に大きく貢献。しかし、1983年、2年間の酷使が響き自己最低の7セーブに終わる。
1986年オフ、突然ロッテ・オリオンズの主砲落合博満と1対4の大型トレードが発表される。最後まで納得せずに抵抗するが星野仙一新監督が自宅に出向き説得した。そして、1987年、落合とのトレードで上川誠二・平沼定晴・桑田茂と共にロッテへ移籍した。
[編集] ロッテ時代
移籍初年の87年は2勝24セーブを記録し最優秀救援投手のタイトルを獲得、88年は25セーブを記録し、最多セーブ投手となる。
1989年 - 先発に転向し自己最高の12勝をあげる。しかし、翌1990年は、長年の酷使により右肩がパンク、ほぼ1シーズンをリハビリに費やす。 1993年に現役引退。13年間のプロ生活を終えた。
[編集] 引退後・横浜監督時代
1994年、TBS・中部日本放送の野球解説者に就任。11年務め、理論派で且つさわやかな口調で人気があった。スポーツニッポン野球評論家も合わせて務める。 2005年に、横浜ベイスターズの監督に就任。就任1年目にして3年連続最下位のチームをAクラスに導く。しかし、2006年に横浜のチーム不振に伴い2006年シーズンをもって引責辞任。
その後、TBS・CBCの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に復帰した。
[編集] 人物
今となっては想像が付かないが、浪商時代は「学校史上に残る不良生徒」で「酒・煙草・オンナの3拍子そろった生徒」だったとの説も残る。遊び呆けて練習に全く来ず、試合にひょっこり現れて完封してしまうということも1度や2度ではなかった。喧嘩ぱやく、喧嘩で負けたことはないという。このように素行不良なのに甲子園出場に影響がなかったのは奇跡的という声もある。牛島もこの点は後に浪商だから問題にならなかったと語っていたこともあった。練習を取材に来たテレビのインタビューでも「俺が投げれば、チームは絶対勝ちますから」と豪語するなど、甘いマスクと独特なキャラクターで甲子園ギャルの間で人気を博した。しまいには、1979年の春の選抜では準々決勝で延長15回221球を投げぬいた翌日、東洋大姫路高との準決勝も涼しい顔で完投勝利をマークするなど、タフネスぶりの片鱗は既に高校時代から見せていた。
香川伸行とは高校時代バッテリーを組んでいたが、牛島と香川の仲については不和説も囁かれた。牛島は投球練習時には常に控え捕手を相手に投球練習を行っていた。
因みに、中日入団発表時の彼の髪型はバリバリのリーゼントであった。ルーキーとしてのキャンプ初日にナインに挨拶をする牛島の頭髪を見た星野仙一は早速、厳しい指導を行ったとする説がある(一説には「ほとんどマンガのようなソリコミ」も原因だったとされる。互いに大人となってからは牛島に恥をかかせたくないためなのか星野発言は影を潜めた)。
中日時代は小松辰雄と共に地元企業興和新薬のミカロン(頭髪フケ止め薬)のCMに出演するなど高校時代のイメージそのままで、甘いマスクで高い人気を得た。引退後は名古屋市に本店を置く眼鏡店チェーン「メガネの和光」のイメージキャラクターを務めている。
中利夫監督時代のある日、ミーティングで稲尾和久投手コーチから投手陣全員に「9回2死満塁、カウント2-3からどんな球を投げるか?」という質問が出された。ほとんどの投手が自分の決め球を答える中、ただ1人「自分は分かりません」と答えたのがルーキーの牛島だった。怪訝そうな顔の稲尾に対して牛島は「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」と持論を述べた。奇しくもこれは稲尾が現役時代に実践していた考え、投球術と全く一致していた。この事からも、当時から卓越した投球術の持ち主であったことが分かる。このエピソードは現在でも野球関連の漫画に流用されるほど有名である。余談だが、牛島本人は後年この時のことについて「稲尾さんでなくもっと頭の固いコーチだったら、きっと嫌われて目をつけられていただろう」と語っている。
現役時代から星野仙一に憧れ、星野も牛島を可愛がってきた。しかし星野は牛島を落合博満獲得の為1986年秋の中日監督就任直後、ロッテにトレードする。トレード決定後、気持ちの整理が付かぬまま移籍会見に臨むため東京に向かう牛島を、星野は名古屋駅の新幹線ホームで見送った。牛島は人目をはばからず号泣。星野は後年のインタビューで「牛島は、他のチームの野球を勉強させるつもりでトレードに出した。いずれは中日に復帰させるつもりだったが、実現しないまま故障し、引退してしまった」と語っている。
ロッテへの移籍が決定した直後、牛島は「(1987年当時の)12球団のフランチャイズ球場で、これまで唯一オールスターやオープン戦でも一度も登板の経験が無いのが、ロッテのフランチャイズである川崎球場だ」と話した。
1988年10月19日、ロッテ対近鉄ダブルヘッダー、いわゆる“10.19”の第1試合9回表2死2塁、先発投手の小川博をリリーフするが、代打梨田昌孝に中前適時打を喫し、鈴木貴久に勝ち越しのホームインを許す。牛島は後日テレビ朝日「ニュースステーション」など各メディアのインタビューを受けた際、梨田となぜ勝負したか尋ねられると「1塁が空いていたので歩かせようかと一瞬思った。しかしあの時、近鉄の選手はみんな気魄が漲っていた。執念で攻めてきていたので(梨田を敬遠して)次の打者と勝負しても、その次の次の打者と勝負しても、結果はきっと同じ。誰と勝負しても同じだった」と毅然と言い切った。また、後年行われた別のインタビューでは「梨田さんはあの年限りで引退を決めていたし、ひょっとしたら現役最後の打席になるかもしれなかった。勝敗が掛かる場面だったが、“現役最後が敬遠じゃ、梨田さんに対して失礼になる”と思って勝負した」とも語っている。
ロッテ時代は肘の故障の為、移籍1年目程の活躍は後年見せられなかったが、ナインからの信望が非常に厚く、特に小宮山悟を初めとする投手陣には技術面・精神的共に絶対的な支えとなる。その事は後に長きに渡りテレビ・ラジオでの理論派解説の裏付けとなっている。また、1992年のロッテ入団以来、牛島を慕い続けている吉田篤史(現湘南シーレックス投手コーチ)は、雑誌『週刊ベースボール』の選手名鑑の「野球生活の中での思い出のシーン」という設問に、自身が1993年に右肩を故障したことと「牛島さんの現役引退」を挙げ続けている。吉田は2004年に現役引退後、牛島の誘いを受けて横浜にコーチとして入閣。牛島の在任中はブルペン担当の投手コーチを務めた。
小林至は1991年の1年間をロッテの練習生(当時東大4年生で在学中だったため)で過ごしたが、この際に、故障で二軍暮らしだった牛島にいろいろと指導を受け、「何だお前、東大行ってるくせしてこんなことも知らんのか」と言われたという。小林は後に「練習生で、プロでもない中途半端な立場で練習していて、ともすれば居辛い状況の中、何かにつけて気さくに声をかけてくれた牛島さんには大変感謝しています」と述べている。
牛島はフォークボールを決め球としていたが、牛島の手はごく普通の大きさしかない。ある年フジテレビ「プロ野球ニュース」のオフ企画にゲストで呼ばれた牛島はフォークの握り方を問われると、うっすら笑いながらごく浅くボールを挟んで見せた。「はあ、これであんなに落ちるんですか?」と今ひとつ合点のいかないアナウンサーに対し、同席していた関根潤三が突如「私は知ってますけど言いません」と笑顔で言い放った。こうして含みを残したまま番組は一旦CMへ。CM明け、牛島は「実は…」と切り出し、種明かしを始めた。牛島のフォークの握りは特殊なもので、まず人差し指と中指を開き、その間にボールをじわじわ押し当てていく。すると、不意に2つの指の間の関節が外れて指の拳[要出典](腱?)部分がほぼくっつくほどの角度に一気に開く、という驚くべきものだった。これにはスタジオの全員が絶句。牛島は「指が大きく開くようになりたいと思ってボールを挟む事を繰り返していたら、ある時関節を自由に外したり戻したりできるようになった」と証言していた。
横浜の監督就任1年目のキャンプでも、牛島独自の理論が垣間見えた。その一つに挙げられるのが「ブルペンでの投球練習の際、キャッチャーは捕球音を鳴らすな」というものである。牛島によると「捕球音がいいということは、相手バッターに打たれやすい球。特に最近は屋内にブルペンがある球場が多く、捕球音が反響しやすいため、調子が悪い投手が“いい球がいっている”と勘違いする事がある」というのがその理由である。「キャッチャーはピッチャーを気持ちよく投げさせるために大きなミット音を出す」という理論をもっている西武の伊東勤とは、対極の理論である。
実は牛島には、この捕球音にまつわる原体験がある。現役時代、ある地方球場での試合前にスタンド下のブルペンで投球練習を始めた。ところが、いいイメージで直球を投じたのに、ブルペン捕手のミットからは「ボコッ」「ポスーン」という鈍い音しか返ってこない。不審に思ってよく見ると、ブルペンの壁面には防音加工が施してあり、音が反響しないようになっていた。牛島は「このままでは調子が出ない」と判断してメニューを切り替え、グラウンドに出てキャッチボールを行った。「捕球音に惑わされてはいけない」という理論は、ここから生まれたようである。
投手の癖などを矯正する技術に長けており、マーク・クルーンを入団させる際、球は速いがコントロールに難があったことからフロントは難色を示した。しかし、ビデオを見た牛島監督が「この癖なら矯正が可能」と判断し、クルーン獲得を決断。牛島監督の矯正でクルーンは制球難が直り、守護神の座を佐々木主浩から奪い取るほどの活躍を見せた。
打線に関しては、新人監督としては異例な程オーダーを固定し続けた。2006年には不振の佐伯貴弘を2ヶ月以上も四番で使い続けたが成功せず、一部のファンからは「四番佐伯」と揶揄される程で、チーム低迷の一因となってしまった。また、投手以外の打者には不調でも代打を出さないなど、采配で動くことが少なく控えの戦力を有効に活用していないという批判もあった。
大の飛行機嫌いであり、それにまつわるエピソードも多数ある。
ロッテ時代は地方での試合が多く、特に札幌市円山球場での試合前後には移動手段に頭を悩ませる事が多かったという。解説者時代も長時間の飛行機移動を嫌って、米メジャーリーグの視察の誘いを何度か断っている。 また、横浜監督就任後の2005年、春季キャンプのため宜野湾市へ向かう際には緊張の面持ちで飛行機に搭乗。那覇空港到着後、報道陣に久々の飛行機の感想を問われると「降りる時は揺れたね」と苦笑交じりに答えた。シーズンに入ってからも長崎ビッグNスタジアムで広島戦が行われた際、前日の移動日には飛行機移動のチームを離れ、新横浜駅から朝一番の新幹線「のぞみ1号」と在来線特急「かもめ」を乗り継いで長崎まで移動した。さらに交流戦の際、フルキャストスタジアム宮城での楽天戦の次カードは移動日なしで札幌での日本ハム戦だったが、楽天戦の3戦目が雨天中止となったのを良しとし、翌朝飛行機で移動するチームを離れてひとり寝台特急「北斗星」で移動する…という徹底ぶりであった。取材記者にその点を突っ込まれても、常に「車窓から海を眺められたりして良い気分転換になった」等のコメントで返している。
[編集] 監督としての采配の特徴と評価
スターティングメンバーを長期間固定。全くと言っていいほど好不調でメンバー入れ替えをしない。また守備力重視の人選で、守備に難のある古木克明や鈴木尚典の代わりに小池正晃が主に起用された。一方、村田修一に関しては守備にやや難があっても我慢して起用し続け、主力選手として成長させ、その後の村田の躍進に一役買ったとも言える。
相手投手との相性でメンバーを変える場合は変える打順も固定。例:2番小池正晃→古木克明など。
ノーアウトランナー1塁ではバント。特に「石井琢朗出塁→小池正晃バント」の図式がすっかり定着し、小池は2年連続最多犠打を記録した。バント多用の批判があるが、そもそも走れる選手が少なかった(後継監督の大矢明彦もやはりバント策を用いることが多い)ので、やむを得ない面もあった。
2軍から上がった選手をすぐに使わない。全く起用しないまま二軍に戻すことも多かった。
先発投手には完投を求める傾向が若干強い。2005年には20完投を記録しており、そのうちの10完投は三浦大輔によるものである。また、完投に至らなくても先発投手は球数100球に達するか投球回数が7回前後になるまでは、投球内容に関わらず続投させていた。
いわゆるワンポイントリリーフを用いず、リリーフ投手は1イニング投げさせることが多い。ただし、2005年にはマイク・ホルツを左のワンポイントで起用していた時期もあり、起用に適する投手がいなかったという面もある。
試合途中のメンバー交代も比較的少なく、投手以外には基本的に代打を出さない。
大差がついた試合でも若手にチェンジせず、殆どスタメンのままで終わることも多い。特に、石井琢朗に関しては任期の2年間で1度も交替させることがなく(打順や守備位置の変更はあった)、フルイニング出場を記録した。
以上のことから、いわゆる積極的に動くタイプではない事が伺える。控え選手も含めたチーム総力戦をやらず、負けた場合でも勝った相手より少ない出場選手数だったことも珍しくない。ゆえに二軍も含めた戦力の有効活用をしていたとは到底言いがたい。長期間メンバーを固定していたことも、「チームが不振なのに何もしない」という評価や、「目先の成績に一喜一憂しないのも悪くはない」と賛否両論がある(1年目は順位こそ3位だったが負け越している)。当時の横浜は発展途上のチームであり、いわゆる「横綱相撲」を取れる戦力でもなかった事から、横浜の現状には合っていなかった指導者と言える。投手指導では一定の成果をあげている事は評価すべきであり、まだ若いことから、今後の指導者としての活躍も期待してよいという声もある。
[編集] 年度別投手成績
| 年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与 四球 |
与 死球 |
奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1980 | 中日 | 9 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 27.0 | 23 | 4 | 12 | 0 | 14 | 16 | 15 | 5.00 |
| 1981 | 51 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 104.1 | 84 | 11 | 59 | 0 | 82 | 39 | 32 | 2.77 | |
| 1982 | 53 | 0 | 0 | 7 | 4 | 17 | 77.1 | 44 | 6 | 28 | 1 | 75 | 12 | 12 | 1.40 | |
| 1983 | 37 | 0 | 0 | 10 | 8 | 7 | 88.0 | 104 | 10 | 30 | 1 | 69 | 55 | 44 | 4.50 | |
| 1984 | 50 | 0 | 0 | 3 | 6 | 29 | 75.2 | 60 | 6 | 25 | 1 | 67 | 25 | 23 | 2.74 | |
| 1985 | 38 | 6 | 1 | 6 | 8 | 8 | 116.1 | 103 | 17 | 60 | 4 | 82 | 47 | 45 | 3.48 | |
| 1986 | 35 | 0 | 0 | 3 | 5 | 16 | 55.0 | 46 | 5 | 19 | 0 | 46 | 18 | 17 | 2.78 | |
| 1987 | ロッテ | 41 | 0 | 0 | 2 | 4 | 24 | 55.2 | 46 | 6 | 16 | 2 | 59 | 15 | 8 | 1.29 |
| 1988 | 38 | 0 | 0 | 1 | 6 | 25 | 46.1 | 49 | 4 | 29 | 0 | 46 | 24 | 23 | 4.47 | |
| 1989 | 21 | 8 | 0 | 12 | 5 | 0 | 148.2 | 134 | 13 | 75 | 0 | 115 | 66 | 60 | 3.63 | |
| 1990 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8.0 | 7 | 1 | 2 | 1 | 6 | 6 | 5 | 5.63 | |
| 1991 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4.2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 5 | 3 | 2 | 3.86 | |
| 1992 | 9 | 3 | 0 | 3 | 3 | 0 | 54.0 | 43 | 5 | 21 | 1 | 48 | 18 | 16 | 2.67 | |
| 1993 | 9 | 0 | 0 | 2 | 5 | 0 | 44.0 | 56 | 6 | 15 | 1 | 32 | 30 | 26 | 5.32 | |
| 通算成績 | 395 | 17 | 1 | 53 | 64 | 126 | 905.0 | 807 | 95 | 391 | 12 | 746 | 374 | 328 | 3.26 | |
- 表中の太字はリーグ最多数字
[編集] 記録
- 初登板:1980年8月24日、巨人戦(ナゴヤ)
- 初勝利:1980年9月6日、ヤクルト戦(ナゴヤ) 先発し6回1失点
- 初セーブ:1982年4月11日、巨人戦(ナゴヤ)4-3 9回1死より登板、2/3回無失点
- 初完投:1985年8月7日、広島戦(ナゴヤ)0-0 被安打5 奪三振7 四死球1(延長10回)
- 初完封:1985年8月13日、大洋戦(ナゴヤ)1-0 被安打2 奪三振6 四死球6
[編集] タイトル・表彰
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2005年 | 平成17年 | 横浜 | 3位 | 146 | 69 | 70 | 7 | .496 | 17 | 143 | .265 | 3.68 | 44歳 |
| 2006年 | 平成18年 | 6位 | 146 | 58 | 84 | 4 | .408 | 29.5 | 127 | .257 | 4.25 | 45歳 | |
- 292試合 127勝 154敗 11分 勝率.452
[編集] 背番号
- 17(1980年 - 1986年)
- 27(1987年 - 1993年)
- 72(2005年 - 2006年)
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
|
||||||||||||||||||||||||||
|
|||||
|
|||||

