牛島和彦

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牛島 和彦
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大東市
生年月日 1961年4月13日(53歳)
身長
体重
177 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1979年 ドラフト1位
初出場 1980年8月24日
最終出場 1993年8月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

牛島 和彦(うしじま かずひこ、1961年4月13日 - )は、大阪府大東市出身の元プロ野球選手投手)・プロ野球監督。現在はTBSラジオTBSニュースバードCBCテレビCBCラジオ野球解説者。 所属事務所:株式会社プラミン(東京都)。

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

出生地は奈良県北葛城郡河合町[1]。少年時代に一家で大阪府大東市に引っ越し、高校時代まで過ごす。

四条中学校を経て浪商高校で、ドカベンこと香川伸行とバッテリーを組み、2年春、3年春夏と甲子園出場を果たし、3年春の選抜高校野球で準優勝。 1979年のドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。

中日時代[編集]

入団1年目の1980年から一軍で登板し、2勝を挙げる。1981年は開幕一軍をつかみ取り、中継ぎとして一軍に定着。1982年鈴木孝政小松辰雄の後を継いでリリーフエースとなり[2]、17セーブを挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献。しかし1983年、2年間の酷使が響き自己最低の7セーブに終わる。

1984年は自己最高の29セーブを挙げ、最多セーブ投手となる。だが、1985年シーズン途中で先発に転向。精彩を欠く。

1986年オフ、ロッテオリオンズの主砲落合博満と1対4の大型トレードが発表される。最後まで納得せずに抵抗するが、当時監督に就任した星野仙一が自宅に出向き牛島を説得した。そして、1987年、落合とのトレードで上川誠二平沼定晴桑田茂と共にロッテへ移籍した。移籍に当たっては星野が「将来中日の指導者として呼び戻す」と述べたが、結局中日復帰は実現せず口約束で終わっており自身も後に他球団へ指導者として移籍している。

ロッテ時代[編集]

移籍初年の1987年は2勝24セーブを記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲得、1988年は25セーブを記録し、最多セーブ投手となる。1989年は先発に転向し、開幕からチームを支えていたが8月半ばで故障離脱しローテーションから外れる。終盤に数試合登板し自己最高のチーム最多12勝を挙げる。

しかし、1990年には長年の酷使により右肩・右肘がパンクし、ほぼ1シーズンをリハビリに費やす。同年と翌1991年は未勝利に終わった。

1992年には3年ぶりとなる勝ち星(3勝)を挙げるが故障は癒えておらず、翌1993年に現役引退。14年間のプロ生活を終えた。

引退後・横浜監督時代[編集]

1994年、TBS・CBCの野球解説者に就任。11年間務め、理論派で且つさわやかな口調で人気があった。スポーツニッポン野球評論家も合わせて務める。

2005年横浜ベイスターズの監督に就任。就任1年目にして3年連続最下位のチームをAクラスに導く。しかし、2006年に横浜のチーム不振に伴い同シーズンをもって引責辞任。8月上旬には退団の意向を固め、10日に佐々木社長とのトップ会談で辞意を申し入れた。9月3日の会見では「一生懸命に応援していただいているファンに申し訳ないという思いが強く、決断した。選手は本当に頑張ってくれたが、2年契約の2年目で結果を残せなかったのは、私の責任だと思って会社に伝えた」と話した。球宴期間には「交流戦後は良い戦い方ができていた。故障していた選手も徐々に戻ってきていて戦力も厚みを増してくる。チーム内でもいい意味での競争もできそう」と巻き返しを期していたが浮上出来なかった。

ただし、「成績不振の引責というのは表向きで、実際はチーム強化を巡って消極姿勢を示した球団との確執が原因」という噂も囁かれている(2006年8月30日の各スポーツ紙が報じた辞任報道の内容による)。

その後、TBS(テレビ地上波兼任は2009年まで、2010年からはBS・CS・ラジオ中継のみでの出演)・CBCの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に復帰した。

現在は、解説者として出演する傍ら、横浜ベイスターズ監督当時のフィジカルトレーナーである山口光圀と共に『Senseup+ Sports Academy』[3]を開校し、技術だけではなく、体の使い方、心の持ち方など自身の経験を惜しみなく伝え、子供達を指導している。また、2011年よりセガサミー硬式野球部の特別投手コーチ(非常勤)を務めるほか[4]、社会人野球チームや大学野球の投手指導も行っている。

人物[編集]

浪商時代は「学校史上に残る不良生徒」で「酒・煙草・オンナの三拍子そろった生徒」だったとの説も残る。[5]甲子園での試合中に監督から伝令を出された際にも伝令役のチームメイトに「黙って見とれ」と言って追い返したり[6]、遊び呆けて練習に全く来ず、試合にひょっこり現れて完封してしまうということもあるなど、エピソードも多数ある。喧嘩ぱやく、喧嘩で負けたことはないという。牛島もこの点は後に浪商だから問題にならなかったと語っていたこともあった。[要出典]練習を取材に来たテレビのインタビューでも「俺が投げれば、チームは絶対勝ちますから」と豪語するなど、甘いマスクと独特なキャラクターで甲子園ギャルの間で人気を博した。しまいには、1979年の春の選抜では準々決勝で延長13回221球を投げぬいた翌日、東洋大姫路高との準決勝でも完投勝利をマークするなど、タフネスぶりの片鱗は既に高校時代から見せていた。

香川伸行とは高校時代バッテリーを組んでいたが、プロ生活においても年ごとに体重が増えていく香川に対し注意を呼びかけていた。また後年、牛島は香川に対する評価として「いずれは球界を代表する選手になると思った、急激に太りだしたことで年数が狭まってしまった」と語った。

中日入団発表時の髪型はバリバリのリーゼントであった。ルーキーとしてキャンプ初日にナインに挨拶をする牛島の頭髪を見た星野仙一は早速、厳しい指導を行ったとする説がある。

また、中日時代には門限破りの罰金を「給料から天引きにしてくれ」と言い残したり、部屋の扉に罰金をあらかじめ貼り付けたりして夜の街へ遊びに行ったというエピソードが牛島自身から語られている。[7]

中日時代は小松辰雄と共に地元企業興和新薬のミカロン(頭髪フケ止め薬)のCMに出演するなど高校時代のイメージそのままで、甘いマスクで高い人気を得た。引退後は名古屋市に本社を置く眼鏡店「メガネの和光」のイメージキャラクターを務めている。

中利夫監督時代のある日、ミーティングで稲尾和久投手コーチから投手陣全員に「9回2死満塁、カウント2-3(2ストライク3ボール)からどんな球を投げるか?」という質問が出された。ほとんどの投手が自分の決め球を答える中、ただ一人「自分は分かりません」と答えたのがルーキーの牛島だった。怪訝そうな顔の稲尾に対して牛島は「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」と持論を述べた(のちに「150km/hの速球を投げられるわけでもないし、これっていう絶対的な変化球もなかったから、こう答えるしかなかった。」と振り返っている)。奇しくもこれは稲尾が現役時代に実践していた考え、投球術と全く一致していた。この事からも、当時から卓越した投球術の持ち主であったことが分かる。このエピソードは現在でも野球関連の漫画に流用されるほど有名である。稲尾は牛島の返答を聞いて「プロで一流の投手になれると直感した」と語り、一方牛島本人はこの時のことについて「稲尾さんでなくもっと頭の固いコーチだったら、きっと嫌われて目をつけられていただろう」と後に語っている。

現役時代から星野仙一に憧れ、星野も牛島を可愛がってきた。しかし星野は牛島を落合博満獲得の為1986年秋の中日監督就任直後、ロッテにトレードする。トレード決定後、気持ちの整理が付かぬまま移籍会見に臨むため東京に向かう牛島を、星野は名古屋駅東海道新幹線ホームで見送った。牛島は人目をはばからず号泣。星野は後年のインタビューで「牛島は、他のチームの野球を勉強させるつもりでトレードに出した。いずれは中日に復帰させるつもりだったが、実現しないまま引退してしまった」と語っている。

ロッテへの移籍が決定した直後、牛島は「(1987年当時の)12球団のフランチャイズ球場で、これまで唯一オールスターゲームやオープン戦でも一度も登板の経験が無いのが、ロッテのフランチャイズである川崎球場だ」と話した。牛島の中日入団後、川崎球場では1980年と1985年にオールスターゲームが開催されたが、牛島はいずれも選出されなかった。

1988年10月19日、ロッテ対近鉄ダブルヘッダー(通称:10.19)の第1試合9回表2死二塁、先発投手の小川博をリリーフするが、代打梨田昌孝に中前適時打を喫し、鈴木貴久に勝ち越しのホームインを許す。牛島は後日テレビ朝日「ニュースステーション」など各メディアのインタビューを受けた際、梨田となぜ勝負したか尋ねられると「一塁が空いていたので歩かせようかと一瞬思った。しかしあの時、近鉄の選手はみんな気迫が漲っていた。執念で攻めてきていたので(梨田を敬遠して)次の打者と勝負しても、その次の次の打者と勝負しても、結果はきっと同じ。誰と勝負しても同じだった」と毅然と言い切った。また、後年行われた別のインタビューでは「梨田さんはあの年限りで引退を決めていたし、ひょっとしたら現役最後の打席になるかもしれなかった。勝敗が掛かる場面だったが、“現役最後が敬遠じゃ、梨田さんに対して失礼になる”と思って勝負した」とも語っている。

ロッテ時代の後年は肘の故障の為、移籍した当初程の活躍は後年見せられなかったが、その間にプロ生活の中で培った経験や知識を若手投手陣に惜しげもなく教え、ナインからの信望が非常に厚かった。特に小宮山悟伊良部秀輝をはじめとする投手陣には技術面・精神的共に絶対的な支えとなる。その事は後に長きに渡りテレビ・ラジオでの理論派解説の裏付けとなっている。また、1992年のロッテ入団以来、牛島を慕い続けている吉田篤史(現・横浜1軍投手コーチ)は、雑誌『週刊ベースボール』の選手名鑑の「野球生活の中での思い出のシーン」という設問に、自身が1993年に右肩を故障したことと「牛島さんの現役引退」を挙げ続けている。吉田は2004年に現役引退後、牛島の誘いを受けて横浜にコーチとして入閣。牛島の在任中はブルペン担当の投手コーチを務めた。

小林至は1991年の1年間をロッテの練習生(当時東大4年生で在学中だったため)として過ごしたが、この際に、故障で二軍暮らしだった牛島に指導を受け、小林は後に「練習生で、プロでもない中途半端な立場で、ともすれば居辛い状況の中、何かにつけて気さくに声をかけてくれた牛島さんには大変感謝しています」と述べている。

牛島はフォークボールを決め球としていたが、牛島の手はごく普通の大きさしかない。ある年フジテレビプロ野球ニュース」のオフ企画にゲストで呼ばれた牛島はフォークの握り方を問われると、うっすら笑いながらごく浅くボールを挟んで見せた。「はあ、これであんなに落ちるんですか?」と今ひとつ合点のいかないアナウンサーに対し、同席していた関根潤三(同番組解説者)が突如「私は知ってますけど言いません」と笑顔で言い放った。こうして含みを残したまま番組は一旦CMへ。CM明け、牛島は「実は…」と切り出し、種明かしを始めた。牛島のフォークの握りは特殊なもので、まず人差し指と中指を開き、その間にボールをじわじわ押し当てていく。すると、不意に2つの指の間の関節が外れて指の腱部分がほぼくっつくほどの角度に一気に開く、というものだった。これにはスタジオの全員が絶句。牛島は「指が大きく開くようになりたいと思ってボールを挟む事を繰り返していたら、ある時関節を自由に外したり戻したりできるようになった」と証言していた。NHK総合ディープピープル』の「フォークボール」の回でも関節が外れる様子を公開し、マーク・クルーンが驚いたことを語った。

横浜の監督就任1年目のキャンプでも、牛島独自の理論が垣間見えた。その一つに挙げられるのが「ブルペンでの投球練習の際、キャッチャーは捕球音を鳴らすな」というものである。牛島によると「捕球音がいいということは、相手バッターに打たれやすい球。特に最近は屋内にブルペンがある球場が多く、捕球音が反響しやすいため、調子が悪い投手が“いい球がいっている”と勘違いする事がある」というのがその理由である。「キャッチャーはピッチャーを気持ちよく投げさせるために大きなミット音を出す」という理論をもっている伊東勤とは、対極の理論である。

実は牛島には、この捕球音にまつわる原体験がある。現役時代、ある地方球場での試合前にスタンド下のブルペンで投球練習を始めた。ところが、いいイメージで直球を投じたのに、ブルペン捕手のミットからは「ボコッ」という鈍い音しか返ってこない。不審に思ってよく見ると、ブルペンの壁面には防音加工が施してあり、音が反響しないようになっていた。牛島は「このままでは調子が出ない」と判断してメニューを切り替え、グラウンドに出てキャッチボールを行った。「捕球音に惑わされてはいけない」という理論は、ここから生まれたようである。

投手の癖などを矯正する技術に長けており、マーク・クルーンを入団させる際、球は速いがコントロールに難があったことからフロントは難色を示した。しかし、ビデオを見た牛島監督が「この癖なら矯正が可能」と判断し、クルーン獲得を決断。牛島監督の矯正でクルーンは制球難が直り、リリーフエースの座を佐々木主浩から奪い取るほどの活躍を見せた。

大の飛行機嫌いであり、ロッテ時代は地方での試合が多く、特に札幌市円山球場での試合前後には移動手段に頭を悩ませる事が多かったという。解説者時代も長時間の飛行機移動を嫌って、アメリカメジャーリーグの視察の誘いを何度か断っている。また、横浜監督就任後の2005年、春季キャンプのため宜野湾市へ向かう際には緊張の面持ちで飛行機に搭乗。那覇空港到着後、報道陣に久々の飛行機の感想を問われると「降りる時は揺れたね」と苦笑交じりに答えた。シーズンに入ってからも長崎ビッグNスタジアムで対広島戦が行われた際、前日の移動日には飛行機移動のチームを離れ、新横浜駅から朝一番の新幹線のぞみ1号」と在来線特急「かもめ」を乗り継いで長崎まで移動した。さらに交流戦の際、フルキャストスタジアム宮城での対楽天戦の次カードは移動日なしで札幌ドームでの対日本ハム戦だったが、対楽天戦の3戦目が雨天中止となったのを良しとし、翌朝飛行機で移動するチームを離れてひとり寝台特急「北斗星」で移動する…という徹底ぶりであった。取材記者にその点を突っ込まれても、常に「車窓から海を眺められたりして良い気分転換になった」等のコメントで返している。

スポーツライターの玉木正之と親交がある。

監督としての采配[編集]

選手起用に関しては、スターティングメンバーを長期間固定し、全くと言っていいほど好不調でメンバーの入れ替えをしない。大差がついた試合でも若手を起用することはなく、ほとんどスタメンのままで終わることも多かった。特に、石井琢朗は任期の2年間で一度も交替させることがなく(打順や守備位置の変更はあった)、フルイニング出場を記録した。また、二軍から上がった選手をすぐに使わず、全く起用しないまま二軍に戻すことも多かった。試合途中のメンバー交代も比較的少なく、投手以外には基本的に代打を出さない。

打線に関しては、新人監督としては異例な程オーダーを固定し続けた。2006年には不振の佐伯貴弘を2か月以上も4番で使い続けたが成功せず、チーム低迷の一因となってしまった。また、投手以外の打者には不調でも代打を出さないなど、采配で動くことが少なかった。

守備力重視の人選で、守備に難のある古木克明鈴木尚典の代わりに小池正晃が主に起用された。一方、守備にやや難があった村田修一に関しては我慢して起用するかたわら、「もっと打ちたかったら守備の腕を上げて試合に出続けろ」と指導し続け、その後の躍進に一役買った。

相手投手との相性でメンバーを変える場合は変える打順も固定する。例:2番・小池正晃→古木克明など。

攻撃における采配は、ノーアウト一塁ではバントを多用し、盗塁ヒットエンドランスクイズプレイなどには消極的であった。特に1番打者の石井琢朗が出塁した場合、2番の小池正晃がバントする作戦がすっかり定着し、小池は2年連続最多犠打を記録した。そもそも走れる選手が少なかった(後継監督の大矢明彦尾花高夫もやはりバント策を用いることが多い)ので、やむを得ない作戦であった。

投手起用に関する采配では、「クアトロK」などの中継ぎ陣を整備したが、その一方でエースクラスの先発投手に完投を求める傾向が強かった。2005年には20完投を記録しており、そのうちの10完投は三浦大輔によるものであった。また、完投に至らなくても先発投手は球数100球に達するか投球回数が7回前後になるまでは、投球内容にかかわらず続投させていた。これらについて牛島は「多少時間がかかってもエースピッチャーを育てるべき」という考えをとっている[8]

ワンポイントリリーフを用いず、リリーフ投手は1イニング投げさせることが多い。ただし、2005年にはマイク・ホルツを左のワンポイントで起用していた時期もあり、起用に適する投手がいなかったという面もある。

このように戦力不足が際立っていたため、牛島は再三球団に補強を申し出ていたが、当時のチームの親会社がマルハから東京放送ホールディングスに代わって以降極端な赤字体質になってしまったため、球団は経費節減を理由に積極的に補強に動こうとしなかった。わずか2年での辞任は表向き成績不振が理由になっているが、実際は牛島の能力だけをあてにして積極的にチームを強化する意志が見られない球団に愛想を尽かした、というのが通説になっている。[独自研究?]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1980 中日 9 4 0 0 0 2 1 0 -- .667 111 27.0 23 4 12 0 0 14 0 0 16 15 5.00 1.30
1981 51 5 0 0 0 2 7 0 -- .222 434 104.1 84 11 59 6 0 82 3 0 39 32 2.76 1.37
1982 53 0 0 0 0 7 4 17 -- .636 301 77.1 44 6 28 4 1 75 0 0 12 12 1.40 0.93
1983 37 9 0 0 0 10 8 7 -- .556 395 88.0 104 10 30 2 1 69 0 0 55 44 4.50 1.52
1984 50 0 0 0 0 3 6 29 -- .333 307 75.2 60 6 25 5 1 67 1 0 25 23 2.74 1.12
1985 38 10 6 1 0 6 8 8 -- .429 504 116.1 103 17 60 9 4 82 0 0 47 45 3.48 1.40
1986 35 0 0 0 0 3 5 16 -- .375 227 55.0 46 5 19 3 0 46 1 0 18 17 2.78 1.18
1987 ロッテ 41 0 0 0 0 2 4 24 -- .333 230 55.2 46 6 16 6 2 59 1 0 15 8 1.29 1.11
1988 38 0 0 0 0 1 6 25 -- .143 213 46.1 49 4 29 2 0 46 3 0 24 23 4.47 1.68
1989 21 21 8 0 0 12 5 0 -- .706 632 148.2 134 13 75 0 0 115 7 1 66 60 3.63 1.41
1990 3 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 33 8.0 7 1 2 0 1 6 0 0 6 5 5.63 1.13
1991 1 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 22 4.2 8 1 0 0 0 5 0 0 3 2 3.86 1.71
1992 9 8 3 0 0 3 3 0 -- .500 227 54.0 43 5 21 0 1 48 0 0 18 16 2.67 1.19
1993 9 9 0 0 0 2 5 0 -- .286 199 44.0 56 6 15 0 1 32 1 0 30 26 5.32 1.61
通算:14年 395 68 17 1 0 53 64 126 -- .453 3835 905.0 807 95 391 37 12 746 17 1 374 328 3.26 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2005年 横浜 3位 146 69 70 7 .496 17.0 143 .265 3.68 44歳
2006年 6位 146 58 84 4 .408 29.5 127 .257 4.25 45歳
通算:2年 292 127 154 11 .452 Aクラス1回、Bクラス1回

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 17 (1980年 - 1986年)
  • 27 (1987年 - 1993年)
  • 72 (2005年 - 2006年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 伝家の宝刀はフォークボール !? 牛島和彦
  2. ^ 近藤貞雄著、野球はダンディズム、朝日新聞社、1988年、P129。当時中日の監督だった近藤は「リリーフなら超一流になるかもしれない」と判断し、(昭和)57年から抑えに回した。正解だったと著書に記している。
  3. ^ http://senseup-plus.com/
  4. ^ 東尾氏、牛島氏もセガサミー応援「ピッチャーが辛抱した」 - スポーツニッポン・2012年7月18日
  5. ^ このことを意識してか、CBCドラゴンズナイターの出演時にCBCの角上清司アナに「高校時代三拍子そろった生徒だったと評判の…」と前振りされて、牛島が苦笑しながら別の三拍子を挙げてかわすやり取りが幾度かなされている。
  6. ^ 2012年8月24日のCBCドラゴンズナイターの中継中に牛島自身が発言。
  7. ^ 2012年8月24日のCBCドラゴンズナイターでの発言より。
  8. ^ なぜセ・リーグはエースが育たないのか? 集英社 スポルティーバ公式サイト (2010年9月13日)

関連項目[編集]