藤川球児

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

藤川 球児
阪神タイガース No.22
基本情報
国籍 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 1980年7月21日(27歳)
身長
体重
184cm
83kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 投手
プロ入り 1998年 1位
初出場 2000年3月31日
年俸 2億8,000万円
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手投手)。背番号22

目次

[編集] 来歴

[編集] アマ時代〜ブレイク前夜

父親が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため「球児」と名付けられる[1]少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代は遊撃手だったが、監督が投手に転向させる。

1997年高知商右翼手兼控え投手として兄の順一(後に四国アイランドリーグ高知ファイティングドッグスゼネラルマネージャーに就任)と兄弟バッテリーで夏の甲子園に出場するが、2回戦で川口知哉投手(元オリックス・ブルーウェーブ)を擁する平安高校に敗れた。当時は寺本四郎明徳義塾高 - 千葉ロッテマリーンズ)、土居龍太郎高知高 - 法政大 - 横浜ベイスターズ - 千葉ロッテマリーンズ)とともに高知三羽烏と呼ばれていた。

1998年ドラフト1位で阪神タイガースに入団(当時、阪神は岩瀬仁紀をドラフト1位指名候補に挙げていたが、中日との争奪戦に敗れた。奇しくも2人は後に球界を代表する守護神となる)。この時の背番号は30であった。2000年、初の一軍登録。

2002年より背番号を92番(「きゅうじ」に掛けたもの)に変更。9月11日の対ヤクルトスワローズ戦で先発し、8回1失点で涙のプロ入り初勝利を挙げる。

[編集] リリーフ転向

2004年オフ、藤川は肩の故障で二軍生活を送っていた。デビュー当初から故障に泣かされ続け、それまでの成績の低迷から最悪引退も考えられた頃、藤川は現役時代その剛速球で知られた山口高志二軍投手コーチ(当時)に「なぁ、球児…、右足ちゃうか?」と声をかけられた。当時の藤川の投球フォームはボールを低く投げることに気を配るあまり右足を曲げすぎ、リリースの瞬間の体勢が必要以上に低くなっていたのだという。それを是正すれば肩への負担が減るばかりか、より体重を乗せたボールを投げることが可能になり飛躍が望めると山口はアドバイスを送った。そしてそのアドバイスは葛西稔二軍投手コーチの指導の下で実践に移されることとなる。藤川は肩の故障で投げられない状態でも問題が無いランニングなどで徹底した下半身のトレーニングを続け、デビュー当初から指摘されていた華奢な体格が別人のように逞しいものへと変貌を遂げた。この一連のエピソードが藤川が後にみせる剛速球による大ブレイクと、連投をものともしない盤石のタフネスをもたらしたという意見も多い。そしてシーズン途中から、同じ高知商の先輩である中西清起一軍投手コーチの助言で中継ぎに転向することになる。

2005年より背番号を22番へ変更。このとき藤川本人は「佐々木さん高津さんと同じ背番号で光栄です」と語った。

[編集] 清原発言とその後のブレイク(2005年)

2005年4月21日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)で、10-2、二死満塁という場面で清原和博と対戦し、フルカウントから決め球のフォークボールで三振に討ち取ったが、「勝負どころで迷ったらストレート」が不文律だったパ・リーグ育ちの清原は「(あの場面でフォークを投げるとは)ケツの穴、小さいな。チンポコついとるのか!!」と中傷した。この一件で、藤川は「清原を本気にさせた男」として話題を集めた。もっとも、3人のランナーは先発の井川慶が残したものであり、中継ぎの藤川としては何としても無失点で切り抜けなければ、試合の流れが巨人に傾きかねない状況であったため、清原の発言は不当だとする岡田彰布監督、星野仙一SD、中西太野村克也などのOBらは「清原はプロとして失格」と批判している。 その後、6月25日の試合(阪神甲子園球場)で再び清原と対戦した藤川は、今度はストレートで三振を奪った。清原もこれには脱帽し、「完敗。ナイスボールが来ました」「僕が20年間見た中でナンバーワンです」と藤川のストレートを絶賛した。藤川は勝負に勝ったことに対して「たまたまです」と返した。後に藤川は「あの発言でストレートをもっと磨かないといけないと思いました。清原さんは僕にアドバイスしてくれたんだと思っています」と語ったことで“大人の対応”だと巨人ファンからも評価された。

その後ストレートの威力を武器にJFKの一角として大活躍し、6月には月間MVP(投手部門)受賞。オールスターゲームのファン投票・中継ぎ投手部門1位で初出場を果たす。阪神がリーグ制覇を果たした9月29日の対巨人戦(甲子園)ではシーズン79試合目となる登板を果たし、稲尾和久菊地原毅の持つ最多登板試合のプロ野球記録を更新。10月2日の80試合まで伸ばし、2005年のリーグ制覇に貢献した。さらにこの年、53ホールドポイント最優秀中継ぎ投手のタイトルを受賞した。この年は星野SDをして「もし藤川がいなかったらと思ったらゾッとする」と言わしめ、交流戦で対戦したソフトバンク王貞治監督からは「阪神にはいつの間にあんなピッチャーが出て来たんだ!」と驚愕された。

[編集] 2006年

2006年WBC代表選出。この時の背番号は「22」ではなく、球界の先輩であり同じく「22」を背負う里崎智也(千葉ロッテ)に配慮して「24」をつけた[1]

この年は前年までと同様中継ぎでスタートしたが、6月に抑え投手の久保田智之が怪我で離脱したため、その後を埋める形で抑えに定着。7月4日横浜ベイスターズ戦(京セラドーム大阪)の登板で35試合連続無失点とし、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日にはそれまでの球団記録だった小山正明の47イニング連続無失点の記録を更新。翌7月12日広島東洋カープ戦(甲子園)で失点したため、試合連続無失点記録は38で、イニング連続無失点記録は47回2/3で途切れた。

7月21日のオールスター第1戦(神宮球場)では、登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、アレックス・カブレラに対してオールストレート宣言。ストレートの得意なカブレラにボールを触れさせず、空振り3つを奪う。続く小笠原道大にも直球一本で勝負した。こちらはファールで粘ったが最終的に空振りに斬ってとった。藤川の渾身のストレートに対しリーグでも最強と謳われる、カブレラ・小笠原の両打者が全力のフルスイングで応えたこの対戦はオールスター史上屈指の名勝負としてファンの感動を呼んだ。三振を奪われたカブレラは、「オレが本調子ならば打てた」と語った。7月23日の第2戦(サンマリンスタジアム宮崎)では、この年からオリックスに移籍した清原との対決が再び実現。全球直球で勝負し、空振り三振に打ち取っている。

[編集] 球児の涙

2006年のペナントレースは、7月に入るとほぼ中日ドラゴンズと阪神の一騎打ちという状況ができあがった。しかし、オールスターが終わった7月下旬以降、阪神はなかなか勝ち星が得られず、一方で中日は堅実に勝ち星を積み重ねていたため、8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。この間、中日との首位攻防3連戦で全敗するなどしたため、ファンからの選手らへの罵声が増えていった。

藤川は、8月12日に首の寝違えにより登録を抹消されていた。復帰後初のマウンドとなった8月27日の巨人戦で8回から登場して勝利投手となり、久々のお立ち台に立つ。マスコミからの批判やファンの心ない野次に対して「選手も必死でやっているという事を分かって下さい」と思わず悔し涙を流した。この試合の前まで阪神は5連敗中で優勝は絶望的な状況であったが、この後チームは破竹の勢いで勝利を重ね、中日の優勝が決まるまでの29試合を23勝5敗1分という驚異的な成績で勝ち進んだ。優勝には惜しくも結びつかなかったが、落合博満監督をして「球史に残る追い上げ」と言わしめるほど、逃げる中日を大いに苦しめた。この涙は「球児の涙」としてファンの間で語られている。ただし、藤川自身は後に週刊ベースボールの取材の中で、この涙の理由について「個人成績を目標にする選手がいるなど、優勝を諦めたような雰囲気がチーム内に漂っていた」という本音を述べた。

[編集] 2007年

2007年シーズンより正式に抑え投手の座を任され、シーズン当初から安定感抜群の投球を披露した。7月20日のオールスター第1戦(東京ドーム)ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」とオールストレート勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の巨人戦ではリリーフ投手史上初となる3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にチームが10連勝した際、その10試合全てに登板し、2勝7セーブ、防御率1.80の成績でリーグタイ記録の10連投を達成した。この年の阪神は先発投手が不足し、リリーフに頼らざるを得ないチーム事情によって過度の登板があり、終盤にはその疲労のせいか打ち込まれる場面も見られ、数度の救援失敗もあったものの、最終的に防御率1.63という数字を残した。10月3日の最終戦で日本タイ記録となる46セーブ目を挙げ、自身初の最多セーブ投手のタイトルを獲得した。

[編集] 「火の玉ストレート」

藤川の最大の武器であるストレートは「火の玉ストレート」とも呼ばれ、その球速以上に、驚異的な球の伸びが特徴である。藤川のストレートの球筋は、他の投手の様に落差が生じるものではなく“浮き上がるような伸びた球”と言われている。明らかに高目へ外れたストレートでさえ、打者がボール2~3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした通常とは異なるストレートの軌道に起因している。一部マスコミ、評論家などは、藤川のストレートは「ストレートという名の変化球(魔球)」という形容をしている。

藤川のストレートの握りは通常のように人差し指と中指の間を空けず、完全にくっつけた握りであり、普通の投手がこの握り方で投げると球速は出てもコントロールが定まらない。しかし、藤川には独特の考えがあり、2本の指をくっつけることで安定感を保っているという。また、球速も入団当初と比べて10~15km/h以上も速くなっているが、本人はその秘密を「大人の体になってきたから」とテレビのインタビューで語っている。

現在、藤川個人のオフィシャルグッズにも、トレードマークとして、火の玉(燃え上がった白球)が描かれたイラストが使用されている。

[編集] 日刊スポーツによる調査

牛島和彦が横浜の監督時代に「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」と言ったことがあり、日刊スポーツ(大阪版)はその調査結果を2006年7月25日付の1面に掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川のストレートを比較したところ、初速と終速の差は、クルーンが8~14km/h(概ね10km/h前後)に対し藤川が11~15km/h(概ね13km/h前後)と、クルーンの方が差が小さいことが判明した(日刊スポーツ独自のスピードガンによる計測。正確に計測できた球のみ)。したがって、よく巷で語られる「初速と終速の差が小さい」という話は当てはまらない。また日刊スポーツが藤川とクルーンのリリースポイントを調べると、藤川の方が10cm前だった。藤川の身長が184cm、クルーンの身長が188cm、さらに外国人特有の手足の長さを考えるとこれは驚異的である。要因としては藤川の踏み出した足の位置にある。ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、通常の場合はプレートから6足半のところに足を置くところ、藤川は7足目に置いている。

[編集] 報道ステーションの調査

報道ステーションテレビ朝日)が2006年11月23日に放送した「“プロ野球は死なず” ストレートという名の魔球」によれば、通常の投手が投げるボールの1秒間の平均回転数は37回転、松坂で41回転、クルーンで43回転であるが、藤川はそれらを上回る45回転であり、普通の投手に比べ3割も多いこと、ボールが進む方向に対するボールの回転軸の傾きも、通常の投手は約30度、松坂・クルーンが10度で、藤川はそれらを上回る5度とずば抜けて少ないことが判明。理論的には回転数が多く回転軸の傾きが少ないほど、ボールはホップする(マグナス効果)。同じリリースポイントで同じ所を目掛けて投げた場合、藤川のストレートはボールが落ちにくく、ホームベース上では普通の投手のボールに比べ30cmも高い所を通る。その結果としてボールが直線軌道に近づくため、到達時間を早めることが可能になる。

女房役の矢野は、「大げさに言うと魔球に近い。プロが真っ直ぐを待っていて真っ直ぐで空振りを取れるというピッチャーはそうはいない」「球界ナンバーワンのストレート」と語っている。藤川自身は“ピンポン球のように浮き上がれ”というイメージで投げているという。

[編集] 選手の談話

同僚の赤星憲広は、「どんなに豪速球でも、プロの打者に慣れられたら打ち込まれてしまうものだが、アイツ(藤川)は相当考えている。1球ごとに微妙に変化をかけて投げるから、あれだけの成績を維持できている」とサンケイスポーツのインタビュー記事で語っている。

球速の日本記録保持者であるクルーンは藤川の速球について「彼のストレートはインビジブル(見えない)だ」と語っている。また、WBCで対戦したアレックス・ロドリゲスは「あんなストレートは見たことない。下から上がってくるんだぜ」と、興奮気味にメディアの会見に答えていた。

2008年3月23日に行われた日米親善試合、アスレチックス阪神戦で九回二死一、二塁、藤川の直球を4球見せられた後133キロフォークで空振り三振に倒れたジェフ・フィオレンティノは「速球が伸びるところがリッチ・ハーデンに似ている」とコメントしている。

[編集] テーマソング

甲子園(セパ交流戦も含む)および京セラドーム(阪神主催のセ・リーグ公式戦の場合のみ)における登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの二人の思い出の曲というリンドバーグの『every little thing every precious thing』である。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホン(応援バット、カンフーバット)を曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られる。サンテレビ野球解説者の中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使用する中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。この曲は、藤川と同世代の福岡ソフトバンクホークス杉内俊哉投手も2006年に使用していた。なお2007年には、藤川と同郷であるスーパーバンドの『笑顔のゆくえ』(2006年にも安藤優也投手のテーマソングに採用)と互用することになった。

2007年3月14日、読売テレビ系の番組『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園球場で初対面を果たした。その時の対談によれば、観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考えていたといい、そのために夫人が大好きな曲で、自身が聴き、歌詞と歌声に感激したこの曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、特に「スタジアムに響き渡る歓声を吸い込んで、あなたはゆっくり立ち上がる」という歌詞の部分で一瞬に気を高めるという。藤川のこの曲に対する深い思い入れを知り、渡瀬は大感激していた。この対談の際、藤川はこの年使用していた『気力一瞬』の刺繍入りの自身のグラブを渡瀬にプレゼントした[2]

同年8月1日、藤川本人の写真がジャケットに使われた再発盤シングルが発売され、初週3629枚を売り上げてオリコン38位にランクインした。

[編集] 年度別投手成績

年度 球団








H
P

























1999年 阪神 30 一軍出場なし
2000年 19 10 0 0 0 - 0 .000 113 22.2 25 1 18 4 25 15 12 4.76 9.926
2001年 一軍出場なし
2002年 92 12 0 12 1 5 - 0 .167 285 68.0 56 6 30 2 64 33 28 3.71 8.471
2003年 17 4 2 1 1 - 0 .500 126 29.1 28 4 12 1 19 12 11 3.38 5.830
2004年 26 4 0 2 0 - 0 1.00 129 31.0 26 3 11 2 35 10 9 2.61 10.161
2005年 22 80 7 0 7 1 53 1 .875 349 92.1 57 5 20 1 139 20 14 1.36 13.549
2006年 63 24 0 5 0 35 17 1.00 306 79.1 46 3 22 0 122 6 6 0.68 13.840
2007年 71 64 0 5 5 11 46 .500 313 83.0 50 2 18 1 115 15 15 1.63 12.470
通算成績 288 113 14 21 12 99 64 .636 1621 405.2 288 24 131 11 519 111 95 2.11 11.514
  • 2007年シーズン終了時
  • 表中の太字はリーグ最高成績

[編集] タイトル

[編集] 記録

  • 47回2/3連続無失点(阪神タイガース球団記録)
  • 開幕から11試合連続セーブ(阪神タイガース球団記録)
  • 38試合連続無失点(セ・リーグ記録、パ・リーグの記録が不明なため暫定の日本記録)
  • 10試合連続登板(セ・リーグ記録)

[編集] エピソード

  • 中学時代、地元高知市の鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで仲間3人とともに感謝状を受けた[3]。このことは日本テレビの『九死に一生スペシャル』で取り上げられた。
  • 女優広末涼子は中学時代の同級生。しかしあまり面識は無かったようだ。
  • 阪神入団発表の記者会見で、当時の監督だった野村克也に話術を誉められた。
  • いわゆる松坂世代の一人で、2000年に高校時代から交際していた夫人と入籍し、松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚選手となる。
  • 2005年から、目標とする言葉などを自分のグラブに刺繍している。上原浩治からは「お前の使ってるグラブが欲しい」と言われているらしい。
    • 2005年『本塁打厳禁』:2004年シーズン終盤に金本知憲打点王争いをしている時に横浜(当時)のタイロン・ウッズホームランを打たれてしまったことが元だという。2003年4月11日の巨人戦で、7-4の9回裏に2アウト・2ストライクから登板し、後藤孝志に同点スリーランホームランを浴びたことが由来と時に誤解されるが、先述の理由が正しい。
    • 2006年『細心而剛胆』
    • 2007年『気力一瞬』・『One for all All for one』:自身のウェブサイトでファンから公募し選ばれたもの。
  • 2005年のオープン戦高知市野球場)で応援に来ていた自分の子供が迷子になり、試合中にアナウンスされアイシング(疲労した肩を冷やす手当て)中に迎えに行ったことがある。
  • パ・リーグの選手からは交流戦で最も対戦したい投手に挙げられ、西武時代の松坂大輔も藤川の投球には大きな関心を示していた。2006年の交流戦ではパ・リーグの打者に対して一切の得点を与えなかった。
  • 同じ松坂世代のクローザーである永川勝浩加藤大輔からはライバル視されている[要出典]
  • 藤川本人は、中継ぎが出来なくなったらいずれ先発に転向して沢村賞を取りたいと言っている。また、2006年シーズン後半は抑え投手を務めたが、本人は抑えよりも中継ぎを本当はやりたいと語っていた。
  • 2005年のオフシーズンに故郷の高知で血液の病気でドナーを捜している野球少年を知ったことがきっかけで、2007年、骨髄バンクにドナー登録した。その際、それまでA型と思っていた自身の血液型が実際はO型であることが判明した[4]
  • 顔が元プロバスケットボール選手、萩原美樹子コーチに似ている、といわれている。

[編集]

  1. ^ a b 原点の原点…球児 背番号「24」Daily Sports online
  2. ^日刊スポーツ』(2007年3月14日付)
  3. ^ 珍しい名に「おや?」 水難救助で感謝状手渡す57歳の男性高知新聞
  4. ^ Vol.16: 阪神タイガース 藤川球児投手donorsnet

[編集] 参考文献

  • 松下雄一郎 『藤川球児 ストレートという名の魔球』 ヨシモトブックス、2008年、ISBN 978-4-8470-1752-0

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
岡本真也
セ・リーグ
最優秀中継ぎ投手
2005年-2006年
加藤武治(2006年)
次代:
久保田智之
先代:
岩瀬仁紀
セ・リーグ最多セーブ投手
2007年
次代:
-
阪神タイガース
1998年ドラフト指名選手
1位:藤川球児 / 2位:金澤健人 / 3位:福原忍 / 4位:部坂俊之 / 5位:寺田祐也
他の言語