藤川球児

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藤川 球児
阪神タイガース #22
Kyuji Fujikawa on October 9, 2011.jpg
2011年10月9日、横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 1980年7月21日(31歳)
身長
体重
184cm
86kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 2000年3月31日
年俸 4億円+出来高(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2008年
WBC 2006年2009年

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手投手)。

高知ファイティングドッグスゼネラルマネージャー藤川順一は実兄。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた[1][2][3]少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。広末涼子とは中学時代の同級生。阪神入団時に激励の手紙も貰っている。中学時代には鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けている[4]。幼少期はぜんそくを患っているなど決して丈夫な体ではなかった。

高知商業高校に進学後は2年時の第79回全国高等学校野球選手権大会右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた[5]。高校時代は寺本四郎土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。

1998年プロ野球ドラフト会議で阪神から1位指名を受け入団。この時の背番号は30であった。入団発表の記者会見では、当時の野村克也監督にビッグマウス気味な話術を褒められた。

[編集] プロ入り後

プロ1年目の1999年は体力強化を中心に過ごし、二軍でも3試合の登板にとどまった。

2000年に初めて一軍登録され、プロ初登板。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。2002年から背番号を「きゅうじ」に掛けた92に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日の対ヤクルト戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げたが、同年はこの1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。

2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時二軍投手コーチだった山口高志のアドバイスを受けフォームを改造し[6]、高校の先輩でもある中西清起一軍投手コーチの助言で[7]中継ぎに転向した。このフォーム改造・転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。

2005年、背番号を22へ変更し「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語った[8]JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対巨人戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的に登板数は80試合を記録する。また、同年53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦7回裏二死満塁清原和博に対してフルカウントからフォークボール三振に打ち取ったが、試合後清原に強い口調[9]で罵倒されてしまった。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」[9]とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度は直球で三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」[10]と藤川を絶賛した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板。チームも負けた。第4戦も負け、4連敗でシリーズを終えた。

2006年WBCでの藤川

2006年WBC日本代表に選ばれ、球界の先輩で同じ背番号の里崎智也に配慮して24をつけた[1]。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑え久保田智之が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜戦で35試合連続無失点と豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新。翌7月12日の対広島戦で失点し、連続無失点試合数は38、連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスター第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラの投球前に、打者に対してオールストレートを予告する。結果は一回もバットに当てさせず空振り三振に取る。続く小笠原道大に対しても、全て直球で投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。同年は阪神と中日が優勝を争う状況だったが、阪神はオールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。8月12日に首の寝違えにより登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。同年は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得する。

2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得。

2008年オールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれる。星野仙一監督の構想した7、8、9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成。しかし、中日とのクライマックスシリーズ1stステージでは1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退する。

2009年は2大会連続で第2回WBC日本代表に選ばれる。背番号22をつけ、1次予選、2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残す。しかし、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数された[11][12][13]が、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した[14][15]。公式戦では、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。

2010年は開幕から16試合連続無失点を記録してチームの窮地を救ってきた。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦と夏場を中心に、本来の抑え投手の役目に加えてセットアッパーのポジションも同時に兼任する。結果として例年よりイニングをまたぐ登板が増え、1イニング以上の登板した試合はシーズン全体で12試合に及んだ[16]。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。ファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。9月5日の対広島戦で通算150セーブを達成。9月に入ると久保田の復調でイニングまたぎ登板は減ったが、制球が定まらず9月だけで2本の逆転被本塁打を打たれたり、それ以外でも失点ギリギリの場面が目立ったりした。この年の被本塁打はプロ入り後ワーストの7本を数え、防御率も中継ぎに定着した2005年以降ではワーストとなる2.01で、WHIPも2005年以降ではワーストの1.08を記録した。巨人とのクライマックスシリーズ1stステージ第2戦でも制球に苦しみ、アレックス・ラミレスに逆転の適時打を許して敗戦投手となり、この試合でチームは1stステージで敗退した。

2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76(自責点2)で昨年に続いてファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で7年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦では2007年同様にセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場して試合を締めた。8月25日の巨人戦で同点の場面で登板し3者連続三振で1回を抑え、この登板で通算100ホールドを記録し、史上初の通算100ホールド・100セーブの2つを達成した投手となった。10月21日の対横浜ベイスターズ戦にセーブをあげ4年ぶり40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げ、二度目の最多セーブ投手を獲得。今年取得したFA権を行使せず残留した。契約更改の交渉でも球団から2000万アップの4億2千万を掲示されたが、V逸を理由に固辞し、来年の海外FA権を見据えての単年契約の4億+出来高払いで更改した[17]

[編集] プレースタイル

[編集] 投球

最大の武器である最速156 km/hの直球[18]は「火の玉ストレート」と呼ばれ、球速以上に驚異的と言われる球の伸びが特徴であり、そのストレートの威力は圧倒的な奪三振率が物語っている。藤川の投じる球筋は他の投手と比較して“浮き上がるような伸びる球”と言われている。明らかに高目に外れていても打者がボール2~3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした通常とは異なる直球の軌道に起因している。後述のように一部のマスコミや野球評論家は、「ストレートという名の変化球(魔球)」という形容をしている。

その直球は通常のように人差し指と中指の間を空けず、完全にくっつけて投げる。一般的には球速は出ても制球が定まらない握り方だが、藤川には独自の考えがあり2本の指をくっつけることで安定感を保っているという[要出典]また、球速自体も入団当初と比べて10 - 15 km/h以上も速くなっているが、本人は「大人の体になってきたから」とテレビのインタビューで語っている[要出典]また、投げる際には“ピンポン球のように浮き上がれ”というイメージで投げているという[要出典]

藤川個人のオフィシャルグッズにも、火の玉(燃え上がった白球)が描かれたイラストがトレードマークとして使用されている。

[編集] 日刊スポーツによる調査

牛島和彦が横浜の監督時代に「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」と言い、日刊スポーツ大阪版は独自にスピードガンで計測した結果を2006年7月25日付の1面に掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川の直球を比較したところ、初速と終速の差はクルーンが概ね10 km/h前後で藤川は概ね13 km/h前後とクルーンの方が差が小さく、よく言われる「初速と終速の差が小さい」という説は当てはまらないことになる。

また、日刊スポーツが藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だった。藤川は身長184 cmでクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、通常の投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くところ、藤川は7足目に置いており、これがリリースポイントを前にできる要因となっている。

[編集] 『報道ステーション』の調査

テレビ朝日報道ステーション』が2006年11月23日に放送した「“プロ野球は死なず” ストレートという名の魔球」によれば、通常の投手が投げるボールの1秒間の平均回転数は37回転、松坂大輔で41回転、クルーンで43回転だが、藤川はそれらを上回る45回転で通常の投手に比べ3割も多い。ボールの進行方向に対する回転軸の傾きも通常の投手で約30度、松坂とクルーンが10度で、藤川は5度とずば抜けて小さいことが判明。理論的には回転数が多く回転軸の傾きが少ないほどマグヌス効果による揚力が強く働き、ボールは通常の放物線から外れるように変化して直線軌道に近付く。このため、同じリリースポイントで同じ所を目掛けて投げた場合、通常の投手よりもホームベース上で30 cmも高い所を通る。その結果、打者はボールが浮き上がるような錯覚を感じる可能性がある。

[編集] 選手の談話

同僚だった赤星憲広は、「どんなに豪速球でも、プロの打者に慣れられたら打ち込まれてしまうものだが、アイツ(藤川)は相当考えている。1球ごとに微妙に変化をかけて投げるから、あれだけの成績を維持できている」とサンケイスポーツのインタビュー記事[要出典]で語っている。他にも対戦経験のある里崎智也も同様の意見をコメントしたことがある[要出典]

また、ロッテ時代に守護神経験がある小林宏之は、2011年に阪神に移籍して初めて藤川の隣で投球練習に参加した際に「エグい球。直球の勢いが違う」とコメントしている[19]

2008年3月23日に行われた日米親善試合の対オークランド・アスレチックス戦で藤川の直球を4球見せられた後フォークで空振り三振したジェフ・フィオレンティーノは、「速球が伸びるところがリッチ・ハーデンに似ている」とコメントした[要出典]

[編集] 人物

幼いうちは柔らかいゴムボールを投げてトレーニングしていた。これによって指先の感覚を養ったという。怪我の心配もないため、藤川本人は少年球児にこの方法を薦めている。

目標とする言葉などを自分のグラブに刺繍している。2005年は『本塁打厳禁』、2006年は『細心而剛胆』、2007年は自身のサイトで公募した『気力一瞬』・『One for all All for one』。

斎藤雅樹の大ファン。「野球を始めたきっかけの人。あの人がいなかったら野球をやっていなかった」と語り、グラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある[20]

他のベンチ入り投手と比べて、チームの試合状況をベンチなどから直接見ていることが多い。

[編集] テーマソング

[編集] リンドバーグ 「every little thing every precious thing」

阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲である、リンドバーグの「every little thing every precious thing」である。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られる。サンテレビ野球解説者中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使う中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの「笑顔のゆくえ」と併用することになったが、1度も使われなかった。

2007年3月14日に読売テレビ系『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談した。それによれば、藤川は観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に同年使っていた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[21]。同年8月1日、藤川の写真がジャケットに使われた再発盤シングルが発売され、初週3629枚を売り上げてオリコン38位にランクインした。

[編集] 里田まい with 合田家族 「Don't leave me」

島田紳助司会のクイズ番組「クイズ!ヘキサゴンII」で結成された里田まい with 合田家族の「Don't leave me」は、紳助が球児をイメージして作られた曲である(その為、2009年7月16日阪神甲子園球場での対中日戦にて、合田家族のメンバーである里田まい神戸蘭子misono始球式に登場した)。

FNSの日26時間テレビ 2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!」にて紳助が、球児の許可無しで作ったものの、球児は大喜びし、紳助にメールを送ってきたことを明かした。

[編集] スコアボード表示名

2010年に同姓の藤川俊介が阪神に入団したため、本来なら区別のためスコアボードなどの表記が「藤川球」となるところであったが、本人の希望を理由に、表記は「藤川」のままにすることが2010年1月22日の契約合意時に決定された[22]。従って、2010年シーズンは藤川球児が「藤川」、藤川俊介が「藤川俊」として区別されていたが、報道では「藤川球」または「球児」と表記されることが多かった。翌2011年に藤川俊介は登録名を「俊介」に変更したため、この区別は1年でなくなった[23]。なお兄・順一と同時に出場した1997年夏の甲子園大会では「藤川球」と表示されていた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
2000 阪神 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 113 22.2 25 1 18 3 4 25 4 0 15 12 4.76 1.90
2002 12 12 0 0 0 1 5 0 -- .167 285 68.0 56 6 30 0 2 64 4 0 33 28 3.71 1.26
2003 17 2 0 0 0 1 1 0 -- .500 126 29.1 28 4 12 1 1 19 2 0 12 11 3.38 1.36
2004 26 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 129 31.0 26 3 11 0 2 35 0 0 10 9 2.61 1.19
2005 80 0 0 0 0 7 1 1 46 .875 349 92.1 57 5 20 1 1 139 5 0 20 14 1.36 0.83
2006 63 0 0 0 0 5 0 17 30 1.000 306 79.1 46 3 22 2 0 122 5 0 6 6 0.68 0.86
2007 71 0 0 0 0 5 5 46 6 .500 313 83.0 50 2 18 4 1 115 2 0 15 15 1.63 0.82
2008 63 0 0 0 0 8 1 38 5 .889 249 67.2 34 2 13 3 3 90 3 0 6 5 0.67 0.69
2009 49 0 0 0 0 5 3 25 3 .625 217 57.2 32 4 15 2 1 86 0 0 9 8 1.25 0.82
2010 58 0 0 0 0 3 4 28 5 .429 257 62.2 47 7 20 2 5 81 1 0 14 14 2.01 1.08
2011 56 0 0 0 0 3 3 41 5 .500 193 51.0 25 2 13 1 1 80 3 0 9 7 1.24 0.75
通算:11年 514 14 0 0 0 40 23 196 100 .635 2537 644.2 426 39 192 19 21 856 29 0 149 129 1.80 0.96
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

投手記録
  • 初登板:2000年3月31日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、3回裏に救援登板
  • 初奪三振:同上、3回裏に谷繁元信から
  • 初先発:2002年7月21日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、4回2失点
  • 初勝利・初先発勝利:2002年9月11日、対ヤクルトスワローズ26回戦(明治神宮野球場)、8回1失点
  • 初ホールド:2005年4月6日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場
  • 初セーブ:2005年9月9日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)
  • 100セーブ:2008年9月25日、対横浜ベイスターズ22回戦(阪神甲子園球場) ※史上21人目
  • 150セーブ:2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島) ※史上10人目
  • 500試合登板:2011年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表に救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上87人目
打撃記録
その他の記録
  • シーズン46セーブ:2007年、岩瀬仁紀と並ぶプロ野球タイ記録
  • 47回2/3連続無失点:阪神タイガース球団記録
  • 開幕以降11試合連続セーブ:阪神タイガース球団記録
  • 38試合連続無失点:セ・リーグ記録、パ・リーグ記録が不明なため暫定日本記録
  • 10試合連続登板:セ・リーグ記録(2007年8月30日~9月9日)
  • オールスターゲーム出場:7回 (2005年 - 2011年)

[編集] 背番号

  • 30 (1999年 - 2001年)
  • 92 (2002年 - 2004年)
  • 22 (2005年 - )

[編集] 関連情報

[編集] 著書

[編集] 脚注

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  1. ^ a b 原点の原点…球児 背番号「24」[リンク切れ]デイリースポーツ
  2. ^ 1999年 (平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」日めくりプロ野球スポーツニッポン
  3. ^ 『藤川球児 ストレートという名の魔球』、103頁。
  4. ^ 珍しい名に「おや?」水難救助で感謝状手渡す57歳の男性高知新聞
  5. ^ 『藤川球児 ストレートという名の魔球』、116-118頁。
  6. ^ 『藤川球児 ストレートという名の魔球』、62-69頁。
  7. ^ 『藤川球児ストレートという名の魔球』、161頁。
  8. ^ それまで阪神では、田淵幸一木戸克彦など捕手の番号だった時代が長かった。
  9. ^ a b 『藤川球児 ストレートという名の魔球』、189頁。
  10. ^ 『藤川球児 ストレートという名の魔球』、192頁。
  11. ^ 準決、決勝出番なし…球児 代表引退を示唆 スポーツニッポン、2009年3月25日。[リンク切れ]
  12. ^ 藤川、出番なし…代表「僕はもういいよ」 サンケイスポーツ、2009年3月25日。[リンク切れ]
  13. ^ 球児よ、胸を張れ!侍が帰ってきたゾ デイリースポーツ、2009年3月25日。
  14. ^ 2009年3月26日の記事「WBC世界一!!」 公式サイト内のブログ
  15. ^ 藤川球児投手が代表引退報道を完全否定「そういう発言は一切していない」 livedoorスポーツ、2009年3月26日。
  16. ^ やはり迷采配!? 真弓監督に問いたい、「勝ちに行く」という言葉の真意。 氏原英明「野球善哉」Number Web, 2010年10月13日。
  17. ^ 虎・和田監督、球児発言に「ありがたい」 SANSPO.COM、2011年12月1日
  18. ^ 2010年7月30日阪神甲子園球場での対中日戦で記録。
  19. ^ 虎・球児ド迫力67球!小林宏「エグい」 サンケイスポーツ、2011年2月7日。
  20. ^ 虎・球児、G・斎藤雅コーチと夢の初対面 サンケイスポーツ、2010年6月25日。
  21. ^ 日刊スポーツ、2007年3月14日。
  22. ^ 虎・球児が契約合意!表記「藤川」のまま イザ!、2010年1月24日付。
  23. ^ 背番号及び登録名について- 阪神タイガース公式サイト2010年12月28日

[編集] 参考文献・資料

  • 松下雄一郎『藤川球児 ストレートという名の魔球』ヨシモトブックス、2008年、ISBN 978-4-8470-1752-0
  • 日刊スポーツ連載コラム「伝説」~剛速球に賭けた男 山口高志~ 2008年9月2日 - 9月6日・9月9日 - 9月13日掲載

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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