藤川球児

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藤川 球児
Kyuji Fujikawa
シカゴ・カブス #11
Kyuji Fujikawa on October 9, 2011.jpg
阪神時代
(2011年10月9日、横浜スタジアム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 1980年7月21日(34歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 NPB / 2000年3月31日
MLB / 2013年4月1日
年俸 $ 4,333,333(2013年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2008年
WBC 2006年2009年

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、メジャーリーグベースボールシカゴ・カブスに所属するプロ野球選手投手)。

高知ファイティングドッグスゼネラルマネージャー藤川順一は実兄。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

高知県高知市出身。父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた[1][2][3]少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。幼少期はぜんそくを患っているなど決して丈夫な体ではなかった。

高知商業高校に進学し、2年生の時に第79回全国高等学校野球選手権大会右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた[3]が、豊田大谷高校古木克明と共に2年生では2人だけ高校日本代表に選出された。高校時代は寺本四郎土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。

1998年プロ野球ドラフト会議で阪神から1位指名を受け入団。この時の背番号は「30」であった。入団発表の記者会見では、当時の監督の野村克也にビッグマウス気味な話術を褒められた。

阪神時代[編集]

プロ1年目の1999年は体力強化を中心に過ごし、二軍でも3試合の登板にとどまった。2000年フレッシュオールスターゲームに選出されてリリーフで登板し、初めて一軍登録もされてプロ初登板を果たしたが、野村監督の期待に応えることはできなかった。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同学年・松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。監督が星野仙一に代わった2002年から背番号を名前の「きゅうじ」に掛けた「92」に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日の対ヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げ、フレッシュオールスターゲームのウエスタン・リーグ先発投手も務めたが、同年は前出の1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。2003年のファーム日本選手権ではセーブを記録し胴上げ投手になったが、日本シリーズでは登板機会がなかった。

2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時二軍投手コーチだった山口高志のアドバイスを受けフォームを改造し[3]、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の助言で[3]中継ぎに転向した。このフォーム改造・ポジション転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。

2005年、背番号を「22」へ変更。この時「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語っている。JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的に登板数は80試合を記録。また、同年53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦7回裏二死満塁清原和博に対してフルカウントからフォークボール三振に打ち取ったが、試合後には清原から「フルカウント二死満塁の場面でフォークを投げるような逃げ腰のピッチングをするような臆病な投手には男性器がついていない」という趣旨[3]の罵倒を受けた。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」[3]とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度はストレートで三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」[3]と藤川を絶賛した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板。チームも負けた。第4戦も負け、4連敗でシリーズを終えた。

2006年WBCでの藤川

2006年WBC日本代表に選ばれた。背番号は、同じ「22」を着ける球界の先輩里崎智也に配慮して「24」を選んだ[1]。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑え久保田智之が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点となり、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラへの投球前に、全球ストレートを予告し、一回もバットに当てさせず空振り三振に取り、続く小笠原道大に対しても全て直球を投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。同年は阪神と中日ドラゴンズが優勝を争う状況だったが、阪神はオールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。8月12日に首の寝違えにより登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。結局チームは優勝を逃したが、藤川自身は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得した。

2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録(前々年の岩瀬仁紀と並ぶ、右投手としては新記録)となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得。オフには球団にポスティングシステムの行使を申請し、「自分の気持ちにウソをついたまま来年プレーするのがイヤだった」として[4]メジャー挑戦を希望していることを表明したが、ポスティング行使は球団に拒否された[5]

2008年オールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、オールスター直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれ、星野仙一監督の構想した7・8・9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成。しかし、中日とのクライマックスシリーズファーストステージでは、1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退。オフには年俸4億円で契約更改し「メジャー挑戦の思いは持ち続けるが、阪神に入って10年。酸いも甘いも知った。来年はもう1回、阪神で巨人を倒したいという気持ちが強い」と語った[6]

2009年は2大会連続で第2回WBC日本代表に選ばれた。背番号「22」をつけ、1次予選・2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残した。しかし、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数された[7][8][9]が、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した[10][11]。レギュラーシーズンでは、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降は負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。この年のオフも「あえてしゃべらなくても、やることは同じ。どんな状況でも全力で前を向いてトライしていかないといけない。ポスティングは交渉の中で伝えていこうと思う。球団の了承がない限りメジャーに行けない」として2011年以降のメジャー挑戦のためポスティングシステムの行使を球団に申請したが、「やすやすとは出したくない。ビジネス以前の問題」として拒否された[12][13]

2010年は開幕から16試合連続無失点を記録し、例年以上の好調ぶりを見せた。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦と夏場を中心に、本来の抑え投手の役目に加えてセットアッパーのポジションも兼任することとなった。結果として例年よりイニングをまたぐ登板が増え、1イニング以上の登板した試合はシーズン全体で12試合に及んだ[14]。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。ファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。9月5日の対広島戦で通算150セーブを達成。9月に入ると久保田の復調でイニングまたぎ登板は減ったが、制球が定まらず9月だけで2本の逆転被本塁打を打たれたり、それ以外でもピンチを招く場面がたびたびあった。この年の被本塁打はプロ入り後ワーストの7本を数え、防御率・WHIPはそれぞれ2.01と1.08で、いずれも中継ぎに定着した2005年以降では最低の数字であった。

2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76(自責点2)で昨年に続いてファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で7年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦では2007年同様にセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場して試合を締めた。8月25日の対巨人戦で同点の場面で登板し3者連続三振で1回を抑え、この登板で通算100ホールドを記録し、史上初の通算100ホールド・100セーブの2つを達成した投手となった。10月21日の対横浜戦でセーブを挙げ4年ぶりの40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げて二度目の最多セーブ投手を獲得した。オフにはこの年取得した国内FA権を行使せず残留。契約更改の交渉でも球団から2,000万アップの年俸4億2千万円を掲示されたが、優勝を逃したことを理由に固辞し、翌年の海外FA権取得を見据えての単年契約の4億+出来高払いで更改した[15]

2012年は、この年からチームがキャプテン制度を定めたのに伴い、野手キャプテンの鳥谷敬と並んで投手キャプテンに選ばれた。この年も抑えとして活躍し、4月11日の対広島戦で通算200セーブを達成した。オフには海外FA権を行使し、「2007年のオフに初めてお話しさせていただいた、メジャーリーグへの思いはずっと抱き続けておりました。今年に入ってからはすべての可能性を考え、熟慮した末、やはり、長年の目標に挑戦したい気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」として[16]アーン・テレム団野村を代理人としてメジャー挑戦を表明した[17]

カブス時代[編集]

2012年12月2日にシカゴ・カブスと2年総額年俸950万ドル+出来高(3年目は年俸550万ドルの球団オプション。交代完了が一定数以上の場合は年俸600万ドルで自動更新)で契約合意し[18]、12月7日に契約。背番号は「11」となった。入団会見では「すべてが挑戦。しっかりと結果を出すために努力を重ねたい」と語った[19]

2013年、渡米前に羽田空港で「向こうで(現役の)最後までやるつもりでやってくる」と語った[20]。開幕戦となった4月1日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦の9回二死の場面でメジャー初登板し、2球でメジャー初セーブを挙げた[21][22]。4月7日には不振のカルロス・マーモルに代わりクローザーとして起用されることが発表された[23]。4月12日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦では2点リードの場面で登板し、3安打1死球1暴投の3失点で逆転を許した[24]ものの、その裏に味方が逆転したためメジャー初勝利を挙げた[24]。しかし、13日に右前腕部の張りで故障者リスト入り[25]。5月10日の対ワシントン・ナショナルズ戦で復帰し、復帰後は7試合の登板で防御率1.17・WHIP 0.55と好投を続けていたが、5月26日の対シンシナティ・レッズ戦で右前腕部の張りを再発させ降板した[26]トミー・ジョン手術を受けることが5月29日に球団から発表され[27][28][29]、6月11日に手術を受けてシーズンを終えた[30]

2014年3月30日に前年の手術の影響で、15日間の故障者リスト入りし[31]、5月3日に60日間の故障者リストへ異動した[32]。7月16日にリハビリのためA級ケーンカウンティ・クーガーズに異動[33]。8月6日に故障者リストから復帰した[34]

選手としての特徴[編集]

投球割合の6割以上を占める“火の玉ストレート”と呼ばれる[35]平均球速約149 km/h[36]、最速156 km/hのストレート[37]を最大の武器とし、フォークカーブも混ぜる[38]。ストレートは手元で浮き上がるような驚異的な球の伸びを特徴とし[39]、一軍に定着した2005年からの日本通算奪三振率は12.81という高い数字である。

阪神でチームメイトだった福原忍に勧められて2004年に当時の二軍投手コーチの山口高志から「上から投げ下ろすようにボールをたたきつけて投げろ」というアドバイスを受け、下半身を使い、しなりを残しながらも右ひざをあまり折らずにタメを作って投げ下ろすフォームで軸足の使い方を覚えたことから球速が急激に増加[39][40]

ストレートを投げる時のボールの握りは人差し指と中指の間を完全にくっつけて握る[39]。リリース時にはボールを潰すような感覚で投げ[35]、「ピンポン玉のように浮き上がれ」と意識するという[39]。また、できるだけ前でボールをリリースするために7足という広いストライドを作っている[39]。さらに打者のタイミングを合わせないようにするために、打者の振り出してくるタイミングとキャッチャーミットにボールが届くまでの時間を体で感じながら、体の開きや腕の振り、リリースポイントを微妙に変えているという[39]。明らかに高目に外れていても打者がボール2 - 3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした要因から作られる通常とは異なるストレートの軌道に起因している。後述のように一部のマスコミや野球評論家からは「ストレートという名の変化球(魔球)」と形容され、藤川個人のオフィシャルグッズにも、火の玉をイメージする燃え上がった白球が描かれたイラストがトレードマークとして使用されている。

2011年からは平均球速約147 km/h[38]、最速154 km/hと球速がやや落ち[37]、リーグ平均約8パーセントに対し30パーセント近い数字を記録していたストレートでの空振り率も20パーセント弱に落ちた[37]が、フォークで空振りを奪う場面が増え[40]、2011年以降も奪三振率は12.59と高い数字を保った。

日刊スポーツによる調査

牛島和彦の「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」というコメントから、『日刊スポーツ』大阪版が独自にスピードガンで計測した結果を2006年7月25日付の1面に掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川のストレートを比較したところ、初速と終速の差はクルーンが概ね10 km/h前後で藤川は概ね13 km/h前後とクルーンの方が差が小さく、「初速と終速の差が小さいため」という説は当てはまらない結果が出た。

また、藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だったという。藤川は身長184 cmでクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、通常の投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くところ、藤川は7足目に置いており、これがリリースポイントを前にできる要因となっている[39]

選手の談話

ロッテ時代にクローザーの経験がある小林宏之は、2011年に阪神に移籍して初めて藤川の隣で投球練習に参加した際に「エグい球。直球の勢いが違う」とコメントしている[41]

人物[編集]

幼いうちは柔らかいゴムボールを投げてトレーニングしていた。これによって指先の感覚を養ったという。怪我の心配もないため、藤川本人は少年球児にこの方法を薦めている。

目標とする言葉などを自分のグラブに刺繍している。2005年は『本塁打厳禁』、2006年は『細心而剛胆』、2007年は自身のサイトで公募した『気力一瞬』・『One for all All for one』。

読売ジャイアンツ投手斎藤雅樹の大ファン。「野球を始めたきっかけの人。あの人がいなかったら野球をやっていなかった」と語り、グラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある[42]

広末涼子とは中学時代の同級生。阪神入団時には「自分のことのようにうれしく思っています」とコメントされ、激励の手紙も貰っている[39]

中学時代には鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けている[43]

スコアボード表示名[編集]

2010年に同姓の藤川俊介が阪神に入団したため、本来なら区別のためスコアボードなどの表記が「藤川球」となるところであったが、本人の希望を理由に、表記は「藤川」のままにすることが2010年1月22日の契約合意時に決定された[44]。従って、2010年シーズンは藤川球児が「藤川」、藤川俊介が「藤川俊」として区別されていたが、報道では「藤川球」または「球児」と表記されることが多かった。翌2011年に藤川俊介は登録名を「俊介」に変更したため、この区別は1年でなくなった[45]。また、兄・順一と同時に出場した1997年夏の甲子園大会では「藤川球」と表示されていた。

テーマソング[編集]

リンドバーグevery little thing every precious thing

阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの2人の思い出の曲である、リンドバーグの「every little thing every precious thing」だった。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られた。サンテレビ野球解説者中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使う中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの「笑顔のゆくえ」が併用されることになったが、こちらは結局一度も使われなかった。

2007年3月14日に読売テレビ系『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談。それによれば、藤川は観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に同年使っていた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[46]。同年8月1日、藤川の写真がジャケットに使われた再発盤シングルが発売され、初週3629枚を売り上げてオリコン38位にランクインした。

里田まい with 合田家族Don't leave me

島田紳助が司会のクイズ番組『クイズ!ヘキサゴンII』で結成された里田まい with 合田家族の「Don't leave me」は藤川をイメージした曲で、藤川の許可なく作られたものだが、藤川は大喜びして島田にメールを送ったことが『FNSの日26時間テレビ 2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』で明かされた。この縁から2009年7月16日の阪神甲子園球場での対中日戦では、合田家族のメンバーである里田まい神戸蘭子misono始球式に登場した。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2000 阪神 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 113 22.2 25 1 18 3 4 25 4 0 15 12 4.76 1.90
2002 12 12 0 0 0 1 5 0 -- .167 285 68.0 56 6 30 0 2 64 4 0 33 28 3.71 1.26
2003 17 2 0 0 0 1 1 0 -- .500 126 29.1 28 4 12 1 1 19 2 0 12 11 3.38 1.36
2004 26 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 129 31.0 26 3 11 0 2 35 0 0 10 9 2.61 1.19
2005 80 0 0 0 0 7 1 1 46 .875 349 92.1 57 5 20 1 1 139 5 0 20 14 1.36 0.83
2006 63 0 0 0 0 5 0 17 30 1.000 306 79.1 46 3 22 2 0 122 5 0 6 6 0.68 0.86
2007 71 0 0 0 0 5 5 46 6 .500 313 83.0 50 2 18 4 1 115 2 0 15 15 1.63 0.82
2008 63 0 0 0 0 8 1 38 5 .889 249 67.2 34 2 13 3 3 90 3 0 6 5 0.67 0.69
2009 49 0 0 0 0 5 3 25 3 .625 217 57.2 32 4 15 2 1 86 0 0 9 8 1.25 0.82
2010 58 0 0 0 0 3 4 28 5 .429 257 62.2 47 7 20 2 5 81 1 0 14 14 2.01 1.08
2011 56 0 0 0 0 3 3 41 5 .500 193 51.0 25 2 13 1 1 80 3 0 9 7 1.24 0.75
2012 48 0 0 0 0 2 2 24 2 .500 189 47.2 34 1 15 1 2 58 2 0 7 7 1.32 1.03
2013 CHC 12 0 0 0 0 1 1 2 1 .500 50 12.0 11 1 2 0 2 14 2 0 7 7 5.25 1.08
NPB:12年 562 14 0 0 0 42 25 220 102 .627 2726 692.1 460 40 207 21 22 914 31 0 156 136 1.77 0.96
MLB:1年 12 0 0 0 0 1 1 2 1 .500 50 12.0 11 1 2 0 2 14 2 0 7 7 5.25 1.08
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

NPB[編集]

投手記録
  • 初登板:2000年3月31日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、3回裏に2番手で救援登板、2回無失点
  • 初奪三振:同上、3回裏に谷繁元信から空振り三振
  • 初先発:2002年7月21日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、4回2失点
  • 初勝利・初先発勝利:2002年9月11日、対ヤクルトスワローズ26回戦(明治神宮野球場)、8回1失点
  • 初ホールド:2005年4月6日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、6回裏1死に3番手で救援登板、1回1/3を無失点
  • 初セーブ:2005年9月9日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)、8回表2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
  • 100セーブ:2008年9月25日、対横浜ベイスターズ22回戦(阪神甲子園球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上21人目
  • 150セーブ:2010年9月5日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、8回裏2死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点 ※史上10人目
  • 500試合登板:2011年8月28日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点でセーブ投手 ※史上87人目
  • 200セーブ:2012年4月11日、対広島東洋カープ2回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上5人目
打撃記録
その他の記録
  • シーズン46セーブ:2007年、岩瀬仁紀と並ぶプロ野球タイ記録
  • 47回2/3連続無失点:阪神タイガース球団記録
  • 開幕以降11試合連続セーブ:阪神タイガース球団記録
  • 38試合連続無失点:セ・リーグ記録
  • 10試合連続登板:セ・リーグ記録(2007年8月30日~9月9日)
  • オールスターゲーム出場:8回 (2005年 - 2012年)

MLB[編集]

投手記録

背番号[編集]

  • 30 (1999年 - 2001年)
  • 92 (2002年 - 2004年)
  • 22 (2005年 - 2012年)
  • 11 (2013年 - )

関連情報[編集]

著書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 原点の原点…球児 背番号「24」[リンク切れ]デイリースポーツ
  2. ^ 1999年 (平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」日めくりプロ野球スポーツニッポン
  3. ^ a b c d e f g 松下雄一郎 『藤川球児 ストレートという名の魔球』 ワニブックス、2007年ISBN 978-4-8470-1752-0
  4. ^ 阪神球児が来オフのメジャー移籍を直訴 日刊スポーツ、2007年12月12日
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参考文献・資料[編集]

  • 松下雄一郎『藤川球児 ストレートという名の魔球』ヨシモトブックス、2008年、ISBN 978-4-8470-1752-0
  • 日刊スポーツ連載コラム「伝説」~剛速球に賭けた男 山口高志~ 2008年9月2日 - 9月6日・9月9日 - 9月13日掲載

関連項目[編集]

外部リンク[編集]