福留孝介
| 阪神タイガース #8 | |
|---|---|
カブズ時代(2008年3月31日)
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 鹿児島県曽於郡大崎町 |
| 生年月日 | 1977年4月26日(36歳) |
| 身長 体重 |
182 cm 85 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 外野手、三塁手、遊撃手 |
| プロ入り | 1998年 ドラフト1位 |
| 初出場 | NPB / 1999年4月2日 MLB / 2008年3月31日 |
| 年俸 | 1億5,000万円(2013年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 1996年、2004年 |
| WBC | 2006年、2009年 |
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この表について
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 銀 | 1996 | 野球 |
| 銅 | 2004 | 野球 |
福留 孝介(ふくどめ こうすけ、1977年4月26日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。愛称は「ドメさん」「ドメ」。
目次 |
経歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
小学校3年からソフトボールを始め、6年には全国大会に出場。中学時代はボーイズリーグの「鹿屋ビッグベアーズ」に所属し、全国制覇。当時PL学園の立浪和義に憧れており、中日のキャンプを見学した際に入団したばかりの立浪(入団は1988年)からバットやサインをもらったこともある。その11年後にチームメイトとして再会する。
藤井秀悟とは高校2年の冬休みに第1回AAAアジア野球選手権大会日本代表選出され渡辺元智監督の期待に応え第1回AAAアジア野球選手権大会優勝に貢献して以来の親友。1995年名門PL学園の4番として、1年秋から4番を打ち、3年夏の地方予選では7本塁打を放った。この年の高校No.1スラッガーとしてスカウト陣の注目を浴びた。
同年のドラフト会議では指名順位1位で7球団が競合する。高校生選手に対する7球団1位指名競合は1985年の清原和博の6球団1位指名競合を上回る歴代1位。当時大阪近鉄バファローズの監督に就任したばかりの佐々木恭介が当たりクジを引き、交渉権を獲得(この際、佐々木は『ヨッシャー』と声をあげて喜んだ)。この時は指名を断り社会人へ進むが、佐々木は後に中日ドラゴンズの打撃コーチ・監督代行となり、時を経て福留を直接指導することになる。
本人は「希望球団の中日・巨人以外なら社会人」と意思表示していたこともあって断りを入れ(親族や関係者からセ・リーグ向きだとアドバイスを受け、パ・リーグの球団が指名した場合は社会人へ行こうと決めていた事を後年「ベースボールマガジン」誌のインタビューで語った)、日本生命に進む。シーズンオフに外回りの営業もしていたという。日本生命に進んでからは、当時史上最年少でアトランタオリンピック野球日本代表に選ばれ銀メダル獲得に貢献した。
1998年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名。ドラフト1位で入団。入団当初のポジションは遊撃手だった。
中日時代 [編集]
入団1年目の1999年は、当時の星野仙一監督が積極的にスタメンに起用し、また福留も2割8分4厘、16本塁打とこれによく応え、新人としては上々の成績を収めリーグ優勝に貢献した。しかし三振数リーグ1位を記録するなど粗さも目立ち、加えて守備には難があった。9月4日の広島市民球場での対広島戦、0-0で迎えた9回裏二死一・二塁の場面には左翼手の守備に就いていたがフライ性の打球を落球。ランナーを返しサヨナラ試合にした。この試合を始め、ペナントレースや日本シリーズでも敗因に繋がるミスが続出。試合終盤は交代させられた。この年のプロ野球珍プレー好プレーにはエラーを連発する彼(及びそれに怒る星野監督及び高代延博内野守備コーチ)の姿が放送された。
2000年はより守備の負担が少ない三塁手へコンバートされるものの失策続きは相変わらずで、2001年には守備の不安から打撃にも悪影響を及ぼし不振に陥った。6月26日の札幌ドームで初めて行われたプロ野球の試合となった巨人戦1回表、ダレル・メイ投手が投じた第1球をライトスタンドに放り込み、記念すべき同球場の第1球を、第1号ホームランボールとした。この本塁打は、「背番号1の福留が1回表に1番打者として1球目を第1号本塁打」と、「1」尽くめの歴史的本塁打となった札幌ドームでは、その歴史的初本塁打のボールの落下点となった右中間スタンドの座席(111通路20列147番)の床に本人の名前を記した記念プレートが設置されている。
2002年には、山田久志監督の下、二宮至外野コーチの進言により本格的に外野にコンバートされる。当初もやはり守備に難があったものの、辛抱強く起用され続けると、やがて練習の甲斐もあって右翼手に定着する。すると本来の俊足や強肩が生きるようになり、強肩の指標とも言われるライトゴロも記録。オフには佐々木恭介打撃コーチの下、大幅な打撃改造を行った。更に守備の上達と共に打撃も見違え、3番に定着。松井秀喜(当時巨人)の三冠王を阻む首位打者のタイトルを獲得、一気に素質開花となった。
2003年も3割を達成し、更に30本塁打も達成。加えてリーグ最多の三塁打を記録し、中軸を担うスラッガーとしての評価を不動のものにした。この頃からバックスイング・フォロースルーとも大きく取るフォームを身につけた。
2004年には強打者不在のチーム事情により開幕から4番に座る。またアテネオリンピック野球日本代表の一員として選ばれ、銅メダルを獲得した。オリンピックから帰国しチームに戻るものの、復帰2戦目に阪神の下柳剛による死球で骨折。チームは福留を欠いたままリーグ優勝こそ果たすが、西武との日本シリーズでは3勝4敗と惜敗。不在は大きな痛手となった。
2005年は開幕から活躍し、打率.328、本塁打28本、打点103という成績を挙げ、最高出塁率、通算3度目のゴールデングラブ賞を受賞。しかし本人はリーグ優勝を逃したからかこの成績にも満足できず、「打率ならあと2厘、ホームランならあと2本を何故打てなかったのか」と、同年の秋キャンプから試行錯誤を重ね、グリップの位置を後ろに引き気味に構えてテークバックを小さくする打撃フォームに変更した。
2006年はWBC代表に選出され、スタメン3番として起用されたが、予選リーグでの中国戦の本塁打以外はなかなか結果が出なかった。しかしスタメンから外された準決勝の対韓国戦において、7回に代打で出場し、金炳賢(キム・ビョンヒョン)から先制2点本塁打を放ち、日本の決勝進出に大きく貢献。それまで日本は韓国相手に2敗しており3連敗はできない状況だったためか、この本塁打はマスコミにも大きく取り上げられた。決勝戦でも代打で2点適時打を放つなど、持ち前の勝負強さを発揮した。シーズンに入ってからは開幕は5番で起用されるものの、前を打つ2番藤井淳志、3番井端弘和の不調もあり、3番に昇格する。同年6月14日、インボイスSEIBUドームにおける西武戦で、クリストファー・ギッセルから左中間に二塁打を放ち、通算1000本安打を達成。6月末に太ももを痛め14試合を欠場するものの、復帰後は首位打者争いを独走。同年10月10日、マジックナンバーを1として迎えた対巨人戦で、12回表に決勝点となる勝ち越しタイムリーを放ち優勝を決めると共に、シーズン打率3割5分1厘・長打率6割5分9厘・本塁打30本・100打点・100得点を達成。この内、3割・30本・100打点・100得点は中日の選手として1950年の西沢道夫以来56年ぶりの達成であった。10月は打率.275、OPS.831とやや調子を落としたが、3月から9月まで月間打率3割、同OPS10割を切ることのない安定した打撃をシーズンを通して続け、2002年以来4年ぶりの首位打者と2年連続の最高出塁率を獲得。二塁打もセ・リーグのシーズン記録を塗り替える47本を記録し、11月14日にはセ・リーグのシーズンMVPも受賞した。ポジションも開幕はライト、その後は元々予定されていたセンターへコンバートされたが、シーズン終盤からはライトに固定となった。オフには12月2日の『スーパーサタデー』に出演した際、司会の峰竜太から「メジャーに興味はありますか?」と聞かれ、「興味がないと言ったら嘘になるので、あります。WBCに出場してメジャーへの憧れがより一層強くなった」と答え、この頃からFA権取得以降のメジャー移籍に含みを持たせる発言をしていた。
2007年はナゴヤドームでの入場曲にレッド・ホット・チリ・ペッパーズの『アラウンド・ザ・ワールド』を使用した(2006年シーズンはホワイト・ストライプスの『ブルー・オーキッド』を使用していた)。開幕から不動の3番(タイロン・ウッズの欠場時には数試合4番で起用された)として活躍するが、7月中旬から右肘に見つかった遊離軟骨の状態が思わしくなく試合出場を見合わせることが多くなり、ファン選出で初めて選ばれたオールスターゲームはウッズの代走から次の打席に指名打者として打席に立った(結果は遊ゴロ)。その後も様子を見つつ症状の改善を図っていたが、8月に渡米して内視鏡による除去手術を行う事を決意。これにより、シーズン中の復帰は不可能に。続くクライマックスシリーズ、日本シリーズも出場することはできなかった(日本シリーズ出場選手40人枠には入っていた)。2007年は規定不足ながら、200打席以上の選手では、リーグ内でOPSが2位、NOIが1位、GPAが1位、SecAが2位、TAが1位と非常に優秀な成績であった。
シーズン終了後にはこの年から適用された故障者特例措置によりFA権を取得し、10月12日に行使。11月12日に、5歳年上の女性と入籍したことも明らかにした。12月16日に第1子(長男)が誕生。ジョー・アーボンを代理人とし、12日にはシカゴ・カブスと4年総額4800万ドル(約53億円)の契約に合意。身体検査を経て19日に本拠地で正式契約を交わし、背番号は1になることが発表された。なお報告記者会見は帰国後の22日に行った。カブス入団決定後、地元シカゴのメディアは福留のローマ字表記、「FUKUDOME」が放送禁止用語の「FUCK」を連想させるとして、懸念する記事を掲載した[1]。
メジャーリーグ時代 [編集]
(日付は全て現地時間)
シカゴ・カブス [編集]
2008年3月31日の開幕戦では5番・右翼手で先発出場しメジャーデビューを果たした。この試合では複数のカブスファンが福留に対し、カブスファンの常套句である「It's gonna happen」(「何かが起こるぞ」あるいは「ついにその時が来た」)の誤訳と思われる「偶然だぞ」と書かれたサインボードを掲げる珍事が起こった[2](当時はGoogle翻訳で「It's gonna happen」を訳すと「偶然だぞ」になっていたが、これが話題になったためか、後に修正されている。)。初打席ではベン・シーツから二塁打を放ち、9回無死の場面ではエリック・ガニエから同点3ラン本塁打を放ち、鮮烈な印象を与えるデビューとなった[3]。4月までは打率.327、出塁率.436、長打率.480、OPS.915の成績を残し、多くの地元紙がチーム四球数の増加を受けて「カブス打線を変えた福留」という記事を取り上げる活躍を見せた[4]。その後はオールスターにもファン投票で選出されたが、インコースの速球に弱いと見抜かれると徐々に調子を落とし[5]、以降は打率と出塁率が前月の数字を上回ることがなく、5月以降は打率.241、出塁率.340、長打率.355の成績に終わり、起用法も9月以降は守備要員としての出場が増えていった。チームはディビジョンシリーズに進出し、第1戦と第2戦でスタメン出場も8打数無安打4三振に終わり、監督のルー・ピネラは「もう福留を使う意味がない」と公言[6]。チームもディビジョンシリーズ3連敗でシーズンを終えた。右翼手として守備は±システム1、DRS3、UZR6.0と高い数値を残した。
2009年も4月は打率338、出塁率.461、長打率.592、OPS1.052の好成績を残すも、5月以降は打率.245、出塁率.360、長打率.393と失速した。特に左投手に.164と振るわず、後半戦は左投手が先発のときはベンチスタートとなることが増えた。慣れない中堅の守備でも苦労し、中堅手として±システムは-8で両リーグワースト6位、DRS-5は両リーグワースト8位、UZR-7.6は両リーグワースト7位であったが(右翼の守備は依然高レベルであり、44試合の出場ながら±システム9・守備防御点8・UZR7.8を残した)、本人は「納得する形でできた」と自己評価した。
2010年も4月は打率.344、出塁率.443、長打率.525、OPS1.084の好成績を残すも、6月は自己ワーストの月間OPS.485を残すなどその後は失速し、8月2日には打率が.247まで降下したが、それ以降は復調し8月はメジャー3年目で最高となる月間打率.365、出塁率.467、OPS1.118をマークして9月1日には打率が.281まで上昇する。8月10日のAT&Tパークでのサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で、ティム・リンスカムからライトスタンドを越える場外ホームランを放ち、日本人初の「スプラッシュ・ヒット」を記録した(ただし、フェンス最後部にある旗に当たってから海に落下したため、障害物に触れた打球は公式には「スプラッシュ・ヒット」として認定されていない)[7]。しかし9月に再び失速し、最終的に打率や長打率、本塁打数などでカブス移籍後自己最高の成績を残し、イチローと松井秀喜に次いで日本人メジャーリーガー史上3人目となるOPS.800以上を記録したが、好不調の波が激しかったことが災いし、3年目で初めて規定打席に到達できなかった。守備では右翼手として起用されたが、±システム-3、DRS-3、UZR-4.4と振るわなかった。オフにはシカゴ市内にマンションを購入した他[8]、グリーンカードを取得し、カブスとの契約終了後もメジャーでのプレーを希望していることを明らかにした[9][10]。
2011年も4月は打率.383、出塁率.486、長打率.400、OPS.886の好成績を残す。しかしその後は例年と同じく調子を落とし、76試合の出場で打率.275、3本塁打、OPS.751の成績で前半戦を折り返したが、1打席あたりの平均球数は7月までリーグトップの4.34を記録。7月28日にアブナー・アブレイユ、カールトン・スミスとのトレードでクリーブランド・インディアンスへ移籍[11]。背番号は中日、カブス時代と同じ「1」となった[12]。この移籍により、この年の日本人野手は全員アメリカンリーグの球団に所属することになった。
クリーブランド・インディアンス [編集]
7月29日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で移籍後初出場。8月は打率.293、1本塁打、OPS.744と復調し、27日には契約終了後もアメリカでのプレーを希望していることをクリーブランドの地元紙に明かした[13]。9月は4本塁打を放ったものの、打率.216、OPS.623と再び調子を落とし、特に出塁率は移籍前には.374と高い数字を残していたが、移籍後は.300と低下した。最終的にシーズン通算で打率.262、8本塁打、35打点、OPS.712に終わったが、これは打率を除けばメジャー移籍後ワーストの成績であった。一方、安打数はメジャー自己最多139、守備では補殺7、アームレーティング7(いずれも中堅手と右翼手としての合計)と自己ベストの強肩ぶりを見せたが、右翼手として両リーグ最下位のUZR-10.5、同ワースト4位のDRS-1、同じく±システム-6と守備範囲に顕著な課題を残した。
シカゴ・ホワイトソックス [編集]
2012年2月14日にシカゴ・ホワイトソックスと1年100万ドルで契約する(2年目は年俸300万ドルの球団オプション)[14]。主に代打や守備要員として起用されるも、24試合の出場で打率.171、本塁打なし、OPS.489を喫し、6月7日に右わき腹痛でDL入りする。22日にDFAとなり、26日に解雇された。
ニューヨーク・ヤンキース [編集]
7月13日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結ぶ。AAA級スクラントンでは39試合の出場で打率.276、2本塁打、OPS.818を残し、外野手の他22試合で一塁手としても起用されるがメジャー昇格はならず、シーズン最終戦の9月3日に解雇される。
阪神時代 [編集]
12月25日に阪神タイガースとの入団合意が発表された。翌2013年1月5日に正式契約を交わした後入団会見が行われ、背番号は8に決定した。福留は入団にあたって「長らく待って頂き、正式に入団となりましたが、今はスッキリとした気持ちと大丈夫かなという不安と半々です」とコメントし、入団の決め手について「僕自身が(アマチュア時代に)関西でプレーしたことがありますし、一度プレーしたことのある場所はすんなり入って行けるのではと思いましたので。それと凄く熱心に誘って頂き、最後まで我慢強く待って頂いたという所も僕の中では凄く有り難く、嬉しい気持ちでしたので、そういうところが大きな決め手となりました」とコメントした[15]。
選手としての特徴 [編集]
打撃 [編集]
高校時代より節目ごとにフォーム改造に取り組んでおり、打球を広角に放つことができる[16]。30本塁打以上を2度記録しているが、カブス移籍後は1、2番での起用が多く、より出塁を優先するスタイルとなった[16]。日本で3度の最高出塁率を記録し、現役のメジャーリーガー中7位の通算四球率.134を記録した打席での辛抱強さと出塁能力の高さはメジャーでも高い評価を得た[16]。しかし中日時代から左投手に対しての好不調の波が年によって激しく[17]、2009年には左投手に対し打率.164と不振に陥り、カブス時代はそれ以降左投手と対戦する場合の先発を外れることが多くなった他[16]、例年4月は通算打率.345、OPS.979と好成績を残したが、5月以降は通算打率.244、OPS.718と結果を残せずにいた。
守備・走塁 [編集]
守備では主に右翼手に就き、メジャーの右翼手として平均を上回る強肩を備える[18]。右翼守備ではフライの読みに優れ[18]、カブス時代の2008年と2009年は外野の守備が難しい球場として知られるリグレー・フィールドを本拠地としながらも[19][20]2009年までは右翼手でのDRSとUZR共に高い数値を記録したが、2010年以降は振るわず、通算DRS2、通算UZR-2.2を記録した。中堅手としても起用されたが、中堅手では通算DRS-10、通算UZR-9.7と平均を大きく下回る数値を喫した。
走塁では盗塁の試行数は多くないものの、一塁到達まで4.05秒を記録する俊足を誇る[19]。
人物 [編集]
中日在籍当時は孝介あんかけや孝介カレーなどの食品をプロデュースするなどの活動を行っていた[21]。
マネジメントはよしもとクリエイティブ・エージェンシーが担当している[22]。
詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999 | 中日 | 132 | 526 | 461 | 76 | 131 | 25 | 2 | 16 | 208 | 52 | 4 | 7 | 8 | 2 | 50 | 1 | 5 | 121 | 3 | .284 | .359 | .451 | .810 |
| 2000 | 97 | 368 | 316 | 50 | 80 | 18 | 2 | 13 | 141 | 42 | 8 | 5 | 2 | 2 | 45 | 3 | 4 | 79 | 5 | .253 | .350 | .446 | .796 | |
| 2001 | 120 | 442 | 375 | 51 | 94 | 22 | 2 | 15 | 165 | 56 | 8 | 4 | 4 | 3 | 56 | 4 | 4 | 90 | 4 | .251 | .352 | .440 | .792 | |
| 2002 | 140 | 608 | 542 | 85 | 186 | 42 | 3 | 19 | 291 | 65 | 4 | 2 | 0 | 5 | 56 | 2 | 5 | 96 | 4 | .343 | .406 | .537 | .943 | |
| 2003 | 140 | 617 | 528 | 107 | 165 | 30 | 11 | 34 | 319 | 96 | 10 | 5 | 1 | 6 | 78 | 1 | 4 | 118 | 5 | .313 | .401 | .604 | 1.005 | |
| 2004 | 92 | 404 | 350 | 61 | 97 | 19 | 7 | 23 | 199 | 81 | 8 | 3 | 1 | 2 | 48 | 0 | 3 | 93 | 3 | .277 | .367 | .569 | .936 | |
| 2005 | 142 | 612 | 515 | 102 | 169 | 39 | 6 | 28 | 304 | 103 | 13 | 5 | 0 | 3 | 93 | 3 | 1 | 128 | 8 | .328 | .430 | .590 | 1.020 | |
| 2006 | 130 | 578 | 496 | 117 | 174 | 47 | 5 | 31 | 324 | 104 | 11 | 2 | 0 | 3 | 76 | 4 | 3 | 94 | 4 | .351 | .438 | .653 | 1.091 | |
| 2007 | 81 | 348 | 269 | 64 | 79 | 22 | 0 | 13 | 140 | 48 | 5 | 2 | 0 | 4 | 69 | 3 | 6 | 66 | 5 | .294 | .443 | .520 | .963 | |
| 2008 | CHC | 150 | 590 | 501 | 79 | 129 | 25 | 3 | 10 | 190 | 58 | 12 | 4 | 2 | 5 | 81 | 9 | 1 | 104 | 7 | .257 | .359 | .379 | .738 |
| 2009 | 146 | 595 | 499 | 79 | 129 | 38 | 5 | 11 | 210 | 54 | 6 | 10 | 3 | 5 | 93 | 3 | 3 | 112 | 15 | .259 | .375 | .421 | .796 | |
| 2010 | 130 | 429 | 358 | 45 | 94 | 20 | 2 | 13 | 157 | 44 | 7 | 8 | 3 | 4 | 64 | 1 | 0 | 67 | 5 | .263 | .371 | .439 | .809 | |
| 2011 | 87 | 345 | 293 | 33 | 80 | 15 | 2 | 3 | 108 | 13 | 2 | 2 | 5 | 0 | 46 | 1 | 1 | 57 | 2 | .273 | .374 | .369 | .742 | |
| CLE | 59 | 258 | 237 | 26 | 59 | 12 | 1 | 5 | 88 | 22 | 2 | 4 | 1 | 2 | 15 | 3 | 3 | 53 | 6 | .249 | .300 | .371 | .671 | |
| '11計 | 146 | 603 | 530 | 59 | 139 | 27 | 3 | 8 | 196 | 35 | 4 | 6 | 6 | 2 | 61 | 4 | 4 | 110 | 8 | .262 | .342 | .370 | .712 | |
| 2012 | CWS | 24 | 51 | 41 | 2 | 7 | 1 | 0 | 0 | 8 | 4 | 0 | 1 | 0 | 2 | 8 | 0 | 0 | 9 | 0 | .171 | .294 | .195 | .489 |
| NPB:9年 | 1074 | 4503 | 3852 | 713 | 1175 | 264 | 38 | 192 | 2091 | 647 | 71 | 35 | 16 | 30 | 571 | 22 | 34 | 885 | 41 | .305 | .397 | .543 | .940 | |
| MLB:5年 | 596 | 2276 | 1929 | 264 | 498 | 111 | 13 | 42 | 761 | 195 | 29 | 29 | 14 | 18 | 307 | 17 | 8 | 402 | 35 | .258 | .359 | .395 | .754 | |
- 2012年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績 [編集]
| 年度 | 左翼手(LF) | 中堅手(CF) | 右翼手(RF) | 外野手(OF) | ||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 2008 | - | 12 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 137 | 245 | 6 | 5 | 0 | .980 | 143 | 255 | 6 | 5 | 0 | .981 | |||||
| 2009 | - | 113 | 226 | 4 | 2 | 1 | .991 | 44 | 79 | 1 | 0 | 1 | 1.000 | 140 | 305 | 5 | 2 | 2 | .994 | |||||
| 2010 | - | - | 110 | 190 | 4 | 1 | 1 | .995 | 110 | 190 | 4 | 1 | 1 | .995 | ||||||||||
| 2011 | - | 13 | 29 | 1 | 1 | 0 | .968 | 131 | 265 | 6 | 3 | 2 | .989 | 141 | 294 | 7 | 4 | 2 | .987 | |||||
| 2012 | 10 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 15 | 22 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
| 通算 | 10 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 139 | 267 | 5 | 3 | 1 | .989 | 426 | 782 | 17 | 9 | 4 | .989 | 549 | 1066 | 22 | 12 | 5 | .989 |
- 2012年度シーズン終了時
タイトル [編集]
表彰 [編集]
- MVP:1回 (2006年)
- ベストナイン:3回 (2002年、2003年、2006年)
- ゴールデングラブ賞:4回 (2002年、2003年、2005年、2006年)
- 月間MVP:1回 (2002年9月)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (2006年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (2005年)
- JA全農Go・Go賞:5回 (強肩賞:2002年9月、2003年9月、2004年9月、2005年9月 最多二・三塁打賞:2005年8月)
記録 [編集]
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1999年4月2日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤドーム)、2番・遊撃手で先発出場
- 初打点:1999年4月4日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に広池浩司から中犠飛
- 初安打:同上、7回裏に紀藤真琴から右中間二塁打
- 初本塁打:1999年4月16日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、3回表にバルビーノ・ガルベスから右中間へ先制ソロ
- 初盗塁:1999年6月23日、対読売ジャイアンツ13回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に二盗(投手:三澤興一、捕手:村田真一)
- NPB節目の記録
- 100本塁打:2004年4月14日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、8回表に上原浩治から右越逆転決勝2ラン ※史上230人目
- 150本塁打:2006年4月9日、対読売ジャイアンツ3回戦(ナゴヤドーム)、6回裏にゲーリー・グローバーから右越ソロ ※史上140人目
- 1000本安打:2006年6月14日、対西武ライオンズ5回戦(インボイスSEIBUドーム)、3回表にクリストファー・ギッセルから左中間二塁打 ※史上241人目
- 1000試合出場 2007年4月6日、対横浜ベイスターズ1回戦(ナゴヤドーム)、3番・右翼手で先発出場 ※史上415人目
- NPBその他の記録
- サイクルヒット:2003年6月8日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤドーム) ※史上55人目(59度目)
- 5試合連続本塁打:2003年9月9日~9月13日
- シーズン47二塁打:2006年 ※セ・リーグ記録
- シーズン186安打:2002年 ※球団記録
- オールスターゲーム出場:4回 (1999年、2002年 - 2004年)
- MLB記録
- MLBオールスターゲーム選出:1回 (2008年)
背番号 [編集]
登場曲 [編集]
- タマシイレボリューション - Superfly(2013年)
関連情報 [編集]
出演 [編集]
- CM
- メナード青山リゾート(名古屋地区のラジオCM)
- アーレックス(名古屋地区のラジオCM、中日の先輩の山本昌投手とともに、2007年からしばらくの間出演していた。なおCMではかつて出演していたアレックス・オチョアのモノマネを聴くことができる。バックの音楽は私設応援団による自らの応援歌)
- 名古屋市交通局(地下鉄名城線のナゴヤドーム最寄りの大曽根駅~砂田橋駅間開通時のテレビCM、岩瀬仁紀投手とともに出演)
- 漫画
- 参考文献
脚注 [編集]
- ^ 福留悩ます“F問題”英語で発音するとアノ禁止用語に でもインパクトは十分!!夕刊フジ、2008年2月13日
- ^ “Fukudome debut spoiled by Cubs' loss to Brewers Fukudome starts fast, but Wood, Howry fail”. Chicago Tribune. 2008年4月19日閲覧。
- ^ “Fukudome soon to be household name Cubs fans are already treating new right fielder like rock star”. The Official Site of The Chicago Cubs. 2008年4月19日閲覧。
- ^ 福留がカブスを変えた?『月刊スラッガー』2008年8月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-8、32-35頁。
- ^ “Fukudome’s Hitting Is Downside on the North Side”. ニューヨーク・タイムズ. (2008年9月17日)
- ^ Fukudome likely to sit for rest of NLDS. Piniella says he'll look elsewhere to replace slumping outfielder
- ^ 決勝T舞台は日本人快挙連発 イチに新庄、福留も スポーツニッポン(2013年3月13日)
- ^ 福留がシカゴにマンション購入と米誌日刊スポーツ、2010年11月13日。
- ^ 福留独占インタビュー!! 今年結果残して40歳までメジャー中日スポーツ、2011年2月11日。
- ^ 福留 来季も日本球界よりメジャーゲンダイネット、2011年5月14日。
- ^ Tribe acquires Fukudome in deal with CubsMLB.com、2011年7月28日。
- ^ 福留のインディアンス移籍をカブス発表日刊スポーツ、2011年7月29日。
- ^ Five questions with ... Indians outfielder Kosuke Fukudome Cleveland Plain Dealer、2011年8月27日
- ^ “福留がWソックスと契約 1年7500万円”. 日刊スポーツ (2012年2月15日). 2012年2月15日閲覧。
- ^ 福留孝介選手入団会見|球団ニュース|ニュース|阪神タイガース公式サイト
- ^ a b c d 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクトムック、2007年、246-247頁。ISBN 978-4-7572-1338-8。
- ^ 『週刊プロ野球データファイル』2011年9号、ベースボール・マガジン社、雑誌27742-6/15、16頁。
- ^ a b John Dewan , Ben Jedlovec (2012). The Fielding Bible, Volume III. ACTA Sports. ISBN 978-0879464769.
- ^ a b 現役スカウト部長による“本物”のスカウティングレポート 『月刊スラッガー』2008年7月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-7、52-55頁。
- ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、438頁。ISBN 978-4-331-51300-2。
- ^ 名古屋ドラゴンズ食堂
- ^ “スポーツ選手プロフィール”. 吉本興業. 2012年2月11日閲覧。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 福留孝介オフィシャルウェブサイト-fukudome1.com
- 個人年度別成績 福留孝介
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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