岩村明憲
| 東北楽天ゴールデンイーグルス #1 | |
|---|---|
2011年8月30日、こまちスタジアムにて
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 愛媛県宇和島市 |
| 生年月日 | 1979年2月9日(33歳) |
| 身長 体重 |
176cm 94kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 三塁手、二塁手 |
| プロ入り | 1996年 ドラフト2位 |
| 初出場 | NPB / 1998年5月19日 MLB / 2007年4月2日 |
| 年俸 | 1億5,000万円(2012年)[1] |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| WBC | 2006年、2009年 |
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この表について
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岩村 明憲(いわむら あきのり、1979年2月9日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手)。兄の敬士も大阪近鉄バファローズに所属した元プロ野球選手。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
中学時代は二塁手。宇和島東高一年生時、捕手にコンバートされる。1995年には全日本高校選抜の4番を務めた。三年生時の1996年6月に右腕を骨折、急遽一塁手にコンバートされ夏の県大会を迎える。県大会では準決勝で松山商に敗れる。同年のドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名を受け入団。背番号は48。
[編集] ヤクルト時代
1998年に初の一軍出場を果たし、2000年には130試合に出場。以降三塁手のレギュラーに定着し、ゴールデングラブ賞を初めて受賞した。
2001年、背番号を1に変更。2002年は140試合にフル出場し、打率も3割を越え、ベストナイン初選出。
2003年は右手首の故障のため60試合出場にとどまった。
2004年には44本塁打を放つ。ロベルト・ペタジーニが1999年にマークしたチーム史上タイ記録に並ぶ一方でシーズン173三振の日本人新記録とセ・リーグ新記録、歴代5位の記録を作る(シーズン三振記録は1位から4位まではラルフ・ブライアントである)。
2005年は8月26日に母親が他界。この日、対横浜戦(神宮)を控えていた岩村は若松勉監督(当時)から帰郷するよう勧められたが、「プロとして目の前の試合を放棄するわけにはいきません」と出場を直訴。左腕に喪章を付け、3番・三塁手で先発出場。2本塁打を含む3安打4打点の大活躍を見せ、チームの勝利に大きく貢献した。最終的に、この年は144試合に出場、打率.319、30本塁打、102打点の好成績を残す。
2006年はWBC日本代表に選出され、ラウンド2までの全試合にスタメン出場し毎試合安打を記録する活躍を見せるが、故障で準決勝以降は欠場。レギュラーシーズンでは3年連続3割30本塁打を達成。シーズン終了後にはポスティング・システムを行使しタンパベイ・デビルレイズが455万ドルで交渉権を獲得。アラン・ニーロを代理人とし、3年770万ドルで契約を結んだ。
[編集] MLB時代
[編集] タンパベイ・レイズ
2007年は開幕当初は6番で起用され、9試合連続安打のスタートを切ったが、4月24日に右脇腹を痛めDL入り。復帰後は主にトップバッターとして起用され、チームバッティングに徹する姿勢を貫いて若い選手に意識改革をもたらしたと評された[2]。
2008年はマイナーから昇格したエバン・ロンゴリアを三塁手として起用する監督の意向により二塁手へコンバート。塁上の接触プレーなどに苦戦し、オープン戦では失策も目立ったが、シーズンが始まると72試合連続無失策と安定した守備を見せた。また、中堅手のB.J.アップトンに守備を教えたり、8月に7連敗した時は監督に緊急ミーティングを開くよう直訴するなどして若手の多いチームを引っ張り[3]、チームはポストシーズン及びワールドシリーズ初出場を果たすも、フィラデルフィア・フィリーズに敗れた。この年のタンパ一帯では、スランプに陥っていたB.J.アップトンがゲン直しに岩村のソフトモヒカンを真似たことをきっかけに、モヒカンヘアーの大ブームが巻き起こった[4]。
2009年も前回に続いてWBC日本代表に選出される。主に9番・二塁手として出場し、内野のリーダーとしてチームを引っ張った。一次ラウンドはノーヒットに終わるが、二次ラウンドの初戦キューバ戦で2安打すると復調し、準決勝のアメリカ戦では4回裏、日本4点目となるタイムリー3塁打を放つ。決勝の韓国戦では、10回表に左前安打で一、三塁と繋ぎ、イチローの決勝点となる2点適時打を呼び込んだ。日本代表チームで、最後のホームを踏んだのは岩村である(決勝のホームを踏んだのは内川聖一)。全9試合で、打率.286、3打点、1盗塁、7得点と侍ジャパンの2連覇に貢献。ちなみに得点7はイチローとともにチームトップだった。
レギュラーシーズンでは5月24日のフロリダ・マーリンズ戦まで打率.310と例年以上の好調を見せていたが、その試合の8回に二塁の守備についた際、一塁走者クリス・コグランの激しいスライディングを受けて左膝を負傷し途中退場。精密検査の結果、左膝前十字靱帯断裂と診断された。岩村は、即日故障者リスト入りし、6月22日に手術を受けた。当初は、2009年シーズン中の復帰は絶望視されていた[5][6]が、手術の際に部分断裂であることが判明。その後順調に回復し、現地時間8月29日のデトロイト・タイガース戦で9番・二塁手として復帰。2打数1安打2四球2得点とチームの勝利で復帰戦を飾った。翌日の試合では今季第1号をレフトスタンドに打った。試合後のインタビューで「今季はホームラン0かなと思っていたんですけど、打ててよかったです」とコメントを残した。
シーズン終了後の契約延長オプションは球団側が持っていたが、ジェシー・チャベスとの交換トレードでピッツバーグ・パイレーツへ移籍後にパイレーツがオプションを行使した。
[編集] ピッツバーグ・パイレーツ
2010年は開幕から打撃不振に悩まされ、4月21日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で左中間への大飛球が凡打に終わると「この球場じゃなければ入っている」[7]、5月10日のシンシナティ・レッズ戦でも同様に左中間の大飛球が凡打に終わると「他の球場なら本塁打」[8]というコメントを残すなど、弱気な発言が目立ち、5月は40打席連続無安打を記録。打率は2割を割り込み、ペドロ・アルバレスのメジャー昇格に伴い6月16日にDFAとなり、22日に傘下のAAA級インディアナポリスへ降格。その後も移籍先が見つからず、9月6日に解雇された[9]。
[編集] オークランド・アスレチックス
9月13日、ケビン・クーズマノフの故障で選手の補強を急いでいたオークランド・アスレチックスとシーズン終了までの契約を締結し、同日の試合に7番・三塁手として先発出場。10試合で打率.129と低迷し、10月4日に解雇された[10]。
[編集] 楽天時代
11月16日に東北楽天ゴールデンイーグルスと年俸1億5千万円の2年契約を結ぶ[11][12]。5シーズンぶりの日本球界復帰となり[13]、17日には仙台市内の球団事務所で入団会見を行った。背番号はヤクルト、レイズ時代と同じ1。
2011年は同じく日本球界に復帰した松井稼頭央と共に主力として期待されたが、開幕から打率.169、OPS.421、失策6と攻守に精彩を欠いて、5月14日に出場選手登録を抹消[14]。復帰まで1ヵ月半を要したが、復帰直後の6月29日の対福岡ソフトバンクホークス戦(Kスタ宮城)において、延長10回裏に馬原孝浩から日本球界復帰後初の適時打となる逆転サヨナラ二塁打を放った[15]。しかし、その後も調子が上向くことはなく、内村賢介がセカンドのスタメンに固定された影響で、それまでセカンドのレギュラーだった高須洋介がサードに定着。押しだされるようにスタメンの座を失い、守備代走要員となった。9月16日の対西武戦(西武ドーム)の代打で二ゴロ併殺崩れの間に出塁し、ホーム突入時に銀仁朗と交錯して肋骨を骨折。打率.183、本塁打なし、OPS.475という成績でそのままシーズンを終えた。
[編集] プレースタイル
ヤクルト時代は広角に打てる打撃に一塁到達4.2秒台の俊足、好守といった走攻守の三拍子が揃った三塁手として知られ[16]、三振は多いが甘いボールを逃さない積極的な打撃スタイルだったが、レイズ移籍後は主に1番打者としてバットコントロールに重点を置いた逆方向にライナーをはじき返すバッティングに徹し[4]、「次打者に相手投手の球筋を見せるための慎重にボールを見極める」出塁を重視したスタイルとなる。2007年にはチームのルーキーとして歴代最高の出塁率.359をマークし[17]、2008年には投手に2930球を投げさせ(両リーグ3位タイ)[18]、さらに2009年のWBCでは一塁到達まで3.98秒を計時する全力疾走を見せた[19]。左打者ながら左投手に強く[20]、メジャー通算では右投手打率.259に対し、左投手には打率.288を残した。
三塁守備では2007年に守備率.975(リーグ1位)[17]、守備防御点-7(リーグ9位)、UZR1.3(リーグ6位)[21]をマークし守備防御点において課題を残した。2008年には二塁にコンバートされ、ダブルプレー達成数104(リーグ3位)、守備率.990(リーグ4位)、守備防御点3(リーグ3位)、UZR2.8(リーグ3位)をマークする活躍でチームの守備力向上の象徴となり[18]、ジェイソン・バートレットとの二遊間はイワーレットと呼ばれた[22]。しかし2009年に膝を負傷してからは守備力の低下が顕著になり、2010年は二塁手として守備防御点-10、UZR-8.6と守備でも苦戦を喫した[23]。メジャー通算では二塁手としてUZR-10.0、守備防御点-5、三塁手としてUZR-1.8、守備防御点-11であった。
[編集] 人物
ヤクルト時代の2005年に1歳年上の元OLの女性と結婚。12月12日にはニッポン放送「岩村明憲のオールナイトニッポン」でラジオ出演した。デビルレイズ(当時)移籍後の2007年7月に第1子(長男)誕生。
赤色を好んでいることから2003年あたりからリストバンド、バッティンググローブ、RAKUWAネック、練習用Tシャツなどが殆ど赤になった。バットも薄赤色と橙色の中間色や濃い赤色(えんじ色)も使用していたが、2005年からは使用出来るバットの色に規制が設けられたため(メジャーリーグの規定に倣い自然色・こげ茶・赤褐色・黒の4色に制限)、黒バットに戻してプレーすることとなった。
中西太は師匠的存在であり、中西の座右の銘である「何苦楚」をブログのタイトルに引用している。
レイズの選手夫人たちに漢字の“勝利”の文字が背中に書かれたパーカーを着るように提案したことがあり、「彼の存在、プレー、人間性、そのすべてが、ある意味、レイズの心臓となっている」とも評されていた[24]。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | ヤクルト | 1 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
| 1999 | 83 | 273 | 252 | 28 | 74 | 11 | 4 | 11 | 126 | 35 | 7 | 1 | 0 | 2 | 18 | 2 | 1 | 46 | 2 | .294 | .342 | .500 | .842 | |
| 2000 | 130 | 489 | 436 | 67 | 121 | 13 | 9 | 18 | 206 | 66 | 13 | 1 | 9 | 1 | 39 | 3 | 4 | 103 | 7 | .278 | .342 | .472 | .814 | |
| 2001 | 136 | 564 | 520 | 79 | 149 | 24 | 4 | 18 | 235 | 81 | 15 | 6 | 5 | 4 | 32 | 5 | 3 | 111 | 6 | .287 | .329 | .452 | .781 | |
| 2002 | 140 | 577 | 510 | 67 | 163 | 35 | 2 | 23 | 271 | 71 | 5 | 4 | 2 | 4 | 58 | 6 | 3 | 114 | 10 | .320 | .390 | .531 | .921 | |
| 2003 | 60 | 258 | 232 | 43 | 61 | 6 | 2 | 12 | 107 | 35 | 5 | 1 | 2 | 1 | 22 | 3 | 1 | 55 | 3 | .263 | .328 | .461 | .789 | |
| 2004 | 138 | 611 | 533 | 99 | 160 | 19 | 0 | 44 | 311 | 103 | 8 | 3 | 0 | 4 | 70 | 3 | 4 | 173 | 5 | .300 | .383 | .583 | .966 | |
| 2005 | 144 | 618 | 548 | 83 | 175 | 31 | 4 | 30 | 304 | 102 | 6 | 3 | 0 | 5 | 63 | 2 | 2 | 146 | 2 | .319 | .388 | .555 | .943 | |
| 2006 | 145 | 621 | 546 | 84 | 170 | 27 | 2 | 32 | 297 | 77 | 8 | 1 | 1 | 3 | 70 | 5 | 1 | 128 | 5 | .311 | .389 | .544 | .933 | |
| 2007 | TB | 123 | 559 | 491 | 82 | 140 | 21 | 10 | 7 | 202 | 34 | 12 | 8 | 4 | 5 | 58 | 0 | 1 | 114 | 2 | .285 | .359 | .411 | .770 |
| 2008 | 152 | 707 | 627 | 91 | 172 | 30 | 9 | 6 | 238 | 48 | 8 | 6 | 3 | 3 | 70 | 3 | 4 | 131 | 2 | .274 | .349 | .380 | .729 | |
| 2009 | 69 | 260 | 231 | 28 | 67 | 16 | 2 | 1 | 90 | 22 | 9 | 1 | 1 | 3 | 24 | 0 | 1 | 44 | 1 | .290 | .355 | .390 | .745 | |
| 2010 | PIT | 54 | 189 | 165 | 18 | 30 | 6 | 1 | 2 | 44 | 9 | 3 | 1 | 1 | 1 | 26 | 0 | 0 | 31 | 3 | .182 | .292 | .267 | .559 |
| OAK | 10 | 36 | 31 | 3 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 10 | 0 | .129 | .250 | .161 | .411 | |
| '10計 | 64 | 225 | 196 | 21 | 34 | 7 | 1 | 2 | 49 | 13 | 3 | 1 | 1 | 1 | 31 | 0 | 0 | 31 | 3 | .173 | .285 | .250 | .535 | |
| 2011 | 楽天 | 77 | 197 | 175 | 9 | 32 | 6 | 0 | 0 | 38 | 9 | 0 | 0 | 3 | 1 | 17 | 0 | 1 | 41 | 6 | .183 | .258 | .217 | .475 |
| NPB:10年 | 1054 | 4211 | 3755 | 559 | 1105 | 172 | 27 | 188 | 1895 | 579 | 67 | 20 | 22 | 25 | 389 | 29 | 20 | 919 | 46 | .294 | .361 | .505 | .866 | |
| MLB:4年 | 408 | 1751 | 1545 | 222 | 413 | 74 | 22 | 16 | 579 | 117 | 32 | 16 | 9 | 12 | 183 | 3 | 6 | 320 | 8 | .267 | .345 | .375 | .720 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 表彰
- NPB
- ベストナイン:2回 (三塁手部門:2002年、2006年)
- ゴールデングラブ賞:6回 (三塁手部門:2000年 - 2002年、2004年 - 2006年)
- 月間MVP:1回 (2004年8月)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2001年)
- 優秀JCB・MEP賞:4回 (2000年、2002年、2004年、2006年)
[編集] 記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1998年5月19日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、7番・三塁手として先発出場
- 初安打:1999年4月3日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に斎藤隆から二塁内野安打
- 初打点:1999年5月15日、対広島東洋カープ5回戦(長崎ビッグNスタジアム)、4回裏に黒田博樹から右翼線へ2点適時二塁打
- 初本塁打:1999年5月22日、対中日ドラゴンズ8回戦(ナゴヤドーム)、4回表に武田一浩から右越同点ソロ
- NPB節目の記録
- 100本塁打:2004年6月17日、対阪神タイガース13回戦(大阪ドーム)、1回表に藪恵壹から2ラン ※史上235人目
- 150本塁打:2005年8月31日、対読売ジャイアンツ16回戦(大阪ドーム)、5回表にバート・ミアディッチからソロ ※史上138人目
- 1000本安打:2006年7月17日、対広島東洋カープ10回戦(明治神宮野球場)、7回裏に佐竹健太から右前安打 ※史上242人目
- 1000試合出場:2011年5月10日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(日本製紙クリネックススタジアム宮城)、7番・三塁手として先発出場 ※史上441人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:4回 (2001年、2004年 - 2006年)
- シーズン173三振(2004年) ※セ・リーグ最多記録
[編集] 背番号
- 48 (1997年 - 2000年)
- 1 (2001年 - 2009年、2010年途中 - 同年終了、2011年 - )
- 3 (2010年 - 同年途中)
- 8 (2009年WBC)
[編集] 関連情報
[編集] テレビ出演
- run for money 逃走中(2011年1月16日、フジテレビ)
[編集] 脚注
- ^ 「武者震いしている」=楽天岩村、背番号1-プロ野球
- ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、396頁。ISBN 978-4-331-51439-9。
- ^ (「MLB2008 日本人メジャーリーガーの群像 『どん底チームを変えろ!〜岩村明憲 2年目の輝き〜』NHK-BS1 2008年12月25日放送)
- ^ a b 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2009』 廣済堂出版、2009年、40頁。ISBN 978-4-331-51370-5。
- ^ “岩村、長期離脱も…スライディング受け左ひざ負傷”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2009年5月26日). 2009年5月26日閲覧。
- ^ “岩村は今季絶望か”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2009年5月26日). 2009年5月26日閲覧。
- ^ http://sankei.jp.msn.com/sports/mlb/100422/mlb1004221327021-n1.htm
- ^ http://stj.sankei.jp.msn.com/sports/mlb/100511/mlb1005111232011-n1.htm
- ^ 【MLB】岩村がパイレーツ解雇 トレード不成立ならFAに MSN産経ニュース・2010年9月8日
- ^ アスレチックス 岩村解雇を正式発表
- ^ 楽天、岩村と正式契約 17日に入団会見日刊スポーツ、2010年11月16日。
- ^ 岩村楽天入団会見「監督胴上げを」日刊スポーツ、2010年11月18日。
- ^ 岩村、楽天入り=5季ぶり日本復帰-プロ野球
- ^ 不振の岩村が2軍落ち…星野監督「まだ若い」と減量指令 スポーツニッポン 2011年5月14日付記事
- ^ 不振に苦しみ…復帰後初先発の岩村“値千金”逆転サヨナラ打 スポーツニッポン 2011年6月29日付記事
- ^ 小関順二、泉直樹、荒井太郎 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクトムック、2006年、320-321頁。ISBN 978-4-7572-1246-1。
- ^ a b 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、106頁。ISBN 978-4-331-51300-2。
- ^ a b 『月刊スラッガー』2009年4月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-4、17項
- ^ 小関順二 『WBC日本代表はなぜ世界一になれたのか?』 ぴあ株式会社、2009年、15-17頁。ISBN 978-4-8356-1740-4。
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』 白夜書房、2006年、110頁。ISBN 4-86191-134-6。
- ^ FanGraphs2007
- ^ 岩村の二遊間“イワーレット”は必見 注目選手をピックアップ! 杉浦大輔 sportsnavi、2008年10月3日。
- ^ FanGraphs2010
- ^ 岩村はレイズの「心臓」だ鉄矢多美子『Field of Dreams』、2008年10月22日。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 岩村明憲公式ブログ
- AK GLOBAL AGENT INC. website - マネジメント会社
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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