岩村明憲

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岩村 明憲
東京ヤクルトスワローズ #48
20130407 akinori Iwamura, infielder of the Tokyo Yakult Swallows,at Meiji Jingu Stadium.JPG
2013年4月7日、明治神宮野球場にて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県宇和島市
生年月日 1979年2月9日(35歳)
身長
体重
175 cm
92 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 三塁手二塁手
プロ入り 1996年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1998年5月19日
MLB / 2007年4月2日
年俸 2,200万円(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
WBC 2006年2009年

岩村 明憲(いわむら あきのり、1979年2月9日 - )は、愛媛県宇和島市出身の東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手内野手)。

兄の敬士大阪近鉄バファローズに所属した元プロ野球選手。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

中学時代は二塁手宇和島東高一年生時、捕手にコンバートされる。1995年には全日本高校選抜の4番を務めた。三年生時の1996年6月に右腕を骨折、急遽一塁手にコンバートされ夏の県大会を迎える。県大会では準決勝で松山商に敗れる。

同年のドラフト会議ヤクルトスワローズから2位指名を受け、契約金8000万円、年俸600万円(金額は推定)で入団[1]。背番号は48に決まった。

ヤクルト時代[編集]

1997年 - 1999年
プロ1年目は一軍出場無しに終わったが、2軍で打率.316、10本塁打、38打点を記録。1998年5月19日の対横浜ベイスターズ戦において7番・三塁手として先発出場し、プロ入り初の一軍出場を果たした。1999年は83試合に出場し、規定打席には届かなかったが、打率.294、11本塁打を記録した。
2000年
130試合に出場。自身初の規定打席に到達し、ゴールデングラブ賞も初受賞。打率.278(リーグ18位)、18本塁打(リーグ14位)、66打点(リーグ12位)、13盗塁(リーグ7位)を記録。三塁打9本はリーグ1位だった。
2001年
背番号を48から1に変更し、大きく活躍が期待されたこの年は前年を上回る136試合に出場。打率.287(リーグ18位)、18本塁打(リーグ17位)、81打点(リーグ11位)、15盗塁(リーグ8位)を記録。また、自身初のオールスターゲーム出場を果たし、日本シリーズでは優秀選手賞に選ばれた。
2002年
ストライクゾーンに対応するため、キャンプではバットのヘッドを立てて高めの球に力負けしないためのスイング、大根斬りの練習を行った[2]。140試合にフル出場し、打率はリーグ4位となる.320、本塁打はリーグ10位となる23本塁打、OPSはリーグ4位の.921を記録。ベストナインに初選出されるなど大きく飛躍したシーズンとなった。
2003年
開幕を一軍で迎えたものの、開幕戦で右手首を故障し戦線離脱。出場機会が激減し、シーズンを通して60試合の出場に留まった。規定打席には届かず、打率も.263と前年を下回ったが、僅か258打席、232打数で12本塁打を記録した。怪我から復帰後しばらくは中堅手として起用された。
2004年
ロベルト・ペタジーニ1999年にマークしたチーム史上タイ記録に並ぶ44本塁打(リーグ3位)、103打点(リーグ3位)と好成績をマーク。OPSは自己最高の.966を記録したが、リーグ4位の.921を記録した2002年ストライクゾーン改正もあり打低年、2004年は打高年だったこともありリーグ9位、同様に打率も.300を記録したもののリーグ19位と順位はそれほど伸びなかった。また、シーズン173三振の日本人新記録とセ・リーグ新記録、歴代5位の記録を作るなど[注釈 1]、不名誉な記録も残した。同年に行われた日米野球では、チーム打率が.221に沈む中岩村は打率.440、長打率.517を記録する[4]など好成績を収めた。
2005年
8月26日に母親が他界。この日、横浜戦(神宮)を控えていた岩村は当時の監督の若松勉から帰郷するよう勧められたが、「プロとして目の前の試合を放棄するわけにはいきません」と出場を志願。左腕に喪章を付け、「3番・三塁手」で先発出場。2本塁打を含む3安打4打点の大活躍を見せ、チームの勝利に大きく貢献した。最終的に、この年は144試合に出場、打率.319(リーグ6位)、30本塁打(リーグ8位)、102打点(リーグ6位)、OPS.943(リーグ6位)を記録した。
WBCでの岩村(2006年)
2006年
WBC日本代表に選出され、ラウンド2までの全試合にスタメン出場し毎試合安打を記録する活躍を見せるが、故障で準決勝以降は欠場。レギュラーシーズンではリーグ全体がやや打低化したのに対し岩村は打率.311(リーグ5位)、32本塁打(リーグ5位)、OPSも.933(リーグ4位)と前年とほぼ同程度の数値を記録し、2004年から3年連続3割30本塁打を達成。RCWINは自己最高の数値を記録した。シーズン終了後にはポスティング・システムを行使しタンパベイ・デビルレイズが455万ドルで交渉権を獲得。アラン・ニーロを代理人とし、3年総額770万ドル(4年目は年俸485万ドルの球団オプション)で契約を結んだ。

デビルレイズ・レイズ時代[編集]

2007年
当初は守備位置が決まらず一塁手用や外野手用のグラブも持参してスプリングトレーニングに臨むが、三塁手として起用される。開幕当初は6番で起用され、9試合連続安打のスタートを切ったが、4月24日に右脇腹を痛めDL入り。復帰後は主にトップバッターとして起用され、チームバッティングに徹する姿勢を貫いて若い選手に意識改革をもたらしたと評された[5]。シーズン終盤には、エバン・ロンゴリアが翌シーズンから三塁を守るチーム方針から二塁手へのコンバートを告げられ、オフには土橋勝征から二塁守備の指導を受けた[6]
レイズ時代(2008年)
2008年
スプリングトレーニングでは二塁守備での塁上の接触プレーなどに苦戦したが失策はなく、打撃でも19試合の出場で打率.340、2本塁打、出塁率.421、1盗塁の成績を残す。4月は打率.210、1本塁打、出塁率.300と低調だったが、5月3日ボストン・レッドソックス戦では日本人左打者では初となるグリーンモンスター越えの左本塁打を放ち[7]、同月下旬には5試合連続のマルチ安打を記録するなど復調し打率.333、2本塁打、出塁率.371を記録。6月5日のレッドソックス戦ではレイズ先発のジェームズ・シールズココ・クリスプへの死球から始まった乱闘に「グラウンドでは野球をするもの。でも味方がどうこうされるのも黙ってられない。止めなければならなかった」と参加し[8]、3試合の出場停止処分を受けた[9]。24日のフロリダ・マーリンズ戦で日米通算200号本塁打を達成[10]8月30日ボルチモア・オリオールズ戦でメジャー移籍後初のシーズン150安打に到達[11]。30日にはチームが球団史上最速の50勝に到達[12]。8月に7連敗を喫したが、監督のジョー・マドンに緊急ミーティングを開くよう直訴し[13]中堅手B・J・アップトンには守備を教えたりするなどして若手の多いチームを引っ張り[14]9月20日ミネソタ・ツインズ戦の勝利でチームは球団史上初のポストシーズン進出が決定し[15]、26日に初の地区優勝も決定する[16]。この年のタンパ一帯では、スランプに陥っていたB・J・アップトンがゲン直しに岩村のソフトモヒカンを真似たことをきっかけに、モヒカンヘアーの大ブームが巻き起こった[14][15][17]
ポストシーズンではシカゴ・ホワイトソックスとのディビジョンシリーズ第2戦の5回、カール・クロフォードが「今日のアキのホームランは球団史上最高の一打だと思う」と語る逆転2点本塁打を放ち勝利[18]。最終戦までもつれ込んだレッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦まで7試合連続安打を記録し、第4戦ではレギュラーシーズン中は封印していたグラブトスでの併殺を見せる[19]など攻守に活躍し、チームはワールドシリーズに進出[20]。しかしフィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは第5戦で敗退した[21][22]
2009年
前回に続いてWBC日本代表に選出される。主に9番・二塁手として出場し、内野のリーダーとしてチームを引っ張った。一次ラウンドは無安打に終わるが、二次ラウンドの初戦キューバ戦で2安打すると復調し、準決勝のアメリカ戦では4回裏、日本4点目となる適時3塁打を放つ。決勝の韓国戦では、10回表に左前安打で一、三塁と繋ぎ、イチローの決勝点となる2点適時打を呼び込み、日本代表チームで最後のホームを踏んだ(決勝点となったホームを踏んだのは内川聖一)。全9試合で、打率.286、出塁率.417、1盗塁、7得点と侍ジャパンの2連覇に貢献。得点7はイチローとともにチーム最多だった。
レギュラーシーズンではB・J・アップトンを1番打者とするチーム方針から開幕直後は9番で起用される[23]5月24日フロリダ・マーリンズ戦まで打率.310、本塁打なし、出塁率.377と例年以上の好調を見せていたが、その試合の8回に二塁の守備についた際、一塁走者クリス・コグランの激しいスライディングを受けて左膝を負傷し途中退場。精密検査の結果、左膝前十字靱帯断裂と診断された[24]。故障当初はシーズン中の復帰は絶望視されていたが[25]6月22日に手術を受けた際に部分断裂であることが判明[26]8月29日デトロイト・タイガース戦で復帰し[27]、翌日の試合では1号本塁打を放ち、「今季はホームラン0かなと思っていたんですけど、打ててよかったです」とコメントした[28]。9月にはチームが11連敗を喫しポストシーズン出場を逃した。シーズン終了後の11月3日ジェシー・チャベスとの交換トレードでピッツバーグ・パイレーツへ移籍し、パイレーツが翌年の契約オプションを行使した[29]。オフには四国八十八箇所巡りを敢行する[30][31]

パイレーツ時代[編集]

2010年
開幕から打撃不振に悩まされ、4月21日ミルウォーキー・ブルワーズ戦で左中間への大飛球が凡打に終わると「この球場じゃなければ入っている」[32]5月10日シンシナティ・レッズ戦でも同様に左中間の大飛球が凡打に終わると「他の球場なら本塁打」[33]というコメントを残すなど弱気な発言が目立ち、5月には日本人選手ワースト記録となる40打席連続無安打を記録[34]。打率は2割を割り込み、ペドロ・アルバレスのメジャー昇格に伴い6月16日DFAとなり、22日に傘下のAAA級インディアナポリスへ降格。インディアナポリスでは50試合の出場で打率.264、3本塁打、出塁率.404の成績を残すが、マイナーのレギュラーシーズン終了後の9月6日に解雇される[35][36]

アスレチックス時代[編集]

2010年
9月13日ケビン・クーズマノフの故障で選手の補強を急いでいたオークランド・アスレチックスとメジャー契約を結び、同日の試合に「7番・三塁手」として先発出場[37]。しかし10試合で打率.129、出塁率.250を喫し、10月4日に解雇された[38]11月16日東北楽天ゴールデンイーグルスと年俸1億5千万円の2年契約を結ぶ[39][40]。5シーズンぶりの日本球界復帰となり、17日には仙台市内の球団事務所で入団会見を行った。背番号はヤクルト、レイズ時代と同じ1に決まった。夕刊フジによると、この頃から体重増加が顕著となっていた[41]

楽天時代[編集]

楽天時代(2011年)
2011年
このシーズンから同じく日本球界に復帰した松井稼頭央とともに主力として期待されたが、開幕から打率.169、OPS.421、失策6と攻守に精彩を欠き、5月14日に出場選手登録を抹消[42]。復帰まで1ヵ月半を要したが、復帰直後の6月29日ソフトバンク戦(Kスタ宮城)において、延長10回裏に馬原孝浩から日本球界復帰後初の適時打となる逆転サヨナラ二塁打を放った[43]。しかし、その後も調子が上向くことはなく、内村賢介が二塁手のスタメンに固定された影響で、それまで正二塁手だった高須洋介が三塁手に定着。押しだされるようにスタメンの座を失い、守備代走要員となった。9月16日西武戦(西武ドーム)の代打で二ゴロ併殺崩れの間に出塁し、ホーム突入時に銀仁朗と交錯して肋骨を骨折。打率.183、本塁打なし、OPS.475という成績でそのままシーズンを終えた。
2012年
開幕から二軍暮らしとなり、6月8日にようやく一軍登録される。7月7日の西武戦(西武ドーム)で2006年10月10日以来、日本球界で6年(2097日)ぶりの本塁打を放った[44]ものの、シーズンを通しては前年同様の不振を極め、8月5日に再度二軍落ち。二軍では39試合の出場で打率.298、1本塁打、OPS.799を記録するが、その後も一軍復帰を果たすことができなかった。結局楽天での2年間は期待を大きく下回る成績に終わり、10月7日に球団から戦力外通告を受けた[45]12月11日東京ヤクルトスワローズと契約[46]。7シーズンぶりに古巣復帰を果たした。背番号はプロ入り当初に着用していた48に決まった。

ヤクルト時代(第2次)[編集]

2013年
2月23日の楽天戦とのオープン戦の後には「(楽天が自分を)手放して痛かったなと思ってほしい」とコメントした[47]。開幕一軍入りを果たし、4月7日横浜DeNAベイスターズ戦において、2回裏に三浦大輔から古巣復帰後初となるソロ本塁打を放ち、2006年10月10日以来となる神宮球場での本塁打を記録した[48]。しかし、シーズンを通して75試合の出場に留まり、打率.246、3本塁打と往年の力を発揮することはできなかった。
2014年
2年連続で開幕一軍に登録。4月6日阪神タイガース戦(神宮)3回裏に代打で起用されると、シーズン1号となる3点本塁打を放った[49]。「7番・一塁手」としてスタメンに起用された6月14日北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)では、2回表の第1打席から4打席連続で二塁打を放ったことによって、NPBタイ記録(史上11人目、4打席連続では7人目)の1試合4二塁打を達成した[50]10月1日に球団から戦力外通告を受ける[51]

選手としての特徴[編集]

打撃[編集]

三振は多いが甘いボールを逃さない積極的な打撃スタイルだったが、レイズ移籍後は主に1番打者としてバットコントロールに重点を置いた逆方向にライナーをはじき返すバッティングに徹し[14]、2007年にはチームのルーキーとして歴代最高の出塁率.359をマークし[52]、2008年には投手に2930球を投げさせ(両リーグ3位タイ)[53]、左打者ながら左投手に強く[54]、メジャー通算では対右投手打率.259に対し、左投手には打率.288を残した。

メジャーリーグ時代はヤクルト時代に比べると上記の理由や本拠地の広さもあり本塁打数が減少したが、パークファクター補正の入る打撃指標のOPS+wRC+のキャリアハイはそれぞれ105[55]、107[56]を記録している。これは日本人内野手としては歴代2位の数値である[注釈 2]

守備[編集]

三塁守備では2007年にリーグ1位の守備率.975を記録したが[52]DRS-7、UZR1.3と[57]DRSで平均を下回った。2008年には二塁にコンバートされたが、リーグ3位のダブルプレー達成数104、リーグ4位の守備率.990、リーグ3位のDRS3、同3位のUZR2.8をマークする活躍でチームの守備力向上の象徴となり[53]ジェイソン・バートレットとの二遊間はイワーレットと呼ばれた[58]。しかし2009年に膝を負傷してからは守備力の低下が顕著になり、2010年は二塁手としてDRS-10、UZR-8.6と守備でも苦戦を喫し[59]、メジャー通算では二塁手としてDRS-5、UZR-10.0、三塁手としてDRS-11、UZR-1.8を残した。

走塁[編集]

ヤクルト時代は一塁到達4.2秒台と俊足で[60]2000年2001年と二年連続で二桁盗塁を記録。メジャー移籍後1年目も二桁盗塁を記録し、2009年のWBCでは一塁到達3.98秒を計時する全力疾走を見せるなど[61]、走塁能力は高かったが、近年は度重なる故障や脚力の衰えもあり、日本球界復帰後以降は盗塁を記録していない。

人物[編集]

ヤクルト時代の2005年に1歳年上の元OLの女性と結婚。12月12日にはニッポン放送「岩村明憲のオールナイトニッポン」でラジオ出演した。デビルレイズ(当時)移籍後の2007年7月に第1子(長男)誕生。

赤色を好んでいることから2003年あたりからリストバンド、バッティンググローブ、RAKUWAネック、練習用Tシャツなどが殆ど赤になった。バットも薄赤色と橙色の中間色や濃い赤色(えんじ色)も使用していたが、2005年からは使用出来るバットの色に規制が設けられたため(メジャーリーグの規定に倣い自然色・こげ茶・赤褐色・黒の4色に制限)、黒バットに戻してプレーすることとなった。

中西太を師匠的存在とし、中西の座右の銘である「何苦楚」をブログのタイトルに引用している他、「(カージナルスに移籍した当初)くさらずにやってきた、あの姿勢は見習わなければならない。野球選手の原点」と同じく中西を師匠的存在としている田口壮にも尊敬を抱いている[62][63][64]

レイズの選手夫人たちに漢字の“勝利”の文字が背中に書かれたパーカーを着るように提案したことがあり、「彼の存在、プレー、人間性、そのすべてが、ある意味、レイズの心臓となっている」とも評されていた[65]

スポーツマンNo.1決定戦[編集]

  • 当時20歳の時に、『スポーツマンNo.1決定戦』(TBS)に参戦。初参戦で挑んだ第6回プロスポーツマン大会ではBEACH FLAGS 3位、DEAD MAN'S DROP 3位、POWER FORCE 3位の活躍を見せ、さらにSHOT-GUN-TOUCHでは初挑戦にして12m90cmを記録し、種目別No.1を獲得して総合3位入賞を果たす。
  • 第7回大会ではWORK OUT GUYS 5位、BEACH FLAGS 3位、TAIL IMPOSSIBLE 4位となるも、その他の種目で苦戦を強いられSHOT-GUN-TOUCH前まで暫定総合10位だったが、SHOT-GUN-TOUCHで13m10cmの自己記録更新を達成し、さらに順位も一気に暫定総合5位にまで押し上げ、最終的に総合5位入賞を果たす。
  • 最後の出場となった第8回大会ではBEACH FLAGS 準優勝、THIRTYとPOWER FORCEで3位、TAIL IMPOSSIBLE 5位と安定した活躍を見せ、SHOT-GUN-TOUCH前まで暫定総合4位だったが、SHOT-GUN-TOUCHで12m70cmを2度失敗してしまって記録12m50cmに終わったことと、当時初出場だったメジャーリーガーのマイク・キャメロンに逆転され、総合5位入賞に終わる。
  • BEACH FLAGSでは参加した全ての大会で準決勝以上の成績を収め、TAIL IMPOSSIBLEでも第3レースまで進出、また初挑戦だったPOWER FORCEでフランシスコ・フィリォと初戦で当たるもスピードでねじ伏せ勝利を収め、さらには参加した3大会全て総合6位以内に入賞している実力者である。
プロスポーツマン大会
大会 放送日 総合順位
第6回大会 2000年1月1日 3位
第7回大会 2001年1月1日 5位
第8回大会 2002年1月1日 5位

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1998 ヤクルト 1 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1999 83 273 252 28 74 11 4 11 126 35 7 1 0 2 18 2 1 46 2 .294 .342 .500 .842
2000 130 489 436 67 121 13 9 18 206 66 13 1 9 1 39 3 4 103 7 .278 .342 .472 .814
2001 136 564 520 79 149 24 4 18 235 81 15 6 5 4 32 5 3 111 6 .287 .329 .452 .781
2002 140 577 510 67 163 35 2 23 271 71 5 4 2 4 58 6 3 114 10 .320 .390 .531 .921
2003 60 258 232 43 61 6 2 12 107 35 5 1 2 1 22 3 1 55 3 .263 .328 .461 .789
2004 138 611 533 99 160 19 0 44 311 103 8 3 0 4 70 3 4 173 5 .300 .383 .583 .966
2005 144 618 548 83 175 31 4 30 304 102 6 3 0 5 63 2 2 146 2 .319 .388 .555 .943
2006 145 621 546 84 170 27 2 32 297 77 8 1 1 3 70 5 1 128 5 .311 .389 .544 .933
2007 TB 123 559 491 82 140 21 10 7 202 34 12 8 4 5 58 0 1 114 2 .285 .359 .411 .770
2008 152 707 627 91 172 30 9 6 238 48 8 6 3 3 70 3 4 131 2 .274 .349 .380 .729
2009 69 260 231 28 67 16 2 1 90 22 9 1 1 3 24 0 1 44 1 .290 .355 .390 .745
2010 PIT 54 189 165 18 30 6 1 2 44 9 3 1 1 1 26 0 0 31 3 .182 .292 .267 .559
OAK 10 36 31 3 4 1 0 0 5 4 0 0 0 0 5 0 0 10 0 .129 .250 .161 .411
'10計 64 225 196 21 34 7 1 2 49 13 3 1 1 1 31 0 0 41 3 .173 .285 .250 .535
2011 楽天 77 197 175 9 32 6 0 0 38 9 0 0 3 1 17 0 1 41 6 .183 .258 .217 .475
2012 26 79 67 9 14 6 0 1 23 5 0 0 0 1 11 0 0 10 0 .209 .316 .343 .660
2013 ヤクルト 75 159 142 11 35 4 0 3 48 17 0 0 0 2 15 0 0 48 0 .246 .314 .338 .652
2014 39 79 74 7 18 6 0 1 27 14 0 0 0 0 4 0 1 21 1 .243 .291 .365 .656
NPB:13年 1194 4528 4038 586 1172 188 27 193 1993 615 67 20 22 28 419 29 21 998 47 .290 .358 .494 .852
MLB:4年 408 1751 1545 222 413 74 22 16 579 117 32 16 9 12 183 3 6 330 8 .267 .345 .375 .720
  • 2014年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:4回 (2001年、2004年 - 2006年)
  • シーズン173三振(2004年) ※セ・リーグ記録
  • 1試合4打席連続二塁打:2014年6月14日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(札幌ドーム) ※日本プロ野球タイ記録で史上7人目(1試合4二塁打の記録は同様に日本プロ野球タイ記録で史上11人目)

背番号[編集]

  • 48 (1997年 - 2000年、2013年 - )
  • 1 (2001年 - 2009年、2010年途中 - 同年終了、2011年 - 2012年)
  • 3 (2010年 - 同年途中)

関連情報[編集]

テレビ出演[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ シーズン三振記録は1位から4位まではラルフ・ブライアントである[3]
  2. ^ OPS+、wRC+の1位は2008年の松井稼頭央である(OPS+が107、wRC+が109)が、その年は怪我等の影響で規定打席には僅かに未到達であり、規定打席到達者では2007年の岩村が1位である。

出典[編集]

  1. ^ 朝日新聞、1996年12月4日付朝刊 (29面)
  2. ^ 岩村 新ゾーンも大根斬りで”. 2002年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月28日閲覧。
  3. ^ 三振 【シーズン記録】 2014年4月19日閲覧。
  4. ^ イオン オールスターシリーズ2004 日米野球 チーム・個人成績(NPBオールスターチーム) 2014年1月8日閲覧。
  5. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、396頁。ISBN 978-4-331-51439-9
  6. ^ 岩村、永ちゃんパワーで200安打だ日刊スポーツ、2008年2月12日。
  7. ^ 岩村日本人左初グリーンモンスター越え弾日刊スポーツ、2008年5月5日。
  8. ^ 岩村参戦!首位攻防大乱闘殴り合い日刊スポーツ、2008年6月7日。
  9. ^ 岩村3試合出場停止処分、異議申し立ても日刊スポーツ、2008年6月8日。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]