進藤達哉
| 富山サンダーバーズ 監督 #36 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 富山県高岡市 |
| 生年月日 | 1970年1月14日(42歳) |
| 身長 体重 |
174cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 三塁手、遊撃手、二塁手 |
| プロ入り | 1987年 ドラフト外 |
| 初出場 | 1988年10月20日 |
| 最終出場 | 2003年10月12日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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進藤 達哉(しんどう たつや、1970年1月14日 - )は、富山県高岡市出身の元プロ野球選手(内野手)。
目次 |
[編集] 来歴
高岡商高時代はクリーンナップを務め、チームメイトには尾山敦がいた。第69回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦の対長崎商業戦は先制適時打[1]も放っている。3回戦は後にチームメイトとなる野村弘のいたPL学園と対戦したが敗退。非凡な守備を評価され、1987年にドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。
1988年に新人ながら初の一軍昇格(同学年で、大洋に同期入団した盛田幸妃と野村弘も、高卒新人で一軍昇格を果たした)。1989年からは控えとして一軍に定着し、1992年には高橋雅裕から遊撃手の定位置を奪い、レギュラーに定着。1994年に右肩を故障し、新人の波留敏夫にポジションを奪われる。シーズン終盤復帰。
1996年、新監督の大矢明彦内野コンバートで、3年連続ゴールデングラブ賞を受賞していた石井琢朗三塁手が遊撃手に、ロバート・ローズ二塁手が三塁手に、そして進藤が二塁手にコンバートされたが、二塁手となったことで送球が逆スローになった影響から背筋を痛め、ローズも三塁で失策を多発したため、ローズを二塁に戻し進藤が三塁になった。
1997年から1999年まで3連続でゴールデングラブ賞を獲得。1998年はチームが38年ぶりのリーグ優勝・日本一。これにはマシンガン打線の破壊力に加え、12球団でも随一と呼べた横浜の内野陣(進藤、石井、ローズ、駒田徳広)の守備も貢献度が大であった。進藤自身も2桁本塁打やリーグ優勝決定試合で勝利打点を叩き出すなど、攻守両面で活躍した。
1999年オフにはFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブ、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズが獲得に乗り出したが、二塁手としての起用を強く希望していた進藤に対し、オリックスはゴールデングラブを獲得した三塁手としての手腕を評価していたために交渉は破談。西武、ロッテも既に編成が終了していたこともあり一転して残留。これに伴い、横浜への移籍が最有力視されていた江藤智は読売ジャイアンツへと移籍することになった[2]。2000年は右足首の故障もあり、わずか59試合の出場、打率.224、2本塁打にとどまる。
2001年に戸叶尚・新井潔と共に、小川博文・杉本友・前田和之との3対3の交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。監督の仰木彬の期待の表れとして福本豊以降事実上の永久欠番であった背番号7番を福本承諾の上でつけた。2003年限りで現役引退。
2004年から監督の山下大輔に招聘され、古巣・横浜の内野守備コーチに就任。2007年限りで退任し、2008年より横浜のスカウトに転出。
2010年、出身地である富山県の富山サンダーバーズのコーチに就任。2012年、監督に昇格した[3]。
[編集] 人物
マシンガン打線の全盛期メンバーではあるが、その中にあって進藤の打率は.250に満たないシーズンがほとんどであり、「マシンガンの不発弾」などと揶揄されることも多かった。また、元々長打志向の進藤は、バントの自打球を顔面に当てて負傷退場するなど、小技も得意なタイプではなかった。しかし、サヨナラの場面や試合の流れを決めるような場面で殊勲打を放つことが稀にあり、いわゆる「意外性の打者」として存在感を示した。1998年のリーグ優勝を決めた、10月8日の対阪神戦(甲子園)での決勝タイムリーはその好例である。その打撃を買われ、1998年の優勝の年は波留の復帰まで2番を務めたこともある。
打撃力に反し、内野守備の技術は球団史上でも5本の指に入ると言われるほど非凡であった。一軍デビュー当時は同じ遊撃手として「山下大輔の再来」と言われ、山下と同じく「ファインプレーを普通のプレーに見せる」というような場面を何度も生んだ。背番号も、横浜時代は山下と同じ1番が与えられている。当初は遊撃手として試合に出ていたが、投手から転向された石井琢朗が急成長を見せて遊撃手のレギュラーを不動としてしまったため、三塁・二塁に回ることが多くなる(二塁は、三塁を守ることになったロバート・ローズが失策を連発して打撃の調子を落とすなど悪循環になったため急遽守備位置を交換することになり、三塁に戻ってそのまま固定となった)。現役後半は三塁を守ることが多かったが、そこでも華麗な守備は健在であった。打撃優先で外国人を入れる場面もあったが、結局進藤の守りは必要と元に戻ってしまう。オリックス時代には外野を守ったこともある。「遊撃手を守らせればもっと上手いんですよ」と野球解説者はことある毎に言っていた。
メディアのいる前では、あまり感情を表に出さない無愛想な印象が強い選手で、派手なガッツポーズは滅多に見せず、ヒーローインタビューなどでも口数少なく面倒そうな口調で受け答えをすることがほとんどであった。1998年の優勝時も「当たり前のことを当たり前にやっているだけ」とあしらった。しかし、当時の権藤博監督は「だから打撃の調子が悪くてもスタメンになれる」と言っていた。守りの野球を石井琢朗と共に支えた。広島の三村敏之監督も「進藤、石井をはじめとする確実に併殺を取れる内野が居ることが横浜の勝因」と舌を巻く程の安定ぶりだった。優勝した年の7月にクローザーの佐々木主浩の連続セーブが切れた翌試合に登板した時に、いきなり三遊間のヒット性の当たりを好捕してアウトにして助けている。試合のターニングポイントとなる併殺シーンでは石井、ローズと共に必ず進藤の名が出てきた。
対巨人戦ではよく打つことでも知られ、リーグ優勝を決めた1998年にはシーズン本塁打14本中の6本を放つなど、巨人戦だけは打率、打点ともチームトップであった。
横浜大洋ホエールズ最後と横浜ベイスターズ最初のサヨナラホームランを打っている。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988 | 大洋 横浜 |
1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | ---- | ---- | ---- |
| 1989 | 56 | 91 | 83 | 8 | 20 | 4 | 2 | 2 | 34 | 9 | 0 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 24 | 0 | .241 | .276 | .410 | .686 | |
| 1990 | 40 | 136 | 119 | 18 | 31 | 5 | 0 | 2 | 42 | 9 | 3 | 1 | 8 | 0 | 9 | 0 | 0 | 19 | 0 | .261 | .313 | .353 | .665 | |
| 1991 | 23 | 47 | 40 | 5 | 7 | 2 | 0 | 1 | 12 | 5 | 1 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 1 | 14 | 0 | .175 | .250 | .300 | .550 | |
| 1992 | 108 | 388 | 353 | 45 | 87 | 18 | 1 | 11 | 140 | 30 | 7 | 0 | 6 | 0 | 25 | 2 | 4 | 75 | 7 | .246 | .304 | .397 | .700 | |
| 1993 | 127 | 472 | 414 | 53 | 94 | 22 | 4 | 12 | 160 | 45 | 3 | 6 | 4 | 1 | 46 | 2 | 7 | 70 | 6 | .227 | .314 | .386 | .701 | |
| 1994 | 80 | 327 | 283 | 34 | 67 | 14 | 2 | 4 | 97 | 23 | 3 | 5 | 6 | 2 | 34 | 1 | 2 | 40 | 6 | .237 | .321 | .343 | .664 | |
| 1995 | 126 | 456 | 368 | 47 | 80 | 10 | 4 | 11 | 131 | 31 | 5 | 2 | 20 | 2 | 62 | 2 | 4 | 55 | 12 | .217 | .335 | .356 | .691 | |
| 1996 | 67 | 238 | 195 | 21 | 51 | 8 | 1 | 2 | 67 | 24 | 4 | 2 | 12 | 0 | 30 | 2 | 1 | 34 | 5 | .262 | .363 | .344 | .706 | |
| 1997 | 117 | 423 | 352 | 37 | 83 | 19 | 1 | 10 | 134 | 43 | 9 | 5 | 12 | 5 | 53 | 3 | 1 | 61 | 7 | .236 | .333 | .381 | .714 | |
| 1998 | 124 | 456 | 390 | 50 | 94 | 19 | 1 | 14 | 157 | 54 | 0 | 0 | 8 | 3 | 52 | 5 | 2 | 75 | 14 | .241 | .331 | .403 | .734 | |
| 1999 | 109 | 370 | 332 | 38 | 95 | 13 | 1 | 14 | 152 | 43 | 1 | 1 | 4 | 4 | 30 | 3 | 0 | 60 | 5 | .286 | .342 | .458 | .799 | |
| 2000 | 59 | 147 | 134 | 14 | 30 | 7 | 0 | 2 | 43 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 13 | 1 | 0 | 26 | 2 | .224 | .293 | .321 | .613 | |
| 2001 | オリックス | 115 | 342 | 302 | 40 | 73 | 17 | 0 | 9 | 117 | 40 | 0 | 2 | 3 | 1 | 35 | 1 | 1 | 65 | 4 | .242 | .322 | .387 | .709 |
| 2002 | 121 | 392 | 356 | 35 | 80 | 14 | 0 | 5 | 109 | 29 | 4 | 1 | 10 | 1 | 19 | 1 | 6 | 94 | 6 | .225 | .275 | .306 | .581 | |
| 2003 | 75 | 134 | 122 | 14 | 25 | 5 | 0 | 5 | 45 | 12 | 2 | 1 | 1 | 0 | 10 | 0 | 1 | 34 | 3 | .205 | .271 | .369 | .640 | |
| 通算:16年 | 1348 | 4419 | 3843 | 459 | 917 | 177 | 17 | 104 | 1440 | 412 | 42 | 26 | 100 | 19 | 425 | 23 | 30 | 746 | 77 | .239 | .318 | .375 | .693 | |
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
[編集] 表彰
- ゴールデングラブ賞:3回 (1997年 - 1999年)
[編集] 記録
- 初出場:1988年10月20日、対ヤクルトスワローズ24回戦(横浜スタジアム)、9回表に二塁手として出場
- 初安打:1989年5月12日、対中日ドラゴンズ5回戦(横浜スタジアム)、5回裏に山本昌から二塁打
- 初本塁打:1989年9月6日、対読売ジャイアンツ20回戦(横浜スタジアム)、5回裏に桑田真澄から
- 1000試合出場:2000年5月5日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤドーム)、7番・三塁手として先発出場 ※史上356人目
- 100本塁打:2003年4月29日、対大阪近鉄バファローズ5回戦(Yahoo!BBスタジアム)、7回裏に山本省吾から右越2ラン ※史上227人目
[編集] 背番号
- 36 (1988年 - 1992年)
- 1 (1993年 - 2000年)
- 7 (2001年 - 2003年)[4]
- 82 (2004年 - 2007年)
[編集] 脚注
- ^ 長打性の当たりだったが外野の好守で二塁憤死となり、記録は単打。
- ^ 【11月24日】1999年(平11) 進藤達哉、カレンダーから消えた…FA江藤智“話が違う”
- ^ 進藤監督就任のお知らせ - 2011年10月19日
- ^ 進藤と同い年の田口壮はオリックスに1991年ドラフト1位で入団時に、同年限りで二軍監督を退任した福本がつけた7を打診されたが辞退。オリックス球団は1995年オフには田口と同期入団のイチローにも同番号を打診したがイチローも辞退。谷佳知は1996年ドラフトでオリックスに指名され入団する際に同番号を希望したが球団が却下。進藤がつけるまで9年間空き番だった。
[編集] 関連項目
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