波留敏夫
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| 横浜ベイスターズ コーチ #71 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 京都市山科区 |
| 生年月日 | 1970年5月25日(39歳) |
| 身長 体重 |
174cm 75kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 外野手 |
| プロ入り | 1993年 ドラフト2位 |
| 初出場 | 1994年7月3日 |
| 最終出場 | 2004年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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波留 敏夫(はる としお、1970年5月25日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手。現在は横浜ベイスターズの外野守備走塁コーチ。現役時代は主に中堅手として活躍し、闘志を剥き出しにしたプレーには定評があった。ニックネームは「突貫小僧」「ハマの核弾頭」。
目次 |
[編集] 来歴・人物
- 1992年、第63回都市対抗野球大会で準優勝。
- 1994年、ドラフト2位で横浜に入団。入団当時は内野手で、怪我で戦線離脱した進藤達哉に代わり遊撃手のレギュラーとなった。進藤の復帰後は外野手にコンバートされ、1年目から53試合に出場。
- 1995年、「1番・中堅」が定位置となる。調子の波や相手先発投手の利き腕に合わせ、石井琢朗と入れ替わりで1、2番を打つ。
- 1997年、石井琢朗に代わって2番打者に定着。脱税事件への関与が発覚。
- 1998年、プロ野球脱税事件により開幕から6週間の出場停止処分を受けるも、復帰後は主に二番打者として横浜の38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。
- 1999年、打率.298 15本塁打 70打点の自己最高の成績を残す。
- 2000年、オフ、トレード要員となる。背番号を1に変更。
- 2001年、シーズン途中に種田仁と山田博士両選手とのトレードで中日に移籍。
- 2003年、酒井忠晴とのトレードでロッテに移籍。
- 2004年、オフ、戦力外通告を受け現役引退。
- 2005年、主にJ SPORTS、スカイA、テレビ神奈川の野球解説者として活動。また熊球クラブ(日本野球連盟クラブチーム)のメンバーでもあった。
- 2006年、横浜の守備走塁コーチに就任(主に外野を担当)。
- 2007年、田代富雄打撃コーチの2軍(湘南シーレックス)監督就任に伴い、打撃コーチに配置転換。
- 2009年、外野守備走塁コーチに配置転換。
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | 球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994年 | 横浜 | 2 | 53 | 168 | 26 | 50 | 12 | 2 | 3 | 75 | 10 | 7 | 3 | 1 | 0 | 13 | 5 | 33 | 1 | 2 | .298 |
| 1995年 | 100 | 378 | 59 | 117 | 14 | 2 | 5 | 150 | 29 | 9 | 8 | 7 | 2 | 43 | 4 | 55 | 3 | 2 | .310 | ||
| 1996年 | 114 | 332 | 32 | 88 | 14 | 2 | 2 | 112 | 21 | 4 | 5 | 12 | 0 | 24 | 5 | 57 | 4 | 1 | .265 | ||
| 1997年 | 127 | 502 | 89 | 148 | 22 | 3 | 8 | 200 | 41 | 16 | 8 | 23 | 1 | 34 | 13 | 68 | 7 | 3 | .295 | ||
| 1998年 | 106 | 428 | 69 | 117 | 23 | 1 | 2 | 148 | 39 | 12 | 2 | 11 | 4 | 39 | 5 | 57 | 5 | 1 | .273 | ||
| 1999年 | 130 | 568 | 95 | 169 | 31 | 5 | 15 | 255 | 70 | 21 | 5 | 14 | 1 | 21 | 5 | 80 | 11 | 8 | .298 | ||
| 2000年 | 60 | 219 | 30 | 66 | 14 | 0 | 8 | 104 | 17 | 3 | 4 | 1 | 1 | 13 | 3 | 31 | 10 | 2 | .301 | ||
| 2001年 | 1 | 13 | 21 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | .143 | |
| 中日 | 8 | 92 | 275 | 21 | 66 | 8 | 0 | 1 | 77 | 20 | 2 | 3 | 15 | 2 | 13 | 2 | 37 | 8 | 4 | .240 | |
| 2002年 | 39 | 87 | 5 | 19 | 5 | 0 | 0 | 24 | 7 | 0 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 16 | 2 | 0 | .218 | ||
| 2003年 | ロッテ | 50 | 111 | 15 | 22 | 4 | 0 | 0 | 26 | 5 | 1 | 1 | 10 | 2 | 19 | 2 | 22 | 6 | 1 | .198 | |
| 2004年 | 29 | 49 | 5 | 7 | 2 | 0 | 0 | 9 | 7 | 1 | 1 | 3 | 1 | 8 | 0 | 16 | 1 | 1 | .143 | ||
| 通算成績 | 913 | 3138 | 447 | 872 | 150 | 15 | 44 | 1184 | 266 | 76 | 40 | 103 | 14 | 231 | 44 | 476 | 58 | 25 | .278 | ||
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] 初記録
- 初出場:1994年7月3日 対中日戦(横浜スタジアム)
- 初安打:1994年7月13日 対阪神戦・中西清起投手から(横浜スタジアム)
- 初本塁打:1994年8月30日 対広島戦・紀藤真琴投手から(広島市民球場)
[編集] エピソード
- 現役時代
- 守備には定評があり、時々見せる派手なダイビングキャッチはファンの喝采を浴びた。本人も横浜時代、一番欲しいタイトルはゴールデングラブ賞だと明言していたほどである。しかし、当時は守備の名手として知られていた飯田哲也や新庄剛志、広島の前田智徳に緒方孝市、はたまたルーキー時代から高い守備力を見せた高橋由伸などが立ちはだかったため、ずっと受賞候補に挙がるのみであった。
- 外野手ながらライナー性打球にも頭からヘッドスライディングで捕球に行くといった闘志を表しており、“突貫小僧”と言われる所以でもあった。
- 横浜監督の権藤博からは"動物"と呼ばれた。その理由は闘志が上がったら手のつけられないプレーをするが、気が抜けたときはあっさり凡退するとのこと。
- 横浜時代、同じ関西出身である佐伯貴弘とともにオフシーズンには「チームの顔」的役割を果たした。
- 日本一を経験した1998年には優勝後のビールかけに社会人時代に愛用していた熊谷組のヘルメットを着用して、ちょうど経営不振に陥いり債権放棄問題に揺れていた同企業に対し「がんばれ!熊谷組」と連呼していて、38年ぶりの優勝だったことから、また38年後に会いましょうと語っていた。
- 2001年に中日ドラゴンズへのトレードが決まった際、「逆指名で横浜に入団、このまま横浜で終わりたかった」と発言し、号泣した姿は有名。トレード直後の試合では、ドラゴンズ仕様のスパイクが間に合わなかったため、ベイスターズ時代に使用していたスパイクに青マジックで色を塗り、試合に出場した。
- ロッテ移籍時、童謡・「春が来た」を応援歌として採用し、オープン戦でも使われたが、波留本人が激怒したため使用中止になったことがある。
- 現役時代に帽子のつばに春と塩(はるとしお)と書いていた。
- ラッキーカラーは赤。現役時代のリストバンドは深紅で、漲る闘志を表していたと言う。
- 引退後
- 2005年現役引退後は各放送局の解説者を務めるが、その大半は新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスのホームゲームを徹底中継したスカイ・Aでの解説で、新人らしからぬなかなか堂に入った解説ぶりであった。また後述のようにラッキーカラーは赤であるが、このスカイAの東北楽天ゴールデンイーグルスのホーム初中継(2005年4月1日の西武戦でフルキャストスタジアム宮城の柿落としの試合)の試合解説担当であったが、ネクタイ色は深紅で本人曰く「僕はここ一番という時は赤いものを身に付ける傾向があり、今日の解説デビューに合わせてこのネクタイですよ」という説明があった。
- 2005年8月に放送のテレビ東京「元祖!でぶや」頑張れ横浜ベイスターズ編において、鶴見の沖縄県出身者野球チームとの「ヒットを打ったらゴーヤをGET」という企画で、石塚英彦の”ドラえもんのポケット”で「ハルトシオ」として登場。見事にセンター前ヒットをしゴーヤを手に入れたが、それに増してバラエティのセンスがあると石塚とパパイヤ鈴木に絶賛されていた。
- 2006年、古巣横浜のコーチとして交流戦で楽天戦に臨んだフルキャストスタジアム宮城は、波留にとって昨年のメイン職場であると言っても過言で無い程スカイ・Aでの解説で通いつめた場所だけに、同放送の実況担当アナウンサーやベンチレポーターの平方恭子らとの再会を楽しんでいて、オフにはゴルフコンペの開催の約束をしていたという。
[編集] 背番号
- 2 (1994年 - 2000年)
- 1 (2001年 - 2001年途中)
- 8 (2001年途中 - 2004年)
- 71 (2006年 - )
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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