谷繁元信

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谷繁 元信
中日ドラゴンズ #27
CD-Motonobu-Tanishige-2.jpg
2009年7月16日(阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県比婆郡東城町(現:庄原市
生年月日 1970年12月21日(41歳)
身長
体重
177cm
81kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年4月11日
年俸 1億8,000万円(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
WBC 2006年

谷繁 元信(たにしげ もとのぶ、1970年(昭和45年)12月21日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手捕手)。

愛称は「シゲ」。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

中国山地の奥深い広島県比婆郡東城町(現・庄原市)の出身。野球好きの父の影響で小学校2年生のときに地元の少年野球チームに入り野球を始める。子どもの頃は巨人ファンで原辰徳に憧れていた。高校は島根県江津市の江の川高等学校(現・石見智翠館高等学校)に進学する。元々は投手として入部するも練習試合でよく打たれ、1ヶ月後には監督に捕手転向を命じられる。谷繁曰く「監督が怖くて逆らえなかった」[1]とのこと。

夏の甲子園に2度出場。特に1988年夏には島根県予選で、5試合全てで本塁打の計7本を放ち甲子園大会でもベスト8に進出。強打の捕手として高校通算本塁打42本の記録をマークし、江藤智と共に「東の江藤、西の谷繁」と呼ばれた。

1988年ドラフト会議横浜大洋ホエールズから1位指名を受け入団。期待の意味を込めて山下大輔の後の背番号1が与えられる。

[編集] 大洋・横浜時代

入団当初はリードの覚えが悪く、いつまでもオムツの赤ちゃんという意味で「パンパース」というあだ名を付けられていた。

古葉竹識監督に抜擢され、プロ1年目から1軍戦に出場。下関球場で行われたオープン戦で読売ジャイアンツ斎藤雅樹から本塁打を放つなど打撃を買われ、20世紀最後の開幕一軍入りの高卒新人捕手となった。公式戦初打席で初安打を放つなど期待されたが、出場80試合、打率.175、3本塁打、10打点という成績に終わった。

1990年須藤豊が監督に就任すると、西武ライオンズから獲得した秋元宏作と併用され、前年まで正捕手だった市川和正を第3捕手へと追いやった。しかし、リードも打撃も向上しなかったため、1992年に須藤が休養し江尻亮ヘッドコーチが監督に昇格すると、一時出場機会を剥奪された。

横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズへ球団名が変わるのを機に、捕手だと1という数字が防具に隠れて見えないという理由から背番号を1から8に変更。近藤昭仁が監督に、大矢明彦がバッテリーコーチに就任すると、大矢の指導でリードを含めた守備が成長し、それに伴って打撃面も向上し正捕手の座を獲得。大矢が監督に昇格した1996年1997年は、2年連続で開幕投手盛田幸希と先発バッテリーを組む(1997年開幕戦ナゴヤドーム初の公式戦)。

1998年、攻守の要としてチームの日本一に大きく貢献。ゴールデングラブ賞と、抑えの佐々木主浩と共に最優秀バッテリー賞を受賞。

2001年には自己最多のシーズン20本塁打を打ち、その年のオフにFA宣言を行う。当初はメジャーリーグへの移籍を目指していたが、条件面等で折り合わず、中日ドラゴンズへ移籍。横浜は補償として金銭を選択するが、当時正捕手であった中村武志(現中日二軍バッテリーコーチ)が出場機会を求めトレード志願し、横浜へ金銭トレードで移籍。結果的に正捕手同士の“交換トレード”という形となった

[編集] 中日時代

2008年6月25日

移籍1年目の2002年は自己最多となる24本塁打を打つ。2003年オフに落合博満が監督に就任。正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22という落合監督の持論により、背番号を7から27に変更。2004年は不動の正捕手として攻守ともにチームを牽引し、リーグ優勝に貢献。川上憲伸と共に2度目の最優秀バッテリー賞を受賞。日本シリーズ第3戦で逆転満塁本塁打を放つ。

2006年にはWBC日本代表に選ばれ、2次リーグのアメリカ戦ではスタメンマスクを被った。7月26日の対阪神タイガース戦で捕手としては史上4人目の通算2000試合出場を達成。打率、安打数、塁打数、盗塁数は規定打席に達している選手の中でリーグ最少を記録。8年ぶりにゴールデングラブ賞と、2年ぶりに川上と共に最優秀バッテリー賞を受賞。

2007年8月8日の対広島東洋カープ戦でプロ野球47人目となる通算300二塁打達成。8月10日の対巨人戦で、更新中だった捕手の連続守備機会無失策のプロ野球記録が1708で止まった。打率、得点、安打数、三塁打、塁打数、盗塁数では規定打席に達している中でリーグ最少を記録。前年に続き、ゴールデングラブ賞を受賞。同僚の川上も2年連続で受賞しており、同一チームの同一バッテリーによる2年連続受賞はセ・リーグ初。53年ぶりの日本一にも大きく貢献した。

2008年は6月に右脇腹痛で登録を抹消され、移籍後初めて二軍戦に出場するなど不本意なシーズンとなった。また2004年に痛めた腰の状態も悪く、この頃には毎日ずっと足がしびれている状態となっていた。腰椎(ようつい)の椎間狭窄(きょうさく)症で、この年のオフに腰の骨の一部を削る手術を受けた。なお、翌年の夏ごろまでは手術の痛みが残り必ずしも思うようには動けなかった。(2008年12月26日スポーツニッポン、2011年8月2日中日スポーツより)。

2009年、開幕直後の右ふくらはぎのけがで約1カ月間欠場。7月5日の対阪神戦で捕手として野村克也に続く歴代2位の通算2328試合出場を達成。9月1日、通算200号本塁打と200犠打を達成(両方を達成したのは史上3人目)。9月にプロ野球史上初の4度目のFA権を取得。21年目で自身初の守備率10割(失策なし)を達成し、ゴールデングラブ賞を受賞。

2010年7月28日に捕手では野村克也以来の2500試合出場達成。プロ野球史上では8人目。休養や細かな怪我での欠場はあったものの、シーズンを通して登録を抹消されず、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

2011年6月4日対西武戦の5回の守備の際、高山久とのクロスプレーで左ひざ内側側副靭帯を損傷し約2カ月間登録抹消。谷繁不在の間、チームは15勝21敗1分けと大きく負け越したが、谷繁はその間リハビリと上半身のトレーニングに懸命に取り組み、7月29日に一軍復帰した後は打率.301、打点23と打撃面でも活躍して不在の穴を埋めた。9月末には球団記録にあと1つに迫る10試合連続打点もマークするなど、ペナントレース終盤の逆転優勝劇に大きく貢献し、2年ぶりのゴールデングラブ賞と、吉見一起と共に5年ぶりに最優秀バッテリー賞を受賞。8月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では、プロ23年目、通算2594試合目にしてプロ入り初めて一塁手としてスタメン出場をした。なお、一塁手に限らず公式戦で捕手以外の守備に就いたのも初めてである。

しかし、ポストシーズンでは一転不振に陥る。ヤクルトとのCSファイナルステージでは全試合にスタメン出場するも無安打に終わる。続く福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも全試合にスタメン出場したが無安打は続き、11月20日の第7戦で3回の第1打席で三振を喫した時点で1989年近鉄バファローズ大石第二朗以来となる21打数連続無安打のシリーズワースト記録と並んだ。続く5回の第2打席も三振し、シリーズワースト記録を更新。8回の第3打席も三振に倒れ、最終的には23打数まで伸ばし、CSファイナルステージ第1戦の第1打席から43打席連続無安打を喫したことになった。

[編集] 選手としての特徴

[編集] 打撃

1996年に一度だけ打率3割に到達したことがあるが、セ・リーグ規定打席到達者中最低打率を4回記録している。しかし2桁本塁打を8度記録するなど長打力があり、次打者が投手であることが多い8番を打つことが多いことから四球故意四球が多く、打率よりも1割以上高い出塁率を記録したシーズンが7度あるほか、2011年終了時点で現役最多の故意四球を受けている。一方、送りバントも得意としており、大半は一塁方向に打球を転がす[要出典]

また、打順は基本的に8番もしくは7番であるが、中日移籍後は主力打者の離脱時に5番や6番で起用される試合も増えた。2004年や2006年に福留孝介が離脱すると、高い出塁率と得点圏打率を見込まれ、3番で起用されたこともあった。また、2004年の日本シリーズでも福留を欠いた打線の中で2戦目以降の全6試合で6番で起用された。

[編集] 守備

捕手としては小柄な体格だが、ゴールデングラブ賞を5度、最優秀バッテリー賞を4度受賞している。特に捕球と盗塁阻止に優れ、盗塁阻止率リーグ1位を5度獲得している。投手に相手打者の弱点を徹底的に突かせる攻撃的なリードをする[要出典]ささやき戦術の使い手でもあり、阪神タイガース新井貴浩によると「初球を見逃すと『初球打つ気ありませんでしたよね』と聞いてくる」という[要出典]

ノーヒットノーラン達成に現役通算で2度立ち会っている。2002年8月1日の巨人戦(東京ドーム)で川上憲伸を、2006年9月16日には阪神との首位攻防戦となった試合(ナゴヤドーム)で山本昌をリードして記録達成を助けた。また2007年の日本シリーズにおいては、日本ハムを相手に中日の3勝1敗で迎えた11月1日の第5戦(ナゴヤドーム)で、先発の山井大介が8回、抑えの岩瀬仁紀が1回を投げて、公式戦・ポストシーズンを通じて日本プロ野球史上初継投による完全試合(ただしNPBでは継投による完全試合達成は記録としては扱われない)を達成し、53年ぶりの日本一を飾った。

先発投手によってはスタメンから外れることも稀にある。2003年には野口茂樹が先発時は柳沢裕一が起用され、その後山本昌(2006年から起用されるが2008年頃から小田の不調により谷繁が起用。2010年は全て小田)やエンジェルベルト・ソトが先発のときは小田幸平朝倉健太の時は小山桂司が起用される。休養のために先発を外れることもあり、落合監督も「谷繁は全試合出場は不可能」と言っており、「その時に若いのを育てる」と公言している。また、落合監督が最も恐れていることが谷繁の故障であり、年齢のことも配慮した起用が行われている(事実、2009年の中日は開幕から好調だったが4月末に谷繁が故障してからは思うように勝てなくなってしまった。2011年も交流戦中に故障し、8月にスタメンに復帰するまでは同様にチームの勝ち星が伸び悩んだ)。

[編集] 人物

  • 所属した球団で最初に付けた背番号(横浜大洋=1・中日=7)を、いずれも監督交代時に新たに就任した監督(横浜=近藤昭仁・中日=落合博満)から「捕手のイメージに合わない」という理由で変更されている。このため、球団名が「横浜ベイスターズ」になってからの1番のユニフォームは、1992年秋の球団名発表後の秋季練習でしか着用しなかった。ちなみに、就任時の近藤監督は現役時代に1番を付けており、彼の指名により進藤達哉内野手に与えられた(一説によると1番だと防具で背番号が隠れてしまうから8番に変更したとも言われている)。この時は、近藤の後に1番を付けていた山下大輔も守備走塁コーチに就任していた。また、中日での背番号7も巨人から移籍した内野手の川相昌弘が付けている(落合監督は捕手が1桁の背番号を付けることに否定的だった)。理由として1桁の背番号の場合、キャッチャーのプロテクターで背番号が隠れてしまったり、割れてしまうことがあまり縁起がよいものではないとしている。
  • サザンオールスターズの大ファンであることを公言している。ナゴヤドームでの登場曲も中日入団以来一貫してサザンの『HOTEL PACIFIC』を使用している(2009年・2010年は偶数打席のみ。奇数打席はFabolousの『Everything,Everyday,Everywhere』)。春季キャンプ中には日課として毎朝ホテルの自室でサザンの音楽を大音量で流していると、CBCテレビの番組で発言している。
  • 2000年にテレビ番組の企画で行われた横浜ベイスターズ選手によるスプレーヒッターで、佐伯貴弘から「オマエぐらいやぞ。高校の入試で0点とったん」と言われたが、この時の佐伯は冗談交じりでギャグばかりを飛ばしていたため、スプレーヒッターの完全達成を狙う谷繁を邪魔するために発言したものと思われるため、これが事実かは不明である。
  • 負けず嫌いな性格で、中日アラフォー鍋パーティーという企画で落合英二から「2009年に日本一になったジャイアンツは強かったですか?」と問われ「強いって思いたくないし、負けないチームだったなって思いました」と答えている。同席していた和田一浩は「僕は強いと思いました」と言うと「強かったけど、強いと思った時点で負けなんですよ。喧嘩でもそうじゃないですか。相手を強いと思ったら負けなんです」と答え、和田に「こういうとこ性格出るなぁ」とツッコまれた。
  • CBCテレビで放送された「がんばれドラゴンズ2011」の早押しクイズによると、好きな食べ物は目玉焼きで、嫌いな食べ物はナマコである。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 大洋
横浜
80 171 154 9 27 2 2 3 42 10 0 0 1 1 13 3 2 43 4 .175 .247 .273 .520
1990 75 182 154 8 27 7 0 3 43 16 2 0 8 1 17 3 2 36 4 .175 .264 .279 .544
1991 82 221 186 24 44 9 3 5 74 24 5 1 8 2 20 2 5 39 8 .237 .324 .398 .722
1992 74 186 162 16 31 9 0 2 46 9 0 0 4 0 18 5 2 34 2 .191 .280 .284 .564
1993 114 343 290 22 68 10 2 4 94 26 3 0 7 0 40 8 6 74 6 .234 .339 .324 .663
1994 129 415 359 29 82 19 2 5 120 36 0 1 8 1 42 5 5 94 8 .228 .317 .334 .651
1995 93 203 181 16 45 7 1 6 72 21 1 0 5 0 17 2 0 39 2 .249 .313 .398 .711
1996 127 456 380 36 114 25 3 8 169 54 2 3 14 3 53 7 6 70 10 .300 .391 .445 .836
1997 128 489 397 42 92 19 2 13 154 46 2 1 25 3 61 9 3 71 14 .232 .336 .388 .724
1998 134 538 461 50 117 23 1 14 184 55 1 2 6 4 62 7 5 83 13 .254 .346 .399 .745
1999 122 491 427 55 126 23 0 11 182 51 0 1 7 5 46 13 6 45 16 .295 .368 .426 .794
2000 122 493 446 35 112 21 0 9 160 44 0 0 3 1 41 6 2 91 20 .251 .316 .359 .675
2001 137 532 447 54 117 19 2 20 200 70 4 2 9 1 65 8 10 107 6 .262 .367 .447 .815
2002 中日 130 515 446 53 96 21 0 24 189 78 4 0 10 2 49 8 8 116 8 .215 .303 .424 .727
2003 112 426 367 48 97 20 1 18 173 69 3 2 8 4 42 2 5 90 11 .264 .344 .471 .816
2004 121 472 408 47 106 11 0 18 171 68 1 0 11 6 42 7 5 92 10 .260 .332 .419 .751
2005 141 537 449 58 105 22 0 14 169 65 3 2 8 6 69 5 5 106 10 .234 .338 .376 .715
2006 141 520 428 48 100 22 1 9 151 38 0 0 13 3 71 16 5 102 12 .234 .347 .353 .700
2007 134 474 382 33 90 15 0 6 123 44 0 1 19 5 62 15 6 85 10 .236 .347 .322 .669
2008 113 384 329 27 77 18 0 2 101 27 0 1 9 1 39 4 6 45 9 .234 .325 .307 .632
2009 115 369 298 32 62 7 0 9 96 33 0 0 19 4 44 8 3 62 9 .208 .312 .322 .634
2010 110 367 308 23 75 15 0 7 111 32 0 1 11 1 42 4 5 81 5 .244 .343 .360 .703
2011 102 330 277 26 71 10 0 6 99 31 0 0 12 1 38 5 2 51 5 .256 .349 .357 .706
通算:23年 2636 9114 7736 791 1881 354 20 216 2923 947 31 18 225 55 993 152 104 1656 202 .243 .335 .378 .713
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年(平成5年)に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

[編集] 年度別守備成績

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捕手 一塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1989 75 296 38 5 3 5 .985 50 32 18 .360 -
1990 73 344 33 2 1 2 .995 42 25 17 .405 -
1991 79 416 41 4 6 8 .991 53 31 22 .415 -
1992 69 356 32 2 3 2 .995 37 26 11 .297 -
1993 109 667 64 3 14 3 .996 46 30 16 .348 -
1994 127 809 64 6 12 4 .993 76 46 30 .395 -
1995 92 390 40 2 6 1 .995 51 32 19 .373 -
1996 125 858 83 10 15 4 .989 101 59 42 .416 -
1997 128 1003 74 5 10 7 .995 70 47 23 .329 -
1998 133 899 93 5 18 4 .995 92 55 37 .402 -
1999 122 806 82 4 8 5 .996 95 58 37 .389 -
2000 122 871 79 3 15 2 .997 79 52 27 .342 -
2001 137 828 109 3 20 3 .997 81 37 44 .543 -
2002 129 971 73 6 25 7 .994 58 30 28 .483 -
2003 110 770 42 2 6 7 .998 48 33 15 .313 -
2004 120 887 49 2 14 9 .998 45 28 17 .378 -
2005 140 1014 65 2 14 6 .998 55 31 24 .436 -
2006 138 1006 79 1 10 3 .999 57 34 23 .404 -
2007 133 908 58 3 12 9 .997 57 34 23 .404 -
2008 113 737 51 3 10 3 .996 64 43 21 .328 -
2009 114 689 64 0 11 7 1.000 .321 -
2010 109 639 61 6 8 4 .992 .365 -
2011 100 524 48 1 9 1 .998 .270 1 5 0 0 1 1.000
通算 2597 16688 1422 80 250 106 .996 1 5 0 0 1 1.000
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合:1998年8月25日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上347人目(飯田哲也と同日達成)
  • 100本塁打:2001年10月3日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、2回表に高橋建から右越2ラン ※史上217人目
  • 1000本安打:2001年10月9日、対中日ドラゴンズ27回戦(横浜スタジアム)、3回裏に朝倉健太から中前安打 ※史上208人目
  • 1500試合:2002年8月1日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)、8番・捕手として先発出場 ※史上137人目
  • 1000三振:2003年8月6日、対広島東洋カープ19回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に高橋建から ※史上34人目
  • 150本塁打:2004年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(広島市民球場)、5回表に高橋建から左越2ラン ※史上136人目
  • 2000試合:2006年7月26日、対阪神タイガース9回戦(ナゴヤドーム)、7番・捕手として先発出場 ※史上36人目
  • 1500本安打:2006年10月9日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、4回表に石川雅規から右中適時二塁打 ※史上90人目
  • 1500三振:2009年8月14日、対東京ヤクルトスワローズ16回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に村中恭兵から ※史上7人目
  • 200本塁打:2009年9月1日、対広島東洋カープ19回戦(浜松球場)、3回裏に今井啓介から左越ソロ ※史上94人目
  • 200犠打:同上、7回裏に青木勇人から ※史上29人目(200本塁打と200犠打を両方達成したのは石毛宏典高木守道以来、史上3人目)。
  • 2500試合:2010年7月28日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、7番・捕手として先発出場 ※史上9人目
  • 100死球:同上、11回表に山口鉄也から ※史上15人目
  • 350二塁打:2011年9月19日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、5回表に野間口貴彦から左線適時二塁打 ※史上32人目
その他の記録
  • 連続守備機会無失策:1708(2006年4月4日~2007年8月10日) ※セ・リーグ歴代2位
  • オールスターゲーム出場:9回 (1993年、1997年 - 2002年、2005年、2007年)

[編集] 登場曲

[編集] 背番号

  • 1 (1989年 - 1992年)
  • 8 (1993年 - 2001年)
  • 7 (2002年 - 2003年)
  • 27 (2004年 - )

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ テレビ朝日「NANDA!?」より
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