衣笠祥雄

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衣笠 祥雄
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市東山区
生年月日 1947年1月18日(65歳)
身長
体重
175cm
73kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1965年
初出場 1965年5月16日
最終出場 1987年10月22日
経歴(括弧内は在籍年)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1996年
選出方法 競技者表彰

衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - )は、京都府京都市東山区出身の元プロ野球選手内野手)。現在は野球解説者。愛称は「鉄人」。

目次

[編集] 経歴

洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した。1964年平安高校3年時、春のセンバツ夏の甲子園捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。

1965年広島カープに入団。白石勝巳監督の方針で内野手に転向し、1968年から一塁手として一軍レギュラーに定着。1975年にはジョー・ルーツ監督により、三塁手コンバートされる。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセ・リーグ制覇に大きく貢献した。特に、オールスターゲームにおける山本との二打席連続アベック本塁打は、現在でもオールスター屈指の名場面として語り草になっている。

その後も赤ヘルの主砲として、1976年盗塁王1983年8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成、1984年には打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日本シリーズ制覇に伴ってMVPにも輝いた。1970年代後半から80年代の広島黄金時代を築き上げる原動力となった選手の一人である。

赤ヘル時代以前につけていた背番号28から、『鉄人』(横山光輝漫画鉄人28号』より)の愛称で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも飛び抜けて体が頑丈であった。負傷しても休まず試合に出場することも多く、大相撲の幕内力士青葉城とその頑丈さを並び賞されたこともある。1970年10月19日の対読売ジャイアンツ戦から始まった連続試合出場記録は、1979年におけるスタメン落ちの為に、連続フルイニング出場こそ断念させられた(後述、エピソードを参照)ものの、1987年6月13日の対中日ドラゴンズ戦で2131試合に到達[1]。それまでルー・ゲーリッグニューヨーク・ヤンキース)が保持していた世界記録を更新し、以降10月22日の現役引退まで2215試合連続出場を果たした。同年、国民栄誉賞を授与される。その功績を讃え、衣笠のつけていた背番号3」はカープの永久欠番となっている。

同時代のチームメイトに山本浩二という強打者がおり、引退後も「鉄人」のイメージが付きまとっているためか、今では連続試合出場記録以外の話題を採り上げられることは少ないが、長期に亘って安定した打撃成績を残し、通算安打2543本(歴代5位で福本豊と同数)、通算本塁打504本(歴代7位で張本勲と同数)、通算打点1448(歴代10位)、通算得点1372(歴代5位)を記録している。また、1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠の「YK砲」は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の長嶋ON砲)の106本に次ぐ史上2位である。

現在はTBS野球解説者朝日新聞嘱託で運動面のコラムを受け持つ他、日本テレビ系「午後は○○おもいッきりテレビ」のゲストコメンテーターとしてテレビ出演もしていた。ジャズにも造詣が深く、また、ソニーPCVAIOのユーザーであり、「VAIO OWNERS:達人の選択」でVAIO愛好家としても紹介されている。

現役時代から引退後も広島県呉市にある味噌メーカー「ますやみそ」のCMキャラクターを務めていた。また、現役晩年にはアートネイチャーのCMにも登場していた。

1996年野球殿堂入り。

在日米軍人であったアフリカ系アメリカ人日本人とのハーフである。長男・友章は俳優として活躍している。

[編集] エピソード

衣笠祥雄 連続試合出場記録 石碑(広島市中区広島市民球場敷地内)
  • 「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された。
  • 1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという。
  • 1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた。関根は怒りもせずに「さあやるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた(但し関根は2008年9月27日フジテレビ739プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている)。後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃はボクも若かった」と照れ笑いを浮かべていた。
  • 現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割を超えたことがたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録で現在は3位、セ・リーグ記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。ただし、現在の三振数歴代1位(1955個)の清原和博が実働23年で9回100三振以上のシーズンがあったのに対し、衣笠は1回もなく(最多は80、82、83年の89個)、三振数がリーグ最多となったのも70年(81個)の1回しかない(清原は3回)。
  • シーズン打率3割到達経験なしの通算2000本安打達成者は柴田勲田中幸雄の2名のみだが、2000本安打達成時点であれば衣笠も含まれる。唯一の3割到達シーズンが2000本安打達成後であるため。
  • 打点王と盗塁王のタイトル獲得経験がある、数少ない選手である(他の該当者は飯田徳治イチローの2人のみ)。
  • 阪神タイガース江本孟紀は、現役時代の衣笠について「打者の目の高さに投げた明らかなボール球にもフルスイングする。当たれば確実に本塁打になるだけに、全く気が抜けなかった」と語っている。また江本は、衣笠から自身通算1000個目となる三振を奪っているが、偶然にもそれは、衣笠自身にとっても通算1000個目となる三振であった。
  • 1979年8月1日読売ジャイアンツ戦、西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。しかし翌日の試合にも代打で出場し、江川卓のボールにフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。
  • チームメイトだった江夏豊とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた。江夏が日本ハムファイターズに移籍した1980年オフのキャンプでは、が入ると「豊がいない」と泣いていたという。また「江夏の21球」で知られる1979年の日本シリーズ第7戦では、古葉竹識監督の投手起用に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめる一幕もある。
  • 連続試合出場の世界記録を更新した時、「いつか、誰かにこの記録を破ってほしい。この記録の偉大さが本当にわかるのは、その人だけだろうから」との言葉を残した。衣笠の記録はアメリカでも非常に高く評価されており、現在でも「キヌガサ」は、アメリカで最も名前の知られている日本人野球選手の一人である。1996年6月14日カル・リプケンJr.オリオールズ)が記録を更新した試合にも、来賓としてアメリカに招かれた。また、人間国宝藤原雄と親しく、上記の試合のとき藤原が作った備前焼をリプケンに手渡している。
  • 一方、衣笠の世界記録更新の前後には、「記録作りのために出場しているだけ」「監督・コーチの温情」と批判する野球ファンも少なからず存在した。1986年以降は思うように成績が振るわなかった(試合にフル出場せず、中盤で交代することも多かった)ことと、1979年、当時三宅秀史が持っていた700試合連続フルイニング出場の記録にあと22試合まで迫りながら、極度のスランプのためスタメンから外されたことがあるという前例が、そのような批判の根拠である。江夏豊の著書によると、この時スタメンを外されることが決定した衣笠の荒れようは凄まじいものがあったという。
  • 広島市民球場の敷地内には、連続出場記録を記念した碑がある。
  • 長崎県長崎市布巻町(旧・三和町)の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。
  • 名球会主催の野球教室に、当時小学生のイチローが父子で参加した際、イチローについて父親に「お父さん、この子いいですよ。大事に育ててあげてください」と答えたという。しかし後年、この件をラジオの解説時にアナウンサーに聞かれた時は「あの時はみんなにそう言っていたからねえ。憶えてないです」と答えていた。
  • 通算被死球161は日本プロ野球史上3位だが、非常に振る舞いが紳士的であった。どんなに危険で痛い死球を受けても怒るどころか、左手で「いいよ、大丈夫だから」と逆に相手投手を気遣いながら1塁へ向かっていた。
  • NHK特集で放送された『17年間休まなかった男 衣笠祥雄の野球人生』で自宅で夫人と共にインタビューを受けた際、自宅では一般紙は読むがスポーツ紙を読まなかった(ちなみに新聞販売店のスポーツ紙の勧誘も断っていた事を夫人が明かしていた)。理由はスポーツ新聞によって野球に追っかけられている気がするためである。また、一般紙だとスポーツ欄がわずかで政治・経済などを知ることが出来るから野球を連想させる事が無く考えずに済むからだという。食事に関して、衣笠本人も苦労するほどの偏食(この時にご飯が食べられない事)である事を明かしていた。現役引退後、ある年のキャンプ取材にたまたま来ていたとんねるず石橋貴明と一緒に焼肉屋に行った際も肉ばかり食べていたエピソードを『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で石橋本人が発言していた。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1965 広島 28 46 44 3 7 1 0 1 11 2 0 0 1 0 0 0 1 4 1 .159 .178 .250 .428
1966 32 40 34 3 5 3 1 0 10 2 1 0 0 0 4 0 2 9 1 .147 .275 .294 .569
1967 28 52 48 6 12 2 0 2 20 5 1 1 0 0 3 0 1 13 2 .250 .308 .417 .724
1968 127 463 395 52 109 19 2 21 195 58 11 4 1 2 54 0 11 76 11 .276 .377 .494 .872
1969 126 485 428 43 107 12 0 15 164 46 32 15 5 1 40 1 11 73 17 .250 .330 .383 .713
1970 126 459 406 44 102 10 3 19 175 57 13 5 2 1 42 3 8 81 14 .251 .333 .431 .764
1971 130 543 460 72 131 18 2 27 234 82 12 11 2 2 64 3 15 71 10 .285 .390 .509 .898
1972 130 565 498 67 147 18 1 29 254 99 12 7 0 6 49 5 12 77 16 .295 .372 .510 .882
1973 130 529 454 52 94 12 1 19 165 53 6 3 4 3 65 6 3 73 17 .207 .310 .363 .674
1974 130 529 471 72 119 10 1 32 227 86 7 5 0 4 48 2 6 78 14 .253 .330 .482 .811
1975 130 532 479 66 132 22 1 21 219 71 18 4 0 4 44 2 5 61 21 .276 .343 .457 .800
1976 130 569 522 82 156 26 2 26 264 69 31 14 5 1 31 2 10 84 19 .299 .350 .506 .856
1977 130 582 514 88 136 22 2 25 237 67 28 15 8 1 53 1 6 81 11 .265 .340 .461 .801
1978 130 547 461 81 123 18 1 30 233 87 9 13 2 4 69 8 11 83 14 .267 .375 .505 .881
1979 130 478 410 82 114 21 2 20 199 57 15 4 4 0 55 4 9 72 9 .278 .376 .485 .861
1980 130 549 489 79 144 20 0 31 257 85 16 6 6 2 42 2 10 89 6 .294 .362 .526 .888
1981 130 553 495 82 134 23 2 30 251 72 7 7 8 2 40 3 8 83 16 .271 .335 .507 .842
1982 130 551 483 74 135 22 0 29 244 74 12 2 12 2 44 0 10 89 10 .280 .352 .505 .857
1983 130 557 496 86 145 25 1 27 253 84 8 4 6 2 49 4 4 89 10 .292 .361 .510 .871
1984 130 542 490 79 161 25 1 31 281 102 11 1 6 7 34 2 5 83 13 .329 .378 .573 .952
1985 130 540 480 77 140 16 0 28 240 83 10 5 6 5 46 2 3 77 12 .292 .354 .500 .854
1986 130 520 477 42 98 11 0 24 181 59 4 2 4 0 32 2 7 80 10 .205 .266 .379 .645
1987 130 403 370 40 92 17 0 17 160 48 2 2 6 1 23 3 3 61 13 .249 .297 .432 .730
通算:23年 2677 10634 9404 1372 2543 373 23 504 4474 1448 266 130 88 50 931 55 161 1587 267 .270 .345 .476 .820
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

  • 打点王:1回 (1984年)
  • 盗塁王:1回 (1976年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1972年) ※1994年より表彰

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
  • 1000打点:1982年4月4日、対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場) 史上14人目
  • 2000本安打:1983年8月9日、対阪神タイガース戦(広島市民球場) 史上16人目
  • 2500本安打:1987年6月14日、対中日ドラゴンズ戦(徳山) 史上4人目
  • 500本塁打:1987年8月11日、対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場) 史上5人目
その他の記録
  • 2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録。
  • 678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位。
  • サイクル安打:1回(1976年7月7日、対読売ジャイアンツ戦、札幌円山球場) ※史上28人目
  • 20年連続シーズン2桁本塁打(1968年 - 1987年)※歴代4位タイ。
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ。
  • 5試合連続本塁打(1971年6月6日 - 6月10日)
  • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1977年10月4日 - 10月5日)
  • 1イニング2死球(1976年8月31日)※日本記録。
  • オールスターゲーム出場:13回 (1971年、1974年 - 1977年、1980年 - 1987年)

[編集] 背番号

  • 28 (1965年 - 1974年)
  • 3 (1975年 - 1987年)

[編集] 関連情報

[編集] 出演番組

[編集] 著書

[編集] 関連書籍・映像

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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