中村紀洋

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中村 紀洋
東北楽天ゴールデンイーグルス #99
中日時代
基本情報
国籍 日本
出身地 大阪府大阪市淀川区
生年月日 1973年7月24日(35歳)
身長
体重
180cm
92kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 三塁手一塁手
プロ入り 1991年 ドラフト4位
初出場 NPB / 1992年6月12日
MLB / 2005年4月10日
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2000年2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

中村 紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手内野手)。

愛称は「ノリ」。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

大阪府立渋谷高等学校時代は、1990年全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。守備でも三塁手兼投手として活躍し、チームを甲子園初出場に導く。甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。高校通算35本塁打。

その後、1991年のドラフト近鉄バファローズから4位指名を受け、投手として入団。背番号66

[編集] プロ入り後

[編集] 近鉄時代

ルーキーイヤーの1992年高卒ルーキーながら一軍に昇格する。6月18日、日本ハム戦(藤井寺球場)で河野博文からプロ初安打となる本塁打を放つ。1994年には、故障した金村義明の代役として台頭。9月18日に日本ハム戦(藤井寺球場)でサイクルヒットを達成する。

1995年、金村が中日ドラゴンズにFA移籍し、三塁手のレギュラーに定着し、大活躍する。翌1996年から左手首の故障に悩まされるようになる(これまでに左手首の手術を3回受けている)。5月28日ダイエー戦(福岡ドーム)でヒデカズから通算50号本塁打を達成。

1997年には、背番号を石井浩郎の付けていた3に変更。翌1998年9月16日大阪ドームのロッテ戦で1点を追う9回裏、河本育之から2アウトの場面でサヨナラ3ランホームランを打ち、通算100号本塁打を達成した。結果、リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。左手首の故障から完全復活を果たした。

1999年には、初の全試合出場、ゴールデングラブ賞を獲得。翌2000年5月26日大阪ドームでの日本ハム戦で新谷博から通算150号本塁打を達成。そして、シドニー五輪の野球競技に日本代表として参加。3位決定戦で4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。シーズンでは二冠王(本塁打王打点王)を獲得するが、大阪近鉄バファローズは2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6000万円増)プラス出来高払い5000万円で契約更改。シアトル・マリナーズへ移籍したイチローに代わって、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。

2001年、開幕前に背番号を、西武ライオンズへ移籍した義兄・村上嵩幸の付けていた5へ変更。6月13日福岡ドームでのダイエー戦で、吉田修司から通算200号本塁打を達成。大阪近鉄はパ・リーグ優勝、中村は4番打者として貢献し、打点王を獲得。(優勝決定の数日前に優勝争いをしていた西武戦(大阪ドーム 現・京セラドーム大阪)で松坂大輔から打った右中間への本塁打のシーンは今でも名勝負の代表的な場面として挙げられる)3、4番合計101本塁打タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年での阪神タイガースランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録。 日本シリーズではヤクルトスワローズと対戦するが、シリーズ通算で18打数2安打と抑え込まれ、大阪近鉄も1勝4敗で球団初の日本一を逃す。

翌シーズンにフリーエージェント(FA)権の取得が予想される中、大阪近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「一ヶ月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。

2002年7月14日にFA権を取得。8月18日西武ドームでの西武戦、張誌家から通算250号本塁打を放つ。右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。11月5日にFA宣言。シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜いた末に、FA宣言することを決めたと話す。そして、12月19日ニューヨーク・メッツ入団に合意(推定2年契約700万ドル、プラス3年目のオプション600万ドル)と報じられるが12月20日、大阪近鉄と再交渉を行い、梨田昌孝監督らから慰留されると翻意し、大阪近鉄に残留する。12月21日、大阪近鉄に残留を表明する(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。結局、FA期間は47日間にも及んだ。

2003年は、5月半ばに右を傷め6月10日に右膝半月板損傷と診断される。しかし「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と発言、出場し続けた。しかしケガの影響で不本意な成績が続き、大阪近鉄もパ・リーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加も辞退。10月17日に右膝を手術。これ以降成績に直結する故障が多くなっている。

2004年6月4日千葉マリンスタジアムでのロッテ戦で高木晃次から通算300号本塁打を達成した。右膝のリハビリを兼ねてロサンゼルス・ドジャーススプリングキャンプに招待選手として参加。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場して治療を受ける。アテネ五輪の野球競技に日本代表として参加、銅メダルを獲得するものの、試合後の宴会で右足裏を負傷、9月10日まで欠場。欠場中、団野村を代理人として、ポスティング制度(入札移籍制度)によるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。11月3日、メジャーリーグ入りの意思を表明、大阪近鉄と2年前に結んだ契約に、ポスティング制度によるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたと説明する。11月8日選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられる。12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を大阪近鉄に要求した。

[編集] メジャー時代

2005年1月25日、ポスティング申請。大阪近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースに落札される。2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった。4月2日AAAパシフィック・コーストリーグラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告される。だが、4月10日、故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャーリーグ昇格を果たす。しかし、5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウェーバーにかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったため、AAAへの降格を了承、再びラスベガスでプレーする[1]

ラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本と健闘するが、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、渡米前に自信を見せていた守備でもチーム最多の20失策を記録。この際「成績を見れば一目瞭然、トップクラス。何故マイナー落ちなのか納得出来ない」 、「イチローもマイナー契約ならメジャーには上がれなかった」 との迷言を残す。9月5日にAAAのシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本復帰を目指す。

[編集] オリックス時代

12月21日、分配ドラフトからドジャース入りまでの間、一時的に在籍していたオリックスへの復帰を表明。推定年俸2億円プラス出来高払い5000万円の単年契約。背番号は8[2]。中村はドジャースと2006年1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。

2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武ライオンズ入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となる。開幕前に右足に肉離れを起こしたのに始まり、4月28日に左手親指を捻挫。5月13日のヤクルト戦で、木田優夫からの死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代すると、その後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.238でシーズンを終える。二塁打22、本塁打12は貧打に沈んだオリックスにおいてはチーム2位ではあるが、中軸としてチームに貢献し順位を左右したとは言い難いシーズンとなった。9月に左手首を手術。

契約交渉では、中村が左手首の故障を公傷と主張したのに対し、オリックスは公傷と認めず、推定年俸8000万円(60%減)の単年契約を提示。

2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、オリックスは契約更改を断念し、中村のトレードを試みるが順調に行かず。1月17日にオリックスは中村を自由契約とする手続きを取る。同日付けで自由契約選手として公示された中村は、オリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まる2月1日以降も、「架空のキャンプイン」として自主トレーニングを続ける。

2月12日中日ドラゴンズの入団テストを受けることとなり、2月15日からキャンプに参加(その前に、メジャーリーグのミネソタ・ツインズが中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断っていた)。2月25日に中日ドラゴンズに育成選手として年俸400万円で入団した。背番号は205(これは、中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着けていた中村に落合博満監督が配慮したものである)。

[編集] 中日時代

3月22日に中日球団より、年俸600万円[3]で支配下選手契約を結び、背番号も99(これは自身がかつて着けていた背番号は全て主力選手や監督が使用中である事や球団と落合監督の方針で一から出直す為に99を付けさせた[4])に変更された。これにより開幕戦から公式戦に出場可能となった。序盤は5番や7番で出場していたが、シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役で3番を任される。広角に打ち分けるバッティングで福留の穴を十分に埋め、打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)でリーグ優勝と日本一に貢献する。また、7月5日の広島戦で通算1000打点を、9月26日の巨人戦で通算1500安打を達成する。9月10日北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出される。10月6日ヤクルト戦の6回、満塁の場面で代打で出場して、自身初の代打満塁本塁打を放つ。この本塁打により、通算満塁本塁打が、藤井康雄と並んで歴代2位の14本となった(1位は王貞治の15本)。

日本シリーズでは、持病の腰痛が悪化していたが、鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。11月1日第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した。中日の野手としては史上初の受賞であり、近鉄に入団および在籍経験者の獲得においても初めてである。アジアシリーズでは契約切れで帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用された。

11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップとなる年俸5,000万円の提示をうけた。これは日本球界歴代3位、セ・リーグと中日では歴代1位となる年俸アップ率であり、これを一発で了承し契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた。

2008年4月14日に、自身2回目のFA権を取得するが、FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っている。5月7日から自身が出演する浜乙女のラジオCM(東海ラジオ ガッツナイターのみ)が放送スタート。6月7日ナゴヤドームでの日本ハム戦で8回裏星野八千穂から、日本プロ野球史上22人目となる通算350号本塁打を記録。6月17日石川県立野球場での西武戦で大沼幸二から2ラン本塁打を放ち、通算100猛打賞を達成。また次の打席で、元同僚の岡本真也からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、王貞治若松勉を抜く歴代3位を樹立した。11月、中日残留も視野に入れつつ、「他球団からの評価も聞いてみたい」と2度目のFA権行使。25日東北楽天ゴールデンイーグルスと1回目の入団交渉を行い、そして29日に正式に楽天への移籍を表明。楽天球団初のFA加入選手となった。

[編集] 東北楽天時代

2008年12月5日仙台市内で入団会見を行った。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ99(ちなみに、これまで背番号99を着用していた中村真人は「00」に変更)。 2009年4月5日札幌ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦でブライアン・スウィーニーから移籍後初ホームラン。この日は4安打5打点と大当たりだった。

[編集] プレースタイル

[編集] 打撃

バットは他の選手より長い34.5インチのものを使用している。バッターボックスではホームベースから離れてキャッチャー寄りに立ち、オープンスタンスの神主打法に構え、テイクバックを大きく取り、左足を大きく上げフルスイングによる長打を狙う。広角に強い打球を放つが、同時にバットコントロールも巧みであり、バントもうまい。4番に定着していた近鉄時代はほとんど見せなかったが、チームバッティングが求められる中日に入団してからは、次の1点が欲しい時によく指示が出され、ほぼ成功させている。また、ランナーが出塁していないときに特に打率が良い。本塁打を打った際にはバットを高々と放り上げるパフォーマンスを見せる。しかし、中日入団後は本塁打をあまり狙っていないこともあってか、行わないことも多い。2000年から2002年までは3年連続で5月の月間MVPを獲得するなど、5月になるとバッティングの調子が上がることが多く、「ミスターメイ」の異名を持つ。

近鉄~オリックス時代は典型的プルヒッターで、「ホームランの打ち損じがヒット」「ホームランを捨てればいつでもヒットは打てる」とまで豪語していた。これはフルスイングでなければ手首に負担がかかり故障が悪化する懸念があるためでもあったが、中日移籍後からはセンターからライト方向への打球も増え、より堅実なバッティングに変化した。度重なる左手首の手術で左手の握力が極端に弱くなったため[5]、インパクトの際に右手でバットを押し込む動作が洗練され、フルスイングする打者でありながら広角打法になったという。

[編集] 落合博満の影響

自身と同じくオープンスタンスの神主打法を採用していた落合博満を打撃の「師」と仰いでおり、近鉄時代から度々落合に助言を求めている。

落合が日本ハム所属時、中村が出塁時(一塁守備の落合に)「今の打席、どうでした?」と聞くと「遅い」と一言だけ言われた。次に出塁した時も「遅い」の一言だけ。中村は「何のことだろう?」と考えたが、後にこれは「スイングの始動が遅い」ことだとわかったという。

また、引退後野球評論家として毎年全12球団のキャンプを回っていた落合に「シーズン中はいいんですが、打球が上がらなくて本塁打が出ないんです」と相談し、「変に打球を上げようとすると調子を崩すから気にするな、お前ならそのうち自然に本塁打を量産できる」と回答されたという。

中日時代には監督となった落合の勧めで試合前のバッティング練習時にはオープンスタンスを修正していたが、腰痛持ちであること、長年親しんだフォームであることなどもあってか、試合のときには自然とオープンスタンスになっている。また、左手首への衝撃を和らげるためにサミー・ソーサを参考にして1999年頃からバットのグリップにテープを巻き、グリップエンドに左の薬指まで指を掛けるようになった。落合の指導を受け、打撃フォームを見直した際止めるように言われたが、変えることはなかった。

[編集] 守備

重心を低く、打者に対しやや斜めに構えた守備姿勢からすばやく打球に反応する内野手(三塁手)である。また、高校時代に投手経験があり、近鉄時代のキャンプ中には投球練習で140km/h以上をマークすることもあった強肩を併せ持つ。ぼてぼての打球にはランニングスローで対処し、ランナーをアウトにする[6]

打撃の人の印象が強いが、三塁手としてゴールデングラブ賞を7度獲得している。また、近鉄時代は強肩を買われ、2001年の日本シリーズ第4戦[7]をはじめ度々遊撃手として出場した。ドジャース時代は本職である三塁の他に遊撃、一塁、二塁も守った。中日時代の2007年シーズン中ごろから2008年まではリードしている試合の終盤になると守備に難のあるタイロン・ウッズに代わって一塁手に回ることも多かった(三塁には森野将彦が入る)。このシフトは腰を痛めている中村への配慮もあった。

真喜志康永は『ベースボールクリニック』誌のインタビューにおいて、「中村は守備練習が好きで率先してやっている」と語った。本人曰く、「昔から走り込みが嫌いで、ノックで足腰をつくっていた」とのこと。

初回の守備位置につくとき、必ず自分が守る場所に向かって帽子をとって一礼をする。

[編集] 応援幕

驚弾炸烈 中村紀洋

近鉄時代からこの横断幕は使われていたが、2007年から中日に移籍したこともあり、オリックス応援団が中日応援団に譲渡したものと思われる。尚2008年より本人のヒッティングマーチの歌詞にも採用された。

[編集] 人物

家族は妻の浩子(村上隆行の妹で、元実業団バレーボール日立の選手)と3女。

ちなみに、義姉(義兄村上隆行の姉)は元プロ野球選手野林大樹と1991年結婚にしたが2008年離婚する。そして義姉のそのまた姉の子には広島東洋カープ中田廉がいる。すなわち、中村紀洋の親戚には元プロ野球選手も含めプロ野球選手が3人もいることになる。

高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。

打席に立つとき、相手の投手に度々礼をする。

近鉄時代はひげをたくわえていたが、現在は剃っている。

2001年には大阪教育大付属池田小学校の慰問活動が評価され第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している。

2004年に発生した奈良小1女児殺害事件では被害女子が近鉄のファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。

両腕に赤いリストバンドを巻いている。左腕に赤いプロテクターを装着しておりサイズが比較的大きい。手術の影響のようで近鉄所属時は付けていなかったが、2007年3月8日の中日対西武戦(ナゴヤドーム)で第3打席に星野智樹から左肘に死球(幸い打撲)を受けて負傷退場したのをきっかけに翌日の対西武戦から装着するようになった。

中日時代の「同僚」だったドアラは、「自身のパフォーマンスはノリさんには通用しないのでは?」と一抹の不安を感じていたが、試合前の練習中だった中村の方から「赤いリストバンドしているんだね。俺と一緒やな。友達がおった!!」と気さくに声を掛けてくれたのが嬉しかったと言う。しかし、ホームランを打った時の中村からのハイタッチはタイロン・ウッズの次に痛いとコメントしていた[8]

2008年6月15日父の日日本メンズファッション協会・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を、今季から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。京セラドーム大阪での中日対オリックス戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思ってたけど。縁がないと思ってたんで嬉しい」と大いに照れながら、オリックスからは元同僚北川博敏とともに表彰された。試合直前には愛娘3人と記念撮影。試合では見せないやさしい父の一面をみせた。

楽天移籍の背景は、中日側に複数年契約を希望したが、中日側はあくまで単年での契約を主張したことと、森野将彦の三塁固定によるコンバートであるといわれている(中村本人には三塁に強いこだわりがあった)。一方で楽天側からは2年契約の提示、三塁の定位置確約を受けた。これらが楽天への移籍を決断させた要因と思われる。楽天移籍決定後、「本当は中日に残りたかった」と本音を漏らしている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

日本球界



























1992 近鉄 11 27 27 4 6 1 0 2 13 5 0 0 0 0 0 0 8 0 .222
1993 8 12 9 1 1 0 0 0 1 1 0 0 0 1 2 0 4 0 .111
1994 101 215 192 23 54 13 1 8 93 36 0 0 2 2 19 0 49 2 .281
1995 129 528 470 62 107 19 1 20 188 64 0 1 3 1 51 3 92 12 .228
1996 110 454 411 60 112 15 1 26 207 67 4 1 0 0 39 4 89 7 .273
1997 128 519 455 54 109 22 3 19 194 68 3 2 2 3 54 5 105 13 .240
1998 132 564 481 74 125 14 1 32 237 90 1 1 2 2 74 5 114 12 .260
1999 135 601 514 83 134 23 0 31 250 95 3 0 1 3 79 4 116 21 .261
2000 127 564 476 82 132 26 0 39 275 110 1 1 0 5 80 3 112 17 .277
2001 140 637 525 109 168 25 0 46 331 132 3 2 0 3 104 4 106 26 .320
2002 140 602 511 87 150 27 1 42 305 115 2 1 0 0 86 5 136 10 .294
2003 117 456 381 54 90 14 1 23 175 67 1 1 0 2 72 1 96 18 .236
2004 105 462 387 59 106 16 1 19 181 66 0 0 0 1 73 1 88 13 .274
2006 オリックス 85 359 328 39 76 22 0 12 134 45 0 1 0 2 26 3 70 10 .232
2007 中日 130 521 457 64 134 24 0 20 218 79 2 1 4 8 51 0 87 18 .293
2008 140 557 493 56 135 20 0 24 227 72 0 1 10 3 50 1 119 11 .274
通算:16年 1738 7078 6117 911 1639 281 10 363 3029 1112 20 13 24 36 860 39 1391 190 .268

米国球界



















2005 ドジャース 17 39 1 5 2 0 0 3 0 2 7 .128
メジャー通算:1年 17 39 1 5 2 0 0 3 0 2 7 .128
2005 ラスベガス 101 357 54 89 17 1 22 67 0 46 70 .249
マイナー通算:1年 101 357 54 89 17 1 22 67 0 46 70 .249
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 登場曲

[編集] 背番号

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 初記録・節目の記録

[編集] 記録

  • 通算満塁本塁打:14本(歴代2位タイ
  • 通算サヨナラ本塁打:9本(歴代単独3位
  • サイクルヒット:1回(1994年9月18日)
  • シーズン満塁本塁打:3本 2回(2000年、2001年)
  • 5試合連続本塁打(2000年6月3日 - 6月9日)
    • なお全て両翼100m以上の球場での達成は史上初。
  • 1試合9打点(2001年5月29日)
  • オールスター出場 7回(1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年)
  • 1試合5四球(2003年5月3日 リーグタイ記録
  • 1試合3本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
  • 3打席連続本塁打:4回(1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日(球宴期間明け))
    • 1997年9月20日、2001年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初であり、広角に打てる証明といえる。
  • 同一球団40HRコンビ(2001年 大阪近鉄ローズ55本塁打・中村46本塁打、2002年 大阪近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)

[編集] 脚注

  1. ^ 中村はマイナーでのプレーを「罰ゲーム」と語ったと報道される。本人の発言かどうかの真偽は不明だが、これが中村のイメージを大きく低下させる。
  2. ^ ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、358とした。
  3. ^ ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1500万円となった。
  4. ^ 中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号(66)をひっくり返したもの」と語った。
  5. ^ 本人曰く「左手の握力は20kgもない」
  6. ^ 中村曰く1塁を確認して投げたら間に合わないと言うように感覚で投げている部分もある。
  7. ^ 指名打者の使えない神宮球場での試合
  8. ^ 2008年1月27日に放送された中京テレビSPORTS STADIUMのスペシャル対談企画「スポスタ鍋」のコーナーで紹介された「ドアラからの手紙」より(ドアラ本人は喋れないため)。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
T.ローズ
パ・リーグ本塁打王
2000年
次代:
T.ローズ
先代:
T.ローズ
パ・リーグ打点王
2000年~2001年
次代:
T.ローズ
先代:
イチロー
パ・リーグ最高出塁率
2001年
次代:
A.カブレラ
先代:
稲葉篤紀
日本シリーズMVP
2007年
次代:
岸孝之
先代:
片岡篤史
ゴールデンスピリット賞
2001年
次代:
飯田哲也
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