中村紀洋
| 横浜DeNAベイスターズ #99 | |
|---|---|
ヤクルト戦(2011年10月15日)
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府大阪市淀川区 |
| 生年月日 | 1973年7月24日(38歳) |
| 身長 体重 |
180cm 92kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 三塁手、一塁手、二塁手 |
| プロ入り | 1991年 ドラフト4位 |
| 初出場 | NPB / 1992年6月12日 MLB / 2005年4月10日 |
| 最終出場 | MLB / 2005年5月6日 |
| 年俸 | 1,500万円(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 2000年、2004年 |
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この表について
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 銅 | 2004 | 野球 |
中村 紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手(内野手)。大阪府大阪市出身。
愛称は「ぶた」。
家族は妻の浩子(近鉄でのチームメイト村上隆行の妹で、元実業団バレーボール・日立の選手)と3女。義姉(妻の姉)は元プロ野球選手の野林大樹と1991年結婚にしたが、2008年に離婚する。そして、その義姉の子は広島東洋カープ所属の中田廉である。すなわち、親戚には元プロ野球選手も含めプロ野球選手が3人もいる。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
1985年4月17日の阪神タイガース対読売ジャイアンツの試合を観に行き、バックスクリーン3連発を観客席で見ていた[1]。
大阪府立渋谷高等学校時代は、1990年の全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。守備でも三塁手兼投手として活躍し、チームを甲子園初出場に導く。甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。高校通算35本塁打。
高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。
1991年のドラフト4位で近鉄バファローズから投手として指名を受け、入団。背番号は66。
[編集] 近鉄時代
1992年、高卒新人ながら公式戦に出場しシーズン2本塁打を記録(パ・リーグ高卒新人で本塁打2本以上は清原和博・田中幸雄以来6年ぶり)。1994年には故障した金村義明の代役として台頭。9月18日の日本ハム戦(藤井寺)でサイクル安打を記録した。
1996年から左手首の故障に悩まされる(これまでに左手首の手術を3回受けている)。1997年には、背番号を石井浩郎の着けていた3に変更。リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。左手首の故障から完全復活を果たした。
1999年は初の全試合出場を達成し、ゴールデングラブ賞を獲得。2000年にはシドニー五輪の野球競技に日本代表として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。シーズンでは二冠王(本塁打王、打点王)を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で契約更改。シアトル・マリナーズに移籍したイチローに代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。
2001年、開幕前に背番号を、西武ライオンズに移籍した義兄・村上嵩幸の着けていた5に変更。近鉄のパ・リーグ優勝に中村は4番打者として貢献し、打点王を獲得した。[2]3・4番合計101本塁打(タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年での阪神(ランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録。日本シリーズではヤクルトスワローズにシリーズ通算で18打数2安打と抑え込まれ、近鉄も1勝4敗に終わり球団初の日本一を逃す。翌シーズンにFA権の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。大阪教育大附属池田小学校の慰問活動が評価され第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している。
2002年7月14日にFA権を取得。右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。11月5日にはFA宣言し、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜いた末に、FA宣言することを決めたという。12月19日には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでニューヨーク・メッツと契約合意したと報じられるが、12月20日にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の梨田昌孝らから慰留されると翻意し(この問題は、中日に決まりかけていたケビン・ミラーにも言及された)、12月21日には近鉄に残留を表明した(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた音楽プロデューサーの茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田氏は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田氏はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田氏が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)[3]。
2003年5月半ばに右膝を傷め6月10日に右膝半月板損傷と診断されるものの、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で不本意な成績が続き、近鉄もリーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、10月17日に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が多くなっている。
2004年右膝のリハビリを兼ねてロサンゼルス・ドジャースのスプリングトレーニングに招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の野球競技には日本代表として参加して銅メダルを獲得した。しかし、試合後の宴会で右足裏を負傷し、9月10日まで欠場した。
欠場中、団野村を代理人として、ポスティングシステム(入札移籍制度)によるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明。近鉄と2年前に結んだ契約にポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたと説明する。11月8日の選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられた。12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要求したが認められなかった。2005年1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースに落札された。2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった。
この年発生した奈良小1女児殺害事件では被害女子が近鉄のファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。
[編集] アメリカ球界時代
4月2日にAAA級パシフィック・コーストリーグのラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウェーバー公示にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする[4]。
3A屈指の打者天国として知られるラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本と健闘するが、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、渡米前に自信を見せていた守備でもチーム最多の20失策を記録。この際「成績を見れば一目瞭然、トップクラス。何故マイナー落ちなのか納得出来ない」 、「イチローもマイナー契約ならメジャーには上がれなかった」 と発言をした。9月5日にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。
12月21日、分配ドラフトからドジャース入りまでの間、一時在籍したオリックスへの復帰を表明[5]。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は8[6]。
[編集] オリックス時代
2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となるが、開幕前に右足に肉離れを起こし、4月28日に左手親指を捻挫。更に5月13日の対ヤクルト戦で木田優夫からの死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.238でシーズンを終える。二塁打22、本塁打12は貧打に沈んだオリックスにおいてはチーム2位ではあるが、中軸としてチームに貢献し、順位を左右したとは言い難いシーズンとなった。9月に左手首を手術。
契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。
2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも獲得球団はなく、1月17日に正式に自由契約選手となった。中村はオリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年9月19日に日本プロフェッショナル野球組織と日本プロ野球選手会との間で戦力外通告ならびに野球協約を超える大幅な年俸ダウンに関するルールが取り決められた。
2月12日、中日ドラゴンズからテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加[7]ここで入団テストを行い、同25日、育成枠での中日入団が決定(年俸400万円)。背番号は205[8]。
[編集] 中日時代
育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円[9]で支配下選手契約を結び、背番号も99[10][11]に変更された。開幕戦から公式戦に出場し、序盤は5番や7番を、シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役で3番を任された。広角に打ち分けるバッティングで打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)で日本一に貢献した。9月10日には北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。 日本シリーズでは持病の腰痛が悪化していたため鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。11月1日の第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した[12]。日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた。アジアシリーズでは帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用された。 11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ[13]となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた。
2008年6月15日、父の日に日本メンズファッション協会・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。京セラドーム大阪でのオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思っていた。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オリックス時代の元同僚・北川博敏と共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。4月14日に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。5月7日から自身が出演する浜乙女のラジオCM(東海ラジオ ガッツナイターのみ)が放送開始。6月17日、石川県立野球場での対西武戦で大沼幸二から2ラン本塁打を放ち、通算100猛打賞を達成。また次の打席で、元同僚の岡本真也からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、王貞治・若松勉を抜く歴代3位を樹立した。11月、中日残留も視野に入れつつ、「他球団からの評価も聞いてみたい」と2度目のFA権行使。11月25日に東北楽天ゴールデンイーグルスと1回目の入団交渉を行い、11月29日に正式に楽天への移籍を表明。楽天球団初のFA加入選手となった。
12月5日に仙台市内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「99」となった。
[編集] 楽天時代
2009年4月5日、札幌ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦でブライアン・スウィーニーから移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだった。その後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、6月9日から6月25日まで登録を抹消された。一軍復帰後、7月11日の対ソフトバンク戦で佐藤誠から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の野村克也は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。
2010年、序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれイージーミスが目立つようになった。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。10月1日に球団から戦力外通告を受け、退団した。12球団合同トライアウトには参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった。2011年2月には徳島インディゴソックスの合同自主トレに参加した[14]。本人は「育成枠でもいいので(日本プロ野球界で)現役を続けたい」と表明していた[15]。
[編集] 横浜時代
2011年5月23日、横浜ベイスターズへの入団が発表された[16]。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に加地隆雄球団社長より電話があったことが明らかにされた[17]。背番号は中日、楽天時代と同じ「99」となった。 6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦(Kスタ)に「7番・一塁手」でスタメン出場した。6月18日、横浜スタジアムでの福岡ソフトバンクホークス戦で代打で出場し、杉内俊哉から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、ターメル・スレッジの本塁打でチームは勝利した。この年は当初は代打要員がメインだったが、正一塁手のブレット・ハーパーが左投手相手に弱く、守備面でも不安があるため、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。10月13日の阪神戦(横浜スタジアム)では正遊撃手の石川雄洋及び二遊間両方を守れる藤田一也が負傷し、正二塁手の渡辺直人が遊撃手に回る状況の中、その代役で二塁手として起用されていた山崎憲晴が失策を連発したため、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、14打点と物足りない成績に終わった。
[編集] プレースタイル
[編集] 打撃
バットは他の選手より長い34.5インチの物を使用している。バッターボックスではホームベースから離れて、捕手寄りに立ち、オープンスタンスの神主打法に構え、テイクバックを大きく取り、左足を大きく上げフルスイングによる長打を狙うスタイルだった。近年はベースから大きく離れるスタイルや神主打法こそ変わらないものの、オープンスタンスを捨てスクエアスタンスに構えていることが多くなっている。広角に強い打球を放つが、同時にバットコントロールも巧みであり、バントもうまい。4番に定着していた近鉄時代はほとんど見せなかったが、チームバッティングが求められる中日に入団してからは、次の1点が欲しい時によく指示が出され、ほぼ成功させている。また、ランナーが出塁していない時に特に打率が良い。本塁打を打った際にはバットを高々と放り上げるパフォーマンスを見せる。しかし、中日入団後は本塁打をあまり狙っていないこともあってか、行わないことも多い。2000年から2002年までは3年連続で5月の月間MVPを獲得するなど、5月になると打撃の調子が上がることが多く、「ミスターメイ」の異名を持つ。
近鉄~オリックス時代は「ホームランの打ち損じがヒット」「ホームランを捨てればいつでもヒットは打てる」とまで豪語し、ミスターフルスイングの異名を小笠原道大と分け合う程の豪快なバッティングスタイルが売りであった。度重なる左手首の手術で左手の握力が極端に弱くなったことから本人は「左手の握力は20kgもない」と語っており、フルスイングでなければかえって手首に負担がかかり故障が悪化する懸念があったことも、常にフルスイングのスタイルが形成される要因であったという。ただし当時から常々フルスイングのスタイルでありながら流し方向へ強い打球を飛ばすことは非常に多かった。左手の握力が無いが故にインパクトの際に右手でバットを押し込む動作が洗練され、フルスイングする打者でありながら広角打法になったのだという。
中日~楽天時代からは特に進塁打が求められる場面で、一・二塁間や右前へのいわゆる「おっつけた」打球を狙うことが多くなった。反面、有利なカウントやゲッツーの心配が無い場面では積極的に引っ張っての長打も狙うこともあり、柔軟なスタイルのバッティングとなっている。
[編集] 落合博満の影響
自身と同じくオープンスタンスの神主打法を採用していた落合博満を打撃の「師」と仰いでおり、近鉄時代から度々助言を求めている。
落合が日本ハム所属時、中村が出塁時(一塁守備の落合に)「今の打席、どうでした?」と聞くと「遅い」と一言だけ言われた。次に出塁した時も「遅い」の一言だけ。中村は「何のことだろう?」と考えたが、後にこれは「スイングの始動が遅い」ことだとわかったという。
また、引退後野球評論家として活動していた落合に、毎年のようにキャンプ中指導を仰いでいた。シーズン中も「調子はいいんですが、打球が上がらなくて本塁打が出ないんです」と相談し、「変に打球を上げようとすると調子を崩すから気にするな、お前ならそのうち自然に本塁打を量産できる」と回答されたこともあった。
中日時代には監督となった落合の勧めで試合前のバッティング練習時にはオープンスタンスを修正していたが、腰痛持ちであること、長年親しんだフォームであることなどもあってか、試合の時には自然とオープンスタンスになっている。また、左手首への衝撃を和らげるためにサミー・ソーサを参考にして1999年頃からバットのグリップにテープを巻き、グリップエンドに左の薬指まで指を掛けるようになった。落合の指導を受け、打撃フォームを見直した際、止めるように言われたが、変えることはなかった。
中日時代の「同僚」だったドアラは、「自身のパフォーマンスはノリさんには通用しないのでは?」と一抹の不安を感じていたが、試合前の練習中だった中村の方から「赤いリストバンドしているんだね。俺と一緒やな。友達がおった!!」と気さくに声を掛けてくれたのが嬉しかったと言う。しかし、ホームランを打った時の中村からのハイタッチは力が強いのでタイロン・ウッズの次に痛いとコメントしていた[18]。
[編集] 守備
重心を低く、打者に対しやや斜めに構えた守備姿勢から素早く打球に反応する内野手(主に三塁手)である。また、高校時代に投手経験があり、近鉄時代のキャンプ中には投球練習で140km/h以上を計測することもあった強肩を併せ持つ。ぼてぼての打球にはランニングスローで対処し、ランナーをアウトにする[19]。
打撃の人の印象が強いが、三塁手としてゴールデングラブ賞を7度獲得している。中日からFA宣言をした理由も、「(ノリは)サードとしては使えない。」と判断されたからで、三塁手というポジションには強いこだわりがある。また、近鉄時代は強肩を買われ、2001年の日本シリーズ第4戦[20]をはじめ度々遊撃手として出場した。ラスベガスでは本職である三塁の他に遊撃、一塁、二塁も守った。中日時代の2007年シーズン中盤から2008年まではリードしている試合の終盤になると守備に難のあるタイロン・ウッズに代わって一塁手に回ることも多かった(三塁には森野将彦が入る)。このシフトは腰を痛めている中村への配慮もあった。楽天移籍後もスターティングメンバーの一塁手にはDHを兼務する守備に難のある、またベテランや外国人の長距離砲(フェルナンデス、山崎武司など)が入ることが多かったため、やはり終盤になると一塁手に回ることも多かった。また、草野大輔も本職が三塁手であることから、草野が二塁に回ることもあったが、中村が一塁手としてスタメン出場することもあった。 一塁手としての経験は決して長くないものの、俊足の打者走者が走ってくる際どい場面で大きく股を開いての捕球を非常に素早い動作で行ってみせるなど、その守備力はプロとしての水準以上に達している。横浜移籍後は打撃よりもこちらの守備の器用さを期待されており、ユーティリティプレーヤーとしての扱いとなっている。
2011年10月13日には、日本の一軍では初となる二塁手としてのスタメン出場を果たした。
さらに、横浜移籍後は捕手の控え人数が少ないため、緊急時にその強肩を生かし中村に捕手の練習をさせていることを尾花高夫によって明らかにされているが、その後任の中畑清がこの構想を受け継ぐかどうかは不明。
真喜志康永(現:北海道日本ハムファイターズ一軍内野守備コーチ)は『ベースボールクリニック』誌のインタビューにおいて、「中村は守備練習が好きで率先してやっている」と語った。本人曰く、「昔から走り込みが嫌いで、ノックで足腰をつくっていた」とのこと。
初回の守備位置に就く時、必ず自分が守る場所に向かって帽子をとって一礼をする。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1992 | 近鉄 | 11 | 27 | 27 | 4 | 6 | 1 | 0 | 2 | 13 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | .222 | .222 | .481 | .704 |
| 1993 | 8 | 12 | 9 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 4 | 0 | .111 | .250 | .111 | .361 | |
| 1994 | 101 | 215 | 192 | 23 | 54 | 13 | 1 | 8 | 93 | 36 | 0 | 0 | 2 | 2 | 19 | 1 | 0 | 49 | 2 | .281 | .343 | .484 | .827 | |
| 1995 | 129 | 528 | 470 | 62 | 107 | 19 | 1 | 20 | 188 | 64 | 0 | 1 | 3 | 1 | 51 | 1 | 3 | 92 | 12 | .228 | .307 | .400 | .707 | |
| 1996 | 110 | 454 | 411 | 60 | 112 | 15 | 1 | 26 | 207 | 67 | 4 | 1 | 0 | 0 | 39 | 3 | 4 | 89 | 7 | .273 | .341 | .504 | .845 | |
| 1997 | 128 | 519 | 455 | 54 | 109 | 22 | 3 | 19 | 194 | 68 | 3 | 2 | 2 | 3 | 54 | 5 | 5 | 105 | 13 | .240 | .325 | .426 | .751 | |
| 1998 | 132 | 564 | 481 | 74 | 125 | 14 | 1 | 32 | 237 | 90 | 1 | 1 | 2 | 2 | 74 | 3 | 5 | 114 | 12 | .260 | .363 | .493 | .856 | |
| 1999 | 135 | 601 | 514 | 83 | 134 | 23 | 0 | 31 | 250 | 95 | 3 | 0 | 1 | 3 | 79 | 0 | 4 | 116 | 21 | .261 | .362 | .486 | .848 | |
| 2000 | 127 | 564 | 476 | 82 | 132 | 26 | 0 | 39 | 275 | 110 | 1 | 1 | 0 | 5 | 80 | 5 | 3 | 112 | 17 | .277 | .381 | .578 | .959 | |
| 2001 | 140 | 637 | 525 | 109 | 168 | 25 | 0 | 46 | 331 | 132 | 3 | 2 | 0 | 3 | 104 | 8 | 4 | 106 | 26 | .320 | .434 | .630 | 1.064 | |
| 2002 | 140 | 602 | 511 | 87 | 150 | 27 | 1 | 42 | 305 | 115 | 2 | 1 | 0 | 0 | 86 | 10 | 5 | 136 | 10 | .294 | .400 | .597 | .997 | |
| 2003 | 117 | 456 | 381 | 54 | 90 | 14 | 1 | 23 | 175 | 67 | 1 | 1 | 0 | 2 | 72 | 4 | 1 | 96 | 18 | .236 | .357 | .459 | .817 | |
| 2004 | 105 | 462 | 387 | 59 | 106 | 16 | 1 | 19 | 181 | 66 | 0 | 0 | 0 | 1 | 73 | 8 | 1 | 88 | 13 | .274 | .390 | .468 | .857 | |
| 2005 | LAD | 17 | 41 | 39 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 3 | .128 | .171 | .179 | .350 |
| 2006 | オリックス | 85 | 359 | 328 | 39 | 76 | 22 | 0 | 12 | 134 | 45 | 0 | 1 | 0 | 2 | 26 | 2 | 3 | 70 | 10 | .232 | .292 | .409 | .701 |
| 2007 | 中日 | 130 | 521 | 457 | 64 | 134 | 24 | 0 | 20 | 218 | 79 | 2 | 1 | 4 | 8 | 51 | 3 | 0 | 87 | 18 | .293 | .359 | .477 | .836 |
| 2008 | 140 | 557 | 493 | 56 | 135 | 20 | 0 | 24 | 227 | 72 | 0 | 1 | 10 | 3 | 50 | 4 | 1 | 119 | 11 | .274 | .340 | .460 | .800 | |
| 2009 | 楽天 | 77 | 294 | 263 | 16 | 58 | 11 | 0 | 2 | 75 | 26 | 0 | 1 | 1 | 1 | 29 | 2 | 0 | 41 | 11 | .221 | .297 | .285 | .582 |
| 2010 | 129 | 521 | 473 | 51 | 126 | 23 | 0 | 13 | 188 | 64 | 0 | 1 | 1 | 2 | 44 | 2 | 1 | 84 | 18 | .266 | .329 | .397 | .726 | |
| 2011 | 横浜 | 62 | 126 | 115 | 6 | 24 | 3 | 1 | 1 | 32 | 14 | 0 | 1 | 0 | 2 | 9 | 0 | 0 | 27 | 1 | .209 | .262 | .278 | .540 |
| NPB:19年 | 2006 | 8019 | 6968 | 984 | 1847 | 318 | 11 | 379 | 3324 | 1216 | 20 | 16 | 26 | 41 | 942 | 62 | 40 | 1543 | 220 | .265 | .354 | .477 | .831 | |
| MLB:1年 | 17 | 41 | 39 | 1 | 5 | 2 | 0 | 0 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 3 | .128 | .171 | .179 | .350 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
[編集] 表彰
- ベストナイン:5回 (1996年、1999年 - 2002年)
- ゴールデングラブ賞:7回 (三塁手部門史上最多・1999年 - 2002年、2004年、2007年、2008年)
- 日本シリーズMVP:1回 (2007年)
- オールスターゲームMVP:1回 (2001年 第3戦)
- 月間MVP:5回(1999年8月、2000年5月、2000年9月、2001年5月、2002年5月)
- ゴールデンスピリット賞(2001年)
- ベスト・ファーザー イエローリボン賞(2008年)
[編集] 記録
- 初記録
- 初出場:1992年6月12日、対福岡ダイエーホークス8回戦(平和台野球場)、8回表にジェシー・リードの代打で出場
- 初先発出場:1992年6月13日、対福岡ダイエーホークス9回戦(平和台野球場)、7番・三塁手として先発出場
- 初安打・初本塁打・初打点:1992年6月18日、対日本ハムファイターズ15回戦(藤井寺球場)、5回裏に河野博文から3ラン
- 初二塁打:1992年6月25日、対オリックス・ブルーウェーブ13回戦(グリーンスタジアム神戸)、2回表に星野伸之から
- 初盗塁:1996年5月17日、対西武ライオンズ5回戦(西京極野球場)、4回裏に二盗(投手:新谷博、捕手:高木大成)
- 節目の記録
- 100本塁打:1998年9月16日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、9回裏に河本育之から逆転サヨナラ3ラン ※史上201人目
- 150本塁打:2000年5月26日、対日本ハムファイターズ9回戦(大阪ドーム)、1回裏に新谷博からソロ ※史上113人目
- 200本塁打:2001年6月13日、対福岡ダイエーホークス12回戦(福岡ドーム)、7回表に吉田修司から右越ソロ ※史上72人目
- 1000試合出場:2001年9月2日、対日本ハムファイターズ27回戦(東京ドーム)、4番・三塁手として先発出場 ※史上375人目
- 1000本安打:2002年5月29日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(大阪ドーム)、5回裏にネイサン・ミンチーから左中間へ3ラン ※史上209人目
- 250本塁打:2002年8月18日、対西武ライオンズ21回戦(西武ドーム)、1回表に張誌家から左越2ラン[21] ※史上43人目
- 1000三振:2003年7月30日、対福岡ダイエーホークス18回戦(福岡ドーム)、7回表に斉藤和巳から ※史上33人目
- 300本塁打:2004年6月4日、対千葉ロッテマリーンズ12回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に高木晃次から2ラン ※史上29人目
- 1500試合出場:2007年5月6日、対横浜ベイスターズ9回戦(ナゴヤドーム)、5番・三塁手として先発出場 ※史上151人目
- 1000打点:2007年7月5日、対広島東洋カープ10回戦(ナゴヤドーム)、4回裏にジャレッド・フェルナンデスから左翼フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上29人目
- 1500本安打:2007年9月26日、対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、1回表に高橋尚成から左前安打 ※史上95人目
- 350本塁打:2008年6月7日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に星野八千穂から左越2ラン ※史上22人目
- 100猛打賞:2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(石川県立野球場)
- 300二塁打:2010年5月8日、対北海道日本ハムファイターズ7回戦(函館オーシャンスタジアム)、5回表にダルビッシュ有から右翼線二塁打 ※史上55人目
- 1500三振:2010年8月18日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、5回表に近藤一樹から ※史上10人目
- 2000試合出場:2011年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、8回裏に一塁手として出場 ※史上43人目
- その他の記録
- 通算満塁本塁打:14本(歴代2位タイ)
- 通算サヨナラ本塁打:9本(歴代単独3位)[22]
- サイクル安打:1回=1994年9月18日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場)
- 代打満塁本塁打:1回=2007年10月6日、対東京ヤクルトスワローズ24回戦(明治神宮野球場)、6回表に花田真人から
- シーズン満塁本塁打:3本 2回(2000年、2001年)
- 17試合連続安打(2010年5月4日 - 5月29日)
- 5試合連続本塁打(2000年6月3日 - 6月9日)
- 全て両翼100m以上の球場での達成は史上初
- 1試合9打点:2001年5月29日、対日本ハムファイターズ10回戦(東京ドーム)
- オールスターゲーム出場:7回 (1995年、1996年、1999年 - 2002年、2004年)
- 1試合5四球:2003年5月3日、対日本ハムファイターズ7回戦(大阪ドーム) ※リーグタイ記録
- 1試合3本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年5月29日、2008年7月29日)
- 3打席連続本塁打:4回 (1997年9月20日、2000年9月7日、2001年9月8日 - 9月9日、2008年7月29日 - 8月3日(球宴期間明け))
- 1997年9月20日、2000年9月7日の記録はいずれもレフト・センター・ライトに打ち分けての3打席連続本塁打で、これは史上初であり、広角に打てる証明といえる。
- 同一球団40HRコンビ(2001年 近鉄ローズ55本塁打・中村46本塁打、2002年 近鉄ローズ46本塁打・中村42本塁打)
[編集] 背番号
- 66 (1992年 - 1996年、2005年)
- 3 (1997年 - 2000年)
- 5 (2001年 - 2004年)
- 8 (2006年)
- 205 (2007年 - 同年途中)
- 99 (2007年途中 - 2010年、2011年途中 - )
[編集] 脚注
- ^ “内野手|東北楽天ゴールデンイーグルス|「最高の試合」「名場面・名勝負」|2010年NPBスローガン「ここに、世界一がある。」スペシャルコンテンツ”. 日本野球機構 (2010年8月9日). 2011年5月24日閲覧。
- ^ 優勝決定の数日前に優勝争いをしていた対西武戦(大阪ドーム)で松坂大輔から打った右中間への本塁打のシーンは今でも名勝負の代表的な場面として挙げられる。
- ^ 日本人メジャー&候補生―それぞれのオフ『月刊スラッガー』2003年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、52頁。
- ^ 中村はマイナーでのプレーを「罰ゲーム」と語ったと報道される。本人の発言かどうかは不明だが、これが中村のイメージを大きく低下させたこととなる。
- ^ 中村はドジャースと2006年1月末までの契約を結んでいたため、2005年のオフに日本へ復帰するためには、ドジャースとの業務提携により中村との優先交渉権を得ていたオリックスへ入団する以外に選択肢はなかったとされている。
- ^ ドジャース移籍前に使用していた背番号5は清原が使用していたため、3+5=8とした。
- ^ その前に、MLBのミネソタ・ツインズが中村の入団テストを要請したが、中村は国内球団を強く要望していたため断った。
- ^ 中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着けていた中村に落合博満が配慮したものである。
- ^ ただし、日本プロフェッショナル野球協約第89条の2の規定により、1年間出場選手登録をしたことから1,500万円となった。
- ^ 中村自身がかつて着けていた背番号は、当時の中日では全て主力選手・落合博満が使用中であることや、球団と落合の方針で、一から出直すために99を着けさせた。
- ^ 中村本人は「プロ入りした際に初めて着けた番号(66)をひっくり返したもの」と語った。
- ^ 中日の野手としては史上初の受賞であり、近鉄に入団及び在籍経験者の獲得においても初めてである。
- ^ 日本球界歴代3位、セ・リーグでは歴代1位となる年俸アップ率
- ^ “前楽天の中村、インディゴソックスの自主トレ参加”. 徳島新聞 (2011年2月24日). 2011年2月25日閲覧。
- ^ “中村紀洋はいま…「条件も何もない 育成でもいい」”. スポーツニッポン (2011年5月23日). 2011年5月23日閲覧。
- ^ “選手獲得のお知らせ”. 横浜ベイスターズ公式サイト (2011年5月23日). 2011年5月23日閲覧。
- ^ “年俸500万円から再スタート 中村紀「電話切った後泣いてしまった」”. スポーツニッポン (2011年5月24日). 2011年5月24日閲覧。
- ^ 2008年1月27日に放送された中京テレビSPORTS STADIUMのスペシャル対談企画「スポスタ鍋」のコーナーで紹介された「ドアラからの手紙」より(ドアラ本人は喋れないため)。
- ^ 中村曰く一塁を確認して投げたら間に合わないと言うように感覚で投げている部分もある。
- ^ 指名打者の使えない神宮球場での試合
- ^ 右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。
- ^ 9本目は2008年6月17日、対埼玉西武ライオンズ3回戦(石川県立野球場)、9回裏に元同僚の岡本真也から
[編集] 関連項目
- 大阪府出身の人物一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
- 日本人メジャーリーグ選手一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 東北楽天ゴールデンイーグルスの選手一覧
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
[編集] 外部リンク
- 中村”ノリ”紀洋公式ブログ(更新停止)
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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