ボビー・バレンタイン

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ボビー・バレンタイン
Bobby Valentine
Bobby Valentine on May 22, 2012.jpg
 
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 コネティカット州スタンフォード
生年月日 1950年5月13日(63歳)
身長
体重
178 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手外野手
プロ入り 1968年 ドラフト1巡目
初出場 1969年9月2日
最終出場 1979年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

ボビー・バレンタインRobert John "Bobby" Valentine , 1950年5月13日 - )は、アメリカ合衆国コネティカット州出身の元プロ野球選手、元監督

メジャーリーグではテキサス・レンジャーズニューヨーク・メッツボストン・レッドソックスの監督を、日本プロ野球では千葉ロッテマリーンズの監督を務めた。千葉大学千葉商科大学城西国際大学客員教授よしもとクリエイティブ・エージェンシー(マネジメント契約)に所属している。

来歴・人物[編集]

現役・監督時代[編集]

大学入学直後の1968年5月にドラフト1巡目(全体の5番目)でロサンゼルス・ドジャースに入団。アメリカンフットボール奨学金を得ていたが、当時のトミー・ラソーダスカウト(1976年からドジャース監督)に見い出され、オフ中は通学させてもらうことを条件に傘下の3Aスポーカン・インディアンズに入団した。現役時代は内野手(遊撃手)と足の速さを生かして外野も守った。現役時代を通算すると投手以外の全てのポジションに就いている[1]。ケガに泣き、メジャーリーガーとしての実績は目立つものではなかったが指導者としての手腕を買われ、1985年から1992年までテキサス・レンジャーズ1994年ニューヨーク・メッツ傘下(当時)の3Aノーフォーク・タイズの監督に就任した。

監督としてはたびたび激昂、1シーズン18回の退場記録を持つ。ただしこの退場記録は、レンジャーズ監督就任時に記者から「アメリカンリーグとナショナルリーグの違いは?」と問われた時に「最大の違いはナショナルリーグの審判の方がずっと優秀だということだ」と答えたために、アメリカンリーグの審判団から、ちょっとした抗議でもすぐに退場処分になる報復を受けたためだった。この仕打ちはバレンタインが審判団に謝罪するまで続いた。

一度目のロッテ監督時代[編集]

1995年、ロッテのゼネラルマネージャーに就任した広岡達朗に請われ、同球団の監督に就任(背番号80)。

選手の潜在能力を引き出し、当時パ・リーグ5連覇中の西武ライオンズを上回る2位に導く(チームとしても10年ぶりのAクラス)。同年阪神大震災からの復興の象徴であったオリックス・ブルーウェーブの本拠地胴上げを阻止する3連勝(9月15日 - 9月17日)など、今までのチームカラーを一掃した。また、震災へのチャリティーのために「ドリーム・ゲーム(日本人選手選抜対外国人選手選抜)」を提案し、外国人チームの監督を務めた(日本人チームの監督は王貞治が務めた)。

しかし広岡や尾花高夫江藤省三ら一部のコーチとの確執が表面化し、1年で解任。

メジャー監督復帰[編集]

その後ナショナルリーグ・ニューヨーク・メッツの監督に就任し、柏田貴史吉井理人新庄剛志小宮山悟ら日本人選手を積極的に受け入れた。2000年にはワイルドカードからディビジョンシリーズリーグチャンピオンシップシリーズを勝ち上がり、ワールドシリーズへの出場を果たした。

メッツ監督時代の1999年6月9日の対トロント・ブルージェイズ戦では、延長12回に審判に退場を命じられて一旦退場したものの、その後サングラスと付けひげ・黒いTシャツで変装してベンチに戻ってきた(このシーンは日本のスポーツバラエティ番組でもよく取り上げられる)。試合はメッツが延長14回にサヨナラ勝ちを収め、バレンタインも選手の歓喜の輪に加わった。試合後、この件を新聞記者に問われたバレンタインは「自分に似ていない誰かがベンチにいたんだろう」ととぼけ、さらにナショナルリーグ会長からの電話による事情聴取にも「あの時はベンチとロッカールームの間の通路にいた」と退場後にベンチに戻ったことを頑強に否定した(この件で、バレンタインは、罰金5,000ドルと2試合出場停止の処分を受けた)。

二度目のロッテ監督時代[編集]

ロッテ時代のバレンタイン(2007年5月9日)

2003年オフ、低迷にあえぐロッテからのオファーを受けて9年ぶりに監督に復帰。背番号は2[2]。背番号2は古巣ドジャースで、バレンタインが恩師と仰ぐラソーダがつけていた。2004年北海道日本ハムファイターズとの熾烈な3位争い(プレーオフ進出権争い)を演じ、惜しくも0.5ゲーム差の4位だったがチームを9年ぶりの勝率.500へ導いた。

2005年は相手先発投手に合わせ毎日スタメンを変える変幻自在の打線で勝ち続けた。

大胆な若手選手の先発起用、ほぼ全てのポジションに複数の選手を充て競争意識を高めつつ適度に休養を取らせる、里崎智也橋本将の2人の捕手を先発投手に合わせ入れ替える(両選手ともに打撃も良く、スタメンマスクを外れても指名打者として出場することもあった)、クリーンナップを2組作って投入するなど独特の起用法が当たり、「ボビーマジック」と呼ばれた。特に目覚しい活躍を見せた西岡剛今江敏晃らは「ボビーチルドレン」と呼ばれた。

84勝でシーズンを2位で終え、3位西武ライオンズと18.5ゲームの大差をつけてプレーオフ進出を決め、第1ステージで西武ライオンズを、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り、31年ぶりの優勝に貢献[3]。史上初の日米で優勝経験を持つ監督となった。そして、日本シリーズでは阪神タイガースに無傷の4連勝。チームを31年ぶりの日本一に導き、自身は外国人初の日本シリーズ優勝監督となった。その際の優勝監督インタビューで、かつて対立した広岡達朗に対して「日本球界に招き入れてくれた恩人」と、感謝の言葉を贈っている。 その後、11月10日から東京ドームで行われたアジアシリーズの初代王者に導いた。

2006年は一時首位争いを演じるものの最終的に4位と低迷。2007年はレギュラーシーズン2位につけ、その後のクライマックスシリーズでも第1ステージでソフトバンクに競り勝ち、第2ステージではリーグ優勝した北海道日本ハムファイターズ相手に2勝3敗と敗北したものの健闘した。

2008年は4位。2009年はシーズン前から「今年限りで退任」と取りざたされる中で指揮を執った。契約不更新となった理由は5億の高年俸がネックで、球団は約30億の大赤字を抱えたことによるものだった。チーム防御率リーグ5位、チーム打率リーグ最下位と投打共に低迷しこの年優勝した日本ハムに6勝18敗と大きく負け越し順位は5位。9月に正式に監督退任を表明。本拠地最終戦後のセレモニーでは日本語で最後のあいさつを行い、日本を去った。監督退任後は米スポーツ専門テレビ局ESPNの野球解説者。[4]退任について週刊朝日で球団を批判[5]

レッドソックス監督時代[編集]

2012年シーズンよりテリー・フランコーナの後を引き継いで、第45代ボストン・レッドソックス監督に就任。2011年12月1日に、ホームグラウンドのフェンウェイ・パークに於いて監督就任記者会見を執り行った。背番号は25。開幕直後に主砲のケビン・ユーキリスについて「以前のように気持ちを入れてプレーしていない」と米メディアに語るなど、自ら選手との溝を深くした。選手を批判する事が多くチームは空中分解した[6]ダスティン・ペドロイアは「全員ユーキリスの味方。日本では通用しても、その手法はここでは通用しない」と激怒するなど選手は猛反発した[7]。その後もバレンタインに対する選手の反発が表面化し、ユーキリス、ジョシュ・ベケットエイドリアン・ゴンザレスら主力はトレードで他球団へ放出。チームの調子も上がらず、本拠地ファンから容赦ないブーイングが飛んだ。レギュラーシーズンでは20年ぶりの地区最下位、球団47年ぶりの93敗と成績を残せず、契約を1年残して解任となった[8]。選手たちとの対立の深刻さはデービッド・オルティスが「彼(バレンタイン)は精神的に問題があるか、薬か何かが必要な人間なんだ」と発言してしまうほどの有様であった[9]

レッドソックス監督退任後[編集]

2013年NBCラジオの解説者を務める[10]

2013年2月、コネチカット州セイクリッド・ハート大学体育学部長に就任が内定する。

10月のプレーオフ放映権を持つ全米ネットのTBSの解説者を務めていた11日に別の局のラジオ番組内で、メッツ監督時代の2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件について「あのテロ事件の直後、ヤンキースの選手は何もしなかった」などと発言。物議を醸し解説者をクビになった[11]

ロッテ監督時の采配・特徴[編集]

普段は笑顔と共に陽気な性格を見せているが、試合中になると、自チームが逆転するなど通常はホームサイドで大歓声が自然に上がる場面でもポーカーフェイスを通す。これは「試合の勝利が決定する瞬間まで指揮官は喜んではいけない。もしそれをするとその時点で試合が決定したような雰囲気になり、選手の緊張感が切れてしまう」という彼の監督としての哲学に基づいたものである。2005年のプレーオフ第2ステージ第5戦、里崎智也の逆転タイムリーの後ですら、ベンチ内外で歓喜するロッテ選手の陰で一人落ち着いた表情を保っているバレンタイン監督の姿がTVカメラに映されている。

相手監督に度々激昂することもあり、復帰1年目の2004年のオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦では当時のオリックスの監督だった伊原春樹と試合中に口論。伊原が「じゃかましいわいこの野郎」と日本語で怒鳴りつけた。また外国人記者クラブで当時東北楽天ゴールデンイーグルスのGMだったマーティ・キーナートの会見が長引き、次の番であったバレンタインは業を煮やし会場に「早くしろ!」と野次を飛ばし、キーナートと一触即発の状態になった。

2009年4月19日の対福岡ソフトバンクホークス戦の3回、一塁でのクロスプレーの判定を不服として審判に猛抗議したが、一旦ベンチに戻りモニターでプレーを再確認した後に再び抗議しようと飛び出したことを「侮辱行為」とみなされ退場処分となった。意外にもこれがバレンタインの日本における初の退場であった。

選手を怒鳴りつけることはほとんど無く(ただ10連敗したときやチームに覇気がないと感じたときにはある)、試合に敗れた後も「また明日勝ちましょう」「終わったことは仕方がない、次はキメようぜ」と励ますのみである。

彼の采配において特筆すべき点は、その選手起用の在り方である。彼自身が現役時代怪我に泣いたせいか、選手の故障・酷使には敏感であり、どんなに好調な選手であっても体調管理を選手自身の判断に任せず、一定間隔で休養をとらせている。特に投手陣にいたっては、必ず5人 - 6人で先発ローテーションを組み、投球数にも制限を設ける。2度目の来日当初、怪我(度重なる酷使が原因といわれる)で一軍から遠ざかっていた黒木知宏に、「自分がいればこんな無用な故障はさせなかった」と語った。そのように体調管理を徹底した一方で、選手の服装や髪型に関して規律を求めることはなかった。

投手起用においては、大差がついた試合の敗戦処理を若手投手にさせず、また僅差の試合で若手投手を救援に用いることがない。「若手に敗戦処理をさせても意味がない」、「僅差の試合で打たれて負けることは、これから伸び行く若手にとって悪影響を与える」という持論のもと、どちらもベテラン投手を起用することが多い。

攻撃面では送りバントを用いず、ヒットエンドランを仕掛けることが多い[12]

ファンサービスを大切にすることで知られる。予定にない即席サイン会が行われることがしばしばある。2006年のファン感謝イベントでは選手とファンが触れ合う機会が少な過ぎることに不満を漏らし、フィールドでのイベントには目もくれず、ファンにサインをし続けた。

エピソード[編集]

家族構成は夫人と1男。夫人の父親は1951年のナショナルリーグ・プレーオフ第3戦における救援失敗で著名なラルフ・ブランカである。特技のひとつは社交ダンス。本格的にダンスを始めたのはジュニアハイスクール時代(当時13歳)地域のコンテスト、州内のコンテストで優勝。

1965年にはマイアミで行われた国際大会のジュニアクラスで優勝するなど競技ダンスでも活躍していた。

愛車はBMW。(もう一台の愛車であるMTBもBMW。)

DEENのファンとしても知られる。きっかけは初来日当時の1995年の劇空間プロ野球のテーマソングが「未来のために」で、この曲に感銘を受けたことからファンになった。プライベートでDEENのライブに行くほどである。2006年にはダイヤモンド/光の珠〜The shining ball〜にVoice&vocalで参加している。

2005年、阪神甲子園球場で日本一を/更に東京ドームでアジア一を決めた時のインタビューで、ファンに向かって「このチームは世界でイチバンです!!」と絶叫にも似た答えで返した。

2005年度正力松太郎賞千葉市特別名誉市民。功績を称え、祝勝パレードが行われた千葉市美浜区幕張ベイタウンの「富士見通り」は“バレンタイン通り”に改称。

グリーンガムのCMに選手たちと一緒に出演し、中央でサムアップのポーズをしたり、落ち込んでいるヒロインよしこ」を代打(ポジションは指名打者)で起用、「さぁ、行きましょう!」と励ましたりする演技が光っている(勿論、声は吹き替え)。その後、アカデミー賞候補で大ブレイクした“よしこ”こと菊地凛子からバレンタインデーに手製のチョコレートを贈られ、「アカデミー賞の日本の子が、あの“よしこ”とは」と絶賛、感激していた。このCMでは他に、選手達が、仕事上のミスから残業して後始末をする羽目になったよしこを「失敗するから成功もあるのさ、取り返せばいい」と励ますバージョンもある。

翌年には、やはりグリーンガムのフィギュアプレゼントのCM、“インタビューで、今欲しい新しいキャラを「Qチャン!」、一番大切なものは「ディープインパクト!」と発言、これを聞いたボビーチルドレンの代表でもある今江・西岡が、選手のことだと勘違いして「Qちゃん!?」「馬かよ…」とガックリ肩を落とす、しかし本人は全く気づかず「当テテイキマショー♪」”篇にも登場し、すっかりロッテを代表する人物になった。
さらに2006年は、ロッテのグループ会社であるロッテリアにて、『ボビーバーガー』というキャンペーンバーガーが販売される。商品名に名前を提供し、「監修」という形で名前を連ねている他、同商品の広告に大々的に出ている。また、ロッテ以外にも新生銀行のCMにも出演し、選手が乱闘しているにもかかわらず、パソコンを使っていたり、代打を告げる際に「5.5! 5.5!」と審判に言い募る場面が描かれている。ちなみに5.5は新生銀行の金利であり、撮影地も千葉ロッテマリーンズの本拠地の千葉マリンスタジアムではなく、埼玉西武ライオンズの本拠地である西武ドームを使用している。マリンスタジアム店のみでの限定販売だった。

就任当初の1995年春にコンパック日本法人のCMに登場した。本人によればCM出演は過去に米国でも 「15年で20件ぐらいやった」そうである。また2008年からは大嶺祐太投手と共にオリオンビールのCMにも出演していた。

WBCで日本が優勝したことで我々の国の野球は世界で一番だと証明されたんだ。なのに、なぜ皆“メジャーで挑戦”と言う?」と日本人選手のメジャーリーグ志向に警鐘を鳴らしている。また、松坂大輔ポスティングシステムによるメジャー移籍の際にも「入札には日本の球団も参加できるようにすべきだ」と話している。しかし2009年、ニューヨークタイムズの取材で、第2回WBCについてコメントをした際には、MLBを優先してベストメンバーの揃わないアメリカ代表を擁護する発言をしている。

日本のプロ野球は下部リーグを充実させるべきであるという意見を持っており、2007年には四国アイランドリーグ(当時)の球団をロッテが買収するというプランを披露したことがある(球団サイドは否定したが、その後アイランドリーグに選手を派遣する構想は表明している)。2008年4月にアイランドリーグ出身の角中勝也が初めてホームランを放った際にも下部リーグの重要性を指摘するコメントを述べた。

2006年にベストドレッサー賞を受賞した。

2006年5月6日、試合前のスタジアムにタキシード姿で登場。DEENの「ダイヤモンド」に乗せて、プロの寺門亮子と華麗なチャチャのステップを披露した。この日のダンスが話題を呼びJ SPORTSの「ダンスに片思い〜恋するステップ〜」や日本テレビシャル・ウィ・ダンス?」の「魔女のダンス教室」に講師として出演をしている。

2007年5月17日、世界高血圧デーのキャンペーンの一環として、24時間以内に一つの場所で何人が血圧測定できるかを競うギネス記録に挑戦。千葉マリンスタジアムでの西武戦の試合前 - 終了後までバレンタインを始め、ファンや選手など2109人が血圧を測定しギネス認定された(測定結果は135/86だった)。

2007年10月3日、高校生ドラフト1巡目で唐川侑己のくじを見事引き当てたバレンタインは、「ベリーエキサイティング。体も大きいし色々な球種を投げられるし、唐川君もロッテに来たいと言ってくれてるみたいだし最高だね。ブラウンに渡されたのを断ったのは、シリコンバンド(チームロゴと「Once again, All Hands to the Flag(もう一度結束―フラッグの為に!)」の刻印入り灰色。ペナント奪還への意気込みの意)をしてる左手でひきたかったから。ファンのみんなと一緒にクジをひきたかったんだ。」と発言した。

2007年11月16日、千葉商科大学の特別講師として『千葉ロッテマリーンズの現状と将来像』について講義を行った。

京成バス幕張本郷駅千葉マリンスタジアム間路線でアナウンスの声を担当。喋る内容は英語で「監督のボビー・バレンタインです。本日もご利用ありがとうございます」「(同様に名乗った後)本日は御乗車ありがとうございました。またマリンスタジアムでお会いしましょう」。ただし、「監督」は英語のmanagerではなく日本語で「カントク」と名乗っている。

2008年に日本を訪れたジョージ・W・ブッシュは「なぜ、彼の話をしないんだ?」と言っていた。

敬虔なクリスチャンでもある。

マリーンズに対する愛着は退任後もあるらしく、退任した翌年の2010年にマリーンズが日本一を達成した際に、幕張新都心で開催された日本一達成のパレードにプライベートで訪問している。

2013年3月3日WBC第1ラウンドA組日本対中国戦に於いて始球式を務めた[13]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1969 LAD 5 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1971 101 307 281 32 70 10 2 1 87 25 5 3 4 5 15 0 2 20 9 .249 .287 .310 .597
1972 119 434 391 42 107 11 2 3 131 32 5 5 8 6 27 2 2 33 11 .274 .319 .335 .654
1973 CAL 32 136 126 12 38 5 2 1 50 13 6 1 3 2 5 0 0 9 1 .302 .323 .397 .720
1974 117 414 371 39 97 10 3 3 122 39 8 5 8 7 25 0 3 25 7 .261 .308 .329 .637
1975 26 66 57 5 16 2 0 0 18 5 0 2 1 3 4 0 1 3 1 .281 .323 .316 .639
SD 7 20 15 1 2 0 0 1 5 1 1 0 1 0 4 0 0 0 0 .133 .316 .333 .649
'75計 33 86 72 6 18 2 0 1 23 6 1 2 2 3 8 0 1 3 1 .250 .321 .319 .641
1976 15 57 49 3 18 4 0 0 22 4 0 1 2 0 6 0 0 2 2 .367 .436 .449 .885
1977 44 75 67 5 12 3 0 1 18 10 0 0 0 1 7 1 0 10 3 .179 .253 .269 .522
NYM 42 90 83 8 11 1 0 1 15 3 0 0 1 0 6 0 0 9 4 .133 .191 .181 .372
'77計 86 165 150 13 23 4 0 2 33 13 0 0 1 1 13 1 0 19 7 .153 .220 .220 .440
1978 69 188 160 17 43 7 0 1 53 18 1 1 6 2 19 1 1 18 7 .269 .346 .331 .677
1979 SEA 62 122 98 9 27 6 0 0 33 7 1 2 1 1 22 1 0 5 4 .276 .405 .337 .742
通算:10年 639 1909 1698 176 441 59 9 12 554 157 27 20 35 27 140 5 9 134 49 .260 .315 .326 .641

年度別監督成績[編集]

MLB[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 勝率 年齢
1985年 TEX 7位 129 53 76 .411 35歳
1986年 2位 162 87 75 .537 36歳
1987年 6位 162 75 87 .463 37歳
1988年 6位 161 70 91 .435 38歳
1989年 4位 162 83 79 .512 39歳
1990年 3位 162 83 79 .512 40歳
1991年 3位 162 85 77 .525 41歳
1992年 4位 86 45 41 .523 42歳
1996年 NYM 4位 31 12 19 .387 46歳
1997年 3位 162 88 74 .543 47歳
1998年 2位 162 88 74 .543 48歳
1999年 2位 163 97 66 .595 49歳
2000年 2位 162 94 68 .580 50歳
2001年 3位 162 82 80 .506 51歳
2002年 5位 161 75 86 .466 52歳
2012年 BOS 5位 162 69 93 .426 62歳
通算 2189 1117 1072 .510
2000年はワイルドカードで地区シリーズに出場、サンフランシスコ・ジャイアンツに3勝1敗、リーグ優勝決定戦でセントルイス・カージナルスに4勝1敗で優勝

NPB[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1995年 ロッテ 2位 130 69 58 3 .543 12.0 88 .254 3.27 45歳
2004年 4位 133 65 65 3 .500 (※2)12.5 143 .264 4.40 54歳
2005年 (※1)1位 136 84 49 3 .632 (※2)4.5 143 .282 3.21 55歳
2006年 4位 136 65 70 1 .481 (※2)16.5 111 .252 3.78 56歳
2007年 2位 144 76 61 7 .555 (※2)2.0 107 .262 3.26 57歳
2008年 4位 144 73 70 1 .510 4.5 127 .268 4.14 58歳
2009年 5位 144 62 77 5 .446 18.5 135 .256 4.23 59歳
通算 966 493 450 23 .523 Aクラス3回、Bクラス4回
※1 2004年、欠場した7月28日の1試合(勝利)は通算成績に含まない。代理監督は西村徳文
※2 2005年はレギュラーシーズン通算勝率トップを逃し2位だったが、同3位西武や同トップ・ホークスとのプレーオフを勝ち抜き「リーグ優勝=日本シリーズ出場」を果たした。ゲーム差はレギュラーシーズンでの首位ホークスとの間に生じたもの。
2005年はセ・パ交流戦に24勝11敗1分で優勝
2006年はセ・パ交流戦に23勝13敗で優勝
2005年は日本一アジア一

表彰[編集]

関連情報[編集]

書籍[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://www.baseball-reference.com/v/valenbo02.shtml
  2. ^ これまで背番号2をつけていたサブローは3に変更した。退任後今岡誠がつけている。
  3. ^ この時はレギュラーシーズン2位以下のチームがプレーオフを突破した場合、レギュラーシーズン1位チームではなくプレーオフ突破チームがリーグ優勝となっていた。
  4. ^ 2003年にもESPNの野球解説者を務めていた
  5. ^ 10月30日号『千葉ロッテマリーンズ バレンタイン前監督が語る“解任”の真相「私のしたことを球団は全否定した」』
  6. ^ レッドソックス 最下位から大躍進のワケ 性格重視のチーム編成で一体感 スポーツニッポン
  7. ^ ボビー解任…選手との溝埋まらず…任期1年残しスポーツニッポン
  8. ^ 不協和音、自ら招く=わずか1年で解任-バレンタイン監督・米大リーグ時事通信
  9. ^ オルティスが前監督を痛烈批判 「バレンタインは精神に問題あり」中日スポーツ
  10. ^ バレンタイン氏 “再就職”先はラジオ解説者スポーツニッポン
  11. ^ 元ロッテ監督のボビー 舌禍騒動で解説者クビにスポーツニッポン
  12. ^ 『週刊ベースボール』ベースボールマガジン社、2009年、11月16日号、66ページ。
  13. ^ “ボビー 日本戦始球式 大歓声浴びた”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2013年3月4日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/03/04/kiji/K20130304005316260.html 2013年3月4日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]