大沢啓二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大沢 啓二 (大沢 昭)
基本情報
国籍 日本
出身地 神奈川県藤沢市
生年月日 1932年3月14日(77歳)
身長
体重
173cm
77kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 外野手
プロ入り 1956年
初出場 1956年
最終出場 1965年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

大沢 啓二(おおさわ けいじ、「大澤」表記もあり、1932年3月14日 - )は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手外野手)・プロ野球監督。旧名は「昌芳(まさよし)」。本名は「(あきら)」。

サングラスを掛けた貫禄のある容貌から、付いた愛称が「親分」。実兄の大沢清大沢紀三男は元プロ野球選手。元モデル・元てれび戦士大沢あかね(娘の子)。

嫌いな食べ物はない(チョコレート系の食べ物、特にエクレアココアが大好物。)。動物好きで、を飼っている。野球以外のスポーツにも通じており、特にサッカー中村俊輔テニスマリア・シャラポワファンでもある。「球界ナンバーワンの競艇通」としても知られる。

目次

[編集] 経歴・人物

旧制神奈川県立平塚工業学校(現・神奈川県立平塚工科高等学校)、神奈川県立商工高等学校(通称「神奈川商工」神奈川県内では「県商工」)から立教大学へ進学。東京六大学リーグ通算94試合出場、314打数80安打、打率.255、2本塁打、32打点。ベストナイン2回。1956年南海ホークスに入団。頭脳的な守備で鳴らし、とりわけ1959年の日本シリーズ第3戦では、2度にわたるピンチを自身の巧守でしのぎ、4連投4連勝の杉浦忠と共に南海の日本一に貢献した。鶴岡一人監督は大沢の能力を高く買い、外野手の守備位置決定権を委ねたといわれる。1965年東京オリオンズへ移籍し、同年シーズンをもって現役引退。

引退後は東京(1969年以降はロッテ)の打撃コーチ、二軍監督を務め、1970年にイースタンリーグ優勝。1971年7月24日に一軍監督の濃人渉に代わって監督に昇格。監督就任の時点で順位は2位だったが首位の阪急ブレーブスに大きく引き離されていた。しかしそこから猛追し阪急とデットヒートを繰り広げるが惜しくも2位に終わる。大沢の手腕は球団に評価され、1971年シーズン終了後5年の長期契約を結ぶものの1972年は5位に低迷。シーズン終了後に5年契約を破棄・解雇される。その後ラジオ関東の解説者を務める。

1975年オフに日本ハムファイターズの監督に就任(当時の三原脩球団社長の要請による)。就任時の日本ハムは下位に低迷していたが、大沢は選手を叱咤激励したり、また南海ホークスから柏原純一、広島カープから江夏豊をトレードで獲得するなどチーム改革に取り組んだ。1980年には近鉄バファローズと後期ペナントレースを激しく争うが惜しくも優勝を逃す。そして、1981年に後期ペナントを制し、プレーオフでロッテオリオンズを下し(旧東映時代を含めると19年ぶり)リーグ優勝に導く。同年日本シリーズでは巨人との対戦となり史上初の「後楽園決戦」となるが、巨人に2勝4敗で敗れた。

1983年限りで勇退し球団常務に就任。大沢は投手コーチの植村義信を監督に推薦するが、チームは最下位に低迷し植村は6月に辞任。植村を推薦した大沢が責任を取る形で現場復帰しシーズン終了まで指揮をとった。その後はフロント運営に専念し、高田繁近藤貞雄土橋正幸らの監督招聘に辣腕を振るった。

土橋監督の辞任を受け、1993年に監督復帰。この年は西武ライオンズとデットヒートを繰り広げる。また試合後のユニークなコメントはマスコミの話題となる。だが1994年は最下位に沈み、責任をとって辞任した(シーズン本拠地最終戦の試合後の挨拶の際に、ファンに土下座して謝罪した)。

現在はプロ野球評論家、日本プロ野球OBクラブ理事長(2009年3月まで。4月からは名誉理事長に就任。)、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、『モルツ球団』監督などとして活躍している。また、TBS系のテレビ番組サンデーモーニング』内のコーナー「週刊御意見番」に張本勲と共にレギュラー出演している。さらに、ニッポン放送おはよう!ニッポン全国消防団」(2006年4月スタート)では、消防応援団長の肩書でレギュラー出演している。過去には日本広告審査機構(JARO)や大東建託等のCMにも出演していた。2008年より前年に亡くなった稲尾和久に代わり正力松太郎賞の選考委員となっている。

[編集] エピソード

  • 学生時代は悪童で鳴らし、「野球をやらなければヤクザにしかなれなかったかも知れない」と後年語っている。
  • 親分肌の性格とべらんめぇ口調から「親分」のニックネームで親しまれている。ホテルで、周囲が「親分、親分」と呼びかけているのを聞いたスタッフがヤクザの親分と間違えて戦々恐々としていたことがある、と本人は講演などで語っている。
  • 神奈川商工高時代、3年の夏の甲子園の県予選の試合でストライクをボールと判定されフォアボールの押し出しとなり試合は敗戦してしまった。この球審の判定に不服を覚えた大沢は、球場のトイレで偶然その審判を見つけ審判を殴ってしまう。その審判は立教大野球部関係者だったが、暴力行為を非難するどころか「ウチのチームには君のような闘志溢れる人間が必要だ」と、逆に立教大学で野球をすることを薦められた。しかし、大沢のこの件により神奈川商工高の次回の高校選手権県大会は出場停止となってしまった。
  • 立教大時代に『レフトゴロ』を成立させたことがある。前位の走者の封殺でなく、打者走者を一塁到達前に刺したことによるレフトゴロは非常に珍しい。なお、2006年8月27日のサンデーモーニングでは、メジャーリーグで起きたレフトゴロの話題には「喝」を入れていた。
  • 打者の打球傾向によって守備位置を変えるという、現在では当たり前になっているプレイを日本のプロ野球界に広めたことで知られる。1959年の日本シリーズでは、要所要所で見せたこの好守備によって巨人の反撃を断ち、チームの4連勝に大きく貢献した。シリーズ後、滅多なことでは選手を褒めない鶴岡監督が「大沢、本当によくやってくれた」と直々に労い、また西鉄ライオンズ三原脩監督はこのシリーズの総括として、「MVPの杉浦は副賞として自動車を与えられたが、大沢にも小型の自動車を与えるべき」と語っている。
  • 通算退場回数は7回とタフィ・ローズ金田正一に次ぐ記録を持っている。サンデーモーニング内で退場の話題が出ると、退場の通算回数ランクが書かれたフリップの事で毎回笑いを呼んでいる。
  • 1975年オフ、日本ハムから監督就任の打診があったのは、球団社長であった三原脩がロッテ一軍、二軍監督時代の采配を見て、共感したからである。
  • 1976年6月17日阪急戦で、竹村一義投手が打者にビーンボールを投げ、一塁コーチャーズボックスからマウンドに駆け寄り、「てめぇ、今度やったら許さねえぞ!!」と威嚇したが、その後再びビーンボールを投げたので、激怒して竹村を殴って、退場になった。10日間の出場停止と罰金10万円の処分が科されたが、出場停止の間に代理監督を複数のコーチにさせて、コーチの指揮能力をベンチからチェックしていた。
  • 立教大の大先輩である西本幸雄には全く頭が上がらない。これは単に西本の方が年上であるというだけでなく、西本は旧制和歌山中学(当時の和歌山県下トップレベルの進学校)から実力で立教大に入学したのに対し、大沢は上記のような事情で入学したことも関係している。
  • 立教大学の後輩である長嶋茂雄は学生時代、ろくな食生活を送っていなかったため、面倒見のいい大沢は援助をし、自分と同じ南海への入団を要請していた。長嶋は巨人へ入団したが、長嶋と同級生で同様に大沢に可愛がられた杉浦忠は南海に入団した。
  • だが、実際のところ、南海は大沢を長嶋・杉浦の両選手獲得のためのパイプとして獲得(実力も認めた)、大沢を通じて、当時の大学初任給と同じ額を栄養費として渡していた。(その後長嶋は家族を取込み入団を強要した巨人に入団することになり、全額を返金している)
  • 日本ハム球団史上、背番号86をつけた唯一の人物。この背番号は、監督就任前に解説者を務めていたラジオ関東の社員が行った「大沢さんを戦場に送る会」と題した送別会の席で、当時アナウンサーだった島碩弥が「日本ハムの監督だからハムをもじって86番がいい」と勧めたのがきっかけだという。
  • 1982年西武ライオンズとのプレーオフ第一戦に、当時右手指の故障中であった工藤幹夫投手を強行登板させた。これが工藤の選手生命を縮めたとも言われている。
  • 1985年、フロント入りした頃に「頑固親父の目に涙」という曲をリリースした。また1998年には舘ひろし主演のNHK金曜時代劇いねむり紋蔵」で舘の演じる藤木紋蔵の上司(町奉行)として出演している。
  • 日本ハム球団常務時代(1986年頃)、フライデーフォーカス(以下FF)等の週刊誌がプロ野球選手を含む有名人のプライベートを掲載し社会問題にもなったが、日本ハムの選手が登場しないのを嘆き、「FFに載れ!」(FFに狙われるような選手になれ、の意で)と選手達を叱った。
  • 日本ハム監督時代、あるスポーツ番組でペナントレース開幕前に全12球団の監督が総出演してチームの仕上がり具合を話すという企画で、当時常勝を誇っていた西武ライオンズ森祇晶監督が「いやぁ~、ウチなんか桜に例えたらまだまだ三分咲きですよ」と発言したところ、大沢は激怒し「どうしておめぇは本音で話ができねぇんだ!!」と森を一喝した。
  • フジテレビプロ野球ニュース』を担当して間もない頃の中井美穂元アナウンサー(現古田敦也ヤクルト前監督夫人、タレント)が日本ハムの名護キャンプに取材に行った際、大沢が元監督であるという事を知らなかった中井は、大沢に「(野球に)お詳しいんですね」と言ったほか、レポートでも「大沢さんは常務(当時)でありながらジャージ姿で随分気合が入った出で立ちですね」と報告してしまい、後で注意を受けていた。
  • 競艇通であり、時折競艇場などで見かけられる。競艇に関しての知識に関しては、球界では随一である。
  • テレビに登場する際はそのほとんどが和服姿である。ただし、野球解説などの時はこの限りではない。また、大東建託のCMには洋服(クラシックタイプのゴルフウェア)を着て出演したこともある。
  • 2004年のプロ野球再編問題の最中に玉木正之から無能呼ばわりされたことに激昂。「無能とは何だぁ?!この野郎!!!!」と怒鳴りあいになり結果超がつくほどの犬猿の仲になってしまったという。
  • メジャーリーグが大嫌いであるが、共演している張本勲ほど露骨ではない(『サンデーモーニング』より)。
  • 日本ハムが北海道に本拠地を移転してからは、北海道のテレビ番組にたびたびゲスト出演する。
  • 1993年に大沢が日本ハムの監督に就任した時、広瀬哲朗は、ドラフト1位入団ながらそれまでレギュラーとしての活躍がさほどなく守備要員に甘んじていた。しかし大沢が、「お前の様な闘志みなぎる人間がベンチウォーマーではけしからん。お前がグイグイチームを引っ張る様になれ」と大沢の指名で主将に就任。田中幸雄がケガで外野手にコンバートされると、遊撃手のポジションを奪ってレギュラーに定着させオールスターに出場させるなど立役者となった。それからは広瀬は大沢の子分的存在として現在もメディアに出る時もある。
  • 現在でも、マウンドからノーバウンドで捕手めがけて投球することができる。サンデーモーニングの話題であったベースボールチャレンジリーグの始球式で、群馬県知事大沢正明とのダブル大沢での始球式を行ったが、大沢知事がノーバウンドだったのに対し自身はワンバウンドしてしまった。これに対し、大沢知事に「あっぱれ」を、自らに「喝」を与えている。

[編集] 年度別打撃成績

  • 成績中の太字はその年のリーグ最多(最高)記録。


































1956 南海 145 439 386 40 100 11 2 4 127 30 18 12 15 3 34 1 1 56 5 .259 .329 .321
1957 107 335 296 36 73 9 2 4 98 22 4 2 7 2 30 0 0 40 10 .247 .331 .316
1958 116 325 290 28 79 10 3 1 98 27 7 5 1 4 28 1 2 45 8 .272 .338 .341
1959 107 260 242 18 59 6 1 0 67 23 4 4 5 1 11 1 1 23 12 .244 .277 .280
1960 110 275 251 21 65 10 1 4 89 25 2 5 2 1 20 0 1 41 9 .259 .355 .316
1961 110 209 190 18 31 5 0 1 39 19 2 1 4 1 13 2 1 30 3 .163 .205 .221
1962 74 193 170 20 42 8 0 0 50 17 0 3 13 2 8 0 0 26 4 .247 .294 .281
1963 90 123 106 13 25 2 0 1 30 9 1 0 5 0 11 0 1 14 0 .236 .283 .314
1964 64 83 73 5 14 0 1 0 16 9 0 0 5 1 4 0 0 14 0 .192 .219 .234
1965 東京 65 79 71 3 13 3 0 2 22 10 0 0 0 3 5 0 0 12 1 .183 .310 .237
通算 988 2321 2075 202 501 64 10 17 636 191 38 32 57 18 164 5 7 301 52 .241 .307 .299

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1971年 昭和46年 ロッテ 2位 130 80 46 4 .635 3.5 193 .270 3.77 39歳
1972年 昭和47年 5位 130 59 68 3 .465 20.5 148 .264 4.54 40歳
1976年 昭和51年 日本ハム 5位 130 52 67 11 .432 4位・5位 107 .258 3.72 44歳
1977年 昭和52年 5位 130 58 61 11 .487 4位・4位 113 .245 3.36 45歳
1978年 昭和53年 3位 130 55 63 12 .466 3位・4位 131 .264 3.98 46歳
1979年 昭和54年 3位 130 63 60 7 .512 3位・4位 131 .266 4.09 47歳
1980年 昭和55年 3位 130 66 53 11 .555 2位・2位 167 .264 3.61 48歳
1981年 昭和56年 1位 130 68 54 8 .557 4位・1位 126 .276 3.81 49歳
1982年 昭和57年 2位 130 67 52 11 .563 4位・1位 127 .266 3.63 50歳
1983年 昭和58年 3位 130 64 59 7 .520 20.5 153 .275 3.82 51歳
1984年 昭和59年 6位 130 44 73 13 .376 29.5 144 .259 4.98 52歳
1993年 平成5年 2位 130 71 52 7 .577 1 106 .259 3.37 61歳
1994年 平成6年 6位 130 46 79 5 .368 28.5 101 .252 4.62 62歳
※1 1971年から1996年までは130試合制
※2 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位・下段後期順位を表示
※3 1984年はシーズン途中から終了まで61試合の指揮。21勝36敗4分、勝率.368。

[編集] 監督通算成績

  • 1547試合 725勝723敗99分 勝率.501
  • リーグ優勝1回
  • Aクラス8回、Bクラス5回

[編集] 背番号

[編集] 関連項目