尾花高夫

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本来の表記は「尾花髙夫」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
尾花 髙夫
読売ジャイアンツ コーチ #87
基本情報
国籍 日本
出身地 和歌山県伊都郡九度山町
生年月日 1957年8月7日(51歳)
身長
体重
184cm
90kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1977年 ドラフト4位
初出場 1978年4月22日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

尾花 髙夫(おばな たかお、 1957年8月7日 - )は、プロ野球選手投手)。右投げ右打ち。弱小期のヤクルトスワローズで14年間活躍し、引退後は千葉ロッテマリーンズ、ヤクルト、福岡ダイエーホークス〜福岡ソフトバンクホークスの投手コーチをつとめた。現・読売ジャイアンツ1軍投手総合コーチ。

目次

[編集] 来歴・人物

PL学園高校から新日鐵堺を経て、1977年ドラフト4位でヤクルトに入団。先発投手としての起用が主だったが、制球力に優れていたことから、リリーフとして活躍することも多かった。

1982年1985年まで4年連続2桁勝利。1982年8月4日の対阪神戦と8月8日の対広島東洋カープ戦では、2試合連続で延長戦完封勝利(両試合とも延長10回、スコアは1-0)の珍しい記録を達成した。

松岡弘の引退後は、チームのエースとして活躍。関根潤三監督就任2年目の1988年には開幕投手として、関根監督が現役時代属した巨人との開幕戦に先発し、東京ドームでのプロ野球公式戦勝利投手第一号となった。1989年には通算100勝を達成。1991年限りで現役引退。

引退後は、1992年1994年フジテレビニッポン放送野球解説者を務め、1995年1996年にヤクルト入団当時の監督で、千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネジャーだった広岡達朗に請われ、ロッテ一軍投手コーチを務めた。

1997年1998年ヤクルト一軍投手コーチに就任し、野村克也監督(現・楽天イーグルス監督)のもと、田畑一也廣田浩章などの投手陣を再生させ、「野村再生工場の現場監督」として、1997年のリーグ優勝・日本一に貢献した。

1999年からは、その実績を王貞治監督に高く評価され、ダイエーの一軍投手コーチに就任。若田部健一篠原貴行杉内俊哉和田毅新垣渚などの投手陣をそれぞれ見事に指導し、7年間でチームを5度のシーズン1位、2度の日本一に導いた。しかし、2005年シーズン終了後、「子供のこともあり、これ以上単身赴任を続けられない」と、退団を発表。王監督は尾花の再就職先が決まっていないと聞き、自宅のある横浜から通えるようにと巨人に直々に打診[1]2006年より巨人投手チーフコーチ就任が決まった。

現在の巨人軍の継投や投手運営など、投手部門の事実上の責任者である。巨人投手総合コーチとして2005年秋季キャンプより巨人投手陣を指導しており、早速2005年チーム防御率4.80と不振だった巨人投手陣を、2006年は見事3.65に下げる事に成功した。投手総合コーチ就任後は、2軍投手コーチの小谷正勝と共に内海哲也をエースとして一本立ちさせた他、山口鉄也越智大祐東野峻らを戦力として育て上げた実績がある。

投手陣建て直しはもとより、原辰徳監督がメジャーリーグに倣い中4日継投制(日本的な中6日完投制も併用している)を提唱しているため、グレッグ・マダックスジョン・スモルツトム・グラビンなどを見出し、デリケートな中4日での調整を長年サポートしたレオ・マゾーニーアトランタ・ブレーブス投手コーチ)のような役割が期待されている。

[編集] エピソード

  • 解説者時代の関西弁で温厚な語り口や穏やかそうな表情とは対照的に、典型的な武闘派で、球団、首脳陣の顔色をうかがうことなく投手陣には容赦なく叱り飛ばす。ダイエーコーチ時代には、バッテリーコーチだった若菜嘉晴と、ベンチ内で取っ組み合いの喧嘩になったこともある。
  • それに加え、理論派でもあり、千葉ロッテ投手コーチ時代、投手と一打者につき得意コース、苦手コース、癖、構え、カウント別の対応等最低20分のミーティングを実践していたことで、阪神からFA移籍してきた仲田幸司は野球の奥深さに感銘したという。ヤクルト福岡ダイエーコーチ時代に至っても常に相手打者の資料、データを膨大に用意していたという。
  • 福岡ダイエーからのコーチ就任依頼は監督である王自身からの電話だったが、「まさか王さんが直接自分のところに電話してくるはずがない」と思い、王の「もしもし、王ですが」という言葉に「どちらの王さんですか?」と答えてしまったことがある。
  • 福岡ダイエーコーチ時代、日米野球の投手コーチを務めた時、選手のキャッチボールを見ただけで練習不足であることを見抜き、その選手に「ゲームに出んでいいから、ギャラはチャリティーに寄付しろ」と言い、実際に起用しなかった。
  • 近年、チーム内で監督、コーチでもユニフォームのパンツの裾が隠れるはき方が目立つが、伊原春樹ヘッドコーチと共に、原点に立ち返った裾を膝下まで上げ、白ソックスに黒のストッキングを着用している。
  • 高校・社会人と線が細く球威不足で無名だった。しかし練習熱心な姿が、当初自身と同じ捕手の中出謙二(のち南海)を見に行った予定のヤクルト・片岡宏雄スカウトの目に留まり、広岡監督好みの選手と考え指名したところ、広岡に気に入られてすぐに使われ、順調に主力投手に成長していった。
  • 一度も押し出し四球を記録しておらず、2203イニング連続押し出し四球無しはプロ野球記録である。この間、満塁で打者と対戦した回数は163回。また、毎イニング間にベンチ前でウォーミングアップすることなく登板出来るほど、肩の仕上がるのが早かった。
  • 先発ローテーション入りした1980年の成績は、防御率8位ながら大きく負け越した。チームは2位だったにもかかわらず負け越したのは、「ケンカ四郎」として知られていた当時の武上四郎監督が、いつも相手チームのエースとの対戦に尾花をぶつけていたためである。大きく育って欲しいとの願いからであった。
  • 1980年暮れのFNS歌謡祭フジテレビ)で新人賞候補でノミネートされていた岩崎良美の応援として、まだ若かりし尾花が(ステージに上る事は無かったが)会場観客席にいた。
  • 人格者としても知られ、犯罪を犯した人の社会復帰や更生を手助けする保護司でもある。
  • 『血液型性格(?)判断』を信じている(曰く「O型とB型にはいいピッチャーが多い」)。ちなみに、尾花コーチの血液型はB型である。
  • PL出身ということはあまり知られておらず、PLの後輩が挨拶するときも、知らなくて、他の人に言われてから慌てて挨拶しに行くことがよくあるという。本人は「隠れPLだからね」と笑う。
  • 1999年西武ライオンズとの開幕戦で、王監督に対し、「監督、この試合は何対何で勝つつもりですか?どの程度の得失点を想定しておられますか?」と尋ねた。王はコーチからこのような質問を受けるのは初めてで怪訝そうな顔つきをしていると、「その想定なくしては私はどのように投手を用意したらいいのですか。例えば2対1と3対2では投手継投が大きく異なります」と続けた。王が「君はどう思う?」と聞くと、「西口文也から二点取れますか?2対1または1対0で勝たないと。いずれにせよ、接戦になるでしょう」と答え、王も頷いた(結果は1対0でライオンズの勝利。西口が完封勝利した)。この試合を機に、試合前に試合展開に応じて投手起用を事前に準備する方式が確立したという。 この年、ホークスは日本一となったが、尾花は他のコーチとの確執が絶えず、王に辞意を伝えたが、彼の手腕を認めた王が「お前の居易いようにするから」との一声で留任を決めたという。(『王の道 王貞治を演じきるということ』 飯田絵美著 メディアファクトリー社発行)
  • ホークス時代は、その年の調子の良い投手・即戦力投手などをセットアッパー格の投手として酷使し、ほぼ毎年「使い倒し」ていた。上記のように投手育成能力や投手運営などに非常に緻密な考えを持っている名コーチだが、こうした継投の評価はあまり芳しくなく、ホークスファンの尾花の評価は賛否両論である。
    • 継投の傾向は、最近の主流の「左右を問わず一番優れた投手から逆算して1イニングづつ任せる」っといったタイプではなく、「打者の左右に合わせて投手を細かく交替させる」タイプである。継投成功率は高いが、イニングをまたいで投球以外の行為で体力を消耗させることなどはあまり考慮するタイプではなく、攻撃的な継投の副作用として投手を登板過多にしてしまうことが多い。
    • 「左対左」の交替にとくに強いこだわりを持つ。勝ちゲームの中継ぎ投手が3人~4人存在し、そのうち左投手が1人の場合、彼らをローテーションで起用したり、左投手を抑えに回すことで登板機会を均等に安定させるケースなどが現在は主流であるが、左のワンポイント起用を優先するタイプである。そうした起用の結果、絶対数の少ない左のリリーフ投手を毎年のように故障させている(篠原貴行林昌範など)。
    • 巨人の事実上の投手部門の責任者となった現在も毎年1人以上はシーズン途中で登板過多による離脱者を出しており、継投の傾向もあまり変わっていない。自身が故障の経験が少ない、肘肩の使い減りの少ない投手だったからか、下半身に慢性的な故障を抱えている上原浩治の3イニング起用を提案(原監督に却下されている)したりと、投手個人の体調への配慮も苦手なタイプのようである。
    • 尾花自身は「左の中継ぎが2桁勝利を挙げれば優勝できる」といった持論を公言している(Number誌716号/『240万円の新人王候補。山口鉄也の成り上がり。』)。

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1978 ヤクルト 7 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 58 13.1 15 3 4 0 1 6 0 0 6 6 4.15 1.43
1979 36 22 2 1 0 4 9 0 -- .308 615 137.0 163 15 49 4 7 75 1 0 84 75 4.93 1.55
1980 34 26 10 0 0 8 13 1 -- .381 857 209.1 182 20 70 2 2 123 3 0 91 70 3.01 1.20
1981 30 19 4 1 0 6 6 0 -- .500 532 125.2 135 18 34 2 4 84 2 0 65 59 4.21 1.34
1982 42 32 14 2 6 12 16 4 -- .429 996 246.0 226 21 45 4 6 154 2 0 84 71 2.60 1.10
1983 41 16 4 0 1 11 10 6 -- .524 712 165.0 193 19 44 9 2 88 1 0 93 86 4.69 1.44
1984 45 20 8 1 2 14 8 7 -- .636 723 175.0 172 27 47 9 3 106 6 0 70 67 3.45 1.25
1985 40 25 10 1 1 11 8 7 -- .579 893 205.0 229 23 57 3 12 107 4 1 108 100 4.39 1.40
1986 34 27 9 1 3 9 17 1 -- .346 878 201.1 241 22 39 7 8 86 4 0 105 95 4.25 1.39
1987 33 29 9 2 2 11 15 3 -- .423 869 206.2 227 24 37 7 5 145 4 0 111 91 3.96 1.28
1988 31 31 10 3 4 9 16 0 -- .360 949 232.0 242 17 42 5 1 125 2 0 81 74 2.87 1.22
1989 27 25 8 0 1 11 8 0 -- .579 738 167.2 225 21 35 1 2 77 4 0 91 82 4.40 1.55
1990 4 4 0 0 0 0 1 0 -- .000 100 21.2 29 2 6 1 2 9 0 0 17 12 4.98 1.62
1991 21 14 3 0 1 5 8 0 -- .385 416 97.1 109 10 19 2 3 40 4 0 55 47 4.35 1.32
通算:14年 425 291 91 12 21 112 135 29 -- .453 9336 2203.0 2388 242 528 56 58 1225 37 1 1061 935 3.82 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 背番号

  • 32 (1978年~1991年)
  • 84 (1995年~1996年)
  • 74 (1997年~1998年)
  • 87 (1999年~2005年、2006年~)

[編集] 解説者時代の出演番組

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  1. ^ 永谷脩「『投手王国』を築いた男、一人静かに福岡を去る。」 Number640号、文芸春秋、2006年、116頁。