桑田真澄

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桑田 真澄
Masumi Kuwata.jpg
パイレーツ時代(2007年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府八尾市
生年月日 1968年4月1日(46歳)
身長
体重
174 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1985年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1986年5月25日
MLB / 2007年6月10日
最終出場 NPB / 2006年4月27日
MLB / 2007年8月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

桑田 真澄(くわた ますみ、1968年4月1日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者、野球指導者。ティーチングプロゴルファー桑田泉は実弟。

PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで一世を風靡し、プロ入り後は1990年代読売ジャイアンツを、斎藤雅樹槙原寛己とともに先発3本柱の一人として支えた。

2007年ピッツバーグ・パイレーツで現役を引退してからは、フリーランスの野球解説者として活動するかたわら、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程でスポーツ科学の修士号を取得。指導者講習会を主催する特定非営利活動法人「アミーチ・デル・クオーレ[注釈 1]」の理事長、ボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長、東京大学野球部の特別コーチや、日本野球機構「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」の特別アドバイザーも務める。2014年4月からは、東京大学大学院総合文化研究科に進学する予定。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学時代[編集]

小学2年生より町内会の「はやぶさ子供会ソフトボールチーム」でソフトボールを始め、6年生主体のAチームでショートのレギュラーポジションを獲得[1]。小学3年生よりボーイズリーグの八尾フレンドに所属し[注釈 2]、父親である泰次により創意工夫された練習や特訓なども行っていた[注釈 3]。小学5年生の終わりより主戦級投手として活躍[2]

中学時代[編集]

1980年4月、八尾市立大正中学校に入学し[3]、野球部に所属。準硬式の試合(大阪中学校優勝野球大会)に出場。入学直後に外野手一塁手としてレギュラーポジションを獲得。中1秋から主戦級投手として活躍[4]

中2時(1981年)には、第32回大阪中学校優勝野球大会で優勝した守口市立八雲中学校(エースは後にPLで1年先輩になる清水哲)に0-1で惜敗[5]。中3時(1982年)には、出場した春の中河内地区大会、大阪府大会、八尾市大会、第33回大阪中学校優勝野球大会の全てを制覇[6]

大正中学時代にバッテリーを組んでいたのが上宮高校南海広島巨人でプロ野球選手として活躍した西山秀二(前・巨人一軍バッテリーコーチ)である[7]。桑田、西山率いるこの年の大正中は投打とも群を抜く強さだったと言われ[8]、また大会50周年記念誌には、「桑田の球はファウルにするのがやっとという有様で、たまに出塁しても、見事なピックオフプレーにやられ、完敗を喫した。負けて悔しいというよりも、あまりの力の差に唖然とさせられるばかりだった」と、当時の怪物桑田を物語る逸話が掲載されている。準硬式の関係者の間では「大正中学に桑田あり」とその名を轟かせていた。

西山は「140km/hくらいの球を、中学生の頃から放ってたね。すんごいコントロールしとったよ。ミットを構えた所にしか、ホンマにボールが来なかった[9]。プロに入って、暴投を捕れなくてコーチに怒られた時、『桑田はこんな所に来ぃへんかったもん。中学生でもそうなのに、なんでプロが出来ないの?』と聞きましたよ[10]。誰も打てんかった。高校野球で、1年生から優勝して当たり前、プロでも活躍して当たり前、そういうボールやった[11]。ずーっと野球やってきて、総合的に桑田が一番凄いと思う。オレの中では歴代ナンバーワンのピッチャーは桑田[12]」。と語っている。

進路方針などで学校側と問題に発展し、中3の3学期に八尾市立成法中学校に転校し、卒業[注釈 4]

高校時代[編集]

1983年4月、PL学園高校に入学。高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。

PL入学直後は桑田自身の言によると、「4番は清原、エースは田口権一(元・本田技研野球部)」という既定路線で、桑田以外の2人の長身の1年生が期待されており、172cmしかない桑田は「お前はあっちに行っておれ」という扱いだった[13]。中学時代の実績を考慮され、私学大会などで登板機会が何回かあったが、いずれも痛打を浴び、監督から外野手転向を言い渡され、球拾いをする[14]。失意の中、ある日、母親が練習を見に来た際に「もう投手ではダメなのでPLを辞めようかと思っている」と打ち明ける[15]。甘い言葉を期待していた桑田の意に反し、母親の言葉は「補欠でもいいから投手として3年間、PLでやり通しなさい[注釈 5]」というものだった。「もう辞めさせて下さい」と何時言いに行こうかと思いながら、汗を流す毎日が続いた[16]

1981年1982年と春のセンバツを連覇したPLも、夏は4年連続(1979年-1982年)で甲子園出場を逃しており、1983年のV奪回は至上命令だった[17]。この年のPLは投手陣が安定せず、野球部監督の中村順司は、市神港高校報徳学園の野球部監督として春4回、夏4回の甲子園出場経験があり、神戸製鋼の監督として都市対抗野球でも優勝(1977年)した清水一夫を臨時投手コーチとして招聘する[18]。この清水が桑田の外野からの返球を見て、球の回転の良さに驚き[19]、「おい、あんな選手がおるんか。凄いのがおるじゃないか。学年など関係ない。私に任せてくれ。夏までに立派なピッチャーにしてみせる」[20]と発言し、桑田を投手に戻す。清水コーチのマンツーマンの指導が始まる[注釈 6]。清水は後に「下半身が発達していながら、その使い方を知らなかった。だから足腰、膝の使い方を教えた。それだけでよかったんです。腕のしなり、天性の肩の強さは惚れ惚れするほど。毎日、私が桑田の球を自ら受け、一日、一日成長してゆくのが手に取るように分かったものでした。球の切れ、伸び、変化球の絶妙な使い方、どれをとっても素晴らしかった。そして、どんな過酷なトレーニングにも泣きそうな顔をしながらついて来た、見事な意志の力。私を恩人と今も慕ってくれているが、私としては『この子を使わん手はない』とコーチとして考えただけのこと。」[21]と述懐している。

夏の甲子園に向けた大阪府大会に背番号17番で清原、田口とともに1年生としてメンバー入り[22]。打撃も買われての、投手兼外野手としての登録だった[注釈 7]。大阪府大会において、さして強いとは思えないチーム相手に、よたよたとした試合展開でやっと勝つPLの有様[23]を見かねた清水一夫が、4回戦の大阪球場での吹田高校戦前に「もし桑田を先発させて負けるようなことがあったら全責任はワシが取ろう。ワシも長いこと野球に関係して来たが、この試合は桑田や。これで負けたら、ワシは一切野球から足を洗おうやないか[24]」と中村へ桑田先発を進言。当初、中村は難色を示したが[25]、清水の並々ならぬ自信と迫力、そして投手コーチとしての力量に、思い切った起用を決意[26]。試合前まで弁当配りやバット運びをしていた1年生桑田の公式戦先発デビューが急遽、決まる。試合前は同一チームにもかかわらず上級生は桑田を一人にし、「ああ、もう負けや、三年間の高校野球は終わった」とか、「お前がおるからあかんのや」と桑田を苛めた[27]。この試合、清原が公式戦初本塁打で桑田を援護、桑田は相手打線を散発2安打に抑え、完封する。結果で上級生を黙らせた桑田(そして清原)の快進撃がそこから始まる[28]

1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。1回戦の所沢商業高校戦で夏の甲子園デビュー。2回戦の中津工業高校戦を三安打完封、初本塁打。水野雄仁を擁して史上初の夏春夏の甲子園三連覇を目指した「やまびこ打線」の池田高校を準決勝で7-0と完封。二死無走者でバッターボックスに立った投手桑田は、「ホームラン以外で出塁してスタミナ消耗するより、三振でも良いのでフルスイングでホームランを狙う方がベター」と考え、レフトスタンドにホームランを放つ。それまで一度も甲子園で本塁打を打たれたことのない水野から甲子園で初めて本塁打を打った選手となる(自身、この大会2本目の本塁打)。決勝では横浜商業高校を3-0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手(15歳)の記録を立てた。決勝の試合後、「あと4回、甲子園に来て全部勝ちたい」と発言し、記者連中を驚かせる。1年生投手が夏の甲子園の決勝に駒を進める例は東邦高校坂本佳一早稲田実業高校荒木大輔のように過去にもあったが、いずれも準優勝に終わっており、桑田はそのジンクスを破ったこととなる。また、この夏の甲子園の活躍により1年生で唯一、全日本高校選抜メンバーに選ばれ、アメリカ遠征を経験する[29]。帰国後、1年生で優勝し、首脳陣の信頼を勝ち得た桑田は、中村監督に全体練習の短縮化(3時間程度)と個人練習の強化、大会後の投手のノースロー調整を提案[30]。中村がこれを了承し、以後、PLの黄金時代(1983年夏-1987年夏)を迎えることとなる。

1984年の2年生での春のセンバツ夏の甲子園はいずれも決勝で敗れ準優勝。1985年、3年生の春のセンバツはベスト4、夏の甲子園は決勝戦で宇部商業高校を下し優勝

高校野球激戦区の大阪府から甲子園に出場可能な5回全てに出場。そのうち4度決勝に進出し1年夏と3年夏の2回優勝という記録を清原とともに打ち立てる。甲子園での通算勝利数吉田正男に次ぐ歴代2位で学制改革以後は1位(20勝3敗)。なお、「夏の甲子園の優勝投手はプロで大成しない[注釈 8]」と言われていたが、桑田がプロで173勝の成績を残した為、このジンクスも桑田によって破られた形となった。桑田はプロに進んだ時の事を考え、ストレートカーブのみで3年間通した[31]。ある時、試合でストレートとカーブしか投げない桑田に対して清原が「もっと簡単に勝てるんだし、スライダーやシュートもキレてんのに何で投げへんねん?」と問い詰めると、上述のことを言われ「とんでもないヤツと一緒に野球をやっとったんや」と驚愕したという。打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位の6本である(内訳⇒高1夏:2、高2春:2、高2夏:1、高3春:0、高3夏:1)。高校通算25本塁打。5回の大会の中で桑田・清原のいたPL学園を1失点以内で抑えた投手は、2年生春の準決勝で延長11回で0-1で敗れた田口竜二都城高南海)、決勝で1-0で投げ勝った山口重幸岩倉高阪神)、3年生春の準決勝で3-1で投げ勝った渡辺智男伊野商⇒NTT四国⇒西武)といずれもプロ入りをしている。

ドラフト指名[編集]

1985年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、巨人との密約が囁かれる(KKドラフト事件[注釈 9][32]。桑田自身は密約を否定した上で、「巨人に行かないと言ったことはない。春の選抜が終わった時点で、巨人が一位指名してくれたらプロに行こうと決めた。当時のドラフトでは進学を示唆しながらもプロに入団した選手は自分以外にも大勢いる」と弁明している。また、テレビ番組[33]において、ドラフト前には4球団が1位指名でいくと伝えていたことを、桑田本人が明かしている。ドラフト当日のインタビューで巨人監督の王貞治は「チームの状況を考えれば補強ポイントは投手。投手と言えば桑田」「時期は言えないが、ずっと前から桑田一本で行こうと決めていた[34]」と、指名はドラフト当日の気まぐれな決断ではないことを明かした[35]。桑田で行こうと決断したポイントとして、「状況に応じたピッチングができること」、桑田で印象に残るプレーとしては、「1985年春の選抜天理高校戦でトリプルプレーを決めたこと[36]」を挙げている。

プロ入り後[編集]

王監督時代[編集]

プロ入り前後は投球だけでなく打撃、守備も優れていた桑田について野手転向を薦める者も多かったが[37]、投手として1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板。6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。2年目の1987年7月8日、札幌市円山球場での広島東洋カープ戦で、自らの3点本塁打とタイムリーヒットでチームの全4得点をもたらした上で、プロ初完封勝利を挙げる[38]。このシーズンは15勝6敗、防御率2.17の成績を挙げ最優秀防御率のタイトルを獲得、沢村賞に選ばれた。また、堀内恒夫以来の10代での2桁勝利となった。翌1988年には、球団史上最年少の20歳0カ月で開幕投手に抜擢された。1992年まで6年連続二桁勝利を記録した。

第2次藤田監督時代[編集]

1989年からは監督の藤田元司独特の先発理論にもとづき斎藤雅樹槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。1990年には登板日漏洩疑惑が持ち上がった。桑田は疑惑の調査段階において金銭と高級腕時計の受領があったことを球団に報告し、後に虚偽報告をしたことを申し出た。これがプロ野球選手の統一契約書第17条(模範行為)に違反するとして、球団から謹慎1ヶ月と罰金1000万円の処分を受けた。なお、漏洩疑惑については、その発端となった本の著者との間で、野球賭博のために登板日を第三者に漏洩したことはないとの内容で和解したことが明らかになっている[39]

第2次長嶋監督時代[編集]

1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出される。8月13日の阪神タイガース戦(東京ドーム)では、セ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)で完封[40]。また、10.8決戦で、7回から救援登板、9回までを無失点に抑えて胴上げ投手となる。

10.8決戦
(特記事項以外、10.8決戦における出典は『試練が人を磨く』(1995年5月 ISBN 978-4594017125)pp.85-97)
1994年10月5日、神宮球場でのヤクルト戦に先発登板した際は、8回2死までノーヒットノーランに抑え[41]、投手コーチの堀内恒夫の指示で、8日に備えるため、完封のかかった9回を回避、降板。7日夜、宿舎で監督の長嶋茂雄から呼び出され、「しびれるところで、いくぞ」と言われて、意欲満々で試合当日に臨んだ。
当日8日は、試合前の練習時に、桑田が巨人投手陣の鍵を握ると見たファンからの熱い声援を受けて、15分くらい涙が止まらなかった。試合開始し、初回からブルペンに入っていたが、「体は、疲れでバリバリ」という状態であった。
7回3点リードの状態から登板し、「(準備は十分であったが、狭いナゴヤ球場等の条件下で)正直にいうと、怖かった」と述べている状況であった。8回先頭打者のPLの後輩で同室だった立浪和義が一塁ベースに執念のヘッドスライディングで左肩を痛めて負傷退場となりながら内野安打としたシーンに感動したことを認めている。9回裏2死小森哲也を大きなカーブで空振り三振に打ち取り、3イニングを無失点に抑えてセーブを挙げた。『ベースボールマガジン』2009年3月号は、「(最後の打者が三振の)直後の桑田のガッツポーズは多くの野球ファンの記憶に刻み込まれているはずだ」(pp.72-73)と記述している。試合前に涙を流し続けていたので、試合終了後は特に涙は出てはいなかった。

1995年6月15日、阪神タイガース戦の3回表において、湯舟敏郎の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に右肘を強打、その後も6回途中に降板するまで遜色無い投球を続けていたが、後の検査で側副靭帯断裂の重傷を負っていたことが判明。治療のため、自身の左手首から健全な靭帯移植する手術(いわゆるトミー・ジョン手術)を受けることを選択し渡米。1995年シーズン残りと1996年を棒に振り、1997年4月6日の試合で661日ぶりに復帰[注釈 10]。カムバックの際、マウンドにひざまずきながらプレートに右肘をつけたシーンは有名となり、これ以後復帰した投手やシーズン初登板の投手が同じ姿勢を取る姿が見られるようになった(木田優夫・岩本勉・黒木知宏等)。この試合ではバント飛球に対し迷わずダイブする桑田の姿に周囲が凍りつく一幕もあった。復帰した同年は10勝を挙げた。

1998年には前年覇者ヤクルトとの開幕戦で9年ぶりに開幕投手を務め、9回二死から金石昭人の救援を仰ぎ完投は逃したが、勝ち星を挙げている。この年は最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、1勝差で川崎憲次郎に及ばなかった。この年以降、手術前のようなボールのキレは戻らず(直球は時速140km台前半)、以後、投手としての新たなスタイルを模索する中で精彩を欠いていく。この間、先発、中継ぎ、抑え、敗戦処理とジャイアンツの起用方法も迷走を続けた。この時期の桑田のことを落合博満は、後年、自著の中で大きく評価をしている[42]

第1次原 - 堀内監督時代[編集]

2001年オフ、共に巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一が引退。自身も引退を決意するが、長嶋に代わって巨人監督に就任した原辰徳から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ、現役を続行。2002年古武術を応用したトレーニング、投球フォームを取り入れ復活。4年ぶりの二桁勝利、15年ぶりの最優秀防御率のタイトル獲得でチーム日本一に貢献した。

しかし2003年には足首を捻挫。この負傷が癖になってしまい、以降は再び精彩を欠くようになる。2004年-2005年の監督の堀内恒夫には「俺は晩節を汚さなかった[注釈 11]」と引退勧告ともいえる発言を受けている。堀内本人が晩年はコーチ兼任だったこともあり、そのような無神経とも言える発言は批判を浴びたが、2005年に優勝が絶望的となると桑田に後半戦の先発ローテーション投手を任せるなど、桑田への気遣いも忘れなかった。そうした起用法がなされた2005年は結局、12試合に先発し防御率7.14、0勝7敗に終るが、監督交替や若手の手本たり得る存在であることなどを理由とし、2006年も現役続行が決まった。

第2次原監督時代[編集]

2006年4月13日、東京ドームでの広島戦で600日ぶりとなる勝利、通算173勝目を挙げる。しかし、この試合で走塁中に右足首を再び捻挫してしまい、同27日の広島市民球場での広島戦では3回途中6失点KO。その2日後に登録抹消された。

二軍で調整を続けたが、シーズン終盤でも首脳陣から一切声はかからなかったことから[43]、自分を戦力としては見ていないと判断。吉村禎章二軍監督に、首都圏での最終登板機会である9月24日、読売ジャイアンツ球場での二軍戦は自分に投げさせてくれるよう懇願し、「球団が処遇をはっきりしてくれないので、お世話になったファンに巨人での最後の登板を知らせるには、これしか方法がなかった為」9月23日、球団のホームページにある自身のページ『LIFE IS ART』で退団と2軍戦登板を示唆する内容の文章を掲載する[44]。処遇が冷たいなどと巨人(というより「表看板」である原監督)バッシングが展開されたり、スポーツ誌にオリックスに移籍していた盟友の清原和博のコメント[注釈 12]が掲載されたり、引退試合を計画していた球団フロントは独断で動いた桑田に激怒するといったチグハグな状況となった。

現役を引退するのか、他球団で現役を続行するのか、動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりメジャーリーグに挑戦することを表明、結局『引退試合』は『お別れ会』としてファン感謝デーで行われることとなった。巨人のユニフォームでの最後の日となったのが11月23日、東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」、イベントの最後に「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持ちしかありません。(略)…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶し、21年間在籍した巨人に別れを告げた。

大リーグ移籍[編集]

2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶことが発表された。日本人のパイレーツとの契約は、マイナーを含め第1号となった。

マイナー契約ながら、フロリダで行われたピッツバーグ・パイレーツの2007年の春季キャンプに招待選手として参加、キャンプ終盤まで途中のマイナー合流を命じられることはなく、開幕メジャー入りを目指していた。3月26日、トロント・ブルージェイズとのオープン戦で登板した際、センター前ヒットを打たれ三塁ベースカバーに入る際に球審と激突し、右足首の靭帯断裂という怪我に見舞われた。審判3人制だったために、球審は三塁での判定をするため三塁に向かって走っており、桑田と交錯することとなった。これにより、開幕メジャー入りがなくなった上に、当面は怪我からの回復・リハビリに努めることを余儀なくされた。この頃、桑田は、復帰の時期にはこだわっていないと話していた。

パイレーツは桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のままで、3Aの故障者リストに入れリハビリを後押した。フロリダでリハビリを続け、5月19日にフリー打撃、5月24日に練習試合での登板を経て、3Aインディアナポリス・インディアンズに合流した。6月2日に3Aでアメリカでの公式戦初登板を果たした。

復帰してからのマイナーにおける投球はいずれも順調な回復ぶりを示すものとなり、ピッツバーグの中継ぎ陣が壊滅状態であったというチーム事情も手伝い、6月9日にメジャー昇格、6月10日にヤンキースタジアムで行なわれたニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初登板を果たした。39歳70日でのメジャーデビューは日本人選手では史上1位(当時、現在は高橋建に次いで2位)、メジャー全体でも第二次世界大戦以後ではサチェル・ペイジの42歳、ディオメデス・オリーボの41歳に次ぐ記録となった[45]

昇格当初は敗戦処理などでの登板が続いたが、監督のジム・トレーシーから「大事な場面でストライクが取れる」と評価を受け、中継ぎとして重要な場面での登板を任される機会が出てきた。しかしながら、日本時代にも指摘されていた球威の衰えに加え、桑田最大の武器であるコントロールも精彩を欠き打ち込まれる場面が増え、19試合に登板し0勝1敗、防御率9.43と振るわず、1勝も上げないまま8月14日(日本時間では15日)にピッツバーグより戦力外通告を受けた。退団時は「何も悔いはない」「メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい」と清々しい表情で語るなど引退を示唆していたが、翌2008年1月8日、再びパイレーツとマイナー契約を結び、春季キャンプに招待選手として参加することを自身のブログで公表した。オープン戦では好投を見せたが、若手を起用する球団構想から外れ、メジャー昇格が絶望的となったことからことから、3月26日引退する意思を明らかにし帰国した[46]。6月にはグリーンスタジアム神戸で巨人時代の同僚の吉原孝介を加え清原和博の打撃投手を務め、9月23日茨城ゴールデンゴールズ主催の引退試合を行った。

現役引退後[編集]

引退後は野球解説者スポーツ報知専属評論家。NTVDramatic Game 1844』解説者、TBSJ-SPO大リーグゲストコメンテイター)として活動。2009年1月28日、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程1年制コースに合格した。大学院では平田竹男教授の指導を受け、同期生には中山泰秀江口晃生などがいる。2010年3月25日、首席修了修士論文の題目は「『野球道』の再定義による日本野球界のさらなる発展策に関する研究」。本作で最優秀論文賞を受賞。「個別の入学資格審査」を経て進学したため、入学試験に合格した際、話題となり、早稲田大学に問い合わせが殺到した。

2010年1月17日、父・桑田泰次が火災で死亡した[47][48]

2010年7月20日の朝日新聞で高校野球の球児達への助言を「野球を好きになる7つの道」と題し自らの野球論を披露した[49]

2011年9月14日に東日本大震災復興の為、福島県営あづま球場にて桑田中心に巨人時代の同僚の仁志敏久やPL学園の後輩の立浪和義らOBを集結させ地元の社会人クラブ選抜チームと対戦した。この時桑田はピッチャーとして出場したが現役を引退してから4年経っているのにもかかわらず130km/h台後半のストレートを披露。球場に訪れたファンを驚かせた。

2013年1月下旬からは、東京大学硬式野球部で特別コーチを務めている。就任後の初練習では、部員たちを前に、自ら約40球にわたって投球を披露。後日、『クローズアップ現代』や『SPORTS X』で指導の模様が特集で紹介された。日本野球機構で6月にいわゆる「統一球問題」が発覚した際には、同機構が設立した「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」に、「特別アドバイザー」という肩書で野球関係者から唯一参加している[50]

2014年3月には、硬式野球部の特別コーチを務める東京大学で、大学院総合文化研究科の入学試験に合格した。同年4月からは、コーチ職や従来の活動を続けながら、同研究科で2年間を目途に投手・野手の動作を研究する予定[51]

選手としての特徴[編集]

カーブを軸とした「コンビネーションピッチャー」の一人。140km/h台の速球、カーブ、シュートフォークSFFで桑田自身は「サンダーボール」と命名して使っていた)、スライダー、遅いストレート(チェンジアップではない)を打者や調子によって織り混ぜ、173勝を積み上げた。

カーブには主に全盛期時に投げていたカーブと、2002年の最優秀防御率賞奪取に貢献し、メジャー時代(後期)にも投げていた緩めのカーブと二種類あり、前者はキレを中心としたドロップ系の比較的速いカーブ、後者は山なりの軌道を描くスローカーブ(ドロップカーブ)である。後者のカーブは「レインボール」「レインボーカーブ」「すしボール」と様々な名称で呼ばれていた。

高校時代はエースとして活躍する一方、打者としても清原和博ともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評があった[注釈 13]ゴールデングラブ賞を通算8度獲得するなど守備のうまさにも定評があった(投手として8回の受賞は西本聖と並び史上最多タイ)。

投手としては恵まれない体格ながら、理想的な投球フォームと、野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とするプロスポーツ選手も多い[注釈 14]

人物[編集]

大阪出身でありながら、メディア(特に全国中継でのTVインタビュー、誌上)等で関西弁を出す事は滅多になく、ほとんどを所謂“標準語”で通している。怒る際は関西弁が出るとのことで、本人曰く「関西弁が出てる時は怒ってるんでしょうね」とのこと。

現在の日本の野球の指導のあり方に不満や問題点を挙げており、スポーツニュース(特に準レギュラーの『S☆1』)や野球中継の解説などでよく持論を披露する。技術指導に関するもの以外でも、質ではなく単に量のみ求める長時間練習や、グラウンドで飲酒喫煙をするアマチュア野球指導者の姿勢、年長者や指導者に絶対服従、指導中や負けた場合の鉄拳制裁(体罰)は当然、といった日本野球界特有の体育会系思想を批判している[52]。2013年1月12日付けの朝日新聞社会面では、体罰について「私は、体罰は必要ないと考えています。“絶対に仕返しをされない”という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツとして最も恥ずかしき卑怯な行為です。」と答え、「指導者が怠けている証拠で」あるとした。

非喫煙者かつ嫌煙家。自分も含めた非喫煙者が受動喫煙させられることに立腹し、スタッフに働きかけ、移動用バスは禁煙車と喫煙車に分乗、また「ロッカールームは禁煙、食堂は喫煙」と分煙化を達成。春先のキャンプでは禁煙ルームを設置できないので全面禁煙化を達成させた[53]

趣味はワイン、ピアノ、英会話。

ビル・ガリクソンは巨人在籍時代に桑田と仲が良く、息子のミドルネームに「クワタ」と名づけるほど親しい間柄だった。また桑田の選手生活晩年にメジャー挑戦を決意させたのも、この頃ガリクソンが桑田にメジャーについて語ったことが大きく影響している。

既婚者で2男の父。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1986 巨人 15 12 1 0 0 2 1 0 -- .667 261 61.1 64 13 17 1 1 57 2 0 36 35 5.14 1.32
1987 28 27 14 2 4 15 6 0 -- .714 823 207.2 177 16 43 4 5 151 1 0 59 50 2.17 1.06
1988 27 27 5 1 0 10 11 0 -- .476 806 198.1 174 19 53 13 5 139 4 0 80 75 3.40 1.14
1989 30 30 20 5 4 17 9 0 -- .654 995 249.0 214 18 54 3 9 155 6 1 77 72 2.60 1.08
1990 23 22 17 2 2 14 7 0 -- .667 748 186.1 161 12 40 1 1 115 2 1 58 52 2.51 1.08
1991 28 27 17 3 0 16 8 1 -- .667 934 227.2 192 17 58 4 5 175 8 0 89 80 3.16 1.10
1992 29 29 11 3 0 10 14 0 -- .417 912 210.1 235 24 64 3 5 152 9 1 112 103 4.41 1.42
1993 26 26 8 1 0 8 15 0 -- .348 745 178.0 162 15 61 6 6 158 5 0 85 79 3.99 1.25
1994 28 27 10 1 3 14 11 1 -- .560 836 207.1 175 16 51 8 4 185 6 0 65 58 2.52 1.09
1995 9 9 3 1 0 3 3 0 -- .500 265 65.1 53 2 18 1 2 61 2 0 22 18 2.48 1.09
1997 26 26 0 0 0 10 7 0 -- .588 580 141.0 127 15 37 1 5 104 1 0 68 59 3.77 1.16
1998 27 27 7 1 0 16 5 0 -- .762 779 181.0 197 17 46 0 6 116 4 1 88 82 4.08 1.34
1999 32 22 2 0 0 8 9 5 -- .471 608 141.2 137 17 57 2 4 100 6 1 69 64 4.07 1.37
2000 30 10 0 0 0 5 8 5 -- .385 385 86.0 103 6 28 5 3 49 0 1 43 43 4.50 1.52
2001 16 8 0 0 0 4 5 2 -- .444 226 50.1 56 4 19 4 0 31 0 0 29 27 4.83 1.49
2002 23 23 3 1 0 12 6 0 -- .667 640 158.1 138 13 38 2 3 108 3 0 51 39 2.22 1.11
2003 14 13 0 0 0 5 3 0 -- .625 314 71.1 92 13 16 1 3 46 1 1 48 47 5.93 1.51
2004 16 16 0 0 0 3 5 0 -- .375 357 79.1 100 16 28 1 4 39 4 0 58 57 6.47 1.61
2005 12 12 0 0 0 0 7 0 0 .000 238 49.2 65 7 23 2 5 34 4 0 43 40 7.25 1.77
2006 3 3 0 0 0 1 1 0 0 .500 55 11.2 19 4 1 0 0 5 0 0 11 9 6.94 1.71
2007 PIT 19 0 0 0 0 0 1 0 3 .000 103 21.0 25 6 15 4 1 12 0 0 23 22 9.43 1.90
NPB:20年 442 396 118 21 13 173 141 14 0 .551 11507 2761.2 2641 264 752 62 76 1980 68 7 1191 1089 3.55 1.23
MLB:1年 19 0 0 0 0 0 1 0 3 .000 103 21.0 25 6 15 4 1 12 0 0 23 22 9.43 1.90
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算打撃成績[編集]





























O
P
S
日本通算 478 890 75 192 34 5 7 257 79 0 0 110 8 41 0 0 265 12 .216 .248 .289 .537
  • メジャーリーグ在籍時は打席に立っていない。
  • 打率・出塁率・長打率・OPSは、通算38本塁打の金田正一(打率.198・出塁率.238・長打率.287・OPS.524[注釈 15])や通算21本塁打の堀内恒夫(打率.172・出塁率・196・長打率.262・OPS.459)よりも上である。

タイトル[編集]

NPB
  • 最優秀防御率:2回 (1987年、2002年)2002年における15年ぶりの受賞は、連盟表彰となるタイトルの最大ブランクである。
  • 最多奪三振:1回 (1994年)

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB打撃記録
  • 初安打:1986年6月5日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、5回裏に佐藤秀明から単打
  • 初打点:1987年4月28日、対中日ドラゴンズ4回戦(ナゴヤ球場)、2回表に鈴木孝政から先制2点適時打
  • 初本塁打:1987年7月8日、対広島東洋カープ11回戦(札幌市円山球場)、4回裏に北別府学から先制決勝3ラン
NPB節目の記録
  • 1000投球回数:1991年6月21日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(東京ドーム)、2回表3死目に達成 ※史上242人目
  • 1000奪三振:1993年6月12日、対中日ドラゴンズ10回戦(ナゴヤ球場)、1回裏にアロンゾ・パウエルから ※史上89人目
  • 1500投球回数:1993年9月29日、対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤ球場)、2回裏1死目に達成 ※史上137人目
  • 100勝:1994年7月6日、対阪神タイガース15回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上111人目
  • 1500奪三振:1998年6月17日、対中日ドラゴンズ13回戦(東京ドーム)、4回表に山崎武司から ※史上42人目
  • 2000投球回数:同上、9回表3死目に南渕時高を右飛で達成 ※史上78人目
  • 150勝:2001年8月10日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、先発登板で7回1失点 ※史上44人目
  • 2500投球回数:2002年8月13日、対ヤクルトスワローズ20回戦(東京ドーム)、3回表3死目に佐藤真一を遊撃ゴロで達成 ※史上42人目
その他の記録
  • オールスターゲーム選出:8回 (1987年 - 1989年、1991年 - 1994年、1997年)
  • 危険球退場:3回 ※NPB最多記録(2008年に3度記録の浅尾拓也とタイ記録)
    • 1995年4月8日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、9回表に飯田哲也
    • 1999年9月12日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に八木裕
    • 2005年8月14日、対阪神タイガース15回戦(東京ドーム)、1回表に矢野輝弘

背番号[編集]

背番号18の桑田真澄(2006年)
  • 18 (1986年 - 2007年)

関連情報[編集]

CM出演[編集]

テレビ番組[編集]

  • 桑田式スポーツK営学(BSジャパン
    自身としては初めてテレビ番組のMCを担当した。

著書[編集]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ イタリア語で『こころの友』の意
  2. ^ 八尾フレンドの入団時期については文献により記述が一致しない。「野球バカ」P33、「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」P178、(文庫版)P226には小3と記載。「試練が人を磨く」P120、(文庫版)P138では「少年野球には、小学4年生から参加した。初めて硬式のボールを握れる。」と記載。「野球を学問する」P57では「平田『で、小学3年生の時に、小6のチームに入ることになるんですよね。』桑田『はい、そこでまた(いじめを)やられましたね。』平田『小学生の時に一度野球をやめたことがあると伺いましたが…。』桑田『その3年生の時です。2~3ヶ月でやめちゃったんです。だから、3年生から4年生の間は、壁に向かってボールを投げたり、自分で遊んでいただけでした。この間は野球らしい野球はしていません。』、同P60では「桑田『5年生になって、ようやく違う野球チームに入ったんです。そこは5年生のチーム、6年生のチームと分かれていたので、先輩からはやられませんでしたが、やはり監督、コーチからは(しごきが)すごかったですね。』」と記載。3年で入団したチームと5年で入団したチームが同じなのか違うのか、真偽は不明である。
  3. ^ 父泰次の著書である「野球バカ」第2章に、詳細な記述がある。例えば、古タイヤをバットで叩く練習で腰を鍛える方法や、げんのう五寸釘を木屑に打ち込んで手首を鍛えたりする練習方法の記述がある。またキャッチボールではミットを動かさないようにして投げた球が逸れると自分で取りに行かせる方法でコントロールをつける練習、正しい捕球の仕方を覚えさせる為にグローブの綿を抜くなど、その他多くの方法で練習、特訓をしていた。親子の特訓は小4から中学卒業まで続いた(「野球バカ」P44)。
  4. ^ 「野球バカ」P105-114によると、桑田と同じPL学園に進みたいというチームメートをセットで入学させようと顧問が画策させていたとのこと。PL側は結局希望していたチームメイトに形式的なセレクションテストを行い2人が合格した。その合格した際の顧問の発言に不信感を持ち学校側ともめた為に最終的に引越し転校することとなったといった内容の記述がある。 「野球を学問する」P61では「桑田『最終的には、“勉強のレベルも高く、野球も強いから、ここでどうだ”と、ある高校を提示されました。そこは僕が行けば、他に5人取ってくれるんだということでした。』平田『でも桑田さんはPLに行きたかったんですよね。』桑田『はい、“先生、僕はPL学園に行きたいんです。夢なんです。” “ダメだ。うちの中学からPL学園には誰も行ったことがないし。とにかく、お前はここに行け。ここに行けばみんな喜ぶんだ” “いや、先生、それでも僕はPLに行きたい”と、そんな状態です。結局、学校側は“お前を絶対にPL学園には行かせない”ということで、中学3年の3学期に、隣の中学校に転校しました』」と記載。なお、「野球バカ」P102によると最終的に16の高校から勧誘を受けたとのこと。
  5. ^ 「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」P179、(文庫版)P228、「試練が人を磨く」P28-29、(文庫版)P46-47、「Number」720号「桑田真澄 球友へのメッセージ」P81に「そうしたら、お母さんに『自分で目標にしてきた学校でしょ。簡単にあきらめちゃダメ。レギュラーになれなくてもいいから3年間、やり通しなさい』と言われて、思いとどまったんです。あのときから僕は身体のでかい相手に力で対抗しても無理だ、僕は僕らしくやるしかないと、そう考えるようになりました。自分のよさは何なのか。自分を生かすためには必要なことは何なのか。そう考えようと思った瞬間から、僕の中にあったキヨに対するコンプレックスは消えたような気がするんです」と記載
  6. ^ 「心の野球」P142-145、P126-127に清水の指導内容の詳細あり。一例として炎天下の投球練習で、構えた所に来たボールしか捕らず、逸れるとダッシュでボールを捕りに行かせる、桑田のみ補強運動の回数の追加、マッサージとタイル磨きの強制による指先の鍛錬、ローソクが消えるまで室内でシャドウピッチング、肘の強化の為のストレッチ、入浴時や食事の際に、試合の中での状況判断、配球、打者心理の読み方等の頭脳面の指導、バッティングのポイント指導など。
  7. ^ Number」153号「桑田真澄 たった一度の敗戦 不滅の記録、甲子園20勝投手の栄光と孤独」文:鈴木洋史 P12に桑田の1年でのメンバー入り要因として 1. 前年秋からレギュラーだった1級上の(投手も出来る)清水哲が肋骨を折り、メンバー入りが不可能だったこと 2. 上級生投手に不安があったこと 3. 清水一夫臨時投手コーチの進言があったこと 4. 3年の一部の父母から『今年は出られそうもないから、なんとかして有望新人の清原君と桑田君をメンバーに入れて、甲子園に出られるようなチームにして欲しい。3年の父母の間に摩擦が起こったら、私達が処理する』という要望が、間接的に監督にあったこと等記載
  8. ^ 「野球を学問する」P90に桑田自身の言葉として「当時は、甲子園の優勝投手は、プロでは通用しないというジンクスがあったんですよね。ぼくも体は小さかったですから、それで1年で優勝した=ダメだ、と。じゃあ、1年でも長くやるにはどうしたらいいかということで研究していったんですよね。」と記載。厳密に言うと「(夏の)甲子園の優勝投手は、(投手として)プロで通用しない」と、(夏の)と、(投手として)の、2つの限定をつけるべき。その論拠として、戦後1946年以降、桑田の最終学年の1985年まで単純計算で40人近い夏の甲子園の優勝投手が存在したが、プロでの通算勝利数で、200勝以上は皆無(2013年シーズン終了時点でも同様)、桑田の出現までは、尾崎行雄の通算107勝が最高(尾崎は肩を痛め29歳で引退)だったことが挙げられる。桑田の通算173勝は、いまだに「夏の甲子園の優勝投手」の「プロでの通算勝利数」として1位(戦後)である。「夏の甲子園の優勝投手」と「プロでの投手としての活躍」を両立したという意味で、桑田は極めて例外的な存在。なお、戦前の夏の優勝投手を含めると、野口二郎の通算237勝、真田重蔵の通算178勝の記録がある。また、春の選抜の優勝投手のプロ通算勝利数としては、平松政次の通算201勝の記録が挙げられる。
  9. ^ 週刊読売」1985年12月29日号「初の単独インタビュー 桑田真澄 胸の内を明かす 聞き手:山際淳司」P17に、「桑田『夏の大会が終わってドラフトまでの約3ヶ月、学校の方からは一度も退部届を出せと言われなかったし、早稲田への推薦入学の手続も取っていましたから、それ以上考えようがなかった。でもね、僕はどんな無理な状況でも1パーセントの可能性は信じている方なんです。それと僕は神様を信じます。ドラフトまでの3ヶ月間、朝と晩祈ってました。いい結果を下さい、と。』山際『いい結果というのは?』桑田『大学へ進んだ方がいいと神様が思うのであれば早稲田に行かせて下さい、そうでないならば好きなチームの指名を下さいということです。』山際『つまり、巨人ということだね。そしたらそれが現実になった。』と記載。また、「Number」153号「桑田真澄 たった一度の敗戦 不滅の記録、甲子園20勝投手の栄光と孤独」文:鈴木洋史 P14に「桑田が奥津城(おくつき:PL教団の歴代教祖の墓所)で祈っていたことの一つは、(首の骨を折った)清水哲の回復である。もう一つ、桑田が祈っていたのは、他ならぬ、自分自身の“進路”のことであった。ドラフト後、桑田は、PL教団関係者にポロポロと涙をこぼしながら、こう告白している、『何度も、何度も祈っていたんです。自分に一番よい結果を与えて下さい、と』。小遣いは、好きな牛乳に使う以外、全て遂断金(しきりきん:祈りの時に捧げるお金、布教の為に使われる)に費やしていたらしい、と母親の敏恵は言う。桑田は祈れば通じると、信じている子だと、教団関係者は言う。桑田は今でも、折を見て、PL教会に通っている。『1パーセントの可能性に賭けていたんでしょう』(母親の敏恵)」と記載。
  10. ^ 手術後、ボールが投げられない期間が続いたが「ボールは投げられなくても、下半身は鍛えられる」とジャイアンツ球場の外野をただランニングし続けた。桑田が走り続けた部分は芝が剥げ上がり「桑田ロード」と呼ばれるようになった([1]他)。
  11. ^ ただし、堀内自身の現役最後の5年間は全て4勝未満である。
  12. ^ 「巨人軍の18番を守り続けてきた男に対してする処遇か? あまりにも寂しい。巨人の18番を守り続けるのがどれ程大変な事か。」など。
  13. ^ 一例として、達川光男は、自身のMSNのコラム「モノが違いますね」(連載終了)「第15回 甲子園が生んだ新旧のスター」(2007年8月24日掲載)で、「桑田という選手は、本当に何でもできる選手でした。ピッチャーとしての能力は言うに及ばず、牽制はうまい、守備はうまい、打撃も野手顔負け。」「ピンチの時にバッターが8番の村田で、ピッチングコーチが村田を敬遠して桑田と勝負しろと言ってきたんです。「いやいや、村田より桑田の方がいいバッターだから、もう一度ベンチで考え直して下さい」と言いましたよ。」と記載。[2]
  14. ^ 一例として、「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」の著者・石田雄太による(文庫版)「あとがき」P283に、「当時、横浜高校の3年生として春のセンバツを目前に控えていた松坂大輔は、発売日にわざわざ書店に出向いてこの本(「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」初版)を買ってきたのだと、後日、本人から聞かされた。」と記載
  15. ^ ただし、金田の場合、プロ入り4年目までは犠飛がカウントされず打数になっていたため、打率・長打率・OPSは現在の計算方法だと若干異なってくる。

出典[編集]

  1. ^ 「野球バカ」P26-27、チーム名は「週刊読売」1985年12月29日号「アルバム特集 桑田真澄、野球とともに17年の全雄姿」のモノクロページに記載
  2. ^ 「野球バカ」P77
  3. ^ 「野球バカ」P86
  4. ^ 「野球バカ」P89
  5. ^ 「野球バカ」P100
  6. ^ 「野球バカ」P100-101、「夢のつづき」P33
  7. ^ 「野球バカ」P92-P93
  8. ^ 「野球バカ」P101によると桑田は全5試合で完投し合計37イニングを投げて被安打11、失点1、奪三振44だったとのこと。
  9. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P40-41
  10. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P46-47
  11. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P60
  12. ^ 「不惑 桑田・清原と戦った男たち」P63
  13. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P44-45に桑田自身の言葉として「僕なんかは、桑田は向こうにいっておけという感じで、同じ1年生でも清原、田口は来い、と。こんなでした。1年生で5人が練習試合とかに出して頂いたんですけど、清原4番と、エース田口は決まりなんです。」と記載。また、「野球バカ」P121-122にもほぼ同内容の記述があり、入学当初からこの2人のみがレギュラーと同じように練習を行っており、桑田は球拾い扱いであったとのこと。桑田の当時の身長は「野球バカ」P123に記載。
  14. ^ 「野球バカ」P136
  15. ^ Number」720号「桑田真澄 球友へのメッセージ」P81に「キヨ(清原)の他にもう一人、同期に田口権一という192cmもあるピッチャーがいて、彼もレギュラー組で練習していました。田口とキヨ、二人の1年生がPLに入ってすぐにエースと4番ですよ。3年間、僕はどうすればいいんですか。練習を見に来ていたスカウトの『すごい』『ホントに1年生か』って話す声が聞こえてきて、でも自分は球拾いだし、もう絶望しかないじゃないですか。僕はコンプレックスに苛まれて、野球をやめようと思ったんです。まだ5月でした。すぐお母さんに、『PLじゃ無理だ、野球をやめるから転校させてくれ』と言いましたね。」と記載
  16. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「1ヶ月間で、地獄から天国に上がったみたい。あの時優勝したグローブだけは、宝物として持っています。もう辞めさせて下さいと言いに行こうかと思いながら、ずっと汗を流してきた思い出のあるグローブですから」と記載
  17. ^ 「野球バカ」P117
  18. ^ 「心の野球」P126、140
  19. ^ 「心の野球」P141
  20. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P76-77
  21. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77
  22. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「予選の場合ベンチに入れるのは、大阪では17番までです。僕、ぎりぎり17番に入ったんです。どうしてかわからないですけど。でも、3年生で外れた人がおるでしょう。その人から文句を言われたり、みんなに攻撃されたりして、それも嫌だった。ホント、やめたかったです。」と記載
  23. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P52に桑田自身の言葉として「弱いチームにアップアップで勝つという状態で、ピッチャーがいなくなったんですよ。」と記載
  24. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77
  25. ^ 週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に桑田自身の言葉として「後で聞くと、監督はすごい反対したんですけど」と記載
  26. ^ 「報知グラフ」1991年-2「一冊まるごとホントの桑田真澄」P77
  27. ^ この表現は桑田自身のインタビューでの発言。「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45に記載。「野球バカ」P141-142にほぼ同内容の上級生の口撃内容記載。
  28. ^ 「野球バカ」P142
  29. ^ 「心の野球」P187-188
  30. ^ 「野球を学問する」P79-81、P89-90、「心の野球」P114-116、「桑田真澄 ピッチャーズバイブル」P174、(文庫版)P221
  31. ^ 「野球を学問する」P90-91、「試練が人を磨く」P138-139、(文庫版)P156-157、「Number」759号「1984決勝 PL学園vs取手二 血染めのボールに誇りを込めて」文:石田雄太 P24では、桑田自身のコメントとして「まっすぐとカーブで高校生を抑えられないようなピッチャーは、プロで大成するわけがないと思っていた」と記載。
  32. ^ 「野球バカ」第5章によると、「最後まで進学かプロ入りかを相当迷っていたこと」、及び「巨人希望であった清原への配慮などから自身も巨人が希望球団の1つであったことを言い出せなかった」等の内容が記述されている。
  33. ^ 2008年末、TBS系列で放送された「カリスマ白書」
  34. ^ 週刊ポスト」1985年12月13日号 P40は「皆さんは、清原君だと思っていたでしょうが、私どもは、ずっと以前から桑田君に決めていました。勿論、獲れる勝算はありと判断してのことです」とドラフト指名直後の王の談話を紹介
  35. ^ 週刊ポスト」1986年1月1日号 「独占!新春名球対談 金田正一VS王貞治」P56に「金田 『どの時点で決断したの?』王『指名の候補者は投手と野手に分けてリストアップしてたわけ。桑田は投手部門の一位。』金田『バッターは?』王『当然、清原です。走攻守全部のリストを見て桑田は投手のトップなんですよ。』」という発言あり
  36. ^ 週刊ポスト」1986年1月1日号 「独占!新春名球対談 金田正一VS王貞治」P55に王の発言として「強烈に印象に残っているのが、春の甲子園での三重殺だね。無死一、二塁でバント飛球をダイビングキャッチして、その後の処理の素早さ。すごいよ。」と記載
  37. ^ 「野球バカ」P193
  38. ^ スポーツニッポン (2010年7月8日). “日めくりプロ野球10年7月 【7月8日】1987年(昭62) 20年ぶりの10代10勝 桑田真澄、北の大地でワンマンショー”. 2010年9月4日閲覧。
  39. ^ 東京高裁 平成13年(ネ)第5556号 謝罪広告等請求控訴事件
  40. ^ 「試練が人を磨く」P70-72、(文庫版)P88-90
  41. ^ 「試練が人を磨く」P84-86、(文庫版)P102-104
  42. ^ 『プロフェッショナル』ISBN 4583036213(p.90~)。「帽子を目深にかぶり、マウンド上ではボールになにやら話しかけながら投げてくるふてぶてしい態度。メディアを通して伝わってくるストイックな生き方。(中略、巨人に移籍して間近に見て)12球団どこにいってもエースになれる存在だと感じた。
  43. ^ 「心の野球」P121-122
  44. ^ 「明日、ジャイアンツのユニホームでマウンドに立つのは、おそらく最後になるだろう」「21年間、大きく育てていただいた、ジャイアンツに心より感謝している。」など。
  45. ^ Masumi Kuwata: Biography and Career Highlights pirates.com: Players”. pirates.com. 2009年5月4日閲覧。
  46. ^ 引退表明の桑田投手「気持ちが納得できた」 < 2008年3月27日 14:02 >”. 日テレNEWS24. 2011年6月20日閲覧。
  47. ^ iza(SANSPO.COM) (2010年1月18日). “桑田真澄氏の父・泰次さん焼死 誕生日に自宅全焼”. 2012年11月23日閲覧。
  48. ^ スポーツニッポン (2010年1月18日). “桑田氏悲痛…父・泰次さんが焼死”. 2012年11月23日閲覧。
  49. ^ 朝日新聞 (2010年7月20日). “野球を好きになる七つの道”. 2010年9月4日閲覧。
  50. ^ 「統一球問題における有識者による第三者調査・検証委員会」メンバーについてのお知らせ(日本野球機構2013年6月25日付プレスリリース)
  51. ^ スポーツニッポン (2014年3月14日). “桑田氏が東大大学院合格 投手や野手の動作に関する研究行う”. 2014年3月14日閲覧。
  52. ^ 桑田真澄さん“体罰では強くならない” NHKニュース2013年1月11日18時4分
  53. ^ 「心の野球」P193-194

関連項目[編集]

外部リンク[編集]