王貞治
2006年WBC日本代表での王貞治
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1940年5月20日(71歳) |
| 身長 体重 |
177cm 79kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 一塁手 |
| プロ入り | 1959年 |
| 初出場 | 1959年4月11日 |
| 最終出場 | 1980年10月20日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1994年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì、1940年5月20日 - )は、日本生まれ・中華民国籍の元プロ野球選手、監督。
読売ジャイアンツの主軸打者として積み上げた通算本塁打数868本は、メジャーリーグのハンク・アーロンの755本を抜き、世界最高本塁打数記録である。その他数々の日本プロ野球記録を保持する。
日本国民栄誉賞の初受賞者。また、2010年文化功労者として顕彰される。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、日本プロ野球名球会会長、東京都名誉都民[1]並びに東京都墨田区名誉区民[2]・目黒区名誉区民にして、福岡市[3]かつ宮崎市[4]名誉市民である。
目次 |
[編集] 概要
父・王仕福は中国人(中国(当時は中華民国)浙江省青田県出身)、母・王登美は日本人。東京生まれ。
現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる。左投左打で内野手(一塁手)であった。現役引退後は巨人で助監督と監督、その後解説者、ダイエー・ソフトバンクの監督を歴任した。
2008年シーズン終了と同時に福岡ソフトバンクホークス監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。2009年1月1日より取締役会長に昇進。日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問。
巨人では入団から監督を退くまで背番号「1」を背に戦った。背番号に関して同一人物による途切れ無しでの30年間使用は日本最長である。1989年3月16日に巨人は1番を永久欠番に指定した。また、ダイエー・ソフトバンクでの監督時代の背番号89は、ホークスの永久欠番にするかどうかが検討されている。
第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の優勝監督でもあり、第2回大会では監督相談役を務める。ハンク・アーロンと共に世界少年野球大会を提唱し、大会を主催する世界少年野球推進財団の理事長を務める。「ふるさと清掃運動会」実行委員長。福岡市名誉市民(2004年12月16日選定)。墨田区名誉区民(2010年1月1日選定)。野球特別大使(2009年2月26日委嘱)。叙勲は中華民国二等景星勲章(2009年2月05日受賞)[5][6]。二女・王理恵はタレント。
[編集] 経歴
[編集] 少年時代
東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)で中華民国籍(1922年来日)の王仕福、日本人(富山県氷見市出身)の登美(旧姓:當住)の二男として生まれる。
5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は諸説あり、取り上げられても泣かない程の未熟児であったため両親が出生届の提出を躊躇したという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のため出生届の提出が遅れたなどの説がある。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は1歳3か月で死亡した。一方の貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と貞治本人が述べている。
太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。
後に師匠となる荒川博との出逢いは、区立本所中学時代、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかった隅田公園今戸グラウンドで王が出ていた野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。それを聞いて荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。それを聞いた王はすぐに左打ちを実践したところ二塁打を打ち、以後左で打つようになった。荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。
また、この出逢いの時から王は身長176cmと当時の若者としては長身だった王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えたのを受けて、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。
小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。
父・仕福は長男・鐵城を医師に、二男・貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが第一志望だった都立墨田川高校に落ち、荒川の母校である早稲田実業学校高等部商業科に進学することになった。当時、墨田川高校には硬式野球部がなく、後に王はこの受験失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と語っている[7]。
[編集] 早実高等部時代
早実高等部時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場。2回戦では1年生ながら先発登板を果たしたが、強豪・県立岐阜商業高校相手に1-8と敗れている。
1年秋よりエース。久保田高行総監督・宮井勝成監督の指導のもと、ノーワインドアップ投法を身に着け、投球に安定感が増した。春の甲子園で準決勝まで3試合連続完封。高知商業高校と対戦した決勝戦では8回に3点を奪われ4試合連続完封を逃したものの、5-3で完投勝利し、優勝。関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。2年夏の甲子園では2回戦の寝屋川高校戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成。延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。後年、王は「高校2年の頃が投手としてピークだったと思う。この後バッティングは良くなっていったけど、ピッチングはどことはいえないが、どこかおかしくなっていった」と語っている。
高2の年、早実は国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定(王は台湾国籍)のため出場できなかった(なお、現在はこの国籍規定は撤廃されている)。王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っているが、後年のインタビューでは「高校球児は甲子園こそ目標で、国体にはそこまでのモチベーションはなかった。今振り返ってもそういうこともあったな、程度。甲子園大会でそういう規定があったら悔やんでも悔やみきれなかっただろうけど」と語っている[7]。
3年生時の選抜大会では打者としても活躍、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った(なお、当時の甲子園球場はラッキーゾーンはあったが、高校野球も木製バットを使用していた。金属バットの使用が認められるのは1974年からである)。3年夏は、東京都予選の決勝戦で明治高校と対戦、1-1で迎えた延長12回表に4点を奪いながらその裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し5季連続の甲子園出場は果たせなかった。このとき、早実の野球部長の音頭により、甲子園本大会に向けて大阪に出発する明治高校ナインを早実野球部員全員で東京駅にて見送った。もともと王は父の意向もあり大学進学を考えており、高2夏にはすでに読売ジャイアンツより誘いがあったが、大学進学を考えていたため断っている[7]。王は「もし5季連続出場を果たしていたら野球にけじめをつけて大学にいっていたと思う。最後に出られなかったことで気持ちが宙ぶらりんになった」と語っている[7]。
高校時代の王貞治は好きな同い年の女性がおり、その女性と頻繁にラブレターのやり取りをし、卒業時には段ボール一杯になるくらいの量になった。その女性はその後松竹で女優となった牧紀子で、高校卒業後は両人とも忙しく、付き合いがなかった(2009年11月7日の『読売新聞』38面より)。
プロ野球の各チームが熱心に誘ったが、特に熱心だったのが巨人と王に縁の深い甲子園を本拠地とする大阪タイガース(阪神)だった。東京で生まれ育った王は「プロに行くなら巨人」と考えていたが、新聞は「王、阪神へ」と大きく報道、親も高卒選手の多い阪神を薦めていたため、気持ちは非常に揺れ動いたという。しかし、最後は自分の気持ちを貫き、巨人入団を決めた。兄・鉄城が同意してくれたことも心強かったと言う[7]。
[編集] 現役時代
[編集] 低迷期・1959年 - 1961年
1959年に契約金1,500万円、年俸144万円、背番号1という高卒新人としては破格の条件で巨人に入団(なお、前年に大卒で入団した長嶋茂雄の契約金も1,500万円だった)。背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によってたまたま1が空いていたため、それを付けることになったというのが実情である。プロ入りの同期には村山実、板東英二、河村保彦、江藤愼一、田中俊幸、張本勲、足立光宏らがいる。
当初は投手として入団したが、監督の水原茂に「王、お前はピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。
当時エースの藤田元司は王の印象として、「甲子園で活躍するなど高校時代に頑張りすぎたのか、僕が見る限り投手としての王君はくたびれていましたね」と語った。また、前年に引退しこの年からコーチになった川上哲治は、「何というか、球筋がやさしいんですね。“おおっ”っていうのがない。しかしバッティングはすごかった。」と語っている。川上によれば、王のバッティングは構えからスイングまで全く顔が動かず、18歳の若さで既に基本が完成していたという。当時二軍監督だった千葉茂は練習後に王と入浴した際、「王の体格には驚いた、非常にいい筋肉をしておる。ただし、いかり肩で大成した投手はいないだけに、投手としては厳しいだろう」と感じ、水原に「ピッチャーとしてはあきまへん。でもバッターなら川上の半分は打ちます」と野手起用を進言した。
王自身は「(自分が投手として通用しないことは)薄々感づいてはいた。だけど、やはり野球をやる者なら誰でも投手に憧れるもので、『おまえ、明日からは野手だ』と言われた時は正直に言えば寂しかった」と語っているが、川上の引退直後であり、その後継一塁手としての期待は大きかった。ライバルはこれも既に峠を過ぎていた与那嶺要くらいで、その与那嶺もキャンプでの王の打撃練習を見て「ボク、(一塁のポジション争いではかなわないので)外野手に戻るよ」と言ったという。
オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、4月11日に国鉄スワローズとの開幕戦では高卒新人ながら7番・一塁で先発出場を果たした。しかし、この試合で金田正一と対戦し、3打席で2三振1四球に終わった。この結果は長嶋茂雄の初試合4打席連続三振とよく比較される。これをきっかけにオープン戦と一転して当たりが止まってしまい、26打席無安打が続いた。
4月26日の対国鉄戦(ダブルヘッダー第2試合)7回表、0-0、ランナー一塁という場面で王に打順が回った。水原は代打策も考えたが、当時チームは開幕戦こそ金田の前に敗れたもののその後8連勝するなど開幕ダッシュに成功、国鉄戦もこの日の第1試合を含め4連勝中と余裕があり、また、この日の王の打順は8番で次打者が投手だったため代打を温存したかった事情もあり、王をそのまま打席に送った。国鉄の村田元一が投じた内角カーブをすくい上げた打球はライトスタンド最前列に落ちた。プロ初安打がホームラン。これが王の記念すべき1号本塁打となった。
同年6月25日の天覧試合では7回、2-4と2点ビハインドの場面で小山正明から4号同点2ラン。これが長嶋茂雄とのONコンビ・アベック本塁打1号である。
しかしそれ以外はほとんど目立った活躍もなく、1年目は.161、7本塁打と当初の期待からすれば物足りない結果に終わった。特に目立ったのが72を数えた三振の多さで(2.7打数に1三振に相当)、「王は王でも三振王」などと野次られる始末だった。ただし、主力選手でも遠慮していた水原監督の隣の座をいつも占め、「監督、今の一塁手のプレーにはどういう意味があるのでしょうか?」と堂々と質問したり、記者から「(不振の)重圧はありませんか?」と尋ねられても、「別に。使っているのは監督さんですから」と答え、新人としては異例の姿勢だった。また、期待はずれの成績にもかかわらず、2年目の年俸は推定140万円から160万円にアップした。これは練習の球拾い時に自腹で専用の糸を購入し丁寧にボールの破れを修繕していたことを球団代表が評価したため。なお、この球団の評価に感銘した王は、以後現役引退するまで一度も契約更改でもめることはなかった。1974年の更改は2年連続三冠王にもかかわらず現状維持であったが、それでも文句一つ言わずサインしている。
プロの水に慣れた2年目は.270、17本塁打(このシーズンのチーム最多)と主軸として恥ずかしくない成績を残し、オールスターゲームにもファン投票選出された。これは、東京六大学野球の大型一塁手・木次文夫の入団で危機感を抱いたことも好影響を及ぼしたといわれる。しかし三振も101個と依然として多かった。
3年目の1961年、川上が水原の後を継いで監督に就任。川上は王に長嶋に次ぐ中心打者としての活躍を期待したが、.253、13本塁打と2年目より成績を落とし、期待に応えることはできなかった。この年中日に入団し、ルーキーながらエースとして活躍した権藤博は王について「速球はある程度対応してくるけど、カーブを投げておけば簡単に空振りして尻餅をついていた。かわいいもんだと思った」と語っている。高卒3年目としてはそれなりの成績は出していたが、契約金の額や首脳陣の期待からすれば物足りない数字だった。
大きな期待がかかりながら伸び悩む王には、阪急ブレーブスのエース・米田哲也との交換トレードの話も持ち上がっていた(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。
[編集] 転機の1962年 一本足打法
1961年シーズンオフ、荒川博が巨人の打撃コーチに就任する。荒川就任は、読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの[8]であり、川上は榎本喜八を育てた荒川の打撃コーチとしての手腕に王を託した。川上は、王について「3割、25本塁打は十分打てる素質がある」と見込んでおり、その見込みに対して成績が思うように伸びない理由は、練習に身が入らない(王はしばしば寮を脱走して夜遊びをした)ために結果が出ず、そのために自信を持てず、更に練習に身が入らない、という悪循環のためだと考えた。川上が荒川に最も強く期待したのは、王に練習に身を入れるように意識改革をさせることだった。61年の秋季キャンプで久々に王を見た荒川は「なんだ、こんなスイングではドッジボールにも当たらんぞ。遊びは上手くなったかもしれんが、野球は下手になったな」と言い放った。王は内心カッとなったが、言い返せなかった。しかし、荒川は同時に「これだけ悪い打ち方(荒川の説明では、王は打ちにいく際に、手足の動きがバラバラで不安定・一定でないため、簡単にスイングを崩される)でも、.270打ったこともあるのだから、やはり素質は素晴らしい」と感じたという。
荒川は、王はプロの速球に対応しようとするあまり、ボールを前に迎えに行ってしまうためにグリップポジションが安定しないことが欠点であると判断し、それを修正するためにさまざまなフォームを試した。そのうちの一つが一本足打法だった。ただし、キャンプの時はいくつか試した打法の一つに過ぎず、ほんの2・3日練習しただけだった。
1962年シーズンが開幕。川上は王への期待を込め、開幕戦(4月7日、対阪神)で公式戦では初めて王を4番で起用した(公式戦以外では、前年の日本シリーズ第1戦、第2戦にて王を4番で起用していた)。しかし、3か月経ってもわずか9本塁打と成績は伸びず、特に6月後半は極度の不振に陥っていた。自信を持てない王は荒川との練習にも身が入らなかったという。チームもなかなか波に乗れず、2位と3位を往復するばかりの状態だったシーズン半ば「王が打てないから勝てないんだ」と八つ当たりぎみに別所毅彦ヘッドコーチが荒川に言い、「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返す。しかし、別所は上げ足を取るように「そのホームランだけでもいいから打たせろ」と怒鳴った。困り果てた荒川は、この日(7月1日)の試合前に一本足で打つことを王に命じた[9]。
なお、王本人によれば「一本足を始めた経緯は記憶が定かでない。(中略)僕自身は普通の打ち方で打ってるつもりだった。でも、4年目のシーズン中にどうしても食い込まれることが多くて、それならいっそのこと右足を上げて打ってみろと。その打席で大爆発した」とインタビューで答えている[10]。
1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー(15、16回戦)(川崎球場)は前日夜半から当日昼までの降雨の影響により試合開始が30分遅れた。前夜の試合(14回戦)では22歳1ヶ月の王を3番打者に起用したが不振、チームも左腕鈴木隆に1安打完封されて藤田元司の1安打完投を援護できず0-1で敗戦していたので、この日の第1試合で王は1番打者に起用されて一本足打法を敢行。先発のルーキー右腕稲川誠から第1打席2ストライク0ボールからの3球目の外角カーブを右前安打、3回表の第2打席初球の内角ストレートをライトスタンドへ先制の10号ソロ本塁打(通算第47号、16試合68打席ぶり)、3番手の左腕権藤正利から6回表二死満塁でカーブを中堅左に安打して走者一掃、結果5打数3安打4打点と活躍し、試合は王・森・塩原明・藤本伸の計4本塁打を含む13安打の猛攻と中村稔の完封とで読売が10-0で勝利した。第2試合での1番打者の王は4打数無安打であったが、遊撃手・8番打者の藤本伸の殊勲打により3-1で読売が連勝。後に荒川コーチは「あの日ヒットが出なかったら一本足打法は止めさせていた」と語っており、たった一日で王の運命が左右されたことになる。ただし、この頃の王はフォームを変えることが珍しくなく、7月1日の試合におけるフォームの変化については、翌日の新聞は巨人の親会社である読売新聞をはじめほとんど報じていない。7月に入り王が立て続けに2本、3本と本塁打ペースが上がってきたところで「そういえば変な打ち方しているぞ」と騒ぎ始めたと言う[7]。開幕の4月から6月まで9本塁打だった王は7月の1ヶ月だけで10本塁打と一気に本塁打の量産ペースを上げた。
王自身も結果が出てきたことで、一本足打法に本気で取り組む気持ちになり、猛練習に打ち込むようになった。その壮絶な努力はつとに有名である。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。また、剣道家・羽賀準一のもとに弟子入りし居合を習うとともに、日本刀による素振りの指導を受けた[11]。
特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは一本足打法の弱点を克服させるためであった。一本足打法は、投球のタイミングをずらされると通用しなくなるという弱点があった。7月1日に一本足打法を披露したものの、その後、国鉄の金田正一にこの弱点を見破られ、早くも壁にぶつかることになった。例えば、金田は速球を投げる素振りをして、スローボールを投げる等で打つタイミングをずらす投法に出たのである。荒川も弱点は把握しており、弱点が見破られるのは想定内と考えていた。そこで一本足で立って、巧妙な投球であっても対応できる訓練を王に課したのである。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という精神鍛錬の目的もあった。
このような王の練習がどれ程のものだったかは、当時チームメイトであった広岡達朗、藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ(広岡)」、「部屋の中は王くんの素振りの音と荒川コーチの声が聞こえるだけでしたね。王くんが少しでも悪い素振りをしたら『気を抜くな! そんなことなら、さっさと帰れ!』と荒川コーチに叱られ、王くんも『すみません、もう一回お願いします』と言って練習が再開される。あんな場に居合わせたら、胡坐をかいたり、寝そべって見られませんよ(藤田)」とコメントしている。
南海時代の野村克也も自身の著書『巨人軍論』の中で、王の練習の凄まじさを振り返っている。ある日、王と野村がそれぞれ友人を連れ銀座の飲食店で呑んでいた際、夜10時になったところで王が「ノムさん(野村の愛称)、悪いけど荒川さんとの練習があるので、僕はここで失礼します」と言い、野村が引き止めても、王は練習に向かった。その時、野村は「ああ…、俺はいつかこいつに抜かれるなあ…」(この逸話の段階では、野村のほうが王より通算本塁打数が上だった)と感じたという。その後、野村が荒川コーチに頼んで王の練習を見学させてもらったところ、ただ「すごい」と感じるのみで、とても王に話しかけることのできる雰囲気ではなく、「王の素振りに比べれば私のそれなんて、遊びみたいなものだった」「あれだけの練習した王だから、世界記録を作ってもなんら不思議ではない」と記している。更に「実績ある選手は周囲が意見できないことをいい事に、何かと言い訳をして手を抜きたがるものだが、王は一切妥協せず自分に厳しかった。中心選手はチームの鑑でなければならず、王はまさにそうだった」と評価している。
この年38本塁打、85打点で初めて本塁打王、打点王を獲得。以後、王は引退まで一本足打法を貫いて、この打法で822本塁打を記録。1977年の梶原一騎との対談[12]では「二本足でなら打率4割は狙える」と言う梶原に対し、「一本足がダメになったら引退だ」という趣旨の発言をしている。
前述のとおりルーキーシーズンは王をカモにしていた権藤博も、一本足打法になった王の変化に驚いた一人である。「全く隙のないバッターになった。こちらの思うところに完璧に投げられなければ抑えられない。球1個分外れればボールになるし、球1個分中に入ればホームランという感じだった」と語っている。
翌1963年、初めて打率3割、40本塁打を記録。長嶋とのコンビを「ON砲」と呼ぶ呼称も定着し、巨人の二枚看板を背負うようになった。
周知の通りこの打法で世界新記録が達成されるが、アメリカのメディアからは「フラミンゴ打法」とも言われるようになった。メジャーリーガーには「フラミンゴ・サダハル・オー」と呼ぶ者もいたが、これに由来するものである。1981年~1987年までは後楽園球場・1998年~現在は東京ドームの1番ゲートは「王ゲート」と称されているが、そのモニュメントで再現されている。また2002年に王の現役時代のバッティングを再現した「王貞治スーパーリアルフィギュア」(868体限定)が販売されたが、それにも一本足打法が再現されている。
[編集] シーズン55本塁打
1964年、国鉄との開幕戦(後楽園球場)で金田正一からライトへの場外本塁打を放つ。打球はライトスタンド場外に設置されていたローラースケート場の屋根まで飛び、推定飛距離151mとされている。金田からすると本塁打を打たれた球は「見逃せばボール球で、王から三振を奪える絶対的な球」と語っている。
この本塁打は金田の度肝を抜いたが、金田は一本足打法転向後も王をカモにしていたこともあり打たれた球種、コースを根気よく投げ続けるが、この年の王にはことごとく打たれたという。これにより金田は「長嶋は対戦する前から事前に研究をしたが、王は打たれてから研究した」と語っている(別のTV番組では、「ワシはバッターの研究なんてしたことがない。研究したのは王貞治が初めてだったね」と語っている)。この年、王は金田から同一投手に対するシーズン本塁打数のタイ記録である7本塁打を奪った。
5月3日の対阪神タイガース戦(後楽園球場)では1試合4打席連続本塁打を記録。この時点で既に17本塁打。手のつけられない打棒対策として、当時広島カープ監督の白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ、野手の内6人をライト側に守らせる「王シフト」と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。しかし、王は王シフトにも動じることはなく、その試合でも18号本塁打を叩き込んだ。
9月6日の大洋戦で52号、53号を叩き込み、前年に野村克也が作ったシーズン本塁打記録52本を一気に抜き去り、記録を55本まで伸ばした。これは今でもプロ野球記録である。55本塁打のうち24本は飛距離400フィート(約122m)以上という大リーグの球場でも十分にスタンド中段に届く大型ホームランであり、決して球場の狭さに助けられた記録ではない、と宇佐美徹也は評価している。この年、巨人は優勝しなかった(優勝は阪神)にもかかわらず、王はMVPに選ばれた。
それまで、王と荒川コーチは一本足打法に必ずしも強い執着を持っていたわけではなく、実際このシーズンのキャンプでは二本足に戻すことを検討していたほどだった。しかし「シーズン55本塁打」という偉業達成を機に、王は一本足打法こそ自身のバッティングスタイルであると確信した。 また、王は「自分は打率を気にするバッターではない」と語っているが、相手バッテリーが警戒して四球・敬遠が増えた関連で打率が残り始め、1964年は江藤愼一と最後まで首位打者を争い続けた。翌1965年も江藤と首位打者争いを繰り広げた。
[編集] ライバル対決
1968年9月17日の対阪神戦(阪神甲子園球場)にて、プロ2年目の江夏豊に稲尾和久と並ぶシーズン353奪三振を喫する。江夏はそこからわざと8人から三振を奪わず、再び王から新記録となる354個目の三振を奪って見せた。王はわざと三振を取らずに一巡させたことについては「俺はこれ(眉に唾をつける動作をしながら)だと思う」と懐疑的だが、江夏との対戦については「三振を恐れるようなスイングだけは絶対にしたくなかった。それに中途半端なスイングじゃ江夏の球は打てないしね」と常に全力で対決に臨んだことを証言している。王が最も三振を奪われた投手は最大のライバル江夏からであるが、その江夏が最も本塁打を打たれた打者は王である。そして約250回の対戦で死球は只の1回だけであり、関係者から指摘されるまで、お互いに死球はゼロだと思っていた。王は江夏について「『こいつは絶対に抑えてやる』『こいつから絶対に打ってやる』とお互いに強い意識を持った相手という意味で最高のライバルだったんじゃないかな」と語っている。
翌9月18日の対阪神戦では、ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーの元に詰め寄った。この時、王は第1打席でバッキーから死球を受けていた。第2打席は三振に倒れていたが、4回バッキーが巨人打線に捕まり、失策や3連打などを浴びており、長嶋も「バッキー、やばいぞ」とささやいてたところで迎えた第3打席、初球が頭付近への危ない投球となり、捕手の辻佳紀に「今度(危険球が)来たらもう我慢できんぞ」と言っていたところに2球目も腰の付近に来たというものであった(ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。その後、荒川コーチがバッキーと乱闘して2人が退場となった。更に交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤からレフトスタンドに3ランを叩き込み、事実上の報復を果たした逸話は有名である。王も頭部陥没骨折の重傷を負っていたが接骨医の懸命の治療で大事には至らず2試合欠場しただけで復帰し、復帰した試合では2本の本塁打を放っている。なお、この事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折。投手生命を絶たれる原因となった。
なお、王は1965年4月12日の対中日戦(後楽園球場)で中日の柿本実の長嶋への危険球を発端とする乱闘(この乱闘で金田正一が柿本に足蹴りを見舞い、退場となっている)でも乱闘に参加せずベンチで独り手を洗い水を飲んでいたという逸話があるほど争いを好まず、乱闘の口火を切ったのはこのバッキーとのいさかいが唯一である。
[編集] スランプ、そして三冠王
ますます一本足打法に磨きがかかり、打撃の確実性が増した王は1968年に初の首位打者を獲得。以後、1970年まで3年連続首位打者を獲得した。
しかし1971年シーズン後半、深刻なスランプに見舞われた。打席に立つのが「怖かった」と振り返る程の不振で、3年連続首位打者だった打率は.276まで降下、本塁打も39本に終わり、10年連続の本塁打王こそ守ったものの、8年続けていた40本にはわずか1本届かなかった。
しかし、同年9月15日の対阪神戦(甲子園)にて江夏に3連続三振を喫した後4打席目(9回表)に放った逆転3ランは王にとって756号に匹敵する忘れられない本塁打の一つだという。極度の不振に陥っていた中で打った本塁打だったこともあり、ダイヤモンドを一周する間号泣していた。王が「現役時代に唯一涙を流した本塁打」となった。この対決及び本塁打のことは江夏もよく覚えており、2人とも「このような対決こそが野球の醍醐味」と語っている。なお、この本塁打は通算485号。 また、同年の日本シリーズ第3戦(10月15日)では、当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志からシリーズの流れを決める逆転サヨナラ3ランを放ち、チームの日本一に貢献。この本塁打についても、「宙に浮くようなフワフワした気持でベースを一周したのは後にも先にもあれだけ」と語っており、通算本塁打にこそ含まれないものの、よく覚えているという。
一方、スランプは翌1972年まで尾を引き、あまりの深刻な不振に川上哲治監督も二本足に戻すことを勧めた程であった。しかし王は頑なに一本足打法を貫き、ついにスランプを脱出し、9月には公式戦7試合連続本塁打の記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、未だに日本プロ野球記録である。この年、前半のスランプの影響で打率こそ2年連続で3割を割ったものの、48本塁打と再び大台を突破、当時の自己最多の120打点を記録、復活を遂げた。
1973年、打率.355、51本塁打、114打点で王にとって初めての三冠王を獲得。この年、通算本塁打数でも野村克也を抜き、プロ野球歴代1位に踊り出た(1973年シーズン終了時・王585本、野村579本)。
翌1974年も打率.332、49本塁打、107打点で史上初の2年連続三冠王に輝いた。この年の8月4日、対阪神戦で、古沢憲司から史上8人目となる通算2000本安打を達成。
この頃になると、長嶋が既に現役最晩年で往年の打棒が望めず、他球団の警戒は王に集中していた。これは1973年の124四球(38敬遠)、1974年の158四球(45敬遠)という記録にも表れている。そんな中での2年連続三冠王は特筆に値する。特に1974年は四球と敬遠に加え、出塁数294、長打率.761も日本プロ野球のシーズン最高記録を更新、非公式の記録では出塁率.532、OPS1.293、本塁打率7.86などもシーズン最高記録であった。これらの記録の内、長打率以外の記録は未だに更新されていない。
しかし、当時の巨人は僅差の試合に非常に弱く、いかに王が怪物的な打棒を振るおうとも、チームの優勝争いでは苦戦を強いられていた。結果として、1973年には辛うじてシーズン最終戦でセ・リーグ優勝を決め、日本シリーズでも優勝したものの、1974年には中日にセ・リーグ10連覇を阻まれた。
[編集] 本塁打記録への挑戦
王の通算本塁打が600本を越えた頃から、王の記録がメジャーリーグの記録に迫るものであることが認知され始めた。折りしも1974年、ハンク・アーロンがベーブ・ルースを抜く715号を記録したことで日米ともに本塁打記録への興味が高まっていた頃であり、巨人の看板選手であった長嶋が引退したことも相まって、野球ファンの注目は王の記録に集まり始めた。
そんな中で1975年、キャンプ中に足を故障したことの影響で大きく出遅れ、33本塁打に終わり、13年守り続けた本塁打王の座を田淵幸一に明け渡すこととなった。この時点で王は35歳であり、限界説もささやかれた。
しかし、記録への挑戦をモチベーションとして翌1976年は再び打棒が爆発。64試合で30号に到達、オールスターゲームまでに32本塁打というハイペースで本塁打を量産した。「64試合で30号」は、2001年にアレックス・カブレラがタイ記録を作ったものの、現在も最速記録である。通算700号を目前にしてやや足踏みが続いたものの、オールスター戦明け間もなくの7月23日、通算700号を達成。なお、700号を打った川崎球場では、ホームチームでない選手の記録にもかかわらずスタンドインした付近のフェンスに記念プレートが設置された。
そして10月10日の対阪神戦で古沢憲司から2本塁打を放ちベーブ・ルースの714号に並ぶと、翌10月11日、山本和行から715号本塁打(シーズン48号)を放ち、一気にルースを抜いた。
同年、アーロンが引退。王の目標はアーロンの記録である755本に定まった。
[編集] 756号本塁打
新記録の756号まであと40本で迎えた1977年、マスコミやファンの興味が王の世界新記録に集まる中、開幕戦(対中日、後楽園球場)で満塁本塁打を放ち好調なスタートを切ったかに見えたが、その後はなかなか打球が上がらず、4月は打率こそ.350台をキープしていたものの月間わずか4本塁打に終わる。続く5月は極度の不振に陥り、打撃ベストテンからも名前が消えるほどになった。本塁打争いも好調なスタートを切った田代富雄、ハル・ブリーデン、山本浩二らに大きく差をつけられ、本人の口からも「アーロンの姿が見えたかと思ったらかすんでいく」と弱気な発言が出るほどだった。
しかし、5月の終盤から徐々に調子を上げ、7月終了までに26本塁打。そして例年最も本塁打を量産していた8月に猛スパート。8月11日には16年連続となる30号(通算746号)を記録、本塁打王争いでも首位を走っていた山本浩をついにとらえる。8月最も本塁打が出なかった期間は節目かつ新記録へのカウントダウンが現実味を持ちだす750号達成時の9日間で、あとはほとんどコンスタントに本塁打を量産。8月31日の対大洋戦でアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)を三浦道男から放った。8月だけで13本塁打の猛チャージをかけたことになる。
そして9月3日、対ヤクルト戦第2打席で、カウント2ストライク3ボールから鈴木康二朗の投球をライトスタンドへ打ち返し、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。
756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が贈られるはずとなっていたが、2日間本塁打が出なかったため製作していた花屋は30万円分のカーネーションを無駄にすることになった(ボランティア製作だったようである[要出典])。また一・三塁側スタンドには記録達成が近づくとそれぞれ3つずつ(計6個)のくす玉が吊るされ、記録達成とともに一斉に割られ(くす玉は800号達成時にも用意され割られた)、「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福した。
この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場一塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す瞬間もあり、球場からは「親孝行も日本一」の声が飛んだ[13]。
一方、756号を打たれたヤクルト・鈴木康二朗は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起し、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続けた(現在は野球ではなく、アマチュアゴルフで活躍している)。また、鈴木は日本プロ野球機構から[要出典]新記録を打たれた記念としてサイパン旅行を打診されたが、プロの意地としてこれを断っている。
日本テレビは当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。というのも、当時の中継は19:30からの放映で、記録を決めた19:10の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。なお、記録達成の映像は中継開始と同時にVTR再生されたほか、当日のスポーツニュースおよび深夜の特番「おめでとう王選手 世界新記録だ756号!!」で繰り返し流された。
この偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与された。また、756号を達成した後楽園球場では外野の落下地点に記念のモニュメントが設置された(現在は東京ドーム内の野球体育博物館に飾られている)。
王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記していることが多い(これは野球に限らず、どの球技についても同様である)。王の記録は、アーロン、バリー・ボンズやジョシュ・ギブソンの記録と並んで本塁打記録の一つとして記載されている。また、本塁打においては球場の広さも重要な因子となるが、王の現役時代に巨人が本拠地としていた後楽園球場は、当時のメジャーリーグの球場と比較しても著しく狭い球場であった[14]。
米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出し王の偉業を「無価値なもの」とし、大リーグでも非公認扱いとされている。とはいえ王を大いに評価する声も多く、ハンク・アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表し、紳士的に祝福しフラミンゴのはく製を記念にと王に贈っている。また、王を尊敬するメジャーリーガーも少なくない。後述の#アメリカでの評価も参照。
756号を打った9月3日は深夜までTV出演やインタビュー、祝福の電話の対応などでほとんど眠れなかったにもかかわらず、翌9月4日の対ヤクルト戦にも普段通り出場し、通算757号となるサヨナラ3ランを放った。これを含め、このシーズンさらに10本塁打を上積みし、自身3度目となる50本塁打を達成した。
記録への挑戦が続いた1976年、1977年の2年はそれぞれ49本、50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、連続でMVPに選ばれた。
[編集] 現役末期 - 1980年、そして引退
1978年には前人未到の通算800号を達成するが、本塁打は39本に終わり、本塁打王のタイトルは44本塁打の山本浩二に明け渡すことになる。この年は9月に日本プロ野球史上初の2000打点を記録し、8年連続となる打点王を確保するが、これが現役時代最後に獲得した主要打撃タイトルとなった。
1979年は、打率.285、33本塁打、81打点に終わり、一本足打法に切り替えた1962年以来、初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わった(ベストナインには選出)。16年間連続で続いていたOPS10割、100四球の記録もこの年は.980、89四球と衰えは誰の目にも明らかであった。なお、この年の9月21日の対阪神戦で唯一の代打本塁打を放っている(ちなみに長嶋茂雄は13度の代打出場があるが代打本塁打は1本も記録していない)。
そして1980年、打率は.236(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)、30本塁打、84打点に終わり、ついにベストナインの選からも漏れる。OPSにいたっては.803と一本足打法に切り替えた1962年以来では自己最低の数字であった。
30本塁打は一般的にはスラッガーとして恥ずかしくない数字だが、ファンが王に求める数字としては物足りないものであり、王自身もそれを自覚していた。それでも王は、30号本塁打を放った時のインタビューで「来年の目標? 笑われても言うよ、40本って」「来年は大台(通算900号)という目標があるからね。もうひと踏ん張りだね」と語ったり、圧縮バットが禁止される翌シーズンに向けて練習では白木のバットを使い始めるなど、現役続行に意欲を見せていた。後年、王自身が43歳まで現役を続けたかったと語っており[15]、既に引退した大豊泰昭や現役の小久保裕紀、松中信彦、タフィ・ローズなどの強打者に対し、「43歳まで頑張ってプレーしなさい」と伝えている。
ところが10月、長嶋茂雄監督辞任、藤田元司監督の就任が発表され、藤田から助監督就任を要請された。藤田は要請にあたり現役兼任を考えていたと語っているが、現役続行か引退か迷っていた王はこの要請を受け、ついに決断を下した。
同年10月12日の対ヤクルト戦で神部年男から打った本塁打が公式戦最後の本塁打(通算868号)となった。
11月4日、現役引退を表明。「王貞治としてのバッティングができなくなった」が引退発表時の言葉だった。王が後日、引退を決意した瞬間について、「その年(1980年)の後楽園球場での中日との試合で、先発した戸田(善紀)君の球がものすごく速く見えた。前の自分なら打てるはずの球が打てなくなったので、『ああ、俺ももう御仕舞いかなあ…』と思ったんだよ」と語っている。また、近藤唯之ほか複数の記者が王が試合中に当時流行していたルービック・キューブを回す姿を目撃しており、近藤はこの王の姿を見て「王はもう燃え尽きたんだ」と思ったという。また、王は「本当は1000本打つまで現役やりたかった。756号を境に周囲の目、環境、生活が一変してしまった。アーロンが755本で終わらずに900本も打ってくれていればなぁ」とも語っている[16]。
通算868号の本塁打を打ったバットは徳光和夫が所有しており、徳光が『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に出演した際に鑑定のため持ち込んだことがある。王は後述する八代亜紀のエピソードにもあるように、本塁打を打ったバットを知人にプレゼントすることが多かったため、当初徳光は自分の持つバットが本当に868号を打ったバットとは思わず、自宅で青竹踏み代わりに使っていたという。
引退表明から4日後の11月8日にナゴヤ球場で行われたセ・リーグ東西対抗戦では1本塁打を含む4安打と活躍、MVPに選ばれ、引退を惜しませた。この試合後、やはりこの年限りで引退する中日の高木守道と肩を組んでファンに手を振った。
11月16日、藤崎台県営野球場(熊本)で行われた対阪神・秋季オープン戦の最終打席にてライトスタンドへ本塁打を放っている。三塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチを飛び出し、王は一人ずつと握手を交わした後にホームイン。これが最後の打席・最後の本塁打となった。
引退セレモニーは11月23日のファン感謝デー・イベントの最後に行われ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置き、そのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行って、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行うように呼びかけた。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。
この時、堀内恒夫を投手として招いて正真正銘の最終打席を行った。が、堀内の渾身のストレートにより空振り三振に仕留められた。また入団時のポジションである投手に戻って堀内と勝負したが、こちらも堀内にレフトに本塁打を浴びた。王の最後の打席への堀内の投球は、1球目にドロップ(縦のカーブ)。2球目もドロップ。3球目にストレートであった。
1980年に現役引退をしたが選手時代の活躍を讃え、後楽園球場が閉場となる1987年まで1番ゲートは「王ゲート」と称された。また閉場の際、選手時代に主に巨人軍の一塁手として活躍したことから同球場の一塁ベースも寄贈されている。東京ドームとなってこのゲートの名前は一旦無くなるも、1998年に開場10周年を記念して同球場で1番ゲートは「王ゲート」として復活して現在に至る。
[編集] 監督時代
[編集] 巨人助監督・監督時代
1976年から1980年まで選手兼任コーチ、1981年から3年間巨人助監督を務め、監督・藤田元司、ヘッドコーチ・牧野茂とのトロイカ体制で1981年の日本一、1983年のリーグ優勝に導く。1984年、藤田元司からバトンを受け継ぎ、監督就任。しかし、前年リーグ優勝したチームを受け継ぎながら3年間優勝から遠ざかり、監督としての資質に疑問を呈する声がファンや評論家からあがる。また、1985年には自身の本塁打記録に後1本に迫ったランディ・バースに対する敬遠攻めを止めなかったことに対する非難を受けたりもした。王自身はあまり感じていなかったが若手との意識の断絶も激しく、同年には中畑清のワン公(王の中国語読み・背番号1と、犬を掛けた)発言を誘発している。
監督就任4年目、主砲・原辰徳を前年の故障で欠き、落合博満を中日ドラゴンズが獲得するなど、チームはかつてない危機を迎えていた。中日との開幕戦での西本聖の完封勝利で1987年のシーズンが幕を開ける。ウォーレン・クロマティを4番に据え、抑えに回った鹿取義隆と、2年目19歳のエース桑田真澄、復活した江川卓を軸に若手投手陣は躍動する。攻撃面も打撃ベスト10に篠塚利夫、吉村禎章、中畑清、復帰した原とクロマティの5人が3割を記録した強力打線であった。終わってみれば独走でのリーグ優勝であった。しかし、日本シリーズで西武ライオンズに2勝4敗で敗れ日本一とはならず、「巨人の監督」としての手腕は高く評価されなかった。
1987年の優勝は、巨人に試合がなかった日に決定し(二位の広島が敗れた)、宿舎で胴上げが行われた。12年後に王は再び宙に舞うこととなったが、王は最初に胴上げされた当時の印象が薄いという。
翌1988年(ちなみに東京ドームの元年)はクロマティと吉村と前年MVP山倉のケガによるリタイア、江川卓の引退からくる投手陣の衰えから優勝した中日に12ゲーム差をつけられ2位に終わる。監督業5年間で、リーグ優勝1回を含むAクラスを保持したもののフロントから責任を問われる形で辞任(事実上の解任)。藤田元司がバトンを受け継いだ。巨人監督辞任により、前述のように30年間使用された背番号1が野球界から姿を消すこととなった。巨人監督退任後はNHK野球解説者を務めた。
[編集] ダイエー・ソフトバンク監督時代
1994年10月12日、福岡ダイエーホークスの監督に就任。この年チームは4位ながら貯金9と躍進しており、1995年は大物助っ人・ケビン・ミッチェルや、西武ライオンズから工藤公康、石毛宏典が加入するなど期待は大きかったが、故障者続出などにより、借金18の5位に終わる。
翌1996年5月9日、日生球場で行われた対近鉄バファローズ戦では、この頃最下位を走るホークスのファンから、王や球団代表・瀬戸山隆三を強烈に批判する内容の横断幕が掲げられ、外野スタンドは試合前から殺伐としていた。試合は初回、秋山幸二の本塁打で先制したものの、先発の吉田豊彦があっさり逆転を許してしまう。9回表に吉永幸一郎の本塁打で1点差まで迫るが、2-3で近鉄に敗れた。
その後球場から出てきたホークスナインの乗ったバスに、「お前らプロか?」と言う罵声を皮切りに次々と生卵がぶつけられる事件が勃発した(いわゆる「生卵事件」)。この事に王は「俺はこんな仕打ちをされるために、博多に来たんじゃない!」と激怒した。この時、王は「我々が卵を投げ返すのは簡単だが、これをファンの意見と取るならば、勝つ事しかないんだよ」とコメントした(この試合は、日生球場で行われた最後のプロ野球公式戦である。それから10年後の2006年5月9日、日生球場の跡地で「生卵事件を偲ぶ会」を当時の近鉄ファンとダイエーファンが行っている)。
巨人監督を辞任する際にV逸の責任を「球団フロントから」問われたのとは違い、「チームのファンから」心無い仕打ちを受けるという、スター街道を進んできた王にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受ける時期が続いた。王はそれらに対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けた。
また、巨人、ダイエー初期時代は、実績が劣るコーチ陣(王から見れば全員がそうだが)の進言になかなか耳を貸さず、コーチ陣も「世界の王にはどんな意見も釈迦に説法」と進言をあきらめ、両者の間に溝があった。
1998年は、かつてのチームメート・黒江透修を助監督に迎え、シーズン残り5試合まで優勝の可能性を残す奮闘を見せる。その5試合は全敗したものの、オリックス・ブルーウェーブと同率で21年ぶりのAクラスとなる3位に入った。前身の南海時代から続いていたBクラスの連続年数はプロ野球記録であり、ホークスの低迷を象徴するものだった。この久々のAクラス入りによって選手の勝利に対する意欲が高まったことが、翌年の優勝につながる非常に意義のある年だったとも王は後に語っている。
1998年オフに尾花高夫投手コーチの招聘で投手陣の整備が進み、1999年の開幕前に根本陸夫球団社長の「お前達、何を構えてるんだ。この人は、今では『世界の王』と言われているが、昔はラーメン屋の倅だったんだ。お前達と何も変わりゃしない。そう思ってやりなさい」という言葉で王とコーチ・選手の溝が埋まった、といわれる[17]。王も「選手というのは想像以上に俺の顔色をうかがっている。だから俺もあまり難しい顔をせず、選手が失敗を恐れず、のびのびできるようにしないと」と選手に歩み寄る発言をした。このあたりから、ホークスの台頭が始まったという。
監督経験を重ねた力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し監督として初の日本一になった。翌2000年もリーグ優勝してV2を成し遂げるも日本シリーズで敗退するが、2003年に再び日本一に輝く(日本一になった年の対戦チームの監督はいずれも星野仙一であった)。1999年の日本一時は同日に偶然ZONEでダイエーホークスを取り上げておりエンディングでは日本一と胴上げのシーンが挿入された。
2000年の日本シリーズは長嶋茂雄が監督を務める巨人との「ON監督対決」として注目された。なお、この年の福岡ドームでの日本シリーズが変則日程で行われたが、3年前に福岡ドームを先約していた日本脳神経外科学会の日程を優先させたためである。上述のように、1997年までのホークスはBクラスの常連で、その当時はホークスの躍進が予想できず、学会の予約を承諾してしまったためだと言われている。
2001年にはタフィ・ローズが本塁打記録に並び、王は試合前の練習の際に直接ローズに対して本塁打新記録達成を望む声を掛けた。ローズは更新に挑んだが、ホークスはコーチの主導によりローズを敬遠して阻止した。これを止めなかったとして再び非難された。
2002年のドラフトで、スキャンダルが発覚して横浜ベイスターズに指名回避された多田野数人を事実を知った上で獲得しようとした。球団社長・高塚猛もGOサインを出したがオーナー・中内正の強い反対にあって実現はしなかった。
2004年6月7日の対日本ハム戦で監督通算1000勝を達成。監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任(監督もそのまま兼任)し、就任間もない時期からは考えられないほどの長期政権となった。
なお、指揮を取るホークスは2003年から3年連続レギュラーシーズン1位となったが、パ・リーグにおけるプレーオフ制度導入となった2004年、2005年と2年連続でプレーオフ第2ステージで最終戦まで行きながらも2004年は西武ライオンズに、2005年は千葉ロッテマリーンズにリーグ優勝を譲っている。
2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック」日本代表チーム監督に就任。3月21日の決勝戦でキューバを10-6で破り、日本を初代チャンピオン(世界一)へと導き、選手・監督として名実共に「世界の王」となった。
この偉業が讃えられ、2006年12月12日、毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞した。12月20日、日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞した。また、個人として日本プロスポーツ特別賞も同時に受賞している。なお、WBC期間中のオープン戦の監督代行は、チーフ兼内野守備走塁コーチ・森脇浩司が務めた。
2006年7月5日の対西武戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)後に記者会見を開き、胃に腫瘍ができていることを発表。翌日より胃の上部に生じた癌の治療のためチームを離れ休養に入った。監督代行はWBC開催時同様、森脇浩司コーチが務めた。
術前診断は粘膜下層までの浸潤、1群リンパ節転移。7月18日、慶應義塾大学病院で腹腔鏡下に胃全摘・Roux en Y法再建と2群までのリンパ節郭清が行われた。8月2日に退院・記者会見。ファンを大切にする王らしく「みなさんの激励に支えられて生還できた」と喜びを語った。なお、術後の病理診断結果は公表されていない。
2006年9月29日、福岡ドームで行われたホークス2006年最終戦セレモニーに出席し、85日ぶりに公式の姿を現した。
2007年春の宮崎キャンプから監督業に復帰した。2007年シーズンは3位で、クライマックスシリーズでも第1ステージで敗退。試合終了後、選手達へ「来季はラストシーズンのつもりでいる」と、成績次第で2008年シーズン限りの退任を示唆した。
2008年・7月1日~3日開催のセ・リーグ公式戦「巨人-ヤクルト」は永久欠番シリーズで「王貞治シリーズ」となっている。永久欠番シリーズとして開催されたものの「当事者は他球団のユニフォームを着て指揮」している唯一の監督となった。この日程はトレードマークである一本足打法が誕生した日(7月1日)にちなんでいる。
2008年6月6日の交流戦で現役時代に日本シリーズで5度戦った「南海ホークス」の復刻ユニフォームを着用して指揮を執った。「南海ホークス」のユニフォームを着た初の外様指揮官(現役時代は所属経験無し)となった。復刻した濃緑のユニフォームに袖を通した際、「最近は派手なユニフォームが多いけど、こういう色はいいねえ」と感想を述べた。
同年7月8日の西武ドームでの対埼玉西武ライオンズ戦で、西武捕手の細川亨のブロックが走塁妨害だとして、5分近くにわたる審判団への抗議を行い、もし遅延行為と認められた場合は現役・監督時代通じて初の退場処分も心配されたが、杞憂に終わった。王は「あんなラフプレーはいかん。世界中にあの映像を流してもいいくらいだ」と激怒した。前年にも対西武戦で多村仁が同じく本塁上のブロックを掻い潜る際に負傷しているだけに、警戒感が高まっていたといわれる。
7月26日に史上8人目となる監督通算1300勝を達成。 しかしこの年はオリンピックで強行出場をした川崎宗則が疲労骨折する等選手の故障が相次ぎ、シーズン終盤の9・10月には27戦で21敗という大失速をし、12年ぶりの最下位という不本意な結果となった。この終盤での低迷が王自身に監督退任を決断させる一因となった。
9月23日、試合終了後に記者会見を開き、体力的な問題を主な理由にシーズン終了で監督職を退くことを表明した。「50年、いい野球人生でした。50年間ひとつの道にこれだけどっぷりつかって、心をときめかせて68歳までやれたことは、とても幸せでした」と述べた[18]。翌日のヤフードームでの本拠地最終戦では、オリックスに敗れて11年ぶりのBクラスが決定したが、試合後のセレモニーでは選手たちから胴上げされた。
10月7日、シーズン最終戦となるKスタ宮城での対楽天戦が最後の試合となった。この日の天気予報は雨。対戦相手の楽天・野村克也監督(当時)は「今日は涙雨やな」、王自身は「俺に涙雨ってのは似合わないよ」とコメントした。試合は投手戦となり、0-0のまま延長戦に突入。試合終盤から時折小雨が降る状態となった。12回表のチャンスで凡退した後雨が一気に激しくなった。12回裏山崎武司にサヨナラ安打を打たれ、最終戦を飾ることは出来なかった。またこの敗戦により、楽天の5位、ソフトバンクの6位が確定した。試合終了後には「勝負師としては最後を飾れず残念」、「野球好きな僕にふさわしく、12回もやれた。その点では良かった」と語った。試合後には敵地にもかかわらず王の引退セレモニーが行われ、現役時代からライバルであった楽天・野村監督から花束の贈呈を受けた。
監督としての通算記録は、2507試合で1315勝(プロ歴代8位)1118敗74分となった。
[編集] 監督退任後
監督退任後、引き続きソフトバンク球団会長となった。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表では日本代表監督相談役を務めた。松田宣浩が開幕戦で右手中指を骨折し全治2カ月と診断され、チーム編成を再考することを余儀なくされた。そこで球団会長の王が「開幕ロースター漏れの選手よりも、日本球界が分かっている外国人選手のほうがいい」と提言しメキシコリーグでプレーしていたホセ・オーティズの獲得が決まった[19]。オーティズはシーズン途中の加入ながら打率.282、本塁打20、打点74と結果を残した。
2008年12月7日には長嶋茂雄の後任として読売巨人軍OB会の会長に選出、2009年12月13日には金田正一の後任として名球会の会長に選出された。
2009年9月21日、東京都内の病院で腸閉塞、胆嚢摘出手術を受けていた。
2010年1月5日、ソフトバンク球団に新設された「編成委員会」の副委員長に就任(委員長は笠井オーナー代行)。編成の陣頭指揮を執ることとなる。
2010年7月3日、ヤフードーム内に王の功績を称える記念館「王貞治ベースボールミュージアム」開館。
2010年10月26日、多年に亘る野球界への貢献などにより平成22年度文化功労者に選出された[20]。
[編集] 人物
[編集] 選手・監督として
王の鼻は曲がっているが、これは高校時代に練習で激しいノックを受け、そのうちの一球が顔面に直撃したためである。
通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで“やしろ”となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。
左打者ながら左投手を苦にしなかった。通算868本塁打のうち192本を左投手から放っている。また、対左投手通算打率は.295であり、通算打率.301と比べほとんど遜色ない。特に最初の三冠王に輝いた1973年から756号を打った1977年までの、打者として最も円熟していた5シーズンでは、対右投手.320に対して対左投手.341と、むしろ左投手をよく打ち込んだ。しかし、プロ入り当初は、並の左打者と同じく左投手を苦手にしていた。デビュー戦で左投手の金田正一の前に無安打、2三振に終わったのは来歴の項のとおり。プロ入り2シーズンに打った24本塁打のうち、左投手から奪ったのはわずか2本だった。特に学生時代から練習試合で対戦し、弱点を知り尽くされていた大洋の鈴木隆を苦手にし、第1打席から代打を送られたこともあった。1962年7月1日の大洋戦で一本足打法に踏み切ったのも、前日の試合で鈴木に抑え込まれたためであった。しかし一本足打法により打撃開眼したこの年、鈴木からも初めて本塁打を奪い、1964年には当時の日本タイ記録となる52号本塁打を奪うなど、苦手を克服した。デビュー戦できりきり舞いさせられた金田からも、1964年の1年だけで7本塁打を奪っている(同一投手からのシーズン本塁打数タイ記録)。
本塁打を打っても大はしゃぎするようなことが無かったのは兄の鉄城の影響である。高校時代、本塁打を打ってホームベース上で喜ぶ王を見た鉄城は「打たれた相手のことを考えろ」と王を叱りつけた。それ以来、王は本塁打を打っても喜ぶそぶりをしなくなったという。ただし、756号の際に「バンザイ」をしたり、1971年の日本シリーズ第3戦の逆転サヨナラ本塁打で手を叩き飛び跳ねたなどの例外はある。
現役・監督時代を通じ数々の表彰を受けてきたが、そこでもらった物は人にあげたり寄贈したりすることが多く、自宅にはそれに関するものはほとんど残っていないという(長嶋茂雄も同じ)。
上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」と声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。
足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。しかし、意外にも腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか(この話は漫画「巨人の星」にも出てくる)、「東洋の魔女」と当時呼ばれていた女子バレー日本代表の選手たちにも負けてしまい、「王さん、手加減しないでくださいよ」と言われてしまったことがある。そのとき王は、「いや、これで精一杯なんですよ」と弁解した(巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)。
ファンサービスに熱心で、いかなる人物からサインを求められても断ったことがない。少年時代、巨人選手からサインをもらおうとするも、川上哲治などには見向きもされず、与那嶺要だけが快くサインをくれたとのことで、その与那嶺の姿勢に王もならっているという。世界記録のかかったときなど、サインを求める声は後を絶たなかったが、その時代のサインも寸分も崩れることなく美しい書体で書かれていたという。当時チームメイトの土井正三は「王さんがサインする時間を休みや練習に充てていたら、ホームランを1000本は打っていたと思うよ。でも真面目な人だから、ファンからサインを頼まれると断れないみたいだ」と語るほど、王は膨大な数のサインをしていたと言われる。ファンサービスに熱心なのは監督になってからも変わらず、ソフトバンクの選手にもファンサービスを熱心に行うよう指導していたという。まだ若手時代の小久保裕紀がマスコミのインタビューにふてぶてしく答えた後、翌日のスポーツ新聞の小久保の記事を読んで「ファンの事を考えてコメントをしろ!」と激怒したこともあった。近年の王は、サインを求められた時には「俺は今までサインを書きすぎてるから、ネットオークションに出したって1銭の価値も無いよ」と笑って冗談を交えながらサインをする。
澤宮優の著書『打撃投手』によると王は打撃投手にも非常に親切で、長年王専属の打撃投手を務めていた峰国安が辞めることとなり、1974年に来日したハンク・アーロンとのホームラン競争での王への投球が引退の場となった。ホームラン競争の後、峰が引退の記念に王のサインを頼んだところ王は「いいよ峰、それなら一緒にアーロンのサインももらったらどうだ」と言い、アーロンの控え室に行き彼も快く応じて、王とアーロンのサインを寄せ書きで3枚もらったという。この他にも、王は「俺は禁酒するから、車に入っているウィスキー、君が飲んでくれないか」と酒の入ったケースを渡したり、「これは正月の餅代といったらあれだけど僕の気持ちだ、今まで僕のために投げてくれてありがとう」と札束の入った封筒を渡したり、礼を尽くしたという。
一方、野球に対しては相当な頑固者だった。打撃が不調のとき他人から助言されても、「俺より打ってる人の言うことなら聞くけどね」と、たとえ相手が年長者でも聞き流していた。絶対的な存在である川上哲治監督の「そんな不安定な打ち型(一本足打法)は止めて、基本の二本足に戻したらどうか。君の力量なら充分4割も狙える」との提案に対し、一本足打法に絶対の自信を持つ王は断ったという。また、晩年の長嶋が周囲に打撃について聞き回っている姿を見て、「何であんなに才能のある人が簡単に人の言うことを聞くんだろう? 打つのは自分なんだから、ほいほい人の話を聞き入れていたら、かえって選手生命を縮めるのでは」と不思議がっていたという。監督就任時も周囲の助言を聞かないワンマン的采配を批判された事もあった。しかしホークス監督時代からは周囲の意見を積極的に取り入れるようになり、その結果ホークス黄金時代を築き上げ、非常に巧みな采配や選手育成の才能を発揮するようになった。監督勇退後の会長の身分になった今日でも、裏方からながら適材適所に選手を獲得、育成に力を発揮し、強いホークスを維持する活躍をみせている。これらの事から性格は決して融通のきかない「頑固者」ではなく、むしろ人を使う才能は非常に長けており、名将として多くの選手、コーチをまとめあげている。
また、現役時代に巨人の4番を長く務めていたこともあり、4番打者にはかなりのこだわりがある。巨人監督時代は「ポップフライ」による不調に陥った4番打者の原辰徳から相談を受けるも、頑なに原を起用し続けていたため、ファンから批判を受けていた。また、ホークス監督時代の1999年にも不調で4番降格を小久保が相談しても頑なに起用を続け、ホームランの出ない日々が続く松中や、その松中に代わり再び4番を務めるも、チャンスで凡退を繰り返す小久保を怪我をしない限り4番として起用し続ける。しかしこれには、得点力の低下や、思うように勝てない事で苛立ちの溜まったファンから不満が噴出し、SNSなどで負けた試合の後に采配批判が続出していた。評論家の豊田泰光もこれに関しては「ワンちゃんの4番とはホームラン打者というこだわりはすごく、彼にホームランのことを言うのは難しいからねえ」と苦笑している。
王は投手の使い方が下手という意見が巨人監督時代から言われることがよくあった。特に中継ぎ投手の酷使、継投の采配に批判を浴びる事が多かったが、実は投手の役割分担、特にリリーフという仕事の重要性、地位を確立したのも王自身であったと言える。巨人時代にリリーフで活躍した鹿取、角といった往年の名クローザーをはじめ、ホークス監督時代は各投手の才能を見極め、適材適所に配置することで、ホークスは球界屈指の投手王国になっている。王は元々投手から野手に転向した選手で、投手というポジションを非常によく知っている「野手出身の監督」であった。その為野手の育成だけでなく、投手の育成にも非常に目をくばっており、素質のある者は根気よく与えたポジションで使い続けるスタンスをとり、王の下で何人ものエース級、セットアッパー、クローザーが大成している。
電話好きとして有名で、1981年オフのドラフトで優勝校のPL学園の選手だった吉村禎章に対して意欲的に電話をかけ「テレフォンラブコール」による入団交渉をして、吉村はドラフト3位で巨人に入団した。
作家・山口瞳と夜の街で呑む際、「俺が行くとみんな俺がカネ持ってると思って高いものばっかり出すんだ」と、自慢に聞こえるように言っており、山口も最初はムッとしたが、後で王の優しさを感じ取った。
空白の一日事件に対して、「江川の代わりに阪神に行く小林繁はトレードマネーとして1億でも2億でももらったらいい」と公言していた。
1987年オフ、江川の引退の意向を受けて球団より慰留を要請され江川の説得にあたったが、「なぜ俺がこんなことやらなきゃならんのだ」と不満を漏らしていたという。江川との確執を物語る逸話とも伝えられているが、それ以上に自らの役割をわきまえている(監督の仕事はグラウンドでのチーム管理、選手の契約はフロントの仕事)ことによる言葉だったとされる。
原辰徳が読売ジャイアンツの監督に再任した年の秋季キャンプ時、生放送のテレビ番組のインタビューで巨人原監督の話題の時、エールとして「ジャイアンツの監督なんてなりたくてなってる人間なんかいないんだから、のびのびやればいい」と送っている。
『ザ!鉄腕!DASH!!』で胴上げに関する企画を行う際、その年の日本一になったこともあり、理想の「上げられ側」のモデルとされた。ホークスでは鷹の羽ばたきを意識してか両腕を横に広げることが多いが、WBCではオーソドックスに上の方に伸ばしていた。
2006 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝により、福留孝介の代打起用(その他の選手での準決勝、決勝戦における代打策も100%全て成功)やイチローを中心とするスモール・ベースボールなどの采配、「世界の王」としてのチームのモチベーションへの影響力などが改めて見直され、メディアもこれらを大々的に報じ、ホークスでの2度の日本一の時以上に監督としての王の名が世間に知れ渡ることとなった。さらに日本を世界一に導いたことで、「世界の王」という名称が今まで以上に使われるようになった。しかしながら本人は、「世界の王」とはバットを持っていた時(=現役当時)の話であり、既に現役を引退し監督となり長年経過した現在は「世界の王」ではないとインタビュー[21]で話している。しかし監督しての実績は国内外で不動の地位を築き上げており、野村や星野といったライバル的名将だけでなく、多くの球界の重鎮達から名将として認められている為、国際試合での人事や意見をまとめる最高権威的立場を未だに任されており、2009のWBC優勝にも王による貢献が大きいとされ、彼の「世界の王」としての評価は揺るぎないものとなっている。
WBCの際、イチローが王に対し「監督は現役時代に、バッティングが簡単だ、と思ったことはありますか?」と質問し、王は「バッティングの極意を掴んだ、と思ったら逃げていく、その繰り返しで結局、そんなことは一度もなかった」と答えた。イチローはこれを聞き「王監督だってそうだったんだ」と感じ、バッティングで悩むのは当然だ、と再認識でき、安心したという。
中日ドラゴンズの落合博満監督は王の引退について、「日本でスーパースターといえるのはONだけ。そんじょそこらの選手とは訳が違う。俺が辞めるのとは意味合いが違うんだ」と語っている。
また、落合は「打撃はグランドの角度90度の中にどれだけ打てるのかに掛かっているが王さんは30度、全盛期は15度の角度という極端に狭い範囲でしか勝負していなかった。確率的に1割しか打てないはずなのに、それでも3割の打率を残せた事実は常識を超えた物凄い事実だ」と彼らしいユニークな視点で述べ「走攻守の三拍子で評価したら最高の選手は長嶋さん、こと打撃だけに限れば一番は王さん」とも語っている。
[編集] アメリカでの評価
王の存在はアメリカでも早くから評価されていた。1970年に行われた日米野球(サンフランシスコ・ジャイアンツ戦)では1試合2本塁打など活躍、親善試合でありながらMLBの投手が敬遠するという光景も見られた。1976年には日本プロ野球選手として初めてアメリカの代表的スポーツ雑誌である「Sports Illustrated」の表紙を飾った。
その一方で日本では「世界の(本塁打)王」と呼ばれたが、日本以外の世界ではあくまで「日本の本塁打王」として知られており、英語圏のニュースでは Japanese home run king Sadaharu Oh として紹介される。日本でも落合信彦が『そしてわが祖国』(1995年集英社文庫)で、アメリカ人が王を本塁打の世界一と認めていないことを指摘していた。ただし、前記録保持者のハンク・アーロンは王の記録達成に心から敬意を表し紳士的に祝福した。以降、王とは現在も深い親交がある。
現在でも王を尊敬するメジャーリーガーは少なくない。また、王の現役時代に日本でプレーして王のプレーを直接知る者も同様に王を尊敬する者が多い。例えばメジャーリーグでも高名な選手だったクリート・ボイヤーは「メジャーリーグでも間違いなく最高のスラッガーになれる」と評し、巨人時代に指導者としての王に接したレジー・スミスは王について「今まで会った誰よりもバッティングのことを知り抜いている」と語っている。なお、王自身は、2009年のバース・デイ出演時、ホストの東山紀之にメジャーリーグでどれほどやれたと思うかと質問された際「当時は今と違って道(ポスティングシステム、フリーエージェント)がなかったので、やってみようという思い自体起こらなかったけど、行っていれば日本(で残した成績)ほどではないにしても、かなりやれたと思う」と答えている。
アメリカのマスコミからよくインタビューを受けたりコメントを求められる事があるが、常に誠実で謙虚な発言に感銘を受ける者が多い。
WBCでは観客から日本チームの誰よりも大きな拍手と声援で迎えられ、日米野球ではサインや握手を求めるメジャーの選手が殺到するほどである。実際に、2005年にソフトバンクでプレーしたトニー・バティスタ経由で、サミー・ソーサやミゲル・テハダが王のサインボールを手に入れている。WBC決勝の時に中継したアメリカのアナウンサーは英語でMr.Ohとは呼ばずに中継中ずっと日本語で「王さん」と呼んでいた。発音が似ている「awesome(すごい、素晴らしい)」という単語と引っかけて「王さん is awesome」と敬意をもって紹介していた。
[編集] ON砲
長嶋茂雄とはチームの主力・顔として16年間の長きにわたり活躍。ON砲(あるいはON、ONコンビ)と呼ばれ、2人で数多くのアベックホームランを放った。初のONアベックホームランは1959年6月25日、天覧試合となった後楽園での対阪神戦。最後は1974年10月14日の長嶋引退試合まで通算106本(連発は29本)のONアベックアーチを放った。ON砲の詳細は同項参照。長嶋引退後も選手・監督として、王の引退後は監督同士、時には親友として、長く交友を続けている。また「尊敬する野球選手は?」という質問をされた際には、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れる。ただし長嶋の監督1年目に長嶋が不甲斐ない試合内容に叱咤激励した際に王が反発し、激しいやり取りになり試合後の空気が騒然とした事があったという。
[編集] 人柄・性格
真摯で誠実な人柄で知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。葬儀に参列した金村義明は、まさか自分のところに王本人から電話がかかってくるとは思わずにいたが、本人の不在中に王からかかってきた電話に出た彼の三男(当時3歳)が「ママ、“ダイエーのおう”から電話!!」と受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りしたというエピソードを披露している。
道具を丁寧に扱うことで現役時代から知られており、同じミットを10年以上も使い「新しいものだとゴワゴワしてて慣れるまでに時間がかかる」と自ら裁縫してまで使い続けた(ライバルの長嶋はエラーしたり不調が続くとゲン直しにすぐにグラブを替えたため、現役時代は何十ものグラブが使用された)。
若い頃、名古屋の寿司屋で当時中日の人気選手であった板東英二(王とは同学年であり、仲が良かった)と偶然会った際、自分の知人(父親の同胞)が営んでいる小さな中華料理店に連れて行き、「板東もたまには食べに来てやってくれないかな」とお願いした。このことを板東は自分の著書で「王の生い立ちと、優しい人柄が理解できた」と語っている。また、板東が『金妻』シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。
律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。1960年、初めてオールスターに出場した年に札幌山の手養護学校の生徒からファンレターが送られたが、当時すでにスター選手だった王は大量に来るファンレターの1通として読み流してしまい、後からその学校のことを知り、後悔したという。これ以後、王はファンレターを必ず丁寧に読むようになった。なお、王は翌1961年以降、監督を退任する1988年まで毎年札幌遠征の際、必ず山の手養護学校を訪問した。
ただし、若い頃は門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と述懐している。ただし、荒川コーチに「お前、本当に上手くなりたいのなら、今日から3年間、酒・タバコ・女全部やめて俺のところで練習しろ。その代わりその3年の後は10年遊んでも、プロとして飯が食えるようになるからな」と言われ酒・タバコを禁止されてからは、完全に改心している。長年巨人の寮長として活躍した武宮敏明によると、歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫とのこと。3人とも名球会入りしている。
また、若い頃は自動車の運転が乱暴で、スピード狂といってもいいくらいだった。ある記者が初めて王の運転する車に乗る際、夫人から「気をつけて下さいね」と声をかけられ、その時は王に対しての言葉だと思っていたが、高速道路で鼻歌を歌いながら猛スピードで車を抜かし続ける王の運転から、王の助手席に乗る自分への気遣いの言葉だったと後に気付いたという。ただし、756号本塁打を打ち国民栄誉賞を受賞してからは、交通ルールを遵守しているという。ホークス監督就任後、テリー伊藤(早稲田実業での王の後輩にあたる)に「巨人にいた頃は、いくら車が走っていなくても、横断歩道のない所で道路を渡るなんてできなかった」と語っている。また、愛車及び送迎車は共にレクサス・LSである。
大食漢として知られる。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。大食漢で知られる川上哲治さえも「王はもっとすごい。朝飯が終わると『今日の昼飯は何かな』と言い、昼飯が終わると『今日の夕飯は何かな』と言う。あれにはかなわん」と“敗北宣言”している。さらに酒豪でも知られ、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという(王と大鵬は同じ1940年5月生まれという縁もあり、長年にわたる親交がある)。福岡に来てからはグルメに凝り出して体重が激増。更にテレビのグルメ番組や料理番組も見始めたという。第1回WBCの優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み干してしまった程である[要出典]。
庶民的感覚も持ち合わせており、外食に行く際、連れが高級な店を勧めても「俺は中華料理屋(もしくはラーメン屋)の倅(せがれ)だから」と大衆的な店にふらりと立ち寄るらしい。その口癖は、胃がん手術後の退院会見にて「胃がなくなり消化できないのでしばらく食べられない」という意味でも使われ、周囲を笑わせた(しかしその際の発言内容は、解釈によっては「ラーメンは体に良くない」とも受け取れる内容だったため、王の出自を知らない者が多くなった現代においては、皮肉にも本人の意図とは裏腹に「ラーメン屋に対する営業妨害だ」として球団にラーメン屋からの苦情が殺到する事態になった)。「(中国人の)ラーメン屋の倅」という文句は、現役時代から他の球団の人達が王を揶揄する時の文句でもある[要出典]。
胃がんの手術をした際に体重が減った上に一度に物を多く食べられなくなり、もともとの大食漢ぶりや福岡に来てからの食道楽を意識してか退院会見の際、「痩せたね」と体重が減って喜んでいるような発言をした。
[編集] 趣味
好奇心が非常に旺盛。よくメモを取る。自宅にいても気が付いたことは必ずメモする。また、ウィンドウショッピングが大好きである。「何にでも興味を持たないと」と王本人はコメントしている。
現役時代、独学でピアノを習い、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた。しかし、本当の理由は王自身が“大スター”になってしまったために、王の利益等を目当てに取り付く取巻き等を近づけさせないためで、本当はアウトドア派である。そのため、王本人はピアノを趣味だと思われるのは嫌らしい。しかしながら現在も時々ピアノを弾くようである。
東京在住時には料理を全くしなかった王だが(しかし、スパゲティだけはかなりの凝りようで、クロマティにも作り方の指導していたエピソードがある)、単身赴任となった現在では魚を3枚に下ろせるほどの腕前らしい。生家が中華料理屋であったので元々ある程度の料理は習得していたという説もある。
もともとアナログ人間だったというが、単身赴任生活ではパソコンを使いこなす必要に迫られ、四苦八苦しながらも習得した。タッチタイピングもできるとのこと。孫の画像を見るのが何よりの楽しみといい、WBC期間中はソフトバンクのオープン戦の動画をアメリカから視聴。パソコンは富士通のノートを愛用。わからないことがあるとよくコールセンターに電話をしていたが、その際「王ですけど」とわざわざ名乗ってかけていた。この際、口調がたいへん丁寧だったため、コールセンター中で人気があった。
正月には箱根駅伝を沿道で観戦し、応援していることがある。[1]
[編集] 家族
王の父親・仕福は大陸から一人で日本に渡って来た天涯孤独に近い境遇で、また戦時中は敵国人でもあったため、日本人である母方の親族から正式な結婚を許してもらえなかった。そのため終戦後に晴れて入籍するまでは、王とその兄弟は(表向きは王姓を名乗りつつも)法的には母親の私生児として日本国籍を保有していた。
父は1987年のシーズン中に逝去。父の訃報は広島市民球場での試合終了後に伝えられた。シーズン中かつ遠征中であり、当時巨人の監督だった責任感から王は通夜も告別式も出席しないつもりだったが、周囲の強い勧めで東京に戻り告別式に出席した。その後すぐに広島に戻って試合を欠場することはなかった。
10歳年上の実兄・鐵城は貞治が2006年に胃癌の手術を受けた際、自身の出身であった慶應義塾大学病院に入院させ、後輩の医師だった北島政樹に貞治の手術執刀を依頼するなど、弟の闘病を蔭で支えていたが、2008年秋に体調を崩し、12月20日、呼吸不全にて78歳で逝去した。貞治は「私の父親代わりだった」と兄:鐵城の死を悼んだ。
1966年に結婚した夫人恭子(旧姓小八重)との間に三女あり。夫人は王の新人時代、よく練習を見に来ていた女子学生2人組の一人で、一人は快活に話す子だったが、もう一人の「大人しい子だな」と王が感じた女子学生が後の夫人である。妻へのプロポーズの言葉は「ドドンパはお好きですか?」だったという。三女が産まれた時に、王は男の子が欲しかったが、また女の子だったので舌打ちをしてしまい夫人に怒られた(当時は「男の子=ストライク、女の子=ボール」と考える野球選手が多く、稲尾和久や張本勲もこのような話をしている)。家ではかなりの亭主関白であり、本当に家の仕事は全く何もしなかったという。屋根の修理さえも妻の仕事。ただ、しつけだけは王の担当であり、礼儀作法に厳しく、娘たちが自分の言った事に対して口答えをすると容赦なく鉄拳を振るい、鼻血が出るまで殴っていたこともあるという。
3人の娘にはすべて「理」と付く名前をつけた。これは、いずれ嫁に行き、姓が変わってしまう娘だが、王の娘としていてほしい、里は王家だ、という意味をこめて「里」に「王」の偏をつけた「理」とした。
二女の理恵が「ふくらはぎが太いのは、お父様のせいだ!」と王に八つ当たりしている。この事から王は、娘にお父様と呼ばせていることが判明した。
夫人は2001年10月に逝去。その後、夫人の遺骨が墓地から盗み出されて300万円を要求される事件が起きたことがある[22]。母親の登美は2010年8月16日、肺炎のため108歳で逝去した[23]。
[編集] 国籍について
中華民国国籍。かつて大陸・中国の与党は中国国民党であり、国号を中華民国としていた。その頃、王を含めた中国内外に住む中国人はみな中華民国国籍であった。 その中国国民党は第二次世界大戦後、中国共産党との覇権争いに敗れて中国大陸を脱出し、逃亡先の台湾島に政権を確立するが、1971年には国連を脱退し、国際社会の主な国々との正式な国交を断絶してしまう。しかし、王は自らの知名度を政治的に利用されることを嫌い、その後においても世界中より正式な国家として承認された中華人民共和国や、自身が生まれ育った日本国の国籍に、利便性のために帰化することをよしとしなかった。このため、王は現在でも日本や中華人民共和国ではなく中華民国(台湾)国籍である。これは中華民国籍の在日中国人として生涯を全うした父親の遺志を尊重した結果でもある。王が「台湾人」と表現されることがあるのは、飽くまで国籍上中華民国籍であることが理由であり、実際地域としての台湾島とのゆかりは薄い。
王の同学年の友人で、よき理解者でもある張本勲(王も張本も、互いに「親友」ではなく「心友」と書いての「しんゆう」と呼ぶそうである)が、「母は日本語を使わず韓国語を生涯通した」「父と姉は広島の原爆が原因で亡くなった」ことから日本国籍取得をよしとしないことと共通する。張本も周囲から帰化を奨められたことが多かったがこれまで応じていない。
ただし、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、海外メディアから「あなたは日本人ですか?」と質問された際、王は「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」と答えている[24][25][26]。
なお、国民栄誉賞は初代受賞者である王が中華民国国籍であることから、現在も国籍は要件とされていない。
[編集] 交友関係
野球界以外にも広い人脈を持つ。昭和を代表する歌手の美空ひばりとは、「義姉弟」(王貞治本人談)という程、肝胆相照らす仲であった。ひばりが亡くなった日(1989年6月24日)、王は台湾に出掛けており、その日の夕方に新東京国際空港へ帰日した際、報道陣から「(美空)ひばりさんが亡くなられましたよ」と告げられて「それは本当か」と言って絶句した。7月に行われたひばりの本葬では、王が弔辞を読んでいる。
司会者の大橋巨泉とも現役時代から仲が良く、互いに「ワンちゃん」「巨泉さん」と呼び合う仲である。大橋巨泉から「ワンちゃんも早くリタイアして、カナダでのんびりと暮らしたらどうだい」と、カナダでの居住生活を勧められていたが、福岡で会長職など仕事が入ってしまった為、実現出来ずに現在に至る。
プロゴルファーの鷹巣南雄とは40年以上にわたり親交があり旧知の仲。鷹巣の紹介で青木功とも親交を持つ様になる。プロゴルファーとして鳴かず飛ばずで何年かを過ごしていた青木は「王さんをスポーツ選手の鑑にする」と王貞治を手本として日々を過ごすと、1971年に関東プロで初勝利、その後は王さんと同じように、「“世界”の青木」というニックネームを頂くまでになったと青木は語る[27]。
[編集] その他の逸話
- 王貞治がプロ3年目に知り合った心臓病の野球少年に「僕もホームランをかっ飛ばす選手になるから、君も早く元気に野球をやれるように頑張れ」と励まし続けた。しかし、その少年は薬石効なく13歳の若さでこの世を去ってしまう。この少年の両親が東京都品川区の海徳寺に、息子を悼んでバットを持った地蔵を建立し、王も現役時代、シーズンが終わると毎年のようにこの地蔵にお参りしていた。そうしたことからこの地蔵をいつしか「ホームラン地蔵」と呼ぶようになったという[28]。
- 1965年4月4日放送の毎日放送制作『アップダウンクイズ』で、ゲスト出場者(同回はプロ野球選手大会)として初めて10問正解し、ハワイ旅行を獲得した。また、1967年8月6日放送の同番組では「夏休み特集・中学生大会」のシルエットクイズのゲストを担当した。
- 1981年~1993年までの13年間、毎年朝日放送制作(自らの個人事務所・オフィスフラミンゴ協力)で、正月に「新春ビッグ放談」と題した対談番組のホストを担当した。(途中1989年だけ王自身は巨人監督を辞任関係などから出演せず)毎年スポーツ界を代表する選手との対談を実施。最終年の1993年は当時巨人監督に復帰した長嶋茂雄とのON対談が実現した。
- 1996年オフに当時の巨人監督だった長嶋茂雄の息子で同じ巨人選手だった長嶋一茂が父から戦力外通告を受け、記者から戦力補強でダイエーが獲得するのかの問いに「長嶋さんの息子の獲得は厳しいね。長嶋さんにも苦労を掛けたんだからね。」と獲得に乗り出さなかった。 結局一茂は怪我等もあり引退する。
- 2003年夏にフジテレビ系バラエティ番組『ワンナイR&R』の中で王監督に対する侮辱的シーン(コント「ジャパネットはかた」にて、“王シュレット”という王監督の顔を模った温水洗浄便座を紹介)が放送され当時のダイエー球団サイドが抗議し、同球団はフジテレビ系列の取材を一切拒否。後日フジテレビは放送上等で謝罪するが、同年の日本シリーズでの放送権を剥奪され、また通信販売業のジャパネットたかたからも「あまりにも良識の範囲を超えている」と抗議された。それ以降フジテレビ系列(福岡地区ローカルのテレビ西日本以外)でのホークス戦の放送を自粛していたが、2005年5月17日のソフトバンク対巨人戦から解禁された(詳細は王シュレット事件を参照)。
- 開幕戦先発出場のセ・リーグ高卒新人は王以外に1957年に日大三高から阪神入りした並木輝男外野手、小学4年で王に憧れ野球を始め1988年にPL学園から中日入りした立浪和義遊撃手の2人。1988年のオールスターゲームではオールセントラルの監督が王でファン投票選出遊撃手が立浪であり、王は立浪を3試合連続で出場機会を与え、ナゴヤ球場での第2戦は先発起用した。
- 2005年以降、巨人主催試合の中継を日本テレビではなくテレビ朝日が実施することがあることについて、日本テレビに批判的なコメントをした。
- 2006年11月のアメリカ誌「タイム」アジア版において、アジア版60周年を記念して特集された、政治、ビジネスなど5分野で活躍した66人が英雄に選ばれる「60年のアジアの英雄」の一人に選ばれた。
- ダイエーの監督として連覇を果たした2000年のシーズンオフに、巨人のOB戦(テレビ放映)があり、新調された背番号1のユニフォームを纏って参加している。しかしそのころにはもう「巨人の王」というより、「ホークスの王」として人々に強く認知されていたためか、ほとんど話題にならなかった。
- 自身の通算第846号本塁打のボールを、846の語呂合わせから演歌歌手の八代亜紀に寄贈している。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1959 | 巨人 | 94 | 222 | 193 | 18 | 31 | 7 | 1 | 7 | 61 | 25 | 3 | 1 | 1 | 1 | 24 | 1 | 3 | 72 | 2 | .161 | .262 | .316 | .569 |
| 1960 | 130 | 502 | 426 | 49 | 115 | 19 | 3 | 17 | 191 | 71 | 5 | 4 | 3 | 1 | 67 | 5 | 5 | 101 | 7 | .270 | .375 | .448 | .823 | |
| 1961 | 127 | 471 | 396 | 50 | 100 | 25 | 6 | 13 | 176 | 53 | 10 | 5 | 4 | 4 | 64 | 3 | 3 | 72 | 7 | .253 | .358 | .444 | .802 | |
| 1962 | 134 | 586 | 497 | 79 | 135 | 28 | 2 | 38 | 281 | 85 | 6 | 4 | 3 | 2 | 72 | 9 | 12 | 99 | 6 | .272 | .376 | .565 | .941 | |
| 1963 | 140 | 609 | 478 | 111 | 146 | 30 | 5 | 40 | 306 | 106 | 9 | 5 | 0 | 2 | 123 | 12 | 6 | 64 | 7 | .305 | .452 | .640 | 1.092 | |
| 1964 | 140 | 599 | 472 | 110 | 151 | 24 | 0 | 55 | 340 | 119 | 6 | 4 | 0 | 5 | 119 | 20 | 3 | 81 | 8 | .320 | .456 | .720 | 1.176 | |
| 1965 | 135 | 575 | 428 | 104 | 138 | 19 | 1 | 42 | 285 | 104 | 2 | 4 | 0 | 3 | 138 | 29 | 6 | 58 | 7 | .322 | .490 | .666 | 1.156 | |
| 1966 | 129 | 549 | 396 | 111 | 123 | 14 | 1 | 48 | 283 | 116 | 9 | 4 | 0 | 4 | 142 | 41 | 7 | 51 | 5 | .311 | .495 | .715 | 1.210 | |
| 1967 | 133 | 566 | 426 | 94 | 139 | 22 | 3 | 47 | 308 | 108 | 3 | 5 | 0 | 3 | 130 | 30 | 7 | 65 | 7 | .326 | .488 | .723 | 1.211 | |
| 1968 | 131 | 580 | 442 | 107 | 144 | 28 | 0 | 49 | 319 | 119 | 5 | 1 | 1 | 6 | 121 | 18 | 10 | 72 | 5 | .326 | .475 | .722 | 1.197 | |
| 1969 | 130 | 576 | 452 | 112 | 156 | 24 | 0 | 44 | 312 | 103 | 5 | 2 | 0 | 8 | 111 | 12 | 5 | 61 | 7 | .345 | .472 | .690 | 1.162 | |
| 1970 | 129 | 553 | 425 | 97 | 138 | 24 | 0 | 47 | 303 | 93 | 1 | 4 | 0 | 3 | 119 | 24 | 6 | 48 | 8 | .325 | .476 | .713 | 1.189 | |
| 1971 | 130 | 565 | 434 | 92 | 120 | 18 | 2 | 39 | 259 | 101 | 8 | 2 | 0 | 5 | 121 | 17 | 5 | 65 | 8 | .276 | .435 | .597 | 1.032 | |
| 1972 | 130 | 572 | 456 | 104 | 135 | 19 | 0 | 48 | 298 | 120 | 2 | 0 | 0 | 2 | 108 | 18 | 6 | 43 | 8 | .296 | .435 | .654 | 1.089 | |
| 1973 | 130 | 560 | 428 | 111 | 152 | 18 | 0 | 51 | 323 | 114 | 2 | 1 | 0 | 4 | 124 | 38 | 4 | 41 | 7 | .355 | .500 | .755 | 1.255 | |
| 1974 | 130 | 553 | 385 | 105 | 128 | 18 | 0 | 49 | 293 | 107 | 1 | 5 | 0 | 2 | 158 | 45 | 8 | 44 | 4 | .332 | ※.532 | .761 | 1.293 | |
| 1975 | 128 | 523 | 393 | 77 | 112 | 14 | 0 | 33 | 225 | 96 | 1 | 0 | 0 | 6 | 123 | 27 | 1 | 62 | 9 | .285 | .451 | .573 | 1.024 | |
| 1976 | 122 | 536 | 400 | 99 | 130 | 11 | 1 | 49 | 290 | 123 | 3 | 1 | 0 | 9 | 125 | 27 | 2 | 45 | 8 | .325 | .479 | .725 | 1.204 | |
| 1977 | 130 | 570 | 432 | 114 | 140 | 15 | 0 | 50 | 305 | 124 | 1 | 3 | 0 | 6 | 126 | 16 | 6 | 37 | 14 | .324 | .477 | .706 | 1.183 | |
| 1978 | 130 | 566 | 440 | 91 | 132 | 20 | 0 | 39 | 269 | 118 | 1 | 2 | 0 | 11 | 114 | 17 | 1 | 43 | 7 | .300 | .436 | .611 | 1.048 | |
| 1979 | 120 | 506 | 407 | 73 | 116 | 15 | 0 | 33 | 230 | 81 | 1 | 1 | 0 | 5 | 89 | 10 | 5 | 48 | 9 | .285 | .415 | .565 | .980 | |
| 1980 | 129 | 527 | 444 | 59 | 105 | 10 | 0 | 30 | 205 | 84 | 0 | 1 | 0 | 8 | 72 | 8 | 3 | 47 | 9 | .236 | .342 | .462 | .803 | |
| 通算:22年 (順位) |
2831 | 11866 | 9250 | 1967 | 2786 | 422 | 25 | 868 | 5862 | 2170 | 84 | 59 | 12 | 100 | 2390 | 427 | 114 | 1319 | 159 | .301 | .446 | .634 | 1.080 | |
| (2) | (2) | (4) | (1) | (3) | (4) | (1) | (1) | (1) | (3) | (1) | (1) | (8) | (1) | (1) | (1) | |||||||||
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
- 通算成績の下行の括弧内数字は、NPBにおける歴代通算順位
ただし、当時のセ・リーグにおいては出塁率ではなく出塁数で表彰を行っていたため、NPB公式見解としてのシーズン最高記録は1986年落合博満の.487である[29]。
[編集] 王の節目の本塁打記録の一覧表
| 号数 | 達成日 | 対戦カード | 球場 | 投手 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1959年4月26日 | 国鉄 | 後楽園 | 村田元一 | |
| 4 | 1959年6月25日 | 大阪 | 後楽園 | 小山正明 | ONアベック第1号 |
| 47 | 1962年7月1日 | 大洋 | 川崎 | 稲川誠 | 一本足第1号 |
| 50 | 1962年7月11日 | 中日 | 中日 | 権藤博 | |
| 100 | 1963年7月28日 | 広島 | 広島 | 大石清 | |
| 150 | 1964年7月16日 | 広島 | 後楽園 | 池田英俊 | |
| 200 | 1965年9月19日 | 大洋 | 後楽園 | 峰国安 | |
| 250 | 1966年8月18日 | 大洋 | 川崎 | 新治伸治 | |
| 300 | 1967年8月31日 | サンケイ | 後楽園 | 村田元一 | |
| 350 | 1968年9月21日 | 中日 | 中日 | 小川健太郎 | |
| 400 | 1969年10月18日 | 中日 | 中日 | 外山博 | |
| 450 | 1971年4月18日 | 広島 | 広島 | 外木場義郎 | |
| 500 | 1972年6月6日 | 広島 | 広島 | 西川克弘 | |
| 550 | 1973年6月21日 | 中日 | 中日 | 伊藤久敏 | |
| 600 | 1974年5月30日 | 阪神 | 甲子園 | 谷村智啓 | |
| 650 | 1975年7月11日 | 阪神 | 後楽園 | 山本重政 | |
| 700 | 1976年7月23日 | 大洋 | 川崎 | 鵜沢達雄 | |
| 714 | 1976年10月10日 | 阪神 | 後楽園 | 古沢憲司 | 世界2位タイ |
| 715 | 1976年10月11日 | 阪神 | 後楽園 | 山本和行 | 世界2位単独 |
| 750 | 1977年8月23日 | 広島 | 広島 | 池谷公二郎 | |
| 755 | 1977年8月31日 | 大洋 | 後楽園 | 三浦道男 | 世界タイ |
| 756 | 1977年9月3日 | ヤクルト | 後楽園 | 鈴木康二朗 | 世界新 |
| 800 | 1978年8月30日 | 大洋 | 後楽園 | 大川浩 | |
| 850 | 1980年6月12日 | 広島 | 後楽園 | 金田留広 | |
| 868 | 1980年10月12日 | ヤクルト | 後楽園 | 神部年男 | 現役最終 |
[編集] 年度別監督成績
- レギュラーシーズン
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1984年 | 巨人 | 3位 | 130 | 67 | 54 | 9 | .554 | 8.5 | 186 | .268 | 3.66 | 44歳 |
| 1985年 | 3位 | 130 | 61 | 60 | 9 | .504 | 12.0 | 157 | .279 | 3.96 | 45歳 | |
| 1986年 | 2位 | 130 | 75 | 48 | 7 | .610 | 0.0 | 155 | .270 | 3.12 | 46歳 | |
| 1987年 | 1位 | 130 | 76 | 43 | 11 | .639 | - | 159 | .281 | 3.06 | 47歳 | |
| 1988年 | 2位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 12.0 | 134 | .268 | 3.09 | 48歳 | |
| 1995年 | ダイエー ソフトバンク |
5位 | 130 | 54 | 72 | 4 | .429 | 26.5 | 94 | .259 | 4.16 | 55歳 |
| 1996年 | 6位 | 130 | 54 | 74 | 2 | .422 | 22.0 | 97 | .263 | 4.04 | 56歳 | |
| 1997年 | 4位 | 135 | 63 | 71 | 1 | .470 | 14.0 | 132 | .264 | 4.26 | 57歳 | |
| 1998年 | 3位 | 135 | 67 | 67 | 1 | .500 | 4.5 | 100 | .264 | 4.02 | 58歳 | |
| 1999年 | 1位 (※1) |
135 | 78 | 54 | 3 | .591 | - | 140 | .257 | 3.65 | 59歳 | |
| 2000年 | 1位 | 135 | 73 | 60 | 2 | .549 | - | 129 | .268 | 4.03 | 60歳 | |
| 2001年 | 2位 | 140 | 76 | 63 | 1 | .547 | 2.5 | 203 | .273 | 4.49 | 61歳 | |
| 2002年 | 2位 | 140 | 73 | 65 | 2 | .529 | 16.5 | 160 | .267 | 3.86 | 62歳 | |
| 2003年 | 1位 (※1) |
140 | 82 | 55 | 3 | .599 | - | 154 | .297 | 3.94 | 63歳 | |
| 2004年 | 2位 (※3) |
133 (※2) |
77 | 52 | 4 | .597 | -4.5 | 183 | .292 | 4.57 | 64歳 | |
| 2005年 | 2位 (※4) |
136 | 89 | 45 | 2 | .664 | -4.5 | 172 | .281 | 3.46 | 65歳 | |
| 2006年 | 3位 | 136 (※5) |
75 | 56 | 5 | .573 | 4.5 | 82 | .259 | 3.13 | 66歳 | |
| 2007年 | 3位 | 144 | 73 | 66 | 5 | .525 | 6.0 | 106 | .267 | 3.18 | 67歳 | |
| 2008年 | 6位 | 144 (※6) |
64 | 77 | 3 | .454 | 12.5 | 99 | .265 | 4.05 | 68歳 | |
| 通算:19年 | 2507 | 1315 | 1118 | 74 | .540 | Aクラス15回、Bクラス4回 | ||||||
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
- ※1 順位の太字は日本一
- ※2 2004年は選手会ストライキのため2試合が開催されず
- ※3 レギュラーシーズン勝率は1位だったが、プレーオフで西武に負け、リーグ優勝・日本シリーズ出場を逃す
- ※4 レギュラーシーズン勝率は1位だったが、プレーオフでロッテに負け、リーグ優勝・日本シリーズ出場を逃す
- ※5 2006年、癌の治療のため7月8日以降55試合欠場(30勝22敗3分)。監督代行は森脇浩司
- ※6 2008年、体調不良で休養のため1試合欠場(敗戦)。監督代行は秋山幸二
- ※7 1984年から1996年までは130試合制
- ※8 1997年から2000年、2004年は135試合制
- ※9 2001年から2003年までは140試合制
- ※10 2005年、2006年は136試合制
- ※11 2007年から144試合制
- ※12 通算成績は、欠場した計56試合(30勝23敗3分)を含めない
- ポストシリーズ
| 年度 | 球団 | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
|---|---|---|---|---|
| 1987 | 巨人 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 2勝4敗 |
| 1999 | ダイエー ソフトバンク |
日本シリーズ | 中日ドラゴンズ | 4勝1敗 |
| 2000 | 日本シリーズ | 読売ジャイアンツ | 2勝4敗 | |
| 2003 | 日本シリーズ | 阪神タイガース | 4勝3敗 | |
| 2004 | プレーオフ2ndステージ | 西武ライオンズ | 2勝3敗 | |
| 2005 | プレーオフ2ndステージ | 千葉ロッテマリーンズ | 2勝3敗 | |
| 2007 | パ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ |
千葉ロッテマリーンズ | 1勝2敗 |
- ※ 2006年は森脇監督代行が指揮を執ったため除外。
- WBC 国・地域別対抗野球大会
2006年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第1回大会では、監督として日本チームを世界一の座に導く。
| 年度 | 大会名 | チーム名 | 勝敗 |
|---|---|---|---|
| 2006年 | 第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) | 日本代表 | 優勝 |
- 1次リーグ(アジア予選)
- 3月3日 ○ 18-2 中華人民共和国
- 3月4日 ○ 14-3 台湾(チャイニーズタイペイ・中華民国)
- 3月5日 ● 2-3 大韓民国
- 2次リーグ
- 準決勝
- 3月18日 ○ 6-0 大韓民国
- 決勝
- 3月20日 ○ 10-6 キューバ共和国
[編集] タイトル
- 三冠王:2回 (1973年 - 1974年)※2年連続は連続記録として最多タイ
- 首位打者:5回 (1968年 - 1970年、1973年 - 1974年)※5回は歴代4位タイ、セ・リーグ歴代2位。3年連続はセ・リーグタイ記録。
- 本塁打王:15回 (1962年 - 1974年、1976年 - 1977年)※15回、13年連続はいずれも歴代最多。
- 打点王:13回 (1962年、1964年 - 1967年、1971年 - 1978年)※13回、8年連続はいずれも歴代最多
- 最多出塁数:12回 (1967年 - 1978年)※1967年から表彰。12回、12年連続はいずれも歴代最多。
- 最多安打(当時連盟表彰なし):3回 (1969年、1970年、1973年) ※1994年より表彰
- 最多得点:15回
投手や打者のシーズン記録や通算記録は、用具(ボールの反発力、等々)や設備(球場の広さやグランドの状態)、あるいはルール等の諸条件が変更されることにより、投手・打者いずれかが優位になれば更新される可能性がある。しかし、シーズンのリーグ1位獲得回数という記録は、同一シーズンに全選手が同一の条件で争った上での結果であるため、用具や設備、ルールに左右される度合いが低い。王の各年度記録を見ると、王が長期間にわたってセ・リーグで傑出した力を発揮し続けたことが分かる。
[編集] 表彰
- MVP:9回 (1964年 - 1965年、1967年、1969年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1977年)※9回は歴代最多。
- ベストナイン:18年連続18回 (1962年 - 1979年)※回数、連続回数ともセ・リーグ最多
- ダイヤモンドグラブ賞:9年連続9回 (1972年 - 1980年)※1972年から表彰
- オールスターゲームMVP:3回 (1963年 第2戦、1977年 第3戦、1979年 第1戦)
- 正力松太郎賞:4回 (1977年、1999年、2003年、2006年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1963年)
- 日本シリーズ打撃賞:1回 (1972年)
- 日本シリーズ技能賞:6回 (1965年、1966年、1968年、1970年、1971年、1973年)
- 月間MVP:1回 (1976年5月)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:1994年)
[編集] 記録
[編集] レギュラーシーズン
- 通算出場試合:2831 (セ・リーグ記録)
- 通算打席:11866 (セ・リーグ記録)
- サイクルヒット:1回(1963年4月25日、対阪神タイガース戦、後楽園球場) ※史上22人目
- 5504試合連続退場なし (1959年 - 1988年、1995年 - 2008年、日本記録)
- 通算試合出場:1966年8月24日(116人目)
[編集] 本塁打
- 通算本塁打:868 (世界記録)
- 通算満塁本塁打:15 (日本記録)
- 通算サヨナラ本塁打:8 (セ・リーグタイ記録)
- 通算400本塁打到達スピード1位:1422試合
- 通算450本塁打到達スピード1位:1559試合
- 通算500本塁打到達スピード1位:1723試合
- 通算550本塁打到達スピード1位:1864試合
- 通算600本塁打到達スピード1位:1983試合
- 通算650本塁打到達スピード1位:2134試合
- シーズン最多本塁打:55本 (1964年、日本タイ記録)
- シーズン最高本塁打率:7.86 (規定打席到達者・1974年)
- シーズン50本塁打以上:3回 (1964年、1973年、1977年、日本記録)
- シーズン40本塁打以上:8年連続含む13回 (1963年 - 1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年、日本記録)
- シーズン30本塁打以上:19年連続19回 (1962年 - 1980年、日本記録、20本塁打以上でも日本記録)
- シーズン10本塁打以上:21年連続21回 (1960年 - 1980年、日本タイ記録)
- シーズン30本塁打到達スピード1位タイ:64試合 (1976年)
- シーズン40本塁打到達スピード1位タイ:97試合 (1966年、1967年)
- シーズン50本塁打到達スピード1位タイ:122試合 (1964年)
- 7試合連続本塁打(1972年9月11日 - 9月20日、日本タイ記録)
- 4打席連続本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
- 1試合4本塁打(1964年5月3日、日本タイ記録)
- 1試合3本塁打以上:5回(セ・リーグ記録)
- 1試合2本塁打以上:95回(日本記録)
公式戦では通算868本の本塁打を記録しているが、そのほか、日本シリーズ戦で29本、オールスター戦で13本、東西対抗戦で1本、日米野球戦で23本、オープン戦で98本と、生涯通算では1000本を超える本塁打(1032本)を放っている。
同時代の選手で通算本塁打数2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけ、通算打率3位の張本勲の記録にも300本以上の差、長嶋に400本以上の差を付けている。野村の所属した南海ホークス本拠地の大阪球場は両翼84m、中堅115.8m(1972年に両翼のみ91.4mに拡張された)と、狭いとされる後楽園よりもさらに狭いグラウンドであった。
なお、雨天で試合途中にノーゲームで無効となった本塁打等、いわゆる「幻の本塁打」は1本もない。1964年9月23日の対大洋戦(後楽園球場)で放った最後の55号本塁打は強い雨の中で打ったものだったが、東京オリンピックのために日程消化を急いでいた事情も手伝ってなんとか5回まで強行し試合成立させた結果、55号は幻になることを免れた。なお、1966年の日米野球・対ドジャース戦では走者を追い越し、本塁打が取り消しとなっている。
本拠地であった後楽園球場で413本の本塁打を放っている。この本数は球場別通算本塁打数の中で歴代1位であり、未だに破られていない。
[編集] 打率
- 通算安打:2786 (セ・リーグ記録)
- シーズン最多出塁数:294個 (1974年)
- シーズン最高出塁率:.534 (1974年)
- シーズン打率3割以上:8年連続含む13回 (1963年 - 1970年、1973年 - 1974年、1976年 - 1978年、セ・リーグ記録)
- シーズン100安打以上:21年連続21回 (1960年 - 1980年、日本記録)
- 打率ベストテン入り:16年連続含む17回 (1960年、1962年 - 1977年、日本記録)
- 全イニング出場首位打者(1969年、史上初、他にイチロー(1995年)と松井秀喜(2001年)が達成)
プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本しかいない大記録であるが、本人はこの維持を気にかけていたらしく、引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている。
[編集] 長打力・得点能力
- 通算得点:1967 (日本記録)
- 通算打点:2170 (日本記録)
- 通算塁打:5862 (日本記録)
- 通算犠飛:100 (セ・リーグ記録)
- 通算長打率:.634 (4000打数以上で歴代1位)
- シーズン最高OPS:1.293 (1974年)
- シーズン100打点以上:7年連続含む14回 (1963年 - 1969年、1971年 - 1974年、1976年 - 1978年)
- 14回は日本記録。7年連続は、2010年にアレックス・ラミレスに抜かれるまでの31年間、日本記録だった。
メジャーリーグで広く普及している総合打撃指標であるOPS(出塁率+長打率)では1.080(.446+.634)という数字を残している。出塁率4割以上、長打率6割以上が超一流の数値であり、その和であるOPSが10割を超える選手は数少ない。日本プロ野球界でOPSが10割を超える打者は王、ランディ・バース(1.078)、ロベルト・ペタジーニ(1.051)、アレックス・カブレラ(1.018)の4人のみであり、4000打数以上の選手の中では王とカブレラのみである(3位は松井秀喜の0.996)。またシーズン記録でも日本プロ野球史上で9度しか達成されていないOPS12割も一人で5度記録している。
OPS、XR、RCなどさまざまな得点算出能力で1位である。打撃各部門でのシーズンのリーグ1位獲得回数も突出している(合計213個、年度別打撃成績参照。213という数字には、下表にはない最多長打数と最多出塁数が含まれている)。
[編集] 四死球
- 通算四球:2390(日本記録)
- 通算故意四球:427(日本記録)
- 通算死球:114(歴代8位、左打者では稲葉篤紀に抜かれるまで歴代1位だった)
- シーズン最多四球:158個(1974年、日本記録)
- シーズン最多四死球:166個(1974年、日本記録)
通算四球は2390個は2位の落合博満の1475個に1000個近くの差をつけてダントツの1位。王の引退当時は本塁打数とともに四球数もメジャーリーグの記録(ベーブ・ルース、2062)を上回っていた(現在はバリー・ボンズが更新)。
シーズン四球数は歴代1位から4位まで独占、歴代5位の金本知憲(2001年、128個)を挟んで再び6位から11位タイ(121個、2度、2007年のタイロン・ウッズとタイ)まで王の名前が並ぶ。これらを含め、シーズン四球数歴代20傑のうち延べ15を王が独占している。また、連続7打席四球を2度(1971年、1973年)記録している(これは歴代5位の記録だが、1位・松永浩美の11打席、2位タイ・掛布雅之、宇野勝の10打席、4位・ダリル・スペンサーの8打席はいずれもタイトル争いに絡んだ記録である)。
さらに、通算敬遠427個も2位の張本(228個)に200個近い差をつけての歴代1位。この中にはランナー無しでの敬遠が13回含まれる。初回無走者での敬遠もあり、本人は「相手にそれだけ怖がられているんだろうと、むしろ誇りに似たものが溢れてきた」と語っている。イニング別では1回が一番多い。なお、満塁で敬遠されたことはない。
通算死球数は一般に死球が少ないといわれる左打者の中で歴代2位。一本足の死角とされる足元付近への投球が多かったため、特に足への死球が多かったという(文春Numberビデオ「スラッガー列伝」)。シーズン最多死球を2度記録している。
[編集] 守備
- シーズン守備機会:1607 (1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
- シーズン刺殺:1521 (1963年、一塁手としてのセ・リーグ記録)
- シーズン守備機会連続無失策:991 (1980年4月25日 - 10月10日、一塁手としてのセ・リーグ記録)
王本人は「バッティングに比べたら守備は気を抜いていた」と語っているが、実際にはプロ入り2年目でアメリカ製のファーストミットを取り入れるなど守備にも力を入れており、打撃とともにその守備力も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。
長年王とともに内野を守った長嶋茂雄は、「一塁手ではワンちゃんが抜群に上手かったですよ。我々内野手はどんな送球でも安心して放れましたから」と振り返っている。また、現役時代バントの名人であり、監督としても王のいる巨人と対戦した吉田義男(阪神)も、「ワンちゃんにあれだけ迫られたらバントが成功する気が全然しない」と語っている。一塁手として、1963年にシーズン守備機会数とシーズン刺殺数のセ・リーグ記録をそれぞれ更新しており(1607守備機会、1521刺殺)、現役最後の1980年にも守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ただし現役生活が長く守備機会が多かったこともあり、一塁手としての通算失策数165も歴代1位である。一塁手として通算2799試合・27743守備機会・25893刺殺・1685補殺・2317併殺を残しており、通算守備記録においても他の一塁手を圧倒している(すべて一塁手プロ野球歴代1位)。
ハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の対大洋ホエールズ戦と、アーロンの記録を塗り替えた9月3日の対ヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。
[編集] 日本シリーズ
- 通算出場回数:14(シリーズタイ記録)
- 通算出場試合:77(シリーズ記録)
- 通算得点:58(シリーズ記録)
- 通算本塁打:29(シリーズ記録)
- 通算犠飛:5(シリーズ記録)
- 通算四球:83(シリーズ記録)
- シリーズ本塁打:4(1963年、シリーズタイ記録)
- シリーズ四球:9(1967年、1976年の2度、シリーズ記録)
シリーズMVPの受賞は1度もない。シリーズタイ記録の4本塁打を放った1963年や第3戦で阪急の山田久志からサヨナラ3ランを放った1971年も、MVPを手にすることは出来なかった。
[編集] オールスターゲーム
- 出場:20回 (1960年 - 1964年、1966年 - 1980年)
- 出場試合:58(歴代1位)
- 通算打数:188(歴代1位)
- 通算犠飛:3(歴代1位)
- 連続打数無安打:33(歴代1位)
2年目の1960年から現役最終シーズンの1980年まで21年連続でオールスターゲームにファン投票選出された(1965年のみ怪我のため出場辞退)。ファン投票選出回数(21回)、連続選出回数(21回)ともに野村克也と並ぶタイ記録である(選手としての最多選出回数は野村の22回)。
オールスターゲームでは通算打率.213、本塁打率14.46と本来の力を発揮できなかった。上記のとおり、連続33打数無安打(途中5四球あり)という不名誉なオールスター記録も持っている。王が野村の通算本塁打記録を破った1973年以降のオールスターゲームでは、野村がマスクをかぶった試合で27打数1安打0本塁打と完全に抑え込まれたこともその一因である。
[編集] 背番号
- 1(1959年 - 1988年) - ジャイアンツの永久欠番(1989年3月16日認定)になっている。
- 89(1995年 - 2008年) - 「野球」「破竹の勢い」にかけた。
[編集] 出演
[編集] テレビ
[編集] 映画
[編集] CM
- ナボナ(亀屋万年堂・出演終了。1970年代)
- 当時の社長の娘と結婚したチームメイトの国松彰との縁で出演。「ナボナはお菓子のホームラン王です」のフレーズが有名。その後、「森の詩」をはじめ、亀屋万年堂の他製品にも範囲を広げた。現在TVCMはなくなったが、関東方面のJR線や東急線での車内広告は今も続いており、その際に顔が見られる。
- リポビタンD(大正製薬・出演終了。1960年代)
- ペプシコーラ(日本ペプシコーラ・出演終了。1970年代)
- 「50円で1.5倍、ペプシ300」のキャッチコピー、ファンブック「王の本」プレゼントや756号ホームランキャンペーンなどが好評を博しペプシの知名度・売り上げアップに貢献。
- キドカラー(日立製作所・出演終了。1970年代)
- カメラのドイ (ドイ・出演終了。1970年代)
- 缶みかん広報センター(1978年)
- 日産自動車(出演終了。1983年)
- 1983年に日産自動車が創業50周年を記念して数々の特別仕様車などが発売され、王がCMキャラクターとして出演していた。
- 障害者キャンペーン・目隠し編(公共広告機構(現:ACジャパン)・出演終了。1981年)
- ヴィクトリアスポーツ(ヴィクトリア・出演終了)エレクトーンを弾きながら鼻歌を口ずさむというお宝的なCM。
- カロリーメイト(大塚製薬・出演終了)
- ボンカレーゴールド(大塚食品・出演終了)
- 資生堂(アウスレーゼ・名球会協賛CMとして金田正一、長嶋茂雄とともに出演。1984年)
- 昭和西川(ムアツふとん。1985年)
- 西川産業(東京西川・現在出演中)
- J.O.(アサヒ飲料・出演終了。1989?1990年)ハンク・アーロンとの日米ホームラン王による共演。
- WBC日本代表応援CM(アサヒビール・出演終了。2006年)
- ノームラテックス(1970年代・出演終了)
- 九州電力
- 総務省・デジタル放送推進協会“地デジ化応援隊”隊員(2010年6月から2011年7月24日まで)
また、直接の出演ではないが、日清食品のカップヌードルのCMに、自身の756号本塁打の映像が使われたことがあり、CM中では乱入した永瀬正敏と「共演」している。
[編集] 歌
[編集] 本人が歌っているもの
- 白いボール(1965年5月発売。本間千代子とデュエット)
- オリジナル盤のB面は第三日野小学校児童による『ぼくらのホームラン王』。1977年に「ホームラン世界新記録達成記念盤」として再発されている。このときのB面は藤川純一による読売巨人軍球団歌『闘魂こめて』。また、オムニバスCD『珍品堂 いっ!あの人がこんな歌を』にも収録。
- 六つの星(1976年5月1日発売。メインボーカルは細川たかし)
[編集] 歌詞に関連しているもの
- サウスポー(1978年3月25日発売、ピンク・レディー)
- 歌詞の冒頭に出てくる対戦相手は王をイメージしており、全編としてその対戦を(投手側から)歌った内容になっている。
- ピンポンパン体操(1971年12月発売、金森勢&杉並児童合唱団)
- 「でんぐり返って王選手」というフレーズがある。
以上の2曲はともに作詞は阿久悠である。阿久によると、「サウスポー」については後に王本人から「僕の歌ありがとう」と言われたとのこと。
- 燃えるホームラン王(1977年10月発売、灰田勝彦)
- 作詞:南葉二 作曲:灰田勝彦。曲の冒頭に王の台詞が入る。
- 君 球界の王として(1980年12月21日発売、永遠に王貞治を応援する会有志)
- ときめきよ永遠に〜ずっと忘れない〜/ビーグルクルー(2009年4月1日発売)
- 作詞:YASS 作曲:YASS
- 「HAWKS2008〜ありがとう、王監督。14年間のホークス物語〜」メインテーマソング。王貞治に感謝の意を込めて捧げた曲になっている。
- 日本テレビ、「誰も知らない泣ける歌」にて、王貞治の勇姿を讃えた曲としてオンエアーされた曲。
[編集] 漫画
[編集] 王貞治がモデルとなっている作品
- 1・2のアッホ!! - 読捨拒人軍の陽打治
[編集] 王貞治を演じた俳優
[編集] 主な著作(自伝)
- 『王貞治 回想』 人間の記録.日本図書センター、2000年。初版勁文社
- 『夢を追え 野球にかけた人生』 日本放送出版協会、1993年
- 『豪快野球で王道を往く さらば巨人軍』 実業之日本社、1995年
- 『野球にときめいて 王貞治、半生を語る』 中央公論新社、2011年3月 ISBN 4120042170。読売新聞連載の「時代の証言者」に大幅加筆
[編集] 脚注
- ^ “名誉都民の王貞治氏ら顕彰 理恵さんが手紙代読「精いっぱい生きていく」”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2009年9月24日) 2010年4月5日閲覧。
- ^ ““世界の王”の原点 墨田区総合体育館に顕彰コーナー完成”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2010年3月29日) 2010年4月5日閲覧。
- ^ “福岡市ホームページ:HOME > 市政情報 > 市政の概要・市のプロフィール > 王 貞治 氏(平成16年12月17日選定)” (2008年2月7日). 2010年4月5日閲覧。
- ^ “王さん 宮崎名誉市民に、長嶋さんに次いで2人目”. YOMIURI ONLINE. (2009年8月9日) 2010年4月5日閲覧。
- ^ “プロ野球の王貞治氏、台湾総統から勲章授与される”. AFP BBNews. (2009年2月6日) 2010年4月5日閲覧。
- ^ “台湾週報:一覧:トップページへ > 台灣週報 > 台湾週報 > 馬英九総統が王貞治氏に「二等景星勲章」を授与” (2009年2月6日). 2010年4月5日閲覧。
- ^ a b c d e f 「高校野球 熱闘の世紀」ザ・ベスト
- ^ 『野球小僧』白夜書房、2009年4月号、p203
- ^ 上前淳一郎『巨人軍影のベストナイン』角川文庫。なお、近藤唯之も同様の内容を記している。
- ^ 『スポーツ20世紀』ベースボール・マガジン社、2000年7月、p25
- ^ 堂本昭彦 『羽賀準一 剣道遺稿集―附伝記・日記』、島津書房、1999年
- ^ '77 THE BASEBALL MOOK プロ野球党 (日本スポーツ社)
- ^ 『日録20世紀 1977年』講談社、1997年刊
- ^ 王が引退した1980年において、メジャーリーグ26球団の本拠地球場の多くは両翼が100mを超えており、両翼が100m以下の球場も左右中間は115m以上あるなど充分な外野の広さを持っていた。これに対し後楽園球場は両翼が実測87.5m、左右中間110mと狭く、他のセ・リーグの球場もほぼ同様の広さであった。
- ^ 21世紀への伝説史 王貞治 『気力編』&愛蔵本 発売:(株)メディアファクトリー・販売:(株)トップアスリート
- ^ 近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮文庫
- ^ TBS「ZONE」1999年10月28日放送
- ^ 日刊スポーツ
- ^ 再来日の覚悟が見えたオーティズの箸使い。
- ^ 野球普及に強い意欲=文化功労者の王貞治さん 時事通信 2010年10月26日閲覧
- ^ 1999年10月28日放送のTBS系『ZONE』
- ^ http://www.nikkan-kyusyu.com/view/da_1072187059.htm
- ^ “王貞治さんの母・登美さん死去…108歳” (日本語). 読売新聞. (2010年8月17日) 2010年8月17日閲覧。
- ^ 編集委員 清水満 (2008年12月26日). “【王家の教え】(上)王貞治さんの信念「私は疑うことなく日本人」 (1/3ページ)”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社) 2010年2月21日閲覧。
- ^ 編集委員 清水満 (2008年12月26日). “【王家の教え】(上)王貞治さんの信念「私は疑うことなく日本人」 (2/3ページ)”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社) 2010年2月21日閲覧。
- ^ 編集委員 清水満 (2008年12月26日). “【王家の教え】(上)王貞治さんの信念「私は疑うことなく日本人」 (3/3ページ)”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社) 2010年2月21日閲覧。
- ^ 青木功 - 世界の王さんあっての私 - 東洋経済 2009年8月4日
- ^ 12位:ホームラン地蔵 出没!アド街ック天国 テレビ東京 2006年11月25日放送
- ^ 下部のシーズン記録ランキングを参照 http://bis.npb.or.jp/history/
- ^ 新春大吉 テレビドラマデータベース
[編集] 参考文献
- 上前淳一郎 『巨人軍陰のベストナイン』 角川文庫1977年 ISBN 978-4-04-326902-0
- 『スポーツ20世紀』 ベースボール・マガジン社 2000年7月
- 『日本野球25人 私のベストゲーム』主にホークス監督時代のことが記述されている。p.18~
- 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
p.5 メッセージ、p.39 シーズン本塁打日本新記録、p.47 7試合連続本塁打、p.58~ 756号本塁打
[編集] 関連項目
- 東京都出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 世界少年野球大会
- 世界少年野球推進財団
- 在日台湾人
- 義田貴士(スポーツジャーナリスト) - テレ朝系ドラマ『アストロ球団』で王を演じた
- 石森達幸(声優) - アニメ『巨人の星』で王を演じた
- 江尻良文(夕刊フジ編集委員) - 「生涯番記者」を自任し、王についての本を執筆
- 大崎タイムス - 「王貞治旗争奪大崎地方少年野球選手権大会」を1981年から開催
[編集] 外部リンク
- 王貞治ベースボールミュージアム
- 日本プロ野球名球会会員 王貞治(日本プロ野球名球会より)
- 王語録(nikkansports.comより)
- 王監督ありがとう-ホークスと歩んだ14年間の軌跡-
- 王貞治 50年のプロ野球人生を語る
- 王貞治「言い訳はしないそれがプロ」
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