堀内恒夫

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堀内 恒夫
基本情報
国籍 日本
出身地 山梨県甲府市
生年月日 1948年1月16日(61歳)
身長
体重
177cm
72kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1965年 ドラフト1位
初出場 1966年4月14日
最終出場 1983年10月22日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ
    (1984 - 1985, 1993 - 1998, 2004 - 2005)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2008年
選出方法 競技者表彰(プレーヤー表彰)

堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、山梨県出身のプロ野球選手投手)、プロ野球監督

ニックネームは「悪太郎」、「甲府(甲斐)の小天狗」、「ホリさん」等。現在は日本テレビ野球解説者

目次

[編集] 経歴

小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。しかしそのハンディキャップが逆に独特の大きなカーブ(ドロップ)を生み出すことになった。

甲府市立甲府商業高等学校では1年次からレギュラーとなり、県大会を勝ち抜き山梨県代表となった。しかし堀内が出場した第45回記念大会(1963年)は記念大会のため出場校が多く、会場に阪急西宮スタジアムと甲子園を併用し、甲府商は西宮組に入ったために甲子園では投げていない。これは『巨人の星』でもエピソードに使われている。

[編集] 現役時代

1965年ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、1年目から一軍に定着。入団時の背番号は21。プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の大洋戦から6月22日の産経戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、新人記録となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率最高勝率沢村賞新人王のタイトルを獲得。2年目からはエースナンバー18を背負った。

27歳の若さで150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。巨人一筋で200勝をあげたのは中尾碩志と堀内のみ。1972年には26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。V9を含め、巨人は1963年から1974年までセ・リーグMVPを独占したが、この間ON王貞治長嶋茂雄)以外で受賞したのは堀内が唯一である。また、この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない。

一歳年下の江夏豊阪神)とはライバル関係にあった。江夏が堀内と呼び捨てに記者に話している事を聞きつけて、腹を立てていたという。ともに99勝で迎えた一戦で投げ合い、この時は堀内が完封で勝利して先に100勝を達成したが、150勝を懸けた試合でも対戦し、この時は江夏に軍配が上がっている。

守備にも定評があり、ダイヤモンドグラブ賞を創設年の1972年から7年連続で受賞。非常にクイックがうまく、「世界の盗塁王」福本豊をして「全く癖が見抜けなかった」と言わしめ、一度も盗塁を成功させなかった。日本シリーズでは、捕手が弱肩とされる森祇晶であったにもかかわらず福本には一度も盗塁を許していない。またオールスターで対戦した際にも、堀内がわざと一塁へ歩かせた福本を田淵幸一が刺している。

打撃では通算21本塁打を記録。特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園)ではノーヒットノーランを達成し、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている。投手による3打席連続本塁打は史上唯一。これに関して本人は現役引退後、「4打席目に凡退しガッカリしてベンチに戻った際に他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。『全打席本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』と思った」と語っている。1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。この2本塁打などの活躍で1972年1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞している。

悪太郎」とあだ名される通り、寮生活では門限破りの常習犯として知られていて、「鬼軍曹」と恐れられていた武宮敏明寮長(当時)は巨人歴代3ワルとして王貞治柴田勲と堀内を挙げている。武宮の目を逃れるため風呂場の窓から入った、寮から抜け出すために非常用のはしごを買っていた、帰宅を待ち構えていた王に殴られた(『見かねた王の鉄拳伝説』)などの逸話は数知れない。本人曰く、門限破りで見つかったのは100回以上のうち3回だけとのこと。ファンが家族を装って寮に電話をかけてきたため、寮長に堀内が部屋にいなかったことがばれたことがある。巨人では当時門限を一度破ると8万円、2度目は16万円と回を重ねるごとに罰金が倍になる決まりであったが、当時堀内の毎月の手取りは30万前後だったため、3回目の門限破りをした月には、給料袋にマイナス6万円と書いた紙が入っていたという。外へ飲みに行っていたため、チームメイトと一緒に門限を破っていたわけだが、堀内一人が門限破りで見つかった時も、ほかのチームメイトのことは黙っていたそうである。しかし自らの監督時代には、キャンプ中の夜の外出を全面的に禁止した。

1980年に引退した王貞治は、同年のファン感謝デーの紅白戦にて堀内を投手として最終打席に立っている。しかし、堀内は2球のドロップに渾身のストレートを投げ王を空振り三振に仕留めている。その後、王が入団時のポジションである投手に、打席には堀内が立って再び勝負をしたが、堀内は王の初球を打ってホームランとした。

1979年4月9日の対中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手となる。1980年6月2日の対ヤクルト戦で通算200勝を達成。しかし1981年藤田元司が監督に就任すると、江川卓西本聖定岡正二の台頭により登板が急激に減り、同年の日本シリーズでは登板機会がなく、1982年には投手コーチ兼任となる。

1983年、引退を発表。引退試合では最終回に回ってきた現役最終打席で本塁打を放っている。引退試合後の1983年の日本シリーズには出場しなかった。

[編集] 評論家・巨人コーチ時代

その後、日本テレビのプロ野球解説や、巨人の投手コーチ、ヘッドコーチを歴任した(1984年、1985年、1993~1998年)。読売新聞スポーツアドバイザーとして、野球教室のイベント等にも携わっていた。

2000年3月29日には、東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツシカゴ・カブスで、この試合を観戦に来た徳仁親王夫妻の横に座り、野球解説を行った。

[編集] 巨人監督時代

2003年オフ、原辰徳が突然解任され、巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期にまったく予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。突然の人事であったこと、いかに巨人OBで後任の引き受け手のなかったかをうかがえる発言であるが、一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八にちなんでつけたものである。なお、2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。近鉄との年俸交渉が決裂したタフィ・ローズ、膝の靭帯を断裂したダイエーの小久保裕紀をチームが獲得したまでは同情的な声も大きく、投手出身らしい明晰な解説は一定の評価を得ており、就任時の評判は悪くはなかった。

2004年は能力の高い選手に対し極力サインを省いた史上最強打線とも言われた打線が機能。投手陣の不調を補い前半戦は優勝を争ったものの、6月の札幌シリーズ中日戦で同一カード3連敗を喫し、首位を奪われたことを機に失速気味となり3位に終わる。2005年も札幌シリーズは中日戦だが2戦とも2桁失点(前年からだと4試合連続)で大敗し通算5敗。2年間の監督業で札幌シリーズは1勝もしていない。そしてこれを境に2008年、札幌シリーズは中日戦となったが2連敗し2004年からの札幌シリーズでの連敗記録(7連敗)は続いたままである。

2年目の2005年、「今年はうちと中日の一騎打ちになるだろう」と語った。「守りの野球」をフロントに要請し、中堅手としてゲーブ・キャプラー、クローザーとしてメジャーリーグで活躍したリリーフ投手ダン・ミセリを補強をした。またロベルト・ペタジーニ清原和博を構想外とし、清水隆行をファーストにコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転4番一塁清原で開幕を迎えることとなる(この頃からキャプラーへの不安が顕在化していた可能性が窺える)。

しかし補強の目玉であったはずのミセリとキャプラーが誤算で、ミセリは数試合で解雇となり、キャプラーは古傷の影響もあってかシングルヒットで1塁ランナーに生還されることもあるほどであった。この2名に関しては2軍に落とせない契約を交わしていた不運もあったものの、彼らをチームの中核から降ろす見切りがあまりにも遅すぎたともいえた。その後高橋由伸やキャプラーに代わり高齢に鞭打ちセンターを守っていたローズに対し弘田澄男コーチが『緩慢』と叱責したことでローズの怒りが爆発し首脳陣批判。また、清原は夏場に打撃不振に加え持病の悪化させ二軍落ちし、そのため肩を故障した阿部慎之助一塁手に起用するなど、構想からは大きく外れる戦いを強いられた。

シーズン終盤は高橋由・ローズ・清原などが離脱した反面、飛躍した矢野などの中堅選手が活躍したときには雲の晴れたような笑顔をみせたものの、自ら招いた先発投手陣崩壊は修正が利かず、投手陣の明るい話題は工藤公康の200勝達成のみとなっている。チームはBクラスに低迷し、一部週刊誌に堀内を批判する記事が後を絶たず、次期監督候補の話題にまで持ちかけられることもあるほどで、人望のなさが顕著に現れている。30年ぶりの最下位こそまぬがれたものの、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫し、「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し辞任した。巨人の歴代監督で唯一勝率5割を切っており、一部のファンは「空白の2年間」と呼ぶ。ジャイアンツファンフェスタで監督の話になるとファンからブーイングが起きることもあった。

巨人監督辞任後、2005年11月25日の巨人納会に出席。退団会見から約1ヵ月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。一部選手との不仲などは噂されているものの、辞任会見に際して仁志敏久ら主力野手陣が胴上げできなかったことの無念さを口にし、堀内やフロントに重用され、投手陣・野手陣のリーダー的選手となった小久保(FA権を行使してソフトバンクに復帰)と工藤(門倉健のFA人的補償として横浜に移籍)が「巨人でやりのこしたことは?」と質問を受けたときも同様のことを語っており、人望がまったくなかったわけではない。

[編集] 監督としての評価

当時セ・リーグは中日・阪神の2強時代といえたため、再就任後の原監督同様、必要以上に糾弾されている面もある。また巨人というチームゆえにチーム状況を無視したバッシングなどは日常茶飯事であるが、それでも堀内へのバッシングは苛烈を極めた。

2004年、「オープン戦で結果を残したほうを使う」としてペタジーニと清原、小久保と江藤智などの選手との競争を打ち出したが、ペタジーニを優先起用したために清原の2000本安打がイチローに先んじられるなどすると、マスコミからは「選手と監督との確執」などと報じられることになった。また、小久保を休養も与えず重用し、成績を残したことなどで無償トレードへの疑念がさらに広がってしまう。清水の一塁コンバートに関しても、「テレビゲームじゃないんだから。ベースに張り付いていればいいというものではない、甘すぎるのではないか」などといった声が飛んだ。

また、桑田真澄に対しては引導を渡す趣旨ともとれるコメントを残したが、「引き際が大事」などといった自身の過去を省みないかのようなコメントをしてファンを敵に回してしまっているが、翌2005年後半には勝負が決まると桑田をシーズン終了まで起用している。これらの行為を好意的に見るものもあるが、結局桑田の最終年である2006年は殆ど試合に出ておらず、中途半端なメジャーリーグ挑戦、現役引退となったため、「桑田が200勝を達成するために見切ってくれていれば」「実際に桑田に引導を渡す役割を原に引き受けさせて逃げた」といった批判も飛んでいる。

2004年・2005年と巨人は2年連続して球団の防御率ワースト記録を更新させるまでに投手陣を崩壊させたが、その最大の原因は、堀内自身が「中4日半での完投制」を打ち出したことにある。

2004年、巨人は先発投手防御率を就任前年の3点台後半から6点台にまで崩壊させたが、前年・前々年のジャイアンツの投手陣は中6日でローテーションを回し、基本的に責任投球回数を投げていた。リリーフ陣が崩壊、防御率は4点台後半と投壊はしたものの、先発投手防御率はベテラン桑田真澄工藤公康などローテ投手が離脱しながらも3点台後半をマークしており、2004年の時点では桑田や工藤も復帰、エース上原浩治・若い木佐貫洋林昌範久保裕也などを擁する巨人の投手力は十分に復活の余地があったといえる。

しかし2004年・2005年の2年間はエース上原すらキャンプやシーズン中の調整に戸惑い成績が低下。「80年代の野球」を知る桑田も前年の足首の故障の影響で不調。先発投手陣が完全に崩壊してしまった。この戦略は90年前半の巨人や西武など、250イニングを投げる能力のある投手が3人存在し2人が実行するような先発投手がいることで初めて成立するような戦略と思われる。この2年間、結果を残した投手は工藤のみであった。

また肩が緩く連投が利かない体質の木佐貫を抑え起用し故障させ、先発タイプの林をスリークォーターに転向させて抑え投手にするなど、結果はともかく投手出身監督とは思えない判断が目立った。(実は以上のミスと全く同じミスを投手コーチ・ヘッドコーチ時代にも行っており、戦略性の欠如を危惧する声は早期に指摘されていた)

反面継投など、1対1の投手心理の反映されるような部分では能力を発揮しており、ブライアン・シコースキーの加入などにより、ブルペンを支えるリリーフ投手は、優勝を決めた2007年よりも抑え投手の不在を除いて遥かに充実していた。一説には1994年の10月8日のペナント最終戦での優勝決定戦で、3本柱の継投を進言したのも堀内ともいわれており、このように自らの手の届く範囲内での能力と、それ以外の144試合を見据えた戦略の欠如があまりにも極端であった。

守りの野球を掲げたものの、ゴールデングラブ賞受賞者は球団史上初めて2年連続ゼロに終わった。このこと自体は堀内ひとりに責任を背負わせる問題ではないが、就任の際に目標にあげた藤田元司は、実は多少の守備力を重視するよりは攻撃力を優先していた(外野守備を必要最低限の守備能力で済ませた2007年の原や2005年のボビー・バレンタインの起用法の方が堀内の起用法より近かった)。年齢は若いものの王貞治などと同世代の野球選手のためか、藤田のような一見奇抜と受け取られかねない柔軟性が最後まで見られることがなかったことも敗因の一つと思われる。

[編集] For The Glory 〜Over The Limit〜

堀内が監督を務めていた時代の巨人のキャッチフレーズである。2004年シーズンはFor The Gloryのみであったが、2005年はOver The Limitが付与された。For The Gloryの日本語訳は「ただ栄光のために」。これは堀内の座右の銘の一つで、堀内の巨人に対する愛情とプライドが込められた標語と言えよう。また、著書にもなっている。

[編集] 巨人監督退任後

現在は日本テレビ野球解説者などを務める。解説者となってからも、投手心理などにかけてはプロ野球界でも屈指の理論派として解説には定評がある。研究と趣味を兼ね、スケジュールの合間をぬってメジャーリーグ観戦に熱心に足を運んでいる。2006年3月5日には、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本・韓国戦を皇太子夫妻が観戦に訪れた際、巨人・渡邉恒雄球団会長、根來泰周コミッショナーとともに同席。解説を務めた。

2008年1月11日野球殿堂競技者表彰選考にて、野球殿堂入りを果たした。殿堂入り表彰式は、2008年8月1日オールスター第二戦(横浜スタジアム)の際に執り行われた。

巨人はレギュラーシーズンで過去4度、相手チームの胴上げを目の前で見る屈辱を喫したが、堀内はそのうち3度もグランドで立ち会った。1975年後楽園球場で選手、1995年神宮球場でコーチ、2005年は甲子園球場で監督として見ることになってしまった。解説者の時も2006年東京ドームで胴上げを見る屈辱を味わった。更に2008年の日本シリーズ(巨人-西武)第7戦でも東京ドームで解説者として立ち会うが、その時も目撃することとなった。因みに東京ドームでの開催の日本シリーズで相手チームの胴上げは開場以来、初めてのこととなった。

趣味はゴルフ。また無類のプラモデル好きで「日本の名城」等を寮でよく作ったという。

[編集] 選手成績

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1966 巨人 33 22 14 7 1 16 2 -- -- .889 714 181.0 125 5 69 2 4 117 5 0 34 28 1.39 1.07
1967 23 16 13 2 0 12 2 -- -- .857 609 149.0 126 7 59 1 1 82 6 0 41 36 2.17 1.24
1968 40 29 12 3 0 17 10 -- -- .630 845 206.2 153 31 105 4 4 142 4 0 81 76 3.31 1.25
1969 41 29 12 4 0 14 13 -- -- .519 1004 236.2 211 21 107 5 6 160 6 1 94 82 3.12 1.34
1970 42 34 18 1 0 18 10 -- -- .643 1130 282.2 202 22 103 4 7 228 2 0 82 65 2.07 1.08
1971 40 33 14 3 0 14 8 -- -- .636 924 226.0 183 18 82 5 6 155 7 0 83 78 3.11 1.17
1972 48 34 26 4 1 26 9 -- -- .743 1282 312.0 292 34 95 5 3 203 3 0 110 101 2.91 1.24
1973 39 33 15 2 1 12 17 -- -- .414 953 221.0 238 28 70 6 6 113 1 1 117 111 4.52 1.39
1974 46 37 21 3 1 19 11 1 -- .633 1106 276.2 217 31 80 6 7 127 2 0 101 82 2.66 1.07
1975 38 29 8 2 1 10 18 0 -- .357 893 213.2 212 28 75 4 6 118 4 1 100 90 3.79 1.34
1976 34 27 11 2 0 14 6 0 -- .700 763 177.1 173 23 71 1 4 82 2 0 84 78 3.96 1.38
1977 34 23 4 1 1 10 9 3 -- .526 657 151.1 163 20 53 3 5 86 3 0 81 77 4.58 1.43
1978 35 31 7 3 1 12 9 0 -- .571 829 201.0 190 22 59 4 3 113 1 0 86 79 3.54 1.24
1979 24 14 1 0 0 4 7 0 -- .364 400 86.1 111 16 35 5 2 59 1 0 68 64 6.67 1.69
1980 19 12 2 0 0 3 5 1 -- .375 319 75.0 78 12 22 4 1 58 0 0 43 36 4.32 1.33
1981 9 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 92 22.0 27 3 1 0 0 11 1 0 16 11 4.50 1.27
1982 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 29 7.0 8 0 0 0 0 2 0 0 5 3 3.86 1.14
1983 11 1 0 0 0 1 0 1 -- 1.000 79 19.2 16 2 9 1 1 9 0 0 9 9 4.12 1.27
通算:18年 566 408 178 37 7 203 139 6 -- .594 12628 3045.0 2725 323 1095 60 66 1865 48 3 1235 1106 3.27 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 通算打撃成績

  • 1010打数174安打(打率.172) 21本塁打 82打点

[編集] タイトル・表彰

[編集] 記録

[編集] レギュラーシーズン

  • 新人の開幕連勝:13(1966年)
  • ノーヒットノーラン1967年10月10日) - 対広島
  • 投手の1試合3本塁打(1967年10月10日) - 川崎徳次に次いで史上2人目、3打席連続本塁打は史上初
  • シーズン勝率.889(1966年、16勝2敗、セ・リーグ記録)

[編集] 日本シリーズ

  • 通算登板試合:27(シリーズ記録)
  • 通算投球回数:140 1/3(シリーズ記録)
  • 通算勝利:11(シリーズタイ記録)
  • 通算与四球:61(シリーズ記録)
  • 投手の1試合2本塁打:1973年第3戦(史上唯一)

[編集] オールスターゲーム

  • 通算防御率:1.44(20イニング以上で歴代1位)

[編集] 監督としてのチーム成績

[編集] 年度別成績

年度 球団 背番号 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2004年 平成16年 巨人 88 3位 138 71 64 3 .526 259 .275 4.50 56歳
2005年 平成17年 5位 146 62 80 4 .437 186 .260 4.80 57歳

※2004年シーズンは、ストライキのため2試合ゲームが中止された。

[編集] 通算成績

  • 284試合 133勝144敗7分 勝率.480

[編集] 背番号

[編集] 人物像・エピソード

豪快なエピソードや、走り込みを嫌ったことから“遊び人”のイメージも強いが、プロ入団2年目にヘルニアを患ったことで毎日腹筋を5年かけて鍛え、「筋肉をコルセットがわりに」腰痛を克服。「練習は大嫌いだけど、皆が遊んでいると思ってるところで努力する」という隠れた努力家でもある。

[編集] 現役時代

[編集] コーチ時代

  • 1993年9月19日ヤクルト戦で、橋本清金森栄治へ投じた一球が金森の背中を通り越す暴投になったことがあった。この投球に対して金森が激怒し乱闘が発生。金森は直後に選手に諭されてベンチに下がっているが、両球団のベンチ総動員の大乱闘となり、堀内もその輪に加わったものの、メガネを壊され、顔を引っ掻き回され、腹部を殴られ(古田敦也が殴ったと思われる)、ユニフォームはビリビリに引き裂かれてしまった。巨人監督退任後このシーンを本人に見せたところ、「あれは古田だな」と笑いながら語っていた。尚、古田はこの件に関して現在でもコメントはしていない。
  • ヘッドコーチ時代、春のキャンプでは現地で自転車をレンタルし、練習場を駆け回った。自転車の方が小回りが利き、練習を効率よく確認出来るとの判断からである。
  • キャンプではマイクを持って指示を出していたことでも知られる。罰走を課す際には「ライトポールまで走れ!!」等、威勢のいい声が度々聴かれた。

[編集] 監督時代

  • 2004年の監督就任時、試合進行を円滑にしたいとの考えから、「本塁打を打った打者はベンチ内で迎える」、「打席に入る際のテーマソングの短縮」、「攻守交代は駆け足で」などの方針を打ち出した。
  • 2004年シーズン中は、『スポーツうるぐす』で「ジャイアンツ城」というコーナーを持っていた。堀内が故郷山梨を代表する戦国武将武田信玄の格好で登場し、オープニングで「ジャイアンツ城、いざ出陣」と言っていた。
  • 2005年春のキャンプでは、自室に「堀内バー(マスコミが命名)」を開いて酒を置いて選手との交流を図ろうとしたが、置いた意味があまりなかったことに悩みを抱えていた。
  • 2005年に地元山梨でオープン戦が行なわれた際、隣の競技場で地元のプロサッカークラブヴァンフォーレ甲府の試合と日程がかぶってしまうことが発覚。そのため堀内は甲府の海野一幸社長と相談。結果オープン戦の日程を一日ずらすことで決着した。野球とサッカーの両方を観戦したい県民に対しての配慮ともいえる。

[編集] その他

[編集] TVゲーム

[編集] 関連書籍

[編集] 関連項目

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