堀内恒夫

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堀内 恒夫
Tsuneo Horiuchi (2010).jpg
2010年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山梨県甲府市
生年月日 1948年1月16日(65歳)
身長
体重
178 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1965年 ドラフト1位
初出場 1966年4月14日
最終出場 1983年10月22日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1982 - 1985, 1993 - 1998, 2004 - 2005)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2008年
選出方法 競技者表彰

堀内 恒夫(ほりうち つねお、1948年1月16日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手投手)・監督

ニックネームは「悪太郎」、「甲府(甲斐)の小天狗」、「ホリさん」等。現在は日本テレビ野球解説者

目次

経歴 [編集]

小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。しかしそのハンディキャップが逆に独特の大きなカーブドロップ)を生み出すことになった。

甲府市立甲府商業高等学校では1年生次からレギュラーとなり、県大会を勝ち抜き山梨県代表となった。しかし、堀内が出場した第45回記念大会(1963年)は記念大会のため出場校が多く、会場に阪急西宮球場と甲子園を併用し、甲府商は西宮組に入ったために甲子園では投げていない。これは『巨人の星』でもエピソードに使われている。

現役時代 [編集]

1965年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、1年目の1966年から一軍に定着。プロ初登板(初先発)の投球練習時には1球目をわざとバックネットに投げて緊張をほぐしたという。5月30日の対大洋戦から6月22日の対サンケイ戦にかけて44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録(新人記録でもある)となる開幕13連勝を含む16勝を記録。最優秀防御率最高勝率沢村賞新人王のタイトルを獲得。入団時の背番号21だったが、翌1967年からはエースナンバー18を背負った。

27歳の若さで150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利を挙げ、V9時代のエースとして活躍。通算12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。1972年には26勝を挙げ、セ・リーグMVPに選出されている。この年の堀内を最後にセ・リーグでシーズン25勝以上した投手はいない。V9を含め、巨人は1963年から1974年までセ・リーグMVPを独占したが、この間ON王貞治長嶋茂雄)以外で受賞したのは堀内が唯一。

1歳年下の江夏豊阪神タイガース)とはライバル関係にあった。江夏が堀内と呼び捨てに記者に話している事を聞きつけて、腹を立てていたという。ともに99勝で迎えた一戦で投げ合い、この時は堀内が完封で勝利して先に100勝を達成したが、150勝を懸けた試合でも対戦し、この時は江夏に軍配が上がっている。

守備では、ダイヤモンドグラブ賞を創設年の1972年から7年連続で受賞。非常にクイックがうまく、「世界の盗塁王」福本豊をして「全く癖が見抜けなかった」と言わしめ、一度も盗塁を成功させなかった。日本シリーズでは、捕手が弱肩とされる森祇晶であったにもかかわらず福本には一度も盗塁を許していない。また、オールスターゲームで対戦した際にも、堀内がわざと一塁へ歩かせた福本を田淵幸一が刺している。

打撃では通算21本塁打を記録。特に1967年10月10日の対広島戦(後楽園球場)ではノーヒットノーランを達成し[1]、さらに自ら3打席連続本塁打を放っている[1]。投手による3打席連続本塁打は史上唯一[1]。これに関して本人は現役引退後、「4打席目にホームランを打てずガッカリしてベンチに戻った際に他の選手に言われるまでノーヒットノーランに気付いていなかった。『4打席連続本塁打の代わりにノーヒットノーランでいいや』『あーあ、しょうがねえ、じゃあノーヒットノーランでもやるか』と思った」と語っている。1973年の日本シリーズ第3戦では2本塁打を放っているが、日本シリーズで投手の1試合複数本塁打も史上唯一。この2本塁打などの活躍で1972年1973年と2年連続で日本シリーズMVPを受賞している。

悪太郎」とあだ名される通り、「鬼軍曹」と恐れられていた当時寮長の武宮敏明は巨人歴代三ワルとして王貞治柴田勲と堀内を挙げている。寮生活では門限破りの常習犯として知られていて、武宮の目を逃れるため風呂場の窓から入った、寮から抜け出すために非常用のはしごを買っていた、帰宅を待ち構えていた王に殴られた(『見かねた王の鉄拳伝説』)、ファンが家族を装って寮に電話をかけてきたために部屋を抜け出していたことが発覚したなどの逸話は数知れない。本人曰く、門限破りで見つかったのは100回以上のうち3回だけとの事。巨人では当時門限を一度破ると8万円、二度目は16万円と回を重ねるごとに罰金が倍になる決まりであったが、当時堀内の毎月の手取りは30万前後だったため、3回目の門限破りをした月には、給料袋にマイナス6万円と書いた紙が入っていたという。外へ飲みに行っていたため、チームメイトと一緒に門限を破っていたわけだが、堀内一人が門限破りで見つかった時も、ほかのチームメイトのことは黙っていたという。しかし自らの監督時代には、キャンプ中の夜の外出を全面的に禁止した。

1980年に引退した王貞治は、同年のファン感謝デーの紅白戦にて堀内を投手として最終打席に立っている。しかし、堀内は2球のドロップに渾身のストレートを投げ王を空振り三振に仕留めている。その後、王が入団時のポジションである投手に、打席には堀内が立って再び勝負をしたが、堀内は王の初球を打ってホームランとした。

1979年4月9日の対中日戦で、球団通算3000勝目の勝利投手となる。1980年6月2日の対ヤクルト戦で通算200勝を達成。巨人一筋で200勝を挙げたのは中尾碩志と堀内のみ[2]。しかし1981年藤田元司が監督に就任すると、江川卓西本聖定岡正二の台頭により登板が急激に減り、同年の日本シリーズでは登板機会がなく、1982年には投手コーチ兼任となる。

1983年、引退を発表。引退試合10月22日の対大洋戦)では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録。引退試合後の1983年の日本シリーズには出場しなかった。

評論家・巨人コーチ時代 [編集]

その後、日本テレビのプロ野球解説や、巨人の投手コーチ、ヘッドコーチを歴任した(1984年 - 1985年1993年 - 1998年)。読売新聞スポーツアドバイザーとして、野球教室のイベント等にも携わっていた。

2000年3月29日には、東京ドームで開催された日本初のメジャーリーグ公式戦・ニューヨーク・メッツシカゴ・カブスで、この試合を観戦に来た皇太子徳仁親王夫妻の横に座り、野球解説を行った。

巨人監督時代 [編集]

2003年オフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期にまったく予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八にちなんでつけたもの。なお、2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。

2004年度 [編集]

大阪近鉄バファローズからタフィ・ローズ福岡ダイエーホークスから小久保裕紀パ・リーグ本塁打王経験者が2選手同時に加入。怪我のため前年出場ゼロの小久保は41本塁打、96打点と復活。ローズも45本塁打、99打点と猛打を発揮し、本塁打王とベストナインを獲得。一番から仁志敏久清水隆行、ローズ、高橋由伸、小久保、ペタジーニ阿部慎之助二岡智宏と続く「史上最強打線」はプロ野球記録のチーム259本塁打を記録し、究極の形となる。しかし、投手陣の不調を補って前半戦こそ優勝を争ったものの次第に超重量打線に極力サインを省いた戦いが機能しなくなり、機動力不足や高齢化による守備力の低下が目立つようになる。6月の中日戦で同一カード3連敗を喫し、首位を奪われ失速。優勝した中日に8ゲーム差を離されて3位に終わる。優勝した中日は福留孝介アレックス荒木雅博井端弘和ら「打って走って守れる選手」と、川上憲伸を中心とする安定した投手力による“守り勝ち”野球だった。

2005年度 [編集]

開幕に向けて「今年はうちと中日の一騎討ちになるだろう」と語った。前年度の反省から「守りの野球」をフロントに要請し、中堅手としてゲーブ・キャプラー、抑え投手としてメジャーリーグで活躍したダン・ミセリを補強した。また、ペタジーニと清原を構想外とし、清水をファーストにコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番ファースト清原で開幕を迎えることとなる。

しかし補強の目玉だったはずのミセリとキャプラーが大誤算で、ミセリは数試合で解雇となり、キャプラーは古傷の影響もあってかシングルヒットで一塁ランナーに生還されることもあるほどの守備力だった(この両選手には二軍に落とせない契約を交わしていた)。その後、高橋由やキャプラーに代わりセンターを守っていたローズに対し、コーチの弘田澄男が『緩慢』と叱責したことでローズの怒りが爆発し首脳陣批判。また、清原は夏場に打撃不振に加え持病の悪化から二軍落ちし、そのため肩を故障した捕手の阿部をファーストに起用する、など、当初の構想から大幅に外れる戦いを強いられた。

シーズン終盤は高橋由・ローズ・清原などが離脱した反面、矢野謙次亀井義行など生え抜きの若手選手が活躍を見せる光明もあった。しかし、先発投手陣は崩壊したままで、投手陣の明るい話題は工藤公康の11勝のみでチーム防御率は2年連続で球団のワースト記録を更新した。チームはBクラスに低迷し、一部週刊誌には堀内の采配を批判する記事が後を絶たなかった。関東での視聴率の減少で地上波のプロ野球中継の激減が始まったのもこの年からである。終盤はやや盛り返して5位となり、30年ぶりの最下位こそ免れたものの、球団シーズンワースト記録となる80敗を喫した。優勝した阪神は1,2番の起動力と下位打線のつなぎにより1点を確実に取り、JFKによる安定したリリーフ陣によって守る“安定型”野球だった。この年を持って「敗軍の将、兵を語らず」の言葉を残し辞任した。球団史上初の優勝経験無しの監督という、非常に不名誉な記録を残すこととなった。

巨人監督辞任後、2005年11月25日の巨人納会に出席。退団会見から約1か月半ぶりに公の場へ姿を現し、選手に対しては「今年の負けた悔しさと痛みをバネに、原監督の下で優勝をして頂きたい」と激励の言葉を発した。後に清原が「名前は言えないけど僕も独裁者のような監督と出会いました。参院選でしたっけ?(中略)感じ悪い人で僕も戦いましたね」と参院選を控えた堀内について発言するなど、一部選手との不仲などは噂されていたものの、辞任会見に際して仁志ら主力野手陣が胴上げできなかったことの無念さを口にしている。堀内やフロントに重用され、投手陣・野手陣のリーダー的選手となった小久保(翌年度FA権を行使してソフトバンクに復帰)と工藤(門倉健のFA人的補償として横浜に移籍)が「巨人でやりのこしたことは?」と質問を受けたときも同様の事を語っており、小久保は「堀内さん一人のせいにすることも出来ますけど、実際にプレーするのは僕らなんです」と擁護している。

工藤は2004年度、通算200勝達成を目前にして負けが続き(本人曰く「何試合か足踏みして意識してしまった」)、チームも下降線を辿っていたが、堀内は変えることなく工藤を先発で起用し続け、200勝を達成した。工藤は引退後「チームがあんな状況で若い子を試してもよかったのに僕を使っていただいて本当に救われました。今でも感謝してもしきれません」と語っている[3]

また、2005年には二軍で投げていた内海哲也の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させている[4]。結果は4勝9敗、防御率5点台だったものの、堀内が去った翌年は二桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長した。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と述べている[5]

巨人監督退任後 [編集]

現在は日本テレビ、スポーツ報知野球解説者などを務める。研究と趣味を兼ね、スケジュールの合間をぬってメジャーリーグ観戦に熱心に足を運んでいる。2006年3月5日には、東京ドームで行われたWBC1次リーグの日本vs.韓国戦を皇太子夫妻が観戦に訪れた際、巨人球団会長の渡邉恒雄、コミッショナーの根來泰周とともに同席。解説を務めた。

2008年1月11日、野球殿堂競技者表彰選考にて、野球殿堂入り。殿堂入り表彰式は、2008年8月1日のオールスターゲーム第2戦(横浜スタジアム)の際に執り行われた。2009年9月からは読売新聞のTVCMに解説者役として出演している。

巨人はレギュラーシーズンで過去4度、相手チームの胴上げを目の前で見る屈辱を喫したが、堀内はそのうち3度もグランドで立ち会った。1975年後楽園球場で選手、1995年明治神宮野球場でコーチ、2005年は阪神甲子園球場で監督として見ることになってしまった。解説者の時も2006年東京ドームで胴上げを見る屈辱を味わった。更に2008年の日本シリーズ(巨人vs.西武)第7戦でも東京ドームで解説者として立ち会うが、その時も目撃することとなった。なお、東京ドームでの開催の日本シリーズで相手チームの胴上げは開場以来、初めての事となった。

政治活動 [編集]

2010年4月22日には、同年7月の第22回参議院議員通常選挙に、自由民主党からの出馬を表明した[6]7月11日の当開票の結果、比例代表で101,840票を獲得し党内で13位につけたが自民党として12名しか当選しなかったため落選した。落選後に出演したテレビ番組では「俺は頭なんか下げないよ」「知らない人に下げる頭は持ってない」と発言している[7]。選択的夫婦別姓制度に反対していた。

人物像 [編集]

現役時代は豪快なエピソードや、走り込みを嫌ったことから“遊び人”のイメージも強いが、プロ入団2年目にヘルニアを患ったことで毎日腹筋を5年かけて鍛え、「筋肉をコルセットがわりに」腰痛を克服。「練習は大嫌いだけど、皆が遊んでいると思っているところで努力する」という隠れた努力家だった。

現役時代 [編集]

  • 入団当時は、投げ終わった後に帽子が脱げそうになるぐらいのダイナミックな投球フォームが特徴的であった。しかし、実は少し大きめの帽子をかぶり、ダイナミックさを演出していた。
  • ロサンゼルス・ドジャースベロビーチキャンプに参加した際、ビル・シンガーからチェンジアップを学んだ。
  • 新人の開幕連勝記録を更新中の時、週刊朝日編集部がホームプレート上に光電式の速度計測装置を使用して測定した結果、155km/hを記録している。
  • 引退試合での現役最終打席は、「ホリさんまで打順を回そう。」と攻撃陣が打ちまくったことにより実現した。

コーチ時代 [編集]

  • ヘッドコーチ時代、春のキャンプでは現地で自転車をレンタルし、練習場を駆け回った。自転車の方が小回りが利き、練習を効率よく確認出来るとの判断からである。
  • キャンプではマイクを持って指示を出していたことでも知られる。罰走を課す際には「ライトポールまで走れ!!」等、威勢のいい声が度々聴かれた。

監督時代 [編集]

  • 2004年の監督就任時、試合進行を円滑にしたいとの考えから、「本塁打を打った打者はベンチ内で迎える」、「打席に入る際のテーマソングの短縮」、「攻守交代は駆け足で」などの方針を打ち出した。
  • 2004年シーズン中は、『スポーツうるぐす』で「ジャイアンツ城」というコーナーを持っていた。堀内が故郷山梨を代表する戦国武将武田信玄の格好で登場し、オープニングで「ジャイアンツ城、いざ出陣」と言っていた。
  • 2005年春のキャンプでは、自室を開放し自由に選手が飲酒できる「堀内バー(マスコミが命名)」を開いて選手との交流を図ろうとしたが、訪れた選手はほとんどいないため、酒を置いた意味があまりなかったことに悩みを抱えていた。
  • 2005年に地元山梨でオープン戦が行われた際、隣の競技場で地元のJリーグクラブ・ヴァンフォーレ甲府の試合と日程がかぶってしまうことが発覚。そのため堀内は甲府社長の海野一幸と相談。結果、オープン戦の日程を一日ずらすことで決着した。野球とサッカーの両方を観戦したい県民に対しての配慮ともいえる。
  • 巨人のキャッチフレーズは「For The Glory 〜Over The Limit〜」。2004年はFor The Gloryのみだったが、2005年はOver The Limitが付与された。For The Gloryの日本語訳は「ただ栄光のために」。これは堀内の座右の銘の一つで、堀内の巨人に対する愛情とプライドが込められた標語と言えよう。また、著書にもなっている。

その他 [編集]

  • 実父は元自由民主党議員。
  • 息子は神奈川桐蔭学園にて高橋由伸の1学年上であり、共に甲子園の土を踏んだ。高校卒業後は駒澤大学に進学した。
  • 広島のお好み村をこよなく愛す。
  • 2009年7月頃、「秘密のケンミンSHOW」(読売テレビ制作・日本テレビ系列)に山梨県民として出演。全国の盆地がある県民が盆地について討議する「盆地サミット」では以前堀内の母校である甲府商業高校の講演会(巨人監督時分)でも出てきたフレーズである「山は有っても山梨(無)県」という堀内の常套句が出てきた。
  • 趣味はゴルフ。また、無類のプラモデル好きで「日本の名城」等を寮でよく作ったという。
  • 解説者時代、テレビ中継で堀内が解説を行う試合で巨人が負ける確率が高かった時期が何度かあったため、「負けの解説」と揶揄され、本人も自嘲していた。一方で堀内が解説を行う観戦ツアーが何度か実施され、こちらは巨人が勝つことが非常に多かった。


詳細情報 [編集]

年度別投手成績 [編集]





















































W
H
I
P
1966 巨人 33 22 14 7 1 16 2 -- -- .889 714 181.0 125 5 69 2 4 117 5 0 34 28 1.39 1.07
1967 23 16 13 2 0 12 2 -- -- .857 609 149.0 126 7 59 1 1 82 6 0 41 36 2.17 1.24
1968 40 29 12 3 0 17 10 -- -- .630 845 206.2 153 31 105 4 4 142 4 0 81 76 3.31 1.25
1969 41 29 12 4 0 14 13 -- -- .519 1004 236.2 211 21 107 5 6 160 6 1 94 82 3.12 1.34
1970 42 34 18 1 0 18 10 -- -- .643 1130 282.2 202 22 103 4 7 228 2 0 82 65 2.07 1.08
1971 40 33 14 3 0 14 8 -- -- .636 924 226.0 183 18 82 5 6 155 7 0 83 78 3.11 1.17
1972 48 34 26 4 1 26 9 -- -- .743 1282 312.0 292 34 95 5 3 203 3 0 110 101 2.91 1.24
1973 39 33 15 2 1 12 17 -- -- .414 953 221.0 238 28 70 6 6 113 1 1 117 111 4.52 1.39
1974 46 37 21 3 1 19 11 1 -- .633 1106 276.2 217 31 80 6 7 127 2 0 101 82 2.67 1.07
1975 38 29 8 2 1 10 18 0 -- .357 893 213.2 212 28 75 4 6 118 4 1 100 90 3.79 1.34
1976 34 27 11 2 0 14 6 0 -- .700 763 177.1 173 23 71 1 4 82 2 0 84 78 3.96 1.38
1977 34 23 4 1 1 10 9 3 -- .526 657 151.1 163 20 53 3 5 86 3 0 81 77 4.58 1.43
1978 35 31 7 3 1 12 9 0 -- .571 829 201.0 190 22 59 4 3 113 1 0 86 79 3.54 1.24
1979 24 14 1 0 0 4 7 0 -- .364 400 86.1 111 16 35 5 2 59 1 0 68 64 6.67 1.69
1980 19 12 2 0 0 3 5 1 -- .375 319 75.0 78 12 22 4 1 58 0 0 43 36 4.32 1.33
1981 9 4 0 0 0 1 3 0 -- .250 92 22.0 27 3 1 0 0 11 1 0 16 11 4.50 1.27
1982 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 29 7.0 8 0 0 0 0 2 0 0 5 3 3.86 1.14
1983 11 1 0 0 0 1 0 1 -- 1.000 79 19.2 16 2 9 1 1 9 0 0 9 9 4.12 1.27
通算:18年 560 408 178 37 7 203 139 6 -- .594 12628 3045.0 2725 323 1095 60 66 1865 48 3 1235 1106 3.27 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績 [編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2004年 巨人 3位 138 71 64 3 .526 8.0 259 .275 4.50 56歳
2005年 5位 146 62 80 4 .437 25.5 186 .260 4.80 57歳
通算:2年 284 133 144 7 .480 Aクラス1回、Bクラス1回
※2004年シーズンは、ストライキのため2試合が中止

タイトル [編集]

表彰 [編集]

記録 [編集]

初記録
節目の記録
  • 100勝:1972年6月9日、対阪神タイガース8回戦(阪神甲子園球場)、9回完封勝利 ※史上57人目
  • 1000奪三振:1972年7月16日、対中日ドラゴンズ16回戦(後楽園球場)、3回表に稲葉光雄から ※史上43人目
  • 150勝:1975年5月17日、対阪神タイガース6回戦(後楽園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上28人目
  • 1500奪三振:1976年8月17日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、6回裏に水沼四郎から ※史上23人目
  • 500試合登板:1979年5月26日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(横浜スタジアム)、先発登板で5回2/3を6失点 ※史上39人目
  • 200勝:1980年6月2日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、6回1失点完投勝利(6回終了時雨天コールド) ※史上16人目
レギュラーシーズン
  • 新人の開幕連勝:13(1966年)
  • ノーヒットノーラン:1967年10月10日、対広島カープ22回戦(後楽園球場) ※史上38人目
  • 投手の1試合3本塁打:同上 ※ 川崎徳次に次いで史上2人目(3打席連続本塁打は史上初)
  • シーズン勝率.889(1966年、16勝2敗、セ・リーグ記録)
日本シリーズ
  • 通算登板試合:27(シリーズ記録)
  • 通算投球回数:140 1/3(シリーズ記録)
  • 通算勝利:11(シリーズタイ記録)
  • 通算与四球:61(シリーズ記録)
  • 投手の1試合2本塁打:1973年第3戦(史上唯一)
オールスターゲーム
  • オールスターゲーム出場:9回 (1966年、1968年 - 1975年)
  • 通算防御率:1.44(20イニング以上で歴代1位)

背番号 [編集]

  • 21 (1966年)
  • 18 (1967年 - 1984年途中)
  • 73 (1984年途中 - 1985年)
  • 70 (1993年 - 1998年)
  • 88 (2004年 - 2005年)

関連情報 [編集]

出演番組 [編集]

現在の出演番組
過去の出演番組

書籍 [編集]

連載 [編集]

堀内恒夫の多事正論 - 週刊ベースボール、隔週連載

TVゲーム [編集]

発売コナミ。いずれも解説者役として出演

脚注 [編集]

  1. ^ a b c 週刊ベースボール2012年5月7日号 P70
  2. ^ 200勝達成時の背番号は共に、18であった。
  3. ^ 週刊ベースボール 2012年1月30日号
  4. ^ 週刊ベースボール 2012年5月28日号
  5. ^ 雑誌「NUMBER」2009年6月21日号
  6. ^ “堀内・巨人前監督が出馬表明「政界に剛速球」”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月22日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100422-OYT1T00849.htm 2010年4月22日閲覧。 
  7. ^ 太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」2010年7月16日放送分より。この回は生放送だったが、堀内は選挙活動中の密着レポートを収録したコーナーでの出演だった。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]