福本豊

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福本 豊
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市生野区
生年月日 1947年11月7日(64歳)
身長
体重
168cm
68kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 ドラフト7位
初出場 1969年4月12日
最終出場 1988年10月23日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2002年
選出方法 競技者表彰

福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身で東大阪市育ちの元プロ野球選手外野手)。

通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時は世界記録)で、「世界の盗塁王」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者野球評論家として活動している。

現役通算2543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃、歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打を記録した俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二山田久志加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

大鉄高等学校時代は野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて球拾いに専念していたが、練習中に右翼手の守備に就き内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際にいつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。3年夏に同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすも、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回、福本が守るライトの前に落ちたポテンヒットによりサヨナラ負けを喫した。

卒業後は社会人野球松下電器に進む。社会人3年目の1968年には富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場し優勝。社会人ベストナインのタイトルを獲得しているが、「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議阪急ブレーブスに7位指名を受けた。この年のドラフトは「史上空前の豊作ドラフト」と言われているが、中でも阪急は1位に山田久志、2位に松下電器同僚の加藤秀司(後の英司)、そして福本と3人の名球会入りの選手を獲得、最も成功した球団と言われている。他に南海ホークスも早くから俊足に注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

プロ入りのきっかけは、松下時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったこと。試合でスカウトが来ている時に本塁打を打ったり、都市対抗野球でホームへ好返球をしたりする(ドラフト同期の山田が福本の名を知ったのはこのプレーだという)等のプレーが認められたものだったが、福本は「たまたまあのときだけ、一番いいプレーが出たんや」と語っている[1][2]。スカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝して逆に「プロ向きのいい根性を持っている」とまたも勘違いされ、これも指名される要因になったのではないかとのこと[1]

本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と返され初めて知ったという。更にドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎ、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から肉料理をご馳走され「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留しているうちに何度も食事に誘ってもらい断りにくくなり、4回目の食事の時に入団を決意した。

入団時、父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じ職場を退職した。一方、夫人は一切野球に興味がなく夫が野球選手であることも知らず、福本も夫人に「松下から阪急に転職する」としか説明しなかった。そのため夫人は夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っているうちに駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知ったという。

[編集] プロ入り後

プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという[2]。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。プロデビューは山田や加藤よりも早かった。

1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年日本プロ野球史上唯一の3桁、当時の世界記録となるシーズン106盗塁を記録してチームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していた世界記録を更新する通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

盗塁の世界記録を更新後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞した。また、世界記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。

1984年8月7日には1000盗塁に到達。その後記録を1065まで伸ばした。引退から4年後の1992年6月16日にリッキー・ヘンダーソンによりこの記録は破られた。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で見事福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と評している。

1988年、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまいチームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、(引退を考えていなかったのだから当然だが)全く引退について口にしていなかった福本は皆に「冷たい奴や」と言われたと回顧している[2]

後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」[3]とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」[4]とも語っている。また、ベースボールマガジンなど一部メディアでは前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなると言うことで引退を決めたと書かれている。

また、現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っており、やくみつるに「走らざること山の如し」と揶揄されるほどだったが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている[2]。なお、最後に出場したオールスター戦では盗塁を試みており(結果は失敗)、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしていた。また1989年引退試合(対読売ジャイアンツ戦・西宮球場)では山田共々阪急のユニフォームで打席に立った[5]。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。

[編集] 現役引退後

引退後は1989年にオリックスの打撃コーチ、1990年から1991年まで二軍監督を務め、1998年から1999年まで阪神タイガースの打撃コーチや守備走塁コーチを歴任した。阪神のコーチ時代、1999年に監督就任した野村克也に現役時代の盗塁術を買われて三塁ベースコーチを任せられたが、「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁できる確率も少ない。出塁ができなければ盗塁もできない」という持論から選手に打撃指導ばかりしていたため、同年限りで解任された。

その後はABCサンテレビの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。

2002年野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、日本身体障害者野球連盟の名誉理事長も務めている。また、2006年1月からは阪南大学野球部特別コーチを務めている。2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。

野球以外では、阪神甲子園球場そばにあるベースボールバー「G.LOVE」のオーナーを務めており、店内には本人の阪急時代のユニフォームや阪急西宮スタジアムの座席などが飾られている。

[編集] プレースタイル

[編集] 盗塁術

1年目の4盗塁から2年目に75盗塁できたのは、東京オリンピック400メートル競走選手(早瀬公忠選手(八幡製鉄)の可能性が高い)が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある[6]。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている[7]

打力が付きレギュラーに定着したが出塁すると牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。ある日、自分が野球選手だったという証を残すために8ミリカメラで試合を撮影してもらい、自宅でその映像を見ていた時に投球と牽制で投手の体の動きが違う「癖」に気づき、これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。その後フィルム撮影は球団の手で行われることとなった。

しかし、近鉄バファローズ神部年男鈴木啓示の2人だけはなかなか癖を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおし、神部は軸足(2mmほど動いたら投球する)、鈴木は顔(打者に向いている時は牽制、走者を一度見たら投球)に癖をあることをついに発見、両投手の攻略に成功した。この研究が1972年の106盗塁と言う大記録につながっている。

リーグでも牽制が上手い東尾修を盗塁における1番のカモにしており、顔を合わせるごとに「オレの弱点は何なのか教えてくれ」と東尾にしつこく聞かれ教えてしまい、それを基に東尾は次の対戦までに癖を直してきた。しかし、癖の修正によって生まれた新たな癖を発見したという。ただし、この件に関しては発見したのが互いの引退間近の頃だったため、再び隙をつく機会が得られず引退後もたびたび悔しがっていた。

盗塁の3要素と言われる「3S」、つまりスタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについてはつま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。

スパイクシューズも特注で、陸上短距離競技のスパイクを参考にして通常の野球選手よりも爪の部分をつま先に近く作られたものだった。足にしっかりフィットするように、普段の靴のサイズ(25cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた。

福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。大熊忠義は福本が盗塁を企図し、スタートが悪ければカットし、微妙な場合は空振りするなど、巧みなアシストをし、二塁に達した後はバントや右打ち(福本が二塁に達したときには、カウントが悪くなっていることが多かった)で三塁へ進めていた。一度、盗塁を目論んで一塁から良いスタートを切れたにもかかわらず、大熊が投球をファウルボールにしたことに対し、ファウルでなければ盗塁が成功したという意味で「あれ、いけましたで」と言った結果、しばらく盗塁へのアシストを得られなくなったという。なお、大熊とは後に和解している。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足を生かしてこの年から1983年まで25盗塁以上を記録した。

このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。これらのことから盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。

1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープ高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。

野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている。

福本の盗塁が脅威になると、他球団も対策に真剣に乗り出すようになった。

  • 南海時代の野村克也は福本の盗塁に対抗する手段として、現代野球で広く投手に用いられているクイックモーションを考案し、野球を進化させた。それ以前にも野村は福本をイニングの先頭打者として迎えたくない思いから、2死走者なしの状態で9番の投手四球で歩かせ1番の福本と勝負するという策(当時のパ・リーグはまだ指名打者制導入前だった)や、福本が二盗を試みると二塁にわざとワンバウンドの送球を投げ、脚にぶつけることも考えていた。しかし、前者は一度成功したものの、二度目には狙いがばれて阪急監督の西本幸雄が投手を盗塁させたため盗塁死させざるをえなくなり、後者は「脚に球をぶつけて怪我をさせようとしたが、実際には背中に球が当たってしまい(怪我させるという)狙いがばれてえらい怒られた」という[8]
  • 読売ジャイアンツは日本シリーズで阪急と対戦することを想定して牽制球で一塁にわざと勢いのある悪送球を投げ、一塁側の内野フェンスに跳ね返ったボールを送球して二塁で福本を封殺する練習を繰り返していたが実行されることはなかった。
  • 近鉄バファローズ梨田昌孝は二塁送球の時間を短縮するため、福本が出塁すると右足を半歩下げて構えていたという。阪急と近鉄の試合前、福本と梨田はよくどちらが勝つか賭けをしていたという。ただし、上記のとおり、福本は特に癖のない投手すらも癖を盗むことに成功していたため、いかに強肩の梨田であっても福本が勝つことが多かった[7]

1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。この保険は福本が引退するまで継続されたが、後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使った福本は現役中一度も足を怪我しなかったため、保険金も支払われることなく終わっている。

ちなみに、ホームスチールの成功率は低く7回試みて成功は1回のみである。

[編集] 打撃・守備

盗塁だけでなく打撃においても優秀な選手であったのは、2500本安打を達成したことや、8000打数以上の選手中で歴代4位となる通算打率.291の数字を残していることなどからも証明されている。

しかし、新人時代はプロのスピードに押されっぱなしで、福本は打撃練習の際に三塁側へ「当て逃げ」のような打撃を繰り返していた。「足が速いので三塁側に転がせば内野安打になります」と西本幸雄監督に話したこともある。しかし、西本監督には「そんな楽な練習しかしていなかったら力など絶対つかない」「いくら体が小さくてもしっかり振り切るバッティングをしなきゃいかん。オフの間にバットをしっかり振れる体を作ってこなければレギュラーには使えん」「ツボに来たらホームラン、ってものを持っていないとプロでは長生きできない」とひどく叱られたという[9][7][2]

藤原満らが使用していた径の太い「つちのこバット」を用い、しっかり振り切る練習を繰り返した。努力の甲斐あって、2年目はしっかり力のある打球を飛ばせるようになり、本塁打も8本記録した。2年目のキャンプ時、見違えるようなスイングに西本監督に「誰に教えてもろたんや?」と言われ、「いやだなぁ、監督ですよ。監督に言われたとおりに素振りしていたらこうなりました」と答えたという逸話がある[2]。このときのトレーニングが功を奏し、小柄な体格のわりには長打力も身につき、シーズン2桁本塁打を20年間で11度記録(最多で21本塁打)し、2007年高橋由伸に更新されるまではシーズン初回先頭打者本塁打の日本タイ記録(1972年の8本)保持者でもあった。なお、通算43本は現在も日本記録である(日米通算ではイチローが更新)。この戦法は後の俊足打者にも強い影響を与え、大石大二郎らもつちのこバットを愛用していた。

盗塁では投手の癖を盗むことに執心した福本だが、打撃は自然体で臨んだという。岡崎満義に「(癖を盗む研究を)打撃にも生かさなかったんですか」と質問された際、「打撃ではどうしてもうまく行きませんでした。癖を盗むことにより球種などを読めたことで、逆に気負ってフォームが崩れてしまうんですわ。」と答えている[7]

通算4回の最多安打は、1998年イチローに抜かれるまではパ・リーグ記録であった。2011年現在は榎本喜八ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である。また、1977年にはプロ野球歴代4位タイ、パ・リーグ歴代3位の30試合連続安打を達成している。

1985年に三塁打、現役最後となった1988年に二塁打の通算記録を更新し、一時は盗塁と合わせて3つの日本記録を保持していた。このうち二塁打は2005年立浪和義に破られたが、2011年現在もパ・リーグ記録である。立浪は記録更新に際して「福本さんの足があと少し遅ければ、この記録更新はなかった」とコメントしている。これは通常の選手なら三塁打が難しく二塁打になる当たりでも三塁打にできる、という福本の走塁能力の高さを指している。

その俊足や判断力は守備にも生かされた。社会人時代から肘に故障をかかえていたため送球にやや難があったが[7]、それを補って余りある守備範囲を誇り、通算守備機会5272、通算刺殺数5102は現在もプロ野球記録である。1974年7月22日に阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第2戦では、阪神の田淵幸一が放った本塁打性の打球を、フェンスの上までよじ登りキャッチしてアウトにした。これを見た巨人の長嶋茂雄は「あれは人間業ではありません」とコメントした[10]。同試合ではファインプレーに加えて本塁打も1本放ち、MVPを受賞している。

福本は、オリックスについては自分たちのあとも山森雅文本西厚博田口壮、イチローと優れた外野手が輩出され、守備練習の基礎も受け継がれているので「選手たちはかわいい」と語っている[2]

[編集] 記録など

17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度のパ・リーグタイ記録をそれぞれ持っている。また2008年現在、阪急・オリックスの生え抜き選手として唯一2000本安打と2000試合出場を記録している。阪急の厚い外野手選手層の中でレギュラーをつかんだ頃、ある試合で死球を受けた時、大熊忠義に「それで休んだらイスなくなるぞ」と言われ、少々の怪我では休まない強靭な体を作ることを意識するようになった[2]

現役時代の背番号「7」はオリックス・ブルーウェーブの準永久欠番待遇であったが、引退前後に親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことなどがあって、正式な永久欠番とはなっていなかった。1991年ドラフト1位で入団した田口壮に背番号7が打診されたが、田口が固辞している(田口の背番号は6になった)。2001年には本人公認の上で、同年に横浜ベイスターズから移籍してきたばかりのであった進藤達哉が背番号7を着けた。進藤が引退した後は日高剛が背番号7を着け、2004年に球団が近鉄と合併してオリックス・バファローズになって以降は準永久欠番扱いも失効している。山田が「7と(山田の)17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語ったのを受け、福本は「それと(加藤英司の)10。この3つは今からでも返してほしいね」と語っている[2]

[編集] 解説者として

ヘッドスライディングを行った選手に対して「到達時間が変わらないのに怪我をする確率が高くなる」、牽制球に対して手からの帰塁に関して「手から行かず、足から帰る。怪我をするだけ」と、この2つに関しては度々語っている。

ユニフォームの着用について、ストッキングを見せるクラシックスタイルを「正しいユニフォームの着方」「あんなに格好いいものはない」と強く推奨している。理由として「膝下まで引き上げたストッキングがストライクゾーンの目安となる」「足が速そうに見える」などを挙げ、特に赤星憲広前田大和のように俊足を売りにしながらもクラシックスタイルのユニフォームの着こなしをしていない選手に対しては、「パジャマ着て野球しとる」と度々発言している。

技術的な説明を求められると「ゴーン」「カーン」などの擬音で表現することが多く、一部では祇園祭をもじって「擬音祭」と呼ばれることもある。

主に吉本興業所属芸人の半生を、本人を交えた今田耕司東野幸治らとのトークと再現VTRで振り返る番組『ナンバ壱番館』では、芸人ではないにも関わらず取り上げられた。

上記の通りひょうきんなイメージが定着しているが、赤星に対しては厳しい評言をたびたびおこなっていた。もちろん好き嫌いで評価しているのではなく、攻走守すべてで高いレベルのプレーを要求していたことの現れであり、特に盗塁及び外野守備については熱く語る傾向にあった(福本は赤星のヘッドスライディングやダイビングキャッチを好まず「駆け抜けたほうが速い」「怪我の危険性も高くなる」「上手い外野手は飛び込まずに落下地点できっちり捕る」などとしばしば発言していた)。また赤星とのツーショット対談の際はひょうきんなイメージとかけ離れた、緊張感のある真剣な対談であった。

これら福本に関する様々なエピソードについて、はなわが「解説の男 〜福本豊伝説〜」としてまとめ、歌ったことがある。メロディは「伝説の男〜ビバ・ガッツ〜」のものをそのまま使い、曲中の福本の台詞はますだおかだ増田英彦が担当していた。後にますだおかだがパーソナリティを務めていた『どーだ!ますだおかだ』にゲストで呼ばれた福本がこの歌の正誤を解説。また、野球漫才で知られるストリークも福本の解説時の逸話をネタに使ったりしている。

[編集] 福本語録

野球中継の解説においては上述のような実体験に裏打ちされた優れたコメントだけでなく、およそ解説者らしからぬユーモラスなコメントも多く残している。特に楠淳生アナウンサーや中田良弘中西清起吉田義男とのコンビは、放言・脱線の多さから「居酒屋中継」の名で呼ばれている。2011年8月1日には、朝日放送本社近くの居酒屋で芋焼酎を飲みながら楠と対談した30分の特別番組『福本・楠の一杯やりましょ!』が、ABCラジオで実際に放送された[11]

  • サンテレビボックス席』で阪神甲子園球場から放送された阪神対横浜戦の中継において、投手戦で0が並んだまま延長に入ったスコアボードをみて「たこ焼きみたいやね」。本人曰く「長い試合でね、寒いわ、腹減るわで『どっちが勝ってもええから早よ終われ』思てたらポッと出たんですわ」。その後この試合で1点が入り、スコアボードの「1」を見て「たこ焼きに爪楊枝がついたな」。以上のやり取りが後日「夕刊フジ」で報じられた[12]のをきっかけに、ゼロが並ぶスコアボードが各所で「たこ焼き」と呼ばれるようになった。
  • 東出輝裕が振り遅れのスイングをして「着払いやね」(キャッチャーミットに球が着いてから払った=振った、の意味)[13]
  • シーズン終盤に規定打席に到達し、打撃成績の上位に位置した選手を「覆面パトカー」。
  • 阪神が大型連敗を脱出して「(黒星が続いた後に白星が1つ付いて)オセロならひっくり返るんやけどね」。
  • 阪神甲子園球場で試合が長引いた時に観客席を見て「(甲子園から遠い)加古川より向こうの人帰られへんね」。
  • 日曜日の東京ドームでの巨人対阪神戦で、試合終了前に早々と帰る観客を見て「明日仕事やもんね」。
  • 打ち込まれた投手3人がベンチで並んで座っている様子に「見てみ、あの不景気な顔。左から“アン、ポン、ターン”って感じやね」。
  • 序盤でリードしている展開で雨脚が強くなり、早く試合を成立させなければならない状況で粘って四球を選んだ田中秀太に「選球眼はええけど頭は悪いね」。
  • アナウンサーの「福本さん、今のプレーどうですか?」に対して、選手の守備位置など他の箇所を見ていたため「ごめん、見てへんかった」。
  • アナウンサーから盗塁成功の秘訣を尋ねられ、「まず塁に出ることやね。
  • アナウンサーの「福本さん、今のプレーまずいですね」に対して「まずいねぇ。うどんの方がよっぽどうまい」。
  • アナウンサーの「林威助はさらなる打撃向上のためどうしたらいいですか?」に対して「これ以上て……5割目指すん?」。
  • 4点差がついた状況で、アナウンサーの「この回どうやって攻めていきましょうか?」に対して「まず4点取らないかんね」。このセリフはラジオコマーシャルでも用いられている。
  • 阿部慎之助の全力疾走姿を見て「いっこも前に進んでへんがな
  • 大雨の中、グラウンドに砂を大量に入れて整備中「砂ないんちゃうか? 明日買いに行くんやろ」。
  • ナゴヤドームで勝てない阪神について「どうしてですかね?」と尋ねられ「屋根があるからちゃう?」。
  • 阪神の快進撃に話が及んで「タイガース突っ走りそうですか?」と尋ねられ「突っ走ったらえらいこっちゃやで。せないかんこといっぱいあるで」。
  • 「6月に入ってきました、福本さん6月はどんなイメージですか?」と尋ねられ「雨降ったら中止!」。
  • アナウンサーに「今のピッチャーの心境は?」と尋ねられ「わからん」。
  • 阪神対巨人戦で阪神が猛攻のとき「止まりませんね」と尋ねられ「止まらんがな」。
  • 阪神の連勝が続いたことに対して「確変やね」。
  • 阪神の夏季長期ロードを乗り切るための秘訣を問われ「横になる(横たわって寝る)こと」。
  • バントを失敗した選手にアナウンサーが「今日はいったい何をしているんでしょう。」に対して「仕事や」。
  • アナウンサーの「好きな歴史上の人物は?」という質問に対して「親父」(実父と、敬慕する西本幸雄の2人のこと)。
  • 阪神対巨人戦ラジオで解説の時、マーク・クルーンが投げてアナウンサーが「156キロ」と驚いたのに対して「ほんまに(球速が)出てんのかいね」。
  • 阪神対中日戦で中日のタイロン・ウッズについてコメントを求められ、「ようわかりませんねえ、こないして空振りしとるおもたらポコーンといきよるんですわ」。[14]

このような発言から、明石家さんま島田紳助などに注目され、数々のバラエティ番組に出演し、朝日放送「クイズ!紳助くん」のレギュラー解答者を長年務めた。服装はコミカルな服装が多く、ピンクのジャケット、アロハなどを着る。「クイズ!紳助くん」の出演時には、きまって左胸に「m」マークが入ったミズノのゴルフシャツにスラックスであった。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1969 阪急 38 41 39 8 11 3 0 2 20 4 4 1 0 0 2 0 0 6 0 .282 .317 .513 .830
1970 127 489 423 92 116 23 3 8 169 41 75 15 3 3 55 0 5 71 4 .274 .362 .400 .762
1971 117 481 426 82 118 18 5 10 176 45 67 14 0 4 50 4 1 49 2 .277 .351 .413 .764
1972 122 542 472 99 142 25 6 14 221 40 106 25 3 2 62 3 3 69 2 .301 .384 .468 .852
1973 123 566 497 100 152 29 10 13 240 54 95 16 0 2 65 3 2 56 3 .306 .387 .483 .870
1974 129 539 477 84 156 19 7 8 213 52 94 23 1 1 58 1 2 57 2 .327 .401 .447 .848
1975 130 549 491 79 127 26 4 10 191 51 63 12 1 3 50 1 4 74 3 .259 .330 .389 .719
1976 129 567 489 88 138 23 9 8 203 46 62 17 0 3 73 0 2 66 8 .282 .376 .415 .791
1977 130 597 541 89 165 21 9 16 252 54 61 13 1 2 49 3 4 74 6 .305 .366 .466 .832
1978 130 595 526 107 171 35 10 8 250 34 70 21 3 1 60 4 5 65 4 .325 .399 .475 .874
1979 128 587 493 101 142 27 9 17 238 67 60 24 7 3 79 3 5 63 2 .288 .390 .483 .873
1980 128 603 517 112 166 29 6 21 270 58 54 20 4 3 78 5 1 64 3 .321 .409 .522 .931
1981 130 584 495 90 142 22 7 14 220 48 54 15 6 2 80 2 1 65 3 .287 .386 .444 .830
1982 127 575 476 97 144 31 7 15 234 56 54 20 8 1 88 1 2 46 4 .303 .413 .492 .905
1983 130 587 493 89 141 26 7 10 211 59 55 20 7 1 85 7 1 40 5 .286 .391 .428 .819
1984 130 585 488 93 126 22 2 9 179 41 36 17 8 2 85 1 2 41 3 .258 .369 .367 .736
1985 130 531 425 95 122 15 7 11 184 51 23 10 5 6 95 0 0 40 5 .287 .412 .433 .845
1986 130 520 454 75 120 18 2 8 166 29 23 12 5 3 55 1 3 55 2 .264 .346 .366 .712
1987 101 386 349 53 100 25 3 5 146 33 6 3 2 2 33 1 0 35 0 .287 .346 .418 .764
1988 92 206 174 23 44 12 2 1 63 21 3 1 0 0 32 1 0 18 4 .253 .369 .362 .731
通算:20年 2401 10130 8745 1656 2543 449 115 208 3846 884 1065 299 64 44 1234 41 43 1054 65 .291 .379 .440 .819
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB最高

[編集] タイトル

  • 盗塁王:13回 (1970年 - 1982年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):4回 (1973年、1974年、1977年、1978年) ※1994年より表彰

[編集] 表彰

※シーズン、オールスターゲーム、日本シリーズでのMVPは川上哲治大下弘に次ぐ史上3人目の記録(後に松井秀喜が達成)

[編集] 記録

日本記録
  • 通算1065盗塁
  • 通算115三塁打
  • 通算299盗塁刺
  • 通算外野手刺殺:5102
  • 通算外野手守備機会:5272
  • 通算初回先頭打者本塁打:43本(表24本、裏19本) ※表24本は日本タイ記録、裏19本はパ・リーグ記録
  • シーズン20二塁打以上:14回 (1970年、1972年、1973年、1975年 - 1984年、1987年) ※タイ記録
  • シーズン三塁打リーグ1位:8回 (1971年、1973年、1974年、1977年 - 1979年、1982年、1983年)
  • シーズン50盗塁以上:14回 (1970年 - 1983年)
  • シーズン盗塁:106(1972年)
  • 1試合3盗塁死(1980年6月19日)※タイ記録
  • 11試合連続盗塁:2回 (1971年4月27日 - 5月12日、1974年4月10日 - 4月28日)
  • 13年連続盗塁王(1970年 - 1982年)※獲得回数13回も日本記録
  • 12年連続ダイヤモンドグラブ賞(1972年 - 1983年) ※受賞回数12回も日本記録
  • 14年連続シーズン50盗塁以上(1970年 - 1983年)
  • 3年連続シーズン三塁打リーグ1位(1977年 - 1979年) ※タイ記録
パ・リーグ記録
  • 通算1656得点(1969年 - 1988年)
  • 通算449二塁打(1969年 - 1988年)
  • シーズン得点リーグ1位:10回 (1972年 - 1980年、1982年)
  • シーズン四球リーグ1位:6回 (1976年、1978年 - 1980年、1982年、1983年)※1980年は山崎裕之、1983年は門田博光と同数。他選手と同数でのリーグ最多四球2回はプロ野球史上最多
  • シーズン100得点以上:4回 (1973年、1978年 - 1980年)
  • シーズン100安打以上:18回 (1970年 - 1987年) ※タイ記録
  • シーズン全試合出場:8回 (1975年、1977年、1978年、1981年、1983年 - 1986年) ※タイ記録
  • シーズン初回先頭打者本塁打:8本 (1972年) ※タイ記録
  • 1試合5盗塁(1972年5月3日)
  • 17年連続規定打席到達(1970年 - 1986年) ※タイ記録
  • 3年連続シーズン100得点以上(1978年 - 1980年) ※タイ記録
  • 18年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1987年)
  • 9年連続シーズン得点リーグ1位(1972年 - 1980年)
  • 3年連続シーズン四球リーグ1位(1978年 - 1980年) ※タイ記録
その他の記録
  • 通算猛打賞:178回 ※歴代5位
  • 通算盗塁成功率:.781(1065盗塁299盗塁死) ※300盗塁以上では歴代4位
  • サイクルヒット:1回(1981年5月21日、対西武ライオンズ戦、西武球場) ※史上34人目
  • 30試合連続安打(1977年5月18日 - 7月10日)
  • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1980年8月9日 - 8月10日)
  • 日本シリーズ通算盗塁:14(1969年、1971年、1972年、1975年 - 1978年、1984年) ※歴代1位
  • 日本シリーズ3試合連続盗塁 ※シリーズタイ記録。
  • オールスターゲーム出場:17回 (1970年、1972年 - 1987年)
  • オールスターゲーム通算盗塁:17 ※歴代1位
  • オールスターゲーム通算得点:26 ※歴代1位タイ
  • オールスターゲーム9連続盗塁成功(1976年第2戦 - 1979年第1戦)

[編集] 背番号

  • 40 (1969年 - 1971年)
  • 7 (1972年 - 1991年)
  • 87 (1998年 - 1999年)

[編集] 関連情報

[編集] 出演番組

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ a b 「ナンバ壱番館」や講演会での本人の発言。
  2. ^ a b c d e f g h i 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』(ベースボール・マガジン社)における山田との対談より
  3. ^ 「ナンバ壱番館」での発言。
  4. ^ 日本テレビいつみても波瀾万丈」での発言。
  5. ^ 2011年5月7日ほっともっとフィールド神戸で開催されたオリックス・バファローズ対千葉ロッテマリーンズ戦では、山田・加藤秀司とともに、阪急時代を再現したユニフォーム姿で始球式を務めた。オリックスが前身球団(阪急ブレーブス・大阪近鉄バファローズ)の雰囲気を可能な限り再現させる「LEGEND OF Bs2011 蘇る黄金の70's」シリーズの第1戦に当たったことによる。
  6. ^NHK特集 盗塁王・福本豊〜939世界新記録」より。
  7. ^ a b c d e 文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」文藝春秋社
  8. ^ 2003年9月放送の『NANDA!?』における野村の発言。
  9. ^ 野球中継の解説時の福本の発言
  10. ^ ただし、福本によればフェンスによじ登って打球を捕る練習は阪急の外野手は皆していたという。7年後の山森雅文の大ファインプレーもこの練習の賜物であった(このプレーについは山森の項参照)。
  11. ^ さらに2012年1月3日には、同年から阪神タイガースの二軍投手コーチへ復帰した湯舟をゲストに迎えた特別番組『福本・楠の正月から一杯やりましょ!』を、本来のレギュラー番組『スポーツにぴたっと。』(福本が木曜日に出演)の代替番組として放送。
  12. ^ 『福本・楠の一杯やりましょ』における楠の証言より。中継当日の福本は、早朝から『おはよう朝日です』(ABCテレビの生放送番組)にスポーツキャスターとして出演していた。楠によれば、「福本は(『おはよう朝日です』への生出演と中継の前に夕食を済ませていた影響で)実況の間に何度か寝ていた。たこやき発言もその流れから出た」とのこと。もっとも福本は、『福本・楠の一杯やりましょ』で楠の証言を否定している。
  13. ^ 2005年7月17日の阪神対広島戦の中継の際に発言。しかし発言直後に東出は試合を決める決勝本塁打を放つ。ちなみにこの後東出は2010年シーズンまで本塁打を放つことはなかった(詳細は東出の項を参考)。
  14. ^ 偶然にも、ウッズはこの発言の直後に投じられた球をホームランにした。

[編集] 関連項目

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