中畑清

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中畑 清
横浜DeNAベイスターズ 監督 #70
20120310 Kiyosi Nakahata manager of the Yokohama BayStars, at Seibu Dome.JPG
2012年3月10日、西武ドームにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県西白河郡矢吹町
生年月日 1954年1月6日(58歳)
身長
体重
184cm
85kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1975年 ドラフト3位
初出場 1977年7月17日
最終出場 1989年10月29日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手内野手)。愛称は「絶好調男」。2012年より横浜DeNAベイスターズ監督。

目次

[編集] 来歴

[編集] 少年期から現役時代

酪農を営む家に生まれ、子どもの頃から毎朝の乳搾りと野球の練習は欠かさなかったという。テレビで見た長嶋茂雄にあこがれ、進学した安積商業高校でも野球部に入部し三塁手、遊撃手、捕手を務める。駒澤大学では偏光サングラスと一本足打法で注目を浴び、2年の春には東都大学リーグで首位打者争いをする。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。1973年秋季リーグ最高殊勲選手。ベストナイン4度受賞。2度の全日本入り。

『駒澤三羽ガラス』(『駒大トリオ』)と呼ばれた平田薫二宮至とともに1975年のドラフト会議の目玉となる。巨人からの1位指名が有力視され駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。中畑は北海道拓殖銀行への就職が内定していたが、当時監督だった長嶋の存在などが後押しとなりプロ入りを決意。指名されなかった平田と二宮も一緒なら入団すると申し入れ、巨人もこれを受け入れた。

入団後3年間は当時まだ王、張本、土井、高田らがおり、選手層が厚かった巨人で1軍での出番に恵まれなかったが、3年目オフの1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で高田繁に代わって途中出場し、レッズのクローザーのマリオ・ソトから2ランホームランを放った。この日はコンタクトレンズをなくして何も見えない状態だったが、妻が後楽園球場まで届けた新品のおかげでよく見えるようになったという。敵将・スパーキー・アンダーソンは、長嶋監督に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と述べている。日米野球での活躍がきっかけとなり1軍に定着した1979年三塁手の高田が怪我で離脱した際に起用され、高田の復帰後もレギュラーとして登用された。この年新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折、新人王はならなかった。

初の規定打席に到達した翌1980年の秋、監督の長嶋茂雄が辞任し王貞治も引退する。そしてドラフト会議で中畑と同じ三塁のポジションの原辰徳が入団。ここでポジションの問題が発生するが、新監督の藤田元司ら首脳陣は当初中畑三塁・原二塁の構想を持っていた(ちなみに遊撃手は元々レギュラーである河埜和正、そして一塁には以前から王の後継と目されていた山本功児)。しかし1981年になると中畑がシーズン途中怪我で戦線離脱し、その間に原が三塁へ、二塁には元々守備には定評のあった篠塚利夫が入り、.357という高打率を記録した(その間一塁には長年大洋の顔として2000本安打を記録をし、巨人にこの年移籍となった松原誠が守った)。そして中畑は戦線復帰すると一塁手に転向。ONの時代にならい、一塁と三塁に人気の選手をおくべしという理想形もあり、中畑の怪我のおかげで一塁中畑、三塁原、二塁に土井の後継と目された名手篠塚というポジション問題が解決されたと評された。この年1981年には、巨人は1973年V9以来の日本一を奪回し、中畑も規定打数で自己最高打率の.322、16本塁打66打点と活躍した。

1983年、当時守備走塁コーチだった末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した。実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があったが、プロでは1987年に篠塚と正田が首位打者を分け合い落合が3位だった時に一時首位打者争いをしたが、結局はタイトルはとれなかった[1]

1984年オールスターゲームでは第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放つ。

1985年、マスコミの前で王貞治監督のことを「ワン公」と批判。のちに謝罪し、王監督から「何も聞かなかったことにする」と許されている。王政権下では長嶋茂雄第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、内紛報道が度々雑誌、新聞媒体で記事にされた。同年に結成された労働組合日本プロ野球選手会の初代会長に就任した。

1987年は途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙えるほどの打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された。(同期の篠塚が獲得。)

1989年にこの年から再登板した藤田元司監督により三塁再コンバートが試みられたが、甲子園球場での試合中に牽制球で一塁に戻った際に指を痛め、長期戦線を離脱。その間に三塁は岡崎郁、一塁には駒田徳広が定着したこともあり、この年終盤に早々と引退を表明。リーグ優勝を決める試合(横浜スタジアム)で二塁打を放った際のことを「自分が日本の球場で最初にウェーブを起こした」と発言している。同年に行われた近鉄との日本シリーズ第7戦藤井寺球場)では篠塚の進言で代打に起用され、後にメジャーにも渡った吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)。この試合を最後に、現役を引退した。

[編集] 引退後

引退後は日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者を経て、1993年から第二期長嶋監督の巨人で打撃コーチに就任。

1993年はチームがリーグ最低打率に終わり、駒田徳広の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執が噂された事もありコーチとしての評価は高くないまま終わった。それでも1994年には一塁ベースコーチを担当し、ムードメーカーの役割に徹して日本一に貢献した。同年オフに退団。その後は再び日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者となる。

2004年アテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチ(監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執る。自らは監督代行ではなくあくまでヘッドコーチであり、講演活動で監督代行の肩書きが欲しかったと発言している)を務め、本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋監督の登録が認められなかったため正式に監督に就任し、銅メダルを獲得した。同オフ、巨人から非公式に助監督を要請されたが、これを断っている。

2011年には3月11日の東日本大震災の爪跡残る故郷福島らを同期の篠塚、お笑いタレント松村らと訪れ、ボランティア支援し、後に同郷の西田敏行らともチャリティイベントを実施した。

現在、上総モナークカントリークラブのアドバイザーを務める。

東京電力のCMで、原子力発電の安全性をアピールしていた

[編集] 国政選挙への挑戦

2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ[2]5月11日に中畑自身が立ち上がれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席し、正式に出馬表明記者会見を行った[3]7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも1人(片山虎之助)しか当選しなかったため落選。翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ、「(議員になっていれば、)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから。」と述べている[4]

[編集] 横浜DeNA監督

2011年12月9日、球団名が変わった新生・横浜DeNAベイスターズの監督に就任[5]。自身の誕生日でもある2012年1月6日に就任会見を行い、同時にシーズンスローガンとして『熱いぜ!DeNA』も発表された。

2012年2月1日より始まった沖縄県宜野湾市での春季キャンプでは「守れない選手は使わない」というチーム方針を明確に表し、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことにしている[6]

春季キャンプ中の2012年2月2日インフルエンザA型に感染したため翌日から休養し、その期間は高木豊ヘッドコーチがチーム指揮を執っていたが、中畑は休養中も宿舎の一室からチームを見守っていた。なお2月7日から現場に復帰している。

[編集] プレースタイル

レギュラー時代は王貞治引退翌年の第一次藤田監督時代、1981年、82年ごろは4番を任される事も多かったが、王監督となり原辰徳や吉村禎章の台頭や、スミス、クロマティなどの加入により、主に6番・7番打者をつとめ、積極的な打撃で中軸打者をホームへ帰した。典型的な早打ちスタイルの中距離打者だったが、原が4番に定着する過渡期の1984年には自己最高の31本塁打を記録している。「絶好調!」が口癖のムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称で親しまれた。

守備も巧みであり、一塁手で1982年から1988年まで7年連続ゴールデングラブ賞を受賞した。その頃、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられたことがあった。藤田監督は中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている[7]

[編集] 人物像・エピソード

  • 巨人の45代目4番打者[8]
  • まだ若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「清、調子はどうだ?」と聞かれた際、「えぇ、まあまあです」と答えた。これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになった。この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していたという。
  • 新人の頃に広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。中畑曰く、江夏はマウンドに上ると新しいボールを毛嫌いし、毎回ボールに土をすりこんでいたという。そこで、当時打撃コーチであった国松彰から「ボールを替えてもらえ」との指示が中畑に飛んだ。中畑は渋々、ボールを1球投げたところでボールの交換を要求した。捕手も嫌々ながら新しいボールと交換して江夏にボールを渡した。すると江夏が中畑を凝視しながらマウンドから降り、中畑の手前2mほどまで近づいて、「おい若造、ボール替えてくれ? 10年早いんや!!!」と凄まれ、思わず「すいません!」と謝ったという。中畑はこの打席で頭の高さほどのボール球を振って三振し、即2軍落ちになった。この後の江夏との対戦はまったく打てなかったという。
  • 1989年の日本シリーズ第7戦には夫人が観戦しに来ており、夫人が見ている中で現役最後の本塁打を放った。最後の本塁打の背景には、同僚である篠塚選手が打席にたつよう、進言したと言われている。
  • 中畑の後の背番号24を引き継いだ大森剛が守備も一塁であったため、コーチ時代は試合前等について教える姿が見られた。
  • プレーについて、「高い入場料を払ってきてくれるファンのために」と発言した。
  • 現役当時に巷で流行だったもみ上げをまっすぐにカットするテクノカットYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表される)を中畑もやっていた。
  • TOKIO松岡昌宏が中畑の大ファンであり、それを知った時には家族で大喜びしたと言う。[要出典]
  • 演歌を大変好み、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二北島三郎などの曲を歌う。また吉幾三の作詞作曲の『十和田丸』でデビューし演歌のシングルを2枚リリースしている。
  • 1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝落合博満真弓明信吹石徳一など)による親睦会「二八会」(にっぱちかい)の会長を務めている[9]
  • 毎年、福岡県北九州市の「九州ゴルフクラブ」にて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1977 巨人 7 5 5 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .400 .400 .400 .800
1978 5 3 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
1979 100 352 333 42 98 18 3 12 158 45 4 4 6 3 7 0 3 46 8 .294 .312 .474 .787
1980 124 503 459 61 123 15 2 22 208 57 10 8 7 4 28 1 5 53 11 .268 .315 .453 .768
1981 109 440 416 55 134 17 7 16 213 66 10 2 0 3 19 3 2 37 7 .322 .352 .512 .864
1982 124 510 468 56 125 24 5 25 234 78 4 3 0 3 37 2 2 71 10 .267 .322 .500 .822
1983 114 446 416 53 125 20 2 15 194 68 13 1 2 5 22 3 1 39 5 .300 .333 .466 .800
1984 130 550 493 78 145 30 1 31 270 83 4 1 0 2 51 2 4 64 12 .294 .364 .548 .911
1985 125 526 490 71 144 32 2 18 234 62 7 3 2 3 30 1 1 39 11 .294 .334 .478 .812
1986 127 484 447 57 122 29 2 14 197 69 7 5 2 6 27 3 2 67 10 .273 .313 .441 .754
1987 110 413 371 37 119 23 1 6 162 40 6 3 7 5 29 1 1 46 13 .321 .367 .437 .804
1988 124 478 444 46 131 36 2 10 201 46 5 4 4 1 28 5 1 35 18 .295 .338 .453 .790
1989 49 128 113 8 25 6 0 2 37 6 0 2 2 0 12 3 1 24 2 .221 .302 .327 .629
通算:13年 1248 4838 4458 564 1294 250 27 171 2111 621 70 36 32 35 290 24 23 523 108 .290 .334 .474 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 表彰

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 24 (1976年 - 1989年)
  • 72 (1993年 - 1994年)
  • 70 (2012年 - )

[編集] 関連情報

[編集] テレビ・ラジオ出演

[編集]

  • 十和田丸(1984年、バップ、VAP 10170-07) 作詞作曲は吉幾三。 b/w「酒、夜、時々…雨」
  • 港(1988年2月11日、バップ、VAP 10290-07) b/w「十和田丸」
  • ときめいて乾杯(1995年、ポニーキャニオン) 真木ことみとのデュエット。真木ことみのアルバム『演歌三昧』に初収録。

[編集] CM

[編集] ゲーム

[編集] 脚注

[編集] 参考文献

『巨人の魂 ジャイアンツOBからの提言』長谷川晶一 東京ニュース通信社 2006年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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