プロ野球ドラフト会議

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プロ野球ドラフト会議(ぷろやきゅうどらふとかいぎ)は、日本のプロ野球において、新人選手獲得のために行われる会議である。正式名称は新人選手選択会議

目次

[編集] 概要

この会議は、毎年10月11月社団法人日本野球機構(NPB)が主催し、新人選手選択会議規約に定められた手順に基づいて、新人選手との契約交渉権をプロ野球に属する各球団に振り分けるものである。

NPBではドラフトとつくものにこの新人選手選択会議の他に、球団合併などに伴い合併する球団の所属選手を分配する選手分配ドラフト育成選手獲得のための育成ドラフト(2次ドラフト)がある。新規参入球団へ既存球団の選手を移籍させる拡張ドラフトはその導入が検討されたことがあるものの、プロ野球では制定されていない。

アマチュア球界の有望選手が、必ず日本のドラフト会議で指名を受けなければならないということではない。ドラフト前に選手本人が日本球界入りを拒否し、メジャーリーグ行きを熱望した場合に限り、メジャー球団との交渉権を持つことが認められている。

ドラフト会議をはじめ、日本選手権シリーズオールスターゲームなどの日本野球機構が主催する公式な行事では、球団名から愛称を除いた部分をその球団の略称として使用している。本項でもこれに準ずるが、非公式な場に限っては、「広島東洋カープ」や「読売ジャイアンツ」について、現在の球団名に則した「広島東洋」「読売」という略称が使われることは少なく、「広島カープ」「東京巨人軍」を球団名としていた頃からの慣習のために「広島」「巨人」と呼ばれることが多いため、注意が必要である。

[編集] ドラフトの制度

[編集] ドラフト会議で指名できる選手

ドラフト会議では、新人選手選択会議規約第1条に定められた新人選手が対象となる。すなわち、過去に日本プロ野球の球団に入団したことがない選手のうち、日本国籍を持っている、もしくは日本の中学校高校とこれに準ずる学校、大学とこれに準ずる団体のいずれかに在学した経験をもつ選手である。

日本の学校に在学中の場合には、ドラフト会議の翌年3月に卒業する見込みであるか、大学の場合は4年間在学している選手でなければ指名できない。また、日本の学校に在学している選手で、ドラフト開催当年度の4月1日以降に退学した選手は指名できない。高校生については、2006年より日本高等学校野球連盟プロ志望届を提出していない場合指名できない。また、2007年より大学生(野球部所属者)も同様に全日本大学野球連盟にプロ志望届の提出を義務付けられた。

日本野球連盟との協定により、社会人野球のチームに入部した選手については、中卒や高卒での入部の場合は入部後3年、それ以外の場合は2年の間、所属チームが廃部または休部した場合を除き契約できない。四国・九州アイランドリーグベースボール・チャレンジ・リーグといった国内の独立リーグは社会人野球と同様に扱われるが、プロ志望の選手については、所属初年度から指名することが可能である。これは四国アイランドリーグが発足した2005年にリーグからの要望を受けて行われたもので、その後発足したベースボール・チャレンジ・リーグでも踏襲された。日本プロ野球を介さずに直接メジャーリーグや海外の独立リーグなど、日本国外のチームに在籍した選手についても、ドラフト指名が原則として義務付けられている。

ドラフト指名を拒否し外国球団と契約を行った場合の指名凍結の特例

プロ志望届を提出したドラフト対象選手がドラフト会議の指名を拒否して外国球団と契約した場合、高校生は帰国から3年間、高校生以外は2年間ドラフト指名凍結選手となり、ドラフト指名を行うことはできない。

過去のオリンピック開催時の指名凍結選手の特例

夏季オリンピックにおける野球競技で、アマチュア選手のみしか出場できなかった時代(1984年ロサンゼルスから1996年アトランタまで)には、アマチュア側が五輪強化選手を指名凍結選手としてリストアップし、その選手に関しては当該オリンピック終了までドラフトの指名をしないように指定した。但し、指名凍結選手となった場合、オリンピック開催後のドラフトにおいて、中・高卒3年、大卒2年の凍結期間に関係なく指名できた。

[編集] 交渉権の有効期間

ドラフト会議によって得られるのは、選手との契約ではなく、選手との契約交渉権である。したがって、ドラフト会議で指名した後、選手契約ができなければ、指名選手の入団には至らない。選手契約交渉権の期限は、その選手との契約交渉権を獲得したドラフト会議の翌年3月末までであり、それまでにその選手と契約し支配下選手として公示することができなければ、契約交渉権は無効となる。社会人野球チームの所属選手については、この期限が翌年1月末までとなっている。

[編集] 選択会議

新人選択会議規約では、高等学校在学生の選手を対象とした「高校生選択会議」(毎年10月1日~14日)、高等学校在学生以外の選手を対象とした「大学・社会人ほか選択会議」(毎年11月10日~22日)、の2つの会議を招集するよう定められているが、2008年度については一括開催された。

選択会議の選択方法
  • 各球団は獲得を希望する選手がいなくなった段階で選択の終了を宣言し、それ以後の指名に参加することはできない。
  • ウェーバー方式で用いられる「球団順位の逆順」とは、会議1週間前におけるペナントレース順位の逆順(最下位球団が1番目となる)となる。セ・パ両リーグの同順位球団の先順については、以下により決定する。
  1. 会議開催年度のオールスターゲームに勝ち越したリーグ
  2. 1.で決定できない場合、会議開催年度のオールスターゲームの得失点差が優位のリーグ
  3. 1.2.で決定できない場合、抽選
  • 1巡目は入札抽選である。つまり、参加する全球団が同時に選手を指名して、指名が重複した場合には抽選を行う。抽選に外れた球団については、抽選に外れた球団のみで再度入札抽選を行い、全球団の1巡目指名選手が確定するまでこれを繰り返す。
  • 2巡目は「球団順位の逆順」にウェーバー方式で選択。
  • 3巡目は2巡目と反対の順番(逆ウェーバー方式)で選択。
  • 4巡目以降は、ウェーバー方式と逆ウェーバー方式を交互に行い、すべての球団が選択の終了を宣言するまでこれを続ける。

[編集] ドラフト制度の沿革

[編集] 制度導入の背景

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[編集] ドラフト制度の変遷

  • 1964年、パ・リーグオーナー懇談会において当時の西鉄ライオンズ社長の西亦次郎がアメフトに倣ったドラフト制度導入を提案。
  • 1965年11月17日、第1回ドラフト会議が開催された。事前に各球団が獲得を希望する選手に順位を付けた名簿を提出して、名簿1位が重複した場合には抽籤を行い、外れた球団は名簿2位の選手を代わりに獲得するというようにしてドラフト1位選手を確定するという独特の方式で行われた。これはドラフト1位の指名だけであり、ドラフト2位以下は通常のウェーバー方式と逆ウェーバー方式での指名を交互に行った。
  • 1966年には、社会人高校生のうち国体に出場しないものを対象とする9月の第1次ドラフトと、大学生と国体出場者を対象とする11月の第2次ドラフトの2回を開催した。
  • 1967年に、それまでの名簿を提出する制度は廃止され、予め抽選で決めた指名順に基づいて順番に選手の指名を行うこととなった。この際、奇数位の指名は降順、偶数位の指名は昇順に行う。これにより、2位指名でのウェーバー方式で保たれていた下位球団の優先権が消滅した。
  • 1978年にも制度を一新し、全球団が同時に一人ずつ選手を指名し、重複した場合に抽選を行う方式が採用された。1位の指名に関しては1965年から1966年に採用されていたものと似ているが、2位以降も続ける点が異なる。抽選で外れた球団のみが対象であるが、奇数位はウェーバー方式、偶数位は逆ウェーバー方式で代替選手を指名することで、下位球団がわずかながら優遇されるようになった。
  • 1991年からは、4位まではそれまでと同様に行い、5位以降の指名はウェーバー方式、逆ウェーバー方式を交互に行うように改められた。この年からドラフト外入団が廃止された。
  • 1993年、有力な選手が希望球団に入団できるように「逆指名制度」が導入された。これは、高校生以外の新人選手について、入団を希望する球団を選手が指名し、指名された球団がドラフト会議でこの選手を指名することで優先的に獲得できるというものである。逆指名が適用されるのは1位と2位の選手だけであり、3位以降はウェーバー方式、逆ウェーバー方式を交互に行うことになった。
  • 2001年、逆指名に代わり、「自由獲得枠」が設けられた。これは、高校生以外の新人選手について、2人までを契約締結内定選手として、ドラフト会議で指名せずに獲得することができるという制度である。逆指名とほとんど同じものであるが、ドラフト会議における指名を必要としないので、ドラフト会議では他の有望選手を獲得することが可能である。この枠を使う場合には1巡目から3巡目の指名に制限があった(詳細は以下「2001年から2004年までのドラフト制度」参照)。
  • 2005年からは、自由獲得枠は「希望入団枠」に改められ、10月に高校生を対象とするドラフト、11月に大学生や社会人などを対象とするドラフトの2回に分けて行われることとなった(詳細は以下「2005年から2006年のドラフト制度」参照)。また、2005年に限り、育成選手を選択するための育成選手ドラフトが12月に開催されたが、2006年以降は通常のドラフト会議に続いてこれを行う。育成選手についての詳細は育成選手制度の項を参照。
  • 2007年西武ライオンズ裏金による不正が発覚したことをきっかけに、裏金の温床となる懸念から希望入団枠廃止の議論が持ち上がり、当年度の会議より希望入団枠が廃止された。
  • 2008年より、高校生選択会議と大学・社会人選択会議が再び統合され、一括開催となった。

[編集] 2001年から2004年までのドラフト制度

自由獲得枠
  • ドラフト会議以前に各球団2名までの選手を契約締結内定選手として自由に獲得することができる。
  • 自由獲得枠を使って高校生やこれに準ずる選手を獲得することはできない。
  • 自由獲得枠を使う必要はなく、使う場合でも獲得人数を1人とするか2人とするかは各球団の自由である。
  • 自由獲得枠によって獲得された選手は、ドラフト会議における通常の選手指名で他球団に指名されない。
通常の選手指名
  • 各球団は獲得を希望する選手がいなくなった段階で選択の終了を宣言し、それ以後の指名に参加することはできない。
  • 1巡目は自由獲得枠を使わなかった球団のみが参加でき、参加する全球団が同時に選手を指名して、指名が重複した場合には抽選を行う。抽選に外れた球団のみでこれを繰り返して指名選手を確定する。
  • 2巡目は自由獲得枠を1つ使った球団のみが参加でき、ウェーバー方式で指名選手を確定する。
  • 3巡目は自由獲得枠を使わなかった球団のみが参加でき、ウェーバー方式で指名選手を確定する。
  • 4巡目以降は逆ウェーバー方式とウェーバー方式を交互に行い、自由獲得枠を含む指名選手が全球団合わせて120名になるか、すべての球団が選択の終了を宣言するまでこれを続ける。

[編集] 2005年から2006年のドラフト制度

導入の背景

2004年明治大学一場靖弘に対し、いくつかの球団の関係者が自由獲得枠での獲得を目指して裏金を渡していた問題(一場靖弘を巡る裏金事件参照)が発覚した。この事件の元凶は、上に示した当時のドラフト制度にあるとされ、これを改めることになった。

改正内容に関しては、ドラフト制度の中で契約金と契約順が制限されている事が裏金を使う温床になったのであり、自由に新人選手を獲得できるようにすれば、裏金が生まれる必然性がなくなると主張しより自由競争に近い方式を求めた球団と、ドラフト制度の中に中途半端に自由競争を持ち込む自由獲得枠という制度が裏金の温床になると主張し、自由獲得枠を撤廃し完全ウェーバー方式のドラフトになれば裏金は発生することはないと主張する球団とがそれぞれの希望に沿った制度改正を主張した。

裏金問題の解決を目指して始まった議論だったが、各球団ともに自らが有力な選手が獲得できるような制度を求めたまま対立し、意見が一致することはなかった。妥協案として、試行的に2005年2006年の2年間は、自由獲得枠の名称を希望入団枠と変更した上で枠を2から1に減らしたドラフト会議を行った。

希望入団枠
  • ドラフト会議以前に各球団1名までの選手を契約締結内定選手として自由に獲得することができる。
  • 希望入団枠を使って高校生やこれに準ずる選手を獲得することはできない。
  • 希望入団枠を使うか使わないかは各球団の自由であるが、事前にどちらにするかを申請しなければならない。
  • 希望入団枠を使うことを申請したものの契約締結内定選手が得られないこともある。
  • 希望入団枠によって獲得された選手は、ドラフト会議における通常の選手指名で他球団に指名されない。
高校生ドラフト
  • 高校生のみを対象としたドラフト会議で10月に開催される(2006年は9月に開催)。
  • 各球団は獲得を希望する選手がいなくなった段階で選択の終了を宣言し、それ以後の指名に参加することはできない。
  • 1巡目は参加する全球団が同時に選手を指名して、指名が重複した場合には抽選を行う。抽選に外れた球団のみでウェーバーによる代替選手の指名を行う。1巡目の指名を行わなくてもよく、その場合は事前に申請する。
  • 2巡目は希望入団枠を使わないことを事前に申請した球団のみが参加でき、ウェーバー方式で指名選手を確定する。
  • 3巡目以降はウェーバー方式と逆ウェーバー方式を交互に行い、すべての球団が選択の終了を宣言するまでこれを続ける。
大学生・社会人ほかドラフト
  • 大学生や社会人など、高校生以外の新人選手を対象としたドラフト会議で11月に開催される。
  • 各球団は獲得を希望する選手がいなくなった段階で選択の終了を宣言し、それ以後の指名に参加することはできない。
  • 1巡目は希望入団枠を使うことを事前に申請したものの契約締結内定選手が得られなかった球団のみが参加でき、ウェーバー方式で指名選手を確定する。
  • 2巡目は高校生ドラフトで1巡目の指名を行わなかった球団のみが参加でき、ウェーバー方式で指名選手を確定する。
  • 3巡目以降はウェーバー方式と逆ウェーバー方式を交互に行い、希望入団枠と高校生ドラフトを含む指名選手が全球団合わせて120名になるか、すべての球団が選択の終了を宣言するまでこれを続ける。
  • 各球団は、通常の指名に続き、育成選手を指名することができる。

[編集] 制度の問題点

[編集] 球団選択の自由の議論

現在の指名入札及びウェーバー方式では、選手側の球団選択の自由がほとんどないため、選手の海外流出と絡めて、現在も活発な議論が行われている。

  • 選手側の自由を尊重する立場
    • 希望球団への入団が困難になったことによる、学生、社会人選手の海外流出を懸念する意見[1]
    • 他業界との比較で、職種や職場に関する希望が全く聞き入れられないことについて、特殊であるとの意見[2]
    • 日本国憲法が保障する職業選択の自由の侵害ではないかという意見
    • 感情論として「希望の球団に行けなくてかわいそう」といった意見
  • 選手の自由よりプロ野球界発展のための戦力均衡を優先させる立場
    • 不正ドラフト活動防止とともに、公式戦を活性化するための戦力均衡にもつながるウエーバー制を導入すべきという意見[3]
    • 有望選手の海外流出懸念に対して、米球界が欲するのは主に日本の球界で実績を残した選手との意見[4]
    • 「希望球団以外なら入団しない」という被指名者側の主張を権利ではなく「わがまま」とみなす意見
  • 現役選手の自由を尊重する立場
    • 選手の球団選択の自由を議論するのであれば、ドラフト制度ばかりを議論するのではなく、FA制度の拡充をすべきという意見[5]
    • トレード・FA補償等の球団都合による現役選手の移籍についても同様に議論すべきとの意見
ちなみに、FA・ポスティングの拡充については、選手会側から強い要望が出されている[6]ものの、球団側・選手会側のいずれにおいても統一契約書を見直し、球団都合による選手移籍に際しても、選手の球団選択の自由を認めるべきとの議論は行われていない。

[編集] ドラフト会議の主な出来事

[編集] 空前絶後の大豊作

1968年のドラフトでは山本浩司広島東洋1位)、田淵幸一阪神1位)、有藤通世東京1位)、野村収大洋1位)、星野仙一中日1位)、山田久志阪急1位)、東尾修西鉄1位)、大橋穣東映1位)、加藤秀司(阪急2位)、大島康徳(中日3位)、金田留広東映4位)、福本豊(阪急7位)、島谷金二(中日9位)、門田博光(阪急12位・入団せず)、藤原満南海4位)、稲葉光雄(広島東洋6位・入団せず)、長崎慶一(阪神8位・入団せず)、水谷則博(中日2位)など、1970年代から1980年代のプロ野球を代表する選手が数多く指名された。阪急が指名した15名のうち、3名が2000本安打を達成(加藤、福本、門田)し、1名が200勝を達成(山田)している。巨人はこの時、田淵が他球団に指名されてしまった場合には星野を1位で指名すると公言していたが、実際には星野ではなく島野修を指名し、それを聞いた星野が「ホシとシマの間違いじゃないのか」と発言したことも有名である。島野はこの後、選手としては大成出来なかったが、日本のプロスポーツにおけるチームマスコットのスーツアクターの先駆者となる。100メートルの日本記録を更新し、東京オリンピックメキシコシティオリンピックに出場した陸上選手飯島秀雄が東京の9位で指名されたことでも話題を呼んだ。

1989年もドラフトが豊作となった年として知られる。野茂英雄に8球団の指名が集中し、近鉄に指名されたが、野茂の外れ1位だけでも佐々木主浩(大洋1位)、小宮山悟(ロッテ1位)、西村龍次(ヤクルト1位)、葛西稔(阪神1位)、元木大介(ダイエー1位・入団せず)といった名前が並び、その他にも与田剛(中日1位)、潮崎哲也(西武1位)、佐々岡真司(広島1位)、岩本勉(日本ハム2位)、古田敦也(ヤクルト2位)、井上一樹(中日2位)、石井浩郎(近鉄3位)、前田智徳(広島4位)、新庄剛志(阪神5位)、種田仁(中日6位)と、メジャーリーグ経験者4名(野茂・佐々木・新庄・小宮山)を輩出するなど1990年代から2000年代にかけて活躍した選手が多数指名されている。また、後に人気タレントとなるパンチ佐藤もオリックスに1位指名されている。

他にも当たり年として名高いのは1980年生まれで、1998年のドラフトに指名された高校生選手・2002年のドラフトに指名された大学生選手が挙げられる。これについては「松坂世代」を参照。

[編集] 荒川事件

詳細は「荒川事件」を参照

1969年のドラフト会議がきっかけになって発生した、ドラフト制度の歴史上でも最大級の事件である。

これは、この年のドラフト最大の目玉選手であった早稲田大学野球部の荒川尭が、会議の前に「巨人・(ヤクルト)アトムズ以外お断り」と、現在でいうところの「逆指名宣言」を行った事に端を発するが、だが、1969年のドラフト会議では大洋ホエールズが荒川に対し1位指名を強行し交渉権を獲得、荒川はこれを強硬に拒否して、アメリカに留学する。1年後の意中の球団の再指名を待ったが1970年の暮れ、大洋サイドがヤクルトへの移籍を前提とした契約を持ちかけた。その年の暮れに荒川はこれを許諾、形式的に大洋に入団し、約束どおりすぐにヤクルトへ移籍となった。これでとりあえず荒川サイドの念願は叶ったが、「ドラフト破り」という事で世間から非難され、セントラル・リーグ事務局からは1ヶ月間の公式戦出場停止というペナルティを課された。また、ドラフト交渉権獲得で入団を期待していた大洋ファンの反発は凄まじく、嫌がらせや脅迫が荒川には相次いだ。

そして1971年1月4日夜、荒川は自宅付近を散歩中に熱狂的な大洋ファンと言われる2人組の暴漢に襲われた。棍棒状の凶器で殴打された荒川は後頭部および左手中指に亀裂骨折を負い、緊急入院を余儀なくされる。さらにはその負傷が原因となって左目に後遺症が残り、実働わずか4年半で引退に追い込まれる事になってしまった。またこの事件が原因となり、大洋は横浜ベイスターズとなってからも2008年松本啓二朗細山田武史を指名するまで早稲田大学在籍の選手をドラフト指名する事はなかった。

[編集] 空白の一日

詳細は「江川事件」を参照

ドラフト制度史上でも荒川事件と並び称される『江川事件』は1978年に起こった。

高校野球での活躍ぶりを怪物と称された江川卓は、読売ジャイアンツへの入団を一筋に望み、作新学院高等学校時代の1973年阪急から、法政大学時代の1977年クラウンライターライオンズから受けた1位指名をいずれも拒否していた。

1978年のドラフト会議前日に江川卓と巨人は電撃的に契約を発表した。以来空白の一日と呼ばれることになるこの日は、ドラフト会議の準備のための期間とされ、クラウンライターの交渉権はその前日で消滅していた。しかし、制度の趣旨を無視したこの契約は却下され、これに反発した巨人はドラフト会議を欠席した。巨人不在で行われたドラフト会議では、阪神タイガースが江川との交渉権を獲得した。

巨人は、自分たちが欠席したドラフトは無効だと訴え、江川も阪神への入団を拒み続けていよいよ収拾が付かなくなったため、コミッショナーの強い要望に沿って、江川が阪神に入団した後、巨人のエースピッチャーだった小林繁との交換トレードの形で巨人に移籍させることで決着した。

[編集] KKコンビの明暗

詳細は「KKドラフト事件」を参照

1985年のドラフト会議は、選抜高等学校野球大会に2度、全国高等学校野球選手権大会に3度出場し、頭文字をとってKKコンビと呼ばれたPL学園高等学校桑田真澄清原和博の2人に注目が集まった。

当初、桑田は早稲田大学進学を表明しており、清原は巨人入りを熱望していたため、桑田はどの球団からも指名されず、巨人は清原を指名するものと思われていた。しかし、巨人は清原ではなく桑田を1位指名した。

巨人に指名された桑田は、数日後に早稲田進学を取りやめて巨人に入団することを決めたため、巨人と桑田の密約説が囁かれた。巨人が桑田を1位指名した直後に清原が涙を流したことは有名である。早稲田大側はこれを不服とし、その後10年間PL学園からの推薦入試を取りやめた。清原は6球団が1位指名しての抽選となり、西武に入団した。西武と巨人との間で行われた1987年の日本シリーズ第6戦では、あと1人で西武の日本一という場面で一塁手の清原が突然泣き出し、二塁手辻発彦に慰められるシーンもあった。 後に清原はFA権を行使して巨人に移籍することになる。

またこの1件と1994年の城島健司のケースが原因で、現在では高校生でプロ野球入りを希望する選手はプロ志望届を提出することとなった。

[編集] 交渉権訂正

2005年の高校生ドラフトでは、抽選結果が誤って発表され、後から訂正されるというトラブルが発生した。ドラフト会議で抽選が行われたのは2002年以来3年ぶりであったということがきっかけとなった。

巨人オリックス大阪桐蔭高等学校辻内崇伸を1位指名したため、両者の間で抽選が行われた。オリックスの中村勝広GMは外れくじを引いたのだが、くじの当たり外れを問わずに押されていたNPBの公式印を交渉権獲得の印と勘違いして当たりくじを引いたと主張したため、オリックスが辻内との交渉権を獲得したと発表された。

日本ハムソフトバンク福岡第一高等学校陽仲壽を1位指名したために行われた抽選でも、同様にソフトバンクの王貞治監督が外れくじを当たりと勘違いして、ソフトバンクが陽との交渉権を獲得したと発表された。日本ハムのトレイ・ヒルマン監督の引いたくじには「交渉権確定」の印が押されていたのだが、漢字が読めなかったために席に戻った後、高田繁GMの指摘でそれが当たりくじであることが発覚した。

巨人の堀内恒夫監督も同様に当たりくじを引いていたことが分かり、辻内との交渉権は巨人、陽との交渉権は日本ハムが獲得と訂正された。これらはNPB側が、実際のくじを確認せずに監督の表情や主張を信じて、そのまま抽選結果として発表してしまったことによる。

[編集] 史上初の冠協賛・公開ドラフト

  • 2009年のドラフトは、(株)東芝が冠協賛社となり、「プロ野球ドラフト会議 Supported by TOSHIBA」として開催されることになり、東芝は会場内のモニターを提供。また史上初となる一般ファン1000人招待による「公開ドラフト」で開催することになった。

[編集] ドラフト会議にまつわる記録

[編集] 親子指名選手

  など

育成ドラフトを含めると

  の例がある。

[編集] 会議中継

地上波
基本的になし。なお2007年のフジテレビ(高校生ドラフトの名簿の中に注目選手がいたことが主な理由だと思われる)などのように突発的に中継されることがあるが、基本的に上位指名選手のみ中継し、ドラフト会議の終了を待たずして中継を終了する。また1980年代の一時期、東京12ch→テレビ東京千葉テレビ放送から、1989年にはテレビ朝日からそれぞれ全国中継したこともあった。2009年はTBSテレビで中継。
CS:スカイ・A sports+
開始前から終了まで完全生中継[7]を行うほか、当日夜にも完全録画中継を行っている。ゲストとして学生野球に詳しい記者(野球雑誌・週刊ベースボールなど)が迎えられる。2008年の中継では阪神タイガースの西日本地区スカウトを担当し、直前に同球団の一軍ピッチングコーチに就任したばかりの山口高志がゲスト出演した。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 読売新聞2007年4月26日社説
  2. ^ 読売新聞2007年10月4日記事
  3. ^ 朝日新聞2007年3月13日・同3月24日社説、産経新聞2007年3月12日記事
  4. ^ 産経新聞2007年3月12日記事
  5. ^ 朝日新聞2007年3月13日社説
  6. ^ プロ野球選手会公式ホームページ「現在の問題 1.移籍の活性化について」
  7. ^ 会場内のカメラ設置ポイントの関係などの諸事情からか、地上波テレビ局でもスカイ・Aから提供を受けた映像をニュースなどで使用する事もある〔使用する際は、「(映像)協力(改行あり)スカイ・A sports+」(ロゴ表示)と画面片隅に表示される(大手キー局などでは協力などと画面上には表示されていないものの、スカイ・Aから提供を受けている場合もある)。〕。

[編集] 外部リンク