堂上直倫

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堂上 直倫
中日ドラゴンズ #1
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基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県春日井市
生年月日 1988年9月23日(25歳)
身長
体重
184 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手二塁手遊撃手
プロ入り 2006年 高校生ドラフト1巡目
初出場 2008年8月3日
年俸 1,500万円(2014年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

堂上 直倫(どのうえ なおみち、1988年(昭和63年)9月23日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手内野手)。

高校時代は超高校級スラッガー尾張のプリンスとも呼ばれた。愛称は「ナオリン」(直倫の“倫”を音読みに変えている。)

父は元中日ドラゴンズ投手の堂上照、兄の堂上剛裕も中日ドラゴンズ所属の外野手

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

小学校時代に、「名古屋北リトル」で野球を始めた。そこでは、投手以外にも遊撃手の守備に就いた。春日井市立知多中学校在学時にも、「名古屋北シニア」で遊撃手の守備に就いたとのこと。2003年(平成15年)、ナゴヤドームで行われたドラゴンズのファン感謝デーで「リトルシニア東海選抜」の4番・遊撃手で出場し、投手を務めた福留孝介から左翼席へ本塁打を放った。その際、インタビューで「僕もずっと中日ファン。いつかはここでプレーしたいと思っている」と語っており、現実のものとなった。

中学卒業後は、野球の名門校として知られる愛工大名電高校に入学。1年生からレギュラーを獲得し、2005年(平成17年)春の第77回選抜高等学校野球大会では、4番に座り2本塁打を記録し優勝に貢献した。同年9月には全日本高校選抜として、韓国で行われた第六回アジアAAA選手権大会に参加し、2本塁打で最多本塁打のタイトルを獲得。ポジションは遊撃手、選抜優勝時には三塁手として出場した。高校通算55本塁打で、他校の捕手から「どこに投げても打たれるから投げる球が無い」と言わせる程の打撃センスの持ち主である。

2005年(平成17年)夏の甲子園に向けた愛知県大会では、豊田大谷高校とのナゴヤドームでの決勝戦で本塁打を放った。2006年(平成18年)夏の甲子園に向けた愛知県大会では、10四球と勝負を避けられる場面が多かったが、14打数7安打と打率5割を記録し、県大会優勝の原動力として活躍。しかし、本大会では初戦敗退を喫した。高校時代の甲子園3大会(2005年春、2005年夏、2006年夏)の通算打率は.480。

2006年ドラフト会議にて、中日、阪神巨人の3球団から1巡目指名を受け、中日が抽選で交渉権を獲得したため、父・兄と同じチームに入ることになった。親子3人がプロ野球選手かつ同一球団に所属するということは史上初であった[2]。ちなみにこの時の阪神外れ1位は野原将志、巨人外れ1位は坂本勇人である。背番号は24

プロ入り後[編集]

プロ1年目の2007年は一軍出場はなかったが、ウエスタン・リーグでは出場試合数の8割近くを4番・三塁手で先発出場した。打率は低迷したが、本塁打はチーム3位、打点はチーム2位と、長打力と勝負強さはあった。また、シーズン終了後、福留孝介がシカゴ・カブスへ移籍したことにより、背番号を24から1に変更した。

2008年も二軍で開幕を迎えるが、北京オリンピック荒木雅博森野将彦が抜けたことにより若手のテストを行った結果、8月3日に初の一軍昇格を果たす。しかし、3試合に出場し、1打数無安打で7日後に二軍に降格。以後一軍に昇格することはなかった。

2009年3月1日の日本ハムとのオープン戦で金森敬之からオープン戦初本塁打となる2点本塁打を放つ。また、この2打席前には兄・剛裕も本塁打を放っており、オープン戦で同一イニングのアベック弾は史上初であったが[3]、開幕一軍を果たすことはできなかった。

2010年、二塁を守る井端弘和が故障で離脱したことから、代役に指名される。井端の登録抹消日の6月11日から、二軍の試合に中学2年生時以来という二塁手として出場するようになり、6月16日に一軍昇格。その日の対日本ハム戦から先発の機会が与えられたが暫くは低打率が続いた。6月18日の対巨人戦でプロ入り初安打、6月27日の対広島戦でプロ入り初本塁打を放つなど最終的に兄である剛裕の58試合を上回る82試合出場で打率.263、5本塁打、30打点と井端の穴を埋める活躍を見せ、急造の二塁守備も失策2と安定していた。試合終盤の守備固めでは岩崎達郎が二塁を守り、三塁を守っていた森野将彦が一塁に回り、堂上は本職である三塁を守ることが多かった。8月6日の対阪神戦では、兄の剛裕と共にお立ち台に上がった。また、この年で4年間居た昇竜館を退寮し、名古屋市内のマンションで、一人暮らしを始めた。

右手親指のつけ根付近に、本人曰く「詰まりマメ」が、年中出来ている。打球が詰まっているため出来るということだが、「詰まらないことが一番だが、詰まってもいいところに飛んでくれればいい」と語っている。ただし立浪和義は「あんな所にマメが出来るのは考えられない」と打撃技術に疑問を呈している。[4]

2011年(平成23年)は怪我で出遅れ(紅白戦で鎖骨にボールをぶつけ、骨折も心配されたが最終的には打撲と診断)、開幕一軍を逃してしまい、更に二塁井端や三塁森野の存在もありスタメン機会は限られた。最終的には62試合出場で、打率.209、2本塁打、10打点と前年を下回る成績となってしまったが、終盤の守備固めには欠かせない存在となった。

2012年3月、2歳年上の元会社員の女性と結婚。開幕も初めて一軍で迎え、序盤はスタメンで起用されるも期待に応えられず、最終的には主に守備固めで起用される事が多かったが、自己最多となる116試合に出場した。また、この年から「選手会会計」に就任した。

2013年は、2年ぶりに本塁打こそ打ったものの、74試合の出場に留まり、打率OPSなど〇〇率の成績はほとんどが一軍定着後最低の数字となった。オフに「選手会会計」を退任して「選手会副会長」に就任した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2008 中日 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2009 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2010 82 301 259 23 68 12 1 5 97 30 0 0 14 1 25 4 2 35 11 .263 .331 .375 .706
2011 62 123 115 6 24 4 0 2 34 10 0 0 3 0 4 2 1 18 5 .209 .242 .296 .538
2012 116 182 167 5 35 8 0 0 43 11 1 0 8 1 5 1 1 34 6 .210 .236 .257 .493
2013 74 170 152 5 26 2 1 1 33 12 1 0 8 3 6 0 1 15 3 .171 .204 .217 .421
通算:6年 339 778 695 39 153 26 2 8 207 63 2 0 33 5 40 7 5 103 25 .220 .266 .298 .564
  • 2013年度シーズン終了時

年度別守備成績[編集]

年度 一塁 二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2008 - - 2 0 0 0 0 ---- -
2009 - - 1 0 0 0 0 ---- -
2010 - 81 179 240 2 47 .995 29 5 11 0 2 1.000 -
2011 - 35 101 86 0 19 1.000 32 1 13 2 1 .875 -
2012 - 17 36 50 0 11 1.000 84 28 60 2 7 .978 12 10 17 0 3 1.000
2013 3 4 0 0 0 1.000 7 8 10 0 2 1.000 12 3 13 0 1 1.000 50 38 117 2 22 .987
通算 3 4 0 0 0 1.000 140 324 386 2 79 .997 160 37 97 4 11 .971 62 48 134 2 25 .989
  • 2013年度シーズン終了時

記録[編集]

背番号[編集]

  • 24 (2007年)
  • 1 (2008年 - )

登場曲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ サンケイスポーツ 2010年11月17日 「中日・堂上直、大島ら若手が一発サイン」
  2. ^ 名古屋日刊スポーツ2007年1月28日記事
  3. ^ 中日スポーツ 2009年3月2日付
  4. ^ サンデードラゴンズ 2011年4月3日放送分より

関連項目[編集]