川端慎吾
| 東京ヤクルトスワローズ #5 | |
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2011年7月10日、秋田県立野球場にて
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府貝塚市 |
| 生年月日 | 1987年10月16日(24歳) |
| 身長 体重 |
185cm 86kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 2005年 高校生ドラフト3巡目 |
| 初出場 | 2006年10月9日 |
| 年俸 | 1,800万円(2011年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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川端 慎吾(かわばた しんご、1987年10月16日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(内野手)。
妹は日本女子プロ野球機構の京都アストドリームスに所属している川端友紀。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] プロ入り前
小学校2年生で、貝塚リトルで投手兼遊撃手として野球を始める。貝塚三中時代は投手として活躍。 市立和歌山商高進学後、本格的に遊撃手としてプレーを始める。2004年の夏の甲子園に出場し、2回戦で聖光学院に敗れる。川端は2試合で8打数3安打だった。
2005年の春のセンバツでは、2回戦で準優勝の神村学園と対戦し敗退。川端はエース野上亮磨のストレートを弾き返し、逆風の中本塁打を放っている。
夏の県大会は準決勝で敗退し、ベスト4。その後第6回AAAアジア野球選手権大会の選抜メンバーに選出。駒大苫小牧・林裕也、大阪桐蔭の平田良介・辻内崇伸など夏の甲子園に出場した選手たちに混じって、打率.462でベストナインを受賞する活躍を見せた。高校通算33本塁打。
2005年高校生ドラフト会議3巡目で東京ヤクルトに指名され、推定契約金4500万円、年俸480万円で入団した。
[編集] プロ入り後
新人ながら一軍キャンプスタート。開幕一軍は逃したが、二軍では4月から遊撃手のレギュラーの座を掴み、高卒新人としては珍しい79試合に出場。打率は.240と苦戦したが、6本塁打31打点とパンチ力を発揮し結果を残した。シーズン終盤の10月9日の対中日戦で一軍初出場(2打数無安打)。10月10日の対広島東洋カープ戦の第2打席で1軍初安打・マルチヒットと共に、プロ初打点を記録し、プロ2試合目で早くもお立ち台に登った。球団史上、ドラフト会議を経た高卒1年目の野手が一軍の試合に出場したのは、1987年に1試合出場した土橋勝征以来、約20年ぶりの出来事。それ以前には1984年の池山隆寛が10試合に出場している。ただし、土橋、池山共に、1年目は安打は記録していない。高卒1年目の野手の安打は、1968年の奥宮種男まで遡る。
二軍キャンプスタートもキャンプ中に一軍に昇格。しかし昇格直後に体調を崩してしまい、二軍に逆戻りとなった。シーズンでは手薄な内野を補うために、4月と7月に2度一軍に昇格し、消化試合でない試合でのスタメン出場も経験。二軍では50試合で打率.284と、前年以上の成績を残した。しかし8月22日の試合で左手の薬指を骨折し、全治2ヶ月。そのリハビリで残りのシーズンの出場は出来なかった。10月中旬のフェニックス・リーグで実戦に復帰した。
春季キャンプでは宮本慎也の後継候補[1]として、2年ぶりの一軍スタート。宮本からポジションを奪うことは出来なかったが、オープン戦でも打撃・走塁で好調を維持し、遊撃手を含む複数ポジションを無難にこなした。そのことが買われる形で、3年目にして初の開幕一軍の座を掴んだ。10月7日、対中日第24回戦の第1打席にて小笠原孝からプロ初本塁打を記録した。
春季キャンプから右肩痛で離脱し出遅れたものの、5月に一軍昇格。その後は主に左の代打として出場、川島慶三や田中浩康の不調時にはスタメン出場することもあった。しかしスタメン予定であった8月23日の練習中にまたも右肩痛を発症し、登録抹消。以降は一軍での出場はなかった。
阪神から藤本敦士が加入。遊撃手のポジションを鬼崎裕司、新人の荒木貴裕らと争う。開幕当初は藤本が固定される形で起用されたが、不調から二軍落ち、その後は鬼崎が守備力を生かして台頭したが、打撃に難があったため、7月ごろから川端が遊撃手のレギュラーとして起用されるようになった。その後、シーズン終了まで遊撃手のポジションを守り続け、8番打者としてチームの後半戦の躍進にも貢献した。なお。守備力は鬼崎の方が買われていたため、試合終盤は守備固めとして鬼崎が遊撃手に入り、川端は三塁手へ回る機会も多かった。川端の飛躍にはシーズン中盤高田繁監督の休養(事実上の引責辞任)により監督代行に就任した恩師・小川淳司の引き立てによるところも大きい。入団当時の二軍監督で初年度からファームで積極的に起用を続けている。
開幕戦で最有力ライバルだった川島慶三が死球を受けて骨折したことから、スタメン遊撃手に定着し、シーズン中盤までは7番を任される。[2]6番・宮本、7番・川端、8番・相川で「恐怖の下位打線」を形成。クリンナップが不振でも得点源として機能する。しかし、ジョシュ・ホワイトセル、飯原誉士の絶不振や故障によりシーズン中盤からは3番打者として起用される。新打順も無難にこなし、9月末には2割9分台まで打率を上げた。その後不振に陥り、10月19日に左手首痛で登録を抹消された。病院での検査の結果、「左手のTFCC(三角線維軟骨複合体)損傷」で全治6週間と診断(9月14日の広島戦でスライディングした際に左手を地面に強打したのが原因とされる)され、シーズン2位で進出が決定していたクライマックスシリーズに出場することは出来ず、[3]。同じく戦線離脱を余儀なくされた由規、久古、七条らとスタンド観戦する結果になった。
ちなみに、このシーズンでは1号ソロ、2号2ラン、3号3ラン、4号満塁弾という珍しいHRの記録を出している。
[編集] プレイスタイル
盗塁が多いタイプではない[要出典]ものの、50メートル走5秒9の俊足を誇る[要出典]。また守備面でも強いリストを活かした送球[要出典]など、高い身体能力[要出典]と基本に忠実なプレイ[要出典]が持ち味。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2006 | ヤクルト | 6 | 23 | 21 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | .190 | .227 | .190 | .418 |
| 2007 | 9 | 13 | 10 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | .100 | .182 | .200 | .382 | |
| 2008 | 65 | 115 | 104 | 11 | 27 | 4 | 0 | 1 | 34 | 9 | 2 | 0 | 6 | 0 | 5 | 0 | 0 | 20 | 1 | .260 | .294 | .327 | .621 | |
| 2009 | 30 | 42 | 37 | 2 | 10 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 0 | 6 | 2 | .270 | .325 | .270 | .595 | |
| 2010 | 59 | 214 | 188 | 22 | 56 | 12 | 1 | 1 | 73 | 21 | 0 | 0 | 6 | 3 | 16 | 3 | 1 | 21 | 7 | .298 | .351 | .388 | .739 | |
| 2011 | 117 | 457 | 399 | 48 | 107 | 20 | 3 | 4 | 145 | 46 | 0 | 0 | 15 | 3 | 40 | 2 | 0 | 51 | 5 | .268 | .333 | .363 | .696 | |
| 通算:6年 | 286 | 864 | 759 | 86 | 205 | 37 | 4 | 6 | 268 | 78 | 2 | 0 | 32 | 6 | 66 | 5 | 1 | 112 | 15 | .270 | .327 | .353 | .680 | |
- 2011年度シーズン終了時
[編集] 記録
- 初出場:2006年10月9日、対中日ドラゴンズ21回戦(明治神宮野球場)、5回表に田中浩康に代わり二塁手として出場
- 初先発出場:2006年10月10日、対広島東洋カープ22回戦(明治神宮野球場)、7番・二塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、5回裏に大竹寛から中前適時打
- 初本塁打:2008年10月7日、対中日ドラゴンズ24回戦(明治神宮野球場)、2回裏に小笠原孝から右越3ラン
[編集] 背番号
[編集] 脚注
- ^ 宮本を三塁にコンバートするプランがあり、キャンプ途中まで川端や鬼崎裕司、三輪正義がショートで出場した。
- ^ 野球のセオリーの一つに「1番、4番、7番に得点源となる打者を置く」というものがある。ヤクルトが過去に日本一に輝いた年は主に78年・大矢明彦、93年・秦真司、95年・ヘンスリー・ミューレンス、97年・池山隆寛、01年・アレックス・ラミレスと錚々たる顔ぶれが並ぶ。後に打撃不振のウラディミール・バレンティンが任されたことでも、小川監督が重視していたことがわかる。
- ^ 緊急事態!川端CS絶望…燕ショートいない - SANSPO.COMニュース
- ^ 『ミスタースワローズ』の象徴である背番号1をつけていない時期の池山隆寛がつけていた番号(84~91、00~02)。池山と同じ遊撃手・三塁手のレギュラー候補かつ、打撃力を高く評価されるクリーンナップ候補でもあり、球団側の期待が伺われる。前述の通り池山同様に入団初年度に高卒新人野手ながら一軍試合出場を果たしている。2012年ドラフト1位入団の川上竜平に受け継がれた。
- ^ 引退したアーロン・ガイエルから受け継ぐ。それ以前は角富士夫、土橋勝征といったチームの“名脇役”がつけた背番号。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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