中田賢一

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中田 賢一
福岡ソフトバンクホークス #11
CD-Kenichi-Nakata.jpg
中日時代(2009年3月31日、ナゴヤ球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県北九州市八幡西区
生年月日 1982年5月11日(32歳)
身長
体重
180 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2004年 ドラフト2巡目
初出場 2005年4月3日
年俸 7,000万円(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

中田 賢一(なかた けんいち、1982年5月11日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学校3年より父親がコーチ・監督を務めるチームでソフトボールを始め、中学時代に硬式のボーイズリーグ、上津役ロビンスに入り本格的に野球を始める。その後、地元の福岡県立八幡高等学校へ進学。0時間目からの授業や夏休みの補習等、進学校特有の授業構成の中勉強との両立に苦しみながら練習を積むも、高校時代は3年春の県北部大会8強が最高と無名の時代を過ごす。高校3年時では球速のMAXは130km/h台後半。当然ながらプロのスカウトは全くノーマークだった。

卒業後、北九州市立大学へ進学。プロ入りを意識した進学ではなかったが、大学2年時より頭角をあらわし、無名公立校の快腕としてプロや米大リーグのスカウトから注目を浴びるようになる。3年時には球速も150km/hをマーク。途中オーバーワークにより故障するものの、その後復活し、大学4年時の九州六大学春季リーグにおいて母校を39年ぶりに優勝に導き、全日本大学選手権大会出場を果たす。同大会で創価大に勝利し、神宮初勝利をあげる。同年、日米大学野球選手権大会日本代表にも選出される。この年の秋季リーグ戦では久留米大相手にノーヒットノーランを達成した。リーグでは2年春秋ベストナイン、4年春には最多勝、特別賞(リーグ通算300奪三振)、ベストナイン、そしてMVPを獲得。大学時代には近くの鷲峰山をランニングトレーニングコースとして走っていた。

大学4年時の春季リーグにおいて、3チームによる優勝決定戦で1日で2試合を完投した。第1試合では9回を完投し勝利、たった45分の休憩後、第2試合も延長11回を完投しサヨナラ勝ち。1日で2試合20イニング310球を投げ抜き、リーグ制覇を決めた。このとき父と母から渡されたお手製のお守りをポケットに入れてマウンドに立っていたという。

2004年のドラフトで、中日ドラゴンズから2巡目に指名され、入団。北九州市立大学から初めて直接プロ入りした選手(北九州市立大出身のプロ野球選手は森山良二以来二人目)。本人も中日以外の指名時は社会人へ進むことを明言しており、相思相愛の入団となった。

中日入団に際して、杉下茂権藤博星野仙一小松辰雄ら中日の歴代エースが背負った伝統の背番号20番を引き継いでいる(前シーズンまでつけていた川崎憲次郎が退団して空いていた)。

プロ入り後[編集]

2005年、球団としては1998年の川上憲伸以来となる新人での開幕ローテーション入りを果たす。4月3日の開幕シリーズでプロ初登板初先発、先発2試合目の4月15日の対阪神戦でプロ初勝利をあげた。この時、8回まで阪神打線を4安打無失点に抑え、9回に金本知憲の本塁打により失点し降板するものの、あわやプロ初勝利を初完封で飾るかという好投を見せた。シーズン前半は防御率6点台と振るわず、5月には怪我により二軍落ちした。しかし8月中盤に一軍復帰すると、先発6連勝を挙げ、ルーキーイヤーでの6連勝は26年ぶりの球団タイ記録となった。シーズン後半の防御率は1点台と安定感を誇り、川上ら先発陣が不調だった中で大きな戦力となった。

2006年は、序盤怪我により2ヶ月離脱したものの、中盤から復帰。9月12日の対巨人戦でプロ入り後初の完投勝利をあげる。防御率3点台で7勝4敗、奪三振率を上げるなど、まずまずの成績を残した。日本ハムとの日本シリーズ第4戦では先発投手も務めるが、4回1失点の内容も打線の援護なく敗戦投手となった。シーズン終了後、中里篤史らとともにドミニカのウィンターリーグへ参加し、現地のコーチから高評価を得た。

2007年はシーズン当初からストレートは球威抜群で自己最速を更新するものの、変化球の制球に苦しみ、与四球も多く、中盤は1ヶ月以上勝ち星がつかないなど苦しい時期もあった。しかし8月12日の対巨人戦で10三振を奪っての完投勝利で9勝目をあげた頃から、決め球のフォークボールが本来の大きな落差を取り戻し、白星を重ねてチームの優勝争いに貢献した。8月19日の対横浜戦でシーズン10勝目をマークし、プロ入り後初めて2桁勝利を挙げた。

また、奪三振率も大幅にアップし、最後まで内海哲也(巨人)と熾烈な奪三振王争いを繰り広げた。トップと11個差で迎えたシーズン最終登板の10月6日のヤクルト戦では、5回までで8奪三振と快調なペースで進み、このまま続投すれば奪三振王のタイトルをほぼ確実に手中に収めるのではないかと思われたが、クライマックスシリーズへ向けての他投手陣の調整登板のため5回終了後にマウンドを降り、惜しくも初のタイトル獲得を逃した。

自身がシーズン前に掲げた「2桁勝利と一年間一軍」という目標を全うし、川上を超えてチームトップ、リーグ2位タイの14勝をマーク。与四球・暴投数がリーグ最多となるなど制球面で翌シーズンへの課題を残したものの、奪三振率は9.35でリーグトップとなり、規定投球回数をクリアした投手の中では中日球団史上初めてとなる奪三振率9.00以上を達成した。

オールスターゲームにも初出場を果たし、1失点こそしたものの150km/h台の速球で2イニングで3三振を奪った。

2007年のクライマックスシリーズでは、阪神との第1ステージ第2戦、巨人との第2ステージ第3戦にそれぞれ先発登板。どちらも中田の勝利でステージ突破を決めた。特に日本シリーズ出場を決めた第2ステージの巨人戦では、東京ドームで巨人打線を相手に再三ランナーを背負いながらも11三振を奪う気迫のこもった力投を見せ、ファンの反響を呼んだ。普段はマウンド上ではクールな中田がこの日は三振を奪うたびに何度もガッツポーズを見せ、本人も「今までで一番喜怒哀楽が出た」と振り返るほどの気迫で勝利をたぐり寄せた。続く日本シリーズでは第2戦に先発。敵地札幌ドームで8回を3安打1失点の好投で勝利投手となった。

2008年、開幕シリーズの4月1日の対巨人戦では上原浩治と投げ合い、8回に最速スピードをマークするなど前年同様のスタミナを発揮しシーズン初勝利を挙げる。4月22日の阪神戦ではプロ4年目にして初の完封勝利を挙げ、4月は4勝1敗と好成績でスタートした。北京五輪日本代表第一次候補選手にも選出され、テレビ中継では背番号20の先輩である星野仙一に絶賛された。しかし、5月以降は打ち込まれる場面が多くなった。7月2日に一軍登録を抹消。コーチも「ゆっくり調整させる」と明言していたが、苦しいチームの投手事情から、二軍戦で1試合登板しただけで一軍復帰。完全復調とはいかないながらもローテーションを守り続けるが、8月25日の巨人戦で試合中に転倒し左足を痛め、再び一軍登録を抹消された。9月に再び一軍復帰するものの調子が上がらず、7勝9敗でシーズンを終えた。入団から3年で29勝を挙げ、エースへの道を着実に歩んできた中田にとって、初めて壁に突き当たるシーズンとなった。

2009年は川上がアトランタ・ブレーブスへ移籍、先発ローテの一角として期待されるも、4月8日の対ヤクルト戦で4回を10安打6失点で敗戦投手となり、翌日登録抹消されたが、7月7日の対ヤクルト戦で8回を3安打1失点11奪三振の好投でシーズン初勝利を飾る。10月19日のクライマックスシリーズの対ヤクルト戦では5回1失点4奪三振の好投でチームのクライマックスシリーズ第2ステージ出場へと大きく貢献した。第2ステージはアドバンテージを含む1勝3敗で迎えた4戦目の先発を任されたが谷佳知に満塁ホームランを被弾する等、2回0/3を7失点と大炎上。チームもそのまま敗退し日本シリーズ出場はならなかった。

2010年から同姓の中田亮二が入団した為、スコアボードは「中田」から「中田賢」になった。開幕ローテーションには入れなかったものの5月にはローテーションに復帰。規定投球回には届かなかったものの4完投2完封で7勝4敗、防御率2.90の成績を残し優勝に貢献した。

2011年は開幕ローテーションに入り、第2戦目となる4月13日の横浜戦で勝利を挙げるものの、その後は状態が上がらず2軍暮らしが続く。6月19日のオリックス戦では延長10回表にリリーフ登板して勝利投手になるが、その後は右肩や背中の故障が重なり一軍昇格はなかった。

2012年は開幕ローテーション入りし、4月4日の横浜戦で6回を5四死球ながら1安打無失点、最速150km/hで勝利投手になった。以前から言われていた制球能力が格段に良くなり、吉見・川上が抜けた5月以降はエース級の活躍を見せていた。しかし交流戦に入ると、味方打線の援護が極端に少なくなり、「登板5、先発5、完投2、無四球完投1、平均投球イニング7.87、防御率1.83、WHIP0.81、QS%100.00%、SO/BB7.50」と素晴らしい内容にも関わらず0勝4敗と一度も白星が付く事は無かった。また責任イニング間の得点援護率がわずか0.46と交流戦では最も低かった。その結果、6月途中まで守っていた、リーグ唯一のQS100%が途切れた6月23日のカープ戦を境に徐々に投球内容自体も悪くなり、結局球宴以降1ヵ月間のファーム落ちになった。最終的に先発ローテーションの一員として22試合に登板・先発したものの7勝10敗と負け越しに終わり、僅かながら規定投球回に達しなかった。 なお、シーズン後のヤクルトとのクライマックスシリーズ1stステージ・第1戦では負傷の吉見に代わってCS開幕投手を務め、6回無失点で勝利投手となりファイナル進出に貢献するも、自身が怪我に見舞われファイナルステージの舞台に上がる事は出来ず悔しいシーズンとなった。

2013年は開幕ローテーション入りし、4月29日の巨人戦で今季初勝利を挙げたが[1]、5月5日の横浜戦から中継ぎへ配置転換される[2]。シーズン終了後の11月6日国内FAを宣言し[3]、出身地の地元球団である福岡ソフトバンクホークスへ移籍[4]。12月7日に同じくFAでホークスへ移籍した鶴岡慎也(前・日本ハム)と共に入団会見を行った[5]。背番号は11。それまで11を着用していた寺原隼人は、ホークス入団時~2006年までと、オリックス時代の20に戻った。

選手としての特徴[編集]

平均球速約143km/h[6]、最速153km/hの速球と落差の大きいフォークボールスライダーカーブカットボールを武器にする。通算の奪三振率が8.37と奪三振が多い。

独特の強めの横回転が掛かったフォークボールは落差が大きく、三振を奪う決め球として使うことが多いが、地面に叩き付けられると同時に予期せぬバウンドをする為、暴投・捕逸が発生しやすいのも特徴。背番号20の先輩であり、「フォークの神様」と呼ばれキャンプでは藤川球児川上憲伸にフォークボールの投げ方を伝授している杉下茂は、中日スポーツ紙上のコラムで中田のフォークボールについて「沈んだり、曲がったりするフォーク」と表現して賞賛し、独特の投げ方を崩してしまわないようにと中田にはキャンプでもフォークボールを教えていないことを明かしている。

球威で押す投球スタイルと荒れ球が最大の持ち味。それ故に制球面に課題があり、投球数が増えることが多いが。ただ、2009年頃から制球難を克服するべくフォームを首の上下動の少ないものに、2010年からは以前よりわずかにスリークォーター気味に投げるものに変えたりとマイナーチェンジを繰り返しており、それによりやや直球の球速のアベレージを落としつつも変化球の制球が向上し四死球数は減少傾向にある。

スタミナがあり、2007年9月16日の対阪神戦で、自己最速の153km/hを8回の128球目に記録するほどである。長距離走が得意で、2005年中日秋季キャンプでの球場からホテルまでの17km走では、ダントツの1位でゴールした。

中日のホームグラウンドであるナゴヤドームで滅法強く、ルーキーイヤーの2005年4月15日の対阪神戦でのプロ初勝利から、2007年6月24日の対ソフトバンク戦で敗れるまで、足掛け3年でナゴヤドーム13連勝を記録した(2007年シーズン終了時点でのナゴヤドームでの通算成績は17勝2敗)。また、阪神戦に強い一方、広島と相性が悪い。

人物[編集]

プロ入り2年目の春のキャンプ時、同い年で仲の良い同僚の中里篤史との間に「エース候補のイケメンコンビ」として中日スポーツ紙上でナカナカコンビという愛称がつけられた。

2007年シーズン開幕直前に父が病死。父の死からちょうど一ヶ月後の開幕シリーズで勝ち投手になり、ヒーローインタビューでアナウンサーからそのことに触れられると、中田は涙を浮かべて父への感謝の言葉を口にした。2007年シーズンに日本一となった後、名古屋タイムズ紙上で手記を発表。亡くなった父親について「小学校から、ほとんどの試合をバックネット裏の特等席で見てくれていた。変な言い方かもしれないけれど、平均寿命の残り分の試合を亡くなるまでに見に来てくれたのかなと思っています」「父に『15勝、20勝はしなくていい。毎年10勝、けがのない選手になれ』と言われてきた」などと述べている。

2007年7月29日の対ヤクルト戦で3回に3ボールなのに四球を出すという珍記録を残している(対戦打者青木宣親)。2-2からの7球目がボールとなり、カウント2-3であるにもかかわらず青木が一塁に出塁。原因はスコアボードの誤表示であるが、森球審や他の審判員も気が付かず、中田や捕手の谷繁元信をはじめ両球団からも指摘がなかった。次打者の時に青木が盗塁死したためこの誤審が得点に絡むことは無く中日が勝利、試合終了後に誤審が発覚し審判4人が厳重注意処分を受けた。

中日入団前は複数の球団から注目されていたが、中日の中田宗男スカウト部長は同じ姓であることを利用し「俺の親戚の子だから」という噂を流して他球団のスカウトを牽制したという内情をドラフト後の久野誠のドラゴンズワールドに出演した時に暴露した。実際には中田本人との血縁関係はない。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2005 中日 15 13 0 0 0 8 3 0 0 .727 371 86.2 81 7 30 2 6 60 2 1 36 35 3.63 1.28
2006 20 17 1 0 0 7 4 1 0 .636 473 112.2 106 16 36 1 2 111 3 0 49 49 3.91 1.26
2007 28 26 3 0 0 14 8 0 1 .636 741 170.1 158 14 81 2 6 177 13 0 73 68 3.59 1.40
2008 23 21 1 1 0 7 9 0 0 .438 582 129.2 148 13 46 1 11 126 5 0 79 67 4.65 1.50
2009 13 13 1 1 0 5 4 0 0 .556 342 81.0 77 5 25 0 5 73 4 0 34 31 3.44 1.26
2010 19 18 4 2 0 7 4 0 0 .636 491 118.0 99 9 41 2 4 105 8 0 43 38 2.90 1.19
2011 6 5 0 0 0 2 3 0 0 .400 126 30.1 29 5 4 0 3 26 1 0 19 14 4.15 1.09
2012 22 22 2 0 1 7 10 0 0 .412 562 140.0 119 6 33 2 9 106 3 0 46 44 2.83 1.09
2013 40 11 0 0 0 4 6 0 15 .400 428 98.0 85 5 45 4 8 83 8 0 41 37 3.40 1.33
通算:9年 186 146 12 4 1 61 51 1 16 .544 4116 966.2 902 80 341 14 54 867 47 1 420 383 3.57 1.29
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

  • ヤナセMIP賞(2005年)
  • クラウン賞特別賞(2005年)
  • クラウン賞優秀選手賞(2007年)

記録[編集]

投手記録
  • 初登板・初先発:2005年4月3日、対横浜ベイスターズ3回戦(ナゴヤドーム)、4回2/3を6失点で敗戦投手
  • 初奪三振:同上、2回表に吉川輝昭から空振り三振
  • 初勝利・初先発勝利:2005年4月15日、対阪神タイガース1回戦(ナゴヤドーム)、8回0/3を2失点
  • 初セーブ:2006年7月8日、対横浜ベイスターズ6回戦(長良川球場)、7回表に2番手として救援登板・完了、3回無失点
  • 初完投勝利:2006年9月12日、対読売ジャイアンツ21回戦(秋田県立野球場)、9回2失点
  • 初ホールド:2007年7月18日、対東京ヤクルトスワローズ14回戦(ナゴヤドーム)、6回表に2番手で救援登板、2回無失点
  • 初完封勝利:2008年4月22日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤドーム)
  • 日本シリーズ個人イニング最多与死球:2(2006年日本シリーズ第4戦)
打撃記録
  • 初安打:2005年8月21日、対横浜ベイスターズ15回戦(ナゴヤドーム)、3回裏に秦裕二から中前安打
  • 初打点:2006年10月9日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、4回表に石川雅規から中前適時打
節目の記録
その他記録

背番号[編集]

  • 20 (2005年 - 2013年)
  • 11 (2014年 - )

登場曲[編集]

  • 『Don't Stop Me Now』 - QUEEN
  • 『Come In Now ! Feat.杉本恭一(La-Ppisch)』- 九州男
  • 『69 Party feat.DJ MOTO a.k.a. DON GRANDE』- AK-69(2010~2011年)
  • 『The One feat.AK-69,MAHIRO~マイロ~』- NATO(2012年~)

その他[編集]

  • 日本テレビ(日テレ)開局55周年と読売テレビ(ytv)開局50周年の開局記念スペシャル番組である「ルパン三世VS名探偵コナン」の劇中にて放送されていた野球中継で、背ネームはNAGATA、背番号20の投手が登場している。この投手は連続四球で無死満塁の状態を作り、コーチらがマウンドに集まる場面で放送画面が急きょサクラ女王とジル王子の死亡ニュースを伝える画面に変わった。

脚注[編集]

関連項目[編集]