中里篤史

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中里 篤史
Giants nakazato63.jpg
巨人現役時代
(2011年8月20日、ジャイアンツ球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県朝霞市
生年月日 1982年9月12日(31歳)
身長
体重
185 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト1位
初出場 2001年9月16日
最終出場 2010年7月27日
年俸 750万円(2011年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

中里 篤史(なかざと あつし、1982年9月12日 - )は、埼玉県朝霞市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

春日部共栄高校入学時は180cmの長身ながら60kgの痩せた体格だった。当時の本多監督が直球だけで三振を奪える投手を目指して徹底的な体力強化を行なわせ、変化球はカーブのみを練習させた。その結果、ストレートに磨きがかかり、2年生の時には140km/hを記録。その年の秋季関東大会の初戦では東海大相模と対戦し、延長戦の末に1対2で敗れた。3年時には春季埼玉県大会で優勝。関東大会では選抜大会出場の国士舘相手に好投した。

甲子園出場・優勝を目標とした夏の全国高等学校野球選手権埼玉大会では、初戦は5回コールドゲーム、すべてのアウトを三振で取る15奪三振の完全試合(参考記録)を達成。決勝戦では浦和学院高校坂元弥太郎と延長10回を投げ合うもサヨナラ負けを喫し甲子園出場はならなかった。東海大相模の筑川利希也桐生第一一場靖弘とともに関東3羽ガラスとしてプロのスカウトから注目された。高校生の右投手としてはトップクラスの評価を受け、2000年のドラフト中日ドラゴンズから1位指名され入団。

中日時代[編集]

ルーキーイヤーの2001年フレッシュオールスターゲームでは150km/hをマーク。9月16日の対読売ジャイアンツ戦で一軍デビューを飾った。またこの試合ではプロ初安打となるタイムリーも放っている。2002年春季キャンプ中に宿舎の階段で転倒しそうになり、とっさに手すりをつかんだ際に脱臼。右肩関節唇および同関節包の損傷で、投手生命が危ぶまれるほどの重傷を負った[1]。2年間リハビリに努めていたが、2003年オフのトレーニング中にまたも右肩を故障。翌2004年も一軍登板なしに終わった。

2005年、4年ぶりに一軍に昇格し、10月1日の復帰初登板では最高148km/hを記録、1回を三者凡退(2三振)と好投し、リリーフでプロ初勝利を挙げた。オフに背番号が70から18に変更。

2006年8月に一軍復帰すると、自己最多の13試合に登板。日本シリーズにも登板。東京ヤクルトスワローズ戦で自己最速の152km/hをマーク。日本シリーズでは新庄剛志の現役最終打席で登板し、泣きながら打席に立つ新庄を直球勝負で三振に打ち取った。

2007年バランスボールから落下し左肘骨折する怪我を負い、一軍登板なしに終わった。2軍成績は15試合3勝3敗、61回を投げ43奪三振、防御率3.84だった。

2008年、8年目にして初の開幕一軍入りを果たすが、5月初旬に二軍降格。8月に再昇格したが、期待されたセットアッパーの位置を確保できなかった。同年オフに背番号が70へ戻された。

2009年5月31日に一軍昇格したものの、登板わずか2試合、計4回1/3を3失点、防御率6.23。6月5日に二軍降格。以降二軍戦で投げ、22試合6勝3敗1セーブという成績を残すものの再昇格することなく、11月2日に戦力外通告を受けた。これによりドラゴンズ2000年のドラフト入団者全員が退団する形となった。同年11月11日に読売ジャイアンツに入団した[2]

巨人時代[編集]

2010年7月17日に一軍登録され、当日に行われた対横浜ベイスターズ戦に登板。1イニングを無失点で切り抜けた。一軍では前年と同じ2試合の登板だったが、2軍の成績は30試合に登板し2勝2敗1セーブ、35回1/3を投げて29奪三振、防御率2.80の成績を残す。

2011年は、2軍の成績は23試合に登板。3勝2敗、38回を投げて30奪三振、防御率3.79の成績であった。しかし、自身4年ぶり、移籍してから初の一軍登板なしに終わった。11月15日に2度目の戦力外通告を受け、現役を引退。

引退後[編集]

引退後は、スコアラーとして球団に残る[3]

プレースタイル[編集]

最速153km/hを誇るノビのあるストレート、130km/h台のフォークカットボール、縦に割れる緩いカーブを中心に投げ分ける。

人物[編集]

2005年の復活登板以来、帽子のつばには「感謝」の二文字が記されている。これは、故障中に治療やリハビリで関わった病院の医師や看護師、見捨てなかった球団、応援し続けてくれたファンへの感謝の気持ちをマウンド上でも忘れない為である。

中日時代は投手として高い資質を認められながら、アクシデント続きで苦しむ中里のことを中日スポーツでは悲運の天才と書くことが多かった。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2001 中日 2 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 45 9.0 12 0 5 0 0 5 1 0 8 6 6.00 1.89
2005 2 1 0 0 0 1 1 0 0 .500 18 4.0 3 1 2 0 0 3 0 0 2 2 4.50 1.25
2006 13 0 0 0 0 1 0 0 0 1.000 46 10.0 9 1 7 1 1 14 0 0 4 4 3.60 1.60
2008 13 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 44 10.1 6 1 6 0 0 5 1 0 4 4 3.48 1.16
2009 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 21 4.1 6 0 1 0 0 4 1 0 3 3 6.23 1.62
2010 巨人 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 16 3.0 4 0 3 0 0 1 0 0 2 2 6.00 2.33
通算:6年 34 3 0 0 0 2 2 0 0 .500 190 40.2 40 3 24 1 1 32 3 0 23 21 4.65 1.58

記録[編集]

投手記録
打撃記録
  • 初安打・初打点:2001年9月16日、対読売ジャイアンツ28回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に條辺剛から中越2点適時二塁打

背番号[編集]

  • 28 (2001年 - 2003年)
  • 70 (2004年 - 2005年、2009年)
  • 18 (2006年 - 2008年)
  • 63 (2010年 - 2011年)

脚注[編集]

  1. ^ 【2月20日】2002年(平14) 苦難はここから始まってしまった…中里篤史、投手生命の危機”. スポニチ Sponichi Annex. 2011年12月20日閲覧。
  2. ^ 中里篤史選手の入団を発表 巨人軍公式サイト
  3. ^ 惜別球人 【巨人】中里 故障に泣いた未完の大器”. スポニチ Sponichi Annex (2011年12月19日). 2011年12月20日閲覧。

関連項目[編集]