山本昌

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山本昌 (山本 昌広)
中日ドラゴンズ #34
CD-Masahiro-Yamamoto.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県茅ヶ崎市東京都大田区生まれ)
生年月日 1965年8月11日(46歳)
身長
体重
186cm
87kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト5位
初出場 1986年10月16日
年俸 4,000万円(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)

山本昌(やまもとまさ、本名:山本 昌広(やまもと まさひろ)、1965年8月11日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手投手)。東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市名誉市民。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

野球チームに初めて入ったのは小学3年生のとき[1]。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し[2]日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する[3]。当時の日大藤沢高の野球部監督、香椎瑞穂は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学に進学し教師を目指すつもりでいた[4]。しかし、山本は1983年のドラフト中日ドラゴンズに5位指名を受ける。香椎に「おまえならプロでやっていける」と激励を受け、また山本のプロ入団がペアで推薦されていた別の部員の進学に支障を来さないこととなったこともあり、山本は最終的に入団した[5]

[編集] 入団 - 留学前

入団当時、野球解説者だった星野仙一(1987年より監督)は「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。

1986年シーズン終盤の消化試合一軍初登板を果たした。翌1987年には開幕一軍入りしたが、4月14日広島戦でのナゴヤ球場一軍初登板でヒジを痛め(のちに疲労骨折と判明)、その後登板機会がないままシーズンを終了する[6]

[編集] アメリカ留学

1988年2月、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行い、山本ら若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる[7]。しかし実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために選手を派遣する必要があり、その年の戦力にならない選手が選ばれ、山本については「手足は長いし、体も大きい。本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一抹の期待を掛けられてのものだった。

ドジャース傘下の1Aベロビーチ・ドジャースには山本と西村英嗣が所属することになり、そしてそこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。

3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという[8]。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられるわけない」と思う。その2か月ほどあと、チームメイトのメキシコ人内野手ヨゼフ・スパグニョーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て、その選手から投げ方を教えてもらう[9]。後に自分も遊びで投げてみたところ、驚くほど球が曲がったそうである。よく曲がるので、その日の試合でも使ってみたところ、決め球として通用。それ以後の登板に使っていると、1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本のビデオを見た星野が成長ぶりに呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられ(星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言している)。このため、ロースター入り・メジャーリーグデビューはならなかった。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00[10]

[編集] 帰国 - 再留学

帰国直後、当時の中日の投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、シンカーや精度の高いコントロールを駆使して一軍で5連勝(なおかついずれも自責点0)を記録し、リーグ優勝に貢献した。その1988年の日本シリーズでは第3戦の先発に抜擢され工藤公康と投げ合ったが、1歳上の同僚彦野利勝の先頭打者本塁打の1得点を守りきれず敗戦投手となった。

1989年、なかなか勝利を上げることができず、シーズン14登板目の5月27日の対巨人戦での完封まで初勝利を持ち越す。この勝利に山本は試合終了直後から涙を流し、後年最も思い出深い1勝に挙げている[11]。しかし、9勝目以降なかなか勝ち星を得られず、星野から同シーズンオフにおいてのアメリカへの教育リーグ再留学を言い渡される。名誉挽回の10勝目と日本残留の最後のチャンスとして9月23日の対阪神戦に登板するも、味方の失策などが重なり終盤逆転負けを喫しシーズン9勝に終わり、やむなく留学する。ただ既に2桁勝利するしないに関係なく、球団側は留学させることを決定済で航空機のチケット(エコノミークラス)は用意されていたといい、山本は渡航の際に差額を払ってビジネスクラスに変更した、と語っている[12]。このオフの留学で、アイクと共にスローカーブを習得に励む[13]

[編集] 1990年代

1990年は初のシーズン10勝を挙げ、汚名を返上する。

1992年に恩師のアイク生原が永眠。精神的ショックは大きく葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じく生原に世話になり同席していた長嶋一茂(1966年の早生まれで、山本と同じ1965年度生まれ)らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったほどであった。棺には前年までのシーズン自己最多勝利数を更新した、11勝目のウイニングボールを納めた[14]。その年は最終的にシーズン13勝を記録するが、チームは最下位に沈んだ。

1993年1994年と2年連続最多勝投手となる。以降1990年代今中慎二と共に左の二枚看板として中日投手陣を支えた。1994年にはシーズン19勝(8敗)で沢村賞を受賞している。

1997年は初の開幕投手を任され、開幕戦横浜ベイスターズ相手に8回2/3を投げ自責点2で勝利(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録した投手、同年最多セーブ宣銅烈のリリーフ仰ぎ完投は逃した)。その年18勝で3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振。しかし中日は最下位と低迷した(なお、山本昌は2001年札幌ドーム初の公式戦でも巨人相手に先発している)。同年オフ2年契約、「2年間で合計20勝出来なかった場合は2000年度の年俸はダウン」の条項を組み込んだ契約を結ぶ。

1998年 2年連続開幕投手を務めたが、広島市民球場で10歳上の相手先発大野豊との投げ合いに敗北などを含めて9勝9敗の成績で終わる。

1999年 4月には月間MVP獲得しての開幕11連勝や11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、9月4日の広島戦で佐々岡真司と投げ合い、0-0で迎えた9回裏に新人外野手福留孝介のエラーでサヨナラ負けなどの不運もあり、8勝6敗。しかし防御率2.96は上原浩治・同僚野口茂樹に次ぎリーグ3位だった。

[編集] 2000年代

2000年代に入ってもローテーションの一角を守り続ける息の長い活躍を続けており、2010年現在での通算勝利数は中日歴代2位となっている[15]

2002年は4月末まで0勝4敗、防御率も7点近くと調子を落としていたが、7月28日の3勝目以降、5勝2敗と復調している[16]

2006年9月9日の対広島戦で、新井貴浩から通算2000奪三振を達成。9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成。許したランナーは4回の森野将彦失策による1人のみのNPB史上2人目となる無四死球ノーヒットノーラン。41歳1か月での達成はプロ野球最年長記録。中日では2002年川上憲伸以来10人目。ナゴヤドームでは初。結果として森野の失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言し、後輩を気遣う山本昌の優しさを見せている。 9月30日の対阪神戦で40歳代としては若林忠志村田兆治工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。10月15日の対横浜戦ではリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりでセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、11勝7敗1Sの成績を残した。山山杯(#趣味参照の事)をこの年は開催せず、今のところ2005年が最後の開催となっている。

2007年4月17日の対阪神戦で完封勝利を挙げ、200勝へ残り8勝と迫る。41歳8か月での完封勝利はセ・リーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。5月27日の対日本ハム戦では史上80人目の500試合登板を達成。しかしそれ以後は結果を残せず、一軍登録と抹消を繰り返す。9月25日の対巨人戦では自身のエラーも絡み5失点でKO、二軍落ち、そのままシーズンを終える(2勝10敗・防御率5.07)こととなる。同年の日本シリーズではチームが53年ぶりの日本一となったものの、自身の登板機会はなかった。なお、日本シリーズでは、過去に5度(1988年、1999年、2004年、2006年、2010年)出場しているが勝ち星はなく、通算成績も0勝4敗。過去日本シリーズで山本昌が登板した次の試合で中日は必ず負けている。200勝達成後、次の目標として挙げたものの一つは日本シリーズでの勝ち星であった。

2008年4月2日の対巨人戦での登板で、投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長は2010年現在工藤公康の29年)となった。5月7日の対広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え、シーズン初勝利。5月14日の対ヤクルト戦で史上26人目となる通算3000投球回を達成。8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で完投勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11か月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の日本プロ野球名球会入会(昭和生まれではない杉下は入会資格は無い)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新(43歳0か月)、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出された。 また無類のラジコン好きで、その操縦技術やチューンアップの知識は趣味の域を超えて全国レベルのセミプロクラスであり、山崎武司とともに山山杯という冠イベントを開催していたほどから、2009年1月には200勝記念として「山本昌投手200勝おめでとう達成記念レース」が開催され(主催はラジコン天国名古屋店)、自らもホストとして参加した。10月2日、故郷の神奈川県茅ヶ崎市から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり[17]、その授賞式が12月27日に茅ヶ崎市総合体育館にて執り行われた。

2009年は開幕から二軍での調整が続き、ウエスタン・リーグ公式戦では投球回数が合計で100イニングを超えている。6月に一軍に上がるが、先発した試合で打たれ再び二軍降格。9月11日にようやく一軍再登録を果たし、同日の対ヤクルト戦でシーズン初勝利。大野豊が持つセ・リーグ記録を更新する「22年連続勝利」を記録した。

[編集] 2010年代

2010年は春季キャンプ中に左肩肩甲骨付近を痛めて(肉離れとの報道もあり)二軍で開幕を迎える。6月に二軍戦で実戦に復帰するが、13日の試合で左足首を痛めて1球投げただけで降板する。その後は調整を続け、8月7日の対阪神戦で同年初登板。6回1失点で勝ち投手となり、「実働25年」と「23年連続勝利」を達成した。さらに9月4日の対巨人戦で完封勝利し、1950年毎日オリオンズ若林忠志が達成した史上最年長完封勝利の日本記録(42歳8か月)と、2008年に自身が記録した最年長完投勝利記録を更新した(45歳0か月)。結局、この年は5勝を挙げ、中日ドラゴンズの逆転リーグ優勝に貢献した。

10月23日のクライマックス・シリーズのファイナルステージ第4戦に先発。4回1/3を5安打無失点ながら、ポストシーズン初勝利はできなかった。45歳2か月でのポストシーズン登板は自身の最年長登板記録(43歳2か月)を更新すると共に、1972年のダリル・スペンサーが持つ最年長出場記録(43歳3か月)も更新した[18]

2011年工藤公康が現役続行の意思はあるも所属球団未定のまま浪人となったことから、実質的には山本昌が現役最年長選手となったが、キャンプ中に右足首を痛め、1軍、2軍ともに登板はなかった。9月23日、右足首の手術を受ける予定である事が報道された[19]。同年12月7日の契約更改で同球団の減棒記録を超える60%減の提示にサイン[20]し、現役続行と9月下旬に手術が成された事、順調に回復し、既に練習を再開していることが報道された。またこの年のオフに工藤が正式に現役引退表明をしたため、名実共に山本昌が日本プロ野球での現役最年長選手となった。

2012年高木守道新監督が山本昌を復活させると明言し、開幕戦に投げることが決まっている。

[編集] プレースタイル

[編集] 投球

持ち球はストレート、落差の大きいカーブスライダースクリューグラブを突き上げ、背を一杯に伸ばしてから舌を出しながら投げる。ストレートの最速は138-139km/h前後(30歳代前半までは132-133km/h前後)で、同い年の星野伸之小宮山悟と共に「球の遅い一流投手」という稀有な存在である。40歳を越えてなお、年齢を重ねるにつれて球速が上がってきており、2006年には140km/h、43歳になった直後の2008年8月12日の対広島戦では143km/hという球速も記録している。ただ、「球速が出過ぎる時はストレートを投げたがって狙われ、打たれやすい」と周囲から指摘されている。 直球の球速は遅いが軟投派ではなく、テレビ番組『超・人』(BS-i)において「僕は速球派です」と語っている[21]。同番組によると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、松坂大輔の46%とほぼ同じであった(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳剛はストレートが8%)[21]

同番組で山本昌の直球の回転数を計測した結果、1秒間に52回転していた[21]。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂が41回転、藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは極めて高く[21]、初速と終速の差と落差が小さい[21]

[編集] 人物

1988年に頭角を現して以降は先発ローテーション投手として活躍。40歳を過ぎてもなお円熟のピッチングで中日の先発投手陣の一角を任っており、数々の投手最年長記録ホルダーとなっている。選手としての同一球団在籍記録は日本プロ野球記録を更新中。週刊ベースボールのインタビューで、「全力で投げて速球が133km/h出なければ引退する」と語っている。

2009年1月24日に行われたトークショーの席にて、公称では186cm・87kgとしている身長・体重が、実際は188cm・98kgであることを明かしたが、験担ぎとして今後も変更しないことを語った[15]

[編集] 登録名の事情

1990年、中日に山本保司が入団して山本姓が2人になったため、スコアボードや新聞などで略表記される場合[22]は、山本昌・山本保と書いて区別した。1995年オフに山本保司はロッテに移籍し、山本姓は1人だけになって区別する必要はなくなったが、「山本昌」になってから最多勝利などを獲得したことから本人は「昌」を取られることを拒否し、験を担いで1996年より登録名を山本昌(姓と名の区別がない表記)としている。

なお、後述のラジコンレースに出場する際の選手登録名は、本名の山本昌広名義で行っている。レース公式サイト上では、「山本 昌広」「山本 昌」(いずれも「山本」の後にスペースが入る)の表記が見られる。

東海ラジオ放送アナウンサーの北山靖は、実況などで山本昌を紹介する際、本名で紹介する事が多い。

[編集] 背番号34

1984年の入団時より背番号34である。同一背番号を着用した選手としては、プロ野球史上最長である。同年20番に変更した小松辰雄が着けていた背番号を与えられたが、単に空番号をドラフト指名順に当てはめただけである(1位藤王康晴:背番号1、2位仁村徹:背番号24、3位三浦将明:背番号26)。その後活躍が認められ、球団からかつて松本幸行が着けていた中日左のエースナンバーとされている21への変更を打診されるが、「この番号が自分のプロ生活のすべてを知っているから変えたくない」と拒否した[23]。今でもユニフォームに袖を通すときは、必ずユニフォームの背面に感謝しながら着る。

金田・藤王の享栄高校の後輩たる天才左腕で自身より3歳若い近藤真一がドラフト1位で中日入団が決まった際に背番号を剥奪される危機感を感じたという(結果的に近藤には背番号13与えられ、2年目から背番号1に変更し藤王は球団史上初の0に変更)

[編集] 趣味

プライベートの山本昌は多趣味なことで知られ、中でも特に有名なのがラジコンである。ラジコンを始めたきっかけは、1995年に膝を痛めてリハビリを行っていた際、昼前にリハビリが終わり、暇つぶしに街に出た時、ラジコンショップでラジコンを見つけて「面白そうだ」と思い、始めたことによる。ラジコンショップにはシーズン中でも1週間に1度はかならず顔を出し、地元名古屋で開催されるレースにはシーズン中(ただし、リーグ優勝が確定し、クライマックスシリーズ開催を待つ期間)でも積極的に参加を重ね、これまでに数々の優勝を経験している。その腕前は玄人にも一目置かれる確かなもので、2002年には全日本選手権のEPツーリングカースポーツクラスで4位に入賞した[24]フジテレビ系の『とんねるずのみなさんのおかげでした』のコーナー「ムダ・ベストテン」ではC・W・ニコルムツゴロウらと共に登場しない有名人の一人として長らくランクインされていたが、2009年1月22日放送分で遂に登場し、その腕前を披露した。

ラジコン好きが高じて、親交のあるラジコンメーカー「ミワホビー」とシャーシモデル「YM34」を共同開発し、一般向けに販売した[25]ほか、同僚の山崎武司とともに「山山杯」と銘打った競技大会を開催した。毎年盛況を博した山山杯であったが、2006年のオフシーズンに「いや、申し訳ないんだけど、もう10年も続けたでしょう。だから今年はひと区切りということでね」と休止した。末期の山山杯は、開催4日前から主に日本の参加メーカーと専属レーサーのセッティング等準備が入る、世界チャンピオンがタイから参戦する等、最早ラジコン界におけるトッププロによる世界大会に近い大会になっていた[26]。2009年の「200勝記念レース」にもラジコン世界チャンピオン経験者の広坂正美らが参加している。

なお、ラジコンを操作する時の構えは投球前の構えとほとんど同じであり、一部ではラジコンのプロポを持つ姿、ピッチングフォーム、バッティングフォームは全て同じとも言われている。また、ラジコンだけでなく、国内外問わず多数の高級車を所有している。これは「車に見合う、恥ずかしくない選手になれるように」との本人の思いもある。

甲虫集めも趣味で、世界の甲虫を集めて息子と一緒に飼育していた。近所の山へ早朝に出かけ、秘密のスポットでカブトムシクワガタを獲ったりしているらしい。武田一浩曰く「こんなにデカイ体してカブトムシの話したら止まらないんだから」とのこと。また飼育する甲虫類が増えすぎた為にその一部を知人・友人に無償でプレゼントしたことも。しかし2007年シーズンが不本意な成績に終わったことなどから、飼っていた甲虫類を全て友人等に譲り、飼育をきっぱりやめたという[27]

その他の趣味として漫画ゲーム競馬が挙げられる。ブックオフなどで絶版の漫画を探す、新作で面白いゲームが出れば、それをクリアする予定を基にシーズンオフのスケジュールを組むなど、多くの情熱を注ぐ。また学生時代は「教科書に漫画がついていたから」という理由で日本史中国史を好み、秋田遠征時には記者と久保田城についての話で盛り上がったという。高校時代は社会科の教員を目指していたこともあった[28]

歌手の小田和正の大ファンであり、彼の名古屋公演ではシーズン中でもコンサート会場に姿を見せることがある。当人同士の交流もあり、2009年1月2日に東海テレビで放送された山本昌の200勝記念番組では、小田がナレーションを務めた。

[編集] 家族

家庭は夫人と一男一女。家族では実父・山本巧が1966年度NHKのど自慢全国チャンピオンという経歴の持ち主[29]。また5歳下の実弟は日大藤沢高校野球部監督の山本秀明で、2007年春のセンバツ甲子園大会に導いている[30]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1986 中日 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 0.2 2 1 1 0 0 2 0 0 2 2 27.00 4.50
1987 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 11 1.2 2 0 4 0 0 1 1 0 3 3 16.20 3.60
1988 8 6 2 2 0 5 0 0 -- 1.000 184 48.2 28 1 13 1 1 35 0 0 4 3 0.55 0.84
1989 35 26 5 2 1 9 9 1 -- .500 757 181.0 172 14 56 8 2 108 3 0 66 59 2.93 1.26
1990 26 24 6 1 0 10 7 0 -- .588 646 152.0 154 23 45 3 4 77 5 0 67 60 3.55 1.31
1991 33 22 2 0 0 6 8 1 -- .429 618 144.0 158 14 43 3 3 96 1 0 73 58 3.63 1.40
1992 30 25 5 2 0 13 10 0 -- .565 709 170.2 158 22 49 4 2 135 3 0 73 65 3.43 1.21
1993 27 24 10 5 1 17 5 0 -- .773 710 188.1 140 16 30 2 3 132 1 0 46 43 2.05 0.90
1994 29 29 14 2 2 19 8 0 -- .704 868 214.0 203 19 46 3 0 148 1 0 86 83 3.49 1.16
1995 12 10 3 1 0 2 5 0 -- .286 302 74.2 70 15 17 2 1 61 1 0 43 40 4.82 1.17
1996 26 23 6 2 0 7 9 1 -- .438 647 154.2 159 17 38 2 3 119 4 1 72 63 3.67 1.27
1997 29 28 4 1 1 18 7 1 -- .720 838 206.2 174 26 57 4 3 159 1 0 74 67 2.92 1.12
1998 28 28 5 3 0 9 9 0 -- .500 769 182.0 185 14 60 3 2 131 1 0 74 74 3.66 1.35
1999 25 25 1 0 0 8 5 0 -- .615 661 158.1 149 16 44 6 3 116 1 0 55 52 2.96 1.22
2000 28 21 5 2 1 11 9 0 -- .550 608 151.2 129 16 36 4 2 104 3 0 50 44 2.61 1.09
2001 28 26 2 2 1 10 13 0 -- .435 672 163.2 160 12 44 4 2 98 3 0 69 66 3.63 1.25
2002 21 13 1 0 1 7 6 0 -- .538 352 86.1 90 10 9 1 0 67 1 0 40 38 3.96 1.15
2003 26 26 0 0 0 9 7 0 -- .563 653 156.0 156 19 35 5 9 121 1 0 69 62 3.58 1.22
2004 27 24 1 1 0 13 6 0 -- .684 653 157.0 153 16 43 3 2 120 2 0 56 55 3.15 1.25
2005 22 21 0 0 0 7 8 0 0 .467 513 116.0 137 12 31 2 8 69 2 0 63 63 4.89 1.45
2006 27 26 3 2 1 11 7 1 0 .611 686 170.2 147 11 36 3 6 124 2 0 65 63 3.32 1.07
2007 19 18 1 1 0 2 10 0 0 .167 469 108.1 124 13 27 1 4 71 0 0 68 61 5.07 1.39
2008 23 22 2 0 1 11 7 0 0 .611 544 133.2 127 15 26 2 2 84 1 0 54 47 3.16 1.14
2009 6 6 0 0 0 1 4 0 0 .200 137 27.0 45 5 12 1 0 14 1 0 34 32 10.67 2.11
2010 8 8 1 1 0 5 1 0 0 .833 205 47.2 55 4 12 1 3 28 1 0 20 17 3.21 1.41
通算:25年 547 481 79 30 10 210 160 5 0 .568 13217 3195.1 3077 331 814 68 65 2220 40 1 1326 1220 3.44 1.22
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1994年7月17日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場) ※史上255人目
  • 1000奪三振:1997年7月15日、対広島東洋カープ15回戦(ナゴヤドーム)、3回表に黒田博樹から ※史上99人目
  • 100勝:1997年7月21日、対阪神タイガース20回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で7回1失点 114人目
  • 1500投球回数:1997年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場) ※史上143人目
  • 2000投球回数:2000年9月5日、対横浜ベイスターズ21回戦(ナゴヤドーム) ※史上79人目
  • 1500奪三振:2001年8月17日、対ヤクルトスワローズ19回戦(ナゴヤドーム)、5回表に宮本慎也から ※史上44人目
  • 150勝:2002年9月3日、対横浜ベイスターズ21回戦(草薙球場)、先発登板で8回1失点 ※史上45人目
  • 2500投球回数:2004年6月18日、対横浜ベイスターズ12回戦(ナゴヤドーム)、3回表に相川亮二を右飛で2死目をとり達成 ※史上43人目
  • 2000奪三振:2006年9月9日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、3回裏に新井貴浩から ※史上18人目
  • 500試合登板:2007年5月27日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)、8回5失点(自責点4)で敗戦投手 ※史上80人目
  • 3000投球回:2008年5月14日、対東京ヤクルトスワローズ8回戦(明治神宮野球場)、6回裏に田中浩康を一塁ゴロで2死目をとり達成 ※史上26人目
  • 200勝:2008年8月4日 対読売ジャイアンツ16回戦(ナゴヤドーム)、先発登板で9回1失点完投勝利 ※史上24人目
最年長記録
  • セ・リーグ最年長セーブ:41歳2か月-2006年10月15日、対横浜ベイスターズ22回戦(ナゴヤドーム)、7回表に3番手で救援登板・完了、3回無失点
  • プロ野球史上最年長完投勝利・完封勝利:45歳24日-2010年9月4日、対読売ジャイアンツ23回戦(ナゴヤドーム)
その他の記録

[編集] 背番号

  • 34 (1984年 - )

[編集] 登録名

  • 山本 昌広(やまもと まさひろ) (1984年 - 1995年)
  • 山本昌(やまもとまさ)(1996年 - )

[編集] 登場曲

[編集] 関連情報

[編集] CM出演

[編集] 著書

[編集] 出典

  1. ^ 山本昌、48頁。
  2. ^ 山本昌、51頁。
  3. ^ 山本昌、52頁。
  4. ^ 山本昌、57-58頁。
  5. ^ 山本昌、66頁。
  6. ^ 山本昌、52頁。
  7. ^ 山本昌、74-75頁。
  8. ^ 山本昌、127-128頁、生原喜美子
  9. ^ 山本昌、16-19頁。
  10. ^ BASEBALL-REFERENCE.COM
  11. ^ 山本昌、97-99頁
  12. ^ 山本昌、86-87頁
  13. ^ 山本昌、87-88頁
  14. ^ 山本昌、129頁
  15. ^ a b 中日スポーツ:マサ、杉下さん超え 合言葉は「NO CHANGE」:ドラニュース(CHUNICHI Web) 2009年1月25日付、2010年10月12日閲覧
  16. ^ 週刊ベースボール2002年12/16号 62頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース統括」より。
  17. ^ 茅ヶ崎市民栄誉賞 - 茅ヶ崎市ホームページ 2010年12月11日閲覧
  18. ^ 日刊スポーツ・大阪版 2010年10月24日 6版 3面
  19. ^ 日刊スポーツ:46歳昌、現役続行前提に右足首手術へ 2011年9月24日付、2011年9月24日閲覧
  20. ^ 中日:山本昌投手が契約更改 年俸6割減プラス出来高払い毎日新聞2011年12月7日
  21. ^ a b c d e 『超・人』過去の放送
  22. ^ 通常「姓・名」で登録されている選手は、姓のみ表記される。
  23. ^ 参考:ベースボールマガジン 1998年夏季号「背番号&ユニフォーム大特集」P66(上記の登録名を「山本昌」にした経緯も書かれている)。
  24. ^ 2002 平成14年度全日本選手権1/10EPツーリングカースポーツクラス決勝結果
  25. ^ YM-34シリーズ - ミワホビー
  26. ^ TBエボリューションIII が「山山杯」で表彰台を独占 - tamiya.com
  27. ^ 2008年5月9日付東京スポーツ記事による
  28. ^ Q&A - 山本昌広公式サイト Way to win
  29. ^ 若い頃は歌手を目指し作曲家の船村徹に弟子入りしていた時期もあったという。実際に歌手としてデビュー寸前であったが、その時期は息子・昌広が誕生した直後とあって家庭を優先した結果、これを断念した。2009年10月にインターナショナルミュージックからシングルCDを発売した他、自費出版にて数枚のシングル曲を発表している。
  30. ^ 日本大学ではプロ入りした真中満渡邉博幸と同期。渡邉とは日大藤沢高でも同級生

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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