張本勲

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張本 勲
基本情報
国籍 韓国の旗 韓国
出身地 日本の旗 日本
広島県広島市
生年月日 1940年6月19日(74歳)
身長
体重
181 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1959年
初出場 1959年4月10日
最終出場 1981年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 日拓ホームフライヤーズ (1973)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1990年
選出方法 競技者表彰
はりもと いさお
張本 勲
本名 張 勲 (チャン・フン、장훈
生年月日 1940年6月19日(74歳)
出生地 日本の旗 日本 広島県広島市
国籍 韓国の旗 韓国
民族 朝鮮民族(韓民族)
身長 181cm
血液型 O型
ジャンル 俳優プロ野球選手
活動期間 1966年 -
主な作品
修羅の群れ
『極道・高山登久太郎の軌跡 鉄 KUROGANE』

張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手外野手)、野球解説者野球評論家日本プロ野球名球会会員、韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(読みがな:チャン・フン、ハングル:장훈[1]血液型O型

日本プロ野球史上唯一の3000本安打を達成した。

愛称は「ハリさん」「張さん」[2]、あるいは「ハリ」、「ハリやん」。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1940年、広島生まれ。母親は身重のまま、3人の子を連れて当時日本領だった朝鮮から海を越えて日本に渡り、広島で勲を生んだ[3]。4歳の冬、土手で焚き火を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩し、焚き火に右半身から飛び込む形になり、右手の指3本を失う大火傷を負う[4][5][6]1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆[3][7][8]比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した。この際、勤労動員で比治山の西側にいた長姉は、大火傷を負い数日後に亡くなった[3][8][9]

終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった[3]

子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。小学5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で変化球を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、サウスポーに転向。利き手を変える大改造を行なった。

段原中学校時代には2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたらヤクザになっていたと思う」とも話している[5][10]

この頃、広島カープ広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという[3][11]。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった[3]。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という二つの夢を胸に来る日も来る日も吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け野球へと打ち込んでいった[12]

甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業広陵高校への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず[3]、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であり、昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだが、野球をする時間が全く取れなく、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟り、大阪府の浪華商業高等学校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に自らを売り込みにいき、監督中島春雄の推薦を受けて同校に転校する。

浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。

2年の初夏、中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘され、本人もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向[13]により誘いを断る。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。秋の近畿大会で対外試合に初出場。13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。

3年時の夏の甲子園直前、部室内での暴力事件が発覚。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)。張本は竹内監督の韓国人嫌いに端を発した差別としている[3]。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、竹内との関係は正直良くなかったとも回想している[14]

同事件により、甲子園の夢を絶たれた張本は自殺も考えたと言うが、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集[15]が親身になって相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。

この年在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜され渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む[3]。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した[16]。その一方で観衆からパンチョッパリと侮蔑表現で呼ばれ、アウェーであることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる[16]

プロ野球選手時代[編集]

甲子園出場の夢は叶わなかったが、野球関係者の間で「東の、西の板東、張本」とその名が知れ渡っていた存在をプロが見逃すはずもなく、各球団からスカウトが訪れた[17]。兄は広島カープへの入団を願って知人を通じて打診したが断られ[18]、本人は巨人への入団を熱望し、監督の水原茂とも相思相愛だったが、球団社長は興味を示さず、獲得に乗り出さなかった。

最終的に中日ドラゴンズ東映フライヤーズの一騎打ちになったが、東京への憧れもあり、1959年東映フライヤーズに入団[17]。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め、母校である浪商の先輩を多数抱えていた。契約金は200万(中日は600万を提示していた)。なお、この入団と前後して東映のオーナー大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。

松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せ、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。

大川博東映社長の意向もあって1軍に抜擢され、高卒の新人選手ながら開幕戦スタメンに名を連ねた(同年、王貞治も新人で開幕スタメン出場。NPBで18歳の高卒新人の開幕スタメンは以後1965年の飯田幸夫、1988年の立浪和義、2006年の炭谷銀仁朗、2011年の駿太、2013年の大谷翔平しかいない)。デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で秋本祐作から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で石井茂雄から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着。13本塁打を放ち、新人王を獲得した。

2年目には打率3割をマークし、3年目には打率.336で21歳にして首位打者となった。以降引退まで、通算7度の首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。4年目の1962年にはMVPと、同年から新設された最高出塁率を獲得した。1970年には打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残している。このうち、打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年ランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修投手から史上7人目となる2000本安打を達成。「安打製造機」の異名を取り[19]南海ホークス野村克也らと共に1960年代から1970年代パ・リーグで活躍した。

日拓ホームフライヤーズとなった1973年の後期[20]からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた[21]。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸が「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたが結局、球団は翌74年に日本ハムに身売り、土橋は退団した[22]。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた。1974年には大洋とトレード話がほぼまとまりかけながら御破算となる。1975年前期リーグ終了後、ロッテが張本獲得に乗り出す。日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど張本を無理やり放出しようとし、三原社長と中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった。大沢は著書『球道無頼』(集英社、1996年)の中で、三原から張本が巨人に行きたがっていると聞かされて、チーム改革のために「迷わず、ふたつ返事でOKした」と記している(同書144頁)。

前年のオフに大杉勝男白仁天らが移籍し、次は自分と考えていた張本は「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時阪神行きを決意し、家まで用意していた。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという[17][23]

1976年高橋一三富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。憧れであった巨人に入団したことで奮発し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。同年、翌1977年と続けて高打率を残し、2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には7糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。親友の王貞治と組んだOH砲は、第一期長嶋茂雄監督時代の2度の優勝に貢献した。1978年7月24日、日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和[24]生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会。

1980年ロッテ・オリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手から日本プロ野球史上初となる3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。翌年の1981年現役引退。現役最後の安打は森繁和から打っている。1990年野球殿堂入り。

通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は3085本で日本記録である[25]。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、その理由として、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」ことをあげている。

背番号はプロ1年目から引退まで一貫して10を着用した。

引退後[編集]

引退後は、1982年より東京放送TBSテレビTBSラジオ[26]野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務める。また、TBSテレビの『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『週刊 御意見番』でも、大沢啓二と共にレギュラー解説者(御意見番)として出演(2000年頃より。2010年10月の大沢死去後も引き続き出演)。2006年まではテレビ・ラジオの中継に出演していたが、2007年以降は「週刊 御意見番」の出演にとどまっている。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑[27]では引き続きTBS解説者として掲載されている(2012年からは一部名鑑[28]でフリー解説者として扱われている)ほか、『サンデーモーニング』公式サイト内同コーナー情報ページでは「TBS野球解説者」と明記されている[2]

1990年野球殿堂入り。

2001年にスタートしたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスに選手兼任コーチとして所属し、試合にも出場している。中々ヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初安打を放った。本人は「(投手の)星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。

臨時コーチを何度も務めている。中日の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた大豊泰昭一本足打法を完成させるきっかけを作っている[29]。自身の著書で、監督の打診を受けたことがあったものの「入り込んでしまうからやめた方がいい」と母親に猛反対されたので断ったと記している[21]。ロッテのゼネラル・マネージャーだった時期の広岡達朗から、ボビー・バレンタイン監督の下でのヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが、張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている[21]

1982年に発足した韓国プロ野球統括団体であるKBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務めた[30][31]2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章「無窮花章」が授与された。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった。「無窮花章」は日本の勲一等にあたる。日本のスポーツ選手として韓国の文化勲章を受けた唯一の人物となる。

韓国の野球発展にも多大な功績を残し[3]1982年から始まった韓国プロ野球は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという[32]。張本は「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている[32]

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

上記の「安打製造機」のほか、右へ左へと自在にボールを打ち分ける様子から「広角打法」、「スプレー打法」という代名詞でも知られた。東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回マークした。脚も速く、1963年に41盗塁広瀬叔功の45に次ぐ2位)したのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算400本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本と秋山幸二の2人のみである。また、通算で「トリプルスリー」(3割300本塁打300盗塁)を達成しており、この記録も日本プロ野球史上で張本ただ一人であり、通算3000本安打以上と合わせれば史上唯一の「クアドラプルスリー」でもある。一方、1シーズンでのトリプルスリーの達成は1度もない。惜しかったのは1963年で、33本塁打、41盗塁を記録したが、最も得意分野のはずの打率で3割に届かず(.280)、達成を逃した。

現役時代は多くのシーズンでタイトル争いに絡み、毎年打撃部門で上位に位置していたが、本塁打王と打点王のタイトルは1度も獲得できなかった。特に野村克也にタイトル争いで負けた事が多く、1962年・1963年には本塁打と打点の両方の部門とも2年続けてリーグ2位に終わり、いずれも野村に二冠を許している(1962年はわずか5打点差。張本は前年の1961年も打点でリーグ2位)。1965年も打点で野村に次いでリーグ2位に位置し、1966年に至っては再び野村に本塁打王と打点王を取られるなど、打率・本塁打・打点の部門すべてでリーグ2位だった。キャリアにおいて本塁打でリーグ2位を3回、打点でリーグ2位を5回記録し、打率でもリーグ2位を5回記録している。通算1676打点は、打点王のタイトルを獲得していない選手の中では史上最多である。

打席に立っている際、一塁ランナーが盗塁すると激怒した。一塁にランナーがいる場合、一塁手が一塁に張り付いた状態になるため一二塁間が広くなり、安打が出る確率が高くなるからだという。また、打席に入る時には凄んだ表情で相手投手に向けてバットを突き出す仕草を良くしていた。当時は投手を威嚇するためといわれていたが、後に本人は「あくまでも両サイドを見分けるための目安だった」と語っている。

現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。

また、張本はブルームからセーフティーバントのコツも教わった。それは「バックスイングをしてバントなんてしないように見せろ」というものだった[33]。これにより、張本自身の述懐によると21回試みたセーフティーバントのうち20回を成功させたという[33]。1970年に当時のシーズン最高打率記録を樹立した際にも、最後の打席でセーフティーバントを決めている。しかし、当時のマスコミから「ホームランも打てるバッターがなぜバントで打率を稼ごうとするのか」という批判を受けて、多用はしなかった。そのことについて張本は、2003年のインタビューで「なぜこれ(セーフティーバント)を多用して4割打たなかったのかなぁと後悔してるんです」と述べている[33]

打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「雨の日の立ち小便」(リラックスしながら腰を落とす)のように構えるとよい、と語ったこともある。現役時代、天才または運と呼ばれたことに対して、「ある日突然バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」と語っている[34]。キャンプなどでも、張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていたという。山崎正之は張本とキャンプで相部屋になった際に、張本が毎夜寝ている自分の数十センチ上で素振りを繰り返すため、寝るに寝られず、睡眠不足になったという。また、「あれほど不気味な風の音を聞いたことはない」とも語っている。

守備[編集]

打撃においては傑出した成績を残した張本だったが、守備に関しては「守っても安打製造機」と揶揄されるほど下手だった。前述の通り、幼少時のヤケドの影響と高校時代の左肩の故障という二重苦のため、現役中は一貫して思うような守備ができなかったという。

阪神との1962年の日本シリーズ第7戦の(1点リードから同点に追い付かれた)10回裏にベンチに下げられ、その後12回裏に日本一決定の瞬間を迎えるという経験をしている[35]。また、巨人時代、レフトへライナーやゴロが飛ぶと、遊撃手の河埜和正がカバーに入ることが多かった。リードして迎えた試合終盤には、守備固め二宮至と交代させられることが何度もあった。長嶋監督に失策の理由を聞かれた時には、「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。

人物[編集]

幼少期の負傷と被爆[編集]

来歴の節で記したように、幼少期に大火傷を負っている。右手以外は完治したものの、右手のみに後遺症が残り、親指・人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は癒着したままである。野球を本格的に始めてからは誰にも見せないようにしていた。プロ1年目のオフ後、母親と談笑しているときに「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いたところ、母親が号泣してしまった。まずいことを言ったと反省した張本はそれ以降、家族にも右手を晒さなくなった。

NHKの番組で張本の右手を取り上げる企画が予定されたが、張本は拒否。その後、NHKの解説者を務めていた川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたが、川上は「よくもそんな手で…」と涙を流しながら絶句していたという[36]

プロ野球出身者で直接の被爆により被爆者健康手帳を交付されたのは、張本と濃人渉の2人のみである[37]

被爆者であることを、ずっと隠していた[8]。思い出すのが怖くて野球に没頭し、バットを振り続けることで、当時の記憶を心の片隅に追いやってきたという。しかし2005年頃に「原爆の落ちた場所を知らない」とテレビ番組で発言した若者に怒りを覚え、被爆体験を語り始めるようになった[3][8]。2006年8月15日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』に出演した際には、被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。それをきっかけとして「われわれの世代が戦争を、そして原爆でやられた体験を語り残さなければならんのです」と答えたという。新潮社発行の月刊誌『新潮452009年1月号『私と母』という連載記事にも取り上げられている(取材・構成はライターが担当)。

現役時代[編集]

ロッテへ移籍した1980年、当時の監督だった山内一弘金田正一など多くの評論家が酷評した落合博満の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。その後、落合は三冠王に3度輝いたが、当時から張本は落合の非凡な才能を見抜いていたことが証明された形となる。

腕っぷしが強く、中学時代に練習場の奪い合いで、一級上のサッカー部のキャプテンを瀕死にさせたことがあり[3][38]、中学時代から高校生を超えてヤクザのチンピラとケンカしたという[38]。現役時代に「野球はルールのあるケンカだ」と話す[39]など、気性が激しい一面があり、以下のような話がある。

土橋正幸は、自身より5歳年下の張本に「マウンドでモタモタしていると、どやされたもんです」と話している[40]
江本孟紀が阪神に在籍していたとき、対読売ジャイアンツ戦で両軍選手入り混じっての乱闘になった。グラウンドに出た江本のところに張本が近寄ってきて、殴られるかと思ったら、巨人のある選手を差して、「あいつを殴ってやれ!」と言われたという。江本は新人時代1シーズンだけ東映に在籍し、張本とチームメイトであった。
愛甲猛は、ロッテの選手が乗ったバスがヤクザの車に道を塞がれたことがあって、張本が一人でバスを降りて怒ってるヤクザのとこへ行くと、「5~6分ほどでカタをつけて、何事もなかったかのようにバスに戻って来た」と話している[41]
野村克也が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行うことはなくなった。これについて張本はサンデーモーニングで「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村克也)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度と(ささやき戦術を)やらなくなりましたけどね。(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。一方、野村は上記のいきさつを否定した上で、張本にささやき戦術をすると、張本が繊細すぎるためにバッターボックスでの立ち位置がなかなか定まらなくなり、結果的に試合時間がかかりすぎてしまうことから、張本へのささやき戦術をやめたとしている[42]
かつて、「人気のセ」「実力のパ」と言われ[43]オールスター戦で、セ・リーグに負けるなと本気で闘ったパ・リーグ選手の先頭に立っていたのは、張本であると野村克也は話している[44]

トラブル・事件[編集]

退場処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦で9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入するが[45] 、捕手の山下健に体で体当たり[45]。この行為で足立光宏は「ひどいじゃないか」と言うと[45]、張本は激高し足立を数回小突いた[45]ダリル・スペンサーが「ノープッシュ」と言うと[45]、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうした[45]。東映ナインがなだめベンチに戻ったが[45]、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出す[45]、これも寸前で止められ大事に至らず[45]。 日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に城之内邦雄(当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である。

プライベートでは傷害罪で現行犯逮捕されている。1965年7月9日の午後10時、港区榎坂町4の溜池通りで車を運転していた張本がタクシーとぶつかりそうになり、張本はタクシーを蹴り上げて出てきた運転手に暴行を加えて1週間のけがを負わせた。後続車の飲食業の男性2人が仲裁に入ったが、張本はこの2人も殴って1週間のけがを負わせて検挙された。張本自身は相手の帽子を張っただけで手は出していないと話している[46]。この年、張本はオールスターゲームを辞退している。

王貞治との関係[編集]

プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代にはともにクリーンアップも形成した王貞治とは、プロ入り当初からの親友同士である。

実績を残し始め、やや慢心が見えていた1963年のオールスターゲームでの打撃練習で、王が張本とは明らかにレベルの違う打球を連発していた。張本はその打球を見て「何を俺は一流打者面をして甘ったれていたんだ」と改心したという[4]。王が長年の低迷を乗り越え、監督として福岡ダイエーホークスを悲願の初優勝に導いた際には、「今までワンちゃん(王貞治)を馬鹿にしてきた奴は、皆坊主になって謝れ」と言い放った。また、雑誌の企画などで「プロ野球最強打者は?」という質問には、いつも王を挙げる程彼の実力を認めている。

1979年オフ、網膜の病気で視野が狭くなり成績が落ちたため[47]、ロッテへの放出が内定していた。ところが巨人軍の納会の席で、それまで一回もフロントに意見したことのなかった王が、当時オーナーの正力亨に「張本君に巨人で3000本安打を達成させてあげてください」と張本の巨人残留を必死に直訴した。この王の発言に正力は「王君どうしたんだ?酔っているのか?」と驚いたが、王は「いえオーナー、私は酔っていません、お願いです」と迫った。張本は思いがけない展開に感動のあまり、泣きながらそれを止めたという。後年「それ以降、ワンちゃん(王貞治)に対しては、どんなことがあっても絶対服従と誓った」と語っている。さらに、2009年のワールド・ベースボール・クラシック監督には王しかいない、と主張[48]し、王に対しても「(胃癌手術を終えた王に)何かあったら、私があんたの面倒を一生見るから」とまで伝えたという。

メジャーリーグベースボールギネス・ワールド・レコーズに対し、王が放った868本の本塁打記録を正式な世界記録として認定するようにテレビ出演時に度々訴えている。

弟分・大杉勝男との関係[編集]

東映時代から大杉とはクリンアップを組み、公私で付き合いが深かった。また、テスト生の大杉の打撃を見て、「コイツは3冠王を取る」(別冊宝島 珠玉の好敵手)と断言。後日「大杉に感じた才能は、後の落合にも感じたものと共通した」(別冊宝島 珠玉の好敵手)とも打ち明けるほど、当時の打撃コーチ・藤村富美男と同じく、いち早く大杉の才能を見出した一人でもある。(最初に才能を見出したのは藤村。「東映が獲らないなら、阪神へ推薦するが構わないか」と打撃コーチの藤村富美男が監督だった水原茂に詰め寄ったのが始まりである) 東映時代、宿舎でメンバーがプロレスごっこで遊んでいる時、目付け役の張本が「お前ら何をしとる! 全員そこに並べ!」 と整列させ、鉄拳を見舞ったが、大杉だけは「お前はあっちにいっとれ」と制裁を避けたほど、大杉を可愛がっていた。(大杉勝男のバット人生) 1996年に放送された『知ってるつもり!?』の番組内で、張本は「永い付き合いだった。もう兄弟のように。これほど純粋で素朴なホームランバッターは過去にいませんでしたね。それと、新聞記者泣かせなんですよね。だいたい8回裏9回表は勝負が決まるんですよね。だから流れをみて原稿を書いちゃうんですよね。そこへ同点2ラン逆転3ランばっかり彼はやるもんですからね。原稿を洗いざらいしなくちゃならない。だから新聞記者泣かせの勝負強いバッターだったですね。」とも振り返っていた。

在日韓国人として[編集]

張本はプロ入り前はもとより、幼少期から在日韓国人を隠さずに名乗っており、引退後も日本に帰化していない。そればかりでなく現在も、帰化ならびに日本国籍取得の意思のないことを公言している(国籍は大韓民国)。これは、日本に渡って来て死ぬまで日本語を覚えようとしなかった母親の影響が大きいものと思われるが、当人は日本語を話し、且つ日本語名を名乗っているため、張本が日本の人間だと思う日本人も多い。現代では、自らを在日韓国人と明かす者が増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表した人間は極めて稀である。その一方で、2004年のアテネオリンピックに出場する野球日本代表の選手たちに対して「日本の国威を背負っていると思って欲しい」と語っていた。

民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から韓国語で育ち、韓国語に堪能である。1991年に日本で行われた第1回日韓野球スーパーゲームの中継では、韓国テレビ局側の野球解説者として出演した。

同胞のプロレスラー・力道山は張本を可愛がり、力道山が東京にいる時はいつもついて回った。初めて力道山の邸宅に招かれ、六十畳ほどある居間で飲んでいると、力道山はお手伝いを帰してドアに鍵をかけた。ラジオのつまみを回すと韓国の放送が流れてきて、力道山は軽音楽に合わせて機嫌よく踊り始めた。出自を伏せていた力道山から韓国人[49]だと告げられると、張本は「噂は本当だったんだ」と嬉しくなり、高揚した気分で「韓国人なら韓国人と言えば良いじゃないですか」と口に出した。すると力道山は「お前は植民地時代の苦労をろくに知らないから、そんなことが言えるんだ! 生意気なこと言うな!」と激怒して張本の肩を突き飛ばした。その後、2人の間で民族の話が出ることは2度となかったという[50]

張本は力道山が好んで使った「闘魂」という言葉が好きで、一時は色紙に書いていたが、野球選手に「闘魂」は似合わないと思い、止めたという[39]。また、日本橋人形町にあった日本プロレス(力道山の所属団体)の道場で、バーベルを使った筋力トレーニングをしていた。当時はアントニオ猪木がまだモヤシのような体であったため、ジャイアント馬場が野球を辞めて数年の頃までは、張本が一番力が強かった[51]。力道山の課す練習は過酷で、金田正一も呼ばれてジムへ行ったが、3日で止めたという[51]

韓国プロ野球コミッショナー特別補佐官として[30][31]、KBO発足に先立ち、当時の日本プロ野球コミッショナー下田武三に「日本球団の韓国籍選手を新発足の韓国プロ野球にまわして欲しい」と協力を要請した。これに対する日本側の好意的反応を確かめたのち、KBOは、日米両国との間に選手協定の締結交渉を行い、まず野球の先進国たるアメリカとの間で最初の選手協定を結び、次に日本との間で日韓協定を1983年に締結させた[31]

来歴に記したように、韓国の野球界にも多くの支援を行った。韓国球界の至宝・重鎮と言われ、中日ドラゴンズで活躍した宣銅烈も、張本の前では直立不動だったという。

その一方、韓国球界に渡った在日韓国人が、通過儀礼である兵役の義務を果たしていないことなどを理由に、差別を受けてしまう負の問題にも切り込み、(韓国プロ野球の)シーズンオフの関係者会議に「同じ韓国人で韓国の言葉が分からないと誰が言ったのか。日本で生まれ教育されて、習う機会がどこにある?それをパンチョッパリ、半日本人だといった人の顔が見たい。『お前たち、よく帰ってきたな。随分苦労したな』と応援してくれるのが普通なのに『日本でのうのうと暮らしやがって、我々は苦しい思いをしたんだ』なんぞと冗談じゃない。あなた方は小さな国ひとつ守れなかったじゃないか、しかもまっぷたつに切られて」と怒鳴り込んだことがある[52]

サンデーモーニング[編集]

TBS系列のテレビ番組『サンデーモーニング』の「週刊御意見番」では、憤りを感じるネタには「喝!」、素晴らしいネタには「あっぱれ」を与えるご意見番としてレギュラー出演。

2010年5月23日放送分で、途中降板した岩隈久志へ「エースとしてマウンドを守るべきである!」と「喝!」を入れた。この際、出演者である江川紹子は「えーっ」と驚き、「途中降板もありなのではないでしょうか。」という意見を述べた。放映中には口論にならなかったものの、両者の関係がこじれたため、後日TBS側は何度か両者も交えた話し合いをおこなった。しかし解決に至らず、江川は6月20日放送分への出演自粛をTBSから求められたとツイッターで明らかにした[53]。江川はこの中で「5月23日の放送での私の言動について、張本勲氏が立腹し、江川を番組に出さないようにTBSに求めたためです」と記し、7月も同様の理由で出演できないとしていた。その後江川はツイッター閲覧者からの「復帰しないのか」という質問に、「張本さんがお出になっている間、私の復帰はない、とのことです。数日前、正式に通告がありました」と回答。番組関係者は、デイリースポーツの取材に「江川さんとは年間契約などをしているわけではない。コメンテーターとしての出演をお願いしないということです」と説明した[54]。この件について、張本は色々な意見があることは当たり前であり、江川についてわだかまりは無いとしている[55]

また最近のサッカーJリーグの順位紹介時にはサンフレッチェ広島の動向に気に掛けている。

俳優[編集]

プロ野球選手時代から、俳優として映画に出演することもある。東映フライヤーズ在籍中の1966年に球団[56]親会社の東映配給で公開された『地獄の野良犬』では、監督の水原茂やエースピッチャーの尾崎行雄とともに特別出演を果たしている。現役引退後も、ヤクザ映画に複数出演したほか、名球会の協力により制作された野球映画『ドリームスタジアム』にも同会員のひとりとして出演した。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1959 東映
日拓
日本ハム
125 454 418 48 115 18 5 13 182 57 10 5 0 2 29 6 5 54 2 .275 .328 .435 .765
1960 106 414 384 49 116 25 3 16 195 56 15 4 0 1 26 6 3 56 1 .302 .351 .508 .859
1961 129 526 473 77 159 31 10 24 282 95 18 2 0 2 46 16 5 42 10 .336 .401 .596 .997
1962 133 568 472 89 157 24 4 31 282 99 23 8 0 6 86 18 4 46 7 .333 .440 .597 1.037
1963 150 626 529 90 148 16 7 33 277 96 41 12 0 2 92 22 3 47 6 .280 .389 .524 .913
1964 129 547 461 85 151 21 6 21 247 72 31 10 0 7 78 13 1 42 4 .328 .426 .536 .962
1965 132 538 455 61 133 13 3 23 221 88 29 13 0 7 72 10 4 37 7 .292 .394 .486 .879
1966 122 493 443 67 146 13 2 28 247 90 10 6 0 5 43 12 2 31 4 .330 .391 .558 .949
1967 120 499 414 72 139 18 3 28 247 88 18 7 0 9 66 15 10 30 5 .336 .439 .597 1.035
1968 114 432 363 70 122 12 2 24 210 65 13 3 0 3 61 15 4 20 5 .336 .437 .579 1.015
1969 129 557 480 77 160 27 1 20 249 67 20 1 0 4 71 21 2 33 5 .333 .421 .519 .940
1970 125 537 459 92 176 16 2 34 298 100 16 4 0 5 64 8 8 36 3 .383 .467 .649 1.116
1971 128 546 480 73 150 21 3 26 255 78 18 7 0 5 59 6 2 32 14 .313 .390 .531 .921
1972 127 548 472 93 169 25 4 31 295 89 10 5 0 4 69 12 3 37 4 .358 .443 .625 1.068
1973 128 550 441 77 143 18 0 33 260 93 12 6 1 5 93 19 6 32 4 .324 .448 .590 1.038
1974 120 491 406 64 138 20 3 14 206 62 14 6 0 2 82 13 1 28 3 .340 .452 .507 .959
1975 119 473 410 45 113 12 2 15 174 46 6 6 0 3 58 9 1 26 13 .276 .367 .424 .791
1976 巨人 130 574 513 89 182 35 5 22 293 93 8 5 1 3 51 0 4 44 9 .355 .417 .571 .988
1977 122 493 440 67 153 16 6 24 253 82 3 4 0 6 40 2 6 37 14 .348 .409 .575 .984
1978 115 456 424 53 131 17 1 21 213 73 1 3 0 4 27 2 1 39 11 .309 .352 .502 .854
1979 77 255 228 26 60 7 0 8 91 32 1 0 0 3 23 1 1 21 5 .263 .333 .399 .732
1980 ロッテ 102 370 341 50 89 9 0 12 134 39 0 0 1 0 26 0 2 31 6 .261 .317 .393 .710
1981 70 175 160 9 35 6 0 3 50 16 2 1 1 2 12 2 0 14 3 .219 .273 .313 .586
通算:23年 2752 11122 9666 1523 3085 420 72 504 5161 1676 319 118 4 90 1274 228 78 815 145 .319 .399 .534 .933
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

  • 首位打者:7回 (1961年、1967年 - 1970年、1972年、1974年)※7回は日本タイ記録、4年連続は歴代2位。
  • 最高出塁率:9回 (1962年、1964年、1967年 - 1970年、1972年 - 1974年)※歴代最多、タイトル設立は1962年。
  • 最多安打:3回 (1970年、1972年、1976年)※当時連盟表彰なし。

表彰[編集]

記録[編集]

  • 通算3085安打 ※日本記録。
  • シーズン打率.350以上を両リーグで記録(東映=1970年、1972年 巨人=1976年)※史上唯一。
  • シーズン打率3割以上:16回(1960年 - 1962年、1964年、1966年 - 1974年、1976年 - 1978年)※日本記録。
  • シーズン打率.330以上:11回(1961年、1962年、1966年 - 1970年、1972年、1974年、1976年、1977年)※日本記録。
  • シーズン150安打以上:9回(1961年、1962年、1964年、1969年 - 1972年、1976年、1977年)※歴代2位タイ。
  • シーズン100安打以上:20回(1959年 - 1978年)※歴代2位。
  • シーズン20本塁打以上:16回(1961年 - 1973年、1976年 - 1978年)※歴代3位タイ。
  • 打撃ベストテン入り:17回(1960年 - 1974年、1976年、1977年)※日本タイ記録。
  • 9年連続シーズン打率3割以上(1966年 - 1974年)※日本記録。
  • 15年連続打撃ベストテン入り(1960年 - 1974年)※パ・リーグ記録。
  • 20年連続シーズン100安打以上(1959年 - 1978年)※20年以上連続でシーズン100安打を記録しているのは王貞治と張本のみ。入団1年目からに限れば、張本のみ。
  • 20年連続シーズン2桁本塁打(1959年 - 1978年)※歴代4位タイ。
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1961年 - 1973年)※歴代3位タイ。
  • 16年連続シーズン2桁盗塁(1959年 - 1974年)
  • 9打数連続安打(1974年5月23日 - 5月26日)
  • 30試合連続安打(1976年5月13日 - 6月20日)
  • 13打席連続出塁(1974年5月23日 - 5月26日)
  • 1イニング2二塁打(1961年5月6日)※日本タイ記録。
初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1963年7月7日、対西鉄ライオンズ15回戦(後楽園球場)、1回裏に杉町攻から右越2ラン ※史上31人目
  • 150本塁打:1965年8月8日、対西鉄ライオンズ15回戦(平和台球場)、4回表に池永正明から2ラン ※史上20人目
  • 1000本安打:1966年5月10日、対近鉄バファローズ2回戦(後楽園球場)、2回裏に佐々木宏一郎から ※史上57人目
  • 1000試合出場:1966年8月26日、対南海ホークス19回戦(明治神宮野球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上117人目
  • 200本塁打:1967年5月31日、対近鉄バファローズ7回戦(日生球場)、2回表に徳久利明から中越ソロ ※史上11人目
  • 250本塁打:1969年6月5日、対阪急ブレーブス8回戦(後楽園球場)、6回裏に佐々木誠吾から左越ソロ ※史上8人目
  • 1500本安打:1969年8月31日、対ロッテオリオンズ19回戦(東京スタジアム)、2回表に金田留広から三塁前バントヒット ※史上25人目
  • 1500試合出場:1970年9月24日、対阪急ブレーブス19回戦(阪急西宮球場)、3番・左翼手で先発出場 ※史上35人目
  • 300本塁打:1971年4月24日、対南海ホークス2回戦(後楽園球場)、1回裏に皆川睦雄から右越ソロ ※史上5人目
  • 3000塁打:1971年5月12日、対南海ホークス5回戦(大阪球場)、6回表に三浦清弘から右越ソロ ※史上8人目
  • 1000打点:1971年6月8日、対西鉄ライオンズ7回戦(平和台球場)、2回表に河原明から右前適時打 ※史上8人目
  • 1000得点:1972年7月16日、対ロッテオリオンズ16回戦(東京スタジアム)、8回表に池田重喜から右越場外3ラン ※史上9人目
  • 2000本安打:1972年8月19日、対西鉄ライオンズ20回戦(平和台球場)、4回表に東尾修から左前安打 ※史上7人目(32歳2か月での到達は歴代2位の若さ、1733試合目での到達は歴代3位の速さ)
  • 350本塁打:1972年9月8日、対ロッテオリオンズ24回戦(後楽園球場)、8回裏に成田文男から左中間へ2ラン ※史上5人目
  • 3500塁打:1973年4月22日、対近鉄バファローズ1回戦(日生球場)、9回表に板東里視から右越ソロ ※史上7人目
  • 300二塁打:1974年4月24日、対近鉄バファローズ前期2回戦(後楽園球場)、1回裏に太田幸司から右中間二塁打 ※史上12人目
  • 2000試合出場:1974年8月29日、対太平洋クラブライオンズ後期8回戦(明治神宮野球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上9人目
  • 400本塁打:1975年4月20日、対ロッテオリオンズ前期5回戦(川崎球場)、7回表に村田兆治から右越逆転決勝3ラン ※史上4人目
  • 300盗塁:1975年4月27日、対阪急ブレーブス前期7回戦(阪急西宮球場)、6回表に二盗(投手:大石弥太郎、捕手:中沢伸二) ※史上15人目
  • 4000塁打:1975年5月18日、対阪急ブレーブス前期9回戦(徳島県鳴門総合運動公園野球場)、8回裏に山田久志から左中間二塁打 ※史上5人目
  • 2500本安打:1976年6月10日、対阪神タイガース8回戦(後楽園球場)、5回裏に上田卓三から中前安打 ※史上2人目(2185試合目での達成は最速記録)
  • 350二塁打:1976年7月6日、対広島東洋カープ15回戦(後楽園球場)、4回裏に池谷公二郎から右前二塁打 ※史上9人目
  • 4500塁打:1977年5月29日、対阪神タイガース9回戦(阪神甲子園球場)、4回表に谷村智啓から一塁前バントヒット ※史上3人目
  • 450本塁打:1977年7月20日、対中日ドラゴンズ13回戦(後楽園球場)、2回裏に星野仙一から右越ソロ ※史上3人目
  • 1500打点:1977年9月3日、対ヤクルトスワローズ23回戦(後楽園球場)、8回裏に佐藤博から右越ソロ ※史上4人目
  • 2500試合出場:1978年9月28日、対広島東洋カープ26回戦(後楽園球場)、5番・左翼手で先発出場 ※史上3人目
  • 400二塁打:1979年5月25日、対横浜大洋ホエールズ8回戦(横浜スタジアム)、8回表に佐藤政夫から左翼線二塁打 ※史上5人目
  • 5000塁打:1980年4月30日、対西武ライオンズ前期6回戦(宮城球場)、1回裏に東尾修から右前安打 ※史上3人目
  • 3000本安打:1980年5月28日、対阪急ブレーブス前期11回戦(川崎球場)、6回裏に山口高志から右越2ラン ※史上初
  • 1500得点:1980年9月5日、対阪急ブレーブス後期8回戦(阪急西宮球場)、5回表にレオン・リーの適時二塁打で生還 ※史上3人目
  • 500本塁打:1980年9月28日、対近鉄バファローズ後期10回戦(川崎球場)、1回裏に偵察要員・安木祥二の代打で出場、久保康生から右越2ラン ※史上3人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:18回(1960年 - 1964年、1966年 - 1978年)※1965年にも選出されているが、前述のトラブルにより出場を辞退。
  • 日本シリーズ通算打率:.370(73打数27安打)※70打数以上では歴代1位
  • サイクルヒット:1961年5月7日、対近鉄バファロー7回戦(駒沢野球場) ※史上19人目
  • 通算猛打賞:251回 ※日本記録(日米通算ではイチローが上回る)
  • 通算1676打点 ※打点王を獲得していない選手の中では史上最多
  • 通算1523得点 ※最多得点を記録していない選手の中では史上最多
  • 通算打率3割・3000本安打以上・500本塁打・300盗塁 ※史上唯一(世界史上ではウィリー・メイズと張本の2人のみ)

背番号[編集]

  • 10 (1959年 - 1981年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『バット一筋:張本勲自伝』(講談社、1976年)
  • 『張本勲の実戦打撃論』(スポーツニッポン出版、1982年1月)ISBN 4-79-031004-3
  • 『暴れん坊の人間学:個性を伸ばすリーダーの器量』(実業之日本社、1982年9月)
  • 『勇気をもってぶつかれ:生きる技術・闘う技術とは』(日本経営指導センター、1983年7月)
  • 『闘魂のバット:3000本安打への道』(ベースボール・マガジン社、1991年7月)ISBN 4-06-206796-X
  • 『最強打撃力:バットマンは数字で人格が決まる』(ベースボール・マガジン社、2008年9月)
  • 『イチロー論:一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』(青志社、2009年9月) ISBN 4-90-385370-5
  • 『プロ野球への伝言:野球愛 野球の誇り ベースボールの奢り』(日之出出版、2009年12月)ISBN 978-4-89198-132-7 C0075
  • 『ON論:リーダーの器量』(青志社、2010年)ISBN 4-90-385386-1
  • 『張本勲 もう一つの人生:被爆者として、人として』(新日本出版社、2010年5月)
  • 『原辰徳と落合博満の監督力』(青志社、2011年1月)
  • 『斎藤佑樹 脳内力』(青志社、2011年3月)
  • 『プロフェッショナル: 真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55』(日之出出版、2013年10月 ISBN 978-4-89198-142-6 C0034

関連書籍[編集]

  • 『張本勲:不屈の闘魂』(大島幸夫著、スポーツニッポン新聞社出版局、1976年)
  • 『鉄人バットマン:張本勲物語』(半田威生原作、林ひさお画、地産出版、1976年)
  • 『ネバー・ギブアップ:負けてたまるか!張本勲物語』(許英万著、鈴木福男訳、みくに書房、1990年2月、ISBN 4943850308
  • 『張本勲』(永島直樹原作、中島昌利画、ぎょうせい(名球会comics)、1992年12月、ISBN 4324026483
  • 『誇り:人間張本勲』(山本徹美著、講談社、1995年5月、ISBN 4-06-206796-X

新聞連載[編集]

出演番組[編集]

出演映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『プロ野球人名事典2003』(「本名・張勲」と表記。読みがな・ハングル表記については明記されず)。
  2. ^ a b 『週刊 御意見番』コーナーのページ - TBS『サンデーモーニング』公式サイト内
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 人は幸せへ切磋琢磨を ~張本勲さん古里広島で語る~
  4. ^ a b 『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』
  5. ^ a b クメピポ! 絶対あいたい1001人』、毎日放送、2009年7月15日
  6. ^ 澤宮優『プロ野球残侠伝―サムライ達のいる風景』パロル舎、2009年、p25-26
  7. ^ 核廃絶訴える張本氏が始球式「魂を感じて投げました」 スポニチ
  8. ^ a b c d 毎日新聞、2008年8月2日、13頁。読売新聞、2007年8月4日、21頁。
  9. ^ 新潮45新潮社、2009年1月号、148-154頁
  10. ^ 張本勲氏 壮絶半生語る!NHK・BSハイビジョン9・3放送 ― スポニチ
  11. ^ 吉田豪『男気万字固め』エンターブレイン、2001年、p105-106
  12. ^ 張本の兄がタクシーの運転手だったため、使えなくなったタイヤを譲ってもらっていた(『別冊宝島 1339 プロ野球無頼派選手読本』より)。
  13. ^ 幼い頃に父を亡くした張本に取っては兄は絶対的な存在であり、また浪商に転校する際にも多大な経済的な援助を受けていた。
  14. ^ 自著「最強打撃力 バットマンは数字で人格が決まる」
  15. ^ Vシネマにもなった山本の自伝的著書『浪商のヤマモトじゃ!』(南風社、2002年)では、張本に関する数々のエピソードがフィクションも交えて紹介されている。
  16. ^ a b 大島裕史著 『韓国野球の源流』 新幹社、2006年、p154頁
  17. ^ a b c 張本 勲|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2
  18. ^ サンデー毎日毎日新聞社、1975年12月14号、153頁
  19. ^ 「安打製造機」の異名は、張本以前には榎本喜八が取っており、1990年代以降ではイチローがそう呼ばれることがある。
  20. ^ 1973年から1982年まで、パ・リーグでは前後期制を採用していた。
  21. ^ a b c 『イチロー論 一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』青志社、2009年
  22. ^ 張本氏「寂しいよ。あんちゃん」昭和の侍が、また1人消えた…
  23. ^ 週刊ベースボール2009年6月8日号17頁
  24. ^ 1940年=昭和15年
  25. ^ 2009年にシアトル・マリナーズのイチローが日米通算3086安打を記録し、日本メディアは「日本記録更新」と報道したが、NPBでは日本記録と認められておらず、NPBの最高責任者である加藤良三プロ野球コミッショナーも張本の3085安打が日本記録だと明言している(『週刊現代』2009年5月9日号、講談社)。
  26. ^ 2001年9月まで、ラジオ・テレビ兼営放送局であったが、10月にラジオを子会社として分離、2009年4月には持株会社化(東京放送ホールディングスへの社名変更)に伴いテレビも子会社として分離(TBSの略称もTBSテレビに継承)された。
  27. ^ 参考:
    • 『プロ野球選手カラー名鑑2007』
    • 『週刊ベースボール』プロ野球全選手写真名鑑(2009年版のみ解説者・評論家名鑑は未掲載)
    • 『12球団全選手カラー百科名鑑』(2011年版まで)
    • 『別冊宝島 プロ野球選手データ名鑑』(2010年版以降にテレビ・ラジオ解説者一覧を掲載)
    • 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』
  28. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2012』(2012年、廣済堂出版)ISBN 4331801934
  29. ^ 東京スポーツ、2009年1月14日、3頁
  30. ^ a b 記 念 講 演 誇り~胸を張って歩んだ道のり~
  31. ^ a b c 下田武三『プロ野球回顧録』ベースボール・マガジン社、1988年、p121-124、165-168
  32. ^ a b スポーツニッポン、2009年3月25日、5頁
  33. ^ a b c 高橋安幸『伝説のプロ野球選手に会いに行く2』白夜書房、2009年、P106 - 107
  34. ^ 文春ビジュアル文庫「豪打列伝」文藝春秋社
  35. ^ 水原茂監督曰く「点を取るゲームではなく点を取らせないゲームにしたいため、守備のうまい選手が必要だった」という
  36. ^ 朝日新聞2013年10月7日夕刊『人生の贈りもの―張本勲』
  37. ^ 原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では岩本義行も交付を受けている。
  38. ^ a b 『男気万字固め』p96-97
  39. ^ a b 『男気万字固め』p92
  40. ^ 『闘技場の人』佐山一郎、河出書房新社、1992年12月、205頁
  41. ^ 週刊アサヒ芸能 2012年9月6日号、76頁
  42. ^ 野村克也『プロ野球重大事件 誰も知らない”あの真相”』 (2012/02 角川書店)
  43. ^ 実力のパ? 野球入魂 - Digital PENTA
  44. ^ S☆1』、TBS、2014年5月19日放送
  45. ^ a b c d e f g h i 日本プロ野球事件史―1934ー2013、2013年、ベースボール・マガジン社、P86
  46. ^ 『男気万字固め』p120-121
  47. ^ 当時は年齢による衰えと思われていた。後に視野は回復した。
  48. ^ 実際は読売ジャイアンツの原辰徳が監督に就任し、日本代表を連覇に導いている。
  49. ^ ただし、力道山が生まれ育ったのはのちの朝鮮民主主義人民共和国である。
  50. ^ 『力道山がいた』、朝日新聞社村松友視、2000年3月、306ー308頁
  51. ^ a b 『男気万字固め』p112-113
  52. ^ 船戸与一対談集「諸士乱想」p16
  53. ^ 張本氏と衝突? 江川紹子氏が出演見合わせ TBS「サンデーモーニング」産経新聞2010年6月18日(リンク先は、インターネットアーカイブ2010年6月21日付保存キャッシュ)
  54. ^ デイリースポーツ2010年8月2日
  55. ^ 張本vs江川「サンデーモーニング降板騒動」 - 『東スポWEB』2010年5月19日付(『東京スポーツ』2010年5月20日付)
  56. ^ 厳密には、所有権を持つ東急ベースボール倶楽部株式会社(東京急行電鉄子会社)から運営権を受託された東映興業株式会社。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]