斉藤和巳

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斉藤 和巳
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市南区
生年月日 1977年11月30日(37歳)
身長
体重
192 cm
97 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト1位
初出場 1997年10月5日
最終出場 2007年9月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 福岡ソフトバンクホークス (2011 - 2013)

斉藤 和巳(さいとう かずみ、1977年11月30日 - )は、京都府京都市南区出身の元プロ野球選手投手)。現役時代は、福岡ダイエーホークス福岡ソフトバンクホークスに所属していた。

1996年から1999年までの登録名は「カズミ」。ダイエー時代の2003年パシフィック・リーグの投手関連のタイトルをほぼ独占するほどの活躍を見せたが、2006年頃から右肩を痛めたため、ソフトバンク時代の2011年からは支配下選手登録を外れた。これを機に、チームに残ったままリハビリ担当コーチを務めながら現役復帰を目指すも、2013年7月に復帰を断念することを表明。同月31日付で退団した[1]

現在の妻は、タレントスザンヌ2014年からは、福岡を拠点に、TVQ九州放送野球解説者西日本スポーツの専属評論家として活動する。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1977年に京都府で誕生。1995年に南京都高等学校からドラフト1位指名で福岡ダイエーホークスへ入団。当時は長谷川昌幸星野智樹とともに「ビッグ3」と呼ばれていた。

プロ入り後[編集]

1997年に1軍初登板を果たすも肩関節不安定症で故障も多かった。

1998年に右肩を手術した。一時は球団から打者転向を打診され、二軍戦では代打で打席に立ち、左翼手として出場したこともあるが、これを固辞して投手にこだわり続けた。

2000年6月24日千葉ロッテマリーンズ12回戦(福岡ドーム)でプロ初勝利。この試合では斉藤と同時期に肩を手術し、病院では隣の病室に入院していた小久保裕紀が先制本塁打を放ち、共にヒーローインタビューを受けた。さらにこの試合では史上7人目となる「1イニング4奪三振」も記録。この年は5勝を挙げ、そのうち4勝は後半戦で挙げたが、日本シリーズでの先発登板は無かった。この活躍で翌年のエース候補に上がったが、原因不明の右肩痛が再発して離脱し、勝利を挙げられなかった。

2002年8月10日大阪近鉄バファローズ戦で2年ぶりの勝利を挙げ、シーズン4勝を挙げた。若菜嘉晴はこの年の斉藤を「打たれても粘る、大人のピッチングを出来るようになった」と評価した。

2003年3月28日のロッテ戦で初の開幕投手を務め、勝利投手となる。その後はいずれもプロ野球新記録(当時)となる先発登板16連勝および登板試合15連勝(勝敗の付かない試合を挟まない連勝)を記録するなど、パ・リーグでは1985年の佐藤義則以来となる20勝(3敗)を記録。最多勝最優秀防御率最高勝率ベストナイン沢村賞などのタイトルを総なめにした。前年までは右肩の怪我で通算9勝しか挙げられなかったが、この年の活躍で大きく成長、チームも日本一に輝くなど最高のシーズンを送った。この年は同じく20勝を挙げてセ・リーグ優勝に貢献した井川慶と共に、史上初となる「両リーグで沢村賞投手同時選出」となった。また、両リーグから20勝投手が出たのは1982年の北別府学工藤幹夫以来だった。また、投球回・自責点とも松坂大輔と全く同じで、こちらも史上初の最優秀防御率同時受賞となった。この年、優勝争い最大のライバルとしていた西武から6勝を挙げたほか、松坂との投げ合いでは3戦全勝とエース対決の強さも見せた。

2004年の3月27日の開幕戦では勝利投手となった[2]。序盤には2軍落ちも経験したものの、8月27日の西武戦でホークスでは村田勝喜以来の2年連続二桁勝利を達成した[3]。その後は4試合に登板したものの勝ち星を挙げることができず、勝利数は前年の2分の1となる10勝(6敗)に終わった。更に1試合に9失点した試合が三度もあったこと等もあり、規定投球回に達した選手ではプロ野球ワースト記録となる防御率6.26を記録した(1937年の秋に重松通雄が防御率7.20を記録しているが、当時はチーム順位・個人記録とも1年2シーズン制を採用していた)。

2005年のキャンプ中に既に開幕投手に指名されていたものの、開幕直前に右肩痛で離脱、開幕投手を和田に譲った。4月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦でシーズン初登板し、勝利。その後も破竹の勢いで勝ち星を重ね、8月24日のロッテ戦で自身2度目の14連勝を達成、プロ野球史上初となる「14連勝以上を複数回達成した投手」となった。8月31日のロッテ戦では1981年間柴茂有に並ぶプロ野球タイ記録となる開幕15連勝を記録[4]。キャリアで15連勝以上を二度記録したのは日本プロ野球初だった[4]。8月は5勝0敗で、8月度月間MVPを受賞[4]。しかし9月7日のオリックス・バファローズ戦では5回3分の1を投げ8失点を喫し敗戦投手となり、連勝はストップし、2点台前半を誇っていた防御率も2点台後半に転落。その後は1勝(0敗)を挙げ、シーズン通算では16勝1敗で2度目の最高勝率を獲得。防御率も2.92と2点台でシーズンを終えた。プレーオフでは第2ステージの第2戦に先発し[5]、5回まで無失点に抑え[5]、毎回の7奪三振を記録した[5]が、6回に3点を失い[5]、黒星がついた[6]。最終戦にはブルペン待機した[7]が出番は無く、チームも逆転負けを喫し、優勝を逃した。12月24日、ホークスの投手としては初の複数年となる、3年7億5000万円+出来高で契約更改した。

2006年、選手会長に就任[8]2段モーションの規制が厳しくなり、ワールド・ベースボール・クラシックの選考から外れて調整に努め、これに抵触しない投球フォームに変更。3月26日のロッテ戦で3度目の開幕投手を務め、8回2失点で勝利投手となった[8]。5月23日の試合後には王から「優勝する気はあるのか!選手会で意見をまとめてこい!」と檄を飛ばされた[8]。5月26日の中日ドラゴンズ戦で完封勝利を挙げ、交流戦で対戦した他リーグの全6球団から勝利した最初の投手となった。6月8日の読売ジャイアンツ戦では、脇谷亮太に投手内野安打を許しただけの、自身初となる無四球1安打完封勝利を挙げた。また、この試合では脇谷を牽制でアウトとしたため、打者27人で終了させる準完全試合を達成。王貞治に「ピッチングの神様が乗り移ったようだった」と言わしめた[9]。8月には2連続完封も含め5勝を挙げ、月間MVPを受賞。チームは3位に終わったが、勝利数・防御率・奪三振・勝率の投手四冠を達成、完封数もリーグトップで、1981年の江川卓以来2リーグ分立後4人目となる投手五冠を達成した(1リーグ時代を合わせると日本プロ野球史上7人目)。2度目のベストナインに選ばれ、MVP投票でも1位票数では受賞した小笠原道大を上回った。満場一致で2度目の沢村賞にも選ばれ、パ・リーグ初となる沢村賞複数回獲得投手となった(投手六冠)。この年の防御率1.75は、パ・リーグでは1992年の赤堀元之石井丈裕以来14年振り。この年は黒田博樹も防御率1.85を記録し、両リーグから防御率1点台の投手が出たのは、1969年の江夏豊木樽正明以来37年振りだった。このシーズンの捕手は山崎勝己が台頭したが、斉藤が先発する試合には的場直樹が捕手として出場した。斉藤・的場のバッテリーは、同年の最優秀バッテリー賞に選ばれた(パ・リーグで同い年バッテリーによる受賞は、前年の渡辺俊介里崎智也以来、史上2組目。両バッテリーとも28歳で開幕を迎えた)。プレーオフでは、10月7日の西武・第1ステージ第1戦、10月12日の日本ハム・第2ステージ第2戦に先発。右肩に不安を抱える斉藤の中4日登板は2000年以来のことだったが、チームはそれぞれ松坂、八木智哉に完封負けを喫した。2試合16回2/3で2失点(防御率1.08)という内容ながら、いずれも0-1で完投敗戦に終わり、サヨナラ負けを喫した日本ハム戦ではマウンドに片膝をつき涙を流した[10]。この試合は2010年に実施された「現役監督・選手・コーチが選ぶ最高の試合Best9」の3位に、同「名場面・名勝負Best10」の5位にランクインした。この年の日米野球には監督推薦で出場予定だったが、右肩の炎症のために辞退した。

2007年3月24日のオリックス戦で、昨年に続き2年連続4度目の開幕投手を務めるも勝敗は付かず、チームは敗れた。その後も調子が上がらず、4月26日に右肩の筋疲労で2軍落ちとなった。7月10日に再昇格し、同日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に登板するも敗戦投手となった。7月24日のロッテ戦にて後半戦の開幕投手として登板、勝利投手となる。中10日以上、7回もしくは100球という限定登板ながら、オールスター明けは5勝1敗とチームを救い[11]、時にはベンチに入り盛り上げ役にも徹した[11]。10月8日のクライマックスシリーズ第1戦に先発したが、4回5失点で敗戦投手となった[12]。ポストシーズン10試合目の登板だったが初勝利はならず、チームも第1ステージで敗退した。後に斉藤はこの2007年について、何十球投げたらもう感覚がなく、登板後は歩いて腕を振っているだけで亜脱臼という状態だったこと等を明かしている[13]

2008年春に渡米して右肩腱板修復手術を行う。この年はリハビリに専念してシーズンを全休、9月に帰国してチームを裏から支え、翌年の開幕投手を狙うと宣言した。前年に沢村賞を獲得し、この年も球界トップクラスの成績を残したダルビッシュ有は契約更改で「今年(2008年)は、個人的には戦って面白い投手がいなかった。でも来年はソフトバンクの斉藤さんが帰ってくるから、今から非常に楽しみ」と発言していたが、斉藤の右肩の回復は思わしくない。

2009年も全休。

2010年2月には3度目となる右肩手術を受け、2010年も実戦登板無しに終わった。3月17日には写真週刊誌のフライデータレントスザンヌとの交際が報じられた。斉藤はフライデーの取材に対し、「彼女は大事な人です」と交際を認めたが、故障でシーズンを全休している選手が週刊誌に交際報道されるという事態を重く見られ、球団から厳重注意処分を受けた[14]

リハビリ担当コーチ時代[編集]

2011年支配下選手登録を解き、1月1日付で「3軍リハビリ担当コーチ」としてコーチ契約を結ぶこととなった[15]。日本野球機構の登録上は自由契約扱いとなるが[16]、本人は引き続き現役復帰を目指したリハビリを続け、球団も復帰が可能となった時点で選手契約を再締結する方針を示し、背番号も当面「66」のまま変更されない。12月1日にはスザンヌとの再婚を発表した[17]

2012年には打撃投手を務めるなど、順調な回復を見せていたが、2013年7月29日に記者会見を開き、「肩を手術することを決断した際には、ただ一軍で投げるだけでなく戦力になるつもりでいた。しかし、2013年7月になって一軍の戦力になるイメージが出来なくなった」として現役への復帰を断念し、7月31日付で球団を退団[18][1]。これを以って、プロ野球を引退した。

引退後[編集]

現在は、TVQ九州放送の野球解説者[19]、西日本スポーツの専属評論家を務める。

選手としての特徴[編集]

初回でもアウト一つを奪うたびに吼えるなど、気持ちを全面に押し出すピッチングで、オーバースローから平均球速約144km/h[20]、最速152km/hのストレートスライダー、緩やかなカーブ、2種類のフォークボールを武器とし[21]、稀にカットボールチェンジアップも交えた[22]

長身ながら投球フォームは重心が低いため角度はないが、バランスの良い下半身主体のフォームで打者の距離感を惑わした[23]。決め球に使う高速フォーク(SFF)は平均球速139km/h、最速146km/hを誇り[24]、フォークでの奪空振り率はリーグ平均を10パーセント近く上回った[20]山崎武司は最高のフォークを投げる投手として斉藤の名を挙げている[25]

通算23敗(79勝)、通算勝率.775を誇る「負けないピッチャー」[26]、「負けないエース」[8]と称された。2005年に新設された交流戦では、通算12試合の登板で10勝1敗、防御率1.89と強い一方で、ポストシーズンでは通算10試合の登板で0勝6敗と結果を残せていない[26]

事あるごとに「自分のことはどうでもいい。チームが勝てばそれでいい」旨の台詞を発言し、またヒーローインタビューでは「チームの勝利を優先して投げている」が口癖だった勝利至上主義者。試合展開に合わせたゲームプランで試合を支配していた[8]

2006年に最優秀バッテリー賞を受賞した的場直樹とのバッテリー結成は斉藤本人が決めたわけではなく、成績がいいためにバッテリーが成立したと明かしている[27]

評価[編集]

落合博満は著書で「ホークスの斉藤和巳という投手は非常に高い能力を持ちながら、故障や制球難でなかなか一軍に上がれないでいる。こういう場合は殻を破らせるよう、トレードをするなどして環境を変えてあげたほうがいいと思う」と著し[28]、沢村賞を獲得する活躍を見せた後も「斉藤こそが球界で最も優秀な投手。斉藤和巳がいる限り、日本球界はなんとか保つ」と高く評している[26]

現役時代斉藤とチームメイトだった大道典良は「和巳が投げるというだけで、チームには安心感があった。」「成績はもちろんだけど、和巳は普段の練習から一生懸命やっている姿がとても印象的だった。」などと語っている[29]鳥越裕介は「良いピッチャーは多いけど、一球にかける思いの強さで群を抜いている。後ろで守っていてそれを実感した」と語っている[30]クリストファー・ニコースキーも「来日してから目を見開かされるような選手を見たわけじゃないが、斉藤は例外」と語り[31]、2007年にESPNの「ベースボール国際化時代の主役候補10人」にも選ばれるなど、国外からも高い評価を得ていた[31]

坪井智哉は特に印象に残っている投手について斉藤を挙げている。「マウンド上に立っている斉藤は背後に何かが見える感じ。」「彼がどのような気持ちで投げていたか分からないですけど、すごく伝わるものがありました。あんなにマウンド上で大きく、近く感じた投手はいません。」「味方が点を取らなくても、自分が点を取られない。0対0の試合展開でも、最終的に1対0で勝つ。特に沢村賞を獲得したシーズンは凄かったですね」などと語っている[32]

週刊ベースボール実施の『球界200人が選ぶ歴代投手ランキング』では2位に選出されている[30]

人物[編集]

自身の登板について「点を許さないのがエース。味方が点を取ってくれるまでいかに粘れるかで、ナインに信頼される。そうでなくてはエースじゃない。点を取れないのだったら、取ってくれるまで我慢を続けて0点に抑えればいい」という持論を持つ[33]

背番号を入団以来66のまま変更しなかったのは、当時の夫人(2006年に離婚)と共に自身を支えてくれた彼女の祖父の葬儀で背番号66のユニフォームを着せたことがあり、「背番号を変えたら天国から見ているじいちゃんが俺だと分からなくなる」ためだという[26]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1997 ダイエー
ソフトバンク
1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 6 0.2 2 0 1 0 1 1 0 0 2 2 27.00 4.50
1998 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 3.2 6 0 3 0 1 1 0 0 3 3 7.36 2.45
1999 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 6 1.0 1 0 0 0 1 3 1 1 2 2 18.00 1.00
2000 22 16 0 0 0 5 2 0 -- .714 399 89.1 92 9 46 0 1 77 10 1 44 41 4.13 1.54
2001 7 3 1 0 0 0 1 0 -- .000 104 22.1 28 4 11 1 1 16 1 0 11 11 4.43 1.75
2002 10 10 0 0 0 4 1 0 -- .800 282 70.1 53 4 21 0 3 63 3 0 24 23 2.94 1.05
2003 26 26 5 1 1 20 3 0 -- .870 801 194.0 174 19 66 3 8 160 4 0 62 61 2.83 1.24
2004 22 22 3 1 0 10 7 0 -- .588 612 138.0 139 22 59 3 6 120 6 0 100 96 6.26 1.43
2005 22 22 4 1 1 16 1 0 0 .941 636 157.0 135 14 41 0 10 129 5 0 54 51 2.92 1.12
2006 26 26 8 5 3 18 5 0 0 .783 790 201.0 147 10 46 3 8 205 2 0 50 39 1.75 0.96
2007 12 12 0 0 0 6 3 0 0 .667 297 72.1 64 3 25 0 3 71 2 0 22 22 2.74 1.23
通算:11年 150 137 21 8 5 79 23 0 0 .775 3952 949.2 841 85 319 10 43 846 34 2 374 351 3.33 1.22
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
打撃記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 66 (1996年 - )

登録名[編集]

  • カズミ (1996年 - 1999年)
  • 斉藤 和巳(さいとう かずみ) (2000年 - )

出演[編集]

CM[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 斉藤和巳氏 王会長らにあいさつ 今後は「ゴルフとペン習字を習いたい」スポーツニッポン2013年8月2日配信
  2. ^ 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日、41頁、雑誌07915-1。
  3. ^ 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボールマガジン社出版 発行日2005年1月1日、40頁、雑誌07915-1。
  4. ^ a b c 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2005年、61頁。ISBN 4-7973-3331-6
  5. ^ a b c d 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2005年、16頁。ISBN 4-7973-3331-6
  6. ^ 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2005年、17頁。ISBN 4-7973-3331-6
  7. ^ 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2005年、27頁。ISBN 4-7973-3331-6
  8. ^ a b c d e 『激闘!!逆襲の予感 HAWKS 2006』 西日本新聞社、2006年、29頁。ISBN 4-8167-07-07-7
  9. ^ 月刊ホークス2006年11月号、P11
  10. ^ 『応援ありがとう!2006福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』 ソフトバンククリエイティブ、2006年、29頁。ISBN 4-7973-3840-7
  11. ^ a b 『福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡2007』 ソフトバンククリエイティブ、2007年、67頁。ISBN 978-4-7973-4385-4
  12. ^ 『福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡2007』 ソフトバンククリエイティブ、2007年、7頁。ISBN 978-4-7973-4385-4
  13. ^ 斉藤和巳 ~ リハビリ担当コーチで ”再出発” ~」夢空間スポーツ
  14. ^ http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2010/03/18/01.html スポニチ 2010年03月18日
  15. ^ ソフトバンク・斉藤、リハビリ担当コーチに - 読売新聞・2010年11月5日
  16. ^ 2010年度 自由契約選手 - 日本野球機構
  17. ^ “スザンヌ結婚! ソフトバンク・斉藤和巳コーチと”. 産経新聞. (2011年12月2日). http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/111202/ent11120208330010-n1.htm 2011年12月2日閲覧。 
  18. ^ 【ソフトB】斉藤和巳 涙の復帰断念会見 日刊スポーツ 2013年7月29日閲覧
  19. ^ 斉藤和巳氏が来季からプロ野球解説者に日刊スポーツ 2013年11月15日
  20. ^ a b 『週刊プロ野球データファイル』39号、ベースボール・マガジン社、雑誌27204-1/23、13-14頁。
  21. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2007』 アスペクトムック、2007年、90-91頁。ISBN 978-4-7572-1338-8
  22. ^ The Book on Kazumi SaitohScouting book
  23. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクトムック、2008年、335頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  24. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年、41頁。ISBN 978-4-86191-246-7
  25. ^ オレが驚いた魔球たち 日本プロ野球編『Sportiva』2008年7月号、集英社、雑誌15515-07、55頁。
  26. ^ a b c d 斉藤和巳-投球フォーム連続写真-qoonin Sports
  27. ^ 的場②⑥斉藤和巳オフィシャルブログ、2009年10月4日
  28. ^ 落合博満著、コーチング―言葉と信念の魔術、ダイヤモンド社 2001年、P45
  29. ^ 負けない投手 斉藤和巳[元ソフトバンク] 週刊ベースボールONLINE、2014年11月10日閲覧。
  30. ^ a b 2位~4位 斉藤和巳、野茂英雄、田中将大] 週刊ベースボールONLINE、2014年11月10日閲覧。
  31. ^ a b アメリカではどう評価されているのか? 日本プロ野球の“実力”『月刊スラッガー』2007年7月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-7、30-31頁。
  32. ^ 週刊ベースボール、2014年11月17日号、P41-46
  33. ^ 【敗れざるエース】斉藤和巳 242球、報われず永谷修「SPECIAL FEATURES」、Numbew Web、2006年10月26日。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]