明治神宮野球場
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| 明治神宮野球場 Meiji Jingu Stadium |
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|---|---|
| 施設データ | |
| 所在地 | 東京都新宿区霞ヶ丘町3番1号 |
| 起工 | 1925年12月 |
| 開場 | 1926年10月23日 |
| 所有者 | 明治神宮 |
| グラウンド | ロングパイル人工芝 |
| ダグアウト | ホーム - 一塁側 ビジター - 三塁側 |
| 照明 | 照明塔 - 6基 照度 投捕間3000Lx 内野2300Lx 外野1700Lx |
| 建設費 | 53万円 |
| 設計者 | 小林政一 |
| 旧称 | STATESIDE PARK(1945年 - 1952年) |
| 使用チーム • 開催試合 | |
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| 収容能力 | |
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35,650人 (内野:-席、外野:-席)
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| グラウンドデータ | |
| 球場規模 | グラウンド面積:12,659m² 両翼 - 101 m(約331.4 ft) 中堅 - 120 m(約393.7 ft) |
| フェンス | 3.5 m (約11.48 ft) ラバーフェンス:2.0 m 金網フェンス:1.5 m |
| 明治神宮第二球場 Meiji Jingu Sub Stadium |
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|---|---|
| 施設データ | |
| 所在地 | 東京都新宿区霞ヶ丘町3番2号 |
| 開場 | 1964年 |
| 所有者 | 明治神宮 |
| グラウンド | 人工芝 |
| 設計者 | 不明 |
| 使用チーム • 開催試合 | |
| 東都大学野球連盟(2部) | |
| 収容能力 | |
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5,600人
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| グラウンドデータ | |
| 球場規模 | 両翼 - 91 m(約298.6 ft) 中堅 - 116 m(約380.6 ft) |
| フェンス | 不明 |
明治神宮野球場(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、日本の東京都新宿区霞ヶ丘町・明治神宮外苑の一角にある野球場。通称は神宮球場(じんぐうきゅうじょう)。宗教法人「明治神宮」が所有している。
目次 |
[編集] 概要
東京六大学野球連盟のリーグ戦開催球場として1926年に開場以来、アマチュア野球においては大学野球の主要球場として長年使用され、六大学野球のほか東都大学野球1部リーグ及び入れ替え戦を中心に今日まで使用されている。
他にも高校野球の東東京大会及び西東京大会や全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会の他、社会人野球(JABA東京スポニチ大会。過去には都市対抗野球大会も)など多くのアマチュアの大会が開催されている。日本国内では阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とうたわれる野球場である。
アマチュア専用として初期はプロ野球公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在では東京ヤクルトスワローズが専用球場(本拠地球場)として使用している。
[編集] 歴史
[編集] 建設から戦中まで
神宮球場が完成したのは東京六大学野球連盟が結成された翌年の1926年である。明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(現在は国立霞ヶ丘陸上競技場に改築)などの運動施設が建造されるなか建設された。当時の金額で総工費は53万円、うち明治神宮奉賛会が48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。この事が後述の学生野球の優先使用権につながっている。敷地造成工事に着手したのは1925年12月で、翌1926年1月に起工式、10月23日に竣功式が行われ、昭和天皇(当時は摂政宮)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、1927年からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。
早慶戦などで収容能力に不足が見られたため1931年には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。公称収容人数は31,000人から58,000人(一説には55,000人、実数としては48,785人とも言われる)に増えている。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。
1938年には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。1945年には空襲による火災も起こり、一部が崩れ落ちた。終戦後はアメリカ軍により接収され、進駐軍専用球場にされることとなり、「STATESIDE PARK」(ステイト・サイド・パーク)と名付けられた。
[編集] プロ球団の本拠地へ
神宮の管理を離れたものの、アメリカ軍の計らいにより1945年には東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われた。1946年からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。
1946年5月から6月にかけ修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。この時期には球場初のプロ野球公式戦、全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球日本選手権シリーズ第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていたが、1950年秋季より全試合での開催を認められている。ただし接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年3月のことである。接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列にテレビ放送席が新設されている。1962年には相撲場跡地に第2球場が完成した。
1962年からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始し、次いで1964年に後楽園球場から国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転している。これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は後述)。
[編集] 相次ぐ改修
1967年にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどを取り入れられている。近年では収益を優先する動きもあり、従来消極的だったフェンス広告を取り入れ、コンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。また収益の高いプロ野球を、人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあり、優先度の変化もあるが学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は後述)。2007年11月24日からは大規模な改修工事を実施し、2008年3月6日に竣工式が行われた。スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。総工費は約15億円。
[編集] 年表
- 1926年 10月に完成。東京六大学野球連盟の使用開始。
- 1927年 米ニグロ・リーグ選抜との日米親善試合が行われる。ビズ・マッキーが球場初の本塁打を放った。またこの年より1937年まで都市対抗野球大会が開催された。
- 1931年 スタンド増築工事竣工。
- 1932年 東都大学野球連盟の使用開始。
- 1934年 日米親善大会として行われたアメリカ大リーグ選抜チームと全日本チーム(読売ジャイアンツの原型)の対戦でプロが初めて神宮球場を使用。
- 1943年 東京六大学と東都が解散。リーグ戦中断。
- 1945年 空襲により一部損壊。終戦後にアメリカ軍に接収され、「STATESIDE PARK」(ステイト・サイド・パーク)と改称される。
- 1946年 修復工事実施。内野天然芝・照明設備完成。秋季シーズンより東京六大学の使用再開。
- 1948年 プロ野球公式戦初試合(金星スターズ対中日ドラゴンズ)と大学野球王座決定戦(第2回、以降1951年まで)開催。
- 1950年 第1回日本シリーズの第1戦(毎日オリオンズ対松竹ロビンス)が行われる。
- 1952年 明治神宮に返還される。内野天然芝・照明設備撤去。第1回全日本大学野球選手権大会開催(以降毎年開催)。
- 1958年 スコアボード改修。
- 1962年 東映フライヤーズ使用開始(1980年まで)。ラッキーゾーンがプロ野球開催時のみ登場。バックネット裏スタンド拡張。同年6月には照明設備が完成。
- 1964年 後楽園球場より移転した国鉄スワローズの専用球場となる。東映は後楽園球場に事実上移転。
- 1965年 ラッキーゾーン固定、金網フェンスを従来のコンクリートフェンス内側に設置。
- 1967年 スタンド・グラウンド改築。グラウンドを縮小(一部拡大)、ラッキーゾーン廃止。
- 1969年 フェンス広告設置。
- 1970年 金網フェンス廃止。コンクリートフェンスにラバーを貼り付け。第1回明治神宮野球大会を開催(以降毎年開催)。
- 1972年 第1回日米大学野球世界選手権大会開催(以降不定期開催)。
- 1973年 ロッテオリオンズが主催試合の一部で使用する(1977年まで)。
- 1975年 照明塔ランプ改良。
- 1976年 神宮球場竣工50周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。
- 1978年 外野席改修工事完成。芝生席をプラスチック製の座席に変更。ヤクルトスワローズ(国鉄から改称)がリーグ初優勝。ただし日本シリーズは未開催(下記参照)。
- 1980年 電光スコアボード完成、看板広告を設置。ファウルグラウンド人工芝を敷設。アーケード部分に塗装が施される。8月1日、明治神宮鎮座60年を記念し、第1回神宮外苑花火大会を開催(以後毎年開催)。
- 1981年 フェンス広告抹消。フェンスを濃い緑色に変更。
- 1982年 フェアグラウンドに人工芝敷設。フェンスを青色に変更。こけらおとし興行として東京六大学と東都の前季優勝校対決を実施。塁ベースを黒土からアンツーカーに変更。
- 1983年 マウンド及びブルペンをアンツーカーに変更。
- 1985年 内野側照明塔4基建て替え。
- 1986年 外野側照明塔2基建て替え。8月、井上陽水と安全地帯のジョイントコンサートのほか、大沢誉志幸、中村あゆみのコンサートを開催。
- 1987年 外野身障者席・トイレ新設。
- 1988年 野球規則の一部変更に対応しマウンドの高さを変更。併せて人工芝も全面張り替え。
- 1989年 ファウルポールの塗色を黄色から白色に変更。
- 1993年 内野部分の人工芝張り替え。内野席の椅子を折り畳み式に取替え。
- 1995年 スコアボードを改修、カラービジョンを設置。外野フェンス上部に1.5mの金網フェンスを追加。
- 1996年 神宮球場竣工70周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。
- 2000年 8月12日・13日、THE ALFEEコンサート開催。
- 2001年 内野フェンス改装に伴い、大学野球用の応援台設置用金具をフェンス支柱と一体化(応援台の所有者は東京六大学応援団連盟)。
- 2003年 内野部分の人工芝張り替え。
- 2005年 第1回セ・パ交流戦(ヤクルト対福岡ソフトバンクホークス)開幕試合開催[2]。
- 2006年 広告を大幅変更。11月4日、明治神宮外苑の創建80年を記念して、東京六大学選抜対東京ヤクルトスワローズのプロ・アマ交流試合開催。
- 2008年 スコアボードを全面LED化、グラウンド拡張、ロングパイル人工芝導入。
[編集] プロ野球
[編集] 東映球団の使用
1961年、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)の本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、1962年から神宮球場の方を使用することが認められた。ただしあくまでも仮の処置であり、後楽園球場や東京スタジアム(1962年9月完成)と併用する形であった(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。
その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ・阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。第5戦は学生野球優先の取り決めもあり後楽園球場で開催された。また1963年には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームを初開催した。
1964年から国鉄スワローズが神宮球場を専用球場にしたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌1965年より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。ただし試合数を段階的に減らしながらも1980年まで準本拠地として使用している。
[編集] 国鉄~サンケイ~ヤクルトの本拠地
1963年のシーズン終了後、今度は後楽園球場を専用球場としていた国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、産経新聞・フジテレビジョンが主体となって具体的な改装計画まで明らかにしたものの、日本学生野球協会は反対の意向を表明。更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではというデマまで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し今村均(元陸軍大将)までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。代わりに、国鉄の専用球場として1964年のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったことと、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったこと等も絡んでいる[3]。
国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・9月上旬)に限定される(8月は暑さのため自発的に行わない)。2004年まで毎年5月下旬に行われていた千葉マリンスタジアムでの公式戦は、同時期に神宮で行われる早慶戦の開催を考慮したものである。一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われるので基本的に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。2008年までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は後述)。
1978年にはヤクルトスワローズ(1974年に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され日本シリーズ(対阪急戦)は後楽園球場で振り替え開催された。その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、1992年の日本シリーズと1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は全て神宮での開催となっている。1992年には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。1995年以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。このほかにも1970年代初め頃まで大学野球との日程の絡みで、消化試合を神宮で行えず川崎球場や東京スタジアム、横浜公園平和野球場を借りて行った事例もある。
神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔からビジターチームのファンが多い。レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、読売ジャイアンツ・阪神タイガース戦の際にはライトスタンドを除いて巨人・阪神ファンが大半を占めることも珍しくない。加えて近年はヤクルトファンが減少したため、この差はより顕著になっていった。古田敦也が監督就任時に「東京ヤクルトスワローズ」への改称やユニフォームの一新など、「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「F-PROJECT」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。
[編集] ロッテの使用
1972年の東京スタジアム閉鎖に伴い本拠地を失ったロッテオリオンズは、翌年から川崎球場に移転する前年の1977年までの公式戦の一部を神宮球場で開催した。1973年のパ・リーグ(前期)でロッテは南海と熾烈な優勝争いを展開。優勝がかかった6月の対日拓ホーム3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけ、ロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している。
[編集] 優先使用権
神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められていることである。これは神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実からである。また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じよう(他の球場の多くも球団所有ではなく間借りだが)に「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズが間借りしているのが実態である。収益力の高いプロの日程を最優先させるべきだとの意見は以前から一部にはあり、時代の経過とともに大学野球全体の人気の低下がその声を後押しする傾向が強まり、近年は興行収入の問題から大学連盟側がヤクルト球団側に配慮するようになってきている面もある。但し、神宮球場側の基本的な認識は、前述の歴史的な経緯から、現在でも球場使用の割り当ての最優先権を東京六大学野球連盟に与えている。また明治神宮とヤクルト球団は、神宮球場の使用契約を1年ごとに更新(このことが、度々噂されるヤクルトの地方移転の根拠として挙げられる)している。
プロ野球(ナイター開催)と大学野球(日中開催)の併用日には、大学野球の試合開始時間を通常より30分ないし1時間早めたり(東京六大学と東都では別の処置となる)、延長なしの9回打ち切りとなる。2009年からはプロ野球の試合開始時間が18時となっているが、それまでは遅らせて試合を開催していた。1989年までは一律18時30分、延長戦が15回までに変更されたことをきっかけに1990年から2008年まで18時20分開始となっていた。大学野球が長引いた場合は試合開始時間を遅らせる処置が取られている。このように学生野球のスケジュールが優先されてきたが、1985年10月16日に阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝を決めたヤクルト対阪神戦の試合当日は、日中に予定されていた東都大学リーグの試合が延期される事態となった。これは前日から阪神ファンが球場前に多数詰め掛けたため、学生野球の試合を開催した場合の混乱を避けるべくなされた措置で、当球場始まって以来の異例のものであった。
東京ヤクルトではオープン戦期間中と、公式戦でも主として学生野球の試合が組まれない4月初旬、ないしは9月初旬にデーゲームを組むことがある。1990年以降、神宮でのデーゲームは1991年と2001年の4月に各2試合開催したのみだったが、近年は大学野球側との折衝交渉を積極的に行うようになり開催数が若干増加している。2005年は6月4日、5日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦、6月18日の西武ライオンズ戦(交流戦予備日)と7月2日、3日の中日ドラゴンズ戦をデーゲームで開催した。更に2006年、「F-PROJECT」の一環としてデーゲーム開催数の増加について大学野球側と折衝を行った結果、前年に引き続き6月3日、4日に加えて、従来の東都大学野球連盟のリーグ戦使用分であった5月3日、4日もデーゲーム開催(東都大学リーグ戦はナイター開催)に変更した。
学生野球の使用割り当てを優先的にするのは、あくまで基本的には春先に行われるその年度の球場使用割り当てを決定する場合においてである。一年を通して東京六大学のリーグ戦や、学生野球が使いたい放題になっているわけではなく、春先に決定した内容が年間を通して遵守される。後日に順延等の都合で調整が必要な場合は、基本的に未使用で空いている日時をやりくりして調整を行うことになる。この手の誤解を招く元になっている代表例として、東京六大学(以下、六大学)と東都の関係を紹介する。
大学野球のリーグ戦期間中は、基本的に六大学が土曜日~水曜日、東都が木曜日・金曜日の割り当てとなっている。実際には東都が火・水の日程で組まれているが、これは「六大学のリーグ戦期間中で六大学が使わない日は東都側が使用しても構わない」という六大学と東都間の従来からの協定に従ってのものである。そのため六大学が順延などで月曜までにその週の対戦(前週の未消化試合がある場合はそれも含む)が決着しない場合は、翌日以降も六大学の開催日に変更される。東都の開催日はそれに従い順延され、最悪木・金のみに変更されることもある。この順延の制度のためいつでも六大学が自由に使えるという誤解が一部に生じている。事前の球場使用割り当て時では六大学のリーグ戦の日程及び六大学連盟からのその他の使用申し出に従った割り当てを優先的に行う(従来から行われている使用申請がほぼ認められる)が、リーグ戦期間外では優先権はない。そのためリーグ戦後に行う新人戦と、リーグ戦が消化しきれなかった場合では六大学が優先的に割り込めるわけではない。東都側についても同様で、リーグ戦期間外でも東都が木・金曜日を自由に使えるわけではない。シーズン固有の事情などにより事前に何らかの使用権が成立している場合は例外となる。球場の年間使用スケジュールの概況は例年「神宮球場ガイドブック」の春季号に掲載される。
学生野球とプロ野球が同日に開催される場合、観客は通常入れ替え制とするのが原則である(学生野球の観客がすべて出場してから、プロ野球の観客を入場させる)。ただし、曜日・注目カード・優勝決定等の理由で入場待ち列が長くなり、神宮外苑内に並ばせる余地がない場合は学生野球の試合中にプロ野球の観客を入場させることがある。下記はその一例(六大学野球・東都大学野球の双方で例外入場歴あり)である。
- 1997年9月28日 - ヤクルトの優勝がかかった試合・日曜日などの条件が重なり、さらには隣接する国立競技場でサッカーフランスワールドカップ予選の日韓戦が行われており、神宮周辺は史上最高の人出と言われるほどにまでなったため、外野自由席の客を東京六大学の試合中に入場させた。六大学野球でも高橋由伸(慶應)が田淵幸一の持つリーグ戦通算本塁打記録を更新する可能性があり、こちらも多くの集客があった。高橋はヤクルトファンで埋まったライトスタンドにホームランを打って記録を更新している。
- 2007年10月7日 - ヤクルトの大功労者である古田敦也の引退記念試合であり、日曜日ということもあって早朝から多数の観客が詰めかけため、東京六大学の試合中に入場させた。
[編集] 施設概要
[編集] 明治神宮野球場
[編集] 球場データ
- 所在地:東京都新宿区霞ヶ丘町3-1
- 1926年10月完成
- 収容人数:35,650人
- グラウンド面積:12,659m²
- 両翼:101 m、中堅:120 m
- 外野フェンスの高さ:3.5 m(ラバーフェンス:2.0 m+金網フェンス:1.5 m)
- 内外野:全面透水性モノフィラメント・ロングパイル人工芝(住友ゴム工業製 ハイブリッドターフET-62、パイル長62mm)
- スコアボード:全面フルカラーLED式2基
- メインスコアボード:東芝ライテック製 スーパーカラービジョン、表示部大きさ:H 12 × W 27.2m、面積:326.4m²、1,170インチ相当。
- サブスコアボード:東芝ライテック製 スーパーカラービジョン、表示部大きさ:H 3.6 × W 6.4m、面積:23.04m²、289インチ相当。
[編集] グラウンド
1967年から2007年までの公称は両翼91m、中堅120mで、グラウンド面積は12,525m²であった。野球場研究家の沢柳政義によれば左中間は112.3m、右中間は112.2m。この広さは1967年の改修当時において標準的なものであったが、1980年代後半以降から日本各地で公認野球規則1.04(両翼は約99.1m、中堅は約122m)に合わせた球場が増えたために相対的に狭くなった。特に両翼は拡張される前の時点でプロ野球の本拠地球場としては最も距離が短かく、そのためにファウルポール際の打球は詰まった当たりや低いライナーなどが容易にスタンドインしてしまうことが目立っていた。これを改めるため、2007年オフには改修に着手、両翼の距離は101mまで拡張された。
拡張後の現在の公称値、両翼101m(セ・リーグの一部資料では97.5m[4])、中堅120mはプロ野球の本拠地球場として他と遜色ないが、グラウンド面積は12,659m²でファウルゾーンの面積から考えると全般的に見ればまだ狭い部類である。左・右中間から両翼にかけて拡張された面積は僅か134m²でフェンスは直線となっており、東京ドームに似たような広さ・形状となっている。ファウルゾーンはバックネットが直線状であるためダッグアウト前がやや広めである。外野側ファウルゾーンには2組の屋外ブルペンがあるが、プレイイングフィールド内にブルペンがあるのは日本プロ野球12球団の本拠地球場中唯一である。ブルペン側のスタンド下にはダッグアウトと別にリリーフピッチャー用の控え室が用意されている。グラウンドは全面ロングパイル人工芝であり、ベース付近やマウンドなどにはアンツーカーを主に使用した土が敷かれている。
完成当初は両翼100 m、中堅118 mでグラウンド面積は13,566m²。内野がクレー舗装(黒土)、外野が天然芝であった。当時としてはかなり広大なものであり、東京六大学ではエンタイトルツーベースを“エンタイトルスリーベース”とするオリジナルルールを適用していた。1962年には東映フライヤーズの要請により、プロ野球開催時のみ左・右中間から両翼にかけてラッキーゾーンを設置した。設置時の両翼は91.4mであった。1965年には前年の東京六大学の試合において、外野手がコンクリートフェンスに激突して怪我を負った事故の対策としてラッキーゾーンが固定式になり、他のコンクリートフェンスの内側にも金網フェンスが付けられた。さらに1967年、ホームベースの位置を中堅方向へ8.5m移動し、内野スタンドと外野スタンドの両翼側を内側へ増築、外野スタンドの中堅部分を削る工事を行った。この工事により両翼が91m、中堅が120m、外野フェンスの高さが2.0mとなり、当時としては標準的な広さとなった。ラッキゾーンは廃止されたが危険防止用の内側金網フェンスは存続、のち1970年に全面ラバーフェンスとなった。
1980年、ファウルグラウンドにのみ人工芝を敷設してテストし、1982年から全面透水性人工芝化。日本初の透水性人工芝と謳われた。マウンドなど土の部分は当初黒土のままであったがまもなくアンツーカーへ変更された。その後、1988年・1993年(内野のみ)・2003年(内野のみ)・2008年と張替えを行っている。ロングパイル人工芝となったのは2008年からで、それに合わせ人工芝下の舗装と暗渠も全面改修され、古くなった人工芝は隣接の第2球場に使われた。なお過去にも当球場で使われた人工芝は戸田球場や東京大学のグラウンドで再利用されている。1995年には人工芝の導入により増加していたエンタイトルツーベースへの対策として、ラバーフェンスの上部に1.5mの金網フェンスが追加され、全体で3.5mとなった(セ・リーグの一部資料では3.3m[4])。
[編集] スタンド
完成当初の公称収容人数は31,000人で、外野スタンドは芝生席、内野スタンドはベンチシート。バックネット裏最上段には貴賓席が設けられた。景観に配慮された設計となっており、貴賓席からレフト場外にある聖徳記念絵画館全体が見えるように高さを調整するため、外野スタンドは内野スタンドに比べ小さく、傾斜も緩くなった。58,000人収容となる1931年の増築ではそのまま外側に継ぎ足すように行われ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となった。傾斜に関してはそのままとなったため内野スタンドの外野寄りは、外野席側にやや傾きのあるようになった。スタンドの増築分の下にはアーケードが作られたが、バックネット裏の球場正面部分は増築されずそのまま残された。
東映フライヤーズが使用を開始した1962年には球場正面部分も増築し、2階席が作られてその下に貴賓席や放送席が設けられた。1967年の改修ではスタンドの傾斜の見直しと共に座席の前後幅を広げ、背もたれ付きの個別座席も設けられるようになった。その後は断続的に日本人の体格向上に合わせる座席の更新を行ったため収容人数は減少し、1998年には公称は45,000人になった。2000年代には収容人数を実数の36,011人と訂正、さらに外野スタンドを削った2008年の改修で収容人数は35,650人となっている。なお2008年の改修ではバックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。
プロ野球の本拠地球場としては延床面積が狭いなどやや施設面で欠点を抱えている。球場外の通路が駐車場として使用されており、試合終了後は観客の通行に支障が出る場合もある他、スタンドの面構成も適切とは言えないものとなっている。選手用のスペースも小さく、クラブハウスと球場との行き来の際は内野スタンドと外野スタンドとの間にある通路から入り、ここからベンチへはグラウンド内を歩いていく。試合前や勝利後はファンとの触れ合いが見られる一方、連敗や惨敗などの日は観客からの罵声や野次が飛び交い、時には物が投げ込まれるなど特にビジター側の選手にとっては「つらい移動」と呼ばれている。なお、スワローズの選手は通路とクラブハウスの間は原則として地上を歩いて行くが、地下道もあって選手の移動に支障がある場合に使用される。この地下道は荒木大輔が入団時、ファンに囲まれて身動きが取れなくなるのを避ける為に設置されたため、通称「大輔トンネル」と呼ばれている。ビジター側は通路とクラブハウスが陸橋で繋がっている。
- 禁止事項
周辺住民に配慮し太鼓を叩いての応援は原則的には禁止。最初に規制が実施されたのは昭和天皇崩御に際しての自粛規制であったが、これを機会に以後も応援での太鼓使用についての規制が何らかの形で継続して現在に至っている。周辺住民からの再三再四にわたる抗議も影響していたとされる。プロ野球では太鼓形態の打楽器は一切使用が禁止。このため応援の際はメガホンなどのリズムが、ポール際やセンター側でずれることがしばしばある。また高校野球や大学野球、その他アマチュア野球などでもいわゆる大太鼓は、試合前後と7回の校歌斉唱(学校により応援形態は様々なので、必ずしも校歌である必要はない)時のみの使用に原則的に制限される。但し18時以前に限り吹奏団体所属の太鼓なら使用が許可されている。さらに、18時以降は太鼓を含む全ての打楽器類が使用禁止になり、22時以降は全ての楽器類が使用禁止になる。これは都条例におけるスタジアム等での楽器応援規制とは別なものである。全日本大学野球選手権では、校歌・応援歌・応援曲がアカペラで行われることがある。近年では神宮第二球場で行われる東都大学リーグ戦において、試合開始時及び7回表裏の校歌斉唱以外は一切の楽器使用が禁止されている。
またジェット風船の使用を禁止している。当初はライトスタンドのみ禁止されていたが、新型インフルエンザの日本国内での感染拡大を受けて、他球場に倣い2009年5月から使用自粛を呼びかけ、6月から球場周辺への風船ゴミ飛散防止と観客の衛生面への配慮を理由に全面禁止に移行した。
[編集] スコアボード
完成当初はパネル式。1958年に新装され、得点表示部分が巻き取り式となった。1980年には電光化、次いで1995年に高輝度放電管に置き換わって、フリーボードがスーパーカラービジョンとなりフルカラー化された。さらに2008年にはLEDによる全面フルカラーフリーボードとなった。屋外野球場としては国内最大規模の表示面積を誇る。映像表示時は画面アスペクト比16:9ワイドサイズのデジタルハイビジョンに対応している。電光化以降、独特の表示方式を用いており2008年の全面フリーボード化以降もこの方式がCGによってほぼ踏襲されている。特色として以下の点があげられる。
- 選手名表示部には出場中の全選手の打率・本塁打数を表示することができる。2007年までは両チームとも常時表示していたが、全面LED化後から試合中は広告スペースとなり現在打席に立つ打者の成績のみをスコアボード上部に表示している。選手の登録名に従って旧字体はそのまま表示される。また指名打者制に対応するため選手名の枠が10名分あり、指名打者制がない場合でも空欄の枠が表示されている。
- 電光化直後は選手名の表示部分が9名分しかなかったため、指名打者制を使用する試合では投手名をチーム名表示の箇所に、後に中央下部にあるビジョンの両端に表示されていた。
- 得点表示部には各イニングの得点と合わせて安打数も表示される。ただし写真にあるように高校野球等、一部ヒット数の表示がされない場合もある。その関係で通常は得点表示部の上に出すイニング表示が上下のスコア表示部の間にある。また総得点の右横に並べることの多いチームの総安打数は総得点の上側に表示される。エラー数はチーム全体で得た四死球の数と共に、普段何も表示されていない中央下部の両サイドに表示される。イニング表示は9回までで10回以後は一度表示をクリアした上で1回のところから表示する。この場合は最大18回まで表示できるが、規定以上の回は空欄となっている。
- ボールカウントはCGで信号灯を模して上部中央に表示している。その左横には試合開始からの経過時間とプレーの判定表示(H・E・Fc)がある。
- 電光化以降は数字で表示していたが全面LED化時に変更となった。
- 映像は普段何も表示されていない中央下部のみで表示される場合と、全画面で表示される場合、スコア表示部分を含めた中間の大きさで表示される場合の3パターンがある。球速の表示も中央下部になっている。
- 審判名を常時表示する部分がなく、中央下部に適宜表示される。通常はダイヤモンドを模した図で表示されるが、大学選手権や神宮大会、日米大学野球のように、複数の連盟から審判が派遣される大会では、審判名の他に所属連盟が、横書き縦スクロールで表示される。
- スコアボードの中央下部には、東芝の広告スペースが設けられている(初期は同社のオーディオ機器のブランド「Aurex」であった)。電光化と同時に設置されたもので、当初はナイターの試合中に常時点灯していた。しかしホームベースからは投手の投球が見えづらいと選手から苦情が出され、試合前後とイニング間に限って点灯されるようになった。
この他、バックネット裏2階席の屋根にサブスコアボードを1基設置している。メインと同じく2008年に全面フルカラーLEDフリーボードに変わり、映像表示が可能となった。またプロ野球の開催球場ではスコアボード上に5本のポールがあるのが一般的だが、当球場には3本しかない。セ・リーグ連盟旗を通常日本国旗が掲げられる中央に掲げ、代わりに国旗はサブスコアボード上のポールに掲げられている。
[編集] 広告
広告のある箇所はフェンスやバックスクリーン周辺など、プロ野球の本拠地球場としてはかなり限定されている。広告が最初に設置されたのは1969年で、改修費用の捻出という目的があった。コンクリートのフェンスと金網フェンスの間に差し込む仕組みで、当初はプロ野球使用時、秋から大学野球開催時にも設置されるようになった。翌年にはラバーフェンスとなったため、ラバーに貼り付けされた。1980年のスコアボード設置時には、その周辺のみではあるが看板広告を設置した。後楽園、横浜スタジアム、川崎球場、ナゴヤ球場、阪神甲子園球場、広島市民球場に続いてであった。逆にフェンス広告は1981年に一度全て撤廃され、2000年代初期からベンチ付近に復活、2006年からは外野部分にも貼り付けられた。なお聖教新聞社は、神宮球場を除くプロ野球の本拠地球場で広告を出しているが、神宮球場は経営母体が宗教法人であるため本社が近くにあるにも関わらず掲出していない。
[編集] 明治神宮第二球場
- 1961年4月19日竣工
- 両翼:91 m、中堅:116 m
- 内外野:全面透水性人工芝
- スコアボード:パネル式
- 収容人数:5,600人
1926年、明治神宮相撲場として開設された。1947年から1948年にかけて大相撲の本場所興行が行われた。その後野球場に改築されることになり、1961年竣工。増築を経て現在の形となった。以前フィールドは全面クレー舗装だったが、1993年に人工芝が敷設された。
メインスタンド(バックネット裏)は二層式スタンドで、通常は1階席の部分のみ開放。多客時には2階も開放される。一塁側にはスタンドは無く、ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけてゴルフ練習用の打席が121打席設置されており、第二球場右翼場外に隣接する明治神宮外苑ゴルフ練習場(外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねている。ゴルフ練習場のうち東練習場は通年営業しているが、第二球場を兼ねる西練習場は、大学野球シーズン中は夜間のみの営業となる。用地が狭隘で外野後方には道路があるため外野スタンドはなく、三塁側スタンドは現在開放していない。アマチュア野球公式戦が行われる時間帯以外はゴルフ練習場として供用しており一般利用は受け付けていない。
[編集] 天覧・台覧試合
初試合に昭和天皇が臨席するなど、皇族を招いての試合が幾つか行われている。1931年の増築は早慶戦を観戦した際、入りきらなかった観衆を見た秩父宮が勧めたのがきっかけであった。2009年には愛子内親王と皇太子夫妻(徳仁親王・妃雅子)が若松勉の解説で横浜ベイスターズ対ヤクルトの試合を観戦した。
[編集] 胴上げ
ヤクルトが1978年にセ・リーグで初優勝した時、ファンが優勝を祝うが余りに客席から飛び出して選手や広岡達朗監督を胴上げするという光景が見られた。その模様はフジテレビの製作によって全国テレビ中継された。そういったこともあり、同じ神宮で1985年、21年ぶりの優勝を決めた阪神タイガースの試合のときには警備員を多数増員して、乱入をしないように警戒を強めたという。
2009年現在、当球場で監督の優勝胴上げを行っていないセ・リーグのチームは横浜ベイスターズ(前身の大洋ホエールズ時代を含める)だけとなっている。胴上げを行ったチームは順にヤクルト(1978年)、阪神(1985年)、広島(1986年)、中日(1999年)、巨人(2008年)となる。
[編集] 硬式野球以外での使用
人工芝導入後より一般貸し出しが行われており、ストロングリーグでは全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップの決勝会場や交流試合などで使用している。周辺に国立霞ヶ丘陸上競技場や秩父宮ラグビー場があるために野球以外のスポーツイベントが行われることはほぼないが、1989年8月7日には日本代表対マンチェスター・ユナイテッドFCの親善試合が行われている。
コンサートやイベントの会場としても使われることがあり、毎年8月には神宮外苑花火大会(日刊スポーツ主催)のメイン会場として使用され、花火の打ち上げを第二球場から行っている。近年行われた主なイベントとしては以下のものがある。
[編集] 交通機関
- JR中央線 信濃町駅 徒歩約13分
- JR中央線 千駄ヶ谷駅 徒歩約15分
- 東京地下鉄銀座線 外苑前駅 徒歩約5分
- 東京地下鉄半蔵門線 青山一丁目駅 徒歩約15分
- 東京地下鉄副都心線 北参道駅 徒歩約17分
- 都営地下鉄大江戸線 国立競技場駅 徒歩約13分
[編集] 脚注
- ^ 1962年、1963年は本拠地扱い、以降は準本拠地
- ^ 他の5球場の前日に試合が組まれたものの、雨天順延により6球場同時開幕となった。
- ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、徳永喜男は元ヤクルト球団代表(国鉄・サンケイ時代を含む)
- ^ a b 2009年度セントラル・リーグ記録集、セ・リーグ本拠地球場の広さ・本塁打
[編集] 関連項目
- 日本の野球場一覧
- 村上春樹 - 平日の神宮球場の外野席でヤクルト戦を見ていた際に小説家になろうと思い立って、『風の歌を聴け』が生まれた。
- 野球狂の詩 - 東京メッツが本拠地としている「国分寺球場」は当球場がモデルとされており、実写による映画版、並びにドラマ版でも当球場が撮影に使用されている。
- ROOKIES - 実写版のロケに使用された。ただし、バックスクリーン周りの広告(フジテレビ・ニッポン放送・コカコーラ・東芝・麒麟麦酒)は隠された。
[編集] 外部リンク
| 前本拠地: 駒澤野球場 1953 - 1961 |
東映フライヤーズの本拠地 1962 - 1963 |
次本拠地: 後楽園球場 1964 - 1987 |
| 前本拠地: 後楽園球場 1950 - 1963 |
東京ヤクルトスワローズの本拠地 1964 - 現在 |
次本拠地: n/a - |
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