新日本プロレス

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新日本プロレスリング株式会社
New Japan Pro-Wrestling
種類 株式会社
略称 新日本、新日、NJPW
本社所在地 日本の旗 日本
〒153-0042
東京都目黒区青葉台4丁目4番5号
日本綜合地所目黒青葉台ビル8F
設立 1972年1月
業種 サービス業
事業内容 プロレスリング興行事業など
代表者 代表取締役社長 菅林直樹
資本金 7,500万円
従業員数 35人(2009年3月31日現在)
決算期 1月期
主要株主 ユークス 51.5%
関係する人物 アントニオ猪木(創業者)
坂口征二(現:相談役
藤波辰爾
山本小鉄
外部リンク 新日本プロレス
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選手代表を務める棚橋弘至

新日本プロレスリング株式会社(しんにほんプロレスリング)、通称新日本プロレス(しんにほんプロレス)は、日本プロレス興行団体。略して新日本、新日(しんにち)とも呼ばれる。「KING of SPORTS」を標榜している。

1972年1月、日本プロレス選手会を除名されたアントニオ猪木が設立。同年9月に設立されたジャイアント馬場率いる全日本プロレスと、男子プロレス界の二大老舗団体として君臨。「ストロングスタイル」と呼ばれるファイトスタイルを掲げている。また、1970年代よりリングドクター(かつては富家孝、現在は林督元)制を取り入れており、健康管理の面においては他団体と格段の差別化となっている。

2005年11月より大証ヘラクレス上場企業であるユークスの子会社(被保有株式51.5%)となり、ユークスから2名の役員を受け入れている。

目次

[編集] 歴史

[編集] 1970年代

1972年
1973年
1974年
1975年
  • NWAに加盟。しかし全日本プロレスの圧力で、団体(テリトリー)としてではなく坂口征二新間寿の個人加盟とされたのに加え「NWAのヘビー級王者は新日本プロレスに参加しない」という屈辱的な条件下での加盟であった。ほぼ同時期にWWWF(のちにWWFと改称、現:WWE)とも提携を開始。
  • 12月11日、蔵前国技館にて、アントニオ猪木がビル・ロビンソンとのNWFヘビー級選手権試合で対戦し、勝利。同日には日本武道館で、力道山家(百田家)主催による『力道山13回忌追善試合』が行われていたが、新日本側は参戦を固辞して興行を開催した。
1976年
1978年
1979年
  • 藤波辰巳、木村健悟ら新世代がスターとなり日本にジュニアヘビー人気を定着させる。
  • 8月26日、新日本、全日本、国際プロレスによる合同興行『プロレス夢のオールスター戦』が行われる。
1980年

[編集] 1980年代

1981年
  • 4月23日、初代タイガーマスク、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦でデビュー。
  • 4月、『IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)』構想を発表。NWFヘビー級、NWA北米タッグなど新日本が管理する王座をすべて返上する。
1982年
1983年
  • 5月、第1回IWGPリーグ戦を開催。6月2日、ハルク・ホーガンが決勝で猪木をアックスボンバーで失神KOし優勝。
  • 8月11日、初代タイガーマスクが引退(のちに第一次UWFで復帰)を表明。
  • 8月25日、猪木、坂口がそれぞれ社長、副社長より退任、取締役営業本部長の新間寿は謹慎処分(のち退団)。山本小鉄ら3名による集団取締役体制が発足。
  • 11月1日、猪木、坂口がそれぞれ社長、副社長へ復帰。山本らの集団取締役体制は短命に終わる。
1984年
  • 4月、前年に退団した新間寿が、前田日明高田伸彦藤原喜明らとともに第一次UWFを設立。
  • 6月14日、蔵前国技館で行われた第2回IWGPリーグ戦決勝戦で猪木がホーガンに雪辱を果たし優勝。しかし長州力の乱入を経てリングアウト勝ちという不透明な決着に不満を爆発させた観客が放火・破損事件を起こすなど暴動に発展。
  • 9月21日、長州力ら維新軍全員と永源遙ら計11名が団体を離脱し、新日本プロレス興行(のちにジャパンプロレスを設立)へ移籍。
1985年
1986年
1987年
  • 3月26日、大阪城ホールでのメイン、アントニオ猪木対マサ斎藤戦で『海賊男』が乱入した試合内容に対してファンが暴動を起こす。
  • 6月、IWGPヘビー級王座設立。初代王者はアントニオ猪木
  • 長州力ら元ジャパンプロレス勢が新日本に復帰。
  • 10月4日、アントニオ猪木とマサ斎藤巌流島で2時間にも及ぶ決闘を行う。
  • 11月19日、前田日明後楽園ホールで行われた6人タッグ戦で長州力の顔面を蹴り欠場に追い込む(前田顔面蹴撃事件)。これを受けて新日本は前田を無期限出場停止処分とする。
  • 12月27日、両国国技館興行でたけしプロレス軍団が登場。当初開催予定だったメインイベントのアントニオ猪木対長州力戦を中止し猪木対ビッグバン・ベイダー戦に急遽変更。カード変更に加えて猪木がベイダーに3分弱で敗れるという試合結果(当初…藤波・木村vsマサ斎藤・ベイダー、猪木vs長州。1回目のカード変更…藤波・木村vsマサ斎藤・長州、猪木vsベイダー。これで藤波・木村vsマサ斎藤・長州が行われる。2回目のカード変更…残り猪木vsベイダーの前に、猪木vs長州。従って、猪木と長州は1日に2試合を戦った)に観客席からリングにゴミが投げ込まれ、椅子が破壊されるなどプロレス史上最悪の暴動に発展。新日本は両国国技館の使用を禁止される(翌々年に解除)。
1988年
1989年

[編集] 1990年代

1990年
  • 3月15日、坂口征二引退
  • 4月13日、新日本、全日本、WWFによる合同興行「日米レスリングサミット」を開催。全日本とWWFが対抗戦を行う中、新日本は所属・レギュラー参戦選手同士によるカード提供に留める。
  • WCWと提携開始。
1991年
1992年
  • この年から、1月4日に東京ドーム興行が行われ、外野から長い花道が設けられて選手が入場するようになる。
  • 越中詩郎、選手会に無断で誠心会館の自主興行に参戦し選手会と対立、木村健悟らと反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成。
  • WARとの対抗戦が始まり、天龍源一郎らが定期的に参戦する。
1993年
1994年
1995年
1996年
  • 1月4日、東京ドーム興行で高田延彦がIWGPヘビー級王者になり、初めて他団体に流失。この年だけ、バックネットから花道が設けられる。
  • 蝶野正洋、WCW参戦中にハルク・ホーガン率いるnWoに加入。帰国後、その日本支部としてnWoジャパンを結成。
1997年
1998年
1999年
  • 1月4日、東京ドーム興行。UFO対新日の対抗戦が行われ、小川-橋本戦が無効試合となり、試合後には大乱闘となった。また、大仁田厚が参戦し、佐々木健介と対戦。試合は大仁田が火炎攻撃による反則負けとなった。
  • 平成維震軍が解散。
  • 長期欠場から復帰した蝶野正洋が欠場の間にnWoを掌握した武藤敬司と対立、TEAM 2000を結成。
  • 4月10日、東京ドーム興行で蝶野正洋対大仁田厚戦が団体としては初となるノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ形式で行われる。(ただし団体側は公式試合としてこれを認めず「第0試合」としている)
  • 6月24日、藤波辰爾が代表取締役社長に就任。前社長の坂口征二は代表取締役会長に就任する。
  • 10月、SGタッグが「G1タッグリーグ」として改めて第1回大会を開催。優勝は武藤敬司&スコット・ノートンチーム

[編集] 2000年代

2000年
  • WCWの経営悪化に伴い提携解消。
  • 1月4日、東京ドーム興行でTEAM2000・蝶野正洋とnWoジャパン・武藤敬司が直接対決。蝶野が勝利し、nWoは消滅。
  • 4月10日、東京ドーム興行で橋本真也が引退を賭けて小川直也と対決するも敗れ、公約通り引退。
  • 4月14日、気仙沼市総合体育館興行における福田雅一柴田勝頼戦の試合中に福田が意識不明となり、4月19日に死去。試合中の事故による死亡は日本の男子プロレスでは史上初。
  • 7月30日、横浜アリーナ興行で長州力が現役復帰。大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦。
  • 8月11日、両国国技館興行に当時、大量離脱で存亡の危機に晒されていた全日本プロレスの渕正信が来場。新日本対全日本の対抗戦が開戦し、長らく対立関係にあった両団体の歴史的交流が開始する。
  • 10月、スポーツ専門チャンネルスポーツ・アイ ESPN(現・J SPORTS ESPN)にて「新日本プロレス S.X.W」を開始。
  • 10月9日、テレビ番組の企画でファンに押される形で現役復帰した橋本真也が藤波辰爾と復帰戦を行う。その後、「新日本プロレスリングZERO」を設立し他団体交流などを目的とした団体内の別組織として独立を宣言するが、反対した現場監督・長州力と対立。
  • 11月13日、橋本真也の解雇を発表。
2001年
  • WCWから帰国した武藤敬司が団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT」を結成して全日本に参戦。
  • 6月8日、全日本・日本武道館大会にて、武藤が新日本所属選手としては初となる三冠ヘビー級王者になる。
  • 10月8日、東京ドーム興行にプロレスリング・ノア秋山準が参戦。永田裕志と組み、武藤敬司&馳浩組に勝利。新日本とノアの交流が始まる。
2002年
  • 1月31日、武藤敬司、小島聡ケンドー・カシンの3選手とフロントスタッフ5人が新日本を退団し全日本に移籍。
  • 新日本プロレスLA道場開設。
  • 5月2日、東京ドームにおける創立30周年記念興行にプロレスリング・ノアの三沢光晴が参戦。メインイベントで蝶野正洋と対戦。
  • 5月、長州力が退団。10月に佐々木健介が、翌年に越中詩郎、鈴木健想がこれに追随。
  • 8月11日、第12回G1 CLIMAX終了後、新日本隊と魔界倶楽部藤田和之高山善廣ら外敵との抗争が勃発。
  • 藤田和之の提案によりNWFヘビー級王座が復活。
  • 9月6日、ジョーニー・ローラー参戦。新日本初となる男女混合試合が行われる。
  • 11月28日、棚橋弘至、交際中の女性タレントにナイフで背中を刺され重傷を負う。
2003年
  • 1月4日、東京ドーム興行でIWGPヘビー級王座、NWFヘビー級王座の統一戦が行われ、IWGP王者の中邑真輔がNWF王者・高山善廣を下しNWF王座を封印。
  • 棚橋弘至の提案によりIWGP U-30無差別級王座設立。初代王者は棚橋弘至
  • 4月18日、後楽園大会で木村健悟が引退。
  • 5月2日、東京ドーム興行で新日本独自ルールの「アルティメット・クラッシュ」形式による総合格闘技戦が開催される。
  • 6月、経営コンサルタントの草間政一が代表取締役社長に就任。前社長の藤波辰爾は代表取締役副会長に就任。
  • 7月、獣神サンダー・ライガーが、邪道外道竹村豪氏らとヒールチーム「C.T.U」を結成。
2005年
  • 上井文彦取締役が新日本を退団。その後、同じく退団した柴田勝頼らとビッグマウスを設立。
  • 2月20日、天山広吉対小島聡による史上初のIWGPヘビー級王座、三冠ヘビー級王座ダブルタイトルマッチが行われ、三冠王者の小島が勝利。
  • 永田裕志、中西学、ケンドー・カシン、藤田和之が山本小鉄を顧問にレスリング軍団チーム・ジャパンを結成。
  • 第1回NEW JAPAN CUP開催。優勝は棚橋弘至。
  • 5月、草間政一が代表取締役社長を解任され、後任としてアントニオ猪木の娘婿であるサイモン・ケリー猪木が就任。
  • 10月8日、東京ドーム興行に元WWE王者のブロック・レスナーが参戦。蝶野正洋、藤田和之との3ウェイ戦を制しIWGPヘビー級王座を獲得。
  • 同日、長州力がリキプロに在籍したまま新日本の現場監督に復帰。
  • 11月14日、アントニオ猪木が保有していた新日本プロレス株式(発行済株式総数の51.5%)をユークスが買収。ユークスが新日本プロレスの親会社となる(ユークス出身者が2006年4月より役員に就任)。
2006年
  • 1月4日、東京ドーム興行を開催。ビッグマウス、ZERO1-MAXなど他団体の選手も参戦。
  • 1月、西村修田中秀和リングアナウンサーら団体史上最多の11人の選手・スタッフが契約を更改せず退団。その後も木村健悟、藤波辰爾などが退団。
  • 3月、新日本とは別ブランドとなる興行LOCK UPWRESTLE LANDの開催を発表。
  • 7月、ブロック・レスナーが「契約上のトラブル」で来日を拒否、これを受けて新日本はレスナーの持つIWGPヘビー級王座を剥奪。しかしレスナーがベルトを返還しなかったために、以降しばらく新日本では2代目IWGPベルトを使用。
  • 10月、天山広吉がG・B・Hを結成。
2007年
  • 1月4日、全日本プロレスの協力により“レッスルキングダム in 東京ドーム”を開催。
  • 2月28日、第1回「NJPWグレーテストレスラーズ」受賞者を発表。3月6日に表彰。
  • 3月、サイモン・ケリー猪木が代表取締役社長を辞任。副社長の菅林直樹が後任として社長に就任。
  • 8月12日、蝶野正洋、長州力、獣神サンダー・ライガーらがレジェンド軍を結成。
  • 9月1日、9月2日、蝶野正洋プロデュースによる興行「蝶野王国」が開催される。
  • 11月、中邑真輔、後藤洋央紀、稔、プリンス・デヴィット、ミラノコレクションAT、ジャイアント・バーナードトラヴィス・トムコRISEを結成。
2008年
2009年
  • 1月4日、“レッスルキングダムIII in 東京ドーム”を開催。史上初のIWGP全王座移動が起こる。
  • 4月、中邑真輔、矢野通がCHAOSを結成。
  • 5月3日、8年ぶりにレスリングどんたく開催。
  • 10月12日、蝶野正洋25周年特別興行“ARISTRIST IN 両国国技館”を開催。闘魂三銃士と四天王の豪華共演が実現した。
  • 11月、CMLLの正式な業務提携が交わされる。
  • 12月、スーパーJカップ5th STAGEを開催。

[編集] 2010年代

2010年
  • 1月4日、“レッスルキングダムIV in 東京ドーム”を開催。
  • 1月末、蝶野正洋が退団。
  • 2月14日、ミラノコレクションA.T.が目の負傷を理由に引退を表明しセレモニーが行なわれた。
  • 3月22日、NEW JAPAN CUPにおいて後藤洋央紀が史上初の連覇を達成。
  • 5月、SUPER J TAG1stSTAGEが開催。
  • 6月、無差別級6人タッグトーナメントJ SPORTS CROWNディファ有明で3日に渡って行われた。
  • 8月、G1 CLIMAX XX において外敵、小島聡が初優勝を成し遂げた。
  • 11月、天山広吉が1年3か月ぶりにリングに復活。
2011年
2012年

[編集] 興行売上高

2007年1月期 2008年1月期 2009年1月期 2010年1月期 2011年1月期
売上高 1,539,640 1,272,315 1,295,591 1,190,933 1,168,322
営業損益 ▲162,137 ▲70,743 ▲11,162 ▲89,063 427

(出典:株式会社ユークス有価証券報告書および決算短信、単位:千円)。

[編集] 他団体との関係

全日本プロレス
両団体の初交流は1979年、東京スポーツ主催のプロレス夢のオールスター戦アントニオ猪木ジャイアント馬場BI砲が一夜限りの再結成を果たした。しかし、1980年代前半には外国人選手の引き抜き合戦を行い、スタン・ハンセンアブドーラ・ザ・ブッチャータイガー・ジェット・シンブルーザー・ブロディらが両団体を行き来するなど反目関係にあった。坂口征二体制発足後の1990年、東京ドーム興行のメインイベンターを飾る予定であった当時のNWA世界ヘビー級王者・リック・フレアーが来日をキャンセル、興行の目玉を失った坂口は自らの足で全日本に赴き、選手を貸し出してくれるよう馬場に直談判。馬場も「坂口なら信頼できる」と快諾し、ジャンボ鶴田天龍源一郎谷津嘉章2代目タイガーマスク、ハンセンの5選手がドーム興行に参戦した。その後、馬場の死去と2000年に三沢光晴らが大量離脱したことによって両団体の対抗戦が開戦し川田利明渕正信太陽ケアらが参戦した。2001年に武藤敬司が天龍を破り、新日本の選手として初めて三冠ヘビー級王座を獲得。しかし当時の新日本の格闘技路線に嫌悪感を抱いた武藤は小島聡、ケンドー・カシン、5人のフロントスタッフと共に2002年に全日本に移籍。これにより両団体の交流は一時期凍結されたが、2003年より小島が新日本に参戦、2005年に小島がIWGPヘビー級王座を奪取した。2007年には新日本の親会社であるユークスが発売するゲームソフト、レッスルキングダムの名を冠した東京ドーム興行レッスルキングダムが行われ、全日本が全面協力した。2008年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会「レッスルキングダム2」にはグレート・ムタが参戦、4月27日は武藤が8年4か月ぶりにIWGP王者になり、全日本プロレスに2度目の流出。また、小島聡が天山広吉との「天コジ」タッグで、2001年以来7年ぶりにG1タッグリーグ戦優勝を果たし、その後、2006年に続いて2年ぶりに世界最強タッグ決定リーグ戦優勝。両団体のタッグリーグ戦を同年でダブル優勝を果たしたのは、初めてである。
2009年1月4日に棚橋弘至が武藤からIWGPを奪還、鈴木みのる永田裕志と対戦(全日本が管理する三冠ベルトを賭けた「三冠統一ヘビー級選手権試合」)スリーパーホールドによる失神KOで勝利を収める(この時、永田が白目を向いて失神した。その後、永田は他の選手との対戦等で腕折り等の攻撃時にも白目を向いて行うようになった)。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の復興支援チャリティープロレス大会「ALL TOGETHER」でNOAHと連携して実施を約束し、同年4月にて社長の武藤敬司三冠ヘビー級王者諏訪魔が共同会見に参加し、開催を発表した。
プロレスリング・ノア
2001年のZERO-ONE旗揚げ戦で永田裕志橋本真也と組み、三沢&秋山準組と対戦したことが両団体の初交流である。これを契機に秋山と永田の間に友情が生まれ、同年10月8日の東京ドーム興行における「プロレス50周年スペシャルマッチ」で初タッグを結成し、武藤&馳浩組と対戦。2002年には獣神サンダー・ライガーが田中稔と共にノアマットに赴き、丸藤正道の「ノアのジュニアは最強です」という発言を契機にジュニアヘビー級の対抗戦が開戦する。同年5月の東京ドーム興行には蝶野対三沢戦が行われる。この試合以降、蝶野と三沢の関係が良好であったことからタイトルマッチも含めた本格的な交流が2004年7月10日のノア東京ドーム大会まで続く。その後交流は途切れるが、2005年5月の新日本東京ドーム大会に三沢光晴が参戦し約10か月ぶりの交流が実現。そのバーターとして棚橋弘至が同年7月のノア東京ドーム大会に参加した。しかし2006年にノアはサイモン・ケリー猪木社長がテレビ朝日と日本テレビとの間で取り決められていたバーター契約を一方的に白紙化した(後にノア仲田龍がこの契約の存在を否定)とし、絶縁を宣言する。この煽りを受けて新日本の親会社であるユークスはノアに関する版権を借りられなくなり、「レッスルキングダム」に登場していたノアの選手は次回作の「レッスルキングダムII」は登場していない。その後、2008年8月26日に行われた、レッドシューズ海野レフェリー20周年記念興行(新日本プロレス主催)において、仲田、三沢両名がお祝いVTRで登場し、興行後の海野の会見で(ノア側のスケジュールの都合で断念したが)ノア勢の参戦も予定されていた(常連の青柳政司は出場している)ことが明かされた。2008年9月6日本武道館大会の会場を裕次郎と内藤哲也のNO LIMITが視察。GHCジュニアタッグへの挑戦を表明し、2008年9月14日のノアのディファ有明大会のダーク・マッチに出場し勝利を収め、9月27日にタイトルに挑戦し敗北。
2009年1月4日東京ドーム大会の呼びかけに対し三沢、杉浦、秋山、佐野の4選手が参戦した。2011年からは新弟子の育成について実質的な提携を結ぶ方針も明らかにされている(詳しくは三沢威の項を参照)。同年のG1クライマックスに杉浦が出場し、ベスト4に輝く。また、同年6月に三沢が試合中の事故で急死してしまうという訃報に対し、三沢と関わりのあった新日本レスラーが葬儀に参列した。12月、5年振りの開催となった新日主催のスーパーJカップで丸藤が2連続制覇に成功している。
2010年1月4日の東京ドーム大会での相手でNOAHの選手との対戦を挑発混じりで希望していた真壁刀義をモハメド・ヨネが襲撃。その後、ヨネは2度に渡って真壁を襲撃し、「箱舟の襲撃王」の異名を手にするが、ヨネの襲撃に真壁が激怒し、当初予定されていたはずの真壁のタッグマッチが真壁のボイコットが原因で中止になりそうになったり、仲田とも取っ組み合いになるという新日史上稀にみる事態となった。結局、新日とNOAHが真壁対ヨネのカードに急遽作りかえるという形で事態の収拾がついた。
2010年1月4日東京ドーム大会ではヨネ、丸藤、潮崎、杉浦が出場。潮崎が棚橋弘至に、ヨネが真壁に敗北するも、丸藤が4代目タイガーマスクからIWGPジュニア王者を奪取、杉浦が後藤洋央紀と対戦し、GHCヘビー級王者初防衛に成功する。その後、真壁刀義が杉浦のGHCヘビー級王者に挑戦するも杉浦が勝利を収める。同年5月3日に中邑真輔に勝利し、新しいIWGP王者となった真壁刀義に力皇が6月19日の大阪大会で挑戦するはずが頸椎損傷で欠場、潮崎が代理で挑戦するも真壁が初防衛に成功し、同日のIWGPジュニア王者戦でプリンス・デヴィットが6度目の防衛に挑んだ丸藤からIWGPジュニアのベルトを奪還する。8月のG1クライマックスには潮崎と丸藤が出場するはずが、丸藤が首を負傷した為プリンス・デヴィットが丸藤の代理で出場した為、ノア側からの出場選手が潮崎だけとなってしまった。
2011年では1月4日の東京ドーム大会で杉浦、潮崎が出場。その後、杉浦のGHCヘビー級王者にIWGPヘビー級タッグ王者のジャイアント・バーナードが挑戦し、杉浦が勝利する。
同年3月11日に発生した東日本大震災の復興支援チャリティープロレス大会「ALL TOGETHER」で全日本プロレスと連携して実施を約束し、同年4月にて社長の田上明GHCヘビー級王者杉浦貴が共同会見に参加し、開催を発表した。
ZERO1(旧・プロレスリングZERO-ONE、ZERO1-MAX)
旧・ZERO-ONE時代は橋本真也が独立を画策するも現場監督である長州と対立し頓挫・解雇を経て設立、という経緯もあって対立関係にあった。しかし2001年の旗揚げ戦では永田裕志が橋本のパートナーとして派遣され、これを機にノアとのパイプが生まれるなど4大団体交流時代の橋渡しとしての役割を果たした。断続的な交流はなかったものの同年には新日本で橋本・長州の遺恨決着戦が行われ、2002年にはアントニオ猪木の意向で橋本・小川組(OH砲)が東京ドームにおける30周年記念興行に参戦した。以降、ZERO-ONEは全日本、ノアとの交流にシフトしたために表立った交流は凍結。ZERO1 MAXと体制変更してからもしばらくは交流はなかったが、2005年に長州が現場監督として復帰し、翌2006年の東京ドーム大会から本格的に交流を開始、中西学・大森隆男山本尚史崔領二金本浩二田中将斗といった抗争が生まれた。またLOCK UPPREMIUMといった新日本の別ブランド興行にも多くの選手が参戦している。2008年にZERO1のリングに出場した中邑真輔が試合後、解説席にいた橋本真也の長男の橋本大地に、亡き父の功績を称え2代目IWGPヘビー級王座のベルトを贈呈した。現在は田中将斗が新日本プロレスのヒールユニット「CHAOS」のメンバーとして単身新日のリングに上がっており、2010年では田中将人と真壁刀義の抗争が2011年1月4日まで続き、2001年3月以降は田中将斗・永田裕志の抗争が発生している。
みちのくプロレス
現存する団体では最も古くから交流が続いている団体で、旗揚げ直後からライガーとザ・グレート・サスケが良好な関係を築いている。テリー・ボーイ(現・MEN'Sテイオー)が学生プロレス出身であったために、学生プロレスを嫌う風潮にあった新日本の選手から疎外され袋叩きにされる事態があったが、後にプロレスに対する姿勢を目の当たりにし大谷晋二郎が報道陣の前で土下座して詫び、わだかまりは解けている。1990年代にはサスケが初代ジュニア8冠王者に戴冠、スペル・デルフィンが第1回ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアで準優勝するなどジュニア黄金期の一翼を担った他、ヘビー級でもグレート・ムタ白使戦といった試合が実現している。2002年に4代目タイガーマスクがみちのく所属ながら1年間新日本のシリーズに帯同し、2003年に円満移籍。その後も互いのビッグマッチには選手の派遣を度々行っている。
KAIENTAI-DOJO
2002年に魔界倶楽部のマスクマン魔界2号として筑前りょう太が定期参戦。その他2004年に真霜拳號がIWGPジュニア王座に挑戦、真霜とのタッグで円華が参戦等、初登場時はいきなりベルトに挑戦の「大抜擢」その後常連参加選手になるケースが多い。団体の長TAKAみちのくは、度々スポット参戦し2007年には、ディック東郷と組んでIWGPジュニアタッグ王座に君臨した時期もある。2011年、小島聡率いるユニット「小島軍(仮)」のメンバーとしてタイチとタッグを組んで「新日本プロレス対小島軍(仮)」の抗争に参加していたが、2011年5月3日の新日本プロレス福岡大会「プロレスリングどんたく」にてパンクラスMISSION鈴木みのると結託、ユニットリーダーだった小島に半旗を振り返し、「鈴木軍(仮)」としてユニットを乗っ取る形で小島を追放した。
DRAGON GATE(旧・闘龍門JAPAN)
闘龍門JAPAN時代にみちのくプロレス主催のSUPER J-CUP決勝でCIMAがライガーを相手に健闘し、その将来性を高く買われる。CRAZY-MAXが新日本に一度参戦するが、その後は団体の方針から長らく交流は行われていなかった。2006年にDRAGON GATEが開国宣言を行い、ライガーが参戦。2007年の後楽園ホール大会では望月成晃&ドン・フジイ邪道&外道とIJタッグ王座を賭けて対戦。同年にはライガーがフジイからオープン・ザ・ドリームゲート王座を奪取した。2008年には金本浩二がDRAGON GATEに参戦、2009年には金本が土井成樹の持つドリームゲート王座に挑戦し敗れている。
DDTプロレスリング
2009年5月4日後楽園ホール興行にて、出場予定だったミスティコの代役として飯伏幸太がDDTプロレスリング所属選手として初参戦した。同年開催されたベスト・オブ・ザ・スーパージュニアは飯伏幸太(ベスト4)が、スーパーJカップには飯伏幸太(1回戦敗退)、男色ディーノ(2回戦敗退)が出場している。
2010年には1月31日ディファ有明興行にて飯伏幸太とケニー・オメガのタッグ「ゴールデン☆ラヴァーズ」が初参戦。
同年開催のベスト・オブ・ザ・スーパージュニアには飯伏幸太(準優勝)、ケニー・オメガ(Bブロック3位)が出場した。
同年10月11日の両国大会にてゴールデン☆ラヴァーズがユニット初参戦当初からアピールしていたIWGPジュニアタッグに挑戦し、当時王者のApollo 55から王座を奪取した。また、この試合は2010年度のプロレス大賞ベストバウト賞に認定された。
なお、その後飯伏は防衛戦を川や雪でやりたいと希望したが新日本としてはマットで結果を出したいと却下されている。
同年11月に、首の負傷が原因で1年以上もの長期に渡る欠場から復帰した天山広吉の復帰戦の相手としてアントーニオ本多[1]が買って出た。
2011年はレッスルキングダムで飯伏がIWGPジュニア王者のプリンス・デヴィットに挑戦。ゴールデン☆ラヴァーズがIWGPジュニアタッグで新日本プロレスの外道・邪道組を相手に初防衛に成功する。しかし、ホームグラウンドであるDDTのリングでApollo 55のリマッチに敗退、IWGPジュニアタッグが新日本の元へ戻る形となった。その後、定期的にゴールデン☆ラヴァーズは新日本のリングに出場、新日本の中西学とタッグを組むなどの活動を行い、6月18日の大阪大会のIWGPジュニア戦で飯伏がデヴィットに勝利、王座初戴冠を果たした。
SMASH
ハッスル分裂前の2009年にTAJIRIG1クライマックスにエントリーし、G1後に行われた越中詩郎デビュー30周年興行にライガーと永田裕志がメインイベントの6人タッグマッチに参戦した。その後SMASHが旗揚げし、2010年5月に行われたSMASH3にプリンス・デヴィットが参戦し、KUSHIDAから勝利を収めた。2010年6月に行われたJ SPORTS CROWNにはTAJIRIとKUSHIDAが棚橋とユニット「タナスマ」を結成し、準優勝という成績を収め、G1タッグリーグにもTAJIRIが棚橋とタッグを組み「ハイフライバズソー」として出場した。その後、TAJIRIが同年に遺恨があった矢野通との遺恨が完結してからは交流が見られなくなったが、新日側から数回SMASHの試合に出場、SMASH所属だったKUSHIDAが新日に移籍した。
女子プロレス団体
1980年代から1990年代に活動していたジャパン女子プロレス、同団体を前身とするJWP女子プロレスは山本小鉄をコーチとして招いていた関係上、新日のマットに試合を提供したことがあった。
一方、全日本女子プロレス魔界倶楽部が全女に勢力を拡大していた時期に全女マットで新日の選手を交えたミックスファイトを敢行したり、北朝鮮での「平和の祭典」や新日30周年記念東京ドーム大会に試合提供をしたことがあった。

[編集] タイトルホルダー

新日本プロレスが管轄するチャンピオンベルトの保持者(2012年1月現在)
タイトル 保持者 歴代 防衛回数
IWGPヘビー級王座 棚橋弘至 第56代 11
IWGPタッグ王座 天山広吉&小島聡 第58代
IWGPジュニアヘビー級王座 プリンス・デヴィット 第62代 3
IWGPジュニアタッグ王座 田口隆祐プリンス・デヴィット 第30代
IWGPインターコンチネンタル王座 田中将斗 第2代 3
新日本プロレスが開催するリーグ戦と覇者(2011年8月現在)
タイトル 覇者 年代 日時・シリーズ名
G1 CLIMAX 中邑真輔 2011年度 8月1日 - 8月14日
G1 CLIMAX XXI 〜THE INVINCIBLE FIGHTER〜
NEW JAPAN CUP 永田裕志 2011年度 3月6日 - 3月20日
NEW JAPAN CUP 2011
BEST OF THE SUPER Jr 飯伏幸太 2011年度 5月26日 - 6月10日
BEST OF THE SUPER Jr. XVIII 〜Bring it on!〜
G1 TAG LEAGUE 鈴木みのる&ランス・アーチャー 2011年度 10月22日 - 11月7日
Circuit2011 NEW JAPAN TRUTH 〜G1 TAG LEAGUE〜
J SPORTS CROWN〜無差別級6人タッグトーナメント〜 後藤洋央紀&プリンス・デヴィット&田口隆祐 2011年度 6月21日 - 6月23日
J SPORTS CROWN〜無差別級6人タッグトーナメント〜

[編集] 全所属選手+主要参戦選手

[編集] ヘビー級

天コジ
G・B・H
BAD INTENTIONS

[編集] ジュニアヘビー級

Apollo 55

[編集] 青義軍

[編集] CHAOS

コンプリート・プレイヤーズ
NRC(ノー・リモース・コープス)

[編集] 鈴木軍

[編集] NEW JAPAN FACTORY

[編集] スタッフ

レフェリー
インターナショナル・コーディネーター
リングアナウンサー
リングドクター
メディカルトレーナー

[編集] 歴代社長

[編集] 過去に存在したユニット、タッグチーム

[編集] 引退・退団選手

括弧内は新日本在籍時または参戦時に名乗った別名、在籍期間、現在の所属団体および活動状況。

一部を除き50音順

※退団後もフリーランスもしくは他団体選手として継続または時折参戦。

[編集] スタッフ

[編集] 故人

[編集] 主な歴代来日選手

[編集] プロレスラー

[編集] 格闘家

[編集] 主な参戦フリー選手

[編集] NJPWグレーテストレスラーズ

新日本プロレス35周年を記念して2007年に創設された功労者(非現役選手のみ)を表彰する制度。

2007年
  • アントニオ猪木
  • 坂口征二
  • 星野勘太郎
  • 山本小鉄
2009年
  • 魁勝司(北沢幹之)
  • ブラック・キャット
  • 小林邦昭
  • 前田日明
2010年
  • アニマル浜口
  • 橋本真也
2011年
  • ドン荒川

[編集] マスコットキャラクター

  • ジッピー
団体ロゴである、ライオンマークがモチーフのキャラクター。

[編集] テーマ曲

試合開始直前と試合終了後に会場に流される。後述のテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」のオープニング曲でもある。

[編集] 試合中継

テレビ朝日系列を始め、複数の局で放送している。また、インターネットでの試合配信も行っている。なお、テレビ朝日で中継する以前は東京12チャンネルで「プロレスアワー」として随時放送された時期があった。

上記の他、スカチャンにてペイ・パー・ビュー生中継を実施する場合もある。

[編集] 1990年代以降の主なマット広告スポンサー

同社は日本のプロレス団体として、格闘技団体としても先駆けてスポンサーを多数付け、その収入で賄う方法をとっていた。

その他

[編集] パチンコ・パチスロ

  • パチスロ
    • 新日本プロレスまでもがパチスロ機(2007年、平和)
  • パチンコ
    • CR江戸の始末屋 -最強新日烈伝-(2010年、平和)

[編集] 注釈

  1. ^ DDTを主戦としているがフリーである。

[編集] 関連項目

  • 日本IBF
  • K-1
  • 谷口行規
  • シルシルミシル(ワールドプロレスリングと同局のバラエティ番組、そのため新日本所属選手の起用が多い)
  • GET SPORTS(前途と同じく同局のスポーツ番組、新日本の選手の特集が組まれる事もある)

[編集] 興行

[編集] 外部リンク

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